▼ 【5-4-2】ぜいぜいげほげほ
マイク寮長が帰った後、部屋には赤い顔で寝込んだディフと、困った顔をしたレオンが残された。そう、この時点でようやくレオンハルト・ローゼンベルクは一つ、差し迫った問題を抱えていることに気付いたのだ。
今朝の朝食はどうすればいいんだろう?
この二週間と言うもの、朝は毎日、マクラウドが作っていた。部屋で朝食を食べてから、学校に行くことに慣れていた。その事実に自分でも驚く。
わかっている。料理のできる人間が寝込んでしまってる以上、選択肢は一つしかない。だが、果たして病人を一人、部屋に残して行っていいものかどうか。
経験が無いだけに、困る。どうしたらいいのかわからない。
視線に気付いたのだろうか。マクラウドがうっすら目を開けた。
「……大丈夫だから。飯食って、学校、行けよ」
「わかった」
別に心配していた訳じゃない。ただ、戸惑っていただけ。それでも、彼の言葉を聞いてほっとした。
「行ってくる」
「んー……行ってらっしゃい」
あくまで単純に事実の報告をしただけなのに。まさか送り出されるとは思わなかった。
久しぶりに寮の食堂の朝食を口にした瞬間、レオンは眉をしかめた。
「う」
改めて、自分が口に入れた食べ物の残りを観察する。
スクランブルエッグとベーコン、マッシュポテト(何故かこれは昼夜献立を問わず、必ず付いてくる)と半分に切ったオレンジ、パンはトーストかロールパンの選択。何てことはない、いつもマクラウドが作るのとほぼ同じ献立だ。
材料は卵とベーコンと、調味料。誰が作った所で味はそう変わらない。
それなのに。
(美味しくない)
ほんの二週間前までは、毎日『これ』を食べていたはずだった。
機械的に皿の上の物を口に運ぶ。それが自分にとって食事と言う行為の全てだった。それなのに、何故こんなにも、味気ないのだろう?
釈然としないまま食べ終えると、レオンは教室へと向かった。流麗な眉の間に刻まれた皴は、消えることがなかった。
※
「げぇほごほ、ごほがほぐへっ」
レオンを送り出したら、気が抜けのか。咽奥からととととっと機関銃の一斉掃射のように見えない塊がせり上がってきて、派手に咳き込んでいた。
さすがに同じ部屋に人がいると遠慮してしまう。と、言うか、レオンに申し訳なくて我慢していたけど。
「げへっ、ごほっ、がふっ」
咳が出るのは、体からよくないものを排出するためなんだ。だから、がまんせずにやっちゃった方がいい。
元気な時は一、二度咳き込めば詰まっていたものがとれてすっきりする。だけど熱がある時の咳は、何度しても余計に苦しくなるばかり。
「うー、すっきりしない……」
一人つぶやく声も、ごぼごぼ水がからまってまるで海中撮影のドキュメンタリーみたいだ。(何のことだかもう)
布団を被り直して枕に頭を乗せる。体が妙に収まりが悪い。ここはいつも自分が寝ているベッドの上なのに。医務室が開くのは8時半からで、今はまだ7時。一時間半ってのが微妙に半端で落ち着けない。
いっそ二時間ならゆっくりできるし、三十分なら逆にすぐに起き上がる心構えができるだろうに。
一時間半。
体が落ち着いた頃に起きて着替えなきゃいけない訳だ。ああ、面倒くさい。
(え?)
自分で自分に驚く。
嘘みたいだ。動くのが面倒くさいだなんて考え、いったいどこから出てきたんだろう?
「う」
急に意識がはっきりした。
息が詰まる。
咽奥が塩辛い。水が咽に流れ込んでる。慌てて起き上がると、たーっと鼻から水が滴り落ち、唇の上を伝ってぽつっと布団に染みを作った。
「うゔぁ!」
鼻水だ! あわててざかざかとティッシュを引き抜き、鼻をかんだ。
所が、かんでもかんでも鼻詰まりがとれない。ただ粘度の低い鼻水が出るばかりで、全然すっきりしない。それどころか、かえって息苦しくなってきた。
鼻がまったく通らない。口でしか息ができない。もう、鼻の奥そのものが腫れて道が塞がってる感じだ。
「げえほごほがほっ」
体を起こしてると、後から後から垂れてくる。横になればなったで、咽の奥にまた逆流する。どんな格好をしても、逃げられない。
(俺、溺れるかも……)
鼻が詰まってるってだけで、頭が回らなくなるんだから困ったもんだ。
頭全体がはれぼったくなって、いつもより3割機能ダウンって感じだ。
(もはや3割どころじゃないかもしれない。あー、数字がわかんねえ)
嗅覚のみならず、視覚に聴覚、味覚。ありとあらゆる感覚が鈍っていた。溶けたキャラメルの中で動いてるみたいだ。時計の針もなかなか進んでくれない。
「うー……」
起き上がって鼻をかみ、また横になる。息ができなくなって起き上がる。
何ていやぁなローテーション。全然体が休まらない。
枕の周囲に使用済みティッシュがこんもり山になった頃、ようやく医務室の開く時間になった。
「起きなきゃ……」
わざわざ口に出さなきゃもはや動けなかった。ベッドから出ると、寝巻きを貫き、痛いほどの冷気が肌を刺した。
「さむい」
ああ、もういっそ医務室になんか行くのやめよっかな。このまま寝てようかな。(ダメだって、絶対)
ともすればベッドに引き返そうとする体を無理やり動かした。
這うように洗面所に行き、歯を磨いて、顔を洗って、髪の毛をとかす。もはや第二の皮膚になりつつあったパジャマを脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通す。
肌に触れる布の冷たさに、思わずすくみあがった。トレーナーに手を伸ばして、途中で止める。
(これじゃ、薄い)
サンフランシスコに来てから、初めてそう思った。
先日、実家から届いたばかりの厚手のセーターを着込み、さらに厚手の靴下をはいた。毛糸がちくちく当たってこそばゆいけれど、とにかくあったかい。
(もっと早くに着ておけばよかったなあ……)
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