ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【4-19-3】出られない!

2010/06/25 23:11 四話十海
 
 寒い冬の最中に雨に打たれたせいか……双子の熱は思ったより長引いた。さすがにその間ずっと俺が付きっきりでいる訳にも行かず、アレックスとソフィアが交代で付き添ってくれた。時には「今日はデスクワークだから」と、ヒウェルまで加わって。
 一進一退を繰り返しつつ、四日目からは少しずつ熱の出る回数が減り、口にする食事の量も増えて行った。

 そして、一週間が過ぎた。

「行ってきます」
「行ってこい。気を付けてな」
「にー」

 久しぶりに……本当に久しぶりに、オティアとシエンは二人一緒に玄関を出て行った。
 ほっと胸をなで下ろし、食事の後片づけに取りかかる。食器をざっと水で流して食器洗浄器にセットして、そろそろ自分の出勤準備にとりかかろうとしていると……玄関が開く気配がした。

「……え?」

 呼び鈴は鳴っていない。ってことは訪問者ではない。家族の誰かが帰ってきたのだ。
 ……まさか。

 急ぎ足で迎えに出ると、真っ青になったシエンを支えて、オティアが立っていた。

「どうした」
「シエンが……」
「っ!」

 どさり、と小さな体がしがみついてくる。がちがちと細かく震えていた。
 同じだ……雨の中、迷子になっていたあの時と。

「ディフ……ディフっ」
「…………大丈夫だ。大丈夫だから」

 首を横に振りながら、シエンはかすれた声でつぶやいていた。

「やだ……あそこには行きたくない……冷たい……こわい……やだよ……やだ……」

『あそこ』がどこのことなのか。
 誘拐され、監禁されていた『工場』か。人身売買組織とツルんでいた職員の巣くっていた施設か。
 それとも……調理室を改造して作られた、あの忌まわしい解体室なのか。
 過去に無理やり連れて行かれた恐ろしい場所。その記憶が今、生々しく蘇り、この子を苦しめている。
 錆びた刃物がじりじりと心臓を切り裂いてゆく。

(ずっと、お前をこうしたかったんだよ)
(愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ)

 ぎりっと唇を噛みしめ……静かにシエンを抱き寄せた。
 
「どこにもやらない。誰にもお前を苦しめたり、傷つけたりさせない」
「ディフ……っ」

 ずっと抱いていた。押し殺したすすり泣きが徐々に小さくなり、震えが収まるまで、ずっと。

「……部屋に、戻るか?」

 こくっと、うなずいた。
 部屋に戻ると、シエンはよろよろしながらバスルームに向かった。オティアに支えられて。途中で何度か振り返り、すがりつくような目を向けてきた。

「そこに居てね?」
「ああ。ここに居る」
「絶対だよ?」
「ああ」
「……シエン」

 半分オティアに引きずられるようにしてバスルームに入り、ドアを閉める間もなく苦しげなうめき声が聞こえてくる。
 ごぼり、ごぼりと水の逆流するような音。
 ……吐いたか。
 ひゅーっと咽を鳴らす音と、嘔吐の気配が交互に続く。もう、胃液しか出ていないはずだ……。
 口と手を洗うのはオティアがやるだろう。さしあたって俺は着替えを用意しておくとするか。体を締めつけない、楽なものを。
 ああ。
 レオンに電話しなくちゃな。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 眠りに落ちるまで、シエンはずっと俺の服を握って放さなかった。
 多分、こいつは一種の条件付けだ。
 死の臭いの漂う手術台からあの子を降ろしたのも。撮影所のそばで震えるシエンを拾い上げたのも。雨の中、震えるあの子を抱きしめたのも、全部俺だ。
 俺にすがれば、恐ろしい事から逃れられる。そう、記憶に染みついているんだろう。自分の身を守ろうとする本能だ。
 シエンが少しでも安心するなら、それでいい。だが……事態は深刻だ。オティアの時のように、また二人だけで不安に震えることのないように、きちんと対処しなきゃいけない。それには『家族』全員の連携が必要だ。場合によっては、専門家の助力も。

 ためらう暇はない。

 午後になって、俺たちは……レオンと、俺と、オティアとヒウェル、そしてアレックスとソフィアは居間に集まった。

「シエン、外に出られないのか?」
「ああ。マンションの出口で動けなくなったそうだ」

 精神の傷が、体を激しく蝕む痛み。視界が歪み、目に見えるものも、音も半分に欠ける、あの逃げ場のない絶望を伴う感覚は……
 俺にも覚えがある。
 舌の奥で蠢く苦味と酸味を記憶の底へと押しやった。

「戻ってから、吐いた」
「吐き気止めをご用意いたしましょう」
「頼む。ああ言うのは、癖になるから……な」
「予約をとっておこうか」

 レオンが静かに言った。メンタルクリニックのことだとすぐに分かった。

「オティアがかかっているのと同じドクターに。彼なら、事情も分かっているからね」
「往診、頼めないか」

 オティアが口を開いた。

「そうだな。今のあの子を外に連れ出すのは……」
「かえって悪化させちまう、か」

 うなずくと、オティアは一人一人の顔を順繰りに見回し、言葉を続けた。

「みんなが一緒にいた方が、シエンが安心する」
「わかった。頼んでみよう……ああ、そうだ」

 いかにもついで、と言った感じの軽い口調でレオンは付け加えた。

「スヴェンソンくんのことはどうする?」

 オティアが露骨に顔をしかめた。

「正直、二度とこの家には入れたくない。だけど……」

 子ども部屋の方をちらりと見て、小さくため息をついた。

「シエンは、会いたがってる」
「っかーっ」

 ヒウェルがぐしゃぐしゃっと髪の毛を掻きむしった。

「あのバイキング野郎が諸悪の根源だろ? なのに会いたがるとか、何で、そうなるかねえ。ああ、もうさっぱりわかんねぇ!」
 
 拳を軽く握り、口元に当てる。何と答えればいいのか。腹の中でもやもやするあれやこれやが言葉に固まらない。もどかしさを持て余し、人さし指の付け根に歯を立てる。
 鈍い痛みに我に返り、顎の力を緩めた。

「………どうすればいいのか。俺も、正直まだ迷ってる」
「ディフ」

 歯の痕の残る手が、しなやかな手のひらに包みこまれる。無意識に左の手を重ねていた。薬指の指輪が触れ合い、カチリと冴えた音を響かせた。

「あ」

 俺の目をじっと見つめながらレオンは静かに重ね合わせた手を口元から引き離し、噛み痕に口づけた。

「ドクターに相談してみたらいいんじゃないかな?」
「……そうだな。それが、シエンにとってプラスに働くのなら」
「異存はないね?」

 渋々うなずきかけたオティアが、いきなりぴくっと顔を上げた。

「なーおおお、ふなーーーーおおお」

 オーレが鳴いている。甲高い声で、遠吠えみたいに長々と呼んでいる。ちっちゃなナースは部屋で眠るシエンに付き添っていたのだ。
 一人きりにならないように。

「なーお、ふなーっ、ふみゃーっ」

 オティアは駆け出した。あっと言う間に居間を横切り、ドアを開け、見えなくなった。

「あっ、おい!」

 伸ばしたヒウェルの指先でばたり、と扉が閉まり、廊下を走る足音が遠ざかる。見送ってから眼鏡男はぎくしゃくとこっちを向いた。

「……行かなくていいのかよ、まま」
「ああ。今回はな」
「根拠は?」
「深刻なら、直接呼びに来る」
「オーレが?」
「うむ」

 頷き、改めて一同の顔を見渡す。
 アレックス、ソフィア、ヒウェル、そして最愛のレオン。

「おそらく、長期戦になる。今まで以上にみんなの協力が必要になる。助けて欲しい」

 ソフィアがほほ笑み、アレックスがきちんと一礼する。そしてヒウェルはぽん、と肩を叩いてきた。

「お前……」
「何だ」
「強くなったなぁ」
「そうか?」
「オティアがぶっ倒れた時は、あんなに真っ青になっておろおろしてたくせに……おごっ」

 ひとしきりヘッドロックを決めてから、ぽいっと放り出す。待ちかねたようにレオンが肩を抱いてきた。

「安心したよ。頼ってくれて」
「そうか?」
「何もかも一人で背負い込んだら、君までつぶれてしまうから……ね」
「あ………」

 頬が熱くなる。
 俺は。
 俺って奴はこの一週間、双子のことでいっぱいいっぱいになっていて。どれほどレオンに心配かけていたことか。寂しい思いをさせていたことか!

「………ごめん」

(ああ、やっと気付いてくれたね)

 人さし指で軽くディフの頬をなでると、レオンは満足げにほほ笑んだ。

「いいんだ」

 見つめ合う主人夫妻の邪魔をせぬよう、アレックスはソフィアの手を取り、静かに退出した。
 一方でヒウェルはソファに突っ伏し、ズレた眼鏡をかけ直しつつ、ぼやいていた。

「納得行かねー………何でいつも、俺ばっかり、貧乏くじ引くんだか……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 廊下を一息に走り抜け、オティアは部屋に飛び込んだ。
 
「にゃーっ」

 オーレがもわもわと毛を逆立て、机の上をにらんでいる。
 深い緑色の携帯電話が鳴っていた。
 シエンのだ。

 だが持ち主は毛布を頭からかぶってベッドの上で震えている。どうしても、出ることができないのだ。
 無造作に手を伸ばし、鳴っている携帯を拾い上げる。発信者の名前は『ビリー・フォスター』。

「……」

 確か、中学の時の同級生にそんな名前の奴がいた。
 仕事の関係でもない。家族でもない。夜遊び仲間の一人ってとこか。
 その程度の付き合いなら、シエンの代わりに自分が出てもわからないだろう。

「……ハロー?」
「よ、シエン! しばらく顔見なかったけど元気か? いつもの店に、新しいゲームが入ってんだよ。今夜あたり久しぶりにどーだ?」
「あー……ちょっと風邪引いて、寝込んでたんだ。まだ熱が下がらなくて、家から出してもらえそうにない」
「そっか、じゃしょうがないな。大事にしろよ、それじゃ」

 思った通り、遊びの誘いだった。今話したのはシエンだと、かけらほども疑っていない。
 携帯を閉じる。
 どうする。いっそ電源を切っておいた方がいいか?

 毛布の下で金髪の頭が左右に揺れる。ため息をつくとオティアは携帯をマナーモードに切り替え、元通り机の上に置いた。
 今のシエンに『トモダチ』と話すのは無理だ。次からも自分が出よう……迷わず、すぐに。違うと聞き分けられる人間は、電話なんかかけてこない。
 少なくとも、今は。

次へ→【4-19-4】迷子もう一人
拍手する