▼ 【3-14-5】★そして彼は黒をまとう
朝起きたら頭が重かった。
シャツにも、髪の毛にもアルコールと煙草のにおいが染み付いている。それとは別に、袖口にかすかに酸味のある柑橘系の香りがした。
グレープフルーツだ。
そう言えばベッドに倒れ込む寸前、アレックスに何か飲まされたような気がするが……きっとグレープフルーツのジュースだったのだろう。
ぼんやりしたまま浴室に入り、シャワーを浴びた。
ディフの病室に行く前に、少しでもすっきりしておきたい。
行かない、と言う選択肢は無かった。
※ ※ ※ ※
さすがに動き始めるとこめかみが疼いた。うずくまるほどではないが、それでも車のクラクションやドアの閉まるバタンと言う音が脳の奥に響く。
時折町中で耳にする他人の迷惑を顧みずに大音量で流される調子っぱずれの音(あれを音楽だなどと認めるものか、断じて!)に軽く殺意を覚えつつ病院に向かう。
「レオン!」
昨日よりだいぶ具合がいいらしい。笑顔にも、声にも力がある。双子と会えたのがよほど嬉しかったのか。
(俺だけでは君を救うことができなかった)
ベッドの上に半身を起こし、象牙色のパジャマの上からくるりと大きめの肩掛けを巻き付けている。薄くて軽い。色は黒。
昨日まではなかったものだ。
「………冷えるかい?」
「少し、な」
参ったね。その色の組み合せは危険だよ、ディフ。
君自身の生来の肌の白さときめの細かさが。(多少陽に焼けた程度では隠せやしない)髪の色の鮮やかさが、一層引き立ってしまうじゃないか。
いったい誰が選んだんだ?
幸い髪の毛はゆるく三つ編みにまとめられ、左の肩を通して前に回してある。どこをとっても典型的な病室の服装、髪型だ。
にもかかわらずこんな風に艶っぽさが強調されてしまうなんて。
本当に……困ったものだね。
(いっそどこかに閉じ込めてしまおうか。誰の目にも触れないように。もう二度と、誰の手にも汚されぬように)
「おみやげがあるよ。シエンが持って行けって」
朝、家を出る時に持たされたランチボックスを開ける。サンドイッチがきっちりと詰められていた。
「わあ。うれしいなあ……病院の飯、不味いから、すっげえ嬉しい」
目を細めて顔中で笑う。本当に、こう言う時の君は出会った頃と変わらない。
(だが、その笑顔は俺以外の存在にも惜しみなく向けられる)
己の内側でざわめく不穏な心を押し隠し、何食わぬ顔を装いつつステンレスボトルに入れた紅茶を取り出した。
「お茶も持って来たよ」
「いたれりつくせりだな……紅茶も、コーヒーも、お前が入れてくれるのが一番美味い」
「あと少しの辛抱だよ」
「うん……」
少しの間、彼は目を伏せて何か考えていた。それから俺を見上げて、ちょい、ちょい、と手招きしてきた。
「何だい?」
近寄って、ベッドに腰を降ろす。
手を伸ばして来る。
くしゃっと髪の毛を撫でられた。
「ディフ?」
目を閉じると、彼は俺を引き寄せてキスしてきた。ほんの少し、震えている。
そっと肩に手を回して抱き寄せる。
唇と唇を触れあわせる、ただそれだけのことに、どれほど勇気を振り絞ったことか。それはディフが誘拐されてから、初めて交わす口づけだった。
閉じられたまぶたにキスをすると、彼はうっすらと目を開けて囁いてきた。
「……あんまり飲みすぎんなよ」
「……気をつける」
その肩掛け、誰が持ってきたかわかった。
(……ヒウェル)
※ ※ ※ ※
この日、ディフは自分から積極的に触れてきた。俺を抱きしめて、髪の毛や背中を優しくなでる。骨組みのしっかりした温かな手で。
抱擁を重ね、くり返すごとに少しずつ震えが収まって行き、迷いが薄らいで行くのが伝わってきた。
そして夜。
面会時間の終わりが刻一刻と迫ってくる中、頬に、額に、唇、耳に。惜しみなく与えられる柔らかなキスの合間に囁かれた。
「俺の手の記憶が霞んだらまた明日も来い……何度でもつけてやるから」
「忘れてなくても来るよ。毎日」
ぐいっと強く抱きしめられた。その力の確かさに安堵すると同時に堪え難い吸引力をも感じた。
離れたくない。
君をこの部屋に残して帰りたくなんかない。
「……ここに泊まると怒られるかな……」
「ベッドの下にでも隠れとくか?」
「通報されたら困るな」
「すっとぼけてやるさ……ここの所轄の巡査は俺の後輩だ」
肩をすくめて、くすくす笑っている。
「やれやれ。悪い子だな」
手を伸ばし、ゆるく波打つ赤い髪を撫でる。目を細めてすり寄ってきた。
ああ……そんなに嬉しそうな顔をして。困ったものだね。このままでは、どうにも自分を押さえ切れなくなりそうだ。
(君を離したくない。誰にも渡したくない……)
「また、明日も来るよ。警察にも行かなければいけないから時間はわからないけれど……必ず来る」
「ああ。子どもたちを、よろしく頼む」
次へ→【3-14-6】ドライマティーニ
シャツにも、髪の毛にもアルコールと煙草のにおいが染み付いている。それとは別に、袖口にかすかに酸味のある柑橘系の香りがした。
グレープフルーツだ。
そう言えばベッドに倒れ込む寸前、アレックスに何か飲まされたような気がするが……きっとグレープフルーツのジュースだったのだろう。
ぼんやりしたまま浴室に入り、シャワーを浴びた。
ディフの病室に行く前に、少しでもすっきりしておきたい。
行かない、と言う選択肢は無かった。
※ ※ ※ ※
さすがに動き始めるとこめかみが疼いた。うずくまるほどではないが、それでも車のクラクションやドアの閉まるバタンと言う音が脳の奥に響く。
時折町中で耳にする他人の迷惑を顧みずに大音量で流される調子っぱずれの音(あれを音楽だなどと認めるものか、断じて!)に軽く殺意を覚えつつ病院に向かう。
「レオン!」
昨日よりだいぶ具合がいいらしい。笑顔にも、声にも力がある。双子と会えたのがよほど嬉しかったのか。
(俺だけでは君を救うことができなかった)
ベッドの上に半身を起こし、象牙色のパジャマの上からくるりと大きめの肩掛けを巻き付けている。薄くて軽い。色は黒。
昨日まではなかったものだ。
「………冷えるかい?」
「少し、な」
参ったね。その色の組み合せは危険だよ、ディフ。
君自身の生来の肌の白さときめの細かさが。(多少陽に焼けた程度では隠せやしない)髪の色の鮮やかさが、一層引き立ってしまうじゃないか。
いったい誰が選んだんだ?
幸い髪の毛はゆるく三つ編みにまとめられ、左の肩を通して前に回してある。どこをとっても典型的な病室の服装、髪型だ。
にもかかわらずこんな風に艶っぽさが強調されてしまうなんて。
本当に……困ったものだね。
(いっそどこかに閉じ込めてしまおうか。誰の目にも触れないように。もう二度と、誰の手にも汚されぬように)
「おみやげがあるよ。シエンが持って行けって」
朝、家を出る時に持たされたランチボックスを開ける。サンドイッチがきっちりと詰められていた。
「わあ。うれしいなあ……病院の飯、不味いから、すっげえ嬉しい」
目を細めて顔中で笑う。本当に、こう言う時の君は出会った頃と変わらない。
(だが、その笑顔は俺以外の存在にも惜しみなく向けられる)
己の内側でざわめく不穏な心を押し隠し、何食わぬ顔を装いつつステンレスボトルに入れた紅茶を取り出した。
「お茶も持って来たよ」
「いたれりつくせりだな……紅茶も、コーヒーも、お前が入れてくれるのが一番美味い」
「あと少しの辛抱だよ」
「うん……」
少しの間、彼は目を伏せて何か考えていた。それから俺を見上げて、ちょい、ちょい、と手招きしてきた。
「何だい?」
近寄って、ベッドに腰を降ろす。
手を伸ばして来る。
くしゃっと髪の毛を撫でられた。
「ディフ?」
目を閉じると、彼は俺を引き寄せてキスしてきた。ほんの少し、震えている。
そっと肩に手を回して抱き寄せる。
唇と唇を触れあわせる、ただそれだけのことに、どれほど勇気を振り絞ったことか。それはディフが誘拐されてから、初めて交わす口づけだった。
閉じられたまぶたにキスをすると、彼はうっすらと目を開けて囁いてきた。
「……あんまり飲みすぎんなよ」
「……気をつける」
その肩掛け、誰が持ってきたかわかった。
(……ヒウェル)
※ ※ ※ ※
この日、ディフは自分から積極的に触れてきた。俺を抱きしめて、髪の毛や背中を優しくなでる。骨組みのしっかりした温かな手で。
抱擁を重ね、くり返すごとに少しずつ震えが収まって行き、迷いが薄らいで行くのが伝わってきた。
そして夜。
面会時間の終わりが刻一刻と迫ってくる中、頬に、額に、唇、耳に。惜しみなく与えられる柔らかなキスの合間に囁かれた。
「俺の手の記憶が霞んだらまた明日も来い……何度でもつけてやるから」
「忘れてなくても来るよ。毎日」
ぐいっと強く抱きしめられた。その力の確かさに安堵すると同時に堪え難い吸引力をも感じた。
離れたくない。
君をこの部屋に残して帰りたくなんかない。
「……ここに泊まると怒られるかな……」
「ベッドの下にでも隠れとくか?」
「通報されたら困るな」
「すっとぼけてやるさ……ここの所轄の巡査は俺の後輩だ」
肩をすくめて、くすくす笑っている。
「やれやれ。悪い子だな」
手を伸ばし、ゆるく波打つ赤い髪を撫でる。目を細めてすり寄ってきた。
ああ……そんなに嬉しそうな顔をして。困ったものだね。このままでは、どうにも自分を押さえ切れなくなりそうだ。
(君を離したくない。誰にも渡したくない……)
「また、明日も来るよ。警察にも行かなければいけないから時間はわからないけれど……必ず来る」
「ああ。子どもたちを、よろしく頼む」
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