ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【3-14-1】病院の天使

2008/06/21 19:13 三話十海
 
「いや、まだいい」

 救出後、収容された病院でディフは断固として治療を受けようとしなかった。かろうじて検査用のガウンを身につけることは了承したものの、ドクターにも、ナースにも手を触れさせようとしない。

「証拠の採取が済んでからだ。命に関わるような怪我じゃない」

 ディフの意志は固く、言葉も態度もしっかりしていた。
 結果として彼の意志は尊重され、ドクターは渋りながらも鑑識の到着を待つと答えてくれた。

 その間、レオンはずっと恋人の傍らを離れなかった。ほとんど言葉は交わさなかったが、しっかりと手を握りしめて。

 やがて警察から二名のCSI捜査官やってきた。北欧系の背の高い金髪と、アフリカ系のドレッドヘアーの対照的な外見の二人組。CSIのロゴの入ったそろいの紺色の上着を着て、手にはめいめい四角いプラスチックの道具箱を下げている。

「よぉ、エリック、キャンベル。お前らが来たか」
「センパイ……」

 二人ともディフとは顔見知り。かつては警察で苦楽を共にした友人であり、犯罪捜査のために力を合わせた仲間だった。
 これから何が始まるのか。何をすればいいのか。
 する方も、される方も、分りすぎるほど分っている。

「レオン。少しの間、席、外してくれるか」
「…………わかった」

 ぐっと強く握ってからレオンは指の一本一本を強靭な意志の力で動かして手を離し、少しだけベッドから離れる。部屋から出るつもりは毛頭なかった。

 キャンベルがカーテンを引き、ベッドの周囲に薄いクリーム色の結界を張る。
 次に何をすればいいか、分かっていた。
 だが、動けない。二人のCSI捜査官は顔を見合わせ、声も無く立ち尽くしていた。

「……………」
「どうした」
「あ……いや……」

 いたたまれず、キャンベルは目をそらした。
 不意にカーテンが揺れた。ベッドがぎしっと軋む。ぎょとして向き直るとディフが猛然とエリックに詰め寄り、胸ぐらをひっつかんでいた。

「聞け。今の俺の体は証拠の山だ……爪の間の皮膚、体にこびりついた体液も毛髪も全て拾い上げろ」

 大型の肉食獣の唸りさながらの低い声。歯をむき出し、今にも噛み付きそうな勢いだ。

(ああ、同じだ。オレが警察に入ってから間もない頃、制服警官時代に容疑者を連行して来た時と)

「奴らを二度と娑婆に出すもんか。あの子たちにも。レオンにも、二度と手は出させない! 徹底的に叩きのめしてやる、そのためなら何だってする」
「……了解」
「わかったんなら、さっさと仕事しろ!」

 エリックは意を決して道具箱の中から捜査用の道具を取り出し、薄いゴム手袋をはめた。
 ディフはしばらくの間深く呼吸をして息を整えていたが、やがて自分から検査衣を脱ぎ、生々しい暴力と欲望の痕跡をかつての同僚の前にさらけ出した。

「失礼します」

 シャツのすき間からちらりと見えるたびに顔が火照り、胸が高鳴った彼の体が今、目の前にある。
 できればこんな形で目にしたくはなかった。

(しっかりしろ、エリック)

 自分で自分を叱咤する。
 これは犯罪捜査のために必要なのだ。自分の義務であり、何より彼がそのことを望んでいる。
 それでも、使い慣れた道具を操る指先が震えた。

 首筋の歯形の表面を綿棒で拭い、長さを計る。写真を撮る時、カーテンの向こうから剣呑な気配が伝わってきた。
 キャンベルも薄々気づいたらしい。こわごわと背後を伺っている。
 胸、わき腹、と同様に計測と写真撮影を続けていると、足の付け根のあたりを示された。

「ここにも歯形がある。別の奴だ」

 淡々とした口調で説明される。うなずいて手伸ばした。

(こんな所まで……)

 噛み痕の主は容赦無く歯を立てていて、計測も写真の撮影も容易に行うことができた。

「後ろ……向いてもらえますか」
「ああ」

 背中に広がるタトゥーを目にした瞬間、エリックの心は二つに引き裂かれた。
 警察官として冷静に犯罪の『証拠』を分析している自分と。

(これは、同じものだ。去年、水路に浮いていた死体のものと)

 被害者を慕う友人として、怒りに震える自分と。

(パリス……センパイに何てことを!)

 同時に感じてもいた。捜査官としての意識が冷静に怒りの手綱をとり、収めてしまうのを。
 そうだ、怒るのは後でいい。今は目の前の証拠に集中しよう。

「これは……機械で?」
「いや。手彫りだ。筆跡鑑定、できるか?」
「かなり変則的ですが。やってみます」

 この人も同じだ。他のタトゥーとの関連性を理解している。自分の事件だけじゃない、他の事件の証拠ともなり得ると。
 
「失礼します」

 タトゥーの表面に付着物がないかどうか。綿棒で拭い、粘着性のシートをはり付ける。手が触れた瞬間、ディフの体が強ばり、血の気が失せる。蒼白とはまさにこの事だ。
 歯を食いしばり、必死に何かを堪えている。

「すみません、痛みますか」

 抑揚のない声が答えた。

「いや。続けろ」
「了解」

 つとめて手早く作業を進めた。
 付着物の採取を終えてから、写真を写す。カーテンの向こうの剣呑な気配がさらに強まった。

「……終わりました」

 黙ってうなずくと、ディフはぎこちない動きで検査衣を身につけた。薄緑の布地をきつく体に巻き付けて、背中を隠すようにして。


 ※ ※ ※ ※


 カーテンを開けるとCSIから来た二人組はレオンに会釈をして、足早に病室を出て行った。
 黙って見送ってから、ドクターを呼んだ。

 治療の間中、ディフは一言も口をきかなかった。ただ背中の傷に触れられた時だけ、びくんとすくみあがり、喉の奥で小さくうめいた。
 握る手に力をこめる。

「………ここに居るから」

 うなずいて、両手で握り返してくる。堅く目を閉じて、高熱を出した時のように震えていた。


 ※ ※ ※ ※


 治療が終わって、二人きりになってからレオンに抱きしめられた。背中の一部に触れないよう、細心の注意を払っている。
 迷ってから、目を合わせずに小さな声で問いかける。

「どんな絵………彫ったんだ。自分じゃ……見えない」
「羽根だよ」
「なんで…そんなもん………」

 俺に似合いのを入れたと言った。何故、羽根なんか。

「文字……あるはずだ」
「ああ……」
「『俺の名前を一生背負って行け』って…………」
「……タトゥーは手術で消せる。レーザーで焼くんだけどね」

『汚れ切ったその体で、どの面下げてローゼンベルクの前に出るつもりだ?』

 思わずレオンの手を振り払っていた。

 あの部屋の冷たいベッドの上で、嬲られながらずっとお前を呼んでいた。
 淫乱よ、裏切り者よと口々に罵られ、もうお前に愛される資格はないのだと嘲られながら、それでもひと目会いたいと願い続けた。
 それさえもお前への裏切りなのだろうか。

 肩を抱え、掠れた声を振り絞る。

「いっそこの身体全て焼き払いたい」
「それじゃ俺が困るよ」
「…………」

 震える手を伸ばし、レオンの袖をつかむ。優しく手を握られた。

「君が今ここにいる……俺はそれだけで嬉しいよ」

 手をしっかり握り返した。体が細かく震える。痛みのせいでも、熱のせいでもない。
 黙って抱きしめてくれた。
 夢中ですがりついていた。

「レオン……レオン……レオン……」

 何度も呼ぶ。どんなに責め苛まれても。誇りも尊厳も全てはぎ取られ、心と体、もろとも引き裂かれても忘れなかった唯一の人の名を。
 
 例えそれが裏切りだとしても、目の前の優しい腕を離すことは……できなかった。


次へ→【3-14-2】双子と執事とライオンと
拍手する