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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-13】そして滅びの波が来る

2010/04/25 16:43 番外十海
 
 逆巻く激流が迫る。波しぶきに至るまで漆黒の、うかつに視れば奥底に、誘い呑まれる渦が来る。

(………あ……)

 刹那。
 瞬きよりも短い間、羊子は渦に見入っていた。戦況を見通し、導く司令塔としての役目を忘れていた。

「ここは、私が」
「っ!」
「手伝って」 
 
 三上の声に我に返り、慌てて彼に念を送る。
 間に合うか。間に合って。自らの犯した過ちを打ち消すのに……。
 5人の手から淡い光のラインが伸びる。五筋の光が三上の手のひらに結晶し、輝く。

「Light on!」

 両手の中に巨大な火球が出現し、真っ向から夢魔の放つ激流とぶつかった。

 獣の悲鳴にも似た音が響き、もうもうと蒸気が噴出した。湿った熱風が髪を、衣服を吹き流し、頬を撫でる。火球と互いに打ち消しあい、一瞬にして黒い水撃は蒸発した。
 ただ、わずかに水の威力が上回っていたものか。名残の奔流が三上を襲う。

(ここで避ければ後列に当たる。持ちこたえられるか?)

 腹をくくり、足を踏ん張る。だが。

「風よ舞え!」

 びゅう。
 疾風一陣走り抜け、空気の壁が水を弾く。
 砕かれた水撃はぱらぱらと、細かな水滴となって飛び散った。

「風神流……《旋風陣》」
「お見事」
 
 ぱちり、と風見は刀を収め、兄弟子に軽く目礼を返した。
 吹き散らされた黒い水しぶきは、海の匂いがした。浴びた瞬間、夢魔の絶叫に重なりシモーヌの声が聞こえた。音ではなく、直に頭の中に響いてきた。

『もう終わりにしなきゃいけない。あきらめなければ……』
『祝福しなきゃいけない。あの二人を祝福しようって決めたのに。決めたはずなのに!』
『頭で理解していても、感情が納得してくれない。収まらない、苦しい!』
『お願い、こっちを見て。私を忘れないで。置き去りにしないで。私を抜きにして、幸せになんかならないで……』
『返せ! 彼女を返せ!』

 それは、あまりに生々しい感情だった。意識をそらそうとしても、今の己の中に共に震え、応える物が確かにある。
 羊子はぶるっと頭を左右に打ち振り、右手を前に伸ばした。

「終らせてあげる……」

 手の中にちかっと金色の光が瞬き、瞬時に形を変える。夢の外側から、愛用の中折れ式の小さな拳銃……ダブルデリンジャーが呼び出される。グリップに走る斜めの傷。握りしめるとざらりと手のひらに当たる。

「終わりにしよう、シモーヌ」

 狙いをつけ、引きがねを引いた。

「おおおおおあああああああああ!」

 チュイ……ン。
 放たれた弾丸は、水蛇の鱗を弾いてあらぬ方へ。

(外れたっ?)

 動揺する羊子めがけて、蛇の尾がびしりと叩きつけられる。慌てて放つ二発目が夢魔の体に食い込むが、止めるほどの勢いはない。

(間に合わないっ)

 赤が閃く。鮮やかな色が目に染みる。
 ざんっ………。

「……あ……」

 守られていた。黒いマントの内側にすっぽりと包まれて。恐る恐る目を向ける。
 そしてメリジューヌの蛇体は、がっきと交叉する二振りの刃に阻まれていた。

「く……」
「む……」

 見交わしもせずただひゅうっと呼気のみを合わせ、風見光一と三上蓮は流れるような動きで刃を振るい、ぐいっとばかりに夢魔を押し戻した。
 食い込んだ刃が引き戻され、メリジューヌの体にすっぱりと鋭い傷が刻まれる。

「ひぃいいあああああああっ」
『お願い。私の憎しみを止めて!』

 のたうつ真珠の蛇体めがけ、どかかっと一列にクナイが突き立った。鉄の刃が深々と食い込み、ごぼっとどす黒い血が噴き出す。

「サクヤ殿、今でござる!」
「はい!」

 サクヤがぱしん、と両手を打ち合わせた。

「神通神妙神力……加持、奉る!」

 迸る雷光が、メリジューヌの体に刺さったクナイに『落ちる』。バチィンと、轟音が空を叩いた。

「あ……あ……ああああっ」

 びきびきと夢魔の美しい顔が縦にひび割れ、ばくっと割れた。
 その下からより禍々しい顔が現れる。角はより大きく捩れ、尖った歯がガチガチと耳障りな音を立てた。

「ああ、あ、あ、ひー………ぃあああううううううううう」
 
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 illustrated by Kasuri

 ぽってりと官能的な唇は、鳴き叫ぶほどにめりめりと割れ裂け、耳元に達する。
 目を覆っていた黒い布の下からは、抉られて真っ赤に血が溜まり、肉のしたたり落ちる無残な眼窩が現れた。

「お……おお、おー、おー、おー………」

 鱗の色が変わって行く。美しい真珠色から、嵐の前の空の色。ずっしりと重たく冷たい灰色へ。しかも、一枚一枚がざわざわと逆立ち、鋭く尖る。己が胸を掻きむしる指先の皮膚が破れ、ぞろりと禍々しいカギ爪が生えそろった。

「崩れましたね。夢魔の障壁……」
「あ、ああ」

 羊子はそっとささやいた。小さな声で「ありがとう」。それだけ告げてマントをかき分け、外に歩み出す。
 優しい腕の主を振り返ることは……できなかった。

「ぐ、ご、が、おごぉっ」

 夢魔の変貌はまだ続いていた。次第に体が膨れ上がり、髪は長々と伸びて果てしなく広がってゆく。
 もはや上半身だけで15mはあろうか? だが、彼女の鱗は錆び付き、動くたびにぼろぼろとはがれ落ちている。
 メリジューヌは崩れながら巨大化していた。いつしか橋は消え、暗い海辺に変わっていた。履物を履いているにも関わらず、素足で湿ったコンクリートを踏むようなじっとりした嫌な湿気が足底を浸す。
 不吉な黄みを帯びた雲が渦まき、水平線の彼方へと凄まじい早さで流れてゆく。黒い海の水さえも引きずられ、見る見る海岸線が干上がる。

「くそっ、サイズが違いすぎる……」

 羊子はかすれた声でつぶやき、よろりと一歩後ずさった。灰色の砂にかかとがめり込み、白い足袋にじっとりと染みが広がる。
 這い登る嫌悪感に鳥肌が立った。

「反則だよ……こんなばかでっかいの相手に、どうやって戦えばいいんだ……」

 弱々しい声を聞きつけ、風見とロイはちらりと先生を振り返った。
 いつだって、先生は弱音を吐かない。どんな相手にも。どんなに不利な状況でも、不敵な笑みさえ浮かべて立ち向かう。
 時には皮肉めいたジョークの一つも交えつつ、活き活きと指揮をとってくれる。励ましてくれる。
 山羊角の魔女に子どもに変えられた時でさえ、それは変わらなかった……。

 その先生が、今、怯えている。戸惑っている。

(先生っ)

「しっかりなさい、メリィちゃん」

 のほほんとした声が、すとっと脳みそに突き立った。瞬時にかーっと熱いものが沸き起こる。

「メリィちゃん言うな!」

 条件反射。もはやパブロフの羊。気付いた時は、くわっと歯を剥いて三上に食ってかかっていた。

「何度言えば気がすむか、三上蓮!」
「……それでいいんです、羊子先生」

 笑ってる。瞼の隙間から穏やかなまなざしが見おろしている。

「……」

 自分が何者で。何を為すべきなのか。
 迷子になっていた『当たり前のこと』が、すうっと在るべき場所に収まった。

 かちりとデリンジャーを開き、空になった薬きょうを落とす。本来なら必要のない操作だが、手を動かすことでいい具合にスイッチが切り替わった。

「さんきゅ、レン。頭が冷えた」
「どういたしまして」

 深く息を吸い、整える。
 夢魔を祓う術は、正面からぶつかるだけじゃない。
 宿主にとって大切な人の記憶や思い出は、夢魔の障壁を崩す弱点となる。

(思い出せ。自分は既に視ているはずだ……夢に入る前に、彼女の最愛の人と会っているのだから)

 グレースの声、顔、髪、手、指先……。

(あ)

 見つけた。

「タペストリー……」
「あれかっ!」
「ソレでござる!」

 ぴくっと身震いすると、羊子は勢い良く顔を上げた。

「カル。サクヤちゃん。レン。しばらく集中する。その間、守って」
「うん」
「任せたまえ」
「……ありがとう」
「それでは、派手に行きましょうかね」

『かぁああええええせえええええ。がぁえええせ、かえぇゼ、かえせェええええ!』

 干からび、捩れた蝙蝠の翼がばさりと打ち下ろされる。あれで叩かれたらひとたまりもない。
 だがサクヤは静かに前に進み、さっと袖を打ち振った。

 ほとんど体を揺らさず、あたかも舞うような優雅な所作。だがその引き起こす稲妻たるや、すさまじい威力であった。

 ピシャァアア………ドォン!

 空を震わせ夢魔の翼を弾き返し、あまつさえ片方を木っ端みじんと吹き飛ばす。

『あーあぁぁああああ。痛い、痛い、いたいぃいいいいい!』

 メリジューヌは身もだえして泣き叫んだ。割れ裂けた口、ぞろりと生えそろう牙の合間から悲痛な叫びがほとばしる。抉られた眼窩から赤い涙が飛び散り、歪に尖った氷に変わり……降り注ぐ。
 ちかちかときらめく様は、さながら砕け落ちる窓ガラスの欠片。鋭い切っ先は一枚残らず、地面に立ちすくむちっぽけな標的を狙っている。
 だが、なまじ巨大に膨れ上がったのが災いした。氷の刃が地表に立つハンターたちに届くまでに、いささか間があった。
 その隙に三上が動く。

「そは我が炎に非らず。いと高き天より下る裁きの炎なり……」

 中世の修道騎士さながらに十字架剣を掲げ、祈りを捧げた。朗々たる詠唱の声に呼応し、剣の刃に沿って炎が燃え上がる。かすかに硫黄のにおいを漂わせて。

「Megid Flame!」

 目を開くや天突く火柱と化した剣を構え、無造作になぎ払った。
 燃え盛る炎は巨大な竜巻となり、天空高く巻き上がり……降り注ぐ紅蓮の炎が夢魔の放つ黒い雹を相殺する。
 生き物の体の焦げる、強烈な悪臭が漂った。

「Amen」

 口元にかすかな笑みを浮かべ、三上神父は軽く十字を切った。

「今だ、風見、ロイ、行け!」
「はいっ!」
「御意!」

 ロイが懐に入れた手を勢い良く突き出す。開いた拳の中から折り畳んだ紙が宙に飛ぶ。

「忍法、忍び凧(Ninja kite)!」

 くるりと翻ったかと思うと紙片ぱたぱたと開き……瞬く間に巨大な凧が出現した。白地に黒で真ん中に、一筆でかでかと『忍』の文字。
 あいにくとひし形の洋凧ではあったが、あくまでニンジャ凧。ひらりと飛び乗り、手をさしのべる。相手は言うまでもなく、唯一無二の相棒……

「コウイチ!」
「おう!」

 しっかりと凧に背を付け、横骨を握る。

「行くぞ、ロイ!」
「がってん、承知でござる!」
「風よ舞い上がれ、《烈風》!!」

 風見の巻き起こす風に乗り、ニンジャ凧は高々と舞い上がる。
 羊子は目を閉じ、両手をぱしぃん、と打ち鳴らした。

(思い出せ……あの日、あの家で見た物。聞いた事。話す声)

 合わせた手のひらの中に、ぽうっと淡い光が生じる。

『いぃいいやめろぉおおおお!』

 メリジューヌはきりきりと爪で己の胸をかきむしり、髪を振り乱す。群雲のごとき黒髪が襲いかかってきた。
 ぎゅるぎゅるとねじれ、不吉な音をたてながら迫る。
 今しも形を為そうとゆらめく、ちっぽけな光を打ち砕こうと……。

「生憎だが、Lady」

 ばさり。
 真紅の裏地をひらめかせ、黒いマントが翻る。
 ぱら……とマントの裾から小さな種が地面にこぼれ落ち、芽吹く。

「彼女には、指一本触れさせない」

 音も無く萌え出でる茨の壁は、意志を持った生き物のようにその身をくねらせ、黒髪をからめ捕る。

『く、う、あ……や……め……て……』
「聞けないな」

 ランドールは無造作に右手を振る。瞬時に茨の刃が黒髪を引きむしり、ずたずたに切り裂いてしまった。
 その間に、風見とロイを乗せた凧は巨大なメリジューヌの顔の辺りまで舞い上がっていた。

「……よし」

 我が事成れり。
 そ、と手を開く。
 花びらのように優しく膨らむ手のひらの間に、ぽう……と青い、小さな光が現れた。
 ふ、と唇をすぼめて吹く。くるくると回りながら青い光は糸の玉へと姿を変えた。

「風見! ロイ!」

 羊子の手から青い糸玉が飛ぶ。
 受け取る風見の手の中で糸玉は広がり、はらりと一枚の織物が出現した。鮮やかな青から優しく煙るブルーグレイ、目のさめるようなマリンブルーの深みへと連なるグラデーション。そして空の青のただなかに、白く縫い込まれたカモメが一羽。

 タペストリーだ。
 グレースが紡ぎ、シモーヌが織った空の青と海の碧。

「シモーヌさん、これ、覚えてるでしょう?」

 ぎょろり。
 真っ赤な眼窩が、風見を見据える。見えているのだろうか……いや、外見に騙されるな。既に目を塞ぐ黒布は破れた。
 見えているはずだ。

 風になびき、ひるがえった織物の一端をロイが受け止める。
 二人は見交わし、頷きあい、ざーっとタペストリーを左右に広げた。
 青い布はくるくると広がり続ける。かすかに輝きながら、くるくると。開ききってもまだ止まらない。広げるほどに拡大し、より鮮やかさを増してゆく。
 やがて実際の大きさをはるかに超え、メリジューヌの目の前に広がった。

「お、おお……」
「海に悲しい記憶しかないのなら、こんなきれいな青は織れない。思い出してください。海は、あなたの妹を奪ってなんかいない……」
「ゴードン殿も、グレース殿を奪ってなどいないのでござる!」
「おおおおおおっ!」

 確かに彼女には見えていた。
 メリジューヌの額がごぽり、と波打ち、シモーヌの顔が。首が。肩が浮かび上がる。

「今だ!」

 抜きざまに切りつけた風見の一撃が、乾涸びた顔を切り裂く。すかさずロイはシモーヌの肩をつかみ、渾身の力で引きずり出した。

「忍法……火事場のくそ力ぁあああっ!」

 ず……ずぶぶぶ……じゅるり……

「WOOOOOOOOOOO!」

 ずぼっ!

「やった!」

 夢魔の体からシモーヌの体が分離した。すかさず風見は風を繰り、遠ざかる。宿主を失い、メリジューヌは一気にミイラ状に干からびた。

『ひぃいいいあああああああああああああああああああ!』

 頬がこけ、骨の上に干からびた皮が貼り付き、髑髏の形を浮かび上がらせる。眼窩は黒く落ちくぼみ、ばらばらと鱗がはがれ落ちる。
 崩壊する一方で黒髪はなおもその艶とかさを増し、広がってゆく。伸びて行く。
 ねっとりと濃密な生き物の臭気が立ちこめていた。
 鼻腔に侵入し、のど奥にまとわり居座る……女の髪のにおいが。

『別れた恋人が幸せそうだと、ムカつくのよ!』

 干からびたメリジューヌの体表にいくつもの口が生じていた。ぱくぱくと動き、叫び、歯を食いしばる。きしらせる。

『あの人は私と別れて不幸になった。そうとでも思わなきゃ、自分が惨めで仕方ないじゃない!』
『私と別れた人たちが……私の居ない所で幸せになるのが我慢できない。許せないのよぉおお!』

「何だ……これ………」
「コウイチ、アレを!」

 果てしなく広がる黒髪は海へと変わっていた。
 地面が鳴いていた。空気が鳴いていた。
 そして、水平線の彼方から、滅びの波が来る。
 せり上がった漆黒の海面が壁となり、押し寄せる。風見光一は腹の底が冷えるような戦慄を覚えた。

「津波だ!」

『あーははははは、あーはははははははは、死ね、死ね、皆死ねぇえええっ』

 断末魔の夢魔は、自らの崩壊に狩人たちをもろとも巻き込むつもりなのだ。
 サクヤが叫ぶ。

「急いで、離脱して!」
「わかった!」

 ねっとりと粘りを帯びた空気が見えない手となり、逃すまいとまとわりつく。だが、振り払うのは容易だ。
 そのはずだった。

『あなたは私と同じ……』
「っ!」

『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』

 羊子はほんのわずかに動きが遅れた。その「ほんのわずか」が致命的だった。
 背後に漆黒の壁がそそり立ち……振り向くより早く、崩れ落ちる。

 サクヤ、風見、ロイ、三上、そしてランドール。
 悪夢から離脱し現実の空間にシフトしかけた5人の目の前で、羊子は波に呑まれ、消え失せた。

「…………………………っ!」

 叫んでも、聞こえない。声が、音にならない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 がくん、と段差を踏み抜いたような衝撃とともにランドールは目を開いた。
 布で閉ざされた部屋。結界の中には横たわるシモーヌ・アルベール。

「う……」

 すぐ隣でサクヤが起き上がる気配がした。
 舌の上にいやな苦みが。耳の奥に鈍い衝撃が残っている。この感覚は覚えがある。夢から強制的に弾き出されたのだ。

「大丈夫か、サリー」
「ええ……俺は…………っ!」
 
 続く叫びは完全に日本語に戻っていた。それでもすぐに分かる。誰を呼んだのか。誰を案じているのか。

「くっ」

 ぎりっと唇の端を噛む。尖った歯の先が皮膚に食い込み、かすかに鉄錆びの味が広がった。
 彼女がいるのは……いや、彼女の肉体が『ある』のは、海を隔てた遠い日本。

 しっかり握っていたはずの大事な人の手が、するりと抜け落ち、沈んでゆく。
 止められない。

「ヨーコ……」

 確かに手の中にあった存在が、今はどこにもいない。

to be continued……
後編に続く
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