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ローゼンベルク家の食卓

【5-4-1】鬼のかく乱

2012/02/18 23:10 五話十海
 
 霧はサンフランシスコの風物詩だ。
 ……なんて話には聞いていたが、実際に目にするまでディフォレスト・マクラウドは事態を甘く見ていた。

「せいぜい、朝方、遠くが少しもやっとするくらいだろ?」 
「お前ねえ。そんなテキサスくんだりの朝もやなんかと一緒にすんなよ? ここをドコだと思ってる」
「……サンフランシスコ」
「……」

 黒髪の同級生、ヒウェルは一瞬、拍子抜けしたような顔をしたがすぐに気を取り直してまくしたてた。

「そう、そーだよサンフランシスコだよ! アクティブなんだぞ。海側からもわもわとすっげー濃厚なのが押し寄せてくるんだ。町中すっぽり雲ん中に飲み込まれたみたいに真っ白になるんだよ」
「ごめん、想像できない」
「ったく」

 ひょいと片手で眼鏡の位置を整え、じとーっと目を半開きにしてねめつけてきた。
 なまじ愛くるしいリスのような風貌をしてるだけに、人相が三割増し悪く見える。

「知ってるか? サンフランシスコの霧はなあ、缶詰めして土産物で売られてるんだぞ? 文字通り『タダの霧』じゃないんだよ!」

 確かに土産物屋で見たことがある。興味を引かれたけど、さすがに買おうとは思わなかった。誰かからもらったら面白がったろうけど。
 その程度の認識だった。

「うはっ」

 11月の始め、唐突にその日はやってきた。
 朝、外を見たら白かった。
 窓の外が真っ白に塗りつぶされて、あるべきはずの庭木も、空も、遠くに見えるはずの校舎も視界から隠されていて……まるで自分の住んでる部屋が切り取られて、どこか見知らぬ世界にぽいっと放り込まれたような気分になった。

「すげーっ、すげーっ、ほら、見ろよレオン!」

 思わず窓を開けた。

「真っ白だ! 空気が牛乳みたいだよ、なーんにも見えない!」

 しかし、大はしゃぎするルームメイトに向けられるレオンハルト・ローゼンベルクの眼差しは、あくまで冷ややかだった。

「窓を閉めてくれないか、マクラウド。湿気が入る」
「………ごめん」

 さながら下賎の者どもの馬鹿騒ぎを横目で一べつする、王侯貴族のごとき威厳に滾る血潮は急転直下。すとーんと氷点下まで落ち込んだ。

(さすがに二年目になると、慣れるのかな)

 子供みたいにはしゃいでた自分が急に恥ずかしくなって、ディフは背中を丸めてそろっと窓を閉めた。

 霧の出る日は寒暖の差が激しく、冷え込みが厳しい。地元出身の生徒や、この地に住んで二年以上経過している上級生、あるいは下調べをきっちりしてきた要領の良い新入生にとっては周知の事実。
 だがテキサスの乾いた冬に慣れたこの野生児は……

「お前、そんな薄着で大丈夫かよ!」
「平気だって。サンフランシスコはあったかいよな! テキサスに比べりゃ天国だ!」

 そう、彼はすっかり油断していた。忘れていたのだ。霧の正体は細かい水の粒だってことを。
 物珍しさのあまり、上着も着ずに霧の中をふらふら歩き回った。
 結果として鮮やかな赤毛がいつもに増して強くカールし、くりんくりんになっても気にしない。着ていたトレーナーがしっとりしても着替えなかった。風呂にも入らなかった。
 見た目の「ふわふわ」にすっかり騙されていた。体が濡れて、実際に感じているよりずっと体温が下がっているなんて、想像だにしなかったのだ。
 
  雲の中に飲み込まれるような濃い霧が、一週間も続いたある夕方。
 
「……あれ?」

 アイスホッケーの練習を終えて寮に戻る途中。
 ひゅううっと吹き抜けた風に、ぞくぅっと背筋が冷えた。のみならず、その寒気は袖やズボンに沿ってぞぞぞぞおっと走り抜け、最後に腹の底からがくがくと体が揺れるほどの震えを引き起こし、唐突に消えた。

「あー、汗かいてリンクで冷えたからなあ……」

 アイスホッケーってのは氷の上でやるんだから、冷えるのは当たり前。
 練習の後、シャワーを浴びて、トレーニングウェアから私服に着替えたけれど、やっぱり汗は残っていたんだろう。
 部屋に戻ったらもういっぺん体を拭いて、着替えておこう。

「あれ?」

 異変はさらに続いた。
 寮に戻って階段を駆け上がり、部屋に戻ったらかくっと妙な具合にバランスを崩した。膝に上手く力が入らなかったらしい。
 肘の具合も妙だ。
 ひねったとか、ぶつけたとか、その種のシリアスな痛みではない。
 わなわなと、手足が妙な感じに疼いている。『笑ってる』……そう呼ぶのが一番しっくりする。改めて手足の筋肉に力を入れると、消える。
 
「筋肉痛か? 情けないなーあの程度の練習で……」

 ぶつくさ言いながらざかざかと服を脱ぎ、上半身裸になって。ごっしごっしとタオルで体を拭いているとレオンが戻ってきた。
 流麗な眉をしかめると、美貌のルームメイトは目をそらし、抑揚のない声でぴしりと一言。

「マクラウド。何度言ったらわかるんだ。ちゃんと服を着てくれ」
「ごめん、今着るから」

 汗を拭うのもそこそこに、慌てて服を着た。
 急いでいたものだから、乾いた着替えではなく、さっき脱いだばかりの生乾きのを。肌に触れた瞬間ひやあっとした。
 我慢、我慢。じきにに体温が伝わって体に馴染む。それまでの辛抱だ……。

 いつも通りに夕食を食べ終えて、部屋に戻って、食後の紅茶を飲んだら、けっこうすっきりした気になった。
 悪寒に震え、手足の関節痛。
 紛う方なき風邪の引き始めだったのだが、なまじ体力があっただけに、体調の変化を感じることなく乗り切ってしまった。
 しかし、体は正直だ。
 
「ぶぇっくしょい!」

 パジャマに着替えようとして、服を脱いだら、派手なクシャミが炸裂。本を読んでいたレオンにじとっと睨まれる。

「……ごめん。もう寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」

 もそもそとベッドに潜りこんだ。いつもより早い時間にシャワーも浴びずに。
 普段の生活習慣とは若干、ずれた行動だったが、レオンは気にも留めなかった。彼にとって、ルームメイトなんてその程度の興味しかなかったのだから。

     ※

「……」

 翌朝もひどい霧だった。
 レオンハルト・ローゼンベルクは不機嫌だった。煩いルームメイトが昨夜は珍しく早々に寝てくれた。これ幸いと一人の時間を満喫しようとしたら、すさまじいいびきをかき始めたのだ。
 起こしても、「んんー」とか「ああー」とか唸るだけで、またすぐいびきが再開する。
 いっそ廊下に捨ててやろうかと本気で思ったが、生憎とこの下級生、引っ張り出すにはいささか重過ぎる。
 やむなく、ティッシュを丸めて耳に詰めて。明日一番に、アレックスに耳栓を届けさせようと堅く誓いつつ、ベッドに入った。
 おかげで目覚めは最悪だ。さすがに一言、文句を言ってやらなければ収まらない。

 覚醒と同時にむくりと起き上がり、台所の方を見る。
 
「?」

 マクラウドは、そこには居なかった。珍しいこともあるものだ。風呂に入ってるのかと思ったが、浴室を使っている気配はない。

「………」

 ぐるりと部屋の中を見回すと、彼は意外に近くに居た。
 ベッドの上で毛布がぽっこりと丸く、人の形に盛り上がっていたのだ。枕のあたりにちらりと赤い髪の毛ものぞいている。
 珍しいこともあったもんだ。

 そろりそろりと近づいてみる。頭からすっぽり毛布をかぶり、体を丸めていた。

「……マクラウド?」

 まぶたが震えて、潤んだ瞳があらわれる。いつもの穏やかなヘーゼルブラウンがうっすらと、緑に染まっていた。

「あ……レオン」

 どきっとした。肌がうっすらと汗ばみ、まだらにピンク色に染まっている。顔のそばかすがいつもよりくっきりと浮かび上がっている。それ故に、思い知らされた。
 彼の肌が、どれほど白いのか。

「どうした」

 答える声は低く、かすかでほとんど力が入っていなかった。

「ごめん、すぐ、飯作る……」
「よせ」

 よれりと起き上がろうとするのを、押しとどめる。ほとんど力を入れていなかったのに、マクラウドの体は簡単にベッドに倒れてしまった。
 わずかに触れた手のひらが、熱い。

「寝てろ。寮長を呼んでくる」
「……うん」

 赤毛のルームメイトに何が起きたのか? いかな世間知らずの『姫』でも、ここまではっきりと変化が出ていればわかる。
 まっすぐに寮長の部屋に行き、ドアをノックして、顔を出したマイケル・フレイザーに淡々と告げた。

「マクラウドが熱を出しました。動けないようです」
「すぐ行く」

 早朝の訪問者がレオンと知った時、マイクは少々、慌てていた。眼鏡もかけず、服も着かけたまま戸口に飛び出していた。
 ついに、来るべき時が来たかと思ったのだ。

『もう限界です。アレを引き取ってください』

 この一ヶ月、何度夢に見たことか! だがレオンの目的は違っていた。それはそれでやっぱり心配だったけれど。とにかく身支度を整え、必要なものを持って、彼らの部屋に急ぐ。

「体温104度(摂氏38度)、咳と鼻水、頭が痛い。鼻も乾いてる、と」
「え?」
「いや、こっちの話。たぶん風邪だね。ドクターが出勤してきたら、来てくれるように連絡しよう」
「いい……俺が、自分で、行く」
「動けるのかい?」
「動く」

 よれよれになりつつ、それだけははっきりと言った。ひどい鼻声だったけれど。
 これは、やめろと言っても聞かないだろう。そう言う子だ。

「OK、マックス。欠席届は、僕から担任の先生に伝えておく。さしあたって君は……」

 タオルを水で濡らして、きゅっとしぼり、汗ばむ額に乗せた。

「医務室が開くまで、あったかくして、おとなしく寝てるんだよ。いいね?」
「……はい」
「そら、これ」

 持参したボックスティッシュ一箱と、ペットボトル入りの水を一本、枕元に置いた

「絶対必要になるから」
「ありがどうございまふ」

 ずびび、と水っぱなをすすると、ディフはさっそく箱からティッシュを二枚ほど引き抜いて、派手に鼻を噛んだ。
 その音にまぎれて、レオンはこっそりと安堵の息をついていたのだが……ディフもマイクは気付く由もなかった。

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