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ローゼンベルク家の食卓

【3-14-11】★★★ライオンと翼

2008/06/21 19:24 三話十海
 オティアとシエン、そして俺自身の引っ越しが終わった翌日。
 主治医からもらった名刺を頼りに、チャイナタウンのスタジオを訪れた。既に前日、電話でアポイントメントはとってある。
 
 なめらかな女性の声が答えた

「わかりました。駐車場は裏に。店内に入ったらカウンターの上のベルを鳴らしてください。それでは、明日」

 言われた通りに入って行くと、柔らかな中間照明に彩られた店内にはかすかに甘い香りが漂っていた。
 どことなく東洋の、それも南の国を思わせるインテリアが多い。過度に異国趣味を強調するでもなく、ロータイプの家具は見る者の目を圧迫しない。
 適度に床と椅子の境目があいまいで、植物を編んで作ったらしいラグが敷かれている。さらさらとして心地よい。
 何となくオティアの好みに近いものがあるな、と思った。
 
 今回の引っ越しでわかったんだが、あの子は床の上でごろごろするのが好きらしい。
 俺の住んでいた部屋はアレックスのコーディネイトのもと、双子が住みやすくなるようにリフォームされた。
 居間のソファはロータイプのものに変えられ、ラグも肌触りのよい、安全な材質のものに張り替えられた。素足で上を歩いたり、寝転んだりできるように。

 店内に人の気配はなかった。昨夜電話で言われた通り、木のカウンターの上に置かれた金属製のベルを鳴らす。
 シャラン……と、まるで月の光が結晶して、夜の空気の中で触れあうような音がした。

 奥のカーテンが揺れて、シャム猫が一匹姿を現す。そのすぐ後ろから、ほっそりした東洋系の女性が出てきた。
 うりざね顔で面長、切れ長の瞳に細く整えられた眉、つやつやと赤い唇。
 スパッツに覆われたふくらはぎに猫がすりより、細長い尻尾を巻き付けた。
 この飼い主と猫、とてもよく似ている。

「マクラウドさん?」
「……yes」
「お待ちしてました。店主のミヤコ・ヤシマです」

 奥に通される前に靴を脱ぐよう求められる。
 どうやら、スタジオ内部は基本的に床に座って生活するスタイルに統一されているようだ。

「もしかして、ジャパニーズ?」
「ええ。よくおわかりになりましたね? 場所柄、チャイニーズと思われる方が多いのに」
「どちらも友人にいるんです。あなたの名前と仕草はどっちかって言うと日本的だなと思って」
「なるほどね……それで、マクラウドさん」

 背の低い木のテーブルの向こうから、ミヤコはすっと切れ長の瞳を細めて問いかけるような視線を向けてきた。

「ご存知かと思いますが私の仕事は、人の肌に直接触れることです。プライベートは尊重します。けれど……差し支えない程度でいい。聞かせたくない事は伏せたままでいい」

 黙ってうなずく。タトゥーを消したい旨は既に伝えてあったが、それ以上に常ならぬ事情があるのだと察している口ぶりだった。

「できる限りの範囲でいいの。ヴェールを被ったままでかまわない。教えてください。あなたの事を」
「……夫がいる」

 さらりと黒髪が揺れた。うなずいたのだ。

「名前を消してほしいんだ。二度と彼の目に触れぬよう」
「見せていただけますか? あちらのつい立ての向こうで」
 
 背中のタトゥーを念入りに調べてから、彼女は言った。

「………これを刻んだ奴は………クレイジーね。さぞ、辛かったでしょう……」
「消せる……か?」
「消してみせる。これは言うなれば私と『彼』との1on1の真剣勝負」

 赤いルージュを引いた唇の口角が上がり、艶やかに微笑う。

「負けるものですか」

 その時、迷いが消えた。
 タトゥーを消しても記憶は消せない、事実も消せない。彼女は信用できる。自分の技に誇りを持った人だ。
 委ねてみよう。


 ※ ※ ※ ※

 
 話し合った結果、施術は週に一回、三回に分けて行われることになった。ミヤコはもっと小分けにすることを勧めてくれたのだが、俺が無理を言って短縮した。

 最後の施術の後はさすがに体がしんどくて。家に帰るなりソファに倒れ込み、しばらく動けなかった。
 だるい。
 背中がじりじりと熱い。
 少し……熱が出たか。

 茹ですぎたブロッコリーになった気分でぼんやりしていると、ふっと明かりが陰った。
 うっすら目を開ける。

「……ディフ」

 心配そうな紫の瞳が見下ろしている。いつの間に来たのだろう。全く気づかなかった。

「大丈夫?」
「ああ……もうちょっとだけ……待っててくれ」

 ソファに手をついて起きあがる。
 アスピリン、飲んどくか。鎮痛剤が効いてくれば、動けるようになるだろう。

 立とうとすると、そっと手首を押さえられた。

「治していい? これぐらいなら、俺にもできるから」
「……………………そうだな」 

 ゆっくりとうなずく。
 ここで無理したら、余計にこの子を。レオンを心配させてしまう。意地を張るのは、やめておこう。

「頼むよ、シエン」
「……うん」

 ほっとした表情を浮かべると、シエンは手を伸ばしてきた。
 背中に触れられても、恐ろしいとは………思わなかった。

 不思議なものだ。
 医者に手当を受ける時も。ミヤコの施術を受ける時も、どうしても緊張が抜けなかったのにな。

「終わったよ」
「ああ……ありがとう。楽になった」

 立ち上がり、くいっと髪の毛を一つにまとめる。キッチンに向かい、壁にかけた自分用のエプロンを手にとった。

「ディフ?」
「長い事さぼっててすまなかったな」
「ううん、料理好きだし。何つくるの?」

 いそいそと自分のエプロンを身につけている。

「そうだな……」

 冷蔵庫の中味を確認する。
 アレックスの管理は完ぺきだ。ひき肉もある。タマネギもある。牛乳とバターは言わずもがな、冷凍庫にはちゃんとミックスベジタブルも入っていた。

「久しぶりに焼くか、ミートパイ」
「うん。パイシートあるけど、使う? それともつくる?」
「……作る」
「はーい」

 シエンはいそいそとボウルと小麦粉をとりだし、準備を始めた。
 いい子だ。
 胸の奥が熱い。

 本当に……優しい子だ。


 ※ ※ ※ ※


 家に帰るとソファの上に、黒い肩掛けが置き去りにされていた。まるで抜け殻みたいに。
 キッチンからはパイの焼ける香りがして、ちょこまかと双子が出入りしている。

 そして、ディフが。
 焼き上がったパイを大皿に乗せて運んできた。きっちりと髪を一つに結わえて、見慣れたグリーンのストライプのエプロンを身につけて。
 俺に気づくとパイをテーブルに置き、足早に近づいて。
 自分からキスしてきた。

「……ただ今」
「お帰り」


 ※ ※ ※ ※


 その夜のこと。
 浴室から出てくると、彼は背を向けて髪をかきあげ、静かにバスローブを脱いだ。目を伏せて、わずかに恥じらいながら。
 思わず息を飲んだ。
 ローブの下、彼は何も身につけてはいなかったのだ……左手の指輪以外は。

「カバーアップしたから、元の絵柄より一回り大きくなっちまった」

 肩甲骨を覆い、背にかかるように柔らかな翼を広げたライオンが描かれていた。
 髪の色に合わせて、翼の付け根から先端にかけて明るめの黄褐色から赤褐色へとグラデーションがかかっている。

 カバーアップ。旧い絵柄の上から別の絵を入れ、タトゥーを消す方法の一つだ。
 刻印された文字は前より濃く、強い絵でなければ消せない。

「君が……選んだことなら」

 ディフは肩越しに振り向いて、囁いてきた。

「見せるのは、お前だけだ」
「……ああ。……とても……綺麗だ」

 肩に腕を巻き付けて、正面から抱きついてくる。
 ためらった。
 ほんの少しだけ。
 もうひと月以上、彼と愛を交わしてはいない。一緒のベッドで抱き合い、眠って、キスをして……だが、それだけだ。

 唇を重ねる。目を閉じて応えてきた。
 何度もキスをした。角度を変えて、くり返し。合間にささやかれる。

「抱いてくれ。もっと……強く」

 しっかりと抱きしめて、口づけを深めて行く。もう触れあわせるだけで終わらない。互いの中に舌を差し入れ、絡め合う。
 熱くなった彼の体がぴたりとすりよせられ、次第に息が荒くなって行く。

「消してくれ……奴らの手の記憶……レオン……」

 声が震えていた。
 うっすら開いたまぶたの合間からのぞくヘーゼルの瞳が潤んでいる。ほんの少し、緑の色をにじませて。

「……おいで」

 目元にキスをして、ベッドに横たえる。もうこれ以上我慢することはできなかった。
 ディフの体のすみずみまで唇と指先で愛でる。初めて抱擁を交わした頃よりもなお丹念に。かすめるだけの愛撫にすら素直に声を上げ、しがみついてくる。

 何度か我を忘れそうになった。
 ふつふつとわき起こる黒い感情の命ずるまま、無防備に身を委ねる彼を引裂き、むさぼりたい衝動に駆られる。
 その度に、背中を見る。
 しっとりと汗ばんだ肌がうねり、翼が羽ばたく有り様に目が引きつけられる。

(俺は、奴とは違う)

 不意に抱き寄せられ、耳元で囁かれた。

「いいよ……好きなだけ俺を壊せ」
「……できないよ……今日は……ね……」
 
 奥深く彼の体内に押し進み、堅く手を握り合わせたまま動き始める。
 乱れ切った息の合間に、何度も名前を呼ばれた。肩に立てられる爪の痛みさえ愛おしい。

「愛して……る……レオン……」
「愛してる。離さない。絶対に‥‥」

 わずかに緑を帯びたヘーゼルの瞳が、まっすぐに見つめてくる。

「離すな。俺も、お前を離さない」

 ほほ笑み返し、背に回した指先でタトゥーをなぞった。

「ぁ………」

 びくっと震えてディフはわずかに背を反らせ、湿った吐息を漏らした。

 大丈夫だよ。いずれ慣れるさ……しばらくは見るのがつらいけれど。
 それが君の選んだ事なのだから。

「愛してるよ……」

 彼の背に彫られたライオンは、翼を広げて護っているようにも……あるいは翼に包まれて安らいでいるようにも見えた。


(ライオンと翼/了)

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