▼ 【4-19】ベビーシッター
- 2007年2月から3月にかけての出来事。
- 雨の中、飛び出したシエンがディフの腕に飛び込んでから、エリックとのドア越しの再会までに何があったのか。
- そしてその先に続く道のりを、『家族』の視点でお送りします。
記事リスト
- 【4-19-0】登場人物 (2010-06-25)
- 【4-19-1】子猫が3匹 (2010-06-25)
- 【4-19-2】★事情聴取 (2010-06-25)
- 【4-19-3】出られない! (2010-06-25)
- 【4-19-4】迷子もう一人 (2010-06-25)
- 【4-19-5】★家族会議 (2010-06-25)
- 【4-19-6】ドアの向こうに (2010-06-25)
- 【4-19-7】サリー参上 (2010-06-25)
- 【4-19-8】召しませ白酒 (2010-06-25)
▼ 【4-19-0】登場人物
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
「君だけを見ている」求めていた言葉と向き合った瞬間、沸き起こったのは恐れ。
耐え切れずに逃げ出し、雨の中をさまよった彼が飛び込んだのは『まま』の懐だった。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
ずっと二人だけで生きてきた。互いを唯一の存在として。
だけど、今は……。
シエンを守りたい。その想いは変わらない。
【エリック/Hans-Eric-Svensson】
シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
金属フレームの眼鏡着用。好物はエビ。
デンマーク人の祖父を持つバイキングの末裔。寒さにも極めて強い。
少し困ったような顔でほほ笑む金髪の少年にぞっこん参ってる。
前回、彼の視点から見ていた出来事が今回は『家族』の視点から描かれる。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
いつもは探偵事務所の『びじんひしょ』、今回は『ナースさん』。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁に近づく不埒な輩には容赦無い。
双子の幸せはそのままディフの幸せ、そしてディフのほほ笑みは彼の幸せ。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。大きな温かな翼を広げて迷い子を包み込む。
迷いながらも少しずつ、強くなりつつある。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、ひょろ長猫背の不健康大王。
レオンとディフの高校時代からの友人。
オティアにぞっこん参ってるへたれ眼鏡。
天涯孤独の彼にとってシエンは可愛い弟、大切な家族。
特技は『いらんひと言で痛い目を見る』こと。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
癒し系獣医。お酒を飲むとぽわっと頭にお花が咲く。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
中味はしっかり男性なのに、何故かやたらと女の子に間違えられるのが悩みの種。
双子と相性が良く、たまにベビーシッターをしている。
【テリオス・ノースウッド】
通称テリー。熱血系おにいちゃん。
栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
早くに両親を亡くして里親の元で育ったため、血のつながらない兄弟や姉妹が大勢いる。
最近、ベビーシッターとドッグシッターのバイトを始めた。
【ビリー】
シエンの中学の同級生で、今は遊び仲間。
親に虐待され、里子に出される。
illustrated by Kasuri
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▼ 【4-19-1】子猫が3匹
雨が傘を叩く。ぱらぱらと。ぱらぱらと。いつまでも同じリズムで変わらずに。腕の中の小さな子は手のひらを広げ、ぎゅっとしがみついてくる。
「や……わたし……他所になんか……行きたくない」
あの時とはちがう。血のつながりがあろうとなかろうと、法的な権利や義務があろうとなかろうと、もうためらうのものか。すがりつく子を、途中で放り出したりしない……決して。
シエンが小さく震え、体をぐいぐいと押しつけてきた。
「エリックは……悪く……ない……」
「ああ。大丈夫、よく、わかってる」
「ディフっ……っ」
※ ※ ※
「そら、ついたぞ、シエン。家(home)だ」
こくっとうなずき、シエンはほんの少し力を抜いた。
玄関を入ると、家には既に暖房が入れられ、温かい空気が行き渡っていた。
「あ」
ちりちりと鈴を鳴らし、尻尾をぴーんと立てて白い小猫が走ってくる。つま先立ちでちょこまかと。俺たちを見上げてピンクの口を開けて、甲高い声でにゃーっと一声。
「オーレ。お前がいるってことは………つまりその……」
オティアは既に帰ってきてるってことか。その時になって初めて俺は、まだシエンの発見を伝えていなかったことに気付いた。
(何てこった!)
雨の中、震えていたこの子を守るのに全力を傾けていたもんだから……だが、電話もメールも入れずとも、オティアにはわかっていただろう。双子は呼び合う。この二人は特に、常人には無い力がそなわっている。
「お帰りなさいませ」
居間に入ってゆくと、うやうやしくアレックスが進み出てタオルをさし出してくれた。
「ただいま」
「どうぞ」
「ありがとう」
不思議はない。オティアを迎えに彼を送ったのは俺自身だ。そのまま事務所に立ち寄り、一緒に帰ってきたんだろう。レオンへの連絡も忘れずに。そして、準備万端整えて俺たちを待っていてくれったて訳だ……有能執事の差配に手抜かりはない。
タオルをシエンに渡そうとした。だが、シエンは俺にしがみついて離れようとしない。仕方がないので、自分もろともすっぽりとタオルで包んで部屋まで連れて行った。チリチリと鈴の鳴る音が足下を付かず離れず追ってくる。やや離れて、アレックスの足音が続く。
子ども部屋の前まで行くと、すっとドアが開いてオティアが出てきた。
「風呂の準備、できてる」
「そうか」
その時になって、やっとシエンは俺の上着から手を離し、よろよろとオティアに向かって踏み出した。同時にオティアも進み出る。どちらからともなく手を伸ばすと二人は互いに寄り添い支え合い、バスルームへと歩いていった。
まずはこれで一安心、か。
部屋の中には暖房はもちろん、加湿器もセットされている。そして、二つ並んだベッドのうち、オティアの使っていた方のカバーが外され、ちゃんと掛け布団から枕、シーツにいたるまできちんと準備されていた。去年の十一月以来、この部屋はずっとシエンが一人で使っていたはずなんだが。
「……これは?」
「当分こちらでお休みになられるそうです」
見回すと、机の上には携帯や財布、読みかけの本。オティアの身の回りの品がきちんと置かれていた。ベッドサイドのテーブルには、青い目覚まし時計。そして、床の上にはオーレ用のケージとトイレまであった。
「そうみたいだな」
「マクラウドさまの分も、お風呂の用意ができております。お二人には私がついておりますので、今のうちに」
「ありがとう」
言わずとも互いに通じていた。
おそらくこの後、シエンは寝込む。その影響でオティアも寝込むだろう。いつまでも濡れ鼠のまま、ぼーっと突っ立ってる暇はない。
大股で廊下を通り抜け、寝室に移動する。上着と靴は防水性だがあいにくとジーンズやシャツはそうじゃない。歩いてくる間にけっこう水が染みていた。
上着を脱ぐと、下のシャツに皺が寄っていた。小さな手のひらが力いっぱい握った形に。
『エリックは悪くない、エリックは悪くない』
ずっと、あの子は同じ言葉をつぶやいていた。
繰り返し、繰り返し、途切れながら。
ハンス・エリック・スヴェンソン。金髪眼鏡のバイキングの末裔、サンフランシスコ市警察の有能な鑑識捜査員で、信頼できる後輩。お前、いったい何をやらかした?
事と次第によっちゃ、ただじゃおかんぞ。
※ ※ ※ ※
米は少なめ、水分を多め、ショウガを加えた『おかゆさん』を少しだけ口にすると、双子はアレックスの用意してくれた薬を飲み、申し合わせたようにベッドに潜り込んで目を閉じた。オーレはオティアの枕元にくるっと丸まって、尻尾の中に顔をうずめた。
「……頼んだぞ、ナース・オーレ」
「みゅっ」
夕飯の席でレオンとヒウェルに事態を説明するのは俺の役目だった。だが何分、情報が少なくて……エリックが関わっているらしいことは事実なのだが、それ以上のことは推測でしかない。
「するってぇと、何か? あのバイキング野郎のせいで、何があったか知らんが雨ん中、傘もささずにシエンは走り回ってた、と」
「ああ」
「たった一人で」
「……そうだ」
説明しているうちに、改めてグツグツと腹の奥底でマグマのような怒りがたぎる。泡立ち、煮え立ち、ぬうっとせりあがってきた。
ヒウェルは口を歪めて何ごとか言いかけたが、俺の顔を見るとさーっと蒼ざめて、黙り込んだ。
「勤務中じゃなきゃ、今、この瞬間にでも奴の襟首ひっつかんで問いただしたい所だ……」
テーブルの下で、そっと手を握られる。
わかってる、レオン。無茶はしない。指に力を入れて握り返した。
微かにレオンはほほ笑むと、ぽん、と肩を叩いて。それからさらりと言った。
「ああ、そうだ。スヴェンソンくんの忘れ物を、アレックスが回収してきたよ」
「忘れ物?」
「ああ。白い、ひらべったい音楽プレイヤーだ」
ヒウェルがまばたきして、目を細める。
「あーiPod?」
「そう、確かそんなものだったかな」
覚えがある。
エリックが二度目に夕飯を食いに来た翌日、シエンがいじってたアレだ。
「どーしたんだ、それ」
「借りた」
「………誰に?」
「エリック。んー………なんか、使い方、よくわかんないな。気に入った曲だけ聴きたいんだけど」
「ちょっ、ディフっ、お前、それっ」
「おっと」
知らぬ間に、フォークが妙な角度に曲っていた。
「あー……やっちまった」
「そのようだね。工具を取ってこようか?」
「いや、この程度なら」
両手で掴んで、ぐっと力を入れる。多少歪みが残ったような気がしないでもないが、この程度なら許容範囲だろう、うん。
「馬鹿力め……」
「そんな顔すんなって。バーベキュー串ひん曲げた訳じゃあるまいし。スプーンぐらいユリ・ゲラーだって曲げてるだろ」
「いや、そーゆーレベルじゃないから……」
ヒウェルは目をそらし、口の中でぶつぶつと何事かぼやいてる。レオンは素知らぬ顔で仔羊のトマトソース煮込みを口に運び、静かに咀嚼して赤ワインで流し込んだ。ゆるく上下する咽に。僅かにワインのにじむ唇に、自然と目が吸い寄せられる。
「事務所で預かってるから、取りに来るように伝えておいてくれ……」
空になったグラスを、明るい茶色の瞳をすうっと細めて眺めている。その横顔はいつになく美しく、見ているだけで背骨の内側を帯電した指先で逆しまになで上げられるような心地がした。
「スヴェンソンくんに」
「………わかった」
※ ※ ※ ※
夜中にふと、目がさめた。
前にも、こんなことがあった。
隣に眠るレオンを起こさぬよう、静かにベッドを抜け出す。枕元に灯る柔らかな小さな明かりを頼りにガウンを羽織った。
念のため、左胸のイニシヤルを確かめる。
……D。まちがいなく俺のだ。
静かに。静かに。スリッパに足を入れて、ドアに向かう。廊下に滑り出ると、急ぎ足で子ども部屋に向かった。
(四人でこの家に眠るのは、久しぶりだ)
子ども部屋のドアを細く開ける。夕食の皿を下げた時、残しておいた小さな明かりがまだ灯っていた。
中を伺うと、まず目に入ったのは、空っぽのベッドだった!
(なっ!)
オティアがいないっ?
ぎょっとして踏み込む。と……。
むくっとシエンの隣で誰かが身を起こした。髪の長さこそ違うが、瓜二つの顔だち。肩も、腕も、全身のシルエットからしてそっくりのもう一人。やや遅れて、小さなしなやかな生き物がにゅっと顔を上げた。
「ああ……いたのか……」
「ん………」
「みゅ」
シエンのベッドで寄り添って寝ていたのだ。さらにその枕元には、白い毛皮のちっちゃなナース。
「水、足りてるか?」
「ん……」
「そうか」
しぱしぱとまばたきすると、オティアはまたシエンの隣に横たわり、目を閉じた。オーレはぴん、と尻尾を立て、かぱっと口を開いて一声。
「にーっ」
「ああ。おやすみ」
「にゅっ」
子猫が3匹ぴったりくっついてる。寒いか、とは聞く必要もなかった。
※ ※ ※ ※
居間に戻ると、レオンがひっそりと立っていた。
「あ……起こしちまったか」
「いなかったから……心配した」
そう言って目を伏せる彼の顔は、何だかちっちゃな子どもみたいに見えて。思わず抱きしめていた。
「大丈夫だ。俺は、ここにいるから」
「………」
腕の中でくすっと笑う気配がした。
「どうした?」
「あべこべだ。迎えに来たのは、俺の方なのに」
「んー……まあ、気にすんな」
抱き合ったまま、寝室に戻る。
ベッドに入ると待ちかねたようにレオンの腕が巻き付いてきた。
今度は俺が、抱きしめられる番だった。
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▼ 【4-19-2】★事情聴取
朝が来ても、双子の熱は下がらなかった。
「二人とも休ませよう」
「その方がいいね」
「今日は俺がつきそってる」
「わかった。必要なものがあったら電話してくれ」
「OK」
互いの体に腕を巻き付け、しっかりと抱き合う。薄く開いた唇が重なり、差し出された舌が求め合う。
いつも朝のキスは軽くつつきあうだけだったし、そのつもりだった。
「う?」
「んー……」
「うっ、んっ!」
にゅるり、とレオンの舌が入ってきて、あっと思った時は俺の中をねっとりと舐め回していた。
「……ふ……は……あぁ……」
『行ってきます』のキスが終わり、解放された時はすっかり呼吸が乱されていた。
「レオン……っ!」
にらみ付けると、明るい茶色の瞳が細められ、ちゅっと首筋にキスが降ってきた。
「あ……」
「行ってくる」
「………行ってこい」
くそ。
向こうは俺の弱点を知り尽くしてる。どうにも、こう言う時は分が悪い。
深呼吸して、キッチンに向かった。
※ ※ ※ ※
朝食は二人ともカボチャとレンズ豆のスープを少しだけ飲んだ。アレックスの用意してくれた薬を一回分、水で飲ませる。
「もう少し眠った方がいいな」
シエンはこくっとうなずくと枕に頭をつけ、目を閉じる。ほんの少しだが、オティアの方がしゃっきりしているようだ。
「食堂にいる。何かあったら呼べ。動けなかったら携帯鳴らせ。いいな?」
「ん……」
「にー」
「そうだな。頼んだぞ、オーレ」
白い子猫の顎の下を撫で、ほんの少しドアを開けたまま廊下に出た。
調査員を何人も抱えているような大手ならいざしらず、うちみたいな個人経営の探偵事務所は、調査をするのも書類を作るのも分業なんざする余裕はない。
オティアが来てからは事務処理はほとんどあいつに任せていたが、さすがに裁判のための資料だの。調査報告書をまとめるのは自分でやらなきゃいけない。
あの子のことだから、そのうち覚えそうではあるが。とにかく、現時点ではやるべきデスクワークはいくらでもあった。
食卓のいつもの椅子に腰を降ろし、書類とノートパソコンを広げる。リビングのローテーブルは書き物には不向きだし、書庫やレオンの書斎では遠過ぎる。
カリカリとペンを走らせながら、ふと懐かしい光景を思い出した。
テキサスの家。
庭に面した窓の大きなダイニングキッチンで、お袋が、よくこうして食卓で書き物をしていた。
その時によって書いてるのはレシピのノートだったり、家計簿だったりと違っていたけれど、本を読む時も、編み物や縫い物をする時も、必ず食卓のいつもの場所に座っていた。
だから、俺もわかっていたんだ。
そこに行けば、いつだってお袋は居るって。
ちりん。
かすかな鈴の音と、人の気配に顔を上げる。
「に」
オティアが居た。寝巻きの上からぐるっとフリースのブランケットを巻き付けている。足もとには真っ白い小さなナースが胸を張り、ぴん、と尻尾を立てて付き添っていた。
「どうした? 具合悪いのか?」
「話したいことが……ある」
「無理するな」
「昨日……何があったか……」
それは、俺もずっと気掛かりだった。
「話せるのか」
「ん」
うなずいて、いつもの場所に座った。膝の上にオーレが飛びのり、ブランケットの中にもぐりこんでひょこっと顔を出す。
カンガルーみたいだ。
「シエンは?」
「眠ってる」
「そうか」
ノートを閉じて向かい合う。
「よし、話せ。何があった?」
「スタバでエリックと会った」
「ああ」
それは、わかっている。知りたいのはその後だ。
「シエンが、謝った」
「何故?」
「俺が………」
口ごもり、うつむいている。オーレを抱く手に力が入る。霧に煙る森の色。華奢な体を包む、柔らかなグリーンのブランケットにぐしゃり、と皺が寄る。
「オティア」
ぴくっと震えて顔を上げた。見返す紫の瞳の奥に迷いが揺らいでる。
「話せることだけで、いい」
「……俺が、奴のパソコンのデータを、消したから」
「故意か? 偶然か?」
「…………偶然」
「エリックはそのことを?」
「多分、知らない」
「そう、か」
自分の手で叩いたり、落としたりして物理的に壊したのではなさそうだ。力を使った……いや、使っちまったんだな。自分では意識せずに。
結婚式でもカメラがあちこちで原因不明の動作不良を起こしていた。おそらく、あれと同じことが起きたんだ。
「そうしたら、あいつが言ったんだ。かえってすっきりした、いつまでも未練たらしくあんな物持ってちゃいけなかったんだって」
「シエンに?」
「ああ」
さあっと血の気が引いた。
そいつはまずいぞ、バイキング! 消えたデータに何が含まれていたかは知らんが……モーションかけてる相手の前で『未練たらしく』、だと?
正々堂々、包み隠さずと言えば聞こえがいいが、恋愛の場合は必ずしもほめられた話じゃない。よりによって、最悪のタイミングで前の相手のことを自分からばらしやがって。
「……それで。シエンは、何て」
「俺じゃないんだ、って……あいつは慌てて、ちがうって答えた」
あンのバカ!
フォローするどころか、背中押して、穴の底に突き落としやがったか。
食いしばった歯をこじあけると、咽の奥から低いうなり声が迸った。
「……続けろ」
「シエンは……どうちがうのかって。それでもあいつは、諦めなかった。誰かの身代わりじゃない、君だけを見てるって」
『エリックは悪くない』
だから、あんなことを言ってたのか、シエン。
エリックの本意は理解した。奴の言ってることは、嘘ではないと。それでも感情は納得しなかった。
「シエンは……もう、会わないって言って………店を飛び出した。エリックが追いかけてった」
「そうか」
OK。何があったか、およそのことは掴めてきた。俺がシエンを発見するまでの間に起きたことは、エリックから聞くとしよう。
今は、それよりも大事なことがある。
「……大丈夫か、オティア」
「……ん」
のろのろとうなずいている。やばいぞ、視線が泳いでる。舌の動きもおぼつかないようだ。
「……部屋、戻る。もうちょっと………寝る」
「オティア?」
立ち上がりかけた体が、ぐらりと揺らぐ。
「おいっ」
「にゃぐっ」
間一髪、床に崩れ落ちる前に受け止めた。オーレはブランケットにしがみつき、毛をもわもわに逆立てている。尻尾が普段の倍の太さにふくらんでいた。
「大丈夫か?」
「………………無理」
猫抱えたまま倒れるなんて、この子には滅多にないことだ。よほど消耗したんだろう。
ちらりと一昨年の十一月を思い出す。あの時も、こんな風に急に倒れた。がりがりに痩せて、汚れて、血をにじませて。
この部屋の、この食卓で。
「……運ぶぞ」
あの時と同じように抱き上げて、そっと部屋に運んだ。子猫も、飼い主ももろともブランケットで包んで。
シエンの隣に横たえ、毛布をかけた。
「おやすみ」
※ ※ ※ ※
昼過ぎになっても、双子はこんこんと眠り続けている。昨日のできごとをオティアが俺に話したことで、胸のつかえが取れたんだろうか。あるいは消耗した分を回復させるための眠りなのか。
昨夜の残りで昼食をすませ、食器を洗っていると携帯が鳴った。
夜勤明けでようやくお目覚めか……待ちかねたぞ、バイキング。
「エリック」
「あ、その、えっと」
うろたえてやがる。なるほど、まずいことをやらかした自覚はあるんだな。ならば話は早い。
「話せ」
「……はい」
オティアから聞いた話を、改めてエリックの視点から聞き出した。時折、こちらから質問をはさみながら。
先入観に捕らわれず、加害者、被害者、目撃者から話を聞く。捜査の上で大事なことだ。エリックの奴も客観的に、己の見たこと、したこと、聞いたことを述べている。さすが現役の捜査官だ。
「妙な感覚でした。周りの人には、まるでシエンが見えてないみたいで……それに、何故か彼の走ってく先々で、蛍光灯が割れたり、ショーウィンドーにヒビが入ったりして」
「……そうか」
力が暴走していたのか……よほど怖かったんだろう。
瞳の奥にゆらめく虹。崩壊する倉庫を思い出し、背筋を冷たいものが走り抜ける。
危ない所だった。放っておいたら、どんな大惨事を引き起こしていたか!
一通り話を聞き終えてから、迷った。
俺はこの男を怒鳴りつけるべきか、それとも感謝するべきなのか? あの子を追いつめたのはこいつだ。だが、パニックに陥り力を暴走させていたシエンを現実に引き戻したのも、他ならぬエリックなのだ。
「……センパイ?」
「わかった。何があったのか、理解した。お前が、意図的にあの子を傷つけようとしたんじゃないってことは、な」
「………すみません」
「謝るな」
「シエンは……」
「今日は休ませた」
「そう……ですか」
「にゃーっっ」
かすかにオーレの声がする。子ども部屋も、居間のドアも、猫いっぴき出入りできるよう、細く開けてあった。
「あの、もしかして、自宅、ですか」
「そうだ」
「あのー、それで、ですね。オレ、スタバに忘れ物しちゃって」
いきなり当たり障りのない話題を振って来やがったな。さすがに気まずくなったか。
「それならアレックスが回収した。レオンの事務所で預かってるそうだ」
「にゃーーーおおおうっ!」
オーレの声がだんだん近づいてくる。リビングまで出てきたか。ランチは部屋に置いてきたはずだが、さてお嬢様、おかわりをご所望か?
思うまもなく、ひょい、とキッチンに姿を現した。たたーっと走り寄ってくると足下に体をすり寄せ、顔を見上げ、かぱっと口を開けた。
「みゃーっ!」
この鳴き方、飯の催促じゃなさそうだ。電話の向こうにもはっきり届いたらしい。エリックがいそいそと退却を始める気配が伝わってきた。
「……後で取りに伺います」
「わかった。レオンには話を通しておく」
「ありがとうございます。それじゃ………」
「待て、エリック」
「う……あ……はい」
「言いたいことはそれだけか?」
「オレは……オレは………」
ひゅう、とのどを鳴らしている。
「車道に飛び出したシエンの肩を掴んで引き戻した。とっさの事とは言え、配慮に欠けた行動でした」
いささかよれた声だったが、きっぱりと言い切った。
「申し訳ありません」
「緊急だったんだ。だが、あの子は怯えただろうな」
「……はい」
「最後に一つ、確認したい」
「何でしょう?」
「正直に答えろ、ハンス・エリック・スヴェンソン。貴様の言う『未練』とやらは、終ったのか?」
「……はい」
少し鼻にかかった声はいつもにも増して濁音を強く、重たく響かせた。
「完全に、終りました」
「わかった。では今後その件に関しては一切言及しない。一切、だ。いいな?」
「了解、D」
「以上。通信終了」
電話を切る。
『エリックは悪くない……悪くないんだ……』
長い長いため息が漏れた。
「にーっ」
ばりっとジーンズが引っ張られる。小さな猫のちっぽけな爪で。
「あ、こら」
オーレはたたっと先に走って行き、ぴんと尻尾をたてて振り返った。
「にゃーっ」
「……わかった、今行く」
「んにゃっ、んにゃーっ」
緊急らしい。
白い尻尾に先導され、子ども部屋にすっ飛んで行くと……二人がうなされていた。歯を食いしばり、目を閉じて、うっすらと汗を浮かべて。互いにしっかりと抱き合い、すがりつき、ガクガクと震えている。
「シエン……オティア?」
枕元に駆け寄ると、はっとシエンが目を開けた。
怯えた紫の瞳が室内を見回し、俺を見つけるなり、ぎゅーっとしがみついてきた。
熱い。
手のひらが。腕が。押し付けられる体が。それなのに、がたがたと震えている。顔も首筋も紙のように青白い。
「ディフ……ディフっ」
「ここに居るよ」
「行かないでっ」
「ああ、どこにも行かない。大丈夫だ、シエン……大丈夫だから」
受け止めて、背中を撫でる。
オティアは半身を起こし、オーレを抱いてぼんやりと見ていた。震えるシエンと、抱きしめる俺を。
「俺は、ここに居るよ……」
もしも。
もしも、この背に刻んだ翼に命が通っているのなら……空を飛ぼうなんて大それた望みは抱いちゃいない。ただ広げて包み、守りたい。泣くことすらできずに震える、この二人の愛しい子らを。
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▼ 【4-19-3】出られない!
寒い冬の最中に雨に打たれたせいか……双子の熱は思ったより長引いた。さすがにその間ずっと俺が付きっきりでいる訳にも行かず、アレックスとソフィアが交代で付き添ってくれた。時には「今日はデスクワークだから」と、ヒウェルまで加わって。
一進一退を繰り返しつつ、四日目からは少しずつ熱の出る回数が減り、口にする食事の量も増えて行った。
そして、一週間が過ぎた。
「行ってきます」
「行ってこい。気を付けてな」
「にー」
久しぶりに……本当に久しぶりに、オティアとシエンは二人一緒に玄関を出て行った。
ほっと胸をなで下ろし、食事の後片づけに取りかかる。食器をざっと水で流して食器洗浄器にセットして、そろそろ自分の出勤準備にとりかかろうとしていると……玄関が開く気配がした。
「……え?」
呼び鈴は鳴っていない。ってことは訪問者ではない。家族の誰かが帰ってきたのだ。
……まさか。
急ぎ足で迎えに出ると、真っ青になったシエンを支えて、オティアが立っていた。
「どうした」
「シエンが……」
「っ!」
どさり、と小さな体がしがみついてくる。がちがちと細かく震えていた。
同じだ……雨の中、迷子になっていたあの時と。
「ディフ……ディフっ」
「…………大丈夫だ。大丈夫だから」
首を横に振りながら、シエンはかすれた声でつぶやいていた。
「やだ……あそこには行きたくない……冷たい……こわい……やだよ……やだ……」
『あそこ』がどこのことなのか。
誘拐され、監禁されていた『工場』か。人身売買組織とツルんでいた職員の巣くっていた施設か。
それとも……調理室を改造して作られた、あの忌まわしい解体室なのか。
過去に無理やり連れて行かれた恐ろしい場所。その記憶が今、生々しく蘇り、この子を苦しめている。
錆びた刃物がじりじりと心臓を切り裂いてゆく。
(ずっと、お前をこうしたかったんだよ)
(愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ)
ぎりっと唇を噛みしめ……静かにシエンを抱き寄せた。
「どこにもやらない。誰にもお前を苦しめたり、傷つけたりさせない」
「ディフ……っ」
ずっと抱いていた。押し殺したすすり泣きが徐々に小さくなり、震えが収まるまで、ずっと。
「……部屋に、戻るか?」
こくっと、うなずいた。
部屋に戻ると、シエンはよろよろしながらバスルームに向かった。オティアに支えられて。途中で何度か振り返り、すがりつくような目を向けてきた。
「そこに居てね?」
「ああ。ここに居る」
「絶対だよ?」
「ああ」
「……シエン」
半分オティアに引きずられるようにしてバスルームに入り、ドアを閉める間もなく苦しげなうめき声が聞こえてくる。
ごぼり、ごぼりと水の逆流するような音。
……吐いたか。
ひゅーっと咽を鳴らす音と、嘔吐の気配が交互に続く。もう、胃液しか出ていないはずだ……。
口と手を洗うのはオティアがやるだろう。さしあたって俺は着替えを用意しておくとするか。体を締めつけない、楽なものを。
ああ。
レオンに電話しなくちゃな。
※ ※ ※ ※
眠りに落ちるまで、シエンはずっと俺の服を握って放さなかった。
多分、こいつは一種の条件付けだ。
死の臭いの漂う手術台からあの子を降ろしたのも。撮影所のそばで震えるシエンを拾い上げたのも。雨の中、震えるあの子を抱きしめたのも、全部俺だ。
俺にすがれば、恐ろしい事から逃れられる。そう、記憶に染みついているんだろう。自分の身を守ろうとする本能だ。
シエンが少しでも安心するなら、それでいい。だが……事態は深刻だ。オティアの時のように、また二人だけで不安に震えることのないように、きちんと対処しなきゃいけない。それには『家族』全員の連携が必要だ。場合によっては、専門家の助力も。
ためらう暇はない。
午後になって、俺たちは……レオンと、俺と、オティアとヒウェル、そしてアレックスとソフィアは居間に集まった。
「シエン、外に出られないのか?」
「ああ。マンションの出口で動けなくなったそうだ」
精神の傷が、体を激しく蝕む痛み。視界が歪み、目に見えるものも、音も半分に欠ける、あの逃げ場のない絶望を伴う感覚は……
俺にも覚えがある。
舌の奥で蠢く苦味と酸味を記憶の底へと押しやった。
「戻ってから、吐いた」
「吐き気止めをご用意いたしましょう」
「頼む。ああ言うのは、癖になるから……な」
「予約をとっておこうか」
レオンが静かに言った。メンタルクリニックのことだとすぐに分かった。
「オティアがかかっているのと同じドクターに。彼なら、事情も分かっているからね」
「往診、頼めないか」
オティアが口を開いた。
「そうだな。今のあの子を外に連れ出すのは……」
「かえって悪化させちまう、か」
うなずくと、オティアは一人一人の顔を順繰りに見回し、言葉を続けた。
「みんなが一緒にいた方が、シエンが安心する」
「わかった。頼んでみよう……ああ、そうだ」
いかにもついで、と言った感じの軽い口調でレオンは付け加えた。
「スヴェンソンくんのことはどうする?」
オティアが露骨に顔をしかめた。
「正直、二度とこの家には入れたくない。だけど……」
子ども部屋の方をちらりと見て、小さくため息をついた。
「シエンは、会いたがってる」
「っかーっ」
ヒウェルがぐしゃぐしゃっと髪の毛を掻きむしった。
「あのバイキング野郎が諸悪の根源だろ? なのに会いたがるとか、何で、そうなるかねえ。ああ、もうさっぱりわかんねぇ!」
拳を軽く握り、口元に当てる。何と答えればいいのか。腹の中でもやもやするあれやこれやが言葉に固まらない。もどかしさを持て余し、人さし指の付け根に歯を立てる。
鈍い痛みに我に返り、顎の力を緩めた。
「………どうすればいいのか。俺も、正直まだ迷ってる」
「ディフ」
歯の痕の残る手が、しなやかな手のひらに包みこまれる。無意識に左の手を重ねていた。薬指の指輪が触れ合い、カチリと冴えた音を響かせた。
「あ」
俺の目をじっと見つめながらレオンは静かに重ね合わせた手を口元から引き離し、噛み痕に口づけた。
「ドクターに相談してみたらいいんじゃないかな?」
「……そうだな。それが、シエンにとってプラスに働くのなら」
「異存はないね?」
渋々うなずきかけたオティアが、いきなりぴくっと顔を上げた。
「なーおおお、ふなーーーーおおお」
オーレが鳴いている。甲高い声で、遠吠えみたいに長々と呼んでいる。ちっちゃなナースは部屋で眠るシエンに付き添っていたのだ。
一人きりにならないように。
「なーお、ふなーっ、ふみゃーっ」
オティアは駆け出した。あっと言う間に居間を横切り、ドアを開け、見えなくなった。
「あっ、おい!」
伸ばしたヒウェルの指先でばたり、と扉が閉まり、廊下を走る足音が遠ざかる。見送ってから眼鏡男はぎくしゃくとこっちを向いた。
「……行かなくていいのかよ、まま」
「ああ。今回はな」
「根拠は?」
「深刻なら、直接呼びに来る」
「オーレが?」
「うむ」
頷き、改めて一同の顔を見渡す。
アレックス、ソフィア、ヒウェル、そして最愛のレオン。
「おそらく、長期戦になる。今まで以上にみんなの協力が必要になる。助けて欲しい」
ソフィアがほほ笑み、アレックスがきちんと一礼する。そしてヒウェルはぽん、と肩を叩いてきた。
「お前……」
「何だ」
「強くなったなぁ」
「そうか?」
「オティアがぶっ倒れた時は、あんなに真っ青になっておろおろしてたくせに……おごっ」
ひとしきりヘッドロックを決めてから、ぽいっと放り出す。待ちかねたようにレオンが肩を抱いてきた。
「安心したよ。頼ってくれて」
「そうか?」
「何もかも一人で背負い込んだら、君までつぶれてしまうから……ね」
「あ………」
頬が熱くなる。
俺は。
俺って奴はこの一週間、双子のことでいっぱいいっぱいになっていて。どれほどレオンに心配かけていたことか。寂しい思いをさせていたことか!
「………ごめん」
(ああ、やっと気付いてくれたね)
人さし指で軽くディフの頬をなでると、レオンは満足げにほほ笑んだ。
「いいんだ」
見つめ合う主人夫妻の邪魔をせぬよう、アレックスはソフィアの手を取り、静かに退出した。
一方でヒウェルはソファに突っ伏し、ズレた眼鏡をかけ直しつつ、ぼやいていた。
「納得行かねー………何でいつも、俺ばっかり、貧乏くじ引くんだか……」
※ ※ ※ ※
廊下を一息に走り抜け、オティアは部屋に飛び込んだ。
「にゃーっ」
オーレがもわもわと毛を逆立て、机の上をにらんでいる。
深い緑色の携帯電話が鳴っていた。
シエンのだ。
だが持ち主は毛布を頭からかぶってベッドの上で震えている。どうしても、出ることができないのだ。
無造作に手を伸ばし、鳴っている携帯を拾い上げる。発信者の名前は『ビリー・フォスター』。
「……」
確か、中学の時の同級生にそんな名前の奴がいた。
仕事の関係でもない。家族でもない。夜遊び仲間の一人ってとこか。
その程度の付き合いなら、シエンの代わりに自分が出てもわからないだろう。
「……ハロー?」
「よ、シエン! しばらく顔見なかったけど元気か? いつもの店に、新しいゲームが入ってんだよ。今夜あたり久しぶりにどーだ?」
「あー……ちょっと風邪引いて、寝込んでたんだ。まだ熱が下がらなくて、家から出してもらえそうにない」
「そっか、じゃしょうがないな。大事にしろよ、それじゃ」
思った通り、遊びの誘いだった。今話したのはシエンだと、かけらほども疑っていない。
携帯を閉じる。
どうする。いっそ電源を切っておいた方がいいか?
毛布の下で金髪の頭が左右に揺れる。ため息をつくとオティアは携帯をマナーモードに切り替え、元通り机の上に置いた。
今のシエンに『トモダチ』と話すのは無理だ。次からも自分が出よう……迷わず、すぐに。違うと聞き分けられる人間は、電話なんかかけてこない。
少なくとも、今は。
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▼ 【4-19-4】迷子もう一人
ビリーは舌打ちして電話を切った。
「病気じゃしょうがねぇよな……」
相棒のユージーンも今日は都合が悪い。従姉の結婚式で、田舎から親戚どもが大挙して押しかけてきたとかで、晩飯は断固として家族と一緒に食べなきゃいけないらしい。
「どーすっかな……」
一人でふらふらしていると、どうしても目立ってしまう。それだけ、警察や善意の市民に『保護』される率が高くなる。
仕方がない、ツルむ仲間は現地で調達するとしよう。互いに名前も知らない、その場で適当に楽しくやれれば十分。幸い、その程度の顔見知りには事欠かない。
何だか、午後の授業を真面目に受けるのも面倒くさくなってきた。
いいや、もう今日の学校はここまででおしまい。俺が決めた。誰にも文句は言わせない。
肩をそびやかして学校を抜け出し、ふらふらと繁華街を歩いていると。
足ツボマッサージ看板の下でばったりと、見覚えのある奴と出くわした。生憎とそいつは、顔見知りの遊び仲間じゃなかった。
「ビリー!」
「げっ」
濃い褐色の髪に、やたらとくっきり鮮やかなターコイズブルーの瞳。テリーだ。同じ里親の元で育った卒業生。
何かと自分のことを気にかけて、あれこれ世話を焼くおせっかい。
素早く身を翻して駆け出した。
「待て!」
だが、運悪く荷物を満載した台車が目の前を塞ぎ、進路を断たれる。横合いの路地に逃げ込もうとした時にはすでに遅く……
かすかに薬品の香る手が、がっしりと襟首を引っつかんでいた。
「くっそ、放せよっ」
「ダメだ」
「……大声出すぞ」
「かまわん、警察にでもどこにでも行く。この手は絶対、放さない」
なけなしの脅しも不発に終った。ビリーは観念し、ふてくされた顔でじとーっとテリーをねめつけた。
「あンだよ。このまま家まで引きずってくつもりか。お袋にでも頼まれたってか?」
「話がある」
「はぁ?」
くいっとテリーは片手をしゃくり、すぐそばのハンバーガー屋の看板を指さした。
「とりあえずバーガーでも食ってかないか」
「……メガな」
「ああ」
「ドーナッツもつけろよ」
「いいだろう」
「ポテトはLサイズ以下は認めない。それとシェイクもな。イチゴだぞ、イチゴ! バニラは却下!」
「OK……」
金額からして絶対無理だと思った。半分いやがらせのつもりで吹っかけたのだが、テーブルにはリクエストした通りの品がどんどんっと並んでいた。
うず高く積み上げられたメガサイズのバーガーが二つ。ポテトのLサイズにジェリードーナッツ、そしてイチゴシェイクが二人分。
(わざわざ全品俺に付き合うつもりかよ……こいつ、阿呆か?)
「よく金があったな、貧乏学生」
「心配すんな、バイトしてるから」
「バイト?」
「ああ。シッターやってるんだ。知り合いの家の3歳児と………犬」
「犬?」
「シェルターから引き取られてきたばっかで、人間のこと怖がってんだ。俺は犬が専門だから、手伝ってんだよ。躾とか、コミュニケーションの取り方とか、散歩とか、色々」
「ふーん」
「見るか、写真。こっちがディーンで、こっちがサンダー」
「子どもも犬も同じ扱いかよ………わ、でけぇ!」
携帯の画面には、もさもさの黒い犬が写っていた。耳はたれていて、目尻が下がってる。ぬいぐるみのクマみたいにあどけない顔立ちだが、既に頭が大人の膝の高さを越えている。
「たぶん、レオンベルガーって犬種の血が入ってるんだな。これでも子犬なんだ」
「どんだけでかくなる気だよ、このイヌは!」
「本人に聞いてくれ」
「はぁ?」
テリーはがぶっとメガサイズのバーガーをかじると、猛烈な勢いでもしゃもしゃと咀嚼し、ごっくん、とシェイクで流し込んだ。
それからおもむろにぐい、と口元を手の甲で拭い、じっと見つめてきた。わずかに緑の混じった空色。コマドリの卵色って言うらしいが、コマドリも卵も見たことがないから本当にそんな色をしているのか、わからない。
自分にとってこの色は、あくまで「テリーの瞳の色」だ。
何となく気まずくて目をそらす。だが、静かな声が追いかけてきた。
「犬の世話は毎日だ。だけど、こう見えても俺は忙しい。いつだってリクがあった時に行ける訳じゃない。だから、お前にも手伝ってほしいんだ」
「マジかよ!」
「バイト料弾むぞ? サンダーの飼い主はけっこう気前がいいんだ」
「ふーん……」
犬は嫌いじゃない。
四角い画面の中の犬は飼い主らしい人物の足にピタリと身を寄せ、上目遣いにこっちを仰ぎ見ている。正確には、写真を撮るテリーの手元を。ふと、鏡を見ているような奇妙な感覚を覚えた。
「……こいつ、でかい図体して人間のこと怖がってんだって?」
「ああ。前の飼い主に酷く虐待されてたらしい。保護したときはあちこち傷だらけだった。肋骨が折れてて、目も腫れてて……」
「………」
「左の目の上に、白いラインが入ってるの、わかるか?」
「ああ」
「ナイフで切られたか、棒で殴られたか。とにかく肉が抉れて、傷が治った後は白い毛しか生えてこなかったんだ」
「……」
無意識に拳を握っていた。
こいつも自分と同じなのか……。
「今でもそっち側に人が立つと、怒る。とてもじゃないけど、生半可な根性じゃ世話できない」
ビリーはこくっと咽を鳴らした。
無理だって言いたいのか? 怖けりゃ辞めとけって? 冗談じゃない!
「バイト料、忘れんなよ。絶対、間でピンハネすんな」
「OK、決まりだな。それじゃ、サンダーの飼い主に話通しとく」
携帯を取り出し、ぷちぷちとメールを打ちながらテリーはほほ笑みかけてきた。
「……今週の土曜と日曜、どっちが都合いい?」
やけに手際がいいじゃねーか! 俺、ひょっとしてハメられたのか?
「………………………土曜」
「OK」
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▼ 【4-19-5】★家族会議
2月14日にドクターがやって来た。
挨拶を交わしてからディフとレオンの先導で子ども部屋まで案内され、ドアをノックするとまず、オティアが出てきた。
「やあオティア」
「こんにちは、ドクター」
「シエンと話したいんだ。いいかな?」
「……」
ちらっと部屋の中を振り返る。
毛布を被ったまま、シエンがすがりつくようなまなざしを向けてきた。
一緒に居てもいいですか? 喉元まで込み上げた言葉を、こくっとディフは飲み込んだ。
「……隣の部屋にいるから」
穏やかな声でドクターが続ける。
「ドアも少し開けておこう。どうかな?」
もぞっとシエンの胸元で白い毛玉が動く。
「にー……」
「……猫、一緒でもいいか?」
「ああ、かまわないよ」
意を決してオティアは部屋から進み出た。入れ替わりにドクターが入る。約束通りドアを少し開けたまま、レオンとディフとオティアは隣の客用寝室へと移った。
「さて、と」
レオンはおもむろにポケットからトランプをとり出し、慣れた手つきでシャッフルした。
「黙ったまま待っているのも退屈だからね。ポーカーのルールはわかるかい?」
「………大体は」
「ファイブカード・ドローで黒のクイーンがワイルドカードだ」
レオンの後を次いでディフが説明した。自分たちが普段、遊戯室で遊ぶ時のルールだ。
「ジャックじゃないのか?」
「ありきたりはつまらないだろ?」
「了解」
「ハンデは……ヒウェルがいないから今回は関係ない、か」
「そうだね」
「ハンデ?」
「一回目のベットが済むまで、最初に配られた手札を見ない」
「それは、かなり不利なんじゃないか?」
「それぐらいで丁度いいんだよ」
「あいつは大学の学費の半分はポーカーで稼いでるからな」
「残りの半分は?」
ディフとレオンは顔を見合わせ、ほぼ同時に答えた。
「ビリヤード」
鮮やかに手札を配るレオンの手元を、オティアは思わずしみじみと観察してしまった。
「どうしたんだい?」
「いや、何でもない」
(……皿は落とすけど、カードは切れるんだな)
ベッドサイドのテーブルで、3人は黙々とカードを繰った。
こう言う時はうってつけの娯楽だ。何も考えずにひたすらカードを引いて、また捨てる。交わすのは必要最小限の言葉だけ。スコアはつけるが、掛け金は無し。
オティアが五回目のフルハウスを揃えた所で、廊下に人の出てくる気配がした。
「……!」
カードをその場で放り出し、オティアは部屋を出て行った。途中でドクターに目礼し、子ども部屋へと入って行く。
やや遅れてディフとレオンも廊下に出た。
「……先生、あの子は」
ディフの肩にそ、と手を置くと、レオンはリビングへと目線を送った。
「詳しいお話は、あちらで伺いましょう」
「そうですね、その方が良いでしょう」
居間のソファに腰を落ち着けると、ドクターは二人の保護者にカウンセリングで得たことを伝えた。淡々と要領良く的確に。
無理に引きずり出してはいけない。あくまでシエンが自分で外に出ようとした時に、彼をサポートしてやること。
最初から外出を目指さない。段階を踏んで、少しずつ馴らしながら行動範囲を広げて行くように。
「彼は、今、一緒に暮らしている人達を。あなた方を頼っています。依存していると言ってもいい。あなた方と彼らの関係は、法に義務づけられた関係や、血の絆に根ざした愛情と全く同じではない。だが、『家族』としての一つの形である事は確かなのです」
ディフが息を呑む気配が伝わってきた。手がわずかに震えている。レオンはごく自然に愛しい人の手をとり、握りしめた。
すぐに、くっと握り返してくる。
「俺は……俺たちは、どうすればいいんでしょう」
「離れていても繋がりが途切れることはないのだと、伝えてやってください。言葉や行動で。彼を守りたい、気にかけている、と」
「それは」
迷いながら言葉をつづる。十一月の最初の日、メリーゴーランドの前で交わした苦いやり取りを思い出しながら。
「それは、あの子にとって、負担になるのではありませんか?」
「マクラウドさん」
「はい」
「あなたが受け止めてくれると知っているから、シエンは真っ先にあなたに助けを求めた。少なくとも私はそう思いますね」
「あ……」
「多少嫌われても、あきらめないで。あの年ごろの子どもには、親はうっとおしがられるもんです」
「………はい!」
「軽い安定剤を処方しておきましょう。不安を訴えたら飲ませてやってください。それでは、お大事に」
「ありがとうございました」
ドクターの帰宅後、しばらくしてオティアがリビングに出てきた。
「シエンは?」
「眠った」
「そう……か」
「会いたいって」
「何?」
「エリックに。謝りたいって、言ってる」
オティアは小さくため息をつき、肩をすくめた。
「はっきり言葉に出した。先生と話して、決心したらしい」
「ふむ」
レオンはわずかに首をかしげた。
珍しいこともあったものだ。滅多に強く自分の意見を主張しないシエンが……いや、一度だけあったな。
去年の五月に。
『俺も、行く』
『ディフは俺を助けに来てくれた。工場の時も。撮影所の時も。だから、俺も、行く』
あの時と同じレベルの『決心』なら、覆すのは困難を極めるだろう。
それにさっきドクターも言っていたではないか。外に出ようとする彼の意志をサポートするように、と。
薄々こうなる予感はしていた。だからこそ、スヴェンソンに完全な拒絶を言い渡すことなく、門を細く開けておいたのだ。
「どうする? 今の状態では、彼に来てもらうしかなさそうだが」
むっとした顔でディフが腕を組み、唸った。
「直接会わせるのは、気が進まん」
「俺も同じ意見だ」
「……だろうね。ドア越しではどうかな?」
「む……」
「もちろん、一対一ではない。それぞれに介添人を付ける。シエンにはオティアが。スヴェンソンくんには君が付きそうんだ」
「………」
「………」
大きい赤毛と小さな金髪。サイズも骨格もまるで違う二人は同じ表情で腕を組み、口をヘの字にしてしばらく考え込んでいた。
やがて、オティアが渋々口を開いた。
「………ドア越しなら」
「良かろう。ドア越しなら、な」
「OK」
レオンはゆっくりとうなずき、ほほ笑んだ。
「いつにする?」
「土曜。俺が家に居られる」
「では、スヴェンソンくんには君から伝えておいてくれ」
「わかった」
これでいい。
ディフが気乗りしないことは、敢えて率先して自分で仕切るに限る。主導権を握ることで、結果的にリスクを最小限に抑えることができるのだから。
「っと、薬、とってこなきゃな」
立ち上がりかけたディフの手から、レオンはすっと処方せんを受け取った。
「これは、俺が」
「でも」
「ついでだよ。事務所にも顔を出して来たいしね。君は、あの子たちに付いてやっててくれ」
「……わかった」
※ ※ ※ ※
「ただいま」
「お帰り……え?」
戻ってきたレオンの手には、シエンの薬のみならず、なぜかマーガレットの花束とリボンのかかった平たい箱が一つ、抱えられていた。
「プレゼントだよ」
「え? え? あ………」
「今日は何の日だったか覚えてるかな?」
ディフは目をぱちくりさせて壁のカレンダーを見て、腕時計を見て、目を丸くして。仕上げに、ぱかーんと口を開けた。
「そっか……今日は、2月14日………あー……」
「そう言うこと」
にこにこしながらレオンは花束をがっしりした手のひらに滑り込ませ、素早く唇を重ねた。
幸いオティアの姿はなく、ヒウェルの気配もない。だから心置きなく濃厚なキスを堪能することができた。
もっとも、彼らのどちらか、あるいは両方が居たところで遠慮するつもりはさらさらない。やることも、いささかも変わりはしない。
強いて違いをあげるとしたら、ディフが恥じらう事ぐらいだろうか……それもまた、悪くない。
「ふ……はぁ………」
ようやく解放され、息をはずませ、頬も首筋も目の縁もいい具合に赤く染めながらもディフがほほ笑んだ。
「ありがとう。すげえ、うれしいよ……でも、いいのかな、こんな時に」
「こんな時だから、だよ。君まで悲しい顔をしていたら、あの子たちも悲しくなってしまう」
「あ……そうかっ」
「君はこの家の太陽だからね」
どう働き掛ければディフが前向きになるか。素直に喜ぶか。レオンハルト・ローゼンベルクは全て心得ていた。
そしてディフもまた、レオンの言うことは全て受け入れるのだった。まるで乾いた土が水を吸うように素直に、自然に。
「こっちの箱は?」
「開けてごらん」
「よし、じゃあ遠慮なく開けるぞ」
リボンをほどきつつ、ディフはちらっと上目遣いに夫の顔を見上げた。
「ごめん。俺、何も準備してなくて」
あどけない笑みが答える。
「夕食は、ミートパイがいいな」
「まかせろ! お前のために、気合い入れて作る!」
(ああ、それでいい)
『お前のために』
(その言葉こそが。君が俺だけを見て、俺のことだけを考えてくれる瞬間こそが、最高のプレゼントだ)
はらりとリボンがほどけ、箱のフタが開く。
中には、一見してスキューバダイビング用のスーツに似たウェアが入っていた。半袖、ハイネック、上は首筋から下はひざまでぴっちり覆う構造になっている。
「これ……」
「水着だよ。これなら、君も人目を気にせず泳げるだろう?」
「あ……」
目を潤ませ、ふーっ、ふーっと髪が舞い上がるほどの勢いで息を吐いている。嬉しいのと、恥ずかしいのが一緒になって言葉が出ないらしい。ヘーゼルブラウンの瞳の縁にちらちらと、若葉の緑が揺らぎ始めていた。
手をのばして、くしゃくしゃと柔らかな赤い髪をかき回してやった。犬の子でもなで回すように、無造作に。
「よせよ、くすぐったい」
顔をしかめる。だが手は払いのけず、逃げる気配もない。
「また、一緒に泳ぎに行こう」
「……ああ、いつでも行ってやる」
「嬉しいね。ああ、だけど」
耳元に顔をよせ、ささやいた。
「着衣水泳は勘弁してほしいな」
青い光に満たされた、深夜のプール。水の中で抱き合い、交わした濃密な口付け。
甘い記憶そのままにどちらからともなく腕を絡め合う。二度目のキスが始まろうとしていた。
次へ→【4-19-6】ドアの向こうに
▼ 【4-19-6】ドアの向こうに
「それじゃ」
軽い感じで別れの挨拶をして電話を切った。
バイキングが家に来てから、一週間が経過した。
引き出しにしまったハンカチは、まだ取り出された気配はない。
あれから何度か『トモダチ』から電話がかかってきたが、シエンが手にとることはなかった。
相変わらず俺が代わりに話す。
『遊びすぎて外出禁止になった』と伝えたら、簡単に納得して引き下がる。その程度の軽い付き合いでしかない仲間だ。気付かれる心配はない。
長時間一人でいると警察や店員に目をつけられやすい。
利害の一致と、わずかな仲間意識でゆるく結ばれただけの、目的のない集団。そういう付き合いは気楽だけれど、シエンには向いていない。
何だってそんな仲間に加わったのか、疑問だった。だが、遊び仲間の一人が、中学で少しの間同じクラスだったビリーだと知り、納得がいった。おそらくあいつも俺達と同じ境遇だったんだろう。
実際、ほとんどの『トモダチ』からは一度か、せいぜい二度、電話が来ただけだったけれど、ビリーからはメールも含めて4回。
『病気治ったか』
『叱られてないか。俺も兄貴にとっつかまった。しばらく出られない』
最後の電話では、ドッグ・シッターのバイトを始めたと言っていた。あいつも真っ当な里親の家で暮らしてるらしい。少なくとも、今は。
電話を閉じて、机の上に乗せる。
アレックスがこの携帯を用意してくれた時、中に入っていた情報は俺もシエンも同じだった。
だけど今は違う。俺の携帯には動物病院やアニマルポリス、そしてエドワーズ古書店の番号が登録されている。シエンの携帯には、俺の知らない『トモダチ』と、そして……
ハンス・エリック・スヴェンソン。金髪眼鏡の、海色の眼をしたバイキング野郎。ふわふわととらえ所が無く、何を考えているのか今一つかみづらい。
一緒にいると、イライラする。何だってシエンはあんな、クラゲみたいな奴のことを気にかけてるんだ?
小さい頃から二人きり、どこに行くのも一緒だった。
俺達を取り巻く環境は悪化する一方でも、一人じゃなかったからふんばれた。お互いに相手を唯一のものとして守ってきた。
二人だけでいるなら、特に会話は必要なかった。一言も発しなくても、何がしたいのか、どこに居るのかわかっていた。
まるで自分の一部分であるかのように。
それが……1年もたたないうちに、何を考えてるのかもわからなくなるなんてな。
今、俺は何か言おうとして、結局何も言えずにいる。変わらないのは、シエンを守りたいという願い、ただそれだけだ。それすらも、今は俺だけのものではなくなったけれど。
今の俺たちは、過去の暮らしからは考えられないような生活をしている。
食事は毎日きちんと食べているし、服も新しくて清潔で、もちろん家は文句のつけようもない高級マンションだ。
それに不満があるわけじゃないが、俺はいつまでたっても慣れない。
ふとした瞬間にあるどうしようもない違和感と、恐れ。
以前それをぽつりとこぼしたら、シエンは「しょうがないね」っていつもの顔で笑っていたけど。
本当は。
馴染んでいたように見えたこいつのほうが……ずっと違和感は強かったのかもしれない。
(本当に、俺たちはここに居ていいんだろうか?)
(いつか、何の前触れもなく急に放り出されるんじゃないか?)
ぼんやり考えていたら、小さくノックの音がした。一瞬、シエンがびくっと肩を震わせるが、聞こえてきた声にほっと表情を和らげる。
「飯、できたぞ」
「今、行く」
わずか一週間の間にシエンの行動範囲は広がっていた。部屋から廊下、そして食堂へと。まだキッチンで食事の仕度を手伝うまでは行かないけれど、それでも大した進歩だ。
一時期は部屋から出ることもできず、食事もここまで俺が運んでいたんだから。
『会いたい』
『顔が見たい』
『会えるようになりたい』
その気持ちがシエンを前に動かしている。相手があのバイキング野郎だってのが、唯一気にくわないけれど。
食堂にはトウモロコシの焼ける香りが漂っていた。どっしりとした食卓には料理が並べられ、床の上にはオーレ用のカリカリと水が用意されている。
頑丈なクルミ材の椅子に座り、焼き立てのコーンブレッドを口に運ぶ。
強弱の波はあるものの、相変わらず違和感は消えない。これからも決してゼロにはならないだろう。
だけど少なくともここは……安全な場所(セーフゾーン)。
※ ※ ※ ※
夕食の後、シエンを部屋に送り届けてから、改めて居間に引き返した。
キッチンでディフとヒウェルが皿を洗っていた。腕まくりをして、シンクの前で並んでカチャカチャと。
「よう、どうした?」
声をかける前にヒウェルが振り向いて、手を振った。洗剤の泡がびしゃり、とディフの顔に飛ぶ。
「……貴様」
「悪ぃ! わざとじゃないんだ」
「たりめーだ、わざとならタダじゃおかん」
へこへこと謝りつつ、キッチンタオルをさしだしてる。ディフは黙って受け取り、ぐいぐいと顔を拭った。
そろそろ話していいかな。
「ディフ」
「何だ?」
「……仕事………」
「ああ」
「俺が仕事休んでから、そろそろ二週間だ。事務所の仕事、溜まってるんじゃないか?」
「ん……そうだな、事務処理が溜まってる」
気にするな、とは言わない。仕事に関してはいつもそうだ。若干のクッションを挟む事はあるけれど、決して気休めやごまかしを打たない。
「やっぱり、そうか……」
「なあ」
ヒウェルがすちゃっと手をあげた。今度はちゃんと洗剤の泡は落としてある。
「オティアの仕事って、パソコン使ってるだろ?」
「ああ」
「だったら、ネット経由で在宅勤務すりゃいいじゃん。こっちにパソ一台用意してさ?」
「なるほど、その手があったか」
「この家、無線LAN環境、設置してあるし? って言うか俺が繋いだ訳ですが……」
「そうだったな」
「セキュリティも、アレックスがパーフェクトに手配してくれたから心配ないし!」
目を輝かせて、ものすごく活き活きしてる。ちょっと薄気味が悪いくらいだ。
「さすがに子ども部屋から繋ぐの難しいかも知れないけど、中継器一台増やせば問題ないだろ!」
「確かにそうだが、パソコンがな。ノートパソコンは俺が使ってるし、事務所のを持ってくるにしてもかさばるし」
「あー心配ない、心配ないノーパソなら、俺んとこに一台使ってないのがあるんだ」
うきうきした口調で言いながら、ヒウェルは手をもみしだいた。
「明日、中継器買ってきてつけてやるよ! 大船に乗ったつもりで任せとけ!」
次の日、本当にヒウェルはノートパソコンと中継器(無線ルーターとか言っていた)を抱えてやって来た。
「ルーターはリビングにつけとくよ。これなら子ども部屋でも、お前の部屋でも使えるだろ?」
「ん」
「パソそのものは一昨年のなんだけどな。OSは最新のを入れといた」
「……ああ」
「どうした?」
「リンゴじゃない」
「ああ。こっちはWindowsだ。仕事柄、こっちじゃないと使えないソフトが必要になる場合もあるんでたまに使ってたんだが……Macの上でも、Windows用のソフトを走らせる事ができるようになってさ」
なるほど、それで『使わなくなった』のか。
ノートパソコンを立ち上げて、しばらくヒウェルはかちかちとやっていたが、やがてぽん、と手を打ち合わせてこっちに向けた。
「……よし、これで無線LANにつながった。電波状態も極めて良好!」
「………」
「使い方、わかるよな?」
当然。
まっさらで手の入ってない状態のマシンを触るのは始めてだ。一通りビジネス用のソフトは入っているらしい。
事務所で自分が使ってるのと同じ環境に整えるまでに、少し時間がかかりそうだ。
必要なデータは、あとでディフにメールして送ってもらうとして……。
「あー、その、オティア」
「何だ、まだ居たのか?」
ほへっとため息一つつくと、ヒウェルはごそごそとビニール袋から四角い箱をとりだした。
てっきりパソコン用の何かだと思っていたが、違ったらしい。
袋のロゴはトイザラス……おもちゃ屋か。
「あー、その、これ……」
「何だ、これ」
「プレゼント」
「もらう理由がない」
「そ、そりゃ、まあ、うん、そろそろ3月だし、バレンタインにしちゃいい加減遅いけどっ、そのっ」
「……」
バレンタイン。
2月14日……ドクターが往診に来た日だ。確か、あの日は食卓にマーガレットが飾ってあった。おそらくレオンがディフに贈ったんだろう。
「そう言うことか」
「う、うん、そう言うことっ」
外したリボンはオーレが大喜びでくわえて行った。床の上で爪で引っかけて放り投げたり、くわえて走り回ったり。
包み紙をほどくと、中から出てきたのは『探偵セット』。
「何で探偵セット?」
「探偵だろ? おまえ」
「それはディフだ。俺は助手」
「いちいち細けぇな! 助手だろーがアシスタントだろーが、探偵事務所でお仕事してることに変わりはないだろ!」
一理ある。けれどこいつが言うと、そこはかとなくうさんくさいのは何故だろう?
セットの内容は指紋採取キットや繊維分析キット、水に溶けるメモ、血液判定薬、紫外線ペンライト、簡易顕微鏡まで入っていた。
ざっと箱の説明書きを見ただけでも、色々な実験ができそうだ。ずっと家にこもりっきりで時間をもてあましている事だし、丁度いい。
「……ありがとう」
ヒウェルは目の周りをぽやーっと赤くして、口元をむずむずと引きつらせた。と、思ったらあっと言う間にぽぽぽぽっと、顔中に赤いのが広がってく。
汗まで噴きだしてる。
大丈夫か、こいつ。熱でもあるんじゃないか?
「あー……」
「ヒウェル?」
ぱちぱちとまばたきしながら、ヒウェルはしとろもどろにつぶやいた。
「どう……いたし……まし……てっ!」
ソファの上からジャンプしたオーレが、よれたシャツに爪を立ててぶら下がっていた。
次へ→【4-19-7】サリー参上
▼ 【4-19-7】サリー参上
3月の最初の土曜日は、珍しくぽかぽかと暖かい日だった。ずっと続いた冬の冷気に細かなヒビが入り、ほんの少し春の暖かさがこぼれたような、気持ちのいい昼下がり。
「こんにちわ!」
「やあ、サリー」
サリーがやって来た。
「すごい荷物だな、一人で大丈夫だったのか?」
「ええ、テリーに送ってきてもらったし」
シエンとオティアも出迎えて、みんなでキッチンまで荷物を運ぶのを手伝った。
ただし、レオンを除いて。
「それじゃ、行ってくる。シエンとオティアを頼む」
「はい。任せてください」
連れ立って部屋を出るレオンとディフを、サリーはにこにこしながら見送った。
「ごゆっくり!」
本日の役割は獣医さんではなく、『ベビーシッター』。
ローゼンベルク夫妻は久しぶりに2人そろっての外出。行き先は知り合いの経営するジム。まずは軽く体を動かして、それから一緒にプールで泳ぐのだ。
足下にとことことオーレが歩み寄り、体をすり寄せる。
「こんにちは、オーレ」
「んにゃあああん、なおーん、なおーん」
「……そう、がんばったんだね」
「みゃっ」
「えらい、えらい」
目を細めて白い猫をなでると、オーレはごろん、と床にひっくり返り、なぜかサリーを後足で蹴ってずり、ずり、とスライドを始めた。
嬉しくて自分でも何をしてるのかわからなくなってきたらしい。
「さてっと」
かばんから白い割烹着を取り出し、いそいそと身にまとう。キッチンでは、既にストライプのエプロンを身に付けたシエンとオティアが待っていた。模様もデザインもおそろい、違いは色だけ。シエンのはパステルグリーン、オティアのはネイビーブルー。
「今日は何を作るの?」
「押し寿司だよ」
「夕飯には、少し早いんじゃないか?」
「下ごしらえにけっこう手間がかかるし、作ってから時間を置いた方が味が馴染むんだ」
「そうか」
「それじゃ、まずはエビを解凍して……」
「サリー、それ言っちゃだめっ」
「え?」
時既に遅し。
ぴょいーんっと白い弾丸が飛んできて、サリーの足にしがみついていた。青い瞳を真ん丸に見開き、らんらんと光らせて。
「んにゃぐ、にゅぐ、ぎゅるるるるるっ」
「……そう………好物なんだ………」
「んぎゃっ、んびゃっ!」
※ ※ ※ ※
「オシズシって、巻きずしとどう違うの?」
「んー、まず、巻かない」
「じゃあ、握る?」
「握らない」
「えっ」
シエンは目をぱちくり、首をかしげる。
「巻かないし、握らない、それなのに、スシ???」
「うん。酢で調味したご飯に、魚や卵、海苔なんかの具をあしらった料理を『スシ』って呼ぶんだ」
「……なるほど、形状にはこだわらないのか」
「そうだね」
コンロの上では、カンピョウやシイタケ、レンコン等の野菜がことことと、ソイソースと魚ベースのスープで煮込まれている。
どれも巻きずしの時より、細かく刻んであった。
オティアが炊き上げた米を寿司桶にあける。すかさずシエンがさっぱりめに調合した寿司酢を混ぜて、ぽっこり山にして蒸らす。
「そうそう、上手い上手い」
「前にサリーがやってるの見たし……あれから何回か作ったから、スシ」
「みたいだね。この桶、けっこう使い込まれてる」
「ディフが巻くと、ちょっとつぶれちゃうんだ」
「力入れ過ぎちゃうのかな?」
「……みたい。きっちり巻かないと気が済まないみたいだし」
馴染ませた酢をあおぐためのウチワも、いい具合に表面がすり減っていた。
こうして酢を『切った』飯を、まず三つに分ける。一部に煮込んだ野菜を混ぜて、一部は白いまま、そして残りには細かく刻んだ茹でたホウレンソウを混ぜた。
「本当は菜の花にしたいんだけど、あれは独特の苦味があるからね。そこが美味しいんだけど、苦手な人もいるし……」
「あー……そうだね」
「ん」
三人の頭の中には、同じ人物の顔が浮かんでいた。ひょろなが猫背で黒い髪、よれたシャツに細いネクタイをしめて眼鏡をかけた文系男子。
三色に分けたすし飯を、四角い焼き皿……普段はコーンブレッドを焼く時に使っているやつだ……に順番に敷き詰める。間に具材を挟み込みながら、平らに色違いの層を作る。
「何だか、ケーキみたいだね」
「お祝いの料理だからね……よいしょっと」
上から四角い皿を重ねてフタにして、重しを載せる。
「これで、しばらく落ち着かせる」
「つぶれないの?」
「これぐらいなら、大丈夫だよ。一休みしようか」
「うん。お茶入れてくるね」
ジャスミンティーと、月餅でティータイム。一口ほお張るなり、サリーはぱあっと顔を輝かせた。
「うわ、これ、すごく美味しい!」
「チャイナタウンで買って来てくれたんだ。ヒウェルが」
「そっかー、さすが慣れてるだけあるなー。甘さが自然で……うれしいなあ、こう言うの、こっちじゃあんまり食べられないから」
「餡にフルーツが練り込んであるんだって」
「だから、こんなにさっぱりしてるんだね!」
オティアは月餅には口をつけず、もっぱらサリーの土産のスナックをぽりぽりとかじっていた。指先ほどの丸い粒状になっていて、味付けは塩とソイソース。以前、持ってきてくれた「センベイ」と同じように米で作った菓子だと言う。
たまに、薄いピンクや緑をしたものや、花の形をした粒が交じっている。「ヒナアラレ」と呼ぶのだとサリーが教えてくれた。
「ねえ、サリー。このヒナアラレも、オシズシもお祝いの時に食べるんだよね」
「そうだよ」
「何のお祝い?」
「日本では、子どもが病気をしないで健やかに育つように願う桃の節句って言うお祭りがあってね。その時に食べるんだ」
「サリーもお祝いしたの?」
「うん、したよ」
確かに、した。従姉と一緒に2人並んでお振り袖を着て、ひな人形の前で写真も撮った。
(あの時は、何の疑問にも思わなかったなあ……)
ず……とジャスミンティーをすする。
女の子のお祭りだという事実は、あえて説明する必要もないだろう。
オティアはしげしげとヒナアラレの袋を観察した。
成分表示や商品の説明は日本語で書かれていた。そう、それが日本語だと言うのはわかる。だが、何て読むのか見当もつかない。
印刷された絵に何か手がかりがないだろうか……キモノを着た、男女のペアに見える。何かのキャラクターだろうか?
サリーはそんなオティアの視線に気付いた。
「ああ、それはひな人形って言ってね、お祝いの時に飾るんだ」
「クリスマスツリーとか、イースターのウサギみたいなものか?」
「……うん、そんな感じ」
ふと見ると、キッチンカウンターの隅にきれいな紙が置いてあった。何かの包装紙だろうか。きちんと折りたたんである。
手にとって確かめてみる。うん、色も綺麗だし、けっこうしゃっきりしてる。
「気分だけでも出してみようか。これ、使ってもいいかな?」
オティアはちらりと折り畳んだ紙を見て、うなずいた。
次へ→【4-19-8】召しませ白酒
▼ 【4-19-8】召しませ白酒
西の空が赤く染まり、東に向かって徐々に薄紫から藍色に変わるグラデーションを描く頃。
レオンとディフが戻って来た。腕を絡めてぴたりと寄り添い、軽やかなささやきとほほ笑みで互いの耳をくすぐりながら。
2人とも髪の毛に湿り気が残り、ディフの赤い髪はいつもより強くカールがかかっていた。
「ただいま……おわ?」
「おや」
居間に入るなり、ぱぱとままは目を丸くした。ローテーブルの上にずらりと紙が並んでいた。それも、ただの紙ではない。きちんと折られて、半ば立体的な形に整えられている。しかも鳥や船、花、カエル、人形っぽい形になってるやつもある。
「おかえりー」
「これ……どうしたんだ」
「オリガミ。サリーが教えてくれたんだ。これ便利だよ」
そう言ってシエンは紙で折った箱を手に取った。
「チラシとかコピー用紙で簡単に折れるんだ。クリップとか、ピーナッツの皮とか、いろいろ入れられるでしょ?」
「なるほど、実用的だな」
「うん」
「こっちのトンガリ帽子みたいなのは何だ?」
「カブト。サムライの被るヘルメットなんだって」
「ああ……なるほど」
言われてみれば、そんな形に見えてきた。
「お帰りなさい。夕食の準備、できてるよ」
「すっかり任せちまったな、サリー。世話になった」
「ううん、楽しかったし。こう言う料理って一人だと作らないからね」
「腹減ったー。今日の飯、何?」
のっそりとへたれ眼鏡がやってきた。
「……いいタイミングで来たな」
「おわ、何だ、このオリガミの山は!」
一目でわかる辺りはさすが物書き、この手の知識量はハンパなく多い。
そして食卓の一角には、オリガミで作った人形らしきものが一対、並べられていた。キモノを着た男女のペアで、ご丁寧に顔まで描いてある。
「これも、オリガミか」
「うん。おひなさま」
「オヒナサマ?」
「今日は3月3日だからね」
サリーの言葉に、ヒウェルがごく自然に頷く。
「ああ、ヒナマツリ」
シーザーサラダにナスとトマトのマリネ、メインの押し寿司は型から抜いて、一番上にスモークサーモンや茹でたエビ、スライスした卵とアスパラをトッピングしてきれいに飾り付けてある。
「これはスクランブルエッグじゃないんだな。リボン……いや、糸みたいになってる」
「薄く焼いて、細かく刻んだんだ」
「何だって食べるものにそこまで手間をかけるかねえ。どうせすぐ消えちまうのに!」
「んー、見た目がキレイだから? あとは食感かな」
「ケーキみたいだな。何だか食べるのがもったいないくらいだ」
ケーキを切り分ける要領で取り分けて、一人分ずつ皿に取る。お代わりの欲しい人はご自由に、付け合わせはハマグリのクラムチャウダー。
「本当は、塩味でうすく味付けただけのシンプルなスープなんだけど。ここはサンフランシスコ式にチャウダーにしてみました」
「オシズシに、ハマグリのスープ。なるほど、見事にヒナマツリの料理だな! でも、もう一つあったんじゃないか? ほら、White-Sakeとか言うアレ」
くいっとヒウェルがグラスをあおる動作をする。その手つきを見てサリーは秘かに思った。
(ああ言う動作って、万国共通なのかなぁ)
「白ワインじゃ代わりにならないかな?」
「それだ!」
「せっかくサリーが来てることだし、日本茶も入れるか」
すっきりとした辛口のカリフォルニアワイン。きりっと冷えたボトルを氷を入れたステンレスのワインクーラーに入れる。だが、グラスを傾けるのは酒飲みの大人が三人、果たしてワインがぬるくなるまで、中味が残っているだろうか?
「おお、白ワインに合うな、これ」
「魚介類がメインだからか。酸味が利いてるのもいいな」
「じゃ、俺も一杯だけ」
そーっと差し出されたサリーのグラスを、ディフは静かに、だがきっぱりと制した。
「君は、やめとけ」
「えー」
「……うん、その方がいいね」
「そうだな」
うなずくレオンとヒウェルの脳裏には、桜色になって、すっかりぺろんぺろんにでき上がったサリーの姿が浮かんでいた。忘れもしないクリスマスの夜、そりゃあもう、頭にお花が咲いてそうなくらいにごきげんだった。
(テリーといい、ディフといい、どうして皆、お酒飲ませてくれないのかなあ。俺が23歳だって、ちゃんと知ってるはずなのに)
小さくため息をつくと、サリーは素直にお茶をすするのだった。
(いいや。家で飲もう。でなきゃ、ランドールさんと一緒のときにでも)
食堂の片隅では、オーレがカリカリのエビのスープ寄せを上機嫌で食べていた。
この家唯一の女の子。本来なら、今日の主役は彼女のはずなのだが……。
「んにゃぐぐぐ、にゃぐぐぐるにゅう」
ぴちゃぴちゃと美味しいスープをなめて、途中でちらりと王子様を見上げる。こっちを見て、にこっと笑ってくれた。うれしくて、うれしくて、尻尾がぴーんっと垂直に伸びる。
「にゃー」
ふかふかの白い毛皮をまとった青い瞳のお姫さまは、王子様がいて、エビがあればご機嫌なのだった。
※ ※ ※ ※
「それじゃ、ごちそうさまでした」
「いや、むしろごちそうになったのはこっちの方だ」
ディフはがっしりした手で華奢なサリーの手を握りしめた。力を入れ過ぎないようにそっと、包み込むようにして。
「ありがとう、サリー」
「どういたしまして」
サリーはきゅっと握り返し、穏やかな笑みを浮かべた。それはまるで今日のお日さまのように、見ているだけでほんわりと、あたたかな金色に包まれる心地のするほほ笑みだった。
「シエンとオティアと一緒で、俺も楽しかったし」
「そう言ってもらえると……嬉しいよ、本当に。送ってかなくて大丈夫なのか?」
「うん、来るときかさばってたのはほとんど食材だったし、全部食べちゃったから」
サリーは風呂敷に包んだ炊飯器を、よいしょっと両手で抱えた。
「これも、中味は入ってないしね」
「そうか……あ、これ、土産だ」
ディフは無造作に紙袋に入れたボトルを渡した。
「夕飯の時に飲んだ奴と同じのだ。家に帰ってから飲んでくれ」
「ありがとう!」
「料理に使っても美味いぞ」
「わあ、贅沢……嬉しいな。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
ワインと炊飯器を抱えて、サリーは上機嫌で帰って行った。
見送りながら、シエンは思った。
あのオシズシって、いいな。野菜も、魚介類もいっぺんに取れるからバランスもとれてるし。
見た目がケーキっぽくて華やかだけど、甘くないからオティアも食べられる。
糸みたいに細かく切った卵の上にデコレートされた、スモークサーモンのオレンジとアスパラのグリーンがきれいだった。そして、フルーツみたいにきちんと並べたエビ。
(エリック、ああ言うの好きかな……)
たぶん、まだ食べたことはないはずだ。
また、作ってみようかな。巻くのでも、握るのでもないスシ。
※ ※ ※ ※
「ふぇーっ、ただいま……」
ビリーはくたくたになって家に帰り着いた。
ずっしりと重たい手足を引きずり、洗面所で汗と、土と、芝生と犬の毛とよだれにまみれた顔と手足を洗う。
売り言葉に買い言葉、成り行きでテリーのドッグシッターを手伝う羽目になった。子犬と遊んでバイト料もらえりゃ世話ないぜ、と軽く考えていたが、甘かった。
相手の馬力とサイズを計算に入れていなかった。
『これ、投げて』
『遊んで。遊んで。あーそーんーでー』
ゴムのワニを投げ、フリスビーを投げ、ボールを投げ、ロープをつかんで引っ張り合い。全力でぶつかってくる巨大なパピーに振り回され、夕方にはすっかりへとへとだ。
しかもあの真っ黒な毛玉野郎ときたら、飼い主とテリーの言うことには従うくせに、自分の言うことはとんと聞いたためしがないのだ。
待て。
座れ。
伏せ。
放せ。
聞こえてるはずなのに、知らんふり。好かれてるのは確かだが、どうにも、こう……なめられてる気がする。
(しょーがねーよな、まだ二回目だものな……)
どっしりとした、ふわふわの体。ぐいぐいと押し付けて、ごろりとひっくり返る。
パワフルに甘えてくる姿は、確かに可愛い。
だが。
『犬は信頼した人間の言うことしか聞かない』
「……くそ」
(懐くのと、信頼するのとは、別ってことかよ!)
荒々しくタオルで水気を拭い、居間に戻る。顔を洗ったら何だか余計にだるくなった。もう、部屋に戻るのもかったるい……。
どさりとソファにひっくり返り、目を閉じた。
と……。
もわっと、ふかふかしたものが被さってきた。
「うわっ、何だ?」
飛び起きると、明るいオレンジと黄色が目に入る。
ブランケットだ。やわらかなフリース、かぶって寝るにはいささか小さい。ほとんどバスタオルぐらいのサイズだろうか。
ばってんの口をした、白いウサギがプリントされている。
「……ああ?」
「かぜ、ひく」
くるくるカールした黒髪に浅黒い肌、くっきりと天然のアイラインに縁取られたアーモンド型の瞳。
すぐそばの床に、絵本を抱えた小さな女の子が立っていた。
「……お前のか、これ」
「みっしぃ」
「そりゃ、お前の名前だろ! こ、れ、は、ミッフィー!」
「……みっしぃ?」
「ミッフィー!」
「みっしぃ!」
このやり取り、何十回繰り返しただろう。どうやら、この小さな『妹』はまだ口がうまく回らないらしい。
「あーもー、いいや、ミッシィで……」
不毛なやり取りに疲れ果て、がくっと肩を落とす。すると、今度はにこにこして
「はーい」
返事なんかしてやがる。
「だーっ、もう、いいからあっち行けよ。俺は眠いんだっ」
びくっとミッシィは身をすくませた。
あまりに見慣れた動作にどきっと心臓が縮み上がる。
自分も同じだった。ここに連れてこられて間も無い頃、大きな声や物音を聞くたびに身をすくませ、手で顔を庇った。
今も、ともすると体が勝手に動きそうになる。
「あ……ごめん」
だけど、この子は目をそらさない。逃げ出しそうになったけど、一歩も引かない。そろそろと近づいてきて、ちょこん、とソファのすみっこに腰を降ろした。
あまつさえ、絵本を開いて読み出した。
「………わかった、好きにしろ」
ビリーは再び、ごろんと寝転がった。腹の上に小さなブランケットをかけ、ミッシィの邪魔にならないように、膝を曲げて。
やがて、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
ミッシイは手を伸ばしてブランケットをかけ直し、ビリーの頭をなで、それから頬にキスをした。
いつも自分がママにしてもらってるように、そっと。
「グンナイ、ビリー。いいゆめを」
(ベビーシッター/了)
次へ→【4-20】★倦怠期?
▼ 期間限定金髪巫女さん
- 拍手お礼用短編の再録、2007年1月。【ex10】水の向こうは空の色(後編)の後の出来事。
- 事件解決直後、緊張から解放されて寄り添って眠っちゃったロイと風見。その寝姿はしっかり写真に撮られて……
- こんな風に活用されちゃったのでした。
メリジューヌ事件の終結から四日後の土曜日。風見光一とロイは、いつものようにバイトに行った。
「こんにちわ」
「コンニチワ」
社務所の玄関をくぐると、待ちかねたように瓜二つの巫女姿の女性がにゅっ、にゅっと顔を出した。一人は羊子の母、藤枝。もう一人はサクヤの母、桜子。ちっちゃくてそっくりで可愛い、無敵の母さんsである。
「いらっしゃい、風見くん、ロイくん」
「待ってたわ!」
三上の去った結城神社はどことなく寂しくて、そしてちょっぴり忙しかった。人手が一人減ったのだから当然だ。
「風見くん、着替えの前に、太一郎さんの散歩をお願いできる?」
「わかりました」
「一時間コースでね」
「はい」
「ロイくんはこっちに来て」
「ハイ」
風見光一が部屋を出ると、母さんsはにまっと笑ってちょい、とい、と手招きをした。
「何デショウ」
「これ、見て」
かぱっと携帯を開くと、そこには……
「Oh!」
無防備に眠りこけるコウイチのどアップが! しかも、自分にこてんと寄り掛かっている。これは……
びゅうんっと記憶が巻き戻される。四日前に事件が解決した直後。緊張がとけたのと、疲れから居間で眠ってしまった。二人でぴったりと寄り添って。あの夜のほのかな思い出は、ひっそりと胸にしまっておいたはずだった。
まさか、こんな形で残っていたなんて!
「そ、その写真、ボクのケータイに転送してクダサイ!」
「きっと、そう言うと思ったわ」
瞳をくるくるさせて、二人の母さんたちはそろって小首をかしげた。
「いいわ、転送してあげる」
「私たちのささやかなお願いを聞いてくれたら、ね?」
「何でもどうぞっ」
「うんうん」
「きっと、そう言ってくれると思ったわ」
にこにこしながら、藤枝がぴらっと赤い布を広げた。
「あ……」
「まずはこっちに着替えてもらえる?」
「サクヤちゃんも、ヨーコちゃんもいないから、今ひとつ境内に華がないのよねー」
「ねー」
「御意!」
電光石火、ニンジャの早業。ロイ・アーバンシュタインは、わずか1ミリ秒で巫女装束を装着した。
もちろん、長くたなびく金色のエクステンションも忘れずに。
「いかがですか!」
「うん、上出来。じゃ、送っておくね」
「ハイっ!」
ぷちぷちと桜子が携帯を操作する。ほどなくロイの携帯にメールが着信した。
「おお……」
(コウイチの寝顔……コウイチの……コウイチのっ!)
携帯を開き、送られてきた写真を見て感動に震えていると……そろっと小さな手が伸びてきて、ひょい、と前髪をかきあげた。
隠されていた、青い瞳があらわになる。
「Nooooooooooooっ!」
慌ててロイは倍速ダッシュで後ずさり。慌てて前髪をばさばさと下ろして顔を隠した。
「な、な、な、何をするですかーっ」
「んー、さすが、おじい様ゆずりねー」
「美々しいわ」
「麗しいわっ」
「可愛いわー」
じりじりとW母さんsが迫る。
「隠しておくなんて」
「もったいない!」
巫女装束を着るのは既に正月で体験済みだ。忍術修業の一環と思えば受け入れられる。コウイチも似合うと言ってくれたし。
だけど、目を出すとなると! 素顔を晒すとなると!
「そっ、それだけはごカンベンをーっ!」
「んもう、ロイくんってば、シャイなんだからー」
「ケチ!」
頬をふくらませて拗ねるその顔は、あまりに羊子先生に似ていた。敬愛する先生と同じ顔に、思わず条件反射で『ごめんなさい!』と言いそうになるが……寸でのところで鉄の意志を振り絞った。
「それだけは、ご容赦ツカマツル!」
「しょーがないなー」
桜子がかぱっと携帯をひらき、ご老公の印籠のように掲げた。
「これが目に入らぬか!」
「ぬおっ」
そこには、さっきとは別の角度から写されたコウイチの寝姿があった。しかも、顔が寒かったのだろう。右手を軽く握って鼻と口を覆っている。まるで子猫のように、きゅうっと。
一目見た瞬間、覚悟を決めた。
「お……お手柔らかにお願いシマス」
「うんうん、それでいいのよ。素直な子って」
「だーいすき」
ロイは観念して両手を降ろし、W母さんsに身を……と言うか髪を委ねたのだった。
ちっちゃな手がクシを操り、てぎわよく梳かして整える。しかも、気がつくと何やらぺたぺた顔に塗られているような。
「なっ、何をっ」
「あん、動いちゃだめ、ずれちゃうでしょ?」
「大丈夫よ、巫女さんだから、ナチュラル仕上げだからね」
「な、ナチュラルって……いや、いや、お化粧だけハっ」
「……そう」
「やっぱり男の子に女装させるのは無理があったかしら」
「じゃあ、藤島さん……だっけ? あの子にお願いしましょうか」
「そうね、早速よーこちゃんに電話して」
「待ってクダサイ!」
どっかとあぐらをかくと、ロイは目を閉じた。
「存分にドウゾ!」
「きっとそう言ってくれると思ったんだ」
「はい、しゃべらないでね」
問答無用で頬をブラシがかすめ、眉が整えられ、口紅が塗られて行く。
その間、ロイは必死で自分に言い聞かせていた。
(コレハ修業だ! あくまで修業なんだ……修業……修業……)
「はい、できあがりっ」
おそるおそる目を開けると、目の前にずいっと鏡がつきつけられていた。
「どう?」
illustrated by Kasuri
「これが……これが、ボク……」
一瞬、まじまじと見入ってしまう。恐ろしいことに、自分で見ても、ちゃんと女の子に見える。
「ささ、それじゃ撮影に行きましょうか」
「撮影って、ええっ?」
「地元のタウン誌から取材が来てるの、今日」
「うちの神社に、金髪の巫女さんがいるって聞きつけたらしくって。ぜひ記事にしたいんですって!」
「インタビューと、写真を撮らせてくださいって!」
「ソ……ソウダッタンデスカ」
「記者さんがお待ちかねよ。まずはぽちとの2ショットからね!」
ああ。ハメられた。
涙目でなすがまま、W母さんsに手を引かれて行くロイの脳裏には、なぜか「ドナドナ」がエンドレスで流れていた。
※ ※ ※ ※
「ご協力ありがとうございました。それじゃ、見本誌ができあがったらお届けしますので!」
「ハイ、アリガトウゴザイマス」
大鳥居の前でにこにこしながら見送った。
取材にやってきたのは二人。記者さんは、さっぱりしてとても気持ちのいい女の人だった。
インタビューの途中、震える声で「バイトなので、いつもいる訳ではないのデスガ……」と伝えると、笑顔で「わかりました、では本文中にひとこと添えておきますね」とうなずいてくれた。
カメラマンさんは物静かな男の人で、動物の撮影にも慣れているようだった。おかげで、ぽちもほとんどストレスを感じず、いい顔で写真に収まってくれた。
「……」
あれだけ近くにいて、話をしたのに。プロのカメラマンが写真もたくさん撮影したのに、どちらにも男とばれなかった。自分の変装技術のレベルの高さに、ちょっぴり自信がついた。
ついたんだけど。
「はあああ……」
取材陣の姿が見えなくなった途端、がくっと力が抜けて思わず地面にへたりこむ。
その時だ。
ちりりん。鈴の音とともに、大きな四つ足の生き物がのっしのっしと近づく気配がした。
「あれ、ロイ、どうしたんだ?」
「コウイチ……」
そこには、金色の大型犬を連れた風見の姿があった。結城桜子とサクヤの飼い犬、ゴールデンレトリバー。首輪には大きめの『夢守りの鈴』がつけられている。その名も……
「太一郎さん」
「わふ」
わっさわっさと長い尻尾が左右に揺れる。
「散歩、終ったの?」
「うん。今日は一時間コースでお願いって言われたし」
大型犬なだけに、散歩も長いのだった。
「そっか……お疲れさま」
「そっちも何か大変だったみたいだな。タウン誌の取材が来てたんだって?」
「ウンどうしてそれを?」
「参道で写真撮ってた。それにしても、お前……」
風見は首をかしげてロイを頭のてっぺんからつま先までしみじみと見た。じっくり見た。何度も見た。
(ああっ、コウイチ、そんなに見つめないで……)
「何で、巫女さんになってるんだ?」
「こ、これは、その………」
ふるっと拳を握って肩を震わせる。言えない。コウイチの寝顔写真と引き換えだなんて、とてもじゃないけど、言えない。
「忍術修業の一環デ!」
「そうか! さすがだな、ロイ! どこから見ても完璧な女装だ!」
「アリガトウ!」
(ほめられた。コウイチにほめられた!)
「久しぶりに見たよ、お前が現実世界で前髪あげてるの……」
「あ」
風見は顔を近づけて、さらにまじまじと親友を観察した。
「あれ、もしかしてロイ、お化粧してるのか」
その途端、どーっとこらえていた何かが押し寄せてきて、ロイは背中を向けてしまった。
(ボクは、ボクは何てことをーっ)
単に女装をしただけではない。写真が(ローカルタウン誌とはいえ)雑誌に載ってしまうのだ。
今さらながらにこみあげる、強烈な羞恥心と怒濤の後悔。
がっくりとうつむいていると、ぽふっと肩に手が置かれた。いや、前足だ。金色のふさふさした毛におおわれた、どっしりした前足。
「わう」
「太一郎さん……」
太一郎さんは、ごろりとロイの目の前で横になり、お腹をさしだした。ツブラな瞳が見上げる。
(さあ、存分にもふりなさい)
「太一郎さーんっ!」
ロイは迷わず金色のふかふかした腹に顔をうずめ、もふった。もふりまくった。もふらずにはいられなかった。
そんな親友の姿を見守りながら、風見は思った。
ロイは太一郎さんと仲がいいなあ、と。
にこにこしながら、思っていたのだった。
さらに、そこから少し離れた植え込みの陰では……
「どう、撮れた?」
「ばっちし!」
にこにこしながら母二人。お顔をちょこんとくっつけて、デジカメのモニターで、今しがた撮影したばかりのほやほやの、『頬を染める金髪巫女さんと犬を連れた少年』のツーショット写真を確認していたりするのだが。
太一郎さんのもふもふの毛皮に顔を埋めるロイはまだ、その事実を知らない。
(期間限定金髪巫女さん/了)
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