ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【3-13-19】対決

2008/06/13 3:57 三話十海
 海の匂いがする。
 潮の香、なんて叙情豊かな表現では追いつかないくらいに強烈な、ぬるりと湿った生臭い海水の匂い。
 古くなった油、濡れたコンクリートにへばりつく藻、命果てた体の腐ってゆく匂いが溶け込んだ、決して飲めない混沌のスープ。

 ひと息吸い込んだだけでずしりと腹の底が重くなる。
 どこからか、かすかに騒がしい音楽が聞こえてくる。ラップだろうか。ヘヴィメタだろうか。相当な大音量で流しているのだろうが、ここからは遠い。細かい部分は霞んで消えて、捩れた騒音だけが耳に響く。さながら音の亡霊だ。

「ヒウェル。アレックス」
「はい」
「時計を合わせよう。30分経って戻らなければ警察を呼んでくれ」
「……了解」
「それまでは、ここで待っているように。決して車から降りてはいけないよ。いいね」

 言い残すとレオンはルースを伴い車を降りた。彼女が降りる時、申し分のない礼儀正しさで手を貸し、導いて。
 ヒウェルは秘かに舌を巻いた。
 一見紳士的な態度だが、その実、巧みに彼女の逃亡を防いでいる。あれじゃルースも逃げられまい。

 積み上げられたコンテナと、雑に押しつぶされた車の残骸。黒々と立ちはだかる歪な壁を抜けて二人が歩いて行く。
 行く手に立ちはだかる倉庫の窓からは、微かに明かりが漏れていた。

 
 ※ ※ ※ ※


 倉庫の中は屋根が有る事を除けばあまり表と違いはない。乱雑に積み上げられたコンテナの間を抜けて歩いて行くと、中央近くにぽっかりと空間が空いていて、人だかりがしていた。
 男ばかり、全部で7人。
 うち、一人がレオンの姿を認めて人だかりの中央に声をかける。

「……ボス」

 それを合図にすっと男たちが左右に分かれる。中央に青い防水シートが敷かれ、その上に二人の人間がいる。
 床に押し倒された一人の上にもう一人がのしかかり、何事か囁いている。
 倒された方が弱々しく首を振る。赤い髪を確かめるより早く、それが誰なのか、わかっていた。

「その手を離せ」 

 フレデリック・パリスはゆっくりと立ち上がった。手を離す間際にぎりっと、組み敷いた虜の肌に爪を立てて。
 小さな悲鳴があがる。

「やあ……遅れずに来てくれて嬉しいよ、ローゼンベルク」

 レオンに背を向けたまま、うっとりと目を細めてシートの上で身を震わせるディフを鑑賞している。

「……彼を帰してもらおう」

 ようやく、パリスは振り向いた。口元に浮かぶ嘲りの笑みが途中で強ばる。食い入るようにレオンの背後を凝視していた。コンテナの陰に立つルースのすらりとした影が落ちる床を。

「待て。一人で来いと言ったはずだぞ。もう一人居るな。誰だ?」
「心配しなくても、君のよく知ってる人だよ」
「な……まさか……」

 震えながらもき然とした足どりでルースが進み出て、レオンの隣に立った。

「ルース?」
「パパ!」
「貴様……娘をどうするつもりだっ」

 明らかに動揺している。四年の歳月を経ても父娘の絆は失われていなかった。やはり彼にとって娘の存在は大きいのだ。

(ヒウェル、君の読みは正しかったよ)

 そっとレオンはルースの肩に手をかけた。

「随分丁寧な扱いをしていただいたようだから、ね」
「待て……娘には手を出すな! まさかしないだろう? 堅気の弁護士が…」

 レオンは黙ってほほ笑む。
 凍えるような殺気が滲み出す。ルースがびくっとすくみあがった。

「わかった。彼は返す、だから娘にだけは……」
「賢明な選択だね」
「奴を連れて行け」
「しかし、ボス」
「いいから、さっさと連れて行け!」

 部下が二人、ディフを両脇からかかえて引きずって来た。

「行きなさい」
「ローゼンベルクさん」
「巻き込んですまない、ルーシー」
「……はい」

 こくり、とうなずきルースが歩き出し、パリスの部下に迎え入れられる。こちらを何度も振り返りながら父親の元へと歩いて行く。
 ほっそりした肩から離した手でそのままディフの体を抱きとめる。

 上着も、靴も、靴下も失われていたが、かろうじて家を出た時と同じシャツとジーンズを身につけていた。しかしシャツは引き裂かれてところどころに血がにじみ、ほとんど肩にかかっているだけだ。
 左の頬に一筋、生々しく赤い切り傷が走り、体中至る所に陵辱の爪痕がくっきりと刻まれている。
 ただ髪の毛だけはつやつやと美しく整えられていて、それ故に一層、体の傷が際立って見えた。

 二日間。
 たった二日間離れた間に、どれほどの責め苦が彼の体を通り過ぎたのか。

 居合わせるパリスの手下どもが粘つく視線を向けている。露骨に歯を見せ、舌を閃かせ、せせら笑っている奴もいる。

(やめろ)
(そんな目で彼を見るな)

「……ディフ……」

 ぴくりと肩が震え、虚ろなヘーゼルブラウンの瞳が見上げてきて。
 一瞬で表情を取り戻した。

 血のにじんだ唇が動く。掠れ切ってほとんど声にならない。

『 レ オ ン 』

 首筋の火傷の跡の上に生々しい歯形が残っていた。一つではない。くり返し何度も、執拗に狙ってつけられたのだろう。

「来るなって…言ったじゃないか……」
「それは……聞けないよ……」
「レオ……ン……っ」

 震える手で弱々しく服を握ってきた。両方の手首にくっきりと赤い筋が刻まれている。
 抱きしめたその時、シャツが肩から滑り落ちた。

「っ!」

 背中に真新しいタトゥーが刻まれていた。広げた翼に絡み付く蛇。皮膚が赤く腫れ上がり、渇いた血が赤黒くこびりついている。
 禍々しい血染めの翼。
 誰が。何のために入れたのか。
 理解した瞬間、銃を抜いていた。
 息をするよりも自然な動作で。それと意識するより早く。


 ※ ※ ※ ※


 車の助手席でヒウェルは時計を確かめた。
 約束の時間までにはまだ間がある。しかし、もう待てない。これ以上ぐずぐずしていたら手遅れになる。
 
(ごめん、レオン。俺やっぱり見過ごせないよ)

 SPは連れていない。だが懐に銃がある。
 あいつが日頃、銃を持ち歩かないのは撃ち方を知らないからじゃない。なまじ腕が良すぎて危険だからだ。
 気づいた時は撃っている。
 ディフと違って警告は無し。威嚇も無し。レオンが銃を撃つのは、相手を仕留める時だけだ。

 これはレオンに対する裏切りだろうか? 彼が怒りをぶつける唯一の機会を、奪ってしまうのではないか。
 それでもいい。後悔はしない。

 薄暗い車の中に、ぽつっと四角い白い灯りがともる。
 携帯の画面だ。
 だが、俺のじゃない。俺のはまだ開いていない。

「ハロー、オルファ」
「え………オティア?」

 運転席のアレックスがちらりと後ろを見たが、何も言わない。

「お前、何でっ」
「……レオンが今出た」

 電話の向こうでちょいとハスキーな人妻の声が答える。

「OK、位置を教えて」

 まだ頭が混乱してる、だがとにもかくにもFBIに繋がってる事は確かだ。カーナビに手を伸ばし、座標を読み上げる。
 即座にオティアが復唱し、向こうに伝えた。

「わかった。ローゼンベルクはそこに居るのね?」
「ああ、いるよ! パリスと手下どももね」
「あらH。元気? すぐ行くから。そこを動かないで」
「了解」

 オティアは平然と電話を切った。
 いつの間に。
 いや、いつから?

 聞きたいことはいろいろある。だが今は……

(奴を殺人犯にする訳にはいかないんだ。頼む、早く来てくれ……)


 ※ ※ ※ ※


 レオンが銃を抜くと同時に、パリスも銃を抜いた。
 やや遅れて手下たちも銃を抜く。しかし、微妙に及び腰だ。ちらちらとボスの顔色をうかがっている。

 ビビってやがるな。

 パリスは舌打ちした。
 無理もない。この男を殺せばローゼンベルクとガリアーノ、ロスを拠点にする二つの強力な一族を敵に回す。そんなことになったら潰れかけた組織はひとたまりもない。
 だからマックスを狙ったのだ。身内でも何でもない。しかし奴にとって何より大事な存在を。

 見る影も無く汚辱にまみれて、ボロボロに引き裂かれた奴の天使を目の前に放り出して、思い知らせてやるのが本来の目的だった。
 二度と俺たちに刃向かうな、と。
 
 だが……。
 今、目の前で抱き合う二人を見て狂おしい嫉妬がわき起こる。青黒い炎が胸を、腹を内側から焼き尽くす。

(こいつらをこのままにしておくものか!)

「二人そろってあの世に送ってやる、と言いたい所だがな。俺は慈悲深い男なんだ」

 唇がめくれあがり、引きつった笑みを形づくる。そのくせ声だけは妙に落ちつき、静かに響き……語尾が僅かに歪み、震えた。

「お前は殺さないよ、ローゼンベルク。だがその男はもらって行く……一生、お前の手の届かない所で……飼ってやる」

 びくりとディフがすくみ上がり、顔を押し付けてきた。弱々しく首を左右に振り、体全体が細かく震えている。指の関節が白くなるほど強く服を握り、すがりついて来る。

「や……だ……いやだ………レオン……っ」

 レオンは迷わずパリスに銃口を向けた。左手でディフの体をかき抱いたまま、右手を真っすぐに伸ばして。

(もう一度ディフを奪われるくらいなら……今、ここで死んだ方がマシだ!)
(だがパリス。お前だけは刺し違えてでも葬ってやる。二度と彼には触れさせない)

 二人の殺気が交錯し、束の間沈黙がその場を支配した。

「パパ、もうやめて!」
 
 ルースが父親の腕にすがりつき、半狂乱になって叫んだ。

「これ以上、マックスに酷いことしないで!」
「ル……ス……?」

 よろよろとディフが顔を挙げ、わずかにろれつの回らない口調で、たどたどしく彼女を呼んだ。

「ごめんね……マックス………ごめんね……」
「下がってろ、ルース!」
「いや!」

 レオンはわずかに眉をしかめた。

 ……不味いな。今撃つと彼女に当たる。
 確実に奴に当てなければ意味がない。
 邪魔だ。
 位置を変えてもらおう。父親か娘、どちらかに。
 ほんの少しでいい……そう、ほんの少しで。

「君は娘も巻き込む気か?」
「何?」
「その娘は無理矢理連れてきたわけじゃない。彼女の意思でここにいるんだ」

 パリスがわずかに体をひねり、娘の顔を凝視する。信じられないと言った表情で。
 いい動きだ。もう少し……。

 撃てるのはおそらく一発。だが、それで充分だ。


次へ→【3-13-20】俺の天使に手を出すな
拍手する