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ローゼンベルク家の食卓

【5-4-3】行き倒れ

2012/02/18 23:12 五話十海
 
 雲を踏むような心地で学生寮を出て、医務室へ向かう。いつもなら意識せずにさっさか歩けるはずの距離が

「すげえ遠い……」

 理由は簡単。移動速度そのものが落ちている上に、くらくらしてなかなか前に進めないのだ。

(やばいなー。地面が回ってる……酔いそう)

 壁に手をついてぜいぜいと息を切らしていると、ぽんっと肩に手を置かれた。

「おーい、大丈夫かマックス」
「あー、ヒヴェル?」
「………誰だそれは」
「ごゔぇん、鼻づまっでで」
「みたいだな」

 わざわざ言う必要もなかっただろう。
 移動中に鼻が垂れないように、詰まりの酷い左側の鼻の穴によじったティッシュをつっこんできたのだ。
 この上もなく、一目瞭然。

「お前、顔真っ赤だぞ」
「熱、あるから」
「医務室行けよ」
「うん、今行くとこ」

 行こうとする努力と、実際に体が動く速度。なまじいつもどたばた突っ走るのを見慣れているだけに、今の壊滅的な落差がすさまじい。
 見るに見かねて、ヒウェルは盛大にため息をついた。

「あーもー見てらんねーわ。ほら、つかまれ!」
「さんきゅ」

 差し出された細い肩に、のしぃっとがっちりした体が寄りかかる。

「と、とととぉっ」

 ヒウェルとディフ、二人の身長差はそれほどない。だが、密度には歴然と差があった。ほっそりとがっちり。文系美少年と体育会系野生児。
 客観的に見て到底支え切れるはずもなく、ヒウェルは級友もろとも派手によろけて、今度は自分が壁に手をつくハメに陥った。
 
「……ごめん」
「うん、気持ちだけ受けとっておく」
「とりあえず、医務室まで付きあうよ」
「ありがとな」

 それでも、ディフにしてみれば一人で歩くよりずっと早かったし、何より気持ちが楽になった。

 気持ちの上でも、物理的にも長い長い廊下を歩き、ようやくたどりついた医務室は混み合っていた。
 待合室のベンチには、ペットボトル入りの水を片手にマスクをしてうずくまる生徒たちが、ひっそりと群を成していた。みんなして申し合わせたようにセーターだのスタジャンをもこもこに着込み、背中を丸めてうつむいている。

「多いんだなあ、風邪引き」
「霧が続いたからな、今週」
「関係あんのか?」
「ああ。霧の出る日は、ぐっと冷え込むんだよ。寒暖の差が激しいんだ」
「そーなんだ」
「中歩くと、濡れるし」
「気がつかなかった……」
「っかー、これだから内陸生まれは! 今度から気をつけろよ?」
「うん。授業あるだろお前。教室、行けよ」
「OK。お大事にー」
「ありがとなー、ヒヴエル"」

 誰。それ。
 
      ※

 診察の結果は、やはり風邪だった。

「ああ、咽の奥が赤いね。咽頭炎だ。インフルエンザではないようだが、熱が下がらなかったら必ず来ること。いいね?」
「はい」
「水分の補給を忘れずに。それと、これを使いなさい」
「マスク?」
「呼吸が楽になるから」

 なるほど、確かに引きつれるような咽の痛みが緩和された。
 しかし、湿り気が封じ込められて内側に「篭る」。温室の中に閉じこめられたみたいで、これはこれでやっぱりぼやーっとしてくる。

 ああ、中途半端に熱い。んでもって湿っぽい。
 セルフ温室だよ。地球温暖化だよ。
 今なら俺、口ん中で熱帯魚飼えるかも……。

 ぼやぼやと浮いては沈むりとめのない妄想を追いかけつつ、寮に戻った。
 ごっそりと血も肉ももろとも削り取られたみたいに、体の真ん中からがくーっと力が抜けていた。もはやセーターが重い。脱いだ瞬間、寒さに縮み上がったがその反面、急に体がふわっと軽くなった。
 ベッドの上に脱ぎ捨てたパジャマを手にとると、じっとり汗で湿っていた。とてもじゃないが、もう一度身に付ける気にはなれない。汚れ物用の篭に放り込み、新しいのを身に付ける。

 もらった薬を机に並べた。粉薬が一種類とカプセルが二種類。何気なく見た薬瓶に書かれた薬の名前が妙におかしくて

「トランサミンってトランスフォーマーみてぇ。あは、あははは……」

 気がつけば一人、へらへらと声をあげて笑っていた。

(やばいな。錯乱してる)

 もそもそとベッドに潜り込む。
 消耗しきっているせいか、手足の関節がわらわらと、内側からくすぐられてるみたいにこそばゆい。力を入れればその瞬間は楽になる。わかっていても、入れる力が出てこない。
 疼く体を横たえ、枕の上に頭を乗せた。
 相変わらず居心地は悪いが、もう力を入れなくていいのだ。歩かなくていいのだ。
 ほうーっと息を吐いた。

「あ、水飲んでおかないと……」

 水なら、あるじゃないか。鼻の中にたっぷりと塩辛いのが。
 だから、後でいいんだ。もう、体がだるくて起き上がるのがめんどくさい。飲みに行くのがめんどくさい。

(寝よう。とにかく、寝よう)

 意識を手放した瞬間、理性は散り散りになって四方八方に霧散した。これ幸いとそのまま目を閉じて、ぶくぶくと熱帯の海に沈んで行くのに任せた。

(目が覚めたら、ちょっとは楽になってると……いいな)

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