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ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

2012年2月の日記

【5-4】風邪引きマクラウド

2012/02/18 23:08 五話十海
 
  • 1995年、11月のはじめ、じっとり湿った霧が続いた週のこと。サンフランシスコはあったかい、と油断していたディフは、うっかり風邪を引いてしまう。
  • 朝になっても起きて来ないルームメイトの様子をうかがうと、顔を赤くして汗ばみ、唸っていた。寮長に連絡したものの、レオンは途方に暮れる。「朝食はどうすればいいんだろう?」
  • 【3-3】okayusanの前日談。深窓の『姫』、風邪引きわんこを看病するの巻。
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【5-4-0】人物紹介

2012/02/18 23:09 五話十海
 
 def_s.jpg
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
 聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
 父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 「サンフランシスコはあったかいなー」なんて油断してるから……。
 
 
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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
 ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
 人との接触を好まず滅多に笑わない。
 その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
 突如自分の生活に割り込んできたガサツなルームメイトに苛々していたが、最近は一緒にご飯を食べている。
 壊滅的に不器用だが、奇跡的に紅茶とコーヒーを入れることはできる。しかも上手。
  
 
 hywel_s.jpg
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
 さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
 五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
 その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
 でも非力。この頃から非力。
  

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【結城羊子/ゆうき ようこ】
 日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
 通称ヨーコ。
 小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
 強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
 遠く離れた日本で従弟が寝込んでしまって心配。

【マイケル・フレイザー/Michael-Frazer】
 聖アーシェラ高校三年、ガブリエル寮の寮長。
 穏やかで公平、人望もある信頼できる先輩。
 ちょっぴり天然。
 面倒見は良いが、必要以上に他人には干渉しない主義。
 
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【5-4-1】鬼のかく乱

2012/02/18 23:10 五話十海
 
 霧はサンフランシスコの風物詩だ。
 ……なんて話には聞いていたが、実際に目にするまでディフォレスト・マクラウドは事態を甘く見ていた。

「せいぜい、朝方、遠くが少しもやっとするくらいだろ?」 
「お前ねえ。そんなテキサスくんだりの朝もやなんかと一緒にすんなよ? ここをドコだと思ってる」
「……サンフランシスコ」
「……」

 黒髪の同級生、ヒウェルは一瞬、拍子抜けしたような顔をしたがすぐに気を取り直してまくしたてた。

「そう、そーだよサンフランシスコだよ! アクティブなんだぞ。海側からもわもわとすっげー濃厚なのが押し寄せてくるんだ。町中すっぽり雲ん中に飲み込まれたみたいに真っ白になるんだよ」
「ごめん、想像できない」
「ったく」

 ひょいと片手で眼鏡の位置を整え、じとーっと目を半開きにしてねめつけてきた。
 なまじ愛くるしいリスのような風貌をしてるだけに、人相が三割増し悪く見える。

「知ってるか? サンフランシスコの霧はなあ、缶詰めして土産物で売られてるんだぞ? 文字通り『タダの霧』じゃないんだよ!」

 確かに土産物屋で見たことがある。興味を引かれたけど、さすがに買おうとは思わなかった。誰かからもらったら面白がったろうけど。
 その程度の認識だった。

「うはっ」

 11月の始め、唐突にその日はやってきた。
 朝、外を見たら白かった。
 窓の外が真っ白に塗りつぶされて、あるべきはずの庭木も、空も、遠くに見えるはずの校舎も視界から隠されていて……まるで自分の住んでる部屋が切り取られて、どこか見知らぬ世界にぽいっと放り込まれたような気分になった。

「すげーっ、すげーっ、ほら、見ろよレオン!」

 思わず窓を開けた。

「真っ白だ! 空気が牛乳みたいだよ、なーんにも見えない!」

 しかし、大はしゃぎするルームメイトに向けられるレオンハルト・ローゼンベルクの眼差しは、あくまで冷ややかだった。

「窓を閉めてくれないか、マクラウド。湿気が入る」
「………ごめん」

 さながら下賎の者どもの馬鹿騒ぎを横目で一べつする、王侯貴族のごとき威厳に滾る血潮は急転直下。すとーんと氷点下まで落ち込んだ。

(さすがに二年目になると、慣れるのかな)

 子供みたいにはしゃいでた自分が急に恥ずかしくなって、ディフは背中を丸めてそろっと窓を閉めた。

 霧の出る日は寒暖の差が激しく、冷え込みが厳しい。地元出身の生徒や、この地に住んで二年以上経過している上級生、あるいは下調べをきっちりしてきた要領の良い新入生にとっては周知の事実。
 だがテキサスの乾いた冬に慣れたこの野生児は……

「お前、そんな薄着で大丈夫かよ!」
「平気だって。サンフランシスコはあったかいよな! テキサスに比べりゃ天国だ!」

 そう、彼はすっかり油断していた。忘れていたのだ。霧の正体は細かい水の粒だってことを。
 物珍しさのあまり、上着も着ずに霧の中をふらふら歩き回った。
 結果として鮮やかな赤毛がいつもに増して強くカールし、くりんくりんになっても気にしない。着ていたトレーナーがしっとりしても着替えなかった。風呂にも入らなかった。
 見た目の「ふわふわ」にすっかり騙されていた。体が濡れて、実際に感じているよりずっと体温が下がっているなんて、想像だにしなかったのだ。
 
  雲の中に飲み込まれるような濃い霧が、一週間も続いたある夕方。
 
「……あれ?」

 アイスホッケーの練習を終えて寮に戻る途中。
 ひゅううっと吹き抜けた風に、ぞくぅっと背筋が冷えた。のみならず、その寒気は袖やズボンに沿ってぞぞぞぞおっと走り抜け、最後に腹の底からがくがくと体が揺れるほどの震えを引き起こし、唐突に消えた。

「あー、汗かいてリンクで冷えたからなあ……」

 アイスホッケーってのは氷の上でやるんだから、冷えるのは当たり前。
 練習の後、シャワーを浴びて、トレーニングウェアから私服に着替えたけれど、やっぱり汗は残っていたんだろう。
 部屋に戻ったらもういっぺん体を拭いて、着替えておこう。

「あれ?」

 異変はさらに続いた。
 寮に戻って階段を駆け上がり、部屋に戻ったらかくっと妙な具合にバランスを崩した。膝に上手く力が入らなかったらしい。
 肘の具合も妙だ。
 ひねったとか、ぶつけたとか、その種のシリアスな痛みではない。
 わなわなと、手足が妙な感じに疼いている。『笑ってる』……そう呼ぶのが一番しっくりする。改めて手足の筋肉に力を入れると、消える。
 
「筋肉痛か? 情けないなーあの程度の練習で……」

 ぶつくさ言いながらざかざかと服を脱ぎ、上半身裸になって。ごっしごっしとタオルで体を拭いているとレオンが戻ってきた。
 流麗な眉をしかめると、美貌のルームメイトは目をそらし、抑揚のない声でぴしりと一言。

「マクラウド。何度言ったらわかるんだ。ちゃんと服を着てくれ」
「ごめん、今着るから」

 汗を拭うのもそこそこに、慌てて服を着た。
 急いでいたものだから、乾いた着替えではなく、さっき脱いだばかりの生乾きのを。肌に触れた瞬間ひやあっとした。
 我慢、我慢。じきにに体温が伝わって体に馴染む。それまでの辛抱だ……。

 いつも通りに夕食を食べ終えて、部屋に戻って、食後の紅茶を飲んだら、けっこうすっきりした気になった。
 悪寒に震え、手足の関節痛。
 紛う方なき風邪の引き始めだったのだが、なまじ体力があっただけに、体調の変化を感じることなく乗り切ってしまった。
 しかし、体は正直だ。
 
「ぶぇっくしょい!」

 パジャマに着替えようとして、服を脱いだら、派手なクシャミが炸裂。本を読んでいたレオンにじとっと睨まれる。

「……ごめん。もう寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」

 もそもそとベッドに潜りこんだ。いつもより早い時間にシャワーも浴びずに。
 普段の生活習慣とは若干、ずれた行動だったが、レオンは気にも留めなかった。彼にとって、ルームメイトなんてその程度の興味しかなかったのだから。

     ※

「……」

 翌朝もひどい霧だった。
 レオンハルト・ローゼンベルクは不機嫌だった。煩いルームメイトが昨夜は珍しく早々に寝てくれた。これ幸いと一人の時間を満喫しようとしたら、すさまじいいびきをかき始めたのだ。
 起こしても、「んんー」とか「ああー」とか唸るだけで、またすぐいびきが再開する。
 いっそ廊下に捨ててやろうかと本気で思ったが、生憎とこの下級生、引っ張り出すにはいささか重過ぎる。
 やむなく、ティッシュを丸めて耳に詰めて。明日一番に、アレックスに耳栓を届けさせようと堅く誓いつつ、ベッドに入った。
 おかげで目覚めは最悪だ。さすがに一言、文句を言ってやらなければ収まらない。

 覚醒と同時にむくりと起き上がり、台所の方を見る。
 
「?」

 マクラウドは、そこには居なかった。珍しいこともあるものだ。風呂に入ってるのかと思ったが、浴室を使っている気配はない。

「………」

 ぐるりと部屋の中を見回すと、彼は意外に近くに居た。
 ベッドの上で毛布がぽっこりと丸く、人の形に盛り上がっていたのだ。枕のあたりにちらりと赤い髪の毛ものぞいている。
 珍しいこともあったもんだ。

 そろりそろりと近づいてみる。頭からすっぽり毛布をかぶり、体を丸めていた。

「……マクラウド?」

 まぶたが震えて、潤んだ瞳があらわれる。いつもの穏やかなヘーゼルブラウンがうっすらと、緑に染まっていた。

「あ……レオン」

 どきっとした。肌がうっすらと汗ばみ、まだらにピンク色に染まっている。顔のそばかすがいつもよりくっきりと浮かび上がっている。それ故に、思い知らされた。
 彼の肌が、どれほど白いのか。

「どうした」

 答える声は低く、かすかでほとんど力が入っていなかった。

「ごめん、すぐ、飯作る……」
「よせ」

 よれりと起き上がろうとするのを、押しとどめる。ほとんど力を入れていなかったのに、マクラウドの体は簡単にベッドに倒れてしまった。
 わずかに触れた手のひらが、熱い。

「寝てろ。寮長を呼んでくる」
「……うん」

 赤毛のルームメイトに何が起きたのか? いかな世間知らずの『姫』でも、ここまではっきりと変化が出ていればわかる。
 まっすぐに寮長の部屋に行き、ドアをノックして、顔を出したマイケル・フレイザーに淡々と告げた。

「マクラウドが熱を出しました。動けないようです」
「すぐ行く」

 早朝の訪問者がレオンと知った時、マイクは少々、慌てていた。眼鏡もかけず、服も着かけたまま戸口に飛び出していた。
 ついに、来るべき時が来たかと思ったのだ。

『もう限界です。アレを引き取ってください』

 この一ヶ月、何度夢に見たことか! だがレオンの目的は違っていた。それはそれでやっぱり心配だったけれど。とにかく身支度を整え、必要なものを持って、彼らの部屋に急ぐ。

「体温104度(摂氏38度)、咳と鼻水、頭が痛い。鼻も乾いてる、と」
「え?」
「いや、こっちの話。たぶん風邪だね。ドクターが出勤してきたら、来てくれるように連絡しよう」
「いい……俺が、自分で、行く」
「動けるのかい?」
「動く」

 よれよれになりつつ、それだけははっきりと言った。ひどい鼻声だったけれど。
 これは、やめろと言っても聞かないだろう。そう言う子だ。

「OK、マックス。欠席届は、僕から担任の先生に伝えておく。さしあたって君は……」

 タオルを水で濡らして、きゅっとしぼり、汗ばむ額に乗せた。

「医務室が開くまで、あったかくして、おとなしく寝てるんだよ。いいね?」
「……はい」
「そら、これ」

 持参したボックスティッシュ一箱と、ペットボトル入りの水を一本、枕元に置いた

「絶対必要になるから」
「ありがどうございまふ」

 ずびび、と水っぱなをすすると、ディフはさっそく箱からティッシュを二枚ほど引き抜いて、派手に鼻を噛んだ。
 その音にまぎれて、レオンはこっそりと安堵の息をついていたのだが……ディフもマイクは気付く由もなかった。

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【5-4-2】ぜいぜいげほげほ

2012/02/18 23:11 五話十海
 
 マイク寮長が帰った後、部屋には赤い顔で寝込んだディフと、困った顔をしたレオンが残された。そう、この時点でようやくレオンハルト・ローゼンベルクは一つ、差し迫った問題を抱えていることに気付いたのだ。

 今朝の朝食はどうすればいいんだろう? 

 この二週間と言うもの、朝は毎日、マクラウドが作っていた。部屋で朝食を食べてから、学校に行くことに慣れていた。その事実に自分でも驚く。
 わかっている。料理のできる人間が寝込んでしまってる以上、選択肢は一つしかない。だが、果たして病人を一人、部屋に残して行っていいものかどうか。
 経験が無いだけに、困る。どうしたらいいのかわからない。
 視線に気付いたのだろうか。マクラウドがうっすら目を開けた。

「……大丈夫だから。飯食って、学校、行けよ」
「わかった」

 別に心配していた訳じゃない。ただ、戸惑っていただけ。それでも、彼の言葉を聞いてほっとした。

「行ってくる」
「んー……行ってらっしゃい」

 あくまで単純に事実の報告をしただけなのに。まさか送り出されるとは思わなかった。

 久しぶりに寮の食堂の朝食を口にした瞬間、レオンは眉をしかめた。

「う」

 改めて、自分が口に入れた食べ物の残りを観察する。
 スクランブルエッグとベーコン、マッシュポテト(何故かこれは昼夜献立を問わず、必ず付いてくる)と半分に切ったオレンジ、パンはトーストかロールパンの選択。何てことはない、いつもマクラウドが作るのとほぼ同じ献立だ。
 材料は卵とベーコンと、調味料。誰が作った所で味はそう変わらない。
 それなのに。

(美味しくない)

 ほんの二週間前までは、毎日『これ』を食べていたはずだった。
 機械的に皿の上の物を口に運ぶ。それが自分にとって食事と言う行為の全てだった。それなのに、何故こんなにも、味気ないのだろう?
 釈然としないまま食べ終えると、レオンは教室へと向かった。流麗な眉の間に刻まれた皴は、消えることがなかった。

     ※

「げぇほごほ、ごほがほぐへっ」

 レオンを送り出したら、気が抜けのか。咽奥からととととっと機関銃の一斉掃射のように見えない塊がせり上がってきて、派手に咳き込んでいた。
 さすがに同じ部屋に人がいると遠慮してしまう。と、言うか、レオンに申し訳なくて我慢していたけど。
 
「げへっ、ごほっ、がふっ」

 咳が出るのは、体からよくないものを排出するためなんだ。だから、がまんせずにやっちゃった方がいい。
 元気な時は一、二度咳き込めば詰まっていたものがとれてすっきりする。だけど熱がある時の咳は、何度しても余計に苦しくなるばかり。

「うー、すっきりしない……」

 一人つぶやく声も、ごぼごぼ水がからまってまるで海中撮影のドキュメンタリーみたいだ。(何のことだかもう)
 布団を被り直して枕に頭を乗せる。体が妙に収まりが悪い。ここはいつも自分が寝ているベッドの上なのに。医務室が開くのは8時半からで、今はまだ7時。一時間半ってのが微妙に半端で落ち着けない。
 いっそ二時間ならゆっくりできるし、三十分なら逆にすぐに起き上がる心構えができるだろうに。
 一時間半。
 体が落ち着いた頃に起きて着替えなきゃいけない訳だ。ああ、面倒くさい。

(え?)

 自分で自分に驚く。
 嘘みたいだ。動くのが面倒くさいだなんて考え、いったいどこから出てきたんだろう?

「う」

 急に意識がはっきりした。
 息が詰まる。
 咽奥が塩辛い。水が咽に流れ込んでる。慌てて起き上がると、たーっと鼻から水が滴り落ち、唇の上を伝ってぽつっと布団に染みを作った。

「うゔぁ!」

 鼻水だ! あわててざかざかとティッシュを引き抜き、鼻をかんだ。
 所が、かんでもかんでも鼻詰まりがとれない。ただ粘度の低い鼻水が出るばかりで、全然すっきりしない。それどころか、かえって息苦しくなってきた。
 鼻がまったく通らない。口でしか息ができない。もう、鼻の奥そのものが腫れて道が塞がってる感じだ。

「げえほごほがほっ」

 体を起こしてると、後から後から垂れてくる。横になればなったで、咽の奥にまた逆流する。どんな格好をしても、逃げられない。

(俺、溺れるかも……)

 鼻が詰まってるってだけで、頭が回らなくなるんだから困ったもんだ。
 頭全体がはれぼったくなって、いつもより3割機能ダウンって感じだ。

(もはや3割どころじゃないかもしれない。あー、数字がわかんねえ)

 嗅覚のみならず、視覚に聴覚、味覚。ありとあらゆる感覚が鈍っていた。溶けたキャラメルの中で動いてるみたいだ。時計の針もなかなか進んでくれない。

「うー……」

 起き上がって鼻をかみ、また横になる。息ができなくなって起き上がる。
 何ていやぁなローテーション。全然体が休まらない。
 枕の周囲に使用済みティッシュがこんもり山になった頃、ようやく医務室の開く時間になった。

「起きなきゃ……」

 わざわざ口に出さなきゃもはや動けなかった。ベッドから出ると、寝巻きを貫き、痛いほどの冷気が肌を刺した。

「さむい」

 ああ、もういっそ医務室になんか行くのやめよっかな。このまま寝てようかな。(ダメだって、絶対)

 ともすればベッドに引き返そうとする体を無理やり動かした。
 這うように洗面所に行き、歯を磨いて、顔を洗って、髪の毛をとかす。もはや第二の皮膚になりつつあったパジャマを脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通す。
 肌に触れる布の冷たさに、思わずすくみあがった。トレーナーに手を伸ばして、途中で止める。

(これじゃ、薄い)

 サンフランシスコに来てから、初めてそう思った。
 先日、実家から届いたばかりの厚手のセーターを着込み、さらに厚手の靴下をはいた。毛糸がちくちく当たってこそばゆいけれど、とにかくあったかい。

(もっと早くに着ておけばよかったなあ……)
 
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【5-4-3】行き倒れ

2012/02/18 23:12 五話十海
 
 雲を踏むような心地で学生寮を出て、医務室へ向かう。いつもなら意識せずにさっさか歩けるはずの距離が

「すげえ遠い……」

 理由は簡単。移動速度そのものが落ちている上に、くらくらしてなかなか前に進めないのだ。

(やばいなー。地面が回ってる……酔いそう)

 壁に手をついてぜいぜいと息を切らしていると、ぽんっと肩に手を置かれた。

「おーい、大丈夫かマックス」
「あー、ヒヴェル?」
「………誰だそれは」
「ごゔぇん、鼻づまっでで」
「みたいだな」

 わざわざ言う必要もなかっただろう。
 移動中に鼻が垂れないように、詰まりの酷い左側の鼻の穴によじったティッシュをつっこんできたのだ。
 この上もなく、一目瞭然。

「お前、顔真っ赤だぞ」
「熱、あるから」
「医務室行けよ」
「うん、今行くとこ」

 行こうとする努力と、実際に体が動く速度。なまじいつもどたばた突っ走るのを見慣れているだけに、今の壊滅的な落差がすさまじい。
 見るに見かねて、ヒウェルは盛大にため息をついた。

「あーもー見てらんねーわ。ほら、つかまれ!」
「さんきゅ」

 差し出された細い肩に、のしぃっとがっちりした体が寄りかかる。

「と、とととぉっ」

 ヒウェルとディフ、二人の身長差はそれほどない。だが、密度には歴然と差があった。ほっそりとがっちり。文系美少年と体育会系野生児。
 客観的に見て到底支え切れるはずもなく、ヒウェルは級友もろとも派手によろけて、今度は自分が壁に手をつくハメに陥った。
 
「……ごめん」
「うん、気持ちだけ受けとっておく」
「とりあえず、医務室まで付きあうよ」
「ありがとな」

 それでも、ディフにしてみれば一人で歩くよりずっと早かったし、何より気持ちが楽になった。

 気持ちの上でも、物理的にも長い長い廊下を歩き、ようやくたどりついた医務室は混み合っていた。
 待合室のベンチには、ペットボトル入りの水を片手にマスクをしてうずくまる生徒たちが、ひっそりと群を成していた。みんなして申し合わせたようにセーターだのスタジャンをもこもこに着込み、背中を丸めてうつむいている。

「多いんだなあ、風邪引き」
「霧が続いたからな、今週」
「関係あんのか?」
「ああ。霧の出る日は、ぐっと冷え込むんだよ。寒暖の差が激しいんだ」
「そーなんだ」
「中歩くと、濡れるし」
「気がつかなかった……」
「っかー、これだから内陸生まれは! 今度から気をつけろよ?」
「うん。授業あるだろお前。教室、行けよ」
「OK。お大事にー」
「ありがとなー、ヒヴエル"」

 誰。それ。
 
      ※

 診察の結果は、やはり風邪だった。

「ああ、咽の奥が赤いね。咽頭炎だ。インフルエンザではないようだが、熱が下がらなかったら必ず来ること。いいね?」
「はい」
「水分の補給を忘れずに。それと、これを使いなさい」
「マスク?」
「呼吸が楽になるから」

 なるほど、確かに引きつれるような咽の痛みが緩和された。
 しかし、湿り気が封じ込められて内側に「篭る」。温室の中に閉じこめられたみたいで、これはこれでやっぱりぼやーっとしてくる。

 ああ、中途半端に熱い。んでもって湿っぽい。
 セルフ温室だよ。地球温暖化だよ。
 今なら俺、口ん中で熱帯魚飼えるかも……。

 ぼやぼやと浮いては沈むりとめのない妄想を追いかけつつ、寮に戻った。
 ごっそりと血も肉ももろとも削り取られたみたいに、体の真ん中からがくーっと力が抜けていた。もはやセーターが重い。脱いだ瞬間、寒さに縮み上がったがその反面、急に体がふわっと軽くなった。
 ベッドの上に脱ぎ捨てたパジャマを手にとると、じっとり汗で湿っていた。とてもじゃないが、もう一度身に付ける気にはなれない。汚れ物用の篭に放り込み、新しいのを身に付ける。

 もらった薬を机に並べた。粉薬が一種類とカプセルが二種類。何気なく見た薬瓶に書かれた薬の名前が妙におかしくて

「トランサミンってトランスフォーマーみてぇ。あは、あははは……」

 気がつけば一人、へらへらと声をあげて笑っていた。

(やばいな。錯乱してる)

 もそもそとベッドに潜り込む。
 消耗しきっているせいか、手足の関節がわらわらと、内側からくすぐられてるみたいにこそばゆい。力を入れればその瞬間は楽になる。わかっていても、入れる力が出てこない。
 疼く体を横たえ、枕の上に頭を乗せた。
 相変わらず居心地は悪いが、もう力を入れなくていいのだ。歩かなくていいのだ。
 ほうーっと息を吐いた。

「あ、水飲んでおかないと……」

 水なら、あるじゃないか。鼻の中にたっぷりと塩辛いのが。
 だから、後でいいんだ。もう、体がだるくて起き上がるのがめんどくさい。飲みに行くのがめんどくさい。

(寝よう。とにかく、寝よう)

 意識を手放した瞬間、理性は散り散りになって四方八方に霧散した。これ幸いとそのまま目を閉じて、ぶくぶくと熱帯の海に沈んで行くのに任せた。

(目が覚めたら、ちょっとは楽になってると……いいな)

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【5-4-4】風邪引で三割増し

2012/02/18 23:13 五話十海
 
 午後四時半。
 授業を終えたレオンは、珍しくまっすぐ寮に戻った。図書館にも寄らず、学校内の『隠れ家』で時間を潰すことなく、まっすぐに。
 扉を開けると、部屋の様子は朝出た時とほとんど変わっていないように見えた。
 しかし徐々に微妙な違いが浮かんでくる。
 
 ドアから向かって左側にある、マクラウドのクローゼットがまず開けっぱなし。扉からだらりと逆さ釣りになっているのは、脱いでそのまんまの形になったセーターだ。一瞬、仰向けにのけぞった人の体に見えてぎくりとした。

 机の上には、薬の入ったオレンジ色の円筒形のボトルが転がっている。
 そしてベッドの中には、朝出かけた時と同じようにマクラウドが入っている。体を丸めて、目を閉じて。周辺の床には丸めたティッシュが散らばっていた。マイク寮長に渡されたのを使ったんだろう。
 念のため近くに寄って様子を確認してみる。

 もわっと熱気が顔に当たった。まだ熱は下がっていないらしい。
 
(あ、生きてる)

 相違点をまた一つ発見した。朝見たのとは別のパジャマを着ている。
 今朝は白地に青の縦ストライプ。今着てるのは薄いクリーム色。形は同じ襟つきの前開き……シャツ型の寝巻きが好みらしい。この手のガサツな体育会系の男は、寝る時だろうと起きている時だろうと、スウェットを着てるものと思っていたが。
 
「ん……」

 眠ったままマクラウドは眉間に皴を寄せ、ごろりと寝返りを打った。横向きだった体が、仰向けになる。

「っ!」

 何てことだ。どう言うボタンの止め方をしたのかこいつは。
 パジャマのボタンが互い違いにずれている。一番上のボタンが下から三番目の穴に。結果として襟元が大幅にひらき、鎖骨はおろか胸板まで見えている!
 普段、服の内側になっている胸元は、陽に焼けた首筋や顔、手足と異なりくっきりと白かった。生まれたままの白さを保った肌の下を通る血管が、透けて見える。
 肌が見えているのは、たかだか手のひらで隠れそうなほどの小さな面積だ。それなのに、まるで『裸』を見ているような、奇妙な感覚を覚える。
 
 つーっとマクラウドの額から汗が流れる。顔から頬、顎、首筋と伝い落ち、鎖骨に沿って胸元へと消えて行く。つすーっと、また一つ。
 目で追いかけていると、ざわぁりと何かが蠢いた。自分の皮膚の内側で、目に見えない生き物が身じろぎしたような、奇妙な感覚だった。
 慌てて目をそらす。だが気になってちら、とまた横目で見てしまう。

「ふ……は………はぁ……っ」

 口をうっすら開いて喘いでいる。
 つらそうだ。
 医務室に行ったはずなのに。薬ももらっているのに。

「は……は……は……あぁ……んぅう」

 何だって悪化してるんだ?
 机の上の薬瓶を手にとってみる。
 添えられた説明書きによると、解熱鎮痛剤と、咽の炎症をおさえる薬、総合感冒薬の三種類を処方されている。毎食後に服用。だが、いずれも封を切った形跡がない。

 こつんと何か重い、円筒形のものが足に触れる。ペットボトル入りの水だ。今朝、寮長が置いていったものだろう。やはりこちらも未開封。
 この期に及んでようやく気付いた。そのガサツな性格と行動様式にも関わらず、マクラウドは真面目な奴だ。
 この種の注意書きや説明書きにはきっちり従う。薬を飲んでいないと言うことは、つまり食事もしてないってことだ。

(こいつ、もしかして今日は何も飲み食いしてないのか?)

 やれやれ。せっかく医務室に行っても薬を飲んでいないのでは、かえって動いた分悪化するばかりじゃないか。これだけ大量の汗や鼻水が流れたら、体の水分も失われているはずだ。
 脱水症状を起こしかねないじゃないか。まったく、人の食事は心配するくせに……。
 
 冷蔵庫を開けて中を確認する。部屋で朝食を食べるようになって以来、中に収められた食料品の数も種類も増えていた。
 卵にベーコン、リンゴに牛乳、食パン、冷凍庫にはミックスベジタブル。
 食べられそうなものは、それなりにあった。でも、どうやって調理すればいいのか、わからない。まさか病人を起こして作らせる訳にも行かない。

 レオンは腕組みして考えた。

 自分が熱を出した時、アレックスは何を食べさせてくれただろう?
 記憶をたぐりよせる。
 チキンスープ……論外。材料が無いし、第一難易度が高すぎる。
 オートミール……これもやはり難易度が高い。

 すりおろしたリンゴ。今、リンゴはあるけれど皮がむけない。そもそもむいたことがない。増してすりおろすなんて無理だ。不可能だ。

(アレックスは、他に何を作ってくれただろう?)

 できれば包丁を使わずに調理できそうなもので……

「あ」

 思い出した。あれならきっと、大丈夫。
 改めてキッチンにある食材と調味料を確認し、使うものを調理台に並べた。牛乳、紅茶用のクリーム、卵、砂糖、そしてナツメグ。

「ふむ」

 材料はそろっている。器具もある。後は、混ぜるだけだ。

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【5-4-5】いわゆる洋風卵酒

2012/02/18 23:14 五話十海
 
 海の中にいた。でもちっとも冷たくないし、涼しくもない。
 体温よりちょっと高いぐらいの、微妙なぬるさの海。ここが熱帯ならきれいな色の魚とか、イルカとか居そうなものなのに……
 ぽっかりからっぽの海の中、浮いているのは自分だけ。何故か顔は海面すれすれで、うっかりするとごぼっと波を被る。鼻から咽に塩辛い、ぬるい水が流れ込んで、苦しい。
 必死で手足を動かそうとしても、目に見えない重いものにからめ捕られてちっとも自由にならない。
 潜ることも、浮かぶこおもできずにただがぼがぼと塩水にむせながらもがく。もがく。もがく。

(ああ、これは夢だ。目を開ければ終わるはず)

 まぶたに力をこめて、開く。
 だめだ、まだ海の中。
 あきらめるな、もう一度。目を閉じて、さっきより力を入れてゆっくりと。
 今度はどうだ?

 そうやって一体、何度まぶたを開けたことだろう? 覚めたと思ってもまだ夢の中。何層にも重なった息苦しい海をようやく通りすぎたと思えば、今度は何処とも知れぬ天井に顔を押し付けられ、潰されそうになる。
 自分の居る空間が、どんどん狭くなってくる。下からじりじりとまた、ぬるい塩辛い水がせり上がってくる。急がないと、息ができなくなってしまう。
 急げ、ああ口が浸かった。もうすぐ鼻が沈む。
 早く。
 早く!

「あ……」

 やっと、本物の天井が、見えた。

 病気の時ってのは、だいたい目覚めに二種類ある。一つは起きた時、眠った時より皮一枚はがしたみたいに『よくなってる』なって感じる時。もう一つは『相変わらず苦しいまま』。
 今回はどっちだろう?
 手足の皮膚、耳、目。ぼやけて霞んでいた感覚が次第にはっきりとしてくる。
 手足や首、肩が妙な具合に強ばり、きしきしと疼く。鼻の奥に赤いもやもやのトゲが居座っている。頭の中が、ごわーん、ごわあーんっと金属をぶったたくみたいに振動してる。
 その振動に合わせて額の奥が痛い。後頭部が重い。枕に圧迫されてうっ血してるように感じる。
 残念。『相変わらず苦しいまま』だった。
 がっかりしたが、ため息をつく以前にまず、息ができなかった。手さぐりでティッシュを引き抜き、びーむっと鼻をかんだ。

「うわぁ」

 ごっそりと大量の鼻水。しかも今回は粘度が高く、ちょっぴり血が混じっていた。
 ぎょっとした。でも、すっきりした。
 続けて二回、三回とかんでいると、塊が出切ったのか、ほとんど色のない鼻水に戻った。

「ふー、はー、はー……」

 やりすぎた。
 頭がシェイクされてふらふらする。ぐーるぐると回る意識をどうにか一つにまとめていると……
 かちゃり、ことり、と台所から微かな物音が聞こえた。
 誰かが立ってる。動いている。

(母さん?)

 ない、ない、ある訳ない。ここはサンフランシスコだ。学校の寮だ。何があっても、家族は頼れない。自分一人でどうにかするしかないんだ。

「目が覚めたかマクラウド」

 不意に枕元で声がした。顔をあげると、そこに居たのは……

「レオン……?」

 ずいっと目の前に突き出されたのは、見覚えのあるオレンジの円筒形。医務室で処方された薬のボトルだ。

「薬をもらっても、飲まなくては意味がない」
「あー、そうだよな」

 やばい。薬飲む前に寝ちまった。受けとると手の中でカロカロと、錠剤の転がる音がした。
 蓋をねじって開けようとしたが、上手く指に力が入らない。

(くそ)

 落ち着け、落ち着け。別に筋力そのものが落ちてる訳じゃない。もう一度、今度はゆっくりと……。
 きゅっと白い蓋が回った。
 やった、開いた!

「マクラウド」
「ん?」

 つい、と目の前に湯気の立つマグカップが差し出される。

「飲む前に、何かお腹に入れておいた方がいい」
「これ、何だ?」

 最初はあっためたミルクかと思った。だがよく見ると、もっと黄色が濃くて、とろりとしてる。においは………だめだ、全然わからない。

「エッグノック。アルコールは入ってない」
「……作ったのか」
「混ぜればいいだけだから」

 そう、ただ、混ぜればいい。
 温めた牛乳と、ときほぐした卵と砂糖、仕上げにクリームをひとたらしとナツメグをひとふり。切る必要もないし、皮もむかずにすむ。
 ただ一つ、卵を割るのが最大の試練だった。
 アレックスの動きを思い出しながら、ボウルの端に軽く卵を当てて、割れ目が入ったら親指の先をひっかけて、左右にそっと広げて……るはずなのに、どうしても途中でぐしゃっとつぶれる。落ちた殻を指先でつまみ上げようとしても、つるりつるりと逃げてしまう。まるで生き物みたいに。
 4回失敗して、5回めに開き直った。

「濾そう!」

 殻の欠片の混ざったまま、卵を混ぜて解きほぐし、最終的に茶こしで漉したのだった。どうにか卵と殻を分離するのに成功したものの、あいにくと茶こしに生臭いにおいが残ってしまったけれど……
 洗って、アレックスに送ればきっと何とかしてくれる。その間は予備を使えばいい。
 紅茶をいれるための道具は常にストックしてあるのだから。

「甘い……」
「糖分と、たんぱく質と水分が補給できる」
「うん」

 両手でカップを包み込み、少しずつ飲んだ。
 甘くて、あたたかい液体が、咽を通り過ぎて空っぽの胃袋に落ちて行く。
 体の内側から温められて、鼻の奥が嘘みたいにすーっと楽になって、舌の奥にかすかにナツメグの香ばしさを感じることができた。

「あったかい……甘い……」

 ただ、それだけの事なのに。悲しくて、苦しくて、寂しくて、焦っていた。
 体と頭が、トゲのついた見えない針金でぎっちぎちに結ばれていたみたいだった。
 どう振り払っても取れない。ずっと続くんじゃないかと思った痛くて苦しい戒めがふわっと溶けて、消えてしまった。跡形も無く。

「………ありがとな、レオン」
「君はルームメイトだから」

 ペットボトルに入った水をレオンはそ、と枕元に置いた。

「ちゃんと薬を飲んで、早く治してくれよ。同室者が寝込んでいると、落ち着かない」
「うん」

 それは、偽らざる心の言葉。
 レオンハルト・ローゼンベルクは心の底から赤毛のルームメイトの回復を願っていた。望んでいた。
 久しぶりに一人で食べた食事の不味さ、味気なさと言ったらなかったのだ。
 なまじ二人一緒に食べるのに慣れ始めてていただけに、余計にわびしかったのだ。

      ※

 この日を境に、姫はちょっとだけわんことの距離が縮まった。
 けれど彼はまだ気付いていなかった。
 熱にうなされるディフを見た時、かすかに生じた皮膚の内側がざわつくような感触の正体に。

 熱く濡れた指先が、そろりと撫でた思春期の扉。
 芽吹きはもう、すぐそこに。


後日談→【3-3】okayusan

次へ→【5-5】俺のクマどこ?

サプライズなお客様

2012/02/18 23:18 短編十海
 
 黄色いふっかふかのパンケーキは、その場の全員にほぼ行き渡った。
 みんなして卵と砂糖と小麦とバターの溶け合ったシンプルな味と、甘い湯気を夢中になってあぐあぐとほお張った。
 ふかふかした食べ物を口に入れると、自然と顔がほころぶ。
 ご婦人やお子様は幸せそのもの、だがその一方で殿方は少々、物足りないものを感じていた。

(美味い、けど)
(甘い)
(もーちょっとこう、しょっぱいものが喰いたい……)
(ケチャップ欲しいなー)

 一方、ディーンは早々と最初の一切れを食べ終わり、しあわせなため息をついていた。
 しかし次の瞬間。

「お?」

 ベンチからぴょんっと飛び降りた。

「あら?」

 首を傾げるソフィアの隣からたーっと走り出す。

「あ、あ、ディーン!」

 四歳児の行動は大人の予想を軽くぶっちぎる。とたたたーっとボールが転がるように走っていったその先には、今しも遊歩道をこちらに向かって歩いてくる男の姿があった。

 チェックのシャツにジーンズ、足下はスニーカー。ラフな着こなしの中にもどこか気品の漂う、背の高い黒髪の男だ。
 癖のある短い黒髪、と言う点では現在のヒウェルと同じなのだが、堂々たる体躯といい、びしっと伸びた背筋といい、なまじ共通点があるだけに、格差が激しい。
 足下には、子グマのようなもっさもっさの黒い犬を従えている。四つんばいになってさえ、優に頭が主人の膝を越えそうな巨大な犬だったが、顔立ちはあどけない。
 まるでぬいぐるみのクマのように。

 ディーンは臆することなく、新たな訪問者の腕に飛び込んだ。

「Mr.ランドール!」
「やあ、ディーン!」

 カルヴィン・ランドールJrは軽々と小さな友人を抱き上げた。ディーンはきゃっきゃと大はしゃぎ。

「お誕生日おめでとう!」
「さんくす!」

 大人たちもすぐにランドールを迎え入れる。
 自己紹介の必要はなかった。ただ、笑顔で手を振り合えばOKだった。

「よ、サンダー。またでっかくなったなぁ」
「トマト食べる?」

 トマト。その単語を聞いた瞬間、サンダーはきちっと後脚を折り曲げて座った。黒い瞳はびたっとサリーに注目。

「かしこいな」
「テリーくんの教育の成果だよ」

 サリーの手の上の真っ赤なみずみずしいトマトを見ても。開いた口からよだれが零れても、じっとがまん。
 体が左右に揺れるほどの勢いでわっさわっさとしっぽを振りながら、微動だにしない。ボスがよし、と言うまでは。

「ほんと、かしこいな!」
「OK、サンダー」

(ボスがいいってゆった! いただきます)

 ばっくん。
 トマトは5秒で消えた。

「Mr.ランドール、ケーキたべて!」
「ありがとう」
「俺が作ったんだよ!」
「すごいな! ……うん、美味しいよ、ディーン。そうだ、私もお弁当を持ってきたんだ」

 ランドールは手ぶらではなかった。大きなピクニックバスケットを持参していた。

「良ければ君たちも……」
「おお! サンドイッチ!」
「中味は?」
「チーズとハム」
「おおおおお!」

 テリーとヒウェルは目を輝かせて飛びついた。

「うめええ! 塩味、塩味だああ!」
「ケチャップもみっしり入ってる……」

 やや遅れて、ディフとオティアも後に続く。
 耳を落としていない丈夫な食パンにバターとマスタードを塗って。レタスと分厚いハムとスライスチーズ、ピクルス、そしてケチャップ。
 典型的な『野郎の』サンドイッチ。だが、それが美味い。

「ハム、ちょっとあぶってあるんだな」
「その方が脂が溶けて、味がなじむような気がしてね」
「わかるー! 一度火を通すと、冷めても美味いんだよな!」
 
 ディーンがのびあがってバスケットをのぞきこむ。
 
「サンドイッチ? ピーナッツバターとジェリーのもある?」
「ああ、もちろん!」

 ランドール社長はうやうやしく、水玉模様のワックスペーパーに包まれたサンドイッチを差し出した。

「粒入りだよ」
「わお! 最高!」

 レオンは一人だけ、やや距離をとっていた。依頼人の手前、露骨に顔をしかめてはいない。表面は笑顔だ。あくまで笑顔、しかし舌の根にはある種の苦さがわだかまっている。

「ヒウェル、ちょっと」

 呼ばれた瞬間、ヒウェルはピンと来た。『ぱぱ』は何やら自分だけに話があるらしい。
 尚も盛り上がりを見せるテーブルを離れ、レオンのそばへと歩み寄る。

「君のさしがねかな、ヒウェル」
「ええ、まあ、サリー経由でちょこちょこっと、メールをね」

 ちら、とレオンはそれとなくランドールに視線を向けた。

「あまり感心しないね。公私のけじめはつけないと」
「この一ヶ月俺がどんだけディーンに言われたと思います? 『Mr.ランドールみたい』って!」
「さあ?」
「確かにあの社長はあなたの事務所の依頼人だ。でもディーンにとっちゃ友だちなんだ。さすがに家にご招待ってのは、あなたにしても、アレックスにしても気がねするでしょうが……」

 テーブルの周りには、ランドール社長はもとより、周辺でバーベキューをしていた人たちが集まっている。
 一人ぐらい増えた所で、どうってこともない。

「屋外パーティのいいところは、誰でも気軽に出入りできることだ。そうでしょ?」
「まあ、ね」
「プレゼントも消えものだし?」

 レオンはため息をついた。確かにその通りだ。
 ピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなら、遠慮するほどのものじゃない。小学校のランチで交換するレベルの代物だ。(あいにくと自分は経験はないが)

 食べれば無くなる。楽しさだけが残る。

 それに、ランドール社長の来訪を喜んでいるのは、ディーンだけではなかった。
 ディフも、オティアも楽しそうに、真っ黒な犬をなで回している。犬や子供と一緒だと、ディフは実にいい顔をする。
 視線に気付いたのだろう。
 ディフが起き上がって、手を振ってきた。そのほほ笑みは真夏の太陽よりも眩しく、羽毛の毛布のようにやわらかく、包んでくれる。

「………しょうがないなぁ」

 笑みを返して歩き出す。愛しい人の待つ食卓に向かって。

 結局のところ、ヒウェルは上手く折り合いをつけたのだ。

(サプライズなお客様/了)

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