ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【ex10-12】あり得ざる橋は崩れ

2010/04/25 16:42 番外十海
 
 霧が出ていた。
 透明な水の中にミルクをほんの少したらして、かきまぜる。すっかり混ざりきる直前の、ほわっと漂う淡い白が、視界を覆っていた。
 それほど濃くはない。だが、距離が離れるにつれて次第に白が厚く塗り重ねられ、やがて見えるものは全て霧の中に飲み込まれて行く。目をこらすと空気中を漂う細かい水の粒が見える。
 吸い込むと、強く海のにおいがした。

「ここは……」

 ハンター達は橋の上に居た。海の上にかかる、長い長い吊り橋の途中に。前にも後ろにも橋は伸び、来し方も行く末も霧に閉ざされている。どこまで続くのか、見当もつかない。

 それでも、橋そのものの形状は容易に見て取ることができた。
 土地勘のある三人がいち早く気付く。

「ベイブリッジだな」

 ランドールの言葉に羊子はうなずき、すっと行く手を指さした。

「そうね。あっちがオークランドで」

 サクヤが背後に視線を向ける。

「こっちがサンフランシスコだね」
「でも、変ね、この比率」
「ああ。橋が、いささか大きすぎる」
「……そうか……これ、子どもの視点なんだ!」

 その言葉に応えるようにして目の前の霧が分かれ、子どもが二人現れた。小さな女の子だ。どちらも十歳にもなっていないだろう。

「おねえちゃん、つかれたよ」
「大丈夫よ、マリエ。おねえちゃんが手を引いてあげるからね」
「はやくおうちに帰りたい」
「もう少しよ。この橋を渡れば、すぐだからね」

 黒い髪のおねえちゃんと金髪の小さな妹。おそろいのワンピースを着て仲良く手をつなぎ、トコトコと歩いてゆく。
 サクヤは目をこらし、少女の横顔にまごう事無きシモーヌ・アルベールの面影を認めた。

「あれは……シモーヌさん?」

 がくんっと橋が揺れる。

「あっ」
「うわっ」

 ぐらん、ぐらんと足下が波打つ。ついさっきまであれほど強固に自分たちを支えていたはずの橋が……ぐにゃりぐにゃりと上下にくねり、かと思えばぼこんとへこむ。まるで生のパン生地だ!
 立っていられない。

「くっ」
「むっ」

 とっさに男性陣は踏ん張り、持ちこたえる。だがサクヤと羊子は地面に倒れ、ころころ転がって行く。

「サクヤちゃんっ」
「よーこちゃんっ」

 かろうじて二人で手をとりあう。投げ出された足に風見とロイが飛びついた。

「先生っ」

 寸での所で二人の体はがくん、と引き止められた。サクヤの足が片方、橋の手すりから空中にはみ出した状態で。

「風見くん、ロイくん!」

 三上の手の中に不意にロープが現れる。空中で2、3度振り回して勢いを付けると、少年たちめがけて投げた。
 
「かたじけない!」

 すかさずロイが受け取り、風見とサクヤ、羊子の体に巻き付けた。

「Mr.ランドール、手を貸していただけますか?」
「Yes,Father!」

 二人がかりで引き寄せる。

「もう少しです、がんばって!」
「……っせいっ」

 凍りついたソリを引っ張る橇犬もかくやと言う勢いで、ランドールはロープに体重をかけ、ぐいっと引っ張った。

「わ」
「ひゃっ」

 ずるりっ。
 凄まじい勢いでロープがたぐりよせられ、四人の体が引き戻される。
 一同がそろった所でロープは細かい光の粒となり、霧散して消えた。

「さんきゅ、助かった!」
「危ない所でしたね……しっかりつかまって」
「う、うん」
「ありがとうございます」

 ビシ。
 ビシ、バシ、ビキっ!

「何だ、この音は」
「あ、アレをっ」

 ぐらん、ぐららんと上下にくねり、波打つ路面に耐えかねたか。
 橋を支えるワイヤーがねじれ、たるみ、その直後にピンと引っ張られ……切れる。
 
「橋が……落ちる!」
「危ないっ」

 轟音とともに橋が崩れ落ちる。崩壊の中心は、まさしく幼い姉妹の歩いている場所だった。

「きゃーっっ」

 甲高い悲鳴があがる。小さな妹の体が地面に叩きつけたゴムまりのようにバウンドし、空中に投げ出された。

「おねえちゃーんっ」
「マリエ!」

 伸ばした手の指先をすりぬけ、妹が落ちてゆく。絶叫が遠ざかり、姿が小さくなり……
 遥か足下に広がる暗い海面に、すうっと飲み込まれてしまった。

「お願い、お願い、妹を助けてっ」

 幼い姉が泣き叫ぶ。髪の毛を振り乱し、こちらに向かって両手を伸ばした。

「たすけてーっ!」
「今行く!」
「待て、風見、ロイ」

 身を乗り出す少年の肩を、小さな手が押さえた。

「何故でござるっ」
「これは夢魔の作った偽りの記憶だ」

 しっかりと地面を踏みしめ、結城羊子が立ち上がる。

「思い出せ。シモーヌ・アルベールの妹はロマ・プリータ地震で死んではいない」

 三上もまた身を起こし、首を左右に振った。

「そうと分かっていても、目の前で落ちる少女を救おうと、とっさに体が動いてしまう。あざといやり口ですね……」

 空中に左手を延ばし、くっと握る。手の中に使い慣れた仕込み十字架が現れる。

「実に、許し難い」

 鯉口を切り、すらりと抜き放った。黒木造りの十字架から、ぎらりと銀色の刃がこぼれ落ちる。

「シモーヌ・アルベール。聞きたまえ」

 ランドールは一歩前に踏み出し、英語で呼びかけた。雇い主である彼の声が届いたのだろうか。ぴたり、と橋の揺れが止まる。
 静まり返った霧の中、朗々たる声が響く。

「君の妹は。マリエは、地震が起きた1989年はアメリカには居なかった。離婚した母親と一緒に、北欧に渡っていたんだ」

 真実を暴き立てられ、少女はあどけない顔をくしゃり、と醜く歪ませた。

「ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう!」

 静かにサクヤが言葉を続ける。

「それにね。ベイブリッジは、自動車専用の橋だよ。徒歩では、渡れない………」

 すっとサクヤは手を伸ばし、ぐるりと指し示した。
 崩れた橋を。
 眼下に広がる暗い海を。

「これは、夢魔の紡いだ偽りの夢」

 羊子が言葉を繋ぐ。

「シモーヌ・アルベール。あなたの妹は、生きている。それが、真実」
「ちくしょう! あんたたちなんか、嫌いだ……」

 ぶわっと幼いシモーヌの髪が伸び、広がる。

「だいっきらいだあ!」

 一瞬で少女の体が膨れ上がり、ナイトメア『メリジューヌ』に姿を変えた。
 
 100322_0320~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
 女の上半身と水蛇の下半身、コウモリの翼。全身くまなく美しい真珠色、だがその目だけは、黒い布が幾重にも巻き付き、ふさがれている。

「返せ! あの子を返せぇええ!」

 泣き叫ぶ声は黒い水と成り、狩人たちめがけて迸る。渦巻く激流が襲いかかってきた。

次へ→【ex10-13】そして滅びの波が来る
拍手する