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ローゼンベルク家の食卓

【ex10-7】シスコ側のターンその2

2010/04/25 16:37 番外十海
 
 月曜日の朝。いつものように始業より20分早く出勤してきたシンシアは、社長室のドアを開けようとしてフリーズした。

「まあ………そんな、こんな事が?」

 滅多にないことだが、彼女は動揺していた。
 あろうことか、社長が。カルヴィン・ランドール・Jrがデスクに座り、熱心にパソコンを叩いている!

「やあ、おはよう、シンディ」

 ちらりとこっちを見て、再びモニター画面に目を戻す。すさまじい集中力だ。いったいこれはどんな天変地異の前触れか。
 ただでさえ寒波の襲来したカリフォルニアに、ブリザードでも吹き荒れはしないか。あるいは霜のかわりにニシンの大群でも降ってくる?

「お……おはようございます」

 内心の動揺を押し隠し、にこやかに答える。

「今朝はずいぶんとお早いんですね?」
「ああ、ちょっと調べ物をしておきたくてね」
「あら、でしたら私にお申し付けくださればよろしいのに……」

 さりげなくデスクに近づき、画面に目を走らせる。

(社員名簿?)

 彼は社長だ。社員名簿を見るのに何ら問題はないし、正当な権限もある。しかし、企業のトップに立つ彼が何だっていきなりそんな気を起こしたのか。個人的に気になる社員でもいたのだろうか?
 シンシアはすっとアーモンド型の瞳を細めた。

「何を……調べてらっしゃるのかしら」
「いや、大したことじゃないんだ」

 ランドールは素早く頭を巡らせた。シンディは有能だ。頭の回転も早く、目の付け所も鋭い。下手なごまかしはかえって疑惑を招く。ここはストレートにありのままを語ろう。
 ただし、肝心な部分は伏せて。

「日本の知人が、向こうでうちの元社員と知り合ったらしいよ。世界は広いけれど……世間は狭いものだね」
「そうでしたか、日本の……」

 そのひと言が、有能な秘書の耳から脳の内部に飛び込み……魔法にも似た虹色の閃光を散らした。

(日本の知人……ですって)

 さらりとした長い黒髪。つやつやの卵形の頬。サクランボのような唇。抱きしめたら折れてしまいそうな華奢な体、そしてぷりっと愛らしいお尻。

(まさか、あの子? あの子のことなの?)

 思わず頬がゆるみかけた所に、畳みかけるようにランドールが話しかけて来る。

「そう言えばシンディ、知り合いの知り合いを伝っていくと、驚くほど少ない人数で世界中の人と繋がるらしいよ?」
「ああ………そんな話、聞いたこともありますわね」
「間に六人挟めば何らかのつながりができてくる、とも言うね」
「ええ……まあ……」

 この瞬間、彼女は全力で顔も知らぬその『元社員』をうらやましく思っていた。何故、日本に居るのが自分ではないのかと。
 普段の明晰な思考も、鋼の理性もこの時ばかりはアンドロメダ星雲の彼方へと放り投げて。

「それで……シンディ」
「はい?」

 有能秘書が上の空なのを幸い、ランドールはさりげに話を望む方向に誘導した。

「今日のランチは、中庭で食べる事にしたよ。午後一番に人と会う予定は入っていなかっただろうね?」
「え、ええ……」
「では少しゆっくりしても問題ないね?」
「そうですわね……ええ、社内にいらっしゃるのでしたら……」
「ありがとう」

 
 ※ ※ ※ ※


 そして、昼休み。
 ランドールは最寄りの市電の駅までサリーを車で迎えに出た。

「やあサリー。待っていたよ。ランチはもう済ませたかな?」
「はい。いつでも準備OKです」
「では、行こうか……」

 銀色のトヨタに乗り込んだのは二人。
 しかしランドール紡績の門をくぐった時は、車に乗っているのはランドール社長ただ一人になっていた。

「お帰りなさいませ」
「やあ、ご苦労さま」

 守衛に軽くうなずいて車を走らせる。
 駐車場に停車すると、ランドールはゆったりとした歩調で歩き出した。自分のオフィスのある本社ビルではなく、社員食堂に向かって。
 ランドール紡績の社員食堂は、本社ビルと、隣接した工場、双方の職員が利用できるように敷地のほぼ中央に建てられていた。
 二階建てのガラス張り。入り口で食券を購入するカフェテリア形式。先代社長の意向に従い、提供される料理も、それを食べる場所も、きわめて快適に整えられている。
 快適な食生活は、健康を培うとともに効率的な労働を支える。それがカルヴィン・ランドール・シニアの持論なのだ。

「もうすぐだからね……」
「きぃ」
 
 角を一つ曲ったところでばったりと、グレープフルーツジュース(当然、100%のしぼりたてフレッシュ)を満たしたカップを手にしたシンディと出くわした。

「あら、社長」
「やあ、シンディ」
「今……だれかとお話し中でした?」
「ああ、ちょっと電話をしていた」

(何かしら……今、ものすごく好みの子の気配がしたのだけれど)

 怪訝な表情で見回すシンディに、ランドールはうやうやしく道をゆずった。

「どうぞ」
「ありがとうございます。これからランチですか?」
「うん、まあ、そんな所だね」
「ごゆっくり……」

 シンディとすれ違った直後、ランドールのポケットの中で小さな何かが動く。
 ポケットチーフにしてはいささか風変わりなふかふかしたものが、ちょろりと覗き……もそもそっと奥に潜り込んだ。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ライ麦パンにベーコンとレタスとトマトのサンドイッチを一つ、ベーグルにスモークサーモンとチーズのサンドイッチを一つ、リンゴとコーヒーの大を一つ。
 外での食べやすさを重視すればこんなものだろう。みずみずしいオレンジにも心魅かれたが、汁が飛んだら厄介だ。

 よく晴れた日だった。そして冬でも新鮮な空気と日光、そして解放感を求めて、外のテラス席で食事とる社員は多かった。
 社員名簿に記された、ゴードン・ベネットならびにグレース・ベネットの所属部署と。食堂内に散らばる社員の顔を照らし合わせつつ、テーブルの一つに足を向ける

「失礼、ここは空いてるかな?」
「ええ、どうぞ……って、社長?」

 若社長に気付き、テーブルに着いていた数名の男女が慌てて背筋を伸ばす。

「いや、そのままでいい。私も君たち同様、外の空気を吸いたいだけだからね……秘書には内緒にしておいてくれよ?」

 ぱちっとウィンクして、唇の前に人さし指を立てる。

「OK!」
「了解しました!」

 若い社員たちはくすくすと笑いながらうなずいた。シンディの鬼秘書ぶりは、社内のすみずみまで普く知れ渡っているらしい。
 サンドイッチをかじりつつ、ランドールはのんびりと話しかけた。最初こそ緊張していたものの、若社長の気さくな物言いに社員たちが打ち解けるのに、それほど多くの時間はかからなかった。
 グループの中に、日本通の青年が一人いたことも幸いし、ごく自然に話題をかの国に向けて誘導することができた。

「おお、これがジンジャの写真ですか!」
「素敵、何てエキゾチック」
「ニッポンかあ……いっぺん行ってみたいなあ。友人が今、そっちに居るんですよ」
「おや、そうかね」
「ええ、奥さんのおばあさんが向こうの出身だそうで。確か、地元の織物会社に転職したって言ってたな」
「ほう。やはりシルクかな?」
「そうです。ツムギって言ってました」
「日本の絹織物は最上級だそうだね……しなやかで、つやがあって……」

 藍色の夜を背景に、はらりと散り咲く薄紅色。八月の日差しの中、そこだけが春の夜を夢見ていた。まだ名前すら知らなかったあの日、初めて会った時に彼女が着ていた桜のキモノ。
 間近に目にした日本のシルク。細やかな刺繍の織りなす光と質感に一瞬、目と心を奪われた。

(……しっかりしろ、カルヴィン・ランドール!)

「機会があったら、取り寄せてみたいものだな。その、何と言ったかな、君の友人は」
「ベネットです。ゴードン・ベネット」
「そうか。ありがとう」

 為すべきことはした。自分の勤めはここまでだ。
 空になったトレイを手に、ランドールは立ち上がった。

「お先に失礼するよ。楽しかった。ありがとう」

 軽快な足取りで遠ざかる社長の背中を見送ると、居合わせた社員たちの一人が誰ともなくぽつりとつぶやいた。

「ベネットか……いい奴だったけど」
「災難だよな」

 さすがに社長の前では口にできなかった、もっと込み入った話がぽつり、ぽつりと誘い出される。記憶の海の底から、糸で連なる真珠のようにつらつらと。

「あんな事がなければな……」
「……あら、かわいい」

 女性社員の一人が手近の木の枝を見てほほ笑んだ。ふわふわの尻尾、ぴんと立った耳、つぶらな黒い瞳。リスだ。
 逃げもせずに首をかしげ、ちょろちょろと近づいて来る。

「人懐っこい奴だなー」
「ナッツ食べる? リンゴの方がいい?」
「きぃ、きぃ」

 小さなリスは前足でリンゴの欠片を抱え込み、コリコリと美味そうにかじり始めた。

「結局は、家族を選んでケリを着けたんだろうな」
「カリフォルニアは自由な土地だけど、さすがに大っぴらに不倫はいかんよ……しかも社内で」
「奥さんの親友相手は、なあ……」
「ほんとに、ね。彼女とグレース、まるで姉妹みたいに仲が良かったのよ?」
「ああ、シモーヌは子どもの頃、妹を地震で亡くしてるから。余計にグレースのことが可愛かったんじゃないかな」
「だよね。年は同じだったけど、日系の子ってちっちゃくてキュートだものね」
「確か、大学の同期生だって言ってなかったっけ」
「うん。会社に入る前からの付き合いだったって」
「今、思うとさ……ゴードンもグレースも。引っ越す直前あたりから、シモーヌのこと避けてたよ……ね」
「あー、確かに……前はしょっちゅう、家に行き来してたのに。会社でも、ほとんど顔合わせてなかった」
「そうなの?」
「うん、そうだった」

 しばし会話が途切れ、コーヒーをすする音がやけに大きく響いた。
 やがて、男性社員の一人がふーっと深くため息をついた。

「結果としてあれでよかったんだよ。さすがに海を越えれば、シモーヌだって」

 話の間、リスはずっとテーブルの回りや芝生の上で首をかしげたり、毛繕いをしたりと愛らしい姿を惜しみなく披露していた。
 そして、そろそろ昼休みが終ろうと言うころ、またちょろちょろっと木立の間に戻って行った。

「あ、行っちゃった……バイバイ」
「まるで人間の言葉がわかるみたいだったわね、あのリス」
「ははっ、まさか。単にリンゴが好物ってだけだろ?」

 ちょろちょろとリスが走ってゆく。枝から枝へと飛び移り、最後に上等のスーツの肩にぴょいっと飛び乗った。

「お帰り、サリー」
「きぃ、きぃ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 数分後。ランドールは自分のオフィスに居た。デスクの傍らにサリーが立ち、一緒にパソコンの画面をのぞき込んでいる。

「名前は、シモーヌ……年齢は、グレース・ベネットと同じなんだね?」
「はい、大学の同期生だそうです」
「だとすると、条件に合致するのは……」

 画面上に白人女性の写真が表示された。波打つ黒髪は長く肩を覆い、ぽってりと肉感的な唇が印象的。緑を帯びた青い瞳は、まるで晴れた日の海のようだ。

「彼女だ。シモーヌ・アルベール」
「きれいな人……ですね」
「ああ。美しい女性だね。だが危うい女性だ」
「え?」

 サリーはまばたきして、じっと写真を見つめた。言われてみれば、そんな風に思えなくも……
 ううん、やっぱりわからないや。

「この人が、ナイトメアに寄生されてるのかな」
「私の狩人としての経験はわずかだがね。恋する男女は数多く目にしてきたつもりだ」
「はあ………」
「情熱的な恋と言うものは、ひとたび道を違えれば憎しみにも変わる。彼女はその種の激しさを秘めているように思えてならないんだ」

 サリーは小さく感嘆のため息をもらした。

(やっぱりランドールさんって、大人なんだな)

「グレースさんとは、姉妹みたいに仲が良かったはずなのに。旦那さんと……」

 こくっとのどが鳴る。

「不倫、していたなんて」
「結婚していると言う事実が、ブレーキにならない場合もあるんだよ、サリー……」
「ええ、それは……俺も、よくわかります」

 おそらくは、秘めたる思いで終らせるつもりだったのだろう。だが、ぽっかりと開いた穴に生じた『歪み』がそれを許さなかった。
 シモーヌ・アルベールにとっては、ただ夢を見ているだけにすぎない。
 彼女が眠っている間、心の闇に巣くった夢魔が理性の枷からから解き放たれ、ゴードン・ベネットを苦しめているのだ。
 少しずつ彼を衰弱させ、生命の最後の一滴まで絞り取るまで悪夢は終らない。
 そして無自覚に夢魔の力を使えば使うほどシモーヌ・アルベールはより深く侵食され、主導権を奪われて行く。

「……報告書はこんな感じでいいかな?」
「ええ。十分です」
「それでは、メールで送っておこう。君のパソコンにも」
「お願いします。それじゃ、そろそろ帰りますね」
「ああ、送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。あ、そこの窓開けていいですか?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……失礼します」

 シンシアが昼休みから戻って来ると、窓際に社長が立っていた。

「やあ、シンディ。お帰り」
「何をなさっているんですか」
「ああ、うん、ちょっとバードウォッチングをね」

 窓の外に目をやると、今しも白い鳩が一羽、遠ざかって行くのが見えた。

「あら、きれいな鳩」
「この距離でわかるのかい?」
「ええ、わたくし、視力には自信がありますの」

 にこやかに答えつつ、シンシアは内心、首をかしげていた。

(何かしら、また、とてつもなく好みの子の気配がしたような……)
(わたくしとした事が! どうかしてるわ)

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