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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-8】彼女の織った海

2010/04/25 16:38 番外十海
 
 日曜日の午後。
 結城羊子は緋色の袴と白衣(はくえ)の巫女装束に身を包み、すたすたとせせらぎの遊歩道を歩いていた。
 真新しい一戸建ての並ぶ住宅街は、昨日ランチをとった犬カフェといくらも離れていない。

「この辺りかな」
「ええ、そろそろですね」

 同じく白衣に浅葱の袴を身に着けたロイと風見が後に従う。

「どーした、二人とも。表情固いぞ?」
「いや、だって神社の外でこの装束来て歩くのは、始めてで、緊張しちゃって……」

 羊子は歩みを止め、引き返すと教え子たちを前後左右からじっくり検分。しかる後、うなずいてポン! と風見の背を叩いた。

「問題ない。剣道の装束とちょっと色が違ってるだけじゃないか」
「あ、そうか」
「二人とも決まってるぞ。中々に男前だ。もっと自信持て!」
「カタジケナイ」
「ありがとうございます……」
 
 道行きを再開してまもなく。ロイがすっと立ち並ぶ家の一軒を指さす。やはり母国語だ、英語の表札をいち早く見つけたらしい。

「あ、ありましたヨ、先生!」
「B、e、n、n、e、t、t……ベネット。本当だ」
「意外に近くでしたね」
「よし、では手はず通りに」
「了解!」
「御意!」

 とことこと玄関に歩み寄ると、羊子は伸び上がって呼び鈴を押した。

「ごめんください」

 インターホンから返事がかえって来る。かすかに巻き舌で、日本語ではあるけれど微妙にイントネーションが違う。

「どなたデスカ?」
「結城神社の者です。昨日、ご主人のゴードンさんが当社にご参拝になったのですが、その時に忘れ物がありまして……」
「少々お待ちください」

 よし、第一関門クリア。途中から流ちょうな英語に切り替えたのも大きかった。
 やや間があって、玄関の扉が開かれ、お腹のまぁるく膨らんだ黒髪の女性が顔を出した。日系のクォーターと言う話だったが、外見はほとんど日本人と変わらない。ただ身に付けた服や、うっすらほどこしたメイクにどことなくアメリカの空気を感じる。
 ポップでカジュアル、くっきり鮮やか。
 まちがいない。彼女がグレース・ベネットだ。

「こんにちは」

 3人そろってきちっと一礼する。わずかながら残っていたグレース夫人の警戒が解かれる。神社の装束と、ロイの存在に気付いて安心したのだろう。

「主人はあいにくと出かけておりまして」
「はい、かまいません。忘れ物をお届けにあがっただけですので」

 羊子は手にした袱紗を解き、薄紙に包んだお札を風見に差し出す。受け取ると風見光一はしずしずと前に進み出た。

「昨日のご参拝の際に、こちらのお札をお渡しするのを忘れておりまして……」
「まあ、わざわざありがとうございます」

 グレースはほっそりした両手でお札を受け取り、しみじみと眺めた。それから、ややためらいながらも口を開いた。

「あの……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「このお札は何のお守りなのですか?」
「それは、安産祈願です」
「アンザン?」
「元気なbabyが生まれるようにって言うお守りデス!」
「ああ……そうだったんですね!」

 グレースの顔にほっと安堵の笑みが広がる。
 ゴードン氏が神社の参拝の理由をどのように彼女に伝えていたかはわからない。しかしながら彼は妻に心配かけまいと必死だった。だとすれば。
 夢のガーディアンにお参りした……とは、伝えていない可能性が高い。それほど悪夢に深刻に悩まされているのだと、妻に気取らせてしまうから。
 それに、嘘はついていない。両親の安全を守ることは、広義の意味で安産祈願でもある。
 大らかなかつ柔軟な解釈に基づき、安産のお札を持参したのだが……ベネット家を訪れた本当の目的は直接グレースと対面し、夫妻の家を見るためであった。

 幸いにも夢魔の被害はグレースには及んでいなかった。
 しかし、ゼロではない。目をこらすとやはりゆらゆらと水に揺れる藻のような影がまとわりついているのがわかった。
 風見がお札を手渡す時に送った念のおかげで精神的な疲労は和らいだようだが……まだまだ予断は許されない。

「あら?」
 
 ふと、羊子は玄関の壁に目をとめた。
 縦にすらりと青い色が揺らぐ。最初は水槽でも置いてあるのかと思ったが、ちがっていた。空の青から海の青、そしてさらなる深い緑へと、微妙に変化してゆくグラデーション。海と空が織り込まれた薄い、しなやかなタペストリー。
 美しい、けれど怖い。見つめれば見つめるほど、糸で織られた海はゆらめき、さざめき、渦を巻き、すうっと意識が奥底に引きずり込まれそうになる……。

(引き込まれてどうする。しっかりしなきゃ!)

「わあ、きれい。ひょっとしてこれ、手織りですか?」
「はい。私が糸をつむいで、染色しました」
「織ったのも、ご自分で?」
「いえ、それは……………」

 グレースは目を伏せ、きゅっと左手を握った。

「友人が………」

 うつむきながら右手で薬指に光る銀色の指輪をなでさすっている。

「アメリカの?」
「え、ええ………向こうの。彼女は良い友人でした。とても、とても」

 微妙な『間』。含みのある物言い。それに応えるようにゆらゆらと、グレースにまとわりつく『もや』がわずかに濃くなる。
 羊子は教え子二人に目配せし、首にかけた細い鎖に手を伸ばした。風見とロイもそれぞれ懐に手を入れる。

 りん!

 微かに鈴が鳴る。悪夢を祓う夢守りの鈴が大小合わせて三つ。三人の指先で鳴り響き、一つの音色に溶け合った。
 その刹那。
 おぼろな影は散り散りに弾き飛ばされ、床に落ちる。すすーっとこぼれた水銀のように床面を走り、壁を上り……
 吸い込まれて行った。
 
 青いタペストリーの中に。

(見得た)

「あの……奥さん」
「はい」
「あのタペストリー、もう少し近くで拝見してもいいですか」
「あ、ど、どうぞ」

 三人は玄関の壁際に歩み寄り、しみじみとタペストリーを観察した。
 今はただの布にしか見えない。ついさっきはうねり、渦を巻く水面に思えたのに。
 そう、触れればそのまま捕まり、引き込まれそうな深い海に……。

(惑うな。迷うな。するべきことをしなければ)

「………」

 改めて間近に見ると空にはカモメが一羽、飛んでいるのがわかった。くっきりと浮かび上がる白い翼は、つややかな絹糸で施された刺繍だった。さらにタペストリーの右下に刺繍がもう一ヶ所……こちらは文字だった。

(S.A……イニシャルか?)

 深く息を吸うと結城羊子は瞳を閉じ、意識を滑らせた。現つから夢へ。あらゆる物が動きを止めたもう一つの時と空間の中、彼女は袖の中から鈴をとり出した。赤い組み紐の先に揺れる小さな金色の鈴。
 タペストリーをつり下げる糸に組み紐を絡め、裏側に垂らす。
 あからさまに護符を貼り付ければ、さすがに目立つ。発覚した時に怪しまれ、即座に剥がされてしまうだろう。しかし、何の変哲もない小さな鈴なら……まず気付かれない。何より、呪術的な意味合いを気取られる可能性はぐっと低くなる。
 鈴の位置を整えてから、羊子は集中を解いた。
 途端に現実の音と気配が戻ってくる。

「このカモメ、刺繍なんですね」
「はい……生成りの絹糸を使いました」
「ああ、だからこんなにつややかなんだ」
 
 何喰わぬ顔でうなずき、つつましく後に下がる。

「それでは、これでおいとまいたします」
「ありがとうございました」

 
 ※ ※ ※ ※

 
 ベネット家を辞してしばらく歩く。ある程度離れてから、羊子がぽつりと言った。

「とりあえず、悪夢の侵入口は塞いだ。いつまでもつか、わからないけれど」
「大丈夫ですよ、先生。俺、いざとなったら、鈴を頼りに飛びます!」
「ボクも、いざとなったら壁抜けして!」

 にまっと羊子はほほ笑み、教え子たちの肩をたたいた。

「頼んだぞ、風見。ロイ」
「はいっ」
「ハイ!」
「んじゃ、帰るか………っとと、あっ」

 いきなり小さな体がバランスを崩し、段差を踏み抜いたようにがくっと傾く。白い袖が。緋色の袴が翻り、なめらかなふくらはぎがあらわになる。
 とっさに風見とロイは目をそらした。

「あ」
「しまった!」

 びったん! 

 派手な音に我に返った時は既に遅く。結城羊子はものの見事に路面に突っ伏していた。

「いったぁあ……」
「大丈夫ですか、先生!」
「あ、ああ。これぐらいなら、大したことない」

 ずれた眼鏡をかけ直し、乱れた髪をかき上げる。すりむいた手のひらも、ひねった足首も、ちょいとこすればもう元通り。

「珍しいな、先生がこけるなんて……あ!」

 足下を見て、合点が行く。草履の鼻緒がぷっつり切れていた。

「あーあ……」
「何で、切れるかな」

 羊子はじとーっと目を細め、うらめしげに草履を脱ぎ、片手でぶらさげた。

「ちゃんと新しいの履いてきたのに」
「そう言うこともありますよ」

 風見は慣れた手つきで懐から手ぬぐいをとり出し、口にくわえてびっと細く引き裂いた。

「貸してください」
「あ、ああ……ありがとう」
「ロイ、先生を頼む」
「OK」
「おわ」

 ひょいっとロイに支えられる。

「意外に力あるんだな、お前」
「鍛えてマスから!」

 一方で風見は裂いた手ぬぐいを紐状にし、切れた鼻緒の代わりに穴に通した。

「器用だなあ、風見」
「じっちゃんから教わりました。庭で稽古してる時、しょっちゅう下駄の鼻緒、切ってましたから……」
「すごいや、コウイチ!」
「いや、俺にしてみればロイの方がすごいよ」

 風見はしみじみと親友を称賛のまなざしで見つめた。

「お姫さまだっこで微動だにしないなんて!」
「……うん、それ、私も思ってた」

 ロイは履物を失った羊子を軽々と両腕で抱きかかえていたのだ。

「おじい様の教えです。ご婦人を支える時は、お姫さまだっこ以外に選択肢はないと!」
「ハリウッド式か!」
「ハイ!」
「さすがだな、ロイ!」

 誇らしげに胸を張りつつ、ロイはちょっぴり切なかった。

(どうしてボクの鼻緒が切れなかったんだろう……)


 ※ ※ ※ ※


 神社に戻ると、大鳥居の前で背の高い黒服の男が待っていた。

「お帰りなさい」
「ただいま」
「……おや?」

 三上蓮は羊子の足下に目をやり、首をかしげた。

「どうしたんですか、それ」
「ああ、うん、帰り道で鼻緒が切れちゃってさ」
「おや、それは大変でしたね。お怪我はありませんか?」
「ん、もうないよ?」
「それは何より……ああ、お昼ご飯の仕度、できてますよ」
「わーい、もーおなかぺっこぺこ!」

 土曜日から羊子とロイ、風見の三人は神社に泊まり込んでいた。
 その方が九時間の時差のあるサンフランシスコと連携が取りやすいし、何よりベネット夫妻の家にも近いからだ。
 正月に引き続き、事件解決までは合宿状態。当然、月曜日は三人そろって神社から通学する予定である。

(寝てもさめてもコウイチと一緒だなんて……一緒に通学して、一緒に帰ってきて、ご飯も一緒だなんて。ああ、夢のようだ!)

 悪夢事件解決のためだとわかっていても、ロイはあふれる喜びを噛みしめずにはいられなかった。
 ひっそりと。あくまで心の中で、ひっそりと。

 
 ※ ※ ※ ※
 

 火曜日の早朝。
 9時間の時差を超えて、サンフランシスコのランドールとサクヤから報告のメールが届いた。

「シモーヌ・アルベール……S.A。タペストリーのイニシャルと一致する」

 社務所のパソコンでメールを開き、じっくりと目を通してから三上はうなずいた。

「確かにこの写真の女性でしたね。ゴードンさんにまつわりついていた蛇女は」
「その言い方やめて……」

 羊子が顔をしかめる。

「ああ、これは失敬。苦手でしたね、蛇」
「そーよ。巳年の年賀状も、蛇革のベルトも鞄も上着も、沖縄のサンシンもハブ酒もだめ!」
「……あれって、飲み終わったら『具』はどうするんでしょうね」
「やめてーっ」

 風見とロイの背後に隠れ、涙目でじとーっと三上をにらみつける。

「失敬失敬。もう言いません」
「うー……」
「ひとまず、レジストコードを付けておきますか。メデューサ……いや、メリジューヌとでも」

 風見が首をかしげて問いかける。

「メリジューヌ?」
「ええ。フランスの伝承に語られる、腰から下がヘビの姿をした水の妖精です」
「フェアリーですカ」
「いいかもね」

 抑揚のない声で羊子が応える。

「愛する人に裏切られ、永遠に半ばヘビの姿でさまよう女。ぴったりだ」
「本当に、そう思いますか?」

 三上はずいっと身をかがめ、赤いフレームの奥の瞳をじっと見つめた。まばたきをして、視線をそらされる。

「ああ、やはり。自分の言葉に納得してませんね」
「……参ったなあ。お見通し?」
「はい」

 がっしりした骨組みの手のひらが、小さな肩を包む。

「言ってください。どんなに些細な疑問でも。違和感でも。私たちは決して軽んじない。真剣に聞きますよ……他ならぬあなたの言葉なのですから」
「……うん」

 こくっと小さくうなずくと、羊子はぽつりと言った。

「小泉八雲の怪談で『破約』って話があるの、知ってる?」

 かいつまんであらすじを語ると、こうだ。

 とある武士の妻が病にたおれ、今際の際に懇願する。「決して後妻をめとってくれるな」と。
 夫は約束したが、彼らの間に子はまだなかった。親戚や同僚から『再婚しろ』『子がいなければ家が絶える』と責められ言いくるめられ、やむなく後妻を娶る。
 すると亡き妻の死霊が現れ、後妻を惨たらしく殺した。
 体が朽ち果ててもなお、死霊の手はカニのように引きちぎった後妻の首をかきむしり、ずたずたに引き裂いてしまった。
「ひどい話だね。なぜ彼女は約束を破った男を恨まなかったのだろう?」八雲の問いかけに友人が答える。
「それは殿方の考えです」

 語り終えると羊子は小さく息をついた。

「訳本によってはこの『友人』を『彼』と訳しているけれど、実は女性だったんじゃないかなって思うんだ……」

 きょとん、とした表情で風見とロイは首をかしげた。

「えーっと、つまり?」

 ああ。やはり通じないか。
 羊子はひょい、と眼鏡の位置を整えると顔を上げ、きっぱりと言い切った。

「恋人をとられた女が祟る時、その対象は本人じゃなくて、新しい相手だってこと!」
「そう言うもんなんですかねえ……」

 三上さんまで……
 いや、いや、無理もない。
 この人だってまだ二十代、しかも独り身なのだ。どろどろした女の情念に疎くとも致し方ない。

「そーゆーもんよ」
「何故?」

 あまりに素直な少年の問いかけが、すうっと胸に染み透る。あらゆる防御壁を通り抜け……癒えきらぬ傷を貫いた。

(まだ好きだから)

『ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?』
『そうだよ』
『っ!』

(あの時、一瞬テリーのことをねたましいと思った。憎らしいと思ってしまった)
(彼のせいじゃないって、わかっていたのに……感情が理性のコントロールを振り切った)

 恋しい、愛しい、憎らしい、恨めしい。表裏一体なんて単純に割り切れはしない。入り交じり境目はあまりにも曖昧。

 ぎりっと奥歯を食いしばる。噛みつぶした言葉の苦味がじっとりとのどの奥に広がり、浸透してゆく。
 無理やり唇の端をひっぱりあげて、さばけた笑顔と声を取り繕った。

「それだけ、去ってった相手への執着が強いってことでしょ?」
「なるほど。ではそーゆーもんとして話を進めますが、であれば憑かれたのがゴードン氏であるのはいささか奇妙ですね?」

 ほんの少しためらってから、羊子はこっくりとうなずいた。

「本当に不倫関係にあったのだとすれば、グレースさんの方に憑いているのが妥当でしょう。つまり……」

 三上はさりげなく視線を滑らせ、奇妙なほどに落ち着いた横顔を見据えた。視線を感じた彼女がこうべを巡らせ、こちらを見る。その瞬間をとらえ、じわり、と言葉を進めた。

「メリジューヌが本当に執着しているのは、グレースさんの方……と見ていますか?」

 息を飲む気配が伝わる。どうやら、的を射貫いたようだ。

「その方が、自然だと思うの」
「そうですね。あの時の『返せ』もこれで繋がります」

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