メッセージ欄
2009年1月の日記
▼ 【4-9】たとえそれが痛みでも
2009/01/05 0:55 【四話】
- 2006年11月1日の出来事。
- 霧のハロウィンから一夜が明けて、水曜日の朝が来た。双子は別々の部屋で目を覚まし、眠れぬ夜を過ごした”まま”はうっかり寝坊して……。
記事リスト
- 【4-9-0】登場人物 (2009-01-05)
- 【4-9-1】慌ただしい朝 (2009-01-05)
- 【4-9-2】迷子 (2009-01-05)
- 【4-9-3】橋を渡って (2009-01-05)
- 【4-9-4】すれちがい (2009-01-05)
- 【4-9-5】ぱぱ帰る (2009-01-05)
- 【4-9-6】反抗期は必要だよ (2009-01-05)
▼ 【4-9-0】登場人物
2009/01/05 0:56 【四話】
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアへの想いがようやく通じるが、それはすなわちシエンの失恋でもあり…
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルに心を開きつつあった。
一時期空気扱いしていたがそれも気になる心の裏返し。
とうとう想いを受け入れたがその一方で双子の兄弟と生まれてはじめての大げんかが勃発。
ポーカーフェイスの裏側で揺れ動く心はいまだに安らげない。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自ら選んだ道だけど、失恋&双子の兄弟との生まれてはじめての本格的な仲違い、すれ違いにショックを受けて…
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
予定を繰り上げて出張から強引に帰宅。残務は同僚に押し付けてきました。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
【アレックス/Alex-J-Owen】
レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
有能。万能。41歳。
灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
今はレオンさまと奥様と双子のために、そして愛する妻と子のためにがんばる。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
実は見えてんじゃないかとか。
何でそんなこと知ってるんだとか、いろいろ不思議なことが多い。
【エリック/Hans-Eric-Svensson】
シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
金属フレームの眼鏡着用。
久々に出たと思ったらこんな役。
次へ→【4-9-1】慌ただしい朝
▼ 【4-9-1】慌ただしい朝
2009/01/05 0:58 【四話】
11月1日水曜日、朝。
ベッドの中で目を開けた瞬間、とてつもない不安に襲われた。痛いほどの喪失感と焦りに胸を灼かれ、寝起きの曖昧な意識の中、稲妻のように一つの言葉が閃く。
『あの子を探しに行かなければ!』
……落ち着け、落ち着け。オティアはちゃんと戻ってきただろう。寝る前に確かめたはずだ。
書庫の床の上で毛布にくるまって、白い猫と身を寄せ合って眠っていた……一人で。
次第に意識がはっきりしてくるにつれ、苦い記憶も鮮明に蘇ってくる。
ハロウィンの夜、双子が喧嘩した。いつも一緒だった二人が今は別々の部屋に居る。原因はヒウェル……あの二人を俺たちと引き合わせた張本人。
喧嘩の後でオティアは夜の町に飛び出して行ったが、ヒウェルが連れ戻した。その後信じられないが二人っきりで一緒に双子の部屋に居た。
そう、『双子の部屋』だ。
ドア一枚で繋がった隣の部屋は、5月までは壁で隔てられていて、俺の家だった。
レオンと結婚して俺がこの家に越してくるのと入れ違いに双子が移り、二人一緒に住んでいた。昨日までは。今、シエンはこっちの家の、5月まで寝起きしていた部屋で眠っている。
オティアと喧嘩したあと、身の回りの物を持って引っ越してきた。どうも一晩だけの仮住まいじゃなさそうだ。
兄弟喧嘩なんてそれこそ数え切れないくらいやらかしてきた。別々の部屋で寝ても、次の日の朝にはけろっとして同じテーブルで飯食ってた。けれど、あいつらの場合は……。
ベッドの上に起き上がり、膝を抱える。口から深いため息が漏れた。
霧は晴れ、夜は明け、月が変わった。けれど事態はまったく進展していないのだ。
ああ、でも今日はレオンが帰ってくる。こんな風に寝室が、ガラーンと広く感じられるのも今日限りだ。
しかし、やけに明るいな……。
「う?」
枕元の時計に目をやり、跳ね起きた。明るいも道理、いつもより30分も遅いじゃねえか!
信じらんねえ、アラーム無視して寝こけちまった。
「しまった!」
二人しかいない探偵事務所だ。俺とオティアが出勤したときが始業時間。だが、今日は朝一番に依頼人と会う約束がある。
裁判前に弁護士に渡すための調査資料を届けなけりゃいけないのだ。約束の時間に遅れる訳には行かない、断じて。
幸い、自宅から直に届けに行く予定だったから届けるべき書類はここにある。しかし問題は時間だ。間に合うだろうか?
洗面所に駆け込み、ヒゲを添って顔を洗い、歯を磨く。
パジャマを脱ぎ捨て、着替えながら頭を巡らせた。飯の支度する時間はあるだろうか……。
子どもらだけに任せることもできるだろうが、昨夜喧嘩したばかりだ。適当に食え! なんて言い捨てて出かけることなんかできやしない。そんなことしたら、オティアは何も食べないかもしれない……。
だが準備して、食卓に出せば素直に口にしてくれる。
着替えをすませて台所に行くと、シエンが出てきたところだった。目が赤い。眠れなかったんだろうな。
「おはよう」
ちらっとこっちを見て、抑揚のない声で返事をした。
「おはよう」
「すまん、寝坊した」
少し遅れてオティアが入って来る。やれやれ、今朝は全員寝坊か。無理もないが。
冷蔵庫から昨夜のカボチャのパイ(甘くないやつ)を取り出し、二切れ切り分けて皿に載せ、レンジに入れる。
ニンジンとリンゴ、オレンジをジューサーに入れてスイッチを入れる……最低でもこれだけ口にしてくれれば。
コップに二人分注いでテーブルに並べ、ちょうど温め終わったパイを隣に置いた。
「依頼人と会う約束があるんだ。すぐ出なきゃならん。二人で食っててくれ」
「ん」
シエンがかすかにうなずいた。
「行ってくる」
本音を言えば双子を置いて行くのは心残りだが、時間がない。書類鞄を抱えて玄関を飛び出した。
※ ※ ※ ※
「ありがとう。朝早くからすまなかったね」
「いえ、それが仕事ですから」
けっこうギリギリだったがとにもかくにも間に合った。任務完了。
ああ、結局、自分が飯抜いちまった。せめてリンゴの一切れ、牛乳一杯だけでも腹に入れとくべきだったか。
幸い、近くに警官時代によく飯食いに行ってたデリがあったんでサンドイッチとコーヒーを買うことにする。店員はまだ俺の好みを覚えていてくれた。
「景気はどうだい?」
「まあまあだね。カミさん元気?」
「元気だよ。二人目が生まれた」
5分で食って店を出て、事務所に行くと鍵が開いていた。てっきり施錠されたままだと思ったんだが。
いつもならオティアはこんな時、俺が呼びに行くまで上の法律事務所で過ごす。だが今日は、シエンと顔あわせてるのがつらいんだろう。
「……戻ったぞ」
中に入り、スチールの事務机に向かって一声かける。予想通りオティアはそこにいた。椅子にこしかけ、膝の上に白い小さな猫を乗せて。
そしてもう一人、予想外の人物が待っていた。
灰色の髪に空色の瞳、一分の隙もなくぴしっと黒のスーツを着こなした背の高い男。アレックスだ。
オティアに付き添っていてくれたのかとも思ったんだが……。それだとシエンがデイビットと二人っきりで上に残されることになる。デイビットはその辺の気配りはできる男だと信じてはいるが、これはこれでちょっと落ち着かない。
「お帰りなさいませ、マクラウドさま」
「やあ、アレックス」
珍しいことに、有能執事は微妙に困ったような顔をしていた。オティアがそっと目を逸らす……一体何があったんだ。
「どうした?」
「実は、シエンさまのことなのですが」
「シエンが? どうした、具合でも悪くなったのか?」
「いえ……今朝はまだ、事務所にいらっしゃっていないのです」
がつーんと、頭を金槌でぶん殴られたような気分になった。
何てこった!
オティアに問いかける。
「一緒じゃなかったのか?」
だまって首を横に振った。
「オティアさまとは途中で別れられたそうで……」
ああ、何てこったい。時間差で来やがった、今度はシエンが家出かーっ!
「すぐ電話でお知らせしようかとも思ったのですが、オティアさまが待つようにとおっしゃいまして」
「それで、俺が戻ってくるのを待ってたのか」
「はい」
つまり、あれか。『緊急』ではないと判断したのか、あるいは泡食った俺が運転ミスったら事だとでも思ったか。
アレックスに口止めしたのなら、シエンが命の危機にさらされてるって訳ではないんだろうが……俺にとっては十分すぎるくらいに『緊急』だぞ?
「オティア」
混乱しながら口を開く。出てきた声は自分でも嫌になるくらいに重い。
オティアはのろのろと首を回し、こっちを見上げてきた。膝の上の子猫をぎゅっと抱きかかえて……いつものできぱきとした利発さは欠片もない。よほどショックなんだろう。だが、呆然としてるが反応はある。
「お前は今んとこ唯一の目撃者だ。シエンと別れた時の状況を説明しろ」
こくん、とうなずく。素直だ。
素直すぎるのがかえって不安をかきたてる。
俺は。
俺って奴は、何だって今日みたいな日に寝坊しちまったのか。子どもたちと一緒に家を出ていれば。せめて送り出していたら、こんな事にはならなかったろうに。
くそ、悔やまれるぞ。
だが、落ち込んでる暇はない。
次へ→【4-9-2】迷子
▼ 【4-9-2】迷子
2009/01/05 0:59 【四話】
「家を出た時は一緒だったんだな?」
うなずいた。
「どこで別れた」
「ケーブルカーの駅」
「お前は歩いて来たのか」
また、うなずく。さっきから最小限の言葉しか話さない。元々無口な子だが今は言葉を発するのがつらくてたまらないらしい。それもシエンのこととなるとなおさらに。
「シエンは……ケーブルカーに乗ったのか」
「たぶん」
「乗る所を見た訳じゃないんだな。いつも出勤に使ってる路線か」
「ん」
「時間は?」
「いつもと同じ」
「そう……か」
オティアはまた口を閉ざしてしまった。腕の中でオーレが小さく『みゃう』と鳴いた。
降りずにそのまま乗って行ったか。あるいは手前で降りたのか。情報はわずかだが、もっと少ない手がかりで捜査を始めた事もある。
「いかがいたしましょう。警察には……」
「俺から知らせる」
「かしこまりました。それでは私は上に戻りますので、何かご用がありましたらお申し付けください」
「ありがとな、アレックス」
きちっと一礼すると、アレックスは事務所を出て行った。
ノートパソコンを立ち上げて今日のスケジュールを確認する。動かせない用事は朝一番の資料提出だけ、後は一日ずらしてもどうにかなりそうだ。
一身上の都合により本日の予定は全てキャンセル。ただ一人を探すために。
地図を引っぱり出し、ケーブルカーの路線をたどる。沿線の管轄署を調べ、名刺入れと記憶をたぐって少しでも知ってる奴がいないかツテを探した。
そう言や、警察辞めて警備会社に再就職した奴もいたよな……あいつ、どの辺で仕事してるだろう?
十代の少年がぷいと姿を消した。いなくなってからやっと2時間経ったところ。普通なら『そこらで遊んでるんだろう』ですまされるのがオチだ。
『家出だろう?』
『よくある気まぐれさ。そのうち帰ってくるって』
だが、関わりの深い人間が知らせれば、気にかけてくれる。
過保護な奴だと流すことなく、ほんの少しだけ関心を強く持ってくれる。ありふれた日常の出来事から、注意すべき事柄へとシフトする。この差は決して小さくはない。
公私混同もいいとこだが構ってられるか。シエンを見つけるためなら、どんなコネも人脈もとことん利用するさ。
あの子は誘拐の被害者だった。恐ろしい体験が心の闇に深く根を下ろし、シエンは未だに知らない人間との接触を極端に怖れている。
5月に俺が犯罪組織に誘拐された時も、どんなにか不安だったろう。目の前で現在進行形で展開される恐怖と生々しい過去の記憶に苛まれ、さぞ怯えただろうに。想像しただけで胸が張り裂けそうだ。
……それなのに、あの子は来てくれた。退院した時も、笑って出迎えてくれた。
俺は今までずっとシエンに無理をさせてきていたのかもしれない。
少しずつ降り積もってきた物が臨界点に達し、まっさらなハートがぱきりと割れた。それが、昨日の夜。
家出ぐらいしたくもなるよな。
だがな、シエン。いくらお前が大丈夫だと思っていても、トラブルってのは予想外のタイミングで不意に襲いかかって来る。決してお前を見逃してはくれない。
犯罪や事故に巻き込まれた被害者は、最初っからそうしよう、そうなるだろう、なんて欠片ほども思っちゃいない。
だから心配なんだ。
ダメもとでシエンの携帯にかけてみたが、つながらなかった。電源を落しているらしい。
昨夜のオティアとは微妙にパターンが違う。あの子は今、自分の意志で行方をくらましている。だとしたら、自分のテリトリーからできるだけ遠ざかろうとするだろう。
土地勘のない、見知らぬ場所に行こうとする。だれも自分に関心を払わない場所、自分との繋がりの希薄な場所に。
滅多に一人で出歩かない。後ろから肩に触れられただけで恐怖が蘇り、パニック状態に陥る子がそんな場所で人ごみの中を歩き回ってると思うと……背筋が凍りつき、居ても立ってもいられなくなる。
「ハロー、久しぶり」
「やあ、マックス。元気か?」
「ああ、おかげさんでね。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだ……」
思いつく限りの知り合いに電話し、シエンの特徴を伝えて探してくれるように頼んだ。正式な捜索願いではないが、『見つけたら知らせてくれ』と念を押して。
念のためサリーにも知らせておくか、とも思ったがこの時間じゃ学校か病院だろう。ランチタイムにでもかけてみるか。
電話している間、オティアは一言もしゃべらなかった。それどころかこそりとも音を立てなかった。何もせずに、ただ座っている。
「……大丈夫だから……シエンは……必ず探し出す」
俺の言ってることを聞いてるのか、聞いていないのか。相変わらずのポーカーフェイス&ノーコメント、だが顔色が良くない。オーレがしきりに体を掏り寄せている。主人の異変を感じ取っているんだ。わずかに左手が動き、白いふかふかの毛皮をなでた。
「しばらく外に出てくる。飛び込みの仕事が入ったら、今日は引き受けられない旨伝えてくれ。急ぎの場合は俺の携帯に回すように……OK?」
「…………………………………わかった」
「ペット探しの依頼が来たらこの番号にかけるように伝えてくれ」
同業者の番号をメモして渡す。こればっかりは動物が相手なだけに一秒を争う、後回しにはできない。だからこう言う場合は互いに協力できるよう、あらかじめ取り決めを交わしてあるのだ。まさか使う羽目になるとは思わなかったが。
「シエンから連絡入ったらすぐに知らせろ。迎えに行くから。それじゃ、後は頼んだぞ」
※ ※ ※ ※
……行ったか。
所長を見送ってからオティアはため息をついた。
確かにディフはプロの探偵だが、おそらく捜索は空振りに終わる。
誰にも知られず一人になりたいと思っている時、自分たちは人の認識から己の存在を消してしまうようなのだ。
物理的に見えていても意識には残らない。精神的な『忍び足』とでも言えばいいか。ほとんど無意識のうちにしていることで、自分自身がそんな風に人の目を眩ませているなんて気づかなかった。
自分はたまたま最初に『撮影所』から逃げ出す時に気づいたけれど、おそらくシエンはまだ知らない。
あの時は傷の痛みと疲労、そして空腹で体力が極端に落ちたのと、目的地に着いたことで気がゆるんで『魔法』か解けて。最悪のタイミングで追いかけきた連中に捕まってしまった。
今のシエンは怪我もしていないし体力もある。目的地に着くまでは、だれも彼を見つけられないだろう……。
家出と言っても、帰って来ないつもりじゃない。ただしばらくの間、一人になりたいだけなんだ。だから邪魔しちゃいけない。
今シエンのために自分ができることは、それだけしかないのだから。
※ ※ ※ ※
念には念を入れて古巣に顔を出し、少年課の知り合いに直接、シエンのことを頼んだ。予想通り最初は軽く受けとられたが、彼が誘拐の被害者だったこと、数ヶ月前には家族(要するに俺だ)も誘拐事件に巻き込まれていて精神的に不安定なのだと説明すると、反応が変わってきた。
「OK。パトロールの連中にもそれとなく気をつけるよう伝えておこう」
「ありがとう……感謝するよ。それじゃ」
休憩室の前を通りかかると、ひょろ長い金髪の眼鏡野郎が背中を丸めてもそもそとリンゴをかじっていた。
「よう、元気か、バイキング」
「センパイ! お久しぶりです」
ひょこん、と跳ね上がりこっちを見て、にこにこと子どもみたいに笑いかけてきたが……ふと表情を引きしめた。
「どうしました? すんごい最低ラインの顔してますよ」
「そうか?」
「はい。さっき少年課から出てきましたよね……何か問題でも?」
相変わらず観察眼が鋭い男だ。恐らく、実際には口にしたことよりもっと多くのことに気づいてる。ただ、言わないだけだ。
「うちの金髪の双子の一人がさ……行方不明なんだ」
「どっちの子が?」
「シエンだよ。レオンの事務所でアシスタントしてる方の子だ」
「ああ。あの大人しそうな子ですね」
暗にオティアはそうじゃないと言わんばかりの口調だ。
「……あの子、確か誘拐されて麻薬工場で働かされてましたよね」
「ああ」
「その前に居た施設もあんまりいい所じゃなかったし………」
「誰かにかっさらわれたって訳じゃないんだ。自分の意志で姿を消してる。原因はわかってるんだ。昨日の夜にはもう一人の子が家、飛び出してるし……いや、そっちはもう戻って来てるんだけどな」
情けないくらいに支離滅裂だがどうにかただ事じゃない! って雰囲気は伝わったらしい。エリックは眼鏡の向こうで青緑の瞳を見開き、ちょこんと首をかしげた。
「あれあれ。かなり深刻、かつ厄介な状況みたいですね」
「ああ。深刻だ……俺、そんなに酷い面してるか?」
「はい。54時間不眠不休で追いかけた手がかりが実はスカでした、はい、一からやり直し! みたいな」
「やけに具体的だな、おい……」
ふーっと息を吐く。苦笑いする気力もありゃしない。
「あの……センパイ」
「何だ?」
「オレに何かお手伝いできること、ありますか」
「……ある。頼みたいことがあるんだ」
「どうぞ、言ってください」
メモ用紙にシエンの携帯番号を書き付け、エリックに手渡した。
「この番号の携帯、探してる。電源入ったら位置特定してくれ。できるよな?」
「そりゃあ……できますけど……」
微妙に目、そらしてやがる。お決まりの鼻にかかった北欧式の発音が、いつも以上に内に籠って響く。迷ってるんだな、すまん、無茶言って。
「わかってるんだ。公私混同もいいとこだって。だけど……エリック……………」
一瞬、モルグの検死台の上に乗ってるシエンの姿が脳裏に浮かび、あわてて払い除ける。
喉が震えた。
「…………頼む」
「はい」
ひょろりと指の長い、北欧系特有の血管が透けて見えそうな白い手を握りしめた。
「ありがとう」
※ ※ ※ ※
(はあ……やばかった)
ディフを見送ってから、ハンス・エリック・スヴェンソンは秘かに冷や汗を拭った。
技術的にできるってわかってる人から頼まれるとごまかせない、断れない。
それに、あのセンパイの心配そうな顔ときたら……まるで今にも泣き出しそうで、昔みたいに肩を抱いてぽんぽんと背中を撫でたい衝動に駆られた。
が、左手の薬指に光る指輪が。銀色の表面に刻印されたライオンが理性を呼び覚ました。
いけない、いけない。慎みを持て、ハンス・エリック!
手の中のメモを見る。
無味乾燥な一連の数字に、記憶の中の少年の姿をだぶらせる。
白人、男性、くすんだ金髪に紫の瞳、やせ形、小柄。名前はシエン・セーブル。よし、覚えたぞ。
外に出る時も、できるだけ気を配ってこの子を探そう。
あの人のために。
次へ→【4-9-3】橋を渡って
うなずいた。
「どこで別れた」
「ケーブルカーの駅」
「お前は歩いて来たのか」
また、うなずく。さっきから最小限の言葉しか話さない。元々無口な子だが今は言葉を発するのがつらくてたまらないらしい。それもシエンのこととなるとなおさらに。
「シエンは……ケーブルカーに乗ったのか」
「たぶん」
「乗る所を見た訳じゃないんだな。いつも出勤に使ってる路線か」
「ん」
「時間は?」
「いつもと同じ」
「そう……か」
オティアはまた口を閉ざしてしまった。腕の中でオーレが小さく『みゃう』と鳴いた。
降りずにそのまま乗って行ったか。あるいは手前で降りたのか。情報はわずかだが、もっと少ない手がかりで捜査を始めた事もある。
「いかがいたしましょう。警察には……」
「俺から知らせる」
「かしこまりました。それでは私は上に戻りますので、何かご用がありましたらお申し付けください」
「ありがとな、アレックス」
きちっと一礼すると、アレックスは事務所を出て行った。
ノートパソコンを立ち上げて今日のスケジュールを確認する。動かせない用事は朝一番の資料提出だけ、後は一日ずらしてもどうにかなりそうだ。
一身上の都合により本日の予定は全てキャンセル。ただ一人を探すために。
地図を引っぱり出し、ケーブルカーの路線をたどる。沿線の管轄署を調べ、名刺入れと記憶をたぐって少しでも知ってる奴がいないかツテを探した。
そう言や、警察辞めて警備会社に再就職した奴もいたよな……あいつ、どの辺で仕事してるだろう?
十代の少年がぷいと姿を消した。いなくなってからやっと2時間経ったところ。普通なら『そこらで遊んでるんだろう』ですまされるのがオチだ。
『家出だろう?』
『よくある気まぐれさ。そのうち帰ってくるって』
だが、関わりの深い人間が知らせれば、気にかけてくれる。
過保護な奴だと流すことなく、ほんの少しだけ関心を強く持ってくれる。ありふれた日常の出来事から、注意すべき事柄へとシフトする。この差は決して小さくはない。
公私混同もいいとこだが構ってられるか。シエンを見つけるためなら、どんなコネも人脈もとことん利用するさ。
あの子は誘拐の被害者だった。恐ろしい体験が心の闇に深く根を下ろし、シエンは未だに知らない人間との接触を極端に怖れている。
5月に俺が犯罪組織に誘拐された時も、どんなにか不安だったろう。目の前で現在進行形で展開される恐怖と生々しい過去の記憶に苛まれ、さぞ怯えただろうに。想像しただけで胸が張り裂けそうだ。
……それなのに、あの子は来てくれた。退院した時も、笑って出迎えてくれた。
俺は今までずっとシエンに無理をさせてきていたのかもしれない。
少しずつ降り積もってきた物が臨界点に達し、まっさらなハートがぱきりと割れた。それが、昨日の夜。
家出ぐらいしたくもなるよな。
だがな、シエン。いくらお前が大丈夫だと思っていても、トラブルってのは予想外のタイミングで不意に襲いかかって来る。決してお前を見逃してはくれない。
犯罪や事故に巻き込まれた被害者は、最初っからそうしよう、そうなるだろう、なんて欠片ほども思っちゃいない。
だから心配なんだ。
ダメもとでシエンの携帯にかけてみたが、つながらなかった。電源を落しているらしい。
昨夜のオティアとは微妙にパターンが違う。あの子は今、自分の意志で行方をくらましている。だとしたら、自分のテリトリーからできるだけ遠ざかろうとするだろう。
土地勘のない、見知らぬ場所に行こうとする。だれも自分に関心を払わない場所、自分との繋がりの希薄な場所に。
滅多に一人で出歩かない。後ろから肩に触れられただけで恐怖が蘇り、パニック状態に陥る子がそんな場所で人ごみの中を歩き回ってると思うと……背筋が凍りつき、居ても立ってもいられなくなる。
「ハロー、久しぶり」
「やあ、マックス。元気か?」
「ああ、おかげさんでね。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだ……」
思いつく限りの知り合いに電話し、シエンの特徴を伝えて探してくれるように頼んだ。正式な捜索願いではないが、『見つけたら知らせてくれ』と念を押して。
念のためサリーにも知らせておくか、とも思ったがこの時間じゃ学校か病院だろう。ランチタイムにでもかけてみるか。
電話している間、オティアは一言もしゃべらなかった。それどころかこそりとも音を立てなかった。何もせずに、ただ座っている。
「……大丈夫だから……シエンは……必ず探し出す」
俺の言ってることを聞いてるのか、聞いていないのか。相変わらずのポーカーフェイス&ノーコメント、だが顔色が良くない。オーレがしきりに体を掏り寄せている。主人の異変を感じ取っているんだ。わずかに左手が動き、白いふかふかの毛皮をなでた。
「しばらく外に出てくる。飛び込みの仕事が入ったら、今日は引き受けられない旨伝えてくれ。急ぎの場合は俺の携帯に回すように……OK?」
「…………………………………わかった」
「ペット探しの依頼が来たらこの番号にかけるように伝えてくれ」
同業者の番号をメモして渡す。こればっかりは動物が相手なだけに一秒を争う、後回しにはできない。だからこう言う場合は互いに協力できるよう、あらかじめ取り決めを交わしてあるのだ。まさか使う羽目になるとは思わなかったが。
「シエンから連絡入ったらすぐに知らせろ。迎えに行くから。それじゃ、後は頼んだぞ」
※ ※ ※ ※
……行ったか。
所長を見送ってからオティアはため息をついた。
確かにディフはプロの探偵だが、おそらく捜索は空振りに終わる。
誰にも知られず一人になりたいと思っている時、自分たちは人の認識から己の存在を消してしまうようなのだ。
物理的に見えていても意識には残らない。精神的な『忍び足』とでも言えばいいか。ほとんど無意識のうちにしていることで、自分自身がそんな風に人の目を眩ませているなんて気づかなかった。
自分はたまたま最初に『撮影所』から逃げ出す時に気づいたけれど、おそらくシエンはまだ知らない。
あの時は傷の痛みと疲労、そして空腹で体力が極端に落ちたのと、目的地に着いたことで気がゆるんで『魔法』か解けて。最悪のタイミングで追いかけきた連中に捕まってしまった。
今のシエンは怪我もしていないし体力もある。目的地に着くまでは、だれも彼を見つけられないだろう……。
家出と言っても、帰って来ないつもりじゃない。ただしばらくの間、一人になりたいだけなんだ。だから邪魔しちゃいけない。
今シエンのために自分ができることは、それだけしかないのだから。
※ ※ ※ ※
念には念を入れて古巣に顔を出し、少年課の知り合いに直接、シエンのことを頼んだ。予想通り最初は軽く受けとられたが、彼が誘拐の被害者だったこと、数ヶ月前には家族(要するに俺だ)も誘拐事件に巻き込まれていて精神的に不安定なのだと説明すると、反応が変わってきた。
「OK。パトロールの連中にもそれとなく気をつけるよう伝えておこう」
「ありがとう……感謝するよ。それじゃ」
休憩室の前を通りかかると、ひょろ長い金髪の眼鏡野郎が背中を丸めてもそもそとリンゴをかじっていた。
「よう、元気か、バイキング」
「センパイ! お久しぶりです」
ひょこん、と跳ね上がりこっちを見て、にこにこと子どもみたいに笑いかけてきたが……ふと表情を引きしめた。
「どうしました? すんごい最低ラインの顔してますよ」
「そうか?」
「はい。さっき少年課から出てきましたよね……何か問題でも?」
相変わらず観察眼が鋭い男だ。恐らく、実際には口にしたことよりもっと多くのことに気づいてる。ただ、言わないだけだ。
「うちの金髪の双子の一人がさ……行方不明なんだ」
「どっちの子が?」
「シエンだよ。レオンの事務所でアシスタントしてる方の子だ」
「ああ。あの大人しそうな子ですね」
暗にオティアはそうじゃないと言わんばかりの口調だ。
「……あの子、確か誘拐されて麻薬工場で働かされてましたよね」
「ああ」
「その前に居た施設もあんまりいい所じゃなかったし………」
「誰かにかっさらわれたって訳じゃないんだ。自分の意志で姿を消してる。原因はわかってるんだ。昨日の夜にはもう一人の子が家、飛び出してるし……いや、そっちはもう戻って来てるんだけどな」
情けないくらいに支離滅裂だがどうにかただ事じゃない! って雰囲気は伝わったらしい。エリックは眼鏡の向こうで青緑の瞳を見開き、ちょこんと首をかしげた。
「あれあれ。かなり深刻、かつ厄介な状況みたいですね」
「ああ。深刻だ……俺、そんなに酷い面してるか?」
「はい。54時間不眠不休で追いかけた手がかりが実はスカでした、はい、一からやり直し! みたいな」
「やけに具体的だな、おい……」
ふーっと息を吐く。苦笑いする気力もありゃしない。
「あの……センパイ」
「何だ?」
「オレに何かお手伝いできること、ありますか」
「……ある。頼みたいことがあるんだ」
「どうぞ、言ってください」
メモ用紙にシエンの携帯番号を書き付け、エリックに手渡した。
「この番号の携帯、探してる。電源入ったら位置特定してくれ。できるよな?」
「そりゃあ……できますけど……」
微妙に目、そらしてやがる。お決まりの鼻にかかった北欧式の発音が、いつも以上に内に籠って響く。迷ってるんだな、すまん、無茶言って。
「わかってるんだ。公私混同もいいとこだって。だけど……エリック……………」
一瞬、モルグの検死台の上に乗ってるシエンの姿が脳裏に浮かび、あわてて払い除ける。
喉が震えた。
「…………頼む」
「はい」
ひょろりと指の長い、北欧系特有の血管が透けて見えそうな白い手を握りしめた。
「ありがとう」
※ ※ ※ ※
(はあ……やばかった)
ディフを見送ってから、ハンス・エリック・スヴェンソンは秘かに冷や汗を拭った。
技術的にできるってわかってる人から頼まれるとごまかせない、断れない。
それに、あのセンパイの心配そうな顔ときたら……まるで今にも泣き出しそうで、昔みたいに肩を抱いてぽんぽんと背中を撫でたい衝動に駆られた。
が、左手の薬指に光る指輪が。銀色の表面に刻印されたライオンが理性を呼び覚ました。
いけない、いけない。慎みを持て、ハンス・エリック!
手の中のメモを見る。
無味乾燥な一連の数字に、記憶の中の少年の姿をだぶらせる。
白人、男性、くすんだ金髪に紫の瞳、やせ形、小柄。名前はシエン・セーブル。よし、覚えたぞ。
外に出る時も、できるだけ気を配ってこの子を探そう。
あの人のために。
次へ→【4-9-3】橋を渡って
▼ 【4-9-3】橋を渡って
2009/01/05 1:00 【四話】
警察署を出てから携帯を確かめる。
……新着メールも電話着信も無し。手がかりなし、か。
いや、考えようによっちゃ悪い知らせがなかったとも言えるだろ。しっかりしろよディフォレスト。
ちょっとでも気がゆるむとうつむきそうになる。奥歯を噛みしめ、無理矢理ぐいっと顔を上げた。
通り一本渡った向かいの食堂に、ぼちぼち客が入り始めている。そろそろ昼飯時か……オティアのことも心配だし、一度事務所に戻ろう。
※ ※ ※ ※
「戻ったぞ」
オティアはぽつん、とデスクの前に座っていた。俺が部屋を出たときと変わらない姿勢で膝に白い猫をのせたまま、相変わらずぼんやりしている。こいつ、あれからぴくりとも動いてないんじゃないかってくらいに。
俺が入って行くとのろのろとこっちを見て、それから応接用のテーブルに視線を向けた。
ナプキンのかかった大皿と保温マグが二つ、銀のトレイに乗っかってる。
「アレックスか」
「……」
こくっとうなずいた。ナプキンをめくると、ラップで包まれたサンドイッチときっちり切り分けられた果物が並んでいた。不覚にも食い物を見て初めて気づく。ランチタイムだってわかってたのに何も食うもん買ってこなかったことに。
(しっかりしろ! ヒウェルじゃあるまいし)
人が料理をする理由は大きく別けて二つ。自分が食べたいか、だれかに食べてほしいか、だ。仕事だからとか必要に差し迫ってとかいろいろ細かな枝道はあるが、突き詰めればだいたいこのどちらかにたどり着く。
この場合は……。
ありがとな、アレックス。
「せっかくだからいただくか」
声をかけると黙って立ち上がり、とことこと歩きだした。その足下を白い子猫がついてゆく。飼い主に寄り添い後になり先になり足の間をするすると、長いしっぽを巻き付けて。
事務所の隅の簡易キッチンに行くと、オティアは蛇口をひねり、ヤカンに水を入れて火にかけた。それがすむとポットと茶葉用意して、カップを取り出し暖めて……機械みたいに手際よく紅茶を入れている。
相も変わらずのポーカフェィス、だがとりあえずやるべきことができてほっとしているようにも見えた。
その間にこっちはラップを外してアレックスからの差し入れを開封する。分厚く切ったライ麦入りのパンは彼の細君、ソフィアの実家のルーセントベーカリーの定番商品だ。中身は厚切りのハムにチーズ、スライスしたトマト、レタス、ゆで卵。
こっちは俺用だな。
薄切りの白パンに卵のペーストをはさんだ小振りのやつはオティアの分だろう。
保温マグの中身は熱々のコーンスープ。ちゃんと栄養にも気を配っていてくれるんだ……アレックスの心づかいが疲弊した心と体に染みた。
「みゃう」
オーレに呼ばれて顔をあげる。オティアが湯気のたつマグカップを二つ持って戻ってくるところだった。
「サンキュ」
ことん、とテーブルにカップを置き、今度は猫用の皿にドライフードをさらさらと入れている。オーレは後足をたたんできちんと座り、行儀よく待っている。
そして昼食を食べる。
人間はソファに座ってテーブルの上、猫はその隣の床の上で。
オティアも俺もしゃべらない。ただカリカリと規則正しく、オーレがドライフードをかじる音だけが響く。
分厚いサンドイッチにかぶりつき、ほおばった。わしゃわしゃと噛んで、飲みくだす。
…………美味い。
不思議なもんだ。腹に物が入ってく、ただそれだけのことでなんとなく余裕らしきものができたような気がする。ついさっきまでは使い古したゴムみたいにのびきって、今にもぷちっといきそうだった。
ちらっとオティアの方をうかがうと、小さなサンドイッチを少しずつ、もそもそと口に入れている。ほんの少しのパンと卵のペーストを長い長い時間をかけて噛んで、紅茶で無理矢理、のどの奥に流し込んでいる。
苦い薬でも飲むみたいに。
決して苦手なメニューじゃない。そもそもオティアはほとんど好き嫌いがない。出されたものは何でも食べる……甘すぎるものが苦手なくらいで。
子供部屋の壁に刻まれた傷を思い出す。黄ばんだ歯、荒れた肌。
こいつ、ストレスが消化系に出るからなあ。無理しやがって。食わないと俺が心配するから、か?
「オティア」
だまったまま物問いたげな視線を向けてきた。
「水分、優先してとっとけ。無理に食っても消化しきれずかえって体がつらいぞ」
こくっとうなずき、素直にお茶を口に含んだ。マグカップを両手で抱えるようにしてちびちびと。
少しほっとしてこっちもサンドイッチの残りを頬張った。熱いスープをすすってから携帯を取り出し、開く。この時間なら、サリーに電話しても大丈夫かな……。
「ハロー、ディフ?」
4コールで出てくれた。
「やあ、サリー。ちょっと今話してもいいかな」
「いいですよ?」
「シエン、君のとこに行ってないか?」
阿呆か、俺は! 大学か動物病院か、どっちにいるのか確認とるのが先だろうがよ……。
「いいえ? どうかしましたか?」
「うん、実は、その……シエンがな。朝、家を出たっきりどこに居るかわからないんだ」
「え、今度はシエンですか」
「うん、今度はシエンが………って、何で知ってるんだ?」
まるで昨夜のオティアの家出を知ってるみたいな口ぶりで、こっちも思わず知ってるものと決めてかかってするりと答えちまったが。よく考えるとサリーがあのことを知ってるはずはないじゃないか!
「昨夜、電話もらったんですよ、ヒウェルから。オティアが行ってないかって」
「……そうか」
一応、サリーんとこにも確認入れてたのか、ヒウェルの奴。なら、納得だ。
「俺も、病院が終わったら探すの手伝いますよ」
「ああ……助かるよ。すまんな、サリー」
「どういたしまして」
ちらりとオティアの方を見る。空っぽになったカップを抱えて、じっとこっちを見ていた。
昨日の夜、同じようにうつろなまなざしでカップを抱えていたもう一人の姿が重なる。
シエン。
今頃どうしているだろう? 一人で寂しがってはいまいか。心細くて震えてはいないだろうか。一年前の今頃、心に決めた。この子たちのために自分にできることをするしかないって……。
人を探すのには慣れている。必要以上に心を揺らさず、冷静に手がかりを追跡し、組み立てて結果にたどり着くのが俺の生業であり、心身に染み付いてるはずの習性だ。だが、今はそれさえも揺らぎそうになる。
「ディフ」
「うん?」
「大丈夫ですよ……大丈夫」
電話の向こうから注がれるしっとりと落ち着いたやわらかな声が、乾涸びた心臓を包み込んでくれるような気がした。
「うん………ありがとう」
「それじゃ、また後で」
携帯を閉じて顔を上げると、ちょうどお姫様はお食事を終えられて毛繕いをしていた。前足でくしくしと顔をなで回し、お次はピンク色の舌でその前足を丁寧になめる。ひげを整え、お口のまわりをぺろりとなめると、オーレは顔をあげて、とんっとオティアの膝に飛び乗った。
首輪に下げた金色の鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てる。まるでそれが何かの合図だったようにオティアが口を開き……ぽそりと言った。
「たぶん、橋を渡った」
「シエンが?」
こくっとうなずく。
橋。
そうか、橋、か。
サンフランシスコで『橋』と言ったら……
「ゴールデンゲイトブリッジか? それともベイブリッジ?」
「東」
「……ベイブリッジか」
ってことは、海を渡ってオークランドまで行っちまったのか、シエン。何て遠出だ、思い切ったことを。
だが、これで捜索範囲が絞り込めるぞ。
慌ただしく携帯を開く。確か警備会社に転職したやつが一人、そっちに勤務していたはずだ。
一人ぼっちの子供がふらふら歩いてもあまり気にかけられない所。
適度ににぎやかで、人の多い場所。
近くに来たら遊びに来いと言われたが、その頃は『チャンスがないよ、そっちから来やがれ』と笑って答えた。
「ハロー? うん、俺だ。ちょっと聞きたいんだが……」
事の次第を話していったん電話を切り、皿とカップを洗ってデスクに戻る。
「み」
「どうした?」
オーレがぴん、と耳を立ててこっちを見上げてた。
次の瞬間、電話が鳴る。待ちかねた相手からだった。
「マックス。いたぞ。お前さんが言った通りの子が」
「すぐ、迎えに行く! 声はかけるな、そっと見てるだけにしてくれ……人見知りの激しい子だから!」
「おいおい、落ち着けって。そんな大声出さなくってもちゃんと聞こえるぞ? まだまだ耳は達者だからな」
「あ……すまん。ありがとう、恩に着る!」
電話を切ってから、デスクにつっぷしたまましばらく動けなかった。情けないことに一気に力が抜けちまった。
しっかりしろ、安心するのはまだ早い。
「……」
気配を感じて顔をあげると、オティアがちらっとこっちを見ていた。
「一緒に来るか?」
尋ねると、だまって首を横に振った。
「わかった。それじゃ、留守番頼んだぞ」
次へ→【4-9-4】すれちがい
……新着メールも電話着信も無し。手がかりなし、か。
いや、考えようによっちゃ悪い知らせがなかったとも言えるだろ。しっかりしろよディフォレスト。
ちょっとでも気がゆるむとうつむきそうになる。奥歯を噛みしめ、無理矢理ぐいっと顔を上げた。
通り一本渡った向かいの食堂に、ぼちぼち客が入り始めている。そろそろ昼飯時か……オティアのことも心配だし、一度事務所に戻ろう。
※ ※ ※ ※
「戻ったぞ」
オティアはぽつん、とデスクの前に座っていた。俺が部屋を出たときと変わらない姿勢で膝に白い猫をのせたまま、相変わらずぼんやりしている。こいつ、あれからぴくりとも動いてないんじゃないかってくらいに。
俺が入って行くとのろのろとこっちを見て、それから応接用のテーブルに視線を向けた。
ナプキンのかかった大皿と保温マグが二つ、銀のトレイに乗っかってる。
「アレックスか」
「……」
こくっとうなずいた。ナプキンをめくると、ラップで包まれたサンドイッチときっちり切り分けられた果物が並んでいた。不覚にも食い物を見て初めて気づく。ランチタイムだってわかってたのに何も食うもん買ってこなかったことに。
(しっかりしろ! ヒウェルじゃあるまいし)
人が料理をする理由は大きく別けて二つ。自分が食べたいか、だれかに食べてほしいか、だ。仕事だからとか必要に差し迫ってとかいろいろ細かな枝道はあるが、突き詰めればだいたいこのどちらかにたどり着く。
この場合は……。
ありがとな、アレックス。
「せっかくだからいただくか」
声をかけると黙って立ち上がり、とことこと歩きだした。その足下を白い子猫がついてゆく。飼い主に寄り添い後になり先になり足の間をするすると、長いしっぽを巻き付けて。
事務所の隅の簡易キッチンに行くと、オティアは蛇口をひねり、ヤカンに水を入れて火にかけた。それがすむとポットと茶葉用意して、カップを取り出し暖めて……機械みたいに手際よく紅茶を入れている。
相も変わらずのポーカフェィス、だがとりあえずやるべきことができてほっとしているようにも見えた。
その間にこっちはラップを外してアレックスからの差し入れを開封する。分厚く切ったライ麦入りのパンは彼の細君、ソフィアの実家のルーセントベーカリーの定番商品だ。中身は厚切りのハムにチーズ、スライスしたトマト、レタス、ゆで卵。
こっちは俺用だな。
薄切りの白パンに卵のペーストをはさんだ小振りのやつはオティアの分だろう。
保温マグの中身は熱々のコーンスープ。ちゃんと栄養にも気を配っていてくれるんだ……アレックスの心づかいが疲弊した心と体に染みた。
「みゃう」
オーレに呼ばれて顔をあげる。オティアが湯気のたつマグカップを二つ持って戻ってくるところだった。
「サンキュ」
ことん、とテーブルにカップを置き、今度は猫用の皿にドライフードをさらさらと入れている。オーレは後足をたたんできちんと座り、行儀よく待っている。
そして昼食を食べる。
人間はソファに座ってテーブルの上、猫はその隣の床の上で。
オティアも俺もしゃべらない。ただカリカリと規則正しく、オーレがドライフードをかじる音だけが響く。
分厚いサンドイッチにかぶりつき、ほおばった。わしゃわしゃと噛んで、飲みくだす。
…………美味い。
不思議なもんだ。腹に物が入ってく、ただそれだけのことでなんとなく余裕らしきものができたような気がする。ついさっきまでは使い古したゴムみたいにのびきって、今にもぷちっといきそうだった。
ちらっとオティアの方をうかがうと、小さなサンドイッチを少しずつ、もそもそと口に入れている。ほんの少しのパンと卵のペーストを長い長い時間をかけて噛んで、紅茶で無理矢理、のどの奥に流し込んでいる。
苦い薬でも飲むみたいに。
決して苦手なメニューじゃない。そもそもオティアはほとんど好き嫌いがない。出されたものは何でも食べる……甘すぎるものが苦手なくらいで。
子供部屋の壁に刻まれた傷を思い出す。黄ばんだ歯、荒れた肌。
こいつ、ストレスが消化系に出るからなあ。無理しやがって。食わないと俺が心配するから、か?
「オティア」
だまったまま物問いたげな視線を向けてきた。
「水分、優先してとっとけ。無理に食っても消化しきれずかえって体がつらいぞ」
こくっとうなずき、素直にお茶を口に含んだ。マグカップを両手で抱えるようにしてちびちびと。
少しほっとしてこっちもサンドイッチの残りを頬張った。熱いスープをすすってから携帯を取り出し、開く。この時間なら、サリーに電話しても大丈夫かな……。
「ハロー、ディフ?」
4コールで出てくれた。
「やあ、サリー。ちょっと今話してもいいかな」
「いいですよ?」
「シエン、君のとこに行ってないか?」
阿呆か、俺は! 大学か動物病院か、どっちにいるのか確認とるのが先だろうがよ……。
「いいえ? どうかしましたか?」
「うん、実は、その……シエンがな。朝、家を出たっきりどこに居るかわからないんだ」
「え、今度はシエンですか」
「うん、今度はシエンが………って、何で知ってるんだ?」
まるで昨夜のオティアの家出を知ってるみたいな口ぶりで、こっちも思わず知ってるものと決めてかかってするりと答えちまったが。よく考えるとサリーがあのことを知ってるはずはないじゃないか!
「昨夜、電話もらったんですよ、ヒウェルから。オティアが行ってないかって」
「……そうか」
一応、サリーんとこにも確認入れてたのか、ヒウェルの奴。なら、納得だ。
「俺も、病院が終わったら探すの手伝いますよ」
「ああ……助かるよ。すまんな、サリー」
「どういたしまして」
ちらりとオティアの方を見る。空っぽになったカップを抱えて、じっとこっちを見ていた。
昨日の夜、同じようにうつろなまなざしでカップを抱えていたもう一人の姿が重なる。
シエン。
今頃どうしているだろう? 一人で寂しがってはいまいか。心細くて震えてはいないだろうか。一年前の今頃、心に決めた。この子たちのために自分にできることをするしかないって……。
人を探すのには慣れている。必要以上に心を揺らさず、冷静に手がかりを追跡し、組み立てて結果にたどり着くのが俺の生業であり、心身に染み付いてるはずの習性だ。だが、今はそれさえも揺らぎそうになる。
「ディフ」
「うん?」
「大丈夫ですよ……大丈夫」
電話の向こうから注がれるしっとりと落ち着いたやわらかな声が、乾涸びた心臓を包み込んでくれるような気がした。
「うん………ありがとう」
「それじゃ、また後で」
携帯を閉じて顔を上げると、ちょうどお姫様はお食事を終えられて毛繕いをしていた。前足でくしくしと顔をなで回し、お次はピンク色の舌でその前足を丁寧になめる。ひげを整え、お口のまわりをぺろりとなめると、オーレは顔をあげて、とんっとオティアの膝に飛び乗った。
首輪に下げた金色の鈴が、ちりん、と澄んだ音を立てる。まるでそれが何かの合図だったようにオティアが口を開き……ぽそりと言った。
「たぶん、橋を渡った」
「シエンが?」
こくっとうなずく。
橋。
そうか、橋、か。
サンフランシスコで『橋』と言ったら……
「ゴールデンゲイトブリッジか? それともベイブリッジ?」
「東」
「……ベイブリッジか」
ってことは、海を渡ってオークランドまで行っちまったのか、シエン。何て遠出だ、思い切ったことを。
だが、これで捜索範囲が絞り込めるぞ。
慌ただしく携帯を開く。確か警備会社に転職したやつが一人、そっちに勤務していたはずだ。
一人ぼっちの子供がふらふら歩いてもあまり気にかけられない所。
適度ににぎやかで、人の多い場所。
近くに来たら遊びに来いと言われたが、その頃は『チャンスがないよ、そっちから来やがれ』と笑って答えた。
「ハロー? うん、俺だ。ちょっと聞きたいんだが……」
事の次第を話していったん電話を切り、皿とカップを洗ってデスクに戻る。
「み」
「どうした?」
オーレがぴん、と耳を立ててこっちを見上げてた。
次の瞬間、電話が鳴る。待ちかねた相手からだった。
「マックス。いたぞ。お前さんが言った通りの子が」
「すぐ、迎えに行く! 声はかけるな、そっと見てるだけにしてくれ……人見知りの激しい子だから!」
「おいおい、落ち着けって。そんな大声出さなくってもちゃんと聞こえるぞ? まだまだ耳は達者だからな」
「あ……すまん。ありがとう、恩に着る!」
電話を切ってから、デスクにつっぷしたまましばらく動けなかった。情けないことに一気に力が抜けちまった。
しっかりしろ、安心するのはまだ早い。
「……」
気配を感じて顔をあげると、オティアがちらっとこっちを見ていた。
「一緒に来るか?」
尋ねると、だまって首を横に振った。
「わかった。それじゃ、留守番頼んだぞ」
次へ→【4-9-4】すれちがい
▼ 【4-9-4】すれちがい
2009/01/05 1:01 【四話】
事務所のあるユニオン・スクエアから280号線を北東に走り、80号線に乗り換えてベイ・ブリッジを渡る。車なら早い、直通だし途中でバス停や駅に止まることもない。
信号は守らなくちゃいけないが。
『すげえ、橋で海渡るのか!』
高校の頃、はじめてこの橋を渡ったときの事を思い出す。どうしても自分の足で渡りたくて、バスを降りる! と騒いでたらヨーコにぴしゃりと言われた。
『この橋は車専用よ。何だったらトランスフォームでもする?』
あきらめてバスの窓から足下の海を眺めるにとどまった。
『あきれたねー、テキサスにだって橋ぐらいあるだろーがよ』
『こんなでっかい橋はない!』
『そうかよ』
こばかにしたような口を叩きつつなぜかヒウェルはとくいげで、日本の瀬戸大橋ができるまでは世界一の吊り橋だったのだと講釈をたれた。
あの時はクラスの連中が一緒だったな……。一年の留学期間が終わり、ヨーコが帰国するからってんで、その前に観光地めぐりをしようってことになって。
あの日俺が友だちと一緒に目を輝かせて渡ったこの橋を、シエンは今日、どんな気持ちでを渡ったのだろう。
橋を渡り、サンフランシスコ市からオークランド市に入ったところで580号線に乗り換え、南東に走る。Golf Links Rd/98th Av……よし、ここだ。高速を降りて98th Avを横切るようにして左折し、Golf Links Rdに入る。すぐに右側に目的地が見えてきた。
The Oakland Zoo(オークランド動物園)。
園内に入ると道幅は急に狭くなり、両脇の街路樹がこんもりと密度を増す。
駐車場に車をとめて、まっすぐに昔の知り合いの待つ事務所へと向かった。自然と早足になる。
平日なので人は少ないが、それでもさほど広くはない園内はそれなりににぎわっていた。手をつないでポップコーンや綿菓子、風船を片手に歩く親子連れやカップルの間をざかざかとすり抜ける。
「よう、来たな、マックス……元気そうだな」
「おかげさんでな。シエンはどこに?」
「遊園地だよ。こっちだ」
カランカラン、ぶぅーん……ボロロローン、ヒュウン、プワン、パフン。
年期の入った遊具の奏でる、どこか間の抜けた音が聞こえてくる。
ここには動物園だけではなく小さな遊園地もある。全体的にのんびりとした空気で絶叫系のドカーンとかバキーン!とか言うアミューズメントはあまり縁がない。
それだけに小さな子どもをつれた家族が多い。
「ランチタイムを終えて園内を巡回してる警備員が見つけたんだ。」
「そっか……」
「運が良かった。しかし、いつの間にそこに居たのかさっぱりわからない。一人歩きの子供には係員が注意を払うようにしてるんだ。もっと手前で見つかりそうなものなのにな?」
確かにあの年頃の子はほとんどいない。ハイティーンの子どもらはもっと派手な遊びのできる場所に行くだろうしな。そう言えば俺たちも結構浮いていた。
『やだ。あたし、ぜったいそっち行かない』
『どうしたんだヨーコ。顔ひきつってるぜ? あー……はあ、もしかしては虫類は苦手ですかぁ?』
『ヒーウェールー……?』
は虫類舎の前を通りすぎながらくすっと笑いがこみあげる。笑顔でヒウェルのこめかみに握った拳の第二関節をぐりぐりねじ込むちっちゃな女の子を思い出して。
「今もやってんのか? ニシキヘビを首に巻いて写真撮る、あれ」
「いや。動物愛護の観点に基づき自粛中だ。何だったら特別に飼育係に交渉してもいいが」
「……遠慮しとく」
園内には所々に芝生に覆われたなだらかな丸い斜面が広がり、家族連れが弁当を広げている。11月とは言え、まだまだ日差しが照っているとあたたかい。風もほとんどないし、絶好のピクニック日和だ。
「居たぞ。あそこだ」
小さなメリーゴーランドと、ボール当ての屋台の間にぽつんと金髪の少年が立っている。柵に寄りかかってぼんやりと、目の前を通り過ぎるつくりものの馬や馬車を眺めて。
沈んだ表情だ。あまり、楽しそうじゃない。にぎやかな音楽と色彩の中に、そこだけ取り残されたように色あせた『つぎ』が当たってる。
そんな感じがした。
「まちがいない。シエンだ……」
「そうか。こっちも安心したよ」
「世話んなった。そのうち改めてお礼させてくれ」
「気にすんな」
ばしっと大きな手のひらで背中を叩かれる。
「それが仕事だ」
旧い友人は物陰からそれとなくシエンを見守っていた警備員に声をかけ、戻って行く。手を振って見送り、深呼吸。
駆け出したい気持ちを押さえてまず、捜査協力を頼んだ友人たち……サリーに、エリック、そしてアレックスらに宛てて一括送信でメールを送る。『迷子は無事、保護した。協力感謝する』、と。
送信ボタンを押して、携帯の画面の中でくるくる点滅するアイコンを見ながら次の一手を考える。
さて、こんな時何て言って迎えに行けばいいんだろう。
探したぞ? どこ行ってたんだ? どうしてこんなことを?
違うな。心配したのは事実、だがそれで迷子になった子どもを責めるのはお門違いってもんだろう。
一番心細いのは、一人でこんな遠くまで来たシエン自身なのだから。
近づいて行くと、シエンは顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が一瞬、ゆらぐ。涙だろうか。それとも……。
「シエン」
「ごめん……なさい……」
どれほど心配したか、なんて言う必要もない。この子はちゃんと知ってる。わかってる。だからこんな顔して『ごめんなさい』って言うんだ。
「………無事で………よかった」
張りつめた想いを深い息と一緒に吐き出した。こわばっていた肩がすーっと降りて、元の位置に戻るのがわかった。
シエンと並んで、前屈みに柵に寄りかかる。ひと呼吸置いて、話しかけた。
「どうして、ここに?」
「ずっと、入ってみたかったんだ、遊園地」
「そうか。もっと早く連れてきてやればよかったな」
首を横に振った。
遊園地ならサンフランシスコにもいくつかある。ここまで来たのは、やっぱり遠くに行きたいって気持ちもあったんだろうか。
「せっかくだから何か遊んでくか?」
「ん……でも……」
うつむいた。細い肩が震え、紫の瞳のふちに透明な雫がにじみ出す。手を伸ばし、そっと、そっと……距離をつめて行き、柵を握る小さな手に触れる。
「ごめん……なさい………」
「そうだな……確かに、心配した。あまり治安の良くない場所もあるし……そっちに行ってたらどうしようって」
シエンは柵から手を離し、何かを探すように指をわずかに動かした。ためらいながら手のひらを重ねる。
冷たいなあ……子どもの方が体温ってのは高いものなのに。ほんの少し間があって、おずおずと指に力が入れられる。
俺もちょっとずつ力を入れた。急がぬように。強くしすぎないように。
そしてやんわりと手を握り合った。
ああ。
お前は確かにそこにいるんだな。
これは夢でも幻でもない。
やっと、見つけた。
「すぐ戻るって言い残して、お前ぐらいの子どもがすーっと町ん中に消えちまうのを……何度も見てきたから」
「ひとりで……何かできたら。ちゃんと笑えるかなって………思ったんだ」
「それでこんな所まで来たのか」
「うん」
「海を渡って隣の市まで? 十分すごいよお前。で………どうだった?」
「………だめだった」
ため息ついてやがる。何の達成感も得られなかったってことか。
楽しげにピクニックを楽しむ家族連れやのんびりとデート中のカップルに混じって一人だけ。どれほどの時間を何もせずさまよっていたのだろう。
この世のありとあらゆる楽しみが自分を置いてきぼりにして流れて行く。
分厚い磨りガラスの向こう側に居る人たちはみんなにこにこと笑っている、だけど何がそんなに面白いのかちっとも聞こえてこない。
どんなにでっかいパイが焼けても一口も口には入らない。ただ美味そうなにおいが流れてくるだけで……。
「………俺、だめだな………」
「そうかな? 何でも最初っから完ぺきに一人でやってのけられる人間なんてそうそういやしないさ、シエン。ビギナーズラックなんてそうそうあるもんじゃない」
「……でも」
すがるようなまなざしが向けられる。
涙をたたえた紫の瞳が必死で訴えてきた。
『ほかのみんなは、そうやってるよ?』
俺は何でもできます、完璧です、だめなとこなんかひとっつもありません。
自信過剰な野郎は大嫌いだ。面と向かって自慢されたら、俺のリアクションは笑い飛ばすか殴り飛ばすの二択しかない。
人間、多少は謙虚な方がいい。身の程を知るのは大切だ。だが今のシエンは……自分を嫌って、否定して、それでもどうにか前に進もうと必死になってもがいてる。
「実際、俺だってお前やレオンやオティアや………すんげえしゃくにさわるがヒウェルがいてどーにかやってるんだし」
本当はまだ迷っている。自分の今していることが正しいのか。余計傷つけることになってはいまいか。
ここで一言でもミスしたら……まちがったボタンを押しちまったら。その瞬間、俺は彼の信頼を裏切ってしまう。不安を抱えながら、表面はあくまで穏やかな表情、穏やかな声で話し続けた。
「お前が笑えるまで、疲れたら休めるように。胸貸す用意ぐらいは………いつでもある」
「……うん」
何だ、この感じ?
「お前がいるから……あの時、自分を無くさずにいられた」
「………うん………帰る……よ……ほんとごめん……」
違う。
違うぞ、シエン。
つるつるした金属の曲面の上をころころと、水銀の玉が滑って行く。
もう、いいんだ。しかたがないんだ。ここで終わり、家に帰ればそれでおしまい。地面の下に埋めた悲しみも痛みも全てなかったことにするつもりか。
それじゃだめだ!
「シエン。こっち見ろ」
顔をあげた。泣いてはいない。けれど沈んだ表情のままだ。
「なんで一人で『何か』しようとしたのか……笑おうとしたのか、聞いてない」
返事はない。
まだ間に合う。俺も何事もなかったフリして一緒に帰ればそれでいい。
そうすりゃ明日からは穏やかな日々が続いて行く……真冬の寒さの中、色あせることもしおれることもないプランターに刺さったぺなぺなの、ビニールの造花みたいな空々しい『しあわせ』が。
いいわきゃないだろ。
「赤いグリフォンのカップ、しまいこんだのと関係、あるのかな?」
決死の覚悟でざくりと掘り下げた。ぴくっと手の中でシエンが震えた。
「だって……俺が、諦めればいいんだから。そしたら……うまくいく……から」
「シエン。人を好きだって気持ちは電気のスイッチみたいに簡単にオフにはできないぞ」
「だからって……どうしようもないじゃないか!」
「そうだな。つらいよな……苦しくて。胸ん中がきりきり締め付けられて。痛いよな」
「どうしようも……ないのに……」
メリーゴーランドが止まり、客が入れ替わる。次の回が始まるまでの間、しばらく口をつぐんだ。
俺も。
シエンも。
やがてベルが鳴り響き、ぽわぽわした音楽に合わせてつくりものの馬がぴょこぴょこ跳ね出した。
何回まわっても結局、どこにも行けずにまた元に戻る。そのくり返し。
「………………ひとつ聞いていいか。俺が言うのもアレなんだが。何でヒウェルの奴なんぞ好きになったんだ?」
「わかんないよ、そんなの」
「口は悪いわ、手ーは早いわ。性格は軽いし、脱いだ靴下は丸めたまんまで絶対、片付けない。酒は飲む、煙草も山ほど吸う、放っときゃ部屋を平気で魔界に沈めるし、ピーマンもセロリも食えないチョコバーが主食のガキみたいな奴だぞ?」
「そんなのレオンだって、一見優しそうだけど身内にだけだし、裏真っ黒だし、敵には容赦しないし。ヒウェルよりよっぽど怖いよ」
「………見事な観察力だ」
反論できずに舌を巻く。きりっとシエンの指に力がこめられた。爪が刺さりそうほど強く握りしめてくる。
「わかってたのにな……最初から。俺に優しいのは……ただおんなじ顔してるからだって……」
「それは、ないと思うぞ。お前とオティアの見分け、一番はっきりつけてるのはヒウェルだし。優しいのは……お前のこと、弟みたいに思ってるからだ……」
「でもオティアと兄弟じゃなかったら、そんなふうにさえ思われなかったよ」
「いや、それはない」
ああ、シエン。自分を否定するな。
そんな風に自分の存在を厭わないでくれ……頼むから。
口から吐き出す言葉全てが、透明な固い壁に阻まれて空しく滑り落ちて行く。痕跡さえも残さずに。だからってここであきらめたら、最初っから見捨てるのと同じだ。
「どっちでも同じだよ。別にどうなるわけでもないし」
「好きだって言わずにこのままいるつもりか?」
すり抜けて行く。
すがりつく指の間から、シエンの手が抜け出し、離れてゆく……止められない。
「意味がないし」
柵からも手を離し、一人で立ったシエンの表情からは、潤いもあたたかさも全て消え失せていた。
「何したって、駄目なものは駄目なんだ」
「駄目ってのは何に対する駄目なんだ? 確かに言ったところでヒウェルが心変わりする訳じゃない。だけどな、黙ったままでもあいつはわかってる。オティアも」
「っ」
ぎりっとシエンが歯を食いしばり、きつく拳を握った。
やばいな……できるものならしっぽ巻いてとっとと逃げ出したい。背を向けて歩き出したい。だが、逃げるもんか。
「何も言わないで。靴下ん中に入ったトゲみたいな痛みを抱えて穏やかな日々を過ごしてくのは………きついよ、シエン」
「いいよそれで」
「決めたんだな?」
「とっくに決めてる」
自分が我慢すればうまく行くとお前は言った。でもな、シエン。痛みを抱えるのはお前だけじゃないんだぞ?
……いや、違うな。
お前も気づいてる。意識の奥では。
(そうしてますます自分を責めるのだろう。罰するのだろう。自分でもそれとは知らぬまま)
「俺の気持ちは俺だけのもんだろ……………それが、痛みでも」
「………OK。じゃ、もう何も言わない。でも………でもな。今度一人で何かしようって時は、一言相談してくれ」
俺じゃなくてもいい。レオンやアレックス、サリーでもいい。
「アレックスからお前が事務所に来てないって知らされたときは心臓が止まりそうになった」
「ん……わかった」
「帰ろうか」
「ん」
素直にうなずき、歩き出す。
落ち着いた表情だ……怖いくらいに。それが、今のお前の『本当の顔』なんだな。無理して笑ってるよりはずっといい。
だけど。
「何か腹に入れてくか?」
「いい。おなかすいてない」
「そう……か」
大切な何かが指の間をすりぬけてゆく。どんなに手を伸ばしても届かない。
遊園地のイルミネーションが。賑やかな音楽が。ぼうっと遠くにかすんで行く。
すぐ隣を歩いているはずのシエンが、急に遠くに行ってしまったような気がした。
次へ→【4-9-5】ぱぱ帰る
信号は守らなくちゃいけないが。
『すげえ、橋で海渡るのか!』
高校の頃、はじめてこの橋を渡ったときの事を思い出す。どうしても自分の足で渡りたくて、バスを降りる! と騒いでたらヨーコにぴしゃりと言われた。
『この橋は車専用よ。何だったらトランスフォームでもする?』
あきらめてバスの窓から足下の海を眺めるにとどまった。
『あきれたねー、テキサスにだって橋ぐらいあるだろーがよ』
『こんなでっかい橋はない!』
『そうかよ』
こばかにしたような口を叩きつつなぜかヒウェルはとくいげで、日本の瀬戸大橋ができるまでは世界一の吊り橋だったのだと講釈をたれた。
あの時はクラスの連中が一緒だったな……。一年の留学期間が終わり、ヨーコが帰国するからってんで、その前に観光地めぐりをしようってことになって。
あの日俺が友だちと一緒に目を輝かせて渡ったこの橋を、シエンは今日、どんな気持ちでを渡ったのだろう。
橋を渡り、サンフランシスコ市からオークランド市に入ったところで580号線に乗り換え、南東に走る。Golf Links Rd/98th Av……よし、ここだ。高速を降りて98th Avを横切るようにして左折し、Golf Links Rdに入る。すぐに右側に目的地が見えてきた。
The Oakland Zoo(オークランド動物園)。
園内に入ると道幅は急に狭くなり、両脇の街路樹がこんもりと密度を増す。
駐車場に車をとめて、まっすぐに昔の知り合いの待つ事務所へと向かった。自然と早足になる。
平日なので人は少ないが、それでもさほど広くはない園内はそれなりににぎわっていた。手をつないでポップコーンや綿菓子、風船を片手に歩く親子連れやカップルの間をざかざかとすり抜ける。
「よう、来たな、マックス……元気そうだな」
「おかげさんでな。シエンはどこに?」
「遊園地だよ。こっちだ」
カランカラン、ぶぅーん……ボロロローン、ヒュウン、プワン、パフン。
年期の入った遊具の奏でる、どこか間の抜けた音が聞こえてくる。
ここには動物園だけではなく小さな遊園地もある。全体的にのんびりとした空気で絶叫系のドカーンとかバキーン!とか言うアミューズメントはあまり縁がない。
それだけに小さな子どもをつれた家族が多い。
「ランチタイムを終えて園内を巡回してる警備員が見つけたんだ。」
「そっか……」
「運が良かった。しかし、いつの間にそこに居たのかさっぱりわからない。一人歩きの子供には係員が注意を払うようにしてるんだ。もっと手前で見つかりそうなものなのにな?」
確かにあの年頃の子はほとんどいない。ハイティーンの子どもらはもっと派手な遊びのできる場所に行くだろうしな。そう言えば俺たちも結構浮いていた。
『やだ。あたし、ぜったいそっち行かない』
『どうしたんだヨーコ。顔ひきつってるぜ? あー……はあ、もしかしては虫類は苦手ですかぁ?』
『ヒーウェールー……?』
は虫類舎の前を通りすぎながらくすっと笑いがこみあげる。笑顔でヒウェルのこめかみに握った拳の第二関節をぐりぐりねじ込むちっちゃな女の子を思い出して。
「今もやってんのか? ニシキヘビを首に巻いて写真撮る、あれ」
「いや。動物愛護の観点に基づき自粛中だ。何だったら特別に飼育係に交渉してもいいが」
「……遠慮しとく」
園内には所々に芝生に覆われたなだらかな丸い斜面が広がり、家族連れが弁当を広げている。11月とは言え、まだまだ日差しが照っているとあたたかい。風もほとんどないし、絶好のピクニック日和だ。
「居たぞ。あそこだ」
小さなメリーゴーランドと、ボール当ての屋台の間にぽつんと金髪の少年が立っている。柵に寄りかかってぼんやりと、目の前を通り過ぎるつくりものの馬や馬車を眺めて。
沈んだ表情だ。あまり、楽しそうじゃない。にぎやかな音楽と色彩の中に、そこだけ取り残されたように色あせた『つぎ』が当たってる。
そんな感じがした。
「まちがいない。シエンだ……」
「そうか。こっちも安心したよ」
「世話んなった。そのうち改めてお礼させてくれ」
「気にすんな」
ばしっと大きな手のひらで背中を叩かれる。
「それが仕事だ」
旧い友人は物陰からそれとなくシエンを見守っていた警備員に声をかけ、戻って行く。手を振って見送り、深呼吸。
駆け出したい気持ちを押さえてまず、捜査協力を頼んだ友人たち……サリーに、エリック、そしてアレックスらに宛てて一括送信でメールを送る。『迷子は無事、保護した。協力感謝する』、と。
送信ボタンを押して、携帯の画面の中でくるくる点滅するアイコンを見ながら次の一手を考える。
さて、こんな時何て言って迎えに行けばいいんだろう。
探したぞ? どこ行ってたんだ? どうしてこんなことを?
違うな。心配したのは事実、だがそれで迷子になった子どもを責めるのはお門違いってもんだろう。
一番心細いのは、一人でこんな遠くまで来たシエン自身なのだから。
近づいて行くと、シエンは顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が一瞬、ゆらぐ。涙だろうか。それとも……。
「シエン」
「ごめん……なさい……」
どれほど心配したか、なんて言う必要もない。この子はちゃんと知ってる。わかってる。だからこんな顔して『ごめんなさい』って言うんだ。
「………無事で………よかった」
張りつめた想いを深い息と一緒に吐き出した。こわばっていた肩がすーっと降りて、元の位置に戻るのがわかった。
シエンと並んで、前屈みに柵に寄りかかる。ひと呼吸置いて、話しかけた。
「どうして、ここに?」
「ずっと、入ってみたかったんだ、遊園地」
「そうか。もっと早く連れてきてやればよかったな」
首を横に振った。
遊園地ならサンフランシスコにもいくつかある。ここまで来たのは、やっぱり遠くに行きたいって気持ちもあったんだろうか。
「せっかくだから何か遊んでくか?」
「ん……でも……」
うつむいた。細い肩が震え、紫の瞳のふちに透明な雫がにじみ出す。手を伸ばし、そっと、そっと……距離をつめて行き、柵を握る小さな手に触れる。
「ごめん……なさい………」
「そうだな……確かに、心配した。あまり治安の良くない場所もあるし……そっちに行ってたらどうしようって」
シエンは柵から手を離し、何かを探すように指をわずかに動かした。ためらいながら手のひらを重ねる。
冷たいなあ……子どもの方が体温ってのは高いものなのに。ほんの少し間があって、おずおずと指に力が入れられる。
俺もちょっとずつ力を入れた。急がぬように。強くしすぎないように。
そしてやんわりと手を握り合った。
ああ。
お前は確かにそこにいるんだな。
これは夢でも幻でもない。
やっと、見つけた。
「すぐ戻るって言い残して、お前ぐらいの子どもがすーっと町ん中に消えちまうのを……何度も見てきたから」
「ひとりで……何かできたら。ちゃんと笑えるかなって………思ったんだ」
「それでこんな所まで来たのか」
「うん」
「海を渡って隣の市まで? 十分すごいよお前。で………どうだった?」
「………だめだった」
ため息ついてやがる。何の達成感も得られなかったってことか。
楽しげにピクニックを楽しむ家族連れやのんびりとデート中のカップルに混じって一人だけ。どれほどの時間を何もせずさまよっていたのだろう。
この世のありとあらゆる楽しみが自分を置いてきぼりにして流れて行く。
分厚い磨りガラスの向こう側に居る人たちはみんなにこにこと笑っている、だけど何がそんなに面白いのかちっとも聞こえてこない。
どんなにでっかいパイが焼けても一口も口には入らない。ただ美味そうなにおいが流れてくるだけで……。
「………俺、だめだな………」
「そうかな? 何でも最初っから完ぺきに一人でやってのけられる人間なんてそうそういやしないさ、シエン。ビギナーズラックなんてそうそうあるもんじゃない」
「……でも」
すがるようなまなざしが向けられる。
涙をたたえた紫の瞳が必死で訴えてきた。
『ほかのみんなは、そうやってるよ?』
俺は何でもできます、完璧です、だめなとこなんかひとっつもありません。
自信過剰な野郎は大嫌いだ。面と向かって自慢されたら、俺のリアクションは笑い飛ばすか殴り飛ばすの二択しかない。
人間、多少は謙虚な方がいい。身の程を知るのは大切だ。だが今のシエンは……自分を嫌って、否定して、それでもどうにか前に進もうと必死になってもがいてる。
「実際、俺だってお前やレオンやオティアや………すんげえしゃくにさわるがヒウェルがいてどーにかやってるんだし」
本当はまだ迷っている。自分の今していることが正しいのか。余計傷つけることになってはいまいか。
ここで一言でもミスしたら……まちがったボタンを押しちまったら。その瞬間、俺は彼の信頼を裏切ってしまう。不安を抱えながら、表面はあくまで穏やかな表情、穏やかな声で話し続けた。
「お前が笑えるまで、疲れたら休めるように。胸貸す用意ぐらいは………いつでもある」
「……うん」
何だ、この感じ?
「お前がいるから……あの時、自分を無くさずにいられた」
「………うん………帰る……よ……ほんとごめん……」
違う。
違うぞ、シエン。
つるつるした金属の曲面の上をころころと、水銀の玉が滑って行く。
もう、いいんだ。しかたがないんだ。ここで終わり、家に帰ればそれでおしまい。地面の下に埋めた悲しみも痛みも全てなかったことにするつもりか。
それじゃだめだ!
「シエン。こっち見ろ」
顔をあげた。泣いてはいない。けれど沈んだ表情のままだ。
「なんで一人で『何か』しようとしたのか……笑おうとしたのか、聞いてない」
返事はない。
まだ間に合う。俺も何事もなかったフリして一緒に帰ればそれでいい。
そうすりゃ明日からは穏やかな日々が続いて行く……真冬の寒さの中、色あせることもしおれることもないプランターに刺さったぺなぺなの、ビニールの造花みたいな空々しい『しあわせ』が。
いいわきゃないだろ。
「赤いグリフォンのカップ、しまいこんだのと関係、あるのかな?」
決死の覚悟でざくりと掘り下げた。ぴくっと手の中でシエンが震えた。
「だって……俺が、諦めればいいんだから。そしたら……うまくいく……から」
「シエン。人を好きだって気持ちは電気のスイッチみたいに簡単にオフにはできないぞ」
「だからって……どうしようもないじゃないか!」
「そうだな。つらいよな……苦しくて。胸ん中がきりきり締め付けられて。痛いよな」
「どうしようも……ないのに……」
メリーゴーランドが止まり、客が入れ替わる。次の回が始まるまでの間、しばらく口をつぐんだ。
俺も。
シエンも。
やがてベルが鳴り響き、ぽわぽわした音楽に合わせてつくりものの馬がぴょこぴょこ跳ね出した。
何回まわっても結局、どこにも行けずにまた元に戻る。そのくり返し。
「………………ひとつ聞いていいか。俺が言うのもアレなんだが。何でヒウェルの奴なんぞ好きになったんだ?」
「わかんないよ、そんなの」
「口は悪いわ、手ーは早いわ。性格は軽いし、脱いだ靴下は丸めたまんまで絶対、片付けない。酒は飲む、煙草も山ほど吸う、放っときゃ部屋を平気で魔界に沈めるし、ピーマンもセロリも食えないチョコバーが主食のガキみたいな奴だぞ?」
「そんなのレオンだって、一見優しそうだけど身内にだけだし、裏真っ黒だし、敵には容赦しないし。ヒウェルよりよっぽど怖いよ」
「………見事な観察力だ」
反論できずに舌を巻く。きりっとシエンの指に力がこめられた。爪が刺さりそうほど強く握りしめてくる。
「わかってたのにな……最初から。俺に優しいのは……ただおんなじ顔してるからだって……」
「それは、ないと思うぞ。お前とオティアの見分け、一番はっきりつけてるのはヒウェルだし。優しいのは……お前のこと、弟みたいに思ってるからだ……」
「でもオティアと兄弟じゃなかったら、そんなふうにさえ思われなかったよ」
「いや、それはない」
ああ、シエン。自分を否定するな。
そんな風に自分の存在を厭わないでくれ……頼むから。
口から吐き出す言葉全てが、透明な固い壁に阻まれて空しく滑り落ちて行く。痕跡さえも残さずに。だからってここであきらめたら、最初っから見捨てるのと同じだ。
「どっちでも同じだよ。別にどうなるわけでもないし」
「好きだって言わずにこのままいるつもりか?」
すり抜けて行く。
すがりつく指の間から、シエンの手が抜け出し、離れてゆく……止められない。
「意味がないし」
柵からも手を離し、一人で立ったシエンの表情からは、潤いもあたたかさも全て消え失せていた。
「何したって、駄目なものは駄目なんだ」
「駄目ってのは何に対する駄目なんだ? 確かに言ったところでヒウェルが心変わりする訳じゃない。だけどな、黙ったままでもあいつはわかってる。オティアも」
「っ」
ぎりっとシエンが歯を食いしばり、きつく拳を握った。
やばいな……できるものならしっぽ巻いてとっとと逃げ出したい。背を向けて歩き出したい。だが、逃げるもんか。
「何も言わないで。靴下ん中に入ったトゲみたいな痛みを抱えて穏やかな日々を過ごしてくのは………きついよ、シエン」
「いいよそれで」
「決めたんだな?」
「とっくに決めてる」
自分が我慢すればうまく行くとお前は言った。でもな、シエン。痛みを抱えるのはお前だけじゃないんだぞ?
……いや、違うな。
お前も気づいてる。意識の奥では。
(そうしてますます自分を責めるのだろう。罰するのだろう。自分でもそれとは知らぬまま)
「俺の気持ちは俺だけのもんだろ……………それが、痛みでも」
「………OK。じゃ、もう何も言わない。でも………でもな。今度一人で何かしようって時は、一言相談してくれ」
俺じゃなくてもいい。レオンやアレックス、サリーでもいい。
「アレックスからお前が事務所に来てないって知らされたときは心臓が止まりそうになった」
「ん……わかった」
「帰ろうか」
「ん」
素直にうなずき、歩き出す。
落ち着いた表情だ……怖いくらいに。それが、今のお前の『本当の顔』なんだな。無理して笑ってるよりはずっといい。
だけど。
「何か腹に入れてくか?」
「いい。おなかすいてない」
「そう……か」
大切な何かが指の間をすりぬけてゆく。どんなに手を伸ばしても届かない。
遊園地のイルミネーションが。賑やかな音楽が。ぼうっと遠くにかすんで行く。
すぐ隣を歩いているはずのシエンが、急に遠くに行ってしまったような気がした。
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▼ 【4-9-5】ぱぱ帰る
2009/01/05 1:04 【四話】
長い長い吊り橋を東から西へ。来たときとは逆に渡る。西日がきついので帰りはサングラスをかけた。
色の濃いレンズを通して目に見えるもの全てがうっすらと影をまとう。
刻一刻と傾きつつある太陽の光を反射して海が濃いオレンジ色に染まっていた……何だかやけに物悲しい色に見える。散る直前のカエデの葉っぱ。あるいは、冷たい風にさらされて凍えてかじかんだ指の先。
鮮やかであればあるほど、どこか痛々しい朱の色。
シエンはあれから一言もしゃべらず、窓の外を流れる風景を眺めている。全身を強ばらせ、堅く引き結んだ唇の奥で歯を食いしばって……。
車内の空気は重く、道のりは長い。話しかけることもできず、さりとて音楽をかけることもためらわれ、ただひたすら車を走らせる。
ほんの48時間前までは、キッチンでこの子と笑いながらしゃべっていた。
『まいったな、買ってきたばかりなのにもらっちまうなんて……これじゃ、カボチャが余っちまう』
『いいよ、カボチャ美味しいし、いろいろ使えるし』
『そうだな、ハロウィンらしくていいか』
『うん。俺、ハロウィンのお祝いするの初めて!』
眉間に皺を寄せて目をすがめる。幸い濃いサングラスのレンズに隠れて俺の表情が外に漏れることはない。
ヘマをやらかしたのは痛いほどわかっている。親切面してシエンを傷つけた。一番、痛い傷口をえぐり出し、逃げ道をふさいで追い詰めてしまった。だけど、ここで俺が沈みこんだら……。
レオン。オティア。シエン……そしてヒウェル。どっしりした木の食卓を囲む顔ぶれを順繰りに思い浮かべる。
(ここで俺が落ち込んだら、だれも、どこにも帰る場所を無くしてしまう。寄るべき場所を失ってしまう)
車のエンジン音の響きが変わる。長い長い吊り橋を渡り、サンフランシスコへ戻ってきた。
するとシエンが小さく息を吐き、表情をやわらげた……ほんの少しだけ。
その瞬間、腹を決めた。
※ ※ ※ ※
「やあ、お帰り!」
事務所に戻ると、オティアと意外なことにデイビットが待っていた。
「なんで……ここに?」
「うん、アレックスに頼まれてね。空港に行く間、オティアと一緒に居てくれってね」
「空港に? 何でまた」
「レオンを迎えに」
「あ………そうか……そうだよな……」
ばしばしと背中を叩かれた。
「どうした、ディフ。しっかりしたまえ。君らしくないなあ……」
くっきりしたラテン系の顔いっぱいに親しみと共感をにじませながらデイビットは俺の目をじっと見て、それから何やら納得したようにうなずいた。
「今日はもう、子どもたちを連れて帰った方がいいね。君のスイートハニーがお待ちかねだよ?」
「うん……そうする」
オティアがのろのろと帰り支度を始める。その隣ではシエンがペットキャリーを準備していた。いつものように言葉もかわさず、目配せもなく、淡々と。
「あれ、そう言えばレイモンドは? レオンと一緒じゃなかったのか?」
「うん、彼は、まだ仕事が残ってるそうだから」
「じゃ、今、事務所は空っぽなのか」
「大丈夫、大丈夫! 戸締まりはきちんとしてきたよ。留守番電話と言う便利なものもあるし、客の来る予定もない。アポ無しで来るような相手なら、多少待たせてもそれほど心は痛まないしね!」
豪気と言うべきか、大雑把と言うべきか。
「幸い、ランドール紡績の二代目も最近はやっと電話とFAXの利便性に気づいたようだし……問題ないよ、うん」
戸締まりをすませ、帰り支度を整えた双子を連れて廊下に出る。
エレベーターを待ってる間にデイビットがぽつりと言った。
「無事でよかったよ、シエン」
「ごめんなさい、心配かけて」
「うん、心配したね! でも帰ってきたから安心したよ。それじゃ!」
ちょうど上がってきたエレベーターに乗り込み、デイビットは上へと。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所へと戻って行った。
その時になってはじめてオーレがちっちゃな声で「んにゃっ」と鳴いた。
※ ※ ※ ※
オティアとシエンを車に乗せて駐車場を出る。
定時であがって帰りに買い物をして、それからクリーニングを出しにゆく。水曜日のいつもの習慣だが、今日は予定を変更して直接家に帰ることにした。
二人ともものすごく疲れてる。一秒でも早く、部屋に戻してやりたかった。
食料は……幸い、カボチャが大量にある。ストックしてある野菜とベーコンとでシチューにするか……それともポトフのがいいかな。
やわらかくて、あったかくて、水気があるから食べやすい。
車の後部座席で双子は一言もしゃべらず、視線も合わせない。キャリーの中で時折オーレが身動きし、チリンと鈴が鳴るのが聞こえた。
「ただいま」
「お帰り」
玄関をくぐり、愛しい人の名前を呼ぶより先にキスで口を塞がれた。子どもたちが見ている。だけど……。
テニスラケットのガットみたいに張りつめていた神経が、ぷつん、と弾ける。目を閉じてレオンの背に腕を回し、すがりついていた。
髪をなでる優しい指先に身を委ねていた。
(レオン)
(レオン)
(レオン……)
唇が離れてから目を開けると、オティアもシエンも姿が見えなかった。
行き先は……わかってる。キスの間、ひそやかな足音が二つ、通り過ぎて行った。一つは境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一つはリビングを横切り逆方向に。
「確かに別々の部屋に住むつもりのようだね、二人とも」
「……ああ」
「アレックスから聞いたよ。大変だったね」
そんな事ないさ、と笑っても、きっとお前にはわかってしまう。大切な人だからこそ、あえて弱さは隠さずいよう。
「ん…………そうだな……ちとしんどかった」
さすがに朗らかさ全開、とはいかなかったが、それでも自然と微笑むことができた。
くしゃっと髪の毛をかきあげられ、そのまま頭をなでられた。
まだ、することが残ってる。夕飯の支度とか、洗濯とか、その他細々した用事がいろいろと……でも今はもう少しだけ、彼の腕の中に居たい。
※ ※ ※ ※
いつものように6Fに上がり、晩飯を食いに行ったら部屋の空気がえらく重かった。
「……よう」
食卓を拭いてるオティアに声をかけると、俺の顔を見て何か言おうとした。が、シエンが入ってくると口をつぐんでしまった。
そのまま二人して黙々と夕飯の皿を並べ始める。いつものようにぴったり息の合ったコンビネーションで、目配せすらせずに。
だが、何かがちがう。まるで互いに目をあわせることを避けてるようじゃないか! レオンはレオンで俺の顔見てにこやかに笑ってるし……何か、そこはかとなく(いや、露骨に)、怖い。
唯一の救いはディフの奴がいつもと変わりなく大雑把で、ぶっきらぼうで、そのくせ世話だけはちゃんと焼いてることだった。双子も、レオンも俺のことも。
そのはずなんだが。
(……どうしたんだよ)
一日でげっそりやつれてる。ままも。オティアも。シエンも。別に頬がこけたとかやせ衰えたとか、そう言った肉体的な変化ではなく、何と言うか……精神的にえっらく消耗してるような。毛並みがパサパサ、しっぽはくたんと垂れ下がり、鼻も乾いてるって感じだ。
いったい何があったってんだ?
ってなことを考えてたら、食ってる最中にポテトがスプーンからごろりと転げ落ちてポトフの皿に落下。あっつあつのスープが盛大に跳ね上がり、眼鏡のレンズにべっとり栄養満点のシミをこしらえてくれた。
見えないのと熱いのとで硬直していると、ずい、とティッシュが数枚、手の中に押し付けられる。
かすかに指先をかすめる小さな手、細い指。これは、多分、ディフじゃない。レオンじゃないことも確かだ。眼鏡を外してレンズを軽く拭い顔を上げる。
オティアと目が合った。
「……さんきゅ」
やわらかく煮込んだ野菜とベーコン、ふわふわの焼きたてのコーンブレッド。小さな器に少しだけ盛りつけられた夕食を、オティアとシエンは少しずつ時間をかけて食べて……片付けが終わると、ひっそりと部屋に戻っていった。
一人は白い猫を連れて境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一人は5月まで双子の過ごしていた部屋へ。
「おやすみ」
声をかけるとオティアだけが振り返り、小さくうなずいた。
子どもたちが部屋に引き上げてしまうと、入れ違いにレオンが酒の瓶を片手にやってきた。
「おみやげだよ」
「……ああ、スコッチか。いいね」
まただ。
ディフの奴、微笑んでるけど、表情が今ひとつ冴えない。どうしたってんだ、お前がレオンの前でそんな冷たい水かぶった犬みたいな不景気なツラするなんて!
「君も飲んでいくだろう?」
「あ、いや、お邪魔しちゃ申し訳ないと……」
あ、あ、何かな、その無駄に爽やかな笑顔は。勘弁してくれ、あなたはそう言う顔してるときが一番怖ぇえんだよっ。
「飲んで行きたまえ、せっかくだから」
どうやら俺に拒否権は無いらしい。
「……………つまみ作ってきます」
次へ→【4-9-6】反抗期は必要だよ
色の濃いレンズを通して目に見えるもの全てがうっすらと影をまとう。
刻一刻と傾きつつある太陽の光を反射して海が濃いオレンジ色に染まっていた……何だかやけに物悲しい色に見える。散る直前のカエデの葉っぱ。あるいは、冷たい風にさらされて凍えてかじかんだ指の先。
鮮やかであればあるほど、どこか痛々しい朱の色。
シエンはあれから一言もしゃべらず、窓の外を流れる風景を眺めている。全身を強ばらせ、堅く引き結んだ唇の奥で歯を食いしばって……。
車内の空気は重く、道のりは長い。話しかけることもできず、さりとて音楽をかけることもためらわれ、ただひたすら車を走らせる。
ほんの48時間前までは、キッチンでこの子と笑いながらしゃべっていた。
『まいったな、買ってきたばかりなのにもらっちまうなんて……これじゃ、カボチャが余っちまう』
『いいよ、カボチャ美味しいし、いろいろ使えるし』
『そうだな、ハロウィンらしくていいか』
『うん。俺、ハロウィンのお祝いするの初めて!』
眉間に皺を寄せて目をすがめる。幸い濃いサングラスのレンズに隠れて俺の表情が外に漏れることはない。
ヘマをやらかしたのは痛いほどわかっている。親切面してシエンを傷つけた。一番、痛い傷口をえぐり出し、逃げ道をふさいで追い詰めてしまった。だけど、ここで俺が沈みこんだら……。
レオン。オティア。シエン……そしてヒウェル。どっしりした木の食卓を囲む顔ぶれを順繰りに思い浮かべる。
(ここで俺が落ち込んだら、だれも、どこにも帰る場所を無くしてしまう。寄るべき場所を失ってしまう)
車のエンジン音の響きが変わる。長い長い吊り橋を渡り、サンフランシスコへ戻ってきた。
するとシエンが小さく息を吐き、表情をやわらげた……ほんの少しだけ。
その瞬間、腹を決めた。
※ ※ ※ ※
「やあ、お帰り!」
事務所に戻ると、オティアと意外なことにデイビットが待っていた。
「なんで……ここに?」
「うん、アレックスに頼まれてね。空港に行く間、オティアと一緒に居てくれってね」
「空港に? 何でまた」
「レオンを迎えに」
「あ………そうか……そうだよな……」
ばしばしと背中を叩かれた。
「どうした、ディフ。しっかりしたまえ。君らしくないなあ……」
くっきりしたラテン系の顔いっぱいに親しみと共感をにじませながらデイビットは俺の目をじっと見て、それから何やら納得したようにうなずいた。
「今日はもう、子どもたちを連れて帰った方がいいね。君のスイートハニーがお待ちかねだよ?」
「うん……そうする」
オティアがのろのろと帰り支度を始める。その隣ではシエンがペットキャリーを準備していた。いつものように言葉もかわさず、目配せもなく、淡々と。
「あれ、そう言えばレイモンドは? レオンと一緒じゃなかったのか?」
「うん、彼は、まだ仕事が残ってるそうだから」
「じゃ、今、事務所は空っぽなのか」
「大丈夫、大丈夫! 戸締まりはきちんとしてきたよ。留守番電話と言う便利なものもあるし、客の来る予定もない。アポ無しで来るような相手なら、多少待たせてもそれほど心は痛まないしね!」
豪気と言うべきか、大雑把と言うべきか。
「幸い、ランドール紡績の二代目も最近はやっと電話とFAXの利便性に気づいたようだし……問題ないよ、うん」
戸締まりをすませ、帰り支度を整えた双子を連れて廊下に出る。
エレベーターを待ってる間にデイビットがぽつりと言った。
「無事でよかったよ、シエン」
「ごめんなさい、心配かけて」
「うん、心配したね! でも帰ってきたから安心したよ。それじゃ!」
ちょうど上がってきたエレベーターに乗り込み、デイビットは上へと。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所へと戻って行った。
その時になってはじめてオーレがちっちゃな声で「んにゃっ」と鳴いた。
※ ※ ※ ※
オティアとシエンを車に乗せて駐車場を出る。
定時であがって帰りに買い物をして、それからクリーニングを出しにゆく。水曜日のいつもの習慣だが、今日は予定を変更して直接家に帰ることにした。
二人ともものすごく疲れてる。一秒でも早く、部屋に戻してやりたかった。
食料は……幸い、カボチャが大量にある。ストックしてある野菜とベーコンとでシチューにするか……それともポトフのがいいかな。
やわらかくて、あったかくて、水気があるから食べやすい。
車の後部座席で双子は一言もしゃべらず、視線も合わせない。キャリーの中で時折オーレが身動きし、チリンと鈴が鳴るのが聞こえた。
「ただいま」
「お帰り」
玄関をくぐり、愛しい人の名前を呼ぶより先にキスで口を塞がれた。子どもたちが見ている。だけど……。
テニスラケットのガットみたいに張りつめていた神経が、ぷつん、と弾ける。目を閉じてレオンの背に腕を回し、すがりついていた。
髪をなでる優しい指先に身を委ねていた。
(レオン)
(レオン)
(レオン……)
唇が離れてから目を開けると、オティアもシエンも姿が見えなかった。
行き先は……わかってる。キスの間、ひそやかな足音が二つ、通り過ぎて行った。一つは境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一つはリビングを横切り逆方向に。
「確かに別々の部屋に住むつもりのようだね、二人とも」
「……ああ」
「アレックスから聞いたよ。大変だったね」
そんな事ないさ、と笑っても、きっとお前にはわかってしまう。大切な人だからこそ、あえて弱さは隠さずいよう。
「ん…………そうだな……ちとしんどかった」
さすがに朗らかさ全開、とはいかなかったが、それでも自然と微笑むことができた。
くしゃっと髪の毛をかきあげられ、そのまま頭をなでられた。
まだ、することが残ってる。夕飯の支度とか、洗濯とか、その他細々した用事がいろいろと……でも今はもう少しだけ、彼の腕の中に居たい。
※ ※ ※ ※
いつものように6Fに上がり、晩飯を食いに行ったら部屋の空気がえらく重かった。
「……よう」
食卓を拭いてるオティアに声をかけると、俺の顔を見て何か言おうとした。が、シエンが入ってくると口をつぐんでしまった。
そのまま二人して黙々と夕飯の皿を並べ始める。いつものようにぴったり息の合ったコンビネーションで、目配せすらせずに。
だが、何かがちがう。まるで互いに目をあわせることを避けてるようじゃないか! レオンはレオンで俺の顔見てにこやかに笑ってるし……何か、そこはかとなく(いや、露骨に)、怖い。
唯一の救いはディフの奴がいつもと変わりなく大雑把で、ぶっきらぼうで、そのくせ世話だけはちゃんと焼いてることだった。双子も、レオンも俺のことも。
そのはずなんだが。
(……どうしたんだよ)
一日でげっそりやつれてる。ままも。オティアも。シエンも。別に頬がこけたとかやせ衰えたとか、そう言った肉体的な変化ではなく、何と言うか……精神的にえっらく消耗してるような。毛並みがパサパサ、しっぽはくたんと垂れ下がり、鼻も乾いてるって感じだ。
いったい何があったってんだ?
ってなことを考えてたら、食ってる最中にポテトがスプーンからごろりと転げ落ちてポトフの皿に落下。あっつあつのスープが盛大に跳ね上がり、眼鏡のレンズにべっとり栄養満点のシミをこしらえてくれた。
見えないのと熱いのとで硬直していると、ずい、とティッシュが数枚、手の中に押し付けられる。
かすかに指先をかすめる小さな手、細い指。これは、多分、ディフじゃない。レオンじゃないことも確かだ。眼鏡を外してレンズを軽く拭い顔を上げる。
オティアと目が合った。
「……さんきゅ」
やわらかく煮込んだ野菜とベーコン、ふわふわの焼きたてのコーンブレッド。小さな器に少しだけ盛りつけられた夕食を、オティアとシエンは少しずつ時間をかけて食べて……片付けが終わると、ひっそりと部屋に戻っていった。
一人は白い猫を連れて境目のドアを抜けて隣の部屋へ。もう一人は5月まで双子の過ごしていた部屋へ。
「おやすみ」
声をかけるとオティアだけが振り返り、小さくうなずいた。
子どもたちが部屋に引き上げてしまうと、入れ違いにレオンが酒の瓶を片手にやってきた。
「おみやげだよ」
「……ああ、スコッチか。いいね」
まただ。
ディフの奴、微笑んでるけど、表情が今ひとつ冴えない。どうしたってんだ、お前がレオンの前でそんな冷たい水かぶった犬みたいな不景気なツラするなんて!
「君も飲んでいくだろう?」
「あ、いや、お邪魔しちゃ申し訳ないと……」
あ、あ、何かな、その無駄に爽やかな笑顔は。勘弁してくれ、あなたはそう言う顔してるときが一番怖ぇえんだよっ。
「飲んで行きたまえ、せっかくだから」
どうやら俺に拒否権は無いらしい。
「……………つまみ作ってきます」
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▼ 【4-9-6】反抗期は必要だよ
2009/01/05 1:05 【四話】
そそくさとキッチンに退避し、冷蔵庫をのぞくとここにも異変があった。えらく買い置きが少ないじゃないか。っかしいな、今日は水曜日、買い出しの日のはずじゃなかったのか?
とりあえず、卵があるからこいつでデビルズエッグにして……。
久しぶりに無茶な飲み方になりそうな予感がする。一応、飯食った後ではあるが、タンパク質多めにとらせて、胃袋に防護膜を張っておこう。
ボイルして横1/2に切った卵から黄身を取り除き、マスタードとマヨネーズであえてからまた白身に詰めて、仕上げにパプリカを散らす。
これだけじゃ足りなさそうなんでついでに薄切りにしたチーズとキュウリをクラッカーにのっけた。
できあがったつまみを大皿に盛りつけ、冷蔵庫から氷をざらっとアイスペールに取り分けて、グラスを三つ用意して。準備万端整えてリビングに引き返すと……既にいい感じにできあがってるやつがいたりするわけで。
そーいやグラスは居間のバーカウンターにもあったんだよなあ、うん。
ああ、まーた自分たちより年季の入った酒をストレートで惜しげもなくがぶ飲みしてるよこの人たちは!
「ったく、相変わらず雑な飲み方しやがって……」
「だまれ、諸悪の根源」
「俺のことか!」
「ああ、お前のことだ」
とろん、としたヘーゼルの瞳の奥にちらちらと緑の炎がゆれている。いったい俺が卵ゆでてる間にこいつはどれだけ飲んだのか。
(ってかレオン、あんたが飲ませたな?)
じとっとねめつけるが当人、嫁にぴったり寄り添って片手で肩なぞ抱きながら涼しい顔でくいくいと琥珀色の液を流し込んでいらっしゃる。せっかく持ってきたアイスペールにゃ見向きもしない。割るつもりはないってことですかい。
ため息をついてると、いきなりぐい、とタイをひっつかまれた。
「おいこら! 人の話を聞けい!」
「ぐええっ、苦しいっ、息がつまるっ!」
問答無用に引き寄せられ、至近距離で睨みつけられる。瞳の中に揺らめく緑の炎が一段と強くなっていた。
「俺がいったい何をした?」
「シエンが落ち込んでオティアとお前の空気が明らかに変わってんだよ。何があったか一目瞭然だろーがよ」
「っ」
一瞬、言葉に詰まったが目はそらさなかった。臑に抱えた傷は片手の指では足りない俺だが、この件に関してはこいつに対して恥じ入るようなことはしていない。それだけは自負してる。
「伝えたんだよ。お前が好きだって……今度こそ逃げずに、真剣にな」
「そうかよ」
ディフはすねたような顔でそっぽを向いた。その結果、どうなったかは言わずとも知れている。確認のためにあえて言葉にする必要もない。
「おめでとう、と言うべきなんだろうね。でもね、ヒウェル」
レオンがさらりと言った。
「未成年者に手を出したら犯罪だよ。たとえ同意の上でも」
「………わかってます、よーっく」
うーわー、すっげえ爽やかな笑顔。背筋がぞわわっと総毛立つ。
何度も言うが、この手の顔してる時がいちばん怖いんだよこの男は!
「たとえここがフロリダでも、君の場合は年齢差があるからね」
わざわざフロリダの州法まで引き合いに出しやがって念入りなこった!(※未成年でも十六歳以上の場合は相手が二十四歳以下でなおかつ合意の上なら合法と見なされる)微妙に腹が立つもののさりとてこちらも後ろ暗いところがある。
そうとも、シエンが『ああなった』のは俺のせいだよ。だけど俺が恋してるのはオティアであって他のだれも代わりにはなれないんだよ。たとえ同じ顔、同じ遺伝子の持ち主でも。
言い訳する気は毛頭ないし、これから待ち受ける試練からも逃げるつもりはない。
こうなったら、とことん飲んでやらぁ。
自腹じゃ到底、買えないレベルの高い酒なんだ。こいつらに雑な飲み方される前に一滴でも俺が飲むのが功徳ってもんだ!
「氷、使わないのか。冷蔵庫にソーダもあるぞ?」
「いい酒はストレートで飲めってだれかさんそう言いませんでしたっけか?」
「……ふん」
結局、準備した氷はひとかけらも使われないまま、ただ酒だけが減って行った。
瓶が半分ほど空になったところでやっと、ディフがぽつりぽつりと吐き出してくれた。今日、何があったのか。
「シエンが家出したってっ! どうしうて知らせてくれなかったんだよ!」
「すまん、それどころじゃなかった……」
「ったく。しっかりしてくれよ、まま……」
「ヒウェル」
「何すか」
「知らせたところでどうにかなったかい? そもそもの原因は君なんだから」
「だからって!」
「知らせなくて正解だったんだ。君もわかってるだろう」
「うー………」
がばっとグラスの中身を一気にあおる。ああ、こんな上等な酒をもったいない。
濃密な木の樽の香りと、数多の歳月を溶かし込んだ芳醇なアルコールがのどを焼き、むせ返る。だが、それでも腹の底からわき起こるやるせなさをまぎらわせるには到底足りなかった。
黙って杯を重ねていると、ディフがぼそりと言った。
「お前は、最初っからオティアしか眼中になかったもんなあ。救いようのない馬鹿もやらかしたが、どんなに冷たくされようが無視されようが、徹頭徹尾絶対、心変わりしなかった。少なくともその点だけは立派だよ」
「そりゃどーも」
「シエンも……わかってた……わかってるつもりでいたんだ……だけど、まだやっと十七になったばかりの子どもだぞ? 感情が、理屈にはいそうですかっておとなしく従うかよ。それなのに、俺は………」
くしゃっと顔を歪めるディフをレオンが抱き寄せ、額に口づけた。キスされた方は目を細めてレオンのなすがまま、されるがまま。こいつら、もう俺が居ようが居まいがおかまい無しだ。
「反抗期は必要だよ。ただあの子は極端な方向に走りかねないから、そこは注意しないとね」
「ああ。それが心配なんだ。特にシエンは思いつめる子だからな」
「……反抗できるのはさ。どんなに逆らっても絶対見捨てない、離れてかない相手だと思ってるからだろ。そーゆー意味では、何つーか、お前に甘えてんだよ」
しぱしぱとまばたきすると、ディフはうつむいてしまった。
「……それで、関係の切れる相手ならそれでもいいって、見限られてるだけかも」
「だーっ、辛気くせぇ方に考えんなっ! 超絶ポジティブ野郎が珍しく弱気だなおい……ほら、飲め」
「うん……飲む」
あーあー、こいつは、もう、両手でグラスかかえてちびちび飲んでるし……それ、スコッチだよ? ミルクじゃないんだぞ?
「子どもが居心地のよい安全な場所に居たいと思うのは生き延びるための本能だ。あいつらがこの家がそうだと思ってくれてるのなら……」
「思ってるって」
「そうかな……そうだと……いいな……」
……ソファの上で膝抱えてるし。
「だったら、俺は、それだけでいい」
レオンが黙ってスコッチを注ぐ。ディフはグラスをかかげ、琥珀色の液体をひといきに流し込んだ。左の首筋の、薔薇の花びらみたいな火傷の痕が一段と赤く浮かび上がる……白い肌の下にたかまる熱を透かして。
「ここでやめてしまったらまたゼロに戻る。欠けていたものを、欠いたままで終わってしまう。だから……俺はバカになり切ることにするよ」
「それ以上バカになってどうするよ」
「言ってろ」
にやっと、微かな笑みが口元に浮かぶ。それは俺がこの日初めて見る、奴のにごりのない笑顔で……見ていてほっとした。
「『俺はここにいる』って。『お前を見ている。守りたい。決して見捨てたりしない』って……想い、行動し、伝える。そのことだけはやめない」
「ふーん? それで、具体的にはどうするつもりだよ」
「飯作って、声かける。朝はおはよう、夜はおやすみ。送り出す時はいってらっしゃいってな。帰ってきたら……おかえりって、迎える。待ってる。いつか、あの子が俺を迎えてくれたときみたいに」
ああ。今さらだけど、こいつ、本物のバカだ。
「俺の、自己満足なのかもしれないけど……」
「阿呆。少なくとも食生活は一定のレベル維持できてるだろーがよ。それってかなり大事なことだよ?」
「そうかな」
「そうだよ」
これからもこいつはほほ笑んで食卓を整え、翼を広げて子どもらを迎え入れるのだろう。
時にぶっきらぼうに見える朴訥さで、何があっても変わらずに……胸を食む鈍い痛みも、空しささえも飲み込んで。
(そうして時々、レオンの前でだけ弱音を吐くのかもしれない)
まったく、どんなお人好しだ。そう言う意味では『信じらんねぇ』よ、ディフ。
「飲め」
酒瓶をとって、とくとくと大ぶりのグラスに注ぐ。
「……うん」
こくん、とうなずき、両手でかかえてちびちび飲んでる。
嫌な事、悲しい事があったからって酒に逃げるってのはベストの選択肢とは言いがたい。
わかっちゃいるが、今だけは。酔っぱらってる間だけでもいいから、こいつを解放してやりたいと思った。
法による義務も、血縁による強制もない。本当に自由に、自分の意志で親として愛情を注ぐことが許される……こいつにとって双子はそんな存在なのだ。そうすることが彼の願いであり、喜びなのだろう。
ああ、まったくお前って奴は。
「つまみも食えよ」
「うん。美味いな、これ」
そうして俺たちはぐだぐだと飲み続けた。双子と出会う前によくしていたように、居間に座り込んで延々と。やがてディフがぱたりとソファにつっぷしてすやすやと寝息を立て始め、しばらくしてムクっと起き上がる。
「俺のクマどこ?」
久々に出たな。やっぱ心細いんだな、こいつ。
「ほら、ここだよ」
レオンが差し出したクマを彼の腕ごと抱え込むと、ディフは安心したようにもふもふと顔を埋めてまたすやっと眠っちまった。その隣では嫁を抱きかかえたままレオンがすーすーと行儀よく眠ってたりするわけで。
はたと気づくとテーブルの上には明らかに土産にしては多すぎる数の酒瓶が転がり、まるでボーリング場みたいな有様になっていた。
「……ダメな飲み方してるなあ……」
グラスの底に残った酒をひとすすり。床にばったんとひっくり返り、目をとじる前にかろうじて眼鏡を外して高いところに置いて。
後は一気にブラックアウト。
(ああ、まったくこれ以上ないってくらいにダメな飲み方だ)
※ ※ ※ ※
翌朝。
少し早めに目を覚ましたシエンがリビングに入って行くと、カオスが広がっていた。
ローテーブルの上にはグラスと空っぽになった酒瓶と大皿が散乱し、床の上にだれかが落ちている。
「……ヒウェル?」
一瞬、ぎょっとしたが体の具合が悪い訳ではなさそうだ。ある意味、とてつもなくバッドコンディションではあるのだろうけれど。
気配を察したのか、ひょろ長い手がローテーブルの上をまさぐり、眼鏡を取り上げて顔に乗せた。
「あー……もう朝かぁ?」
ソファの上ではレオンとディフがぴったりと身を寄せ合って眠っていた。よく見るとディフはクマのぬいぐるみを抱えていて、レオンはクマもろともディフをしっかりと抱いていた。すっぽりと自分の胸の中に包み込むようにして。二人とも目をさます気配はない。
シエンは静かにリビングを通り過ぎ、キッチンへと入って行った。
今日は木曜日。みんな仕事のある日だ。
ディフがこんな状態じゃ、朝ご飯は自分で作るしかない。パンを焼いて、買い置きのキュウリとトマトでサラダにして。
卵は……スクランブルでいいや。
その間にリビングでは、だめな大人3人がようやく状況を把握しつつあった。
「レオン……ディフ……朝……」
「あー……」
「うん……」
目をこすりながら起き上がり、テーブルに手をのばすレオンをヒウェルが押しとどめる。
「いや、あなたは手伝わなくいいですから……顔洗ってきてください」
「ああ……すまないね」
「お前もシャワー浴びてこい。ここは俺がやっとくから……今日、外に出る予定ないし」
「うん……」
支え合って寝室に歩いて行く二人を見送り、のそのそと宴の後を片付けているところにオティアが入ってきた。
一目見て、怪訝そうな顔をして首をかしげる。
どうしてこいつがここにいるんだろう? よれよれの服(昨日と同じ)で、珍しく髪の毛をほどいた状態。朝食をたかりにきた訳ではなさそうだ。まさか、あのまま泊まっていったんだろうか?
ぼさぼさに乱れまくった髪の毛を手ぐしでかきあげ、輪ゴムで結い直しているヒウェルと目が合う。ぼーっとしていた顔に生気がもどり、口が動いた。
「おはよう」
「………」
おはよう、って言った。
今は朝だ。挨拶を返しておこう。わずかに口を開きかけると、琥珀色の瞳が見開かれた。
思わずのどが震え、舌先に用意した言葉が止まる。
するとヒウェルが目を細め、笑った。いつもの口角を引っ張り上げる皮肉めいた薄笑いとは明らかに質が違う。
それはさらさらした細かい砂の間からわき出す、温かい澄んだ水のような微笑みだった。
手を浸していつまでも、指先をなでる優しい砂と水の動きに触れていたいような……。
ほんの少し勇気を出して、一度止まった声を送り出そうとした、その時だ。
「つくっといたから、好きに食べて」
抑揚のない声が呼びかける。
戸口に立つシエンからは、笑顔も潤いも消え失せていた。
「何?」
「朝食」
それだけ言うと、シエンはくるりと背を向けて部屋に戻って行く。自分の分はもうすませたらしい。オティアは口をつぐむとのろのろと食堂へと歩いてゆく。
おはようって言ったら、返事をかえそうとしてくれた。いつものあいつなら、絶対、渋い顔してにらみそうな状況なのにな。
『朝まで酒盛りかよ』って。
寝起きだからまだ頭が回ってないのかもしれないが、さすがに一緒に飯食ってたら気づかれるだろうな……酒くさいって。
どうしたものか。
くんくんとシャツのにおいをかぎつつ一人残されて立ち尽くしていると、身支度を整えたレオンとディフが入ってきた。
「何ぼーっとしてる」
「え、いや……別に」
「ついでだ、朝飯食ってくか?」
「それは……シエンが用意してくれたから」
「……そう……か」
だめな大人3人は顔を見合わせ、食堂へと歩いて行く。微妙な静寂を共有したまま。
そして、後にはクマが一匹残された。
真っ黒なボタンの目に刺繍の口、ソファの上にころりと転がる、明るい茶色のテディベア。
(たとえそれが痛みでも/了)
次へ→【4-10】ラテと小エビと七面鳥
とりあえず、卵があるからこいつでデビルズエッグにして……。
久しぶりに無茶な飲み方になりそうな予感がする。一応、飯食った後ではあるが、タンパク質多めにとらせて、胃袋に防護膜を張っておこう。
ボイルして横1/2に切った卵から黄身を取り除き、マスタードとマヨネーズであえてからまた白身に詰めて、仕上げにパプリカを散らす。
これだけじゃ足りなさそうなんでついでに薄切りにしたチーズとキュウリをクラッカーにのっけた。
できあがったつまみを大皿に盛りつけ、冷蔵庫から氷をざらっとアイスペールに取り分けて、グラスを三つ用意して。準備万端整えてリビングに引き返すと……既にいい感じにできあがってるやつがいたりするわけで。
そーいやグラスは居間のバーカウンターにもあったんだよなあ、うん。
ああ、まーた自分たちより年季の入った酒をストレートで惜しげもなくがぶ飲みしてるよこの人たちは!
「ったく、相変わらず雑な飲み方しやがって……」
「だまれ、諸悪の根源」
「俺のことか!」
「ああ、お前のことだ」
とろん、としたヘーゼルの瞳の奥にちらちらと緑の炎がゆれている。いったい俺が卵ゆでてる間にこいつはどれだけ飲んだのか。
(ってかレオン、あんたが飲ませたな?)
じとっとねめつけるが当人、嫁にぴったり寄り添って片手で肩なぞ抱きながら涼しい顔でくいくいと琥珀色の液を流し込んでいらっしゃる。せっかく持ってきたアイスペールにゃ見向きもしない。割るつもりはないってことですかい。
ため息をついてると、いきなりぐい、とタイをひっつかまれた。
「おいこら! 人の話を聞けい!」
「ぐええっ、苦しいっ、息がつまるっ!」
問答無用に引き寄せられ、至近距離で睨みつけられる。瞳の中に揺らめく緑の炎が一段と強くなっていた。
「俺がいったい何をした?」
「シエンが落ち込んでオティアとお前の空気が明らかに変わってんだよ。何があったか一目瞭然だろーがよ」
「っ」
一瞬、言葉に詰まったが目はそらさなかった。臑に抱えた傷は片手の指では足りない俺だが、この件に関してはこいつに対して恥じ入るようなことはしていない。それだけは自負してる。
「伝えたんだよ。お前が好きだって……今度こそ逃げずに、真剣にな」
「そうかよ」
ディフはすねたような顔でそっぽを向いた。その結果、どうなったかは言わずとも知れている。確認のためにあえて言葉にする必要もない。
「おめでとう、と言うべきなんだろうね。でもね、ヒウェル」
レオンがさらりと言った。
「未成年者に手を出したら犯罪だよ。たとえ同意の上でも」
「………わかってます、よーっく」
うーわー、すっげえ爽やかな笑顔。背筋がぞわわっと総毛立つ。
何度も言うが、この手の顔してる時がいちばん怖いんだよこの男は!
「たとえここがフロリダでも、君の場合は年齢差があるからね」
わざわざフロリダの州法まで引き合いに出しやがって念入りなこった!(※未成年でも十六歳以上の場合は相手が二十四歳以下でなおかつ合意の上なら合法と見なされる)微妙に腹が立つもののさりとてこちらも後ろ暗いところがある。
そうとも、シエンが『ああなった』のは俺のせいだよ。だけど俺が恋してるのはオティアであって他のだれも代わりにはなれないんだよ。たとえ同じ顔、同じ遺伝子の持ち主でも。
言い訳する気は毛頭ないし、これから待ち受ける試練からも逃げるつもりはない。
こうなったら、とことん飲んでやらぁ。
自腹じゃ到底、買えないレベルの高い酒なんだ。こいつらに雑な飲み方される前に一滴でも俺が飲むのが功徳ってもんだ!
「氷、使わないのか。冷蔵庫にソーダもあるぞ?」
「いい酒はストレートで飲めってだれかさんそう言いませんでしたっけか?」
「……ふん」
結局、準備した氷はひとかけらも使われないまま、ただ酒だけが減って行った。
瓶が半分ほど空になったところでやっと、ディフがぽつりぽつりと吐き出してくれた。今日、何があったのか。
「シエンが家出したってっ! どうしうて知らせてくれなかったんだよ!」
「すまん、それどころじゃなかった……」
「ったく。しっかりしてくれよ、まま……」
「ヒウェル」
「何すか」
「知らせたところでどうにかなったかい? そもそもの原因は君なんだから」
「だからって!」
「知らせなくて正解だったんだ。君もわかってるだろう」
「うー………」
がばっとグラスの中身を一気にあおる。ああ、こんな上等な酒をもったいない。
濃密な木の樽の香りと、数多の歳月を溶かし込んだ芳醇なアルコールがのどを焼き、むせ返る。だが、それでも腹の底からわき起こるやるせなさをまぎらわせるには到底足りなかった。
黙って杯を重ねていると、ディフがぼそりと言った。
「お前は、最初っからオティアしか眼中になかったもんなあ。救いようのない馬鹿もやらかしたが、どんなに冷たくされようが無視されようが、徹頭徹尾絶対、心変わりしなかった。少なくともその点だけは立派だよ」
「そりゃどーも」
「シエンも……わかってた……わかってるつもりでいたんだ……だけど、まだやっと十七になったばかりの子どもだぞ? 感情が、理屈にはいそうですかっておとなしく従うかよ。それなのに、俺は………」
くしゃっと顔を歪めるディフをレオンが抱き寄せ、額に口づけた。キスされた方は目を細めてレオンのなすがまま、されるがまま。こいつら、もう俺が居ようが居まいがおかまい無しだ。
「反抗期は必要だよ。ただあの子は極端な方向に走りかねないから、そこは注意しないとね」
「ああ。それが心配なんだ。特にシエンは思いつめる子だからな」
「……反抗できるのはさ。どんなに逆らっても絶対見捨てない、離れてかない相手だと思ってるからだろ。そーゆー意味では、何つーか、お前に甘えてんだよ」
しぱしぱとまばたきすると、ディフはうつむいてしまった。
「……それで、関係の切れる相手ならそれでもいいって、見限られてるだけかも」
「だーっ、辛気くせぇ方に考えんなっ! 超絶ポジティブ野郎が珍しく弱気だなおい……ほら、飲め」
「うん……飲む」
あーあー、こいつは、もう、両手でグラスかかえてちびちび飲んでるし……それ、スコッチだよ? ミルクじゃないんだぞ?
「子どもが居心地のよい安全な場所に居たいと思うのは生き延びるための本能だ。あいつらがこの家がそうだと思ってくれてるのなら……」
「思ってるって」
「そうかな……そうだと……いいな……」
……ソファの上で膝抱えてるし。
「だったら、俺は、それだけでいい」
レオンが黙ってスコッチを注ぐ。ディフはグラスをかかげ、琥珀色の液体をひといきに流し込んだ。左の首筋の、薔薇の花びらみたいな火傷の痕が一段と赤く浮かび上がる……白い肌の下にたかまる熱を透かして。
「ここでやめてしまったらまたゼロに戻る。欠けていたものを、欠いたままで終わってしまう。だから……俺はバカになり切ることにするよ」
「それ以上バカになってどうするよ」
「言ってろ」
にやっと、微かな笑みが口元に浮かぶ。それは俺がこの日初めて見る、奴のにごりのない笑顔で……見ていてほっとした。
「『俺はここにいる』って。『お前を見ている。守りたい。決して見捨てたりしない』って……想い、行動し、伝える。そのことだけはやめない」
「ふーん? それで、具体的にはどうするつもりだよ」
「飯作って、声かける。朝はおはよう、夜はおやすみ。送り出す時はいってらっしゃいってな。帰ってきたら……おかえりって、迎える。待ってる。いつか、あの子が俺を迎えてくれたときみたいに」
ああ。今さらだけど、こいつ、本物のバカだ。
「俺の、自己満足なのかもしれないけど……」
「阿呆。少なくとも食生活は一定のレベル維持できてるだろーがよ。それってかなり大事なことだよ?」
「そうかな」
「そうだよ」
これからもこいつはほほ笑んで食卓を整え、翼を広げて子どもらを迎え入れるのだろう。
時にぶっきらぼうに見える朴訥さで、何があっても変わらずに……胸を食む鈍い痛みも、空しささえも飲み込んで。
(そうして時々、レオンの前でだけ弱音を吐くのかもしれない)
まったく、どんなお人好しだ。そう言う意味では『信じらんねぇ』よ、ディフ。
「飲め」
酒瓶をとって、とくとくと大ぶりのグラスに注ぐ。
「……うん」
こくん、とうなずき、両手でかかえてちびちび飲んでる。
嫌な事、悲しい事があったからって酒に逃げるってのはベストの選択肢とは言いがたい。
わかっちゃいるが、今だけは。酔っぱらってる間だけでもいいから、こいつを解放してやりたいと思った。
法による義務も、血縁による強制もない。本当に自由に、自分の意志で親として愛情を注ぐことが許される……こいつにとって双子はそんな存在なのだ。そうすることが彼の願いであり、喜びなのだろう。
ああ、まったくお前って奴は。
「つまみも食えよ」
「うん。美味いな、これ」
そうして俺たちはぐだぐだと飲み続けた。双子と出会う前によくしていたように、居間に座り込んで延々と。やがてディフがぱたりとソファにつっぷしてすやすやと寝息を立て始め、しばらくしてムクっと起き上がる。
「俺のクマどこ?」
久々に出たな。やっぱ心細いんだな、こいつ。
「ほら、ここだよ」
レオンが差し出したクマを彼の腕ごと抱え込むと、ディフは安心したようにもふもふと顔を埋めてまたすやっと眠っちまった。その隣では嫁を抱きかかえたままレオンがすーすーと行儀よく眠ってたりするわけで。
はたと気づくとテーブルの上には明らかに土産にしては多すぎる数の酒瓶が転がり、まるでボーリング場みたいな有様になっていた。
「……ダメな飲み方してるなあ……」
グラスの底に残った酒をひとすすり。床にばったんとひっくり返り、目をとじる前にかろうじて眼鏡を外して高いところに置いて。
後は一気にブラックアウト。
(ああ、まったくこれ以上ないってくらいにダメな飲み方だ)
※ ※ ※ ※
翌朝。
少し早めに目を覚ましたシエンがリビングに入って行くと、カオスが広がっていた。
ローテーブルの上にはグラスと空っぽになった酒瓶と大皿が散乱し、床の上にだれかが落ちている。
「……ヒウェル?」
一瞬、ぎょっとしたが体の具合が悪い訳ではなさそうだ。ある意味、とてつもなくバッドコンディションではあるのだろうけれど。
気配を察したのか、ひょろ長い手がローテーブルの上をまさぐり、眼鏡を取り上げて顔に乗せた。
「あー……もう朝かぁ?」
ソファの上ではレオンとディフがぴったりと身を寄せ合って眠っていた。よく見るとディフはクマのぬいぐるみを抱えていて、レオンはクマもろともディフをしっかりと抱いていた。すっぽりと自分の胸の中に包み込むようにして。二人とも目をさます気配はない。
シエンは静かにリビングを通り過ぎ、キッチンへと入って行った。
今日は木曜日。みんな仕事のある日だ。
ディフがこんな状態じゃ、朝ご飯は自分で作るしかない。パンを焼いて、買い置きのキュウリとトマトでサラダにして。
卵は……スクランブルでいいや。
その間にリビングでは、だめな大人3人がようやく状況を把握しつつあった。
「レオン……ディフ……朝……」
「あー……」
「うん……」
目をこすりながら起き上がり、テーブルに手をのばすレオンをヒウェルが押しとどめる。
「いや、あなたは手伝わなくいいですから……顔洗ってきてください」
「ああ……すまないね」
「お前もシャワー浴びてこい。ここは俺がやっとくから……今日、外に出る予定ないし」
「うん……」
支え合って寝室に歩いて行く二人を見送り、のそのそと宴の後を片付けているところにオティアが入ってきた。
一目見て、怪訝そうな顔をして首をかしげる。
どうしてこいつがここにいるんだろう? よれよれの服(昨日と同じ)で、珍しく髪の毛をほどいた状態。朝食をたかりにきた訳ではなさそうだ。まさか、あのまま泊まっていったんだろうか?
ぼさぼさに乱れまくった髪の毛を手ぐしでかきあげ、輪ゴムで結い直しているヒウェルと目が合う。ぼーっとしていた顔に生気がもどり、口が動いた。
「おはよう」
「………」
おはよう、って言った。
今は朝だ。挨拶を返しておこう。わずかに口を開きかけると、琥珀色の瞳が見開かれた。
思わずのどが震え、舌先に用意した言葉が止まる。
するとヒウェルが目を細め、笑った。いつもの口角を引っ張り上げる皮肉めいた薄笑いとは明らかに質が違う。
それはさらさらした細かい砂の間からわき出す、温かい澄んだ水のような微笑みだった。
手を浸していつまでも、指先をなでる優しい砂と水の動きに触れていたいような……。
ほんの少し勇気を出して、一度止まった声を送り出そうとした、その時だ。
「つくっといたから、好きに食べて」
抑揚のない声が呼びかける。
戸口に立つシエンからは、笑顔も潤いも消え失せていた。
「何?」
「朝食」
それだけ言うと、シエンはくるりと背を向けて部屋に戻って行く。自分の分はもうすませたらしい。オティアは口をつぐむとのろのろと食堂へと歩いてゆく。
おはようって言ったら、返事をかえそうとしてくれた。いつものあいつなら、絶対、渋い顔してにらみそうな状況なのにな。
『朝まで酒盛りかよ』って。
寝起きだからまだ頭が回ってないのかもしれないが、さすがに一緒に飯食ってたら気づかれるだろうな……酒くさいって。
どうしたものか。
くんくんとシャツのにおいをかぎつつ一人残されて立ち尽くしていると、身支度を整えたレオンとディフが入ってきた。
「何ぼーっとしてる」
「え、いや……別に」
「ついでだ、朝飯食ってくか?」
「それは……シエンが用意してくれたから」
「……そう……か」
だめな大人3人は顔を見合わせ、食堂へと歩いて行く。微妙な静寂を共有したまま。
そして、後にはクマが一匹残された。
真っ黒なボタンの目に刺繍の口、ソファの上にころりと転がる、明るい茶色のテディベア。
(たとえそれが痛みでも/了)
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▼ 奥津城より
2009/01/05 1:23 【短編】
- 拍手お礼用の短編の再録。
- ほんのり和風テイストの怪奇譚。
友だちが病気になった。高校は別だけど、小学校から中学校までずっと一緒だった女の子。
学校帰りに倒れているのが見つかって、それきり目を覚まさない。
放課後、お見舞いに行った。彼女の好きな白い百合の花を持って。
花屋に寄っていたら少し遅くなったので、近道をすることにした。
竹やぶの脇の細い道を通り、崩れ落ちた家の横を抜ける………家と言っても、ずっと昔に火事で焼け落ちて、今は黒く煤けた柱と平べったい石がいくつか、残っているだけなんだけど。
夏の盛りでも、ここには草一本生えない。芽吹いたそばから黒く干涸びねじくれて、後に残るのは燃えかすみたいな草の亡きがら。
犬も、猫も、スズメもカラスも。虫さえもここには入ろうとしない。まるで目に見えない線が引かれてるみたいに。
足早に通り過ぎようとしたその時。
カラ……カラ……カサリ。
空気がゆらいだ。真っ黒に干涸びた枯れ草が互いにこすれ合い、かすかな音を立てる。
カラ、カラ、カサリ。
「あ………」
誰かいる。
白いワンピースの裾と、肩まで伸びた髪の毛を風になびかせて……彼女だ。
「すずちゃん」
名前を呼ぶと、すうっとこっちを振り返り、ぼんやりと見つめてきた。まばたき一つせずに。
「こうちゃん?」
「うん……病気になったって言うから、心配した」
すずちゃんは俺の抱えた花束を見てふわっとほほ笑んだ。
「きれい……それ、あたしに?」
「うん。お見舞い」
「うれしいな……」
雲の中を歩くような足どりで近づいて来る。
「すずちゃん、君、靴はいてない!」
「うん、わすれちゃった」
よく見ると着ているのもワンピースじゃなくて寝間着……ネグリジェだった。いったいどうしたんだ、すずちゃん。
「こんなとこで、何やってるの?」
「……よばれたの」
「呼ばれた?」
こくっとうなずいた。
「知ってる? ここで昔、火事があったの」
「うん……聞いたことある」
「みんな燃えて……」
ぶわっと視界が赤く染まる。夕陽よりもなお赤く。頬がじりじりと焼ける。熱い!
燃えている。
辺り一面、火の海だ!
「すずちゃん?」
いない。どこに行った?
「うわ……ああ」
すぐそばまで炎が迫っている。
髪の毛の焦げるにおいを嗅いだ。
早く逃げなければ!
走っても、走っても炎が追って来る。それどころか近づいて来る。
……違う。
燃えているのは、俺だ!
手が燃えている。足が、髪が、体が。ごうごうと炎をあげて燃えている。
熱い。熱い。熱い!
「うわぁっ」
口の中が焼けただれる。目の前で手が炎に包まれ、皮膚が焼け落ち、肉が爛れる。血は流れない。じゅわじゅわと泡立ち、沸騰して蒸発してしまうから。
『みんな燃えて……死んだの』
『死んだの』
『死』
『死』
『死』
『死』
赤い炎がくねって伸びて、手に、足に絡み付く……動けない。はっきりと悪意を感じた。憎しみを感じた。
『 あ な た も こ こ で 死 ぬ の 』
(いやだ!)
叫ぶ喉の奥に熱気が流れ込み、はらわたが焼ける。
このまま焼けてしまうのか、俺は。骨まで残さず燃え尽きて、先祖代々の奥津城に眠ることさえ叶わずに。
いやだ、いやだ、いやだ!
恐ろしい。恐ろしい!
炎が笑う。
声の無い声で。
胸が、喉が、顔が、皮膚も肉も一塊にごぞりと崩れ落ちる。
ああ、それでも意識が消えない。
ぱちん、と片方の眼球が弾けてどろりと溶け落ちた。
炎が笑う。
幼い子どもみたいに甲高い、調子の外れた無邪気な声で。
笑いさざめきひらひらと、空ろになった目の玉の、くぼみの中で踊っている。
左手はもう、ほとんど筋一本で繋がってるだけだ。
鼻が崩れ、耳が落ちる。
それでもまだ倒れない。立ったままぼうぼうと、松明みたいに燃えている。
俺はいつまで燃えてるんだろう……。
「惑わされるな!」
シャリン!
鈴が鳴る。
月の光が薄く結晶し、しん、と冷えた夜の空気の真ん中で触れあうような澄んだ音。
さらり。
緑の枝が揺れた。
葉っぱの先から水晶みたいな雫が散って、ざあっと降り注ぐ。
優しい雨が染み通る。
「………み…………」
だれかがよんでる。
「しっかりしろ……お前は燃えてなんかいない………」
本当だ。
手も、足も、顔も髪も胴体も、燃えてなんかいない。
「………ざ……み……」
りん、とした呼び声。とても良く知っているだれかの声が俺の名前を呼ぶ。
その瞬間、風が走った。俺を中心にうずを巻き、迫る炎を押し戻す。
そうだ……。
風よ、走れ。もっと早く、もっと強く。こんな、憎しみに満ちた炎なんか………
「消してやる!」
意志が力となり、形を成す。
「行けぇっ」
降り注ぐ雨が風の螺旋に乗って広がり、紅蓮の炎を鎮めた。
「風見!」
「はっ」
目蓋を上げる。
焼け跡にいた。
「大丈夫か?」
情けないことに俺は地面に仰向けにのびていて、小柄な女性がそばにいた。
ハーフアップにした長い髪。赤い縁の眼鏡の奥から、黒目の大きなくりっとした瞳がのぞきこんでいる。
「え? 羊子先生? 何で、ここに?」
「お前のことがちょいと気になってな。後、ついてきた」
「………先生、それ、ちょっとストーカーっぽい……」
「おばか」
こん、と握った拳でおでこを軽く小突かれる。
「一人で突っ走るなっつっただろ?」
「すみません」
「そら、これ」
さし出された百合の花束を受けとった。花びらも、茎も、葉も、しゃんとしてる……よかった。
「あ……そうだ、すずちゃん!」
起きあがり、慌てて見回すが……いない。どこに?
「……佐藤さんなら入院中だぞ。今朝、お前が言ってたじゃないか」
「あれ……そうでしたっけ」
「しっかりしろ」
ぱふぱふと背中を叩かれた。
あんな事があった直後なのに、落ち着いてるなあ……見かけは俺よりちっちゃいのに、やっぱり大人なんだ。
羊子先生はとことこと歩いて行くと、煤けた石を見下ろし、小さくうなずいた。
さっきまですずちゃんが立っていた場所だ。
「どうしたんです?」
「うん……ちょっと……ね……」
先生は肩にかけたバッグから手帳を取り出し、ぱらりと開いて中に挟んであったものを手にとった。
白い紙……和紙かな。何となく、人の形に切り抜かれているように見える。
羊子先生は人型の紙で、ちょい、ちょい、と石を撫でるとまた元のように手帳に挟み込んだ。
「さてと……ここの近くに、お墓とか、ないか?」
何で知ってるんだろう。
※ ※ ※ ※
竹やぶの手前で道を右に曲がり、まっすぐ進むと墓地がある。畑と住宅地の間にぽっかりと思い出したように墓石の並ぶ空間が広がっているのだ。
羊子先生はしばらくちょこまかと墓地の中を歩き回っていたが、やがて一つのお墓の前で立ち止まった。
四角柱の形の墓石。これは、まあ普通だ。けれど先端がピラミッドみたいに尖っているのは珍しい。
墓石の前に、線香立てじゃなくて小さな棚があるのも変わってる。
「変わった形ですよね、これ」
「神道式の墓だよ。奥津城(おくつき)って言うんだ……そら」
「ほんとだ」
墓石には確かに『佐藤家之奥津城』と刻まれていた。
「佐藤さんが倒れてたのって、もしかしてここじゃない?」
「……そうです」
墓石の台座の部分にわずかに開いたすき間を指さす。
「そこをのぞきこむようにしてうずくまってたって」
「だろうね」
「何なんです、それ」
「ああ、ここは、床下収納庫みたく開くようになっていてね」
「……収納庫って……何、しまうんですか」
「お骨」
そうだよ……な。お墓なんだし。
「さて、と」
羊子先生は手帳に挟んであった人型の紙を取り出すと、墓石のすき間に押し込み、とん、と軽く押した。
すう………すとん。
まるで吸い込まれるみたいに落ちて行った。それがそこにあったことすら、夢だったみたいにあっけなく。
「……帰りたかったんだね……」
「でも、こんなに近くにあったのに、何で?」
「縛られてたんだよ。あの場所でずっと」
「あ」
手足に絡み付いた炎を思い出す。
「あいつか……」
「そう言うこと。さてと、病院に行こうか? たぶん、彼女も目を覚ましてるよ」
「はい……あ、ちょっと待って」
花束から一輪、白い百合を取り出し、墓前に手向けた。
「OK。行きましょうか」
「ん……」
羊子先生は満足げにうなずくと目元をなごませ、笑いかけてきた。
「優しいな、風見」
「何も無いのも寂しいし、幼馴染の家のお墓ですから。」
※ ※ ※ ※
「……そんなことがあったんだ」
「うん。俺がまだ駆け出しだった頃にね」
「そ、それで、コウイチ。その、佐藤サンは?」
「先生が言った通りだったよ。病院に訪ねてったらすっかり元気になっていた」
「そ、そう……良かったネ」
(そうじゃないんだ。ボクが知りたいのはっ)
後ろからにゅっと羊子先生が顔をつっこんできた。
「佐藤さんなら二つ隣の駅の学校だぞ。毎朝、彼氏と仲睦まじく登校してる」
「ちなみにその彼氏も幼馴染」
「そうなんですかっ。ああ、良かった………安心しましタっ!」
爽やかにほほ笑むロイを見守りながら風見光一は思った。見知らぬ女の子のためにこんなに親身になって心配するなんて。
「ロイ。お前ってほんと、いい奴だな!」
(奥津城より/了)
inspired from "The Tomb" (by H.P.Lovecraft)
▼ 【ex8】桑港悪夢狩り紀行(前編)
2009/01/18 21:25 【番外】
- 番外編。2006年12月の出来事。日本の高校生二人組風見とロイ、ヨーコ先生に付き添われて(付き添って?)サンフランシスコに参上。
- 今回は番外編中の番外編、【ex5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
- 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
- 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
- 詳しくは【ex5】熱い閉ざされた箱の解説のページがありますので、興味のある方はそちらも合わせてお読みいただければ幸いです。
記事リスト
- 【ex8-0】登場人物紹介 (2009-01-18)
- 【ex8-1】兆シノ夢 (2009-01-18)
- 【ex8-2】あくまで普通らしい (2009-01-18)
- 【ex8-3】空港にて (2009-01-18)
- 【ex8-4】チェックイン (2009-01-18)
- 【ex8-5】あくまで普通らしい2 (2009-01-18)
- 【ex8-6】対面 (2009-01-18)
- 【ex8-7】出陣 (2009-01-18)
- 【ex8-8】対決! (2009-01-18)
- 【ex8-9】対決!! (2009-01-18)
▼ 【ex8-0】登場人物紹介
2009/01/18 21:28 【番外】
【結城朔也】(右)
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
癒し系獣医。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
従姉のヨーコ(羊子)とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
初登場時に比べて明らかに愛らしさと可憐さが増量してるけど気にしない。
身長はかろうじてヨーコよりは高い。
密かに古本屋のエドワーズさんをくらくらさせている。
【結城羊子】(左)
通称ヨーコ、サリー(朔也)の従姉。26歳。
小動物系女教師。
初登場時に比べて明らかに頭身縮んでるけど気にしちゃいけない。
高校時代、サンフランシスコに留学していた。ディフやヒウェルとは同級生。
現在は日本で高校教師をしている。実家は神社。
凹凸の少ないコンパクトなボディに豪快な男気がぎっしり詰まっている。
【風見光一】(右)
目元涼やか若様系高校生。ヨーコの教え子でサクヤの後輩。17歳。
家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
無自覚にぶいぶい可愛さを振りまく罪な奴。
【ロイ・アーバンシュタイン】(左)
はにかみ暴走系留学生。ヨーコの教え子。17歳。
金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
現在は日本に留学中。
無自覚にキュートな幼なじみに日々くらくら。
コウイチに近づく者は断固阻止の構え。
【カルヴィン・ランドールJr】(左。隣にいるのは秘書のシンディ)
純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。33歳。
通称カル。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の顧客の一人。
世慣れた遊び人なのにどこか純真で一途に片思いなんかもしたりした。
ヨーコとともにある事件に巻き込まれたのをきっかけに秘められた能力に目覚める。
骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
風見とは海と世代を越えたメル友同士。
【テリオス・ノースウッド】
通称テリー。熱血系おにいちゃん。
獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
動物はなんでも好きだけれど特に犬系大好き。
社長がサリーにちょっかい出してると信じて絶賛警戒中。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
マクラウド探偵事務所の有能少年助手。
双子の兄弟との深刻な仲違いがきっかけで精神不安定気味。
そんな彼の過去の壮絶な心の傷に、夢魔の群れが忍び寄る。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヨーコとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
マクラウド探偵事務所の所長でオティアの保護者。
【オーレ/Oule】
オティアの飼い猫。探偵事務所のびじんひしょ。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
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▼ 【ex8-1】兆シノ夢
2009/01/18 21:31 【番外】
夢を見た。
足にまとわりつく湿った砂。打ち寄せる波。手足が冷える。でも、それがここちよい。
ばしゃりと散った波頭が鳥になる。白い翼の海鳥が周囲を円を描いて飛び回る……手をのばした瞬間、足下の暗闇に引きずり込まれた。
窓のない暗い部屋。たちこめる獣の臭いに息が詰まる。まとわりつく手、手、手……。
肌を這いずりまわるじっとり湿った指に悪寒が走る。振り払うのはいつでもできる。だが今はまだ早い。こらえるんだ。真実が見えてくるまで。
意識の周囲に透明な薄い壁を張り巡らすのにとどめる。生々しい感触が少しだけ弱まり、考える余裕ができた。
(この夢、だれが見ているか……わかった)
周囲の闇がすうっと引いて行く。夢を見ている者と自分の物理的な距離に気づいたからだろうか。
(どこ……? どこにいるの?)
チリ……。
かすかな鈴の音。意識を向けると、その方角に闇がわだかまっていた。
もやもやとした闇色の霧の中心で、胎児のように丸まって眠っている子どもがいる。乾涸びた根がしゅるしゅるとまとわりついてゆく。今の彼に振り払う力はない。
チリン!
鈴が鳴った。さっきより強く。
ちいさな白い猫がうなる。乾涸びた根は一瞬ひるんで後退するがまた別の根が影のようにからみつき、決してゼロにはならない。
乾涸びた根は既に、少年の身近な人々にも狙いを定めていた。少年を拠点に現実の世界に結びつきを強めようとうごめいていた。
今はまだ薄い、だがこのままではいつか、彼は捕まってしまう。
急がなければ。
高い場所にある寝室の窓の外、灯りに群がる虫のように『よからぬもの』どもが飛び回っている。何て数。
(でもあいつらは小物)
本体は別にいる。瞳を凝らし、横たわる距離と時間の向こうに揺らぐ真実を見据える。
フィルムの逆回しのように景色が巻き戻り、やがて見えてきた。最初にこの場所にやってきた『モノ』の面影が……。
飛び回るちっぽけな魔物どもの中に、ひっそりと立つ影三つ。頭上にゆるく螺旋を描く頂く二対の角をいただき、やせ衰え枯れ木のように背が高い。裾がぼろぼろになった赤い長衣をまとっている。華奢な体格、腰はふっくらと丸みを帯び、胸元が盛り上がっていた。
(見つけた)
いきなりくんっと視界が後退した。現(うつつ)の光に包まれて、ほの暗い夜の夢がみるみる希薄になって行く。夢の終わる間際に、坂の多い海辺の街が見えた。
※ ※ ※ ※
ぱちりと目を開けると、結城羊子はベッドの上に半身を起こした。
「シスコか……」
寝間着がじっとりと湿っている。獣くさい息のにおい、肌の上を這いずる指……わずかに身震いすると羊子は頭をゆすって忌まわしい夢の名残を払いのけた。
普段は滅多にこんな風に海の向こうの異変を感知することはない。だが、サンフランシスコは彼女にとっては特別だ。わずか一年だったけど自分はあの町に暮らしていた。住んでいた。思春期の多感なひとときを確かにあの町で過ごした。
友人も多いし、今は従弟のサクヤが住んでいる。
どこで、何が起きているのかは知ることができた。
何者かがあの子を狙っている。過去の傷を足がかりに彼の心を浸食しようとしている。なまじ人にはない能力を持っている子なだけに、支配されてしまったら取り返しのつかないことになる!
しかも今回の相手は宿主を拠点にしてその家族を狙う性質を持っているようだ。このままでは、もう一人の少年や赤毛の気さくな友人、それに彼の愛する伴侶にも危害が及ぶ。狙われた少年にぞっこん参ってるへたれ眼鏡にも。
元々あの子はああいったモノを引きつけやすい傾向がある。これまではサクヤとカルが対応してきたし、身近に『お守り』もある。
……だが、今度ばかりはいつになく強力な奴が寄って来たようだ。
枕元でメール受信を知らせる携帯のライトがチカチカと点滅していた。だれからのメールか、見なくてもわかっていた。
次へ→【ex8-2】あくまで普通らしい
▼ 【ex8-2】あくまで普通らしい
2009/01/18 21:34 【番外】
2006年12月22日、明日から連休を控えた金曜日の午後。
風見光一は成田空港の第二ターミナルの雑踏の中に居た。
どこかでかすかに犬が吠えている。目の前を女の人がキャリーバッグに入れた猫を抱えて歩いて行く。ここから飛び立つのも、ここに降り立つのも、人間だけではない。
正に空の玄関口だ。
ぼーっとしたまま巨大なカートを引いて慌ただしく目の前を通り過ぎる人の流れを眺めていると、金髪の幼なじみが心配そうに声をかけてきた。
「Hey,コウイチ。どうしたんだい、ぼーっとして?」
「うん……なんだかまだ半分、夢を見ているような心地がして……」
「そうだね。ボクもまさかアメリカでクリスマスをすごすことになるなんて、思ってなかったよ」
「ロイは半分里帰りみたいなもんだもんな」
「でも、実家はワシントンだから。今回はさすがに行けないかな」
「そっか………大陸の反対側だもんな」
二人とも終業式を終えてから一旦家に立ち寄り、私服に着替えて荷物を持ってその足でここまでやってきた。おかげでまだ頭が学校生活から抜けきっていない。
すぐそこのカウンターでは、赤いケープ付きのコートを羽織った担任教師がプリントアウトしたeチケットの控えを手に航空会社の職員と言葉を交わしている。
「ふぇ?」
いきなり素っ頓狂な声をあげた。
「あのお客様?」
「あ、いえ、何でもないです。ありがとうございました」
はたはたと手をふり、妙にカクカクした動きで戻ってきた。
「どうかしました、ヨーコ先生?」
「あ、いや、席が……ね」
「まさか、ダブルブッキング?」
「いや、そうじゃなくて」
今回のサンフランシスコ行きに際しては、現地のチームメイトが宿も飛行機のチケットも全て準備万端、整えてくれたはずだった。
「カルのとってくれた席………普通の席だよって言うからてっきりエコノミーか、いいとこビジネスエコノミーかと思ってたら……」
「まさか、ビジネスクラス?」
「いや。ファーストクラスだった」
「え」
「ええーっ?」
「やっぱ声でちゃうよな、うん」
ただでさえホリデー価格で運賃の跳ね上がるこのシーズン、下手すりゃ車の買えるお値段である。現実を理解しつつも心のどこかで『何かのまちがいだろう?』なんて半信半疑で乗り込んでみたが、やっぱりきっちりファーストクラスなのだった。
「これが、ランドールさんの普通なんだ……」
しかも3人座るべきところを座席を押さえてあったのは4つ。すなわち窓際に二人並んで座り、もう一人が前に座ってさらにその隣が空くと言う無駄、いや余裕たっぷりの采配だった。
当然のことながら羊子が前に一人で、その後ろにロイと風見が並んで座ることになった。
さすがファーストクラスはスペースひろびろ、冬服の男子高校生二人が並んで座っても楽に足を伸ばせる余裕があった。
「うわ、座席ひろーい」
「ほんとだ。これなら向こうに着くまで楽にすごせますね……いいのかな、高校生がファーストクラスなんか乗っちゃって」
「いいんじゃないかな。ゆったりしてるから、向こうについてすぐ、動ける」
「なるほど」
素直にはしゃぐ風見と羊子の言葉にうなずきながらも、ロイはほんのちょっぴり残念だった。
(ああ、これがもしもエコノミーならもっとコウイチとぴとっと寄り添えるのに!)
「それにしてもさあ、君ら」
コートを脱いだ教え子二人を代わる代わる見ながら羊子はどこか不満げに顔をしかめた。
「華がないって言うか、地味って言うか……黒いぞ」
「そうかなあ」
「色があんまし制服と代わり映えしないし?」
確かにその通り。風見光一はカジュアル系量販店の黒のフリースに黒のジーンズ、足下はいつも学校に履いていっているスニーカー。ロイはほどよく履き慣らしたジーンズにかろうじてブルー系のシャツを重ね着してはいるものの、上に着ていたファー付きのロングコートは黒だった。
「せっかくの休みなんだから、もっと派手な服着てくればいいのに」
「黒はニンジャの基本色ですから」
「基本って……まさかロイ、その青いシャツも裏返すと黒、とか言わないよね?」
「よくおわかりで」
「……冗談抜きでリバなんだ」
「基本ですから」
「あー、あったよね、鬼平犯科帳で、そう言うの。ばっと普通の着物を裏返すと黒装束に変わるってやつ」
風見はにまっと笑うと軽くロイをひじでつついた。
「よっ、兄さん、粋だね」
「あ、ありがとう……」
はにかみつつほほ笑み返す幼なじみから羊子に視線を移し、着ているものをまじまじと観察してみる。
「羊子先生は、何て言うか、赤いですね」
「うん、クリスマスカラーを意識してみた」
着ていたケープつきコートは赤に緑のタータンチェックに黒いフェイクファーの縁取り。足下は学校ではほとんどお目にかからないカフェオレ色のブーツ。(下駄箱に入らないしどうせ校内では上履きだから)
コートの下は白のタートルネックのふかふかのカットソーにコートと同じ柄の巻きスカート、アクセントで黒のベルトを巻いている。しっかり黒のレギンスを履いているのは寒さ対策だろう。
「これはこれで妙になじみがあるって言うか、見慣れた感じだなあ……学校に赤い服はあんまし着てこないのに」
「オウ!」
ぽん、とロイが拳で手のひらを叩いた。
「そこはかとなく配色が巫女装束デス」
「なるほど!」
「こらこら。どこの世界にブーツ履いた巫女さんがいるかね」
結城羊子の実家は神社。そして風見とロイの二人は時々、そこでバイトをしているのである。
「そーいや結城神社のお仕事大丈夫なんですか? 年末のこの忙しい時期に、俺ら二人ともこっちに来ちゃって……」
「ああ、そのことなら心配ないよ。蒼太に助っ人頼んできたから」
「なるほどー。って、蒼太さんって……」
時折顔を会わせる生真面目な先輩の本職を思い出し、風見とロイは目を剥いた。
「お坊さんに神社の手伝い頼んじゃったんデスカ」
あっけにとられる二人に向かって羊子はにまっと笑い、片目をつぶる。
「大丈夫だって、日本の神様は心が広いから。何てったって八百万もいるんだぞ?」
(きっと蒼太さん本人にも同じことを言ったにちがいない)
密かに思ったが口には出さない二人だった。
※ ※ ※ ※
飛行機が離陸して、水平飛行に入った頃合いを見計らって羊子はキャビンアテンダントに声をかけた。
「Excuse me……」
すかさず明るい茶色の髪に青い瞳の女性が来てくれる。
「雑誌と……キャンディをいただけますか?」
「あ、俺も雑誌ください」
「ボクも」
「かしこまりました」
彼女はにっこりほほえむと、まもなく小さなカゴに盛ったキャンディと雑誌を三冊抱えてもどってきた。
「どうぞ」
白いほっそりとした手が3人に雑誌を一冊ずつ手渡してくれる。風見には少年マンガを。ロイにはメンズ向けのファッション雑誌、英語版。そして羊子にはなぜか少女マンガ。
「……ありがとう」
「Thanks」
「ありがとうございます」
軽やかに歩み去るCA嬢の背中を見送ってから、羊子がむすっとした顔で言った。
「なんでーっ? なんでロイがファッション雑誌であたしが少女マンガなわけ?」
「何でって言われましても………」
「英語版がないからじゃないですか?」
「アメコミがあるじゃん、アメコミがー」
ぶーたれつつ羊子はキャンディの包みを開けるとぽいっと口に放り込んだ。ふわっとメロンの香りが広がり、片方の頬がぷっくり丸く膨らむ。
苦笑して少年マンガを開きながら風見光一は密かに思った。機内で眠ることを考慮してか、今日の羊子はほとんど化粧らしい化粧をしていない。赤い服と相まっていつもに増して幼く見えてしまう。
それでキャンディください、なんて言われちゃったら……多分、のどの乾燥を防ぐためなんだろうけれど。
(でも最大の敗因は、あれだな。アメリカのスタッフに声かけちゃったことだよな……)
それから40分ほど、羊子は一言もしゃべらずページをめくっていた。やがてぱたり、と雑誌を閉じた気配がして座席の横から顔を出してきた。
「風見ーそっち読み終わった?」
「はい」
「じゃ、交換しよ?」
「いいですよ」
「……けっこう気に入ってマス?」
「今週のマガジン、まだ読んでなかったし?」
「って言うかコウイチ、少女マンガ読むんだ」
「うん、けっこう面白いよ? MOMO」
ごく普通に互いのマンガ雑誌を交換して読み出す二人を見ながら、ロイは心中密かにうなった。
(……日本のマンガ文化は奥が深いデス)
やがて2ローテーション目の読書が終わった頃。
「どうぞ、映画のプログラムです」
「あ、どうも」
「お客様にはこちらを」
「ありがとうございます」
青い目のCA嬢がにこやかに差し出してくれたリーフレットをぺらりとめくるなり羊子の顔が固まった。
「なんで、あたしだけ……アニメ?」
「え」
「そっち見せなさい、そっちの!」
「どうぞ」
「………洋画………」
「あー、その……一冊どうぞ。俺はロイと一緒に見ますから」
「もらう」
だが羊子が選んだのは結局、アニメーション映画の「カーズ」だった。しかも、にまにましたり、時々足をじたばたさせながら見ている。
「……けっこう気に入ってマス?」
「いや、あれは多分、吹き替え版だ」
「なるほど、声に萌えまくってるんだネ」
「麦人さんに土田大さんだもんな……」
次へ→【ex8-3】空港にて
風見光一は成田空港の第二ターミナルの雑踏の中に居た。
どこかでかすかに犬が吠えている。目の前を女の人がキャリーバッグに入れた猫を抱えて歩いて行く。ここから飛び立つのも、ここに降り立つのも、人間だけではない。
正に空の玄関口だ。
ぼーっとしたまま巨大なカートを引いて慌ただしく目の前を通り過ぎる人の流れを眺めていると、金髪の幼なじみが心配そうに声をかけてきた。
「Hey,コウイチ。どうしたんだい、ぼーっとして?」
「うん……なんだかまだ半分、夢を見ているような心地がして……」
「そうだね。ボクもまさかアメリカでクリスマスをすごすことになるなんて、思ってなかったよ」
「ロイは半分里帰りみたいなもんだもんな」
「でも、実家はワシントンだから。今回はさすがに行けないかな」
「そっか………大陸の反対側だもんな」
二人とも終業式を終えてから一旦家に立ち寄り、私服に着替えて荷物を持ってその足でここまでやってきた。おかげでまだ頭が学校生活から抜けきっていない。
すぐそこのカウンターでは、赤いケープ付きのコートを羽織った担任教師がプリントアウトしたeチケットの控えを手に航空会社の職員と言葉を交わしている。
「ふぇ?」
いきなり素っ頓狂な声をあげた。
「あのお客様?」
「あ、いえ、何でもないです。ありがとうございました」
はたはたと手をふり、妙にカクカクした動きで戻ってきた。
「どうかしました、ヨーコ先生?」
「あ、いや、席が……ね」
「まさか、ダブルブッキング?」
「いや、そうじゃなくて」
今回のサンフランシスコ行きに際しては、現地のチームメイトが宿も飛行機のチケットも全て準備万端、整えてくれたはずだった。
「カルのとってくれた席………普通の席だよって言うからてっきりエコノミーか、いいとこビジネスエコノミーかと思ってたら……」
「まさか、ビジネスクラス?」
「いや。ファーストクラスだった」
「え」
「ええーっ?」
「やっぱ声でちゃうよな、うん」
ただでさえホリデー価格で運賃の跳ね上がるこのシーズン、下手すりゃ車の買えるお値段である。現実を理解しつつも心のどこかで『何かのまちがいだろう?』なんて半信半疑で乗り込んでみたが、やっぱりきっちりファーストクラスなのだった。
「これが、ランドールさんの普通なんだ……」
しかも3人座るべきところを座席を押さえてあったのは4つ。すなわち窓際に二人並んで座り、もう一人が前に座ってさらにその隣が空くと言う無駄、いや余裕たっぷりの采配だった。
当然のことながら羊子が前に一人で、その後ろにロイと風見が並んで座ることになった。
さすがファーストクラスはスペースひろびろ、冬服の男子高校生二人が並んで座っても楽に足を伸ばせる余裕があった。
「うわ、座席ひろーい」
「ほんとだ。これなら向こうに着くまで楽にすごせますね……いいのかな、高校生がファーストクラスなんか乗っちゃって」
「いいんじゃないかな。ゆったりしてるから、向こうについてすぐ、動ける」
「なるほど」
素直にはしゃぐ風見と羊子の言葉にうなずきながらも、ロイはほんのちょっぴり残念だった。
(ああ、これがもしもエコノミーならもっとコウイチとぴとっと寄り添えるのに!)
「それにしてもさあ、君ら」
コートを脱いだ教え子二人を代わる代わる見ながら羊子はどこか不満げに顔をしかめた。
「華がないって言うか、地味って言うか……黒いぞ」
「そうかなあ」
「色があんまし制服と代わり映えしないし?」
確かにその通り。風見光一はカジュアル系量販店の黒のフリースに黒のジーンズ、足下はいつも学校に履いていっているスニーカー。ロイはほどよく履き慣らしたジーンズにかろうじてブルー系のシャツを重ね着してはいるものの、上に着ていたファー付きのロングコートは黒だった。
「せっかくの休みなんだから、もっと派手な服着てくればいいのに」
「黒はニンジャの基本色ですから」
「基本って……まさかロイ、その青いシャツも裏返すと黒、とか言わないよね?」
「よくおわかりで」
「……冗談抜きでリバなんだ」
「基本ですから」
「あー、あったよね、鬼平犯科帳で、そう言うの。ばっと普通の着物を裏返すと黒装束に変わるってやつ」
風見はにまっと笑うと軽くロイをひじでつついた。
「よっ、兄さん、粋だね」
「あ、ありがとう……」
はにかみつつほほ笑み返す幼なじみから羊子に視線を移し、着ているものをまじまじと観察してみる。
「羊子先生は、何て言うか、赤いですね」
「うん、クリスマスカラーを意識してみた」
着ていたケープつきコートは赤に緑のタータンチェックに黒いフェイクファーの縁取り。足下は学校ではほとんどお目にかからないカフェオレ色のブーツ。(下駄箱に入らないしどうせ校内では上履きだから)
コートの下は白のタートルネックのふかふかのカットソーにコートと同じ柄の巻きスカート、アクセントで黒のベルトを巻いている。しっかり黒のレギンスを履いているのは寒さ対策だろう。
「これはこれで妙になじみがあるって言うか、見慣れた感じだなあ……学校に赤い服はあんまし着てこないのに」
「オウ!」
ぽん、とロイが拳で手のひらを叩いた。
「そこはかとなく配色が巫女装束デス」
「なるほど!」
「こらこら。どこの世界にブーツ履いた巫女さんがいるかね」
結城羊子の実家は神社。そして風見とロイの二人は時々、そこでバイトをしているのである。
「そーいや結城神社のお仕事大丈夫なんですか? 年末のこの忙しい時期に、俺ら二人ともこっちに来ちゃって……」
「ああ、そのことなら心配ないよ。蒼太に助っ人頼んできたから」
「なるほどー。って、蒼太さんって……」
時折顔を会わせる生真面目な先輩の本職を思い出し、風見とロイは目を剥いた。
「お坊さんに神社の手伝い頼んじゃったんデスカ」
あっけにとられる二人に向かって羊子はにまっと笑い、片目をつぶる。
「大丈夫だって、日本の神様は心が広いから。何てったって八百万もいるんだぞ?」
(きっと蒼太さん本人にも同じことを言ったにちがいない)
密かに思ったが口には出さない二人だった。
※ ※ ※ ※
飛行機が離陸して、水平飛行に入った頃合いを見計らって羊子はキャビンアテンダントに声をかけた。
「Excuse me……」
すかさず明るい茶色の髪に青い瞳の女性が来てくれる。
「雑誌と……キャンディをいただけますか?」
「あ、俺も雑誌ください」
「ボクも」
「かしこまりました」
彼女はにっこりほほえむと、まもなく小さなカゴに盛ったキャンディと雑誌を三冊抱えてもどってきた。
「どうぞ」
白いほっそりとした手が3人に雑誌を一冊ずつ手渡してくれる。風見には少年マンガを。ロイにはメンズ向けのファッション雑誌、英語版。そして羊子にはなぜか少女マンガ。
「……ありがとう」
「Thanks」
「ありがとうございます」
軽やかに歩み去るCA嬢の背中を見送ってから、羊子がむすっとした顔で言った。
「なんでーっ? なんでロイがファッション雑誌であたしが少女マンガなわけ?」
「何でって言われましても………」
「英語版がないからじゃないですか?」
「アメコミがあるじゃん、アメコミがー」
ぶーたれつつ羊子はキャンディの包みを開けるとぽいっと口に放り込んだ。ふわっとメロンの香りが広がり、片方の頬がぷっくり丸く膨らむ。
苦笑して少年マンガを開きながら風見光一は密かに思った。機内で眠ることを考慮してか、今日の羊子はほとんど化粧らしい化粧をしていない。赤い服と相まっていつもに増して幼く見えてしまう。
それでキャンディください、なんて言われちゃったら……多分、のどの乾燥を防ぐためなんだろうけれど。
(でも最大の敗因は、あれだな。アメリカのスタッフに声かけちゃったことだよな……)
それから40分ほど、羊子は一言もしゃべらずページをめくっていた。やがてぱたり、と雑誌を閉じた気配がして座席の横から顔を出してきた。
「風見ーそっち読み終わった?」
「はい」
「じゃ、交換しよ?」
「いいですよ」
「……けっこう気に入ってマス?」
「今週のマガジン、まだ読んでなかったし?」
「って言うかコウイチ、少女マンガ読むんだ」
「うん、けっこう面白いよ? MOMO」
ごく普通に互いのマンガ雑誌を交換して読み出す二人を見ながら、ロイは心中密かにうなった。
(……日本のマンガ文化は奥が深いデス)
やがて2ローテーション目の読書が終わった頃。
「どうぞ、映画のプログラムです」
「あ、どうも」
「お客様にはこちらを」
「ありがとうございます」
青い目のCA嬢がにこやかに差し出してくれたリーフレットをぺらりとめくるなり羊子の顔が固まった。
「なんで、あたしだけ……アニメ?」
「え」
「そっち見せなさい、そっちの!」
「どうぞ」
「………洋画………」
「あー、その……一冊どうぞ。俺はロイと一緒に見ますから」
「もらう」
だが羊子が選んだのは結局、アニメーション映画の「カーズ」だった。しかも、にまにましたり、時々足をじたばたさせながら見ている。
「……けっこう気に入ってマス?」
「いや、あれは多分、吹き替え版だ」
「なるほど、声に萌えまくってるんだネ」
「麦人さんに土田大さんだもんな……」
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▼ 【ex8-3】空港にて
2009/01/18 21:36 【番外】
およそ11時間後、サンフランシスコ国際空港にて。
時刻は午前9時30分。慌ただしい朝の空気の中、サリーは到着ロビーで日本からの飛行機を待っていた。白いセーターに茶色のチェックのコットンスラックス、その上からダッフルコートを羽織ったその姿は例によって高校生とまちがえられそうな愛らしさ。
着ている服からしてジュニアサイズなのだからなおさらに磨きがかかっている。
一人で来ていたら警官に声をかけられていたかも知れない。けれど今日はありがたいことに約一名、付き添いがいた。
「まだか?」
テリーはさっきから到着便の電光掲示板と腕時計を交互ににらんでいる。
「まだだよ。出発がちょっと遅れたみたいだしね」
「そーか……」
「テリーまで来ることないのに」
「いや、お前車持ってないだろ?」
「うん、それはすごく助かった。今回は荷物も人も3人分だしね」
「だろ? 俺も、ヨーコさんに挨拶したかったし」
「夏とはちょっとちがう顔見られるかも知れないよ? 今日は学校の生徒が一緒だし」
「そーなんだよなー、それがちょっと実感なくて……ジュニアハイで教えてるんだっけ?」
「ううん、ハイスクール」
「マジかよ。生徒にまぎれたりしないのか?」
「たまに教壇に立っててもだれも気づいてくれない時があるって」
「やっぱりな……」
「あ、来た」
やっと来たか! でも見てる方向が逆じゃないか。何で到着ゲートじゃなくてロビーの方を見てるんだ?
サリーの視線を追いかけてテリーは思わず口元をひくっと引きつらせた。
ロングフレアの黒いコートを着た背の高い男が足早に歩いて来る。印象的な眉にウェーブのかかった黒髪。コートはもちろん、下に着ているスーツも靴も手入れの行き届いた高級品、しかも新品ではなく適度に体になじんでいる。
仕草にも表情にも気負った所はみじんもない。一目見てこのクラスの衣服を身につける事に慣れているのだと知れる。
「ランドールさん!」
黒髪の男はこちらに気づくと屈託のない笑顔で手を振った。
「やあ、サリー。遅れてすまなかったね」
「大丈夫ですよ、まだ時間があります」
「そうか、安心したよ……おや、君は……」
「どーも」
(出やがったな、遊び人社長!)
一応、こいつが来ると聞いてはいた。だからこそ車を出すのにかこつけて空港までひっついてきたのだ。だがいざ現物と顔を合わせると……やっぱり面白くない。いらつく、むかつく、落ち着かない。
(サリーに手ぇ出しやがったら、タダじゃおかねえ)
断固たる決意をこめてにらみつけるが爽やかな笑顔で返された。
「確かテリーくんだったね」
「はい」
「車、出してくれるそうです」
「そうか、ありがとう。さすがに私の車一台ではいささか窮屈だからね」
「窮屈って……運転手付きリムジンじゃないんすか?」
「いや、トヨタのセダンだよ。プライベートだし……遠方から来る友人を出迎えるんだ、やっぱり自分でハンドルを握りたいじゃないか」
チクリと放ったはずの皮肉もするりとかわされる。多分向こうはかわしたと言う自覚すらしていなさそうだ。
(くそう、なんなんだこの余裕は! それともこいつ、ただの天然か?)
「あ、来た」
今度こそ到着ゲートの方を見ている。
ほどなくカラコロとキャスター付きのスーツケースを引っ張って、赤いコートを着た小柄な女性が姿を現した。迷わず、まっすぐにこっちに向かって歩いて来る。
「サクヤちゃーん」
ストレートの黒髪をなびかせ、とたたたっと駆け寄ってくる。ぴょんとサリーに飛びつき、抱きつくなり頬にキスをした。
「よーこさん」
「久しぶりー」
「……やっぱアメリカ式なんだ?」
「だってここ、アメリカだよ?」
「風見くんたちが固まってるよ?」
「ありゃ?」
「ども、お久しぶりです、サクヤさん」
「Hello」
「おひさしぶり。元気そうだね」
やや離れた場所から見守る風見とロイににこにこと挨拶してから、サクヤはちょこんと首をかしげた。
「……で、テリーにはしないの? ハグ」
ヨーコは一旦サクヤを解放し、今度はぴょん、とテリーに抱きついた。
「テリー、久しぶり! 会えてうれしいわ」
「ようこそ、サンフランシスコへ」
テリーは身を屈めるとを頬をすりよせた。まるで妹にするように、軽く。
「ああ、風見くんたちは会うの初めてだったよね。こっちは大学の友達でテリーって言うんだ」
「やあ」
「こっちの二人はよーこさんの高校の教え子。風見光一くんと」
「ロイ・アーバンシュタインです」
「風見光一です。よろしくお願いします」
ややぎこちなく挨拶を交わすテリーたちの隣では、ヨーコとランドールが旧交を暖め合っていた。
「Hi,カル」
「やあ、ヨーコ」
「なんだかあまり久しぶりって感じがしないね……元気だった?」
「ああ。君も元気そうだね」
「うん。座席ひろかったし、のびのび座れた!」
「そうか。良かったよ」
「でも……あの、その……お値段張ったでしょ、あれ」
「そうでもないよ。知り合いのツテで手配してもらったからね。それに先方が気を利かせてツアー扱いにしてくれたし」
「さすが、やりくり上手い」
「私じゃないよ。秘書が有能なんだ」
サリーは密かに安堵していた。
(よかった……ランドールさん相手にアメリカ式の挨拶やらなくて)
どう見たって大人と子ども。人前でおおっぴらに抱擁なんか交わして、ほっぺにちゅーとかやらかしたら悪目立ちすること請け合いだ。さすがに親子には見えないだろうし。
一方、ロイも別の理由で安堵していた。
(よかった……サクヤさんには彼氏がいたんだ!)
もちろん、この彼氏とは言うまでもなくテリーのことである。
(ほんとうに……よかった。これで心配の種はMr.ランドールただ一人!)
「それじゃ、パーキングに行こうか」
「あ、ちょっと待ってその前に」
「おなかへった?」
「ううん、のどかわいた」
ちらちらとヨーコが売店の方に目を走らせている。
「いいよ、荷物見ててあげるから」
「サンキュー。他に飲み物ほしい人、いる?」
「いや、私は……」
「俺も一緒に行きます」
「ボクも」
「いってらっしゃい」
しばらくして、ヨーコはコーヒーを片手に戻ってきた。微妙に不満げな顔をして。その後ろから風見とロイが同じく紙コップを手に困ったような顔でとことと歩いてくる。
「どうしたの?」
「ワイン売ってもらえなかった……」
「あー……それはしかたないよ」
「飛行機の中でもワインもらえなかったし……」
「そのかわりトランプもらえたじゃないすか」
「アニメの絵のついたピンク色のかっわいーのだったけどな……」
「あー……」
「飛行機のミニチュア模型と、二択で」
明らかにお子様用のサービス品。ちなみにもらったのはヨーコ一人だけ。
「こんなことなら、いっそロイに買ってもらえばよかった!」
「生徒にお酒を買わせないでくだサイ!」
「って言うか違法です、先生」
教え子たちの突っ込みも素知らぬ振りして立て板に水と受け流し、ヨーコはちょこまかランドールに歩み寄るとくいくいとコートの袖をひっぱった。
「カル、ワイン買ってきてもらっていい?」
「ああ、いいよ。赤? 白?」
「んー……ちょっと冷えてきたから……グリューワインがいい!」
赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料やレーズン、ナッツ、そして砂糖を加えてあたためたこの飲み物はクリスマスに欠かせない。
本来はヨーロッパで好まれるが期間限定で空港のカフェのメニューにのっていたらしい。
グリューワインと聞いてサリーも目を輝かせた。
「あ、いいなそれ。俺も飲もっかな」
「OK、グリューワインを二人分だね?」
「お願いします」
サリーとランドールの間にずいっとテリーが割り込んだ。
「お前はやめとけ!」
「えー。あっためるからアルコール飛んでるのに……」
「いいからやめとけ」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、風見とロイをお願いね、カル」
「ああ。ホテルの位置はわかるね? 念のためナビに座標入れておくかい?」
「や、俺の車カーナビ着いてないんで」
二台の車に分乗し、ホテルめざして走り出す。
出発直前にだれがどの車に乗るかでほんの少し物議がかもされたものの、結局テリーの車にサリーとヨーコが。ランドールの車に風見とロイが乗って行くことで合意に達した。
「ひゃあ、やっぱりアメリカ仕様の車って大きいねー」
「ちらかっててごめんな。兄貴からの借り物なんだけど」
ちょこんと後部座席に乗り込み、シートベルトをつける。ちなみにランドールの買ってきたグリューワインに口をつけるのは、車に乗り込むまで我慢したらしい。
「それで、ヨーコさんホテルはどこ?」
「んっとね、O'FARRELL STREETの333、HILTON SAN FRANCISCO……」
宿泊先を書いたEメールをプリントアウトした紙を読み上げながら、さっとヨーコの顔がこわばった。
「これって。ビジネスホテル・ヒルトン戸有のサンフランシスコ支店とかじゃないよね?」
「それは、ないと思うな……」
「じゃあ、やっぱり………『あの』ヒルトンホテルなんだ……」
一方、その頃、もう一台の車の中では。
「うわっ、広いなー。日本とは全然、建物の間合いが……って言うか土地そのものの縮尺が違うよ!」
風見光一が初めて見るサンフランシスコの風景に目を輝かせていた。
「日の光も違う。まぶしくって、見えるもの全てが色鮮やかに輝いてるって感じだ」
「楽しんでるようだね、コウイチ」
ちらりと後部座席をうかがい、ランドールが声をかける。風見は背筋をのばし、英語で答えた。
「はい、すごく……あの、ランドールさん」
「何だい?」
「もしかして何か心配事でもあるんですか? さっき、車のドア閉めたときに……えぇっと……」
風見は目を閉じてとんとんとこめかみを人差し指でリズミカルに叩いた。
「ちょっと寂しそうな顔してたんで、気になって」
「本当に? そんな風に見えたかな」
「…………はい」
「参ったな」
ちょっと苦笑すると、ランドールはできるだけ簡潔な表現を選びながらゆっくりと答えた。英語に不馴れな風見が聞き取れるように、理解できるように。
それ故に逃げやごまかしは封じられ、自分の気持ちストレートに言わなければならない。
しかしながら何故だかこの少年に対しては気負ったり格好をつける必要性を感じなかった。彼と話していると、自分の中に残っている子どもの部分にまっすぐに触れ、向き合ってくれるような……そんな気がするのだ。
「さっき空港で、君たちを出迎えたときにね」
「はい」
「彼女は……………私だけハグしてくれなかった」
「あ」
「ああ」
「サリーは従弟だし、テリーくんは彼の友人だ。私に比べて付き合いも長い。それは理解できるんだ……」
「もしかして、待ってました?」
「……うん」
風見とロイは顔を見合わせた。
「忘れてないと思いますよ?」
「礼儀を守ってるつもりなんじゃないかな。俺たちやサクヤさん、テリーさんは年下だけど……」
「私は年上だから……かい?」
二人の少年は声をそろえて答えた。
「Yeah!」
「なるほど、そう言うことか」
自分にいい聞かせるようにつぶやきながらうなずくランドールの横顔を見ながら風見は思った。
もしかしてランドールさん、拗ねてる?
次へ→【ex8-4】チェックイン
時刻は午前9時30分。慌ただしい朝の空気の中、サリーは到着ロビーで日本からの飛行機を待っていた。白いセーターに茶色のチェックのコットンスラックス、その上からダッフルコートを羽織ったその姿は例によって高校生とまちがえられそうな愛らしさ。
着ている服からしてジュニアサイズなのだからなおさらに磨きがかかっている。
一人で来ていたら警官に声をかけられていたかも知れない。けれど今日はありがたいことに約一名、付き添いがいた。
「まだか?」
テリーはさっきから到着便の電光掲示板と腕時計を交互ににらんでいる。
「まだだよ。出発がちょっと遅れたみたいだしね」
「そーか……」
「テリーまで来ることないのに」
「いや、お前車持ってないだろ?」
「うん、それはすごく助かった。今回は荷物も人も3人分だしね」
「だろ? 俺も、ヨーコさんに挨拶したかったし」
「夏とはちょっとちがう顔見られるかも知れないよ? 今日は学校の生徒が一緒だし」
「そーなんだよなー、それがちょっと実感なくて……ジュニアハイで教えてるんだっけ?」
「ううん、ハイスクール」
「マジかよ。生徒にまぎれたりしないのか?」
「たまに教壇に立っててもだれも気づいてくれない時があるって」
「やっぱりな……」
「あ、来た」
やっと来たか! でも見てる方向が逆じゃないか。何で到着ゲートじゃなくてロビーの方を見てるんだ?
サリーの視線を追いかけてテリーは思わず口元をひくっと引きつらせた。
ロングフレアの黒いコートを着た背の高い男が足早に歩いて来る。印象的な眉にウェーブのかかった黒髪。コートはもちろん、下に着ているスーツも靴も手入れの行き届いた高級品、しかも新品ではなく適度に体になじんでいる。
仕草にも表情にも気負った所はみじんもない。一目見てこのクラスの衣服を身につける事に慣れているのだと知れる。
「ランドールさん!」
黒髪の男はこちらに気づくと屈託のない笑顔で手を振った。
「やあ、サリー。遅れてすまなかったね」
「大丈夫ですよ、まだ時間があります」
「そうか、安心したよ……おや、君は……」
「どーも」
(出やがったな、遊び人社長!)
一応、こいつが来ると聞いてはいた。だからこそ車を出すのにかこつけて空港までひっついてきたのだ。だがいざ現物と顔を合わせると……やっぱり面白くない。いらつく、むかつく、落ち着かない。
(サリーに手ぇ出しやがったら、タダじゃおかねえ)
断固たる決意をこめてにらみつけるが爽やかな笑顔で返された。
「確かテリーくんだったね」
「はい」
「車、出してくれるそうです」
「そうか、ありがとう。さすがに私の車一台ではいささか窮屈だからね」
「窮屈って……運転手付きリムジンじゃないんすか?」
「いや、トヨタのセダンだよ。プライベートだし……遠方から来る友人を出迎えるんだ、やっぱり自分でハンドルを握りたいじゃないか」
チクリと放ったはずの皮肉もするりとかわされる。多分向こうはかわしたと言う自覚すらしていなさそうだ。
(くそう、なんなんだこの余裕は! それともこいつ、ただの天然か?)
「あ、来た」
今度こそ到着ゲートの方を見ている。
ほどなくカラコロとキャスター付きのスーツケースを引っ張って、赤いコートを着た小柄な女性が姿を現した。迷わず、まっすぐにこっちに向かって歩いて来る。
「サクヤちゃーん」
ストレートの黒髪をなびかせ、とたたたっと駆け寄ってくる。ぴょんとサリーに飛びつき、抱きつくなり頬にキスをした。
「よーこさん」
「久しぶりー」
「……やっぱアメリカ式なんだ?」
「だってここ、アメリカだよ?」
「風見くんたちが固まってるよ?」
「ありゃ?」
「ども、お久しぶりです、サクヤさん」
「Hello」
「おひさしぶり。元気そうだね」
やや離れた場所から見守る風見とロイににこにこと挨拶してから、サクヤはちょこんと首をかしげた。
「……で、テリーにはしないの? ハグ」
ヨーコは一旦サクヤを解放し、今度はぴょん、とテリーに抱きついた。
「テリー、久しぶり! 会えてうれしいわ」
「ようこそ、サンフランシスコへ」
テリーは身を屈めるとを頬をすりよせた。まるで妹にするように、軽く。
「ああ、風見くんたちは会うの初めてだったよね。こっちは大学の友達でテリーって言うんだ」
「やあ」
「こっちの二人はよーこさんの高校の教え子。風見光一くんと」
「ロイ・アーバンシュタインです」
「風見光一です。よろしくお願いします」
ややぎこちなく挨拶を交わすテリーたちの隣では、ヨーコとランドールが旧交を暖め合っていた。
「Hi,カル」
「やあ、ヨーコ」
「なんだかあまり久しぶりって感じがしないね……元気だった?」
「ああ。君も元気そうだね」
「うん。座席ひろかったし、のびのび座れた!」
「そうか。良かったよ」
「でも……あの、その……お値段張ったでしょ、あれ」
「そうでもないよ。知り合いのツテで手配してもらったからね。それに先方が気を利かせてツアー扱いにしてくれたし」
「さすが、やりくり上手い」
「私じゃないよ。秘書が有能なんだ」
サリーは密かに安堵していた。
(よかった……ランドールさん相手にアメリカ式の挨拶やらなくて)
どう見たって大人と子ども。人前でおおっぴらに抱擁なんか交わして、ほっぺにちゅーとかやらかしたら悪目立ちすること請け合いだ。さすがに親子には見えないだろうし。
一方、ロイも別の理由で安堵していた。
(よかった……サクヤさんには彼氏がいたんだ!)
もちろん、この彼氏とは言うまでもなくテリーのことである。
(ほんとうに……よかった。これで心配の種はMr.ランドールただ一人!)
「それじゃ、パーキングに行こうか」
「あ、ちょっと待ってその前に」
「おなかへった?」
「ううん、のどかわいた」
ちらちらとヨーコが売店の方に目を走らせている。
「いいよ、荷物見ててあげるから」
「サンキュー。他に飲み物ほしい人、いる?」
「いや、私は……」
「俺も一緒に行きます」
「ボクも」
「いってらっしゃい」
しばらくして、ヨーコはコーヒーを片手に戻ってきた。微妙に不満げな顔をして。その後ろから風見とロイが同じく紙コップを手に困ったような顔でとことと歩いてくる。
「どうしたの?」
「ワイン売ってもらえなかった……」
「あー……それはしかたないよ」
「飛行機の中でもワインもらえなかったし……」
「そのかわりトランプもらえたじゃないすか」
「アニメの絵のついたピンク色のかっわいーのだったけどな……」
「あー……」
「飛行機のミニチュア模型と、二択で」
明らかにお子様用のサービス品。ちなみにもらったのはヨーコ一人だけ。
「こんなことなら、いっそロイに買ってもらえばよかった!」
「生徒にお酒を買わせないでくだサイ!」
「って言うか違法です、先生」
教え子たちの突っ込みも素知らぬ振りして立て板に水と受け流し、ヨーコはちょこまかランドールに歩み寄るとくいくいとコートの袖をひっぱった。
「カル、ワイン買ってきてもらっていい?」
「ああ、いいよ。赤? 白?」
「んー……ちょっと冷えてきたから……グリューワインがいい!」
赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料やレーズン、ナッツ、そして砂糖を加えてあたためたこの飲み物はクリスマスに欠かせない。
本来はヨーロッパで好まれるが期間限定で空港のカフェのメニューにのっていたらしい。
グリューワインと聞いてサリーも目を輝かせた。
「あ、いいなそれ。俺も飲もっかな」
「OK、グリューワインを二人分だね?」
「お願いします」
サリーとランドールの間にずいっとテリーが割り込んだ。
「お前はやめとけ!」
「えー。あっためるからアルコール飛んでるのに……」
「いいからやめとけ」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、風見とロイをお願いね、カル」
「ああ。ホテルの位置はわかるね? 念のためナビに座標入れておくかい?」
「や、俺の車カーナビ着いてないんで」
二台の車に分乗し、ホテルめざして走り出す。
出発直前にだれがどの車に乗るかでほんの少し物議がかもされたものの、結局テリーの車にサリーとヨーコが。ランドールの車に風見とロイが乗って行くことで合意に達した。
「ひゃあ、やっぱりアメリカ仕様の車って大きいねー」
「ちらかっててごめんな。兄貴からの借り物なんだけど」
ちょこんと後部座席に乗り込み、シートベルトをつける。ちなみにランドールの買ってきたグリューワインに口をつけるのは、車に乗り込むまで我慢したらしい。
「それで、ヨーコさんホテルはどこ?」
「んっとね、O'FARRELL STREETの333、HILTON SAN FRANCISCO……」
宿泊先を書いたEメールをプリントアウトした紙を読み上げながら、さっとヨーコの顔がこわばった。
「これって。ビジネスホテル・ヒルトン戸有のサンフランシスコ支店とかじゃないよね?」
「それは、ないと思うな……」
「じゃあ、やっぱり………『あの』ヒルトンホテルなんだ……」
一方、その頃、もう一台の車の中では。
「うわっ、広いなー。日本とは全然、建物の間合いが……って言うか土地そのものの縮尺が違うよ!」
風見光一が初めて見るサンフランシスコの風景に目を輝かせていた。
「日の光も違う。まぶしくって、見えるもの全てが色鮮やかに輝いてるって感じだ」
「楽しんでるようだね、コウイチ」
ちらりと後部座席をうかがい、ランドールが声をかける。風見は背筋をのばし、英語で答えた。
「はい、すごく……あの、ランドールさん」
「何だい?」
「もしかして何か心配事でもあるんですか? さっき、車のドア閉めたときに……えぇっと……」
風見は目を閉じてとんとんとこめかみを人差し指でリズミカルに叩いた。
「ちょっと寂しそうな顔してたんで、気になって」
「本当に? そんな風に見えたかな」
「…………はい」
「参ったな」
ちょっと苦笑すると、ランドールはできるだけ簡潔な表現を選びながらゆっくりと答えた。英語に不馴れな風見が聞き取れるように、理解できるように。
それ故に逃げやごまかしは封じられ、自分の気持ちストレートに言わなければならない。
しかしながら何故だかこの少年に対しては気負ったり格好をつける必要性を感じなかった。彼と話していると、自分の中に残っている子どもの部分にまっすぐに触れ、向き合ってくれるような……そんな気がするのだ。
「さっき空港で、君たちを出迎えたときにね」
「はい」
「彼女は……………私だけハグしてくれなかった」
「あ」
「ああ」
「サリーは従弟だし、テリーくんは彼の友人だ。私に比べて付き合いも長い。それは理解できるんだ……」
「もしかして、待ってました?」
「……うん」
風見とロイは顔を見合わせた。
「忘れてないと思いますよ?」
「礼儀を守ってるつもりなんじゃないかな。俺たちやサクヤさん、テリーさんは年下だけど……」
「私は年上だから……かい?」
二人の少年は声をそろえて答えた。
「Yeah!」
「なるほど、そう言うことか」
自分にいい聞かせるようにつぶやきながらうなずくランドールの横顔を見ながら風見は思った。
もしかしてランドールさん、拗ねてる?
次へ→【ex8-4】チェックイン
▼ 【ex8-4】チェックイン
2009/01/18 21:37 【番外】
ユニオン・スクエアの真ん中に、どんとそびえる赤みがかった砂色の建物。
1964年に建てられた鉛筆のようなタワーは地上46階建ての新館に高さこそ及ばないものの、このホテルのシンボルとして。またサンフランシスコのランドマークの一つとして、カリフォルニアの青空に向かってすっくとそびえ立っている。
うやうやしくベルボーイに出迎えられ、一歩ロビーに足を踏み入れるなりヨーコは目を輝かせた。
「すごい、これ、地図だ……」
なだらかなアーチを描く白い天井からはきらめくシャンデリアが等間隔で巨大な蜂の巣のようにつり下がり、敷き詰められた絨毯には古風な世界地図が描かれていた。
そして中央には子どもの背丈ほどもある地球儀が据えられている。
「うわあ、おっきな地球儀。さわってもいいのかな。ぐるぐるしてもいいのかな」
「よーこさん、よーこさん」
「自粛してくだサイ」
「人目もありますから」
「……はーい」
三方から一斉にたしなめられ、とりあえずこの場は一時退却することにする。
「ロビーだけでもずいぶん広いなあ。天井も高いし、バスケの試合ができそうですよね。2コート分」
「うちの学校の体育館とどっちが広いかな」
「中庭にはプールもありますヨ」
「えっ、ほんとっ?」
背後で交わされるにぎやかな会話をほほ笑ましく思いつつ、ランドールはチェックインの手続きを済ませた。
「ヨーコ。チェックインが済んだよ。後は係の者が案内してくれる。荷物もね」
声をかけると彼女は地球儀にのばしかけた手を慌ててひっこめて、ささっとこっちを振り向いた。
「え、もう?」
「ああ。私もできれば部屋まで案内したい所だけど、一応まだ勤務中だから……ね」
「そっか……あ、カル」
「何だい?」
「あのね」
ちょい、ちょい、と手招きされて素直に近づく。さっきまでは普通に話していたのに、何だって急にこんな小さな声で話すのだろう?
聞き取ろうと軽く身をかがめた瞬間。赤いコートがひるがえり、華奢な腕が巻き付いて来る。
あ、と思ったときには柔らかなぬくもりが頬に触れ、透き通った声で告げられる。
「ありがとう、何もかも……それと……」
最後の一言はため息よりもかすかに、確実に彼にだけ聞かせるためにささやかれた。
「えらかったね」
「…………うん」
すぐにわかった。彼女の言葉が、単に宿と飛行機のチケットの手配に対するねぎらいだけではないと……。
『ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドールJr。いい男が台無しよ?』
やんわりと抱擁を返す。
サリーにしていたのと比べればおとなしいキス。だがテリーの時はハグとほおずりだけだった。
幸せそうににこにこしながらハグを交わす二人を見守る人たちが約3名+1。
「あー、やってるし……」
「いいんじゃないかな。空港に比べれば人目は少ないし、親子は無理でも兄妹ぐらいには、どうにか」
風見が言ったちょうどその時、ヨーコが手をのばしてそろりとランドールの髪の毛を撫でた。
「って言うか、おねえちゃんと弟?」
「犬と飼い主だろ」
「テリー……」
「言い得て妙な表現デス」
「ロイ……」
どっちが犬かは敢えてだれも追求しない。
「んじゃ、役目は果たしたことだし、俺そろそろ学校戻るよ」
「うん。ありがとう」
「ありがとうございました!」
地球儀の横を通り過ぎながらヨーコに手を振ると、にこっと笑って手を振り返してくれた。その隣にはランドールがきちんと背筋を伸ばして寄り添っている。
確かにこいつは遊び人で、しかもゲイで金持ちだ。だけど飼い主がついてるのなら……
(ひとまずサリーの身は安全だ)
テリーの後ろ姿を見送りながらランドールが言った。
「いい奴だな、彼は」
「うん、いい子だよ。面倒見いいし、飴ちゃんくれたし」
「ヨーコ。君のいい人の基準は、キャンディをくれるかどうかなのかい?」
「できればケーキの方が」
「ヨーコ!」
「冗談、冗談だって」
「まったく……知らない人がお菓子をあげると言ってもついてっちゃいけないよ?」
「はーい」
首をすくめてちょろっと舌を出してる。
ああ、やっぱり心配だ。いっそ仕事を休んで付き添っていようか……いや、さすがにそれは過保護と言うものだろう。
サリーも一緒だし、何より今回は腕の立つ若きナイトが二人も付き添っている。
「そろそろ私も戻らないと。秘書に首に縄をかけられて連れ戻されないうちにね」
「わお、ワイルド」
「仕事が終わったらまた来るよ。詳しいことはそのときに打ち合わせよう」
「OK。部屋に来る?」
「いや、ホテルのレストランに席を取った。ディナーをとりながら話そう」
「レストランって……インテルメッツォ(コーヒースタンド)じゃないよね?」
「まさか。最上階のシティスケープレストランだよ」
「最上階? それって……ドレスコードがあるんじゃあ」
「心配ないよ。馴染みの店だからね。あそこから眺めるサンファンシスコの夜景は最高だよ」
「それは……ちょっと見てみたいかも」
「たっぷり堪能してくれ。それじゃ、夜にまた」
にこやかに手を振り、黒いコートをなびかせて歩いて行くランドールを見送りつつヨーコは心中密かに焦っていた。
(やっばいなー……一応、ワンピース一枚持って来たけどニットだしな……)
「よーこさん」
(アクセサリー、きちんとしたのを着ければどうにかなる……かな?)
「よーこさんってば」
(あとはシルクのスカーフ、アクセントで巻いて)
「……先生!」
はっと顔を上げる。サリーと風見、ロイが待っていた。すぐそばには客室係が控えている。
「ごめん、すぐ行く!」
次へ→【ex8-5】あくまで普通らしい2
1964年に建てられた鉛筆のようなタワーは地上46階建ての新館に高さこそ及ばないものの、このホテルのシンボルとして。またサンフランシスコのランドマークの一つとして、カリフォルニアの青空に向かってすっくとそびえ立っている。
うやうやしくベルボーイに出迎えられ、一歩ロビーに足を踏み入れるなりヨーコは目を輝かせた。
「すごい、これ、地図だ……」
なだらかなアーチを描く白い天井からはきらめくシャンデリアが等間隔で巨大な蜂の巣のようにつり下がり、敷き詰められた絨毯には古風な世界地図が描かれていた。
そして中央には子どもの背丈ほどもある地球儀が据えられている。
「うわあ、おっきな地球儀。さわってもいいのかな。ぐるぐるしてもいいのかな」
「よーこさん、よーこさん」
「自粛してくだサイ」
「人目もありますから」
「……はーい」
三方から一斉にたしなめられ、とりあえずこの場は一時退却することにする。
「ロビーだけでもずいぶん広いなあ。天井も高いし、バスケの試合ができそうですよね。2コート分」
「うちの学校の体育館とどっちが広いかな」
「中庭にはプールもありますヨ」
「えっ、ほんとっ?」
背後で交わされるにぎやかな会話をほほ笑ましく思いつつ、ランドールはチェックインの手続きを済ませた。
「ヨーコ。チェックインが済んだよ。後は係の者が案内してくれる。荷物もね」
声をかけると彼女は地球儀にのばしかけた手を慌ててひっこめて、ささっとこっちを振り向いた。
「え、もう?」
「ああ。私もできれば部屋まで案内したい所だけど、一応まだ勤務中だから……ね」
「そっか……あ、カル」
「何だい?」
「あのね」
ちょい、ちょい、と手招きされて素直に近づく。さっきまでは普通に話していたのに、何だって急にこんな小さな声で話すのだろう?
聞き取ろうと軽く身をかがめた瞬間。赤いコートがひるがえり、華奢な腕が巻き付いて来る。
あ、と思ったときには柔らかなぬくもりが頬に触れ、透き通った声で告げられる。
「ありがとう、何もかも……それと……」
最後の一言はため息よりもかすかに、確実に彼にだけ聞かせるためにささやかれた。
「えらかったね」
「…………うん」
すぐにわかった。彼女の言葉が、単に宿と飛行機のチケットの手配に対するねぎらいだけではないと……。
『ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドールJr。いい男が台無しよ?』
やんわりと抱擁を返す。
サリーにしていたのと比べればおとなしいキス。だがテリーの時はハグとほおずりだけだった。
幸せそうににこにこしながらハグを交わす二人を見守る人たちが約3名+1。
「あー、やってるし……」
「いいんじゃないかな。空港に比べれば人目は少ないし、親子は無理でも兄妹ぐらいには、どうにか」
風見が言ったちょうどその時、ヨーコが手をのばしてそろりとランドールの髪の毛を撫でた。
「って言うか、おねえちゃんと弟?」
「犬と飼い主だろ」
「テリー……」
「言い得て妙な表現デス」
「ロイ……」
どっちが犬かは敢えてだれも追求しない。
「んじゃ、役目は果たしたことだし、俺そろそろ学校戻るよ」
「うん。ありがとう」
「ありがとうございました!」
地球儀の横を通り過ぎながらヨーコに手を振ると、にこっと笑って手を振り返してくれた。その隣にはランドールがきちんと背筋を伸ばして寄り添っている。
確かにこいつは遊び人で、しかもゲイで金持ちだ。だけど飼い主がついてるのなら……
(ひとまずサリーの身は安全だ)
テリーの後ろ姿を見送りながらランドールが言った。
「いい奴だな、彼は」
「うん、いい子だよ。面倒見いいし、飴ちゃんくれたし」
「ヨーコ。君のいい人の基準は、キャンディをくれるかどうかなのかい?」
「できればケーキの方が」
「ヨーコ!」
「冗談、冗談だって」
「まったく……知らない人がお菓子をあげると言ってもついてっちゃいけないよ?」
「はーい」
首をすくめてちょろっと舌を出してる。
ああ、やっぱり心配だ。いっそ仕事を休んで付き添っていようか……いや、さすがにそれは過保護と言うものだろう。
サリーも一緒だし、何より今回は腕の立つ若きナイトが二人も付き添っている。
「そろそろ私も戻らないと。秘書に首に縄をかけられて連れ戻されないうちにね」
「わお、ワイルド」
「仕事が終わったらまた来るよ。詳しいことはそのときに打ち合わせよう」
「OK。部屋に来る?」
「いや、ホテルのレストランに席を取った。ディナーをとりながら話そう」
「レストランって……インテルメッツォ(コーヒースタンド)じゃないよね?」
「まさか。最上階のシティスケープレストランだよ」
「最上階? それって……ドレスコードがあるんじゃあ」
「心配ないよ。馴染みの店だからね。あそこから眺めるサンファンシスコの夜景は最高だよ」
「それは……ちょっと見てみたいかも」
「たっぷり堪能してくれ。それじゃ、夜にまた」
にこやかに手を振り、黒いコートをなびかせて歩いて行くランドールを見送りつつヨーコは心中密かに焦っていた。
(やっばいなー……一応、ワンピース一枚持って来たけどニットだしな……)
「よーこさん」
(アクセサリー、きちんとしたのを着ければどうにかなる……かな?)
「よーこさんってば」
(あとはシルクのスカーフ、アクセントで巻いて)
「……先生!」
はっと顔を上げる。サリーと風見、ロイが待っていた。すぐそばには客室係が控えている。
「ごめん、すぐ行く!」
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▼ 【ex8-5】あくまで普通らしい2
2009/01/18 21:39 【番外】
廊下を抜け、エレベーターに乗り、上へ上へと上がっていって……ついたところはプレジデンシャルスイート。
ホテルの外観と同じ赤みがかった砂色のカーペットに白い壁、ソファは生成りに近いベージュ色。カーテンは渋みのある赤ワイン色、椅子やミニバー、テーブルはほんのりオレンジがかった褐色のチェリー材。
優しい秋の日だまりを思わせるインテリアに統一された室内は、ひたすら広く、眺めも抜群。さらにそなえつけのテレビは27インチの薄型だった。
客室係が設備の使い方を説明する間、風見とロイ、そしてサリーとヨーコの四人はひたすらぽかーんとしてうなずくばかりだった。
やっと自分たちだけになってから口を開く。全部日本語で。
「………これがランドールさんの『普通』なんだ……」
「すご……このリビングだけであたしの1ルームマンション全部入りそう……ってか、まだ余る」
改めて部屋中を見回し、風見がため息をついた。
「何か場違いなところに来た感じがする……」
「言うな、あたしも必死で考えないようにしてるんだ」
「こっちは寝室かな?」
風見はとことこと歩いてゆくとドアを開けた。
生まれて初めて泊まる高級ホテルの客室がいったいどうなってるのか好奇心もあったし、万が一にそなえて間取りを確認しておこうと言う武人としての心構えでもある。
「すごいなー、寝室が二つもある! 一つは羊子先生が使うとして……よし、ロイ、一緒(の部屋)に寝ようか!」
「う、うん。でもこれ……」
こくんっとロイはのどを鳴らした。目元を隠すほどのびた長い前髪の陰で汗がじわっと額ににじむ。
「ダブルベッドだよ?」
「掛け布団別々にかぶれば平気だろ。これだけでかいし、それに、ちっちゃい頃はよく一緒の布団に寝てたじゃないか」
この瞬間、ロイは彼にだけ聞こえるハレルヤの大合唱に包まれていた。
(神様アリガトウ!)
その間、ヨーコはバスルームに鼻をつっこんでいた。
「わー、お風呂広っ! きれーい。泳げそう! アメニティグッズもすごい充実してるよサリーちゃん。ほら、化粧水まで」
「本当だ……って言うか、何でそんなこと俺に報告するの?」
「わ、この入浴剤ってバブルバス?」
「聞いてないし……」
バスルームから響く歓声を耳にして、ロイと風見ははっとして顔を見合わせた。ここのホテルは何もかもスケールが大きめだ。さすがにバスタブは大柄なアメリカ人男性には少し窮屈かもしれないが、身長154cmの日本人女性には……。
(でかい風呂……バブルバス……泡……滑る………)
(バスタブで溺れてしまいマスっ!)
慌てて二人はバスルームに走った。
案の定、空のバスタブに入って悠々と仰向けに寝そべるヨーコをサリーがやれやれと言った表情で見守っていた。
「羊子先生っ!」
「何? 二人とも血相変えて」
「絶対、風呂入るときはボクらに一声かけてくださいネっ」
※ ※ ※ ※
とりあえずリビングでスーツケースを開けて必要になりそうなものを取り出しているところにピンポーンと呼び鈴が鳴った。
「はーい」
覗き穴から確認してからチェーンを外し、ドアを開ける。ホテルの従業員が台車に大きめのトランク一個分ほどの箱を乗せてきちんと控えていた。
「ロイ・アーバンシュタインさまにお届けものです」
「Thanks」
「こちらにサインを」
「オーケィ……」
伝票にペンを走らせ、注意深く箱を室内に運び入れる。
「誰から?」
「おじいさまからです」
「ああ、例のもの、手配してくれたんだ」
さくさくと外箱を開け、詰め物で守られた中身を取り出して行く。色鮮やかな包装紙とリボンで飾られた箱が三つ。
「これはヨーコ先生に」
「ありがとう」
「こっちはコウイチに……で、これはボク用、と」
「助かったよ。さすがに日本刀をアメリカに持ち込む訳には行かないからね」
慎重にそれぞれのクリスマスプレゼントを開けると、中からは……。
「……ウサギ?」
「あ、キリンだ」
「ぱんだ……」
ふかふかのぬいぐるみが三つ。一瞬、あっけにとられたがよく見ると巧みに隠されたポケットがついている。ウサギの背中、キリンの首、そしてパンダの腹に。
「凝ってるなあ……」
ウサギの中からは手のひらにすっぽり収まるちいさな二発式の拳銃、ハイスタンダード・デリンジャー、そしてぎっしりと小箱につまった銀色の弾丸。
キリンの首の中には小太刀が二振り。そして大きめのパンダの中には……手裏剣、クナイ、まきびし、目つぶし、カギ縄、その他ニンジャ道具がみっしり詰まっていた。
アメリカ国内に持ち込めないものは、危険を冒して警備をかいくぐるより可能な限り現地で調達するのが吉。前もって必要なものをロイの祖父に伝えておき、宿泊先に届けてもらうよう手配しておいたのだ。
「できれば『起きてるとき』に使うような事態には陥りたくないけど、念のためにね」
かしゃかしゃとデリンジャーの銃身を開き、また元に戻して軽く握り具合を確かめる。クセの少ないまっさらな銃だ。これなら問題なく使いこなせるだろう。
「そっちはどう?」
「申し分なしです。さすがロイのじっちゃんの見立てだな」
「無銘なれど業ものを選んだ、って言ってたヨ」
「さすが日本通だ……」
外箱の中をのぞきこんでいたサリーがおや、と首をかしげた。
「まだプレゼントが残ってるよ? ほら、ロイあてだ」
「Oh?」
平べったい箱から出てきたのは、今度はぬいぐるみではなかった。きちんとした黒のスーツが一着。
「やっぱ、ニンジャ色なんだ……」
「基本ですから」
「気を使ってくれたんだね。宿泊先がヒルトンだから、ドレスコードのある場所に出入りするかもしれないって」
「そうよ、ドレスコード!」
ぴょん、とヨーコが居住まいをただした。
「夜の打ち合わせ、ね……最上階のレストランでディナーとりながらやろうってことに……」
「最上階の? すごいなー。料理美味いかな」
「いや、風見、問題はそうじゃなくてだね」
ヨーコはびしっとロイの手にした黒いスーツを指差した。
「そのレストラン、男性は襟付きシャツにタイ着用必須」
「えっ!」
風見はびっくり仰天、目をみひらき、両手でわたわたと自分の着ているフリースとジーンズをまさぐった。……この上もなくカジュアル。
「俺、そんなきちんとした服持ってきてないっ! ていうか、服もそうだけど、そんな高級料理店で食べたことないからマナーなんて全然ですよっ!」
「心配するな、風見。礼に始まり礼に終わる精神は万国共通のはずだ。それでも至らなかったら……」
ごそごそとヨーコが取り出したのは、楕円形のケースにきちんと納められた朱塗りの箸。
「My箸がある!」
「おお!」
うなずくなり風見は自分のスーツケースをごそごそ漁り、すちゃっとおそろいの紺色の塗り箸を取り出した。
サリーは二人の箸を代わる代わる観察してからちょこんと小さく首をかしげた。
「もしかして、校章入ってる?」
「はい。戸有高校の学食では地球に優しいMy箸の使用を推奨してるんです」
「校章入りMy箸、購買部で絶賛販売中デス」
いつの間にかロイも黒い塗り箸を構えていた。
「3人とも、お箸持ってきたんだ……」
「これさえあれば大抵の料理は食べられるからね」
「って言うか、ロイもお箸派?」
「お箸の応用性の高さと機能美はワールドワイドに優れていますから!」
「そっか……」
(それにコウイチとのお揃いだし!)
日本に帰れば他に100人単位でお揃いの人がいるとか。現にヨーコ先生が目の前に現物を出しているとか、そんな事実は彼の頭の中には1ミリ、いや1ミクロンたりとも認識されていない。
先生が持ってるのはただの箸。コウイチのは自分とお揃い。口に出せない分、ひたすら一途なロイだった。
(あいっかわらず風見のことしか見えてないよ、この子は……)
何事もなかったようにさっくりと箸をしまうと、ヨーコはぽん、と風見の肩をたたいた。
「まあ実際、未成年だからそれほどやかましくは言われないと思うんだ。でもさすがにジーンズはまずいかな」
「わかりました……探してみます」
「いざとなったら貸衣装っつー手もあるし?」
「それも何だかなあ」
「それじゃ俺もスーツ着てきた方がいいね」
「そうね。持って来てここの部屋で着替えてもいいし? じゃ、あたしこれベッドルームにしまって来る」
両手にきちんとたたんだ服を抱えて寝室に向かうヨーコを見送りつつ、風見はスーツケースの中をさらに引っ掻き回す。
「襟のついたシャツならどうにか……あ、でも下が、なあ。日本なら制服でOKだったのに……あれ?」
スーツケースの蓋の間仕切りが妙にふくらんでいる。確かここにはほとんど物は入れなかったなずだ。
不思議に思いつつ外してみると、中にはきちんとしたスーツが一式、収まっているではないか! 一瞬手品か何かと思ったが、スーツについているクリーニング屋のタグは近所の店のものだった。
ふと、思い出す。この服、親戚の結婚式の時に買ったやつだ、と。
「ばあちゃんだな……!」
「よかったね、コウイチ! これで何の心配もなく食事にゆけるよ」
「うん……ほっとした」
祖母の心遣いに感謝していると、ヨーコの部屋から「うわぁ!」っと悲鳴が聞こえてくる。
「よーこさん?」
「先生っ!」
駆けつけた三人は、見た。
ヨーコが口をぱくぱくさせながらクローゼットを指差しているのを。
「どうしたんですか!」
「あ、あれ、あれ、あれ………」
「あれって?」
きちっとしたチェリー材のクローゼットの中には様々なデザインの服がずらぁりと並んでいる。それこそシックなロングドレスから、どこのお姫様か妖精さんですか? と突っ込みたくなるようなふわふわふりふりのスカート&パフスリーブのものまで。
色も形もばらばらだが、どれもこれもフォーマルな席に着て行くのにふさわしいものばかりだ。
「た、た、たいへんだ、忘れ物がこんなにたくさん!」
「いや、忘れ物なら客室係の人が掃除の時に気づきますよ」
「この部屋とったの、ランドールさんでしょ? 多分あの人が用意してくれたんじゃないかな……ほら」
クローゼットの中から一着選ぶとサリーはヨーコの肩に軽く合わせてみた。
「ね。サイズぴったりだもの」
「でも、でも、こんなハリウッド映画みたいなシチュエーション……ありえないよ!」
「ハリウッドならすぐそこですガ?」
「……って言うか……その………あたしには、似合わないっ」
うろたえるヨーコを見守りながら風見がつぶやいた。
「これがランドールさんの『普通』なんだ……」
「なんかこう言うの映画であったネ、オードリー・ヘップバーン主演の」
「ああ、夜が明けるまで踊り明かしちゃうあれか」
「そうそう、スペインの雨は主に平野に降る」
「よく知ってるなあ……君たちが生まれるずーっと前の映画だよ? って言うか、俺もまだ生まれてないし」
「おじいさまがファンだったんです」
「うちのじっちゃんも」
「あー、なるほど」
納得してサリーはうなずいた。さすが映画俳優の孫とその幼なじみだ。
「とりあえずよーこさん、よさげなの試着してみたら?」
「……そーする」
「じゃ、俺たち居間で待ってますから」
3人が部屋を出て行ってから、ヨーコは試しにグリーンのタイトなロングドレスを試してみた。ウエストはぴったり、腰のラインもきれいに出ている。けれど、若干問題があった。
「う……まさか、これ胸がきつい?」
はたと気づいて矯正ブラのホックを外してから軽く合わせてみる。
………今度はぴったり」
「見抜かれてる……」
うれしいような。
悔しいような。
(それにしてもカルはいつ、私のサイズ計ったんだろう?)
※ ※ ※ ※
ヨーコが着替えている間、サリーは持参したノートパソコンをネットにつないでとあるデータベースに接続していた。
異界の存在と渡り合うには、何をおいても情報収集が欠かせない。
『同業者仲間』が過去に遭遇した魔物は全てレジストコードをつけられ、特徴、弱点、能力、行動パターンなどが記録されるのだ。
予知夢で見た光景や相手の姿を思い出しながら検索し、絞り込んで行く。
「今回の相手はこいつだね」
「ビビ?」
「うん。ルーマニアの民間伝承に出てくる魔女だよ。まず家族の中で一番弱った者……多くの場合は子どもに取り憑いて。じわじわと家族の生気を吸い尽くして行くんだ」
「3人一組の女の魔物、赤い服をまとい山羊の角を持つ。確かに先生の見たイメージにぴったり合いますね」
「ヨーコさんは『見通す』のが得意だからね。俺はそこまで具体的には見えなかった」
サリーは小さく肩をすくめた。
「でもね。山羊の声は聞いた。こいつら、角だけじゃない。山羊を手下に従えてるよ」
「山羊……か。かわいい子やぎちゃんって訳じゃないんだろうな」
「複数いる感じだったかな……ああ、こいつ、呪いの力を持ってるね」
「呪い?」
「うん。厄介な相手は呪いで弱体化させてから襲うらしい」
「いやらしいデスねー。それで、弱体化ってどんな風に?」
「無力な存在に変えちゃうんだ。子どもとか、老人とか、動物とか」
「正に『悪い魔女』だなあ。弱点は?」
「今の所、鉄と火、光を使った攻撃が有効だったって報告されてる。それと昔からこの『ビビ』が寄ってこないように戸口に神聖なものを置いておく風習があったらしい」
「聖なるもの……十字架とか?」
「そうだね。あとは聖水、聖書の言葉」
「神聖なものが苦手なのか。キリスト教限定かな」
「どうだろう。ヨーロッパやアメリカに多く出現してるからかもしれないよ。このデータベースはあくまで知識と経験の蓄積だからね」
「まだまだわからない部分も多いってことだネ」
3人で真剣に言葉を交わしつつノートパソコンの画面に見入っていると、キィ……とかすかにドアのきしむ音がしてだれかが部屋に入ってきた。
いつものぱたぱた、ではない。そろりそろりとひそやかに、しとやかに動く気配がした。
「お」
「わお」
「わあ」
ヨーコが立っていた。はずかしそうにほんの少し目を伏せて。
「似合ってる、似合ってますよ、先生!」
「サイズもぴったりですね。見事な眼力です、Mr.ランドール……」
身につけているのはベルベットのノースリーブの赤いワンピース。所どころにポイントで金色のビーズが縫い付けられている。さらに上に白の長袖ボレロを羽織っていた。何だか背が高いな、と思ったら白のハイヒールを履いていた。
そして、首には黒いリボンのチョーカーを巻いている。中央には四角いフレームに納められたカボーションカットの大きめのアメジストが光っていた。
「あれ、そのチョーカー、どっかで見たことあるな」
「うん、おばあちゃんの、帯留め。洋服着るときはこうやってる」
「何って言うか、全体的にしっくりなじんでますね、そのドレス」
「そうだネ、白と赤………ああ」
ぽん、と拳で手のひらを叩くと、風見とロイはどちらからともなく顔を見合わせた。
「巫女装束と同じ配色なんだ!」
次へ→【ex8-6】対面
▼ 【ex8-6】対面
2009/01/18 21:42 【番外】
『Hi,マックス。実は今度のクリスマスにサンフランシスコに行くことにしたの』
兆しの夢を見、サリーからのメールを受けた直後にそのまま彼に電話をした。
『本当に? そりゃ嬉しいね。会えるんだろ?』
『うん、遊びに行く。事務所の方に』
『………事務所に? 家じゃなくて?』
海外通話独特のタイムラグよりほんの少し長い沈黙。どこかほっとしているような気配が感じ取れた。
彼の戸惑いが収まるまで待ってから、ゆっくりと話を続ける。
『実は高校の教え子に留学希望の子が居てね。下見を兼ねて一緒に行くことになって。で、本物のアメリカの探偵事務所を見たいって言うから……お願いしてもいい?』
『なるほど。そう言うことなら、歓迎するよ』
『ほんと? うれしいな。それじゃ、12月22日の午後にうかがうわ』
『うん、その日なら営業中だ。茶菓子は何がいい?』
『何でも』
『それは、知ってる』
『んー、最近はスコーンに甘くないクリームつけて食べるのがマイブームかも』
『OK、アレックスに頼んどくよ。それじゃ』
※ ※ ※ ※
そして、当日。
「よーこさん、ドレス脱いじゃったんだ……もったいない」
「やー、さすがにあれ着て真っ昼間っからシスコの町中は歩けないでしょ」
「せっかくランドールさんに写メ送ろうとしたのに、写真撮る前に脱いじゃうんだもんなー」
「いいじゃん。夜には直に会うんだから」
「……クラスのみんなにも」
「風見!」
ユニオン・スクエアの雑踏の中を、ヨーコとサリー、風見とロイの四人は連れ立って歩いていた。
ヨーコとサリーは健脚だ。子どもの頃から袴姿で神社の石段を上り下りすることで自然と足腰が鍛えられたのである。さっかさっかとスケールの小ささを補ってあまりある機敏な足取りで歩く。
風見とロイは言わずもがな、二人とも幼い頃から日々鍛錬している。ロイに至っては通行人が接触しそうになるたびにさっと間に入り、風見との接触を防ぐ芸当までやらかしている。
全て何気ない動作の中で。
交差点で、四角いオープンデッキ式のケーブルカーとすれ違う。赤を貴重とした屋根付きの車体は、広告用の看板でまるでレトロなクッキー缶のようににぎやかに飾られていた。
「お、ケーブルカーだ。すごいなー、海外ドラマで見たのと同じだ!」
「あっちには路面電車も走ってるんだよ。ほら。いろんな国の古い機体が走ってる」
サリーの指差す方向には、全体がくすんだ緑色、窓部分が横一列にクリーム色に塗られたコンパクトな車体が走っていた。
「え、あれもしかして東京都電の?」
「そうだよ。日本の国旗が描かれてるでしょ?」
「本当だ。でも俺、乗るんだったらやっぱりあっちかな……」
風見は目を輝かせてケーブルカーを追いながら小さく『Everywhere you look』(海外ドラマ「フルハウス」のテーマ)を口ずさんでいる。
そんな彼の横顔を見ながらロイは密かに胸をきゅんきゅん言わせていた。
「When you're lost out there and you're all alone A light is waiting to carry you home……(君が一人道に迷っても、家に導く光が待っていてくれる)」
「わ、発音完璧! 風見くん、ずいぶん英語上達したんだね」
「羊子先生に特訓されました。DVDで海外ドラマ延々と視聴させられたんです」
「フルハウスを?」
「うん。アレは日常会話が多いからね。サンフランシスコが舞台だし、教材に最適だったの……あ、ここだ」
見渡せば、そこにある。(Everywhere you look.)
目的のオフィスビルにたどり着き、一行はエレベーターで二階に上がった。
「この先の廊下をずーっと行った突き当たりよ」
「所長のマクラウドさんって、元警察官なんでしょ?」
「うん、爆発物処理班に居たって」
「それで、今は私立探偵なんだ……背も高くて、がっちりしたタフな人なんですよね」
「ハードボイルドです」
「あー、うん、確かに職歴は正しいし頑丈で腕っ節が強いのも事実なんだけど……ね」
「まちがってはいないよ……ね」
あいまいな表情でサリーとヨーコはそれ以上の言及を避けた。
料理上手で人妻で二児の『まま』だと言うことは伏せておこう。現物を見せるに限る。
突き当たりのドアにはめ込まれた磨りガラスにはかっちりした書体で『マクラウド探偵事務所』と記されている。
『ようこそ』とか『あなたの』とか『迅速丁寧』とか『秘密厳守』とか。余計な文字は何一つない。
呼び鈴を押すと、中から深みのあるバリトンが返ってきた。
「どうぞ、開いてます」
がちゃり。
出迎えてくれたのは予想通り背の高いがっちりした男性だった。赤い髪の毛が窓からさしこむ冬の光に照り映えて燃えるように輝き、身につけたVネックのネイビーブルーのニットの上からも鍛えられた筋肉が伺える。
「Hi,マックス。元気?」
「ヨーコ。サリー!」
ぱっと見厳つい顔が一瞬ででほころび、人懐っこそうな笑みが広がった。
「よく来てくれた。会えてうれしいよ」
友人同士にふさわしいおとなしめのハグを交わしてから、ヨーコは教え子二人を手招きした。
「マックス、この子たちがあたしの教え子。風見光一と、ロイ・アーバンシュタイン」
少しばかり緊張しながら二人は所長に挨拶した。
「初めまして、マクラウドさん」
「お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ。ディフォレスト・マクラウドだ。ディフでもマックスでも好きな方で呼んでくれ」
「はい」
礼儀正しく挨拶をしている間に、ひそかに所長の背後にしのびよっている奴がいた。
足下にしのびより、ざっしざっしと爪をたててよじのぼり……肩からにゅっと顔をつきだす。
「みう」
「あ、猫」
所長の肩の上でしっぽをぴん、と立てる白い猫に向かってサリーがにこやかに声をかける。
「こんにちは、オーレ」
「みゃっ」
「何か、とくいげですね」
「高い場所にいるからな……オティア!」
すっとパソコンの前から金髪の少年が立ち上がり、歩み寄って来る。
ディフが軽く身を屈めて背中を向けると、黙って白い猫を引きはがした。爪が服にひっかからないように一本ずつ丁寧に外して。
二人ともほとんど目も合わせず、一連の作業を実になめらかにこなしている。どうやらよくあること、慣れっこってことらしい。
「……なんか……イメージが……トレンチコートより割烹着似合いそうで」
「いや、アットホームに見えて実は優秀なのかも。筋肉の着き方もきれいだし、身のこなしに隙がないヨ」
「間取りはまちがいなく、ハードボイルドっぽいんだけどなあ」
入り口からほぼ真正面にあたる奥に木製のどっしりしたデスク、右手にパソコンの置かれたスチールデスク。
パーテーションで仕切られた一角にはソファとローテーブルの応接セット。
しかしよく見るとスチールデスクの足下には猫用のバスケットが置かれ、さらに壁際にはペットサークルに囲まれた猫トイレが設置されていたりするのだった。
さらに、テーブルの上にはクッキーにスコーンにドーナッツ、マドレーヌにマフィンにタルトなど、小振りの焼き菓子が白い皿に美しく盛りつけられている。
「もしかして、かーなーりアットホームかもしれない」
「ちょっぴりよそ様のお茶の間にいる気分になって来たカモ」
「みゃっ」
風見とロイが現実を把握している間、オティアと呼ばれた少年は白い猫を連れて事務所の隅にしつらえられた簡易キッチンへと歩いて行く。
「あ、オティア」
ヨーコに呼ばれて立ち止まり、黙って振り返る。
「お湯だけ沸かしてもらえる?」
怪訝そうに見ている。ヨーコはバッグから小さな紙包みを取り出した。
「これ、お土産……日本のお茶」
「グリーンティーか。ありがとう、さっそく入れてみるよ」
「そのことなんだけど、風見に任せてあげてくれる? この子のおばあちゃん、お茶の先生なの」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、失礼して」
やかんに水を入れて火にかけると、オティアは黙々とカップを棚から取り出して並べた。次に白い丸みをおびた形のティーポットを出しかけて一旦手を止め、風見に顔を向ける。
「ポット、これでいいのか?」
「大丈夫です。ありがとう」
こくん、とうなずくとポットを準備し、何事もなかったように自分のデスクに戻って行く。小さく会釈をすると、風見は入れ違いにキッチンへと歩いて行った。
(この子が悪夢に狙われてるんだな)
同じ年頃の子が被害に会っているのを見ると、つい思い出してしまう。かつて自分が"魔"に襲われたときのことを。
すれちがいざま、さりげなく相手の様子を観察した。少しくすんだ金髪、紫の瞳。誰にも何にも無関心。
ぶっきらぼうで無愛想だけど、内側には傷つきやすいガラスの心を抱えている。今はかろうじて意志の力で持ちこたえてはいるけれど、いつくだけてしまうか……。
細い肩の上でもぞもぞと何かが蠢いている。おそらく常人の目にははっきりとは見えない。せいぜい勘の良い人間がぼんやりした影として認識する程度のものだった。
(あ)
ロイに向かって目配せする。
(どうする?)
(一応取り除いておこう)
密かにロイが動こうとしたその時だ。
不意にオーレがぴっと耳を伏せ、オティアの肩に駆け上がると空中をばしっと前足で一撃。素早く飛び降り、何かを床から拾い上げるような仕草をした。
首輪につけた金色の鈴がチリン、と澄んだ音色を奏でる。
(すごい)
(で、できる!)
白い猫は満足げにピーンとシッポを立て、鼻面をふくらませるとサリーに向かってちょこまかと駆け寄った。
「に」
「……そ、そう、えらいね」
微妙に引き気味のサリーに変わってヨーコがかがみ込み、白い猫のあごをくすぐる。
「ありがとう」
「みゃー」
かぱっとピンクの口を開けて答えるオーレから何かを受け取るような仕草をし、くっと拳を握った。
ディフが身を屈めてのぞきこんだ。
「虫でもいたのか?」
「ううん。何も」
手のひらを開く。確かに空っぽだった………少なくともディフの目にはそう見えた。だが風見とロイ、サリーには灰色の塵がくたくたと、空気にとけ込むようにして消えるのがわかった。
ふっと手のひらを軽く吹くとヨーコはオーレに向かって手のひらを上にしてさしのべた。白い猫は満足げにのどを鳴らし、彼女の手に顔をすり寄せている。
「勇敢なお姫様なのね、オーレは」
「み!」
「そっか、今は勤務中だから美人秘書なんだ」
「んにゃっ」
「この鈴、そんなに気に入ってくれてるの? よかった。お似合いよ」
「みゃー」
「猫好きなんだな、彼女」
「え、ああ、うん、そうだね、実家でも飼ってるし」
「ポチって言うんだっけ?」
「いや、それは猫じゃない」
サリーは密かに思った。
(よーこさん、猫と普通に会話してるし……)
彼女には自分と違って動物と話す能力はないはずだ。ないはずなんだけど、直感と共感で何となく意志疎通できているんだろう。たぶん、きっと。
(あれじゃ魔女って言われるのも無理ないや)
「どうぞ、お茶が入りました」
風見の運んできたお茶を一口すすり、ディフは目を細めた。
「ああ……いい香りだ。渋みも少ないし、ずいぶん口あたりがまろやかなんだな」
「少し温めのお湯で入れたんです」
オティアも静かにカップの中身を口にふくんでいる。表情はほとんど動かないが、どうやら気に入ったらしい。
「Yummy! Yummy! Yummy! It's taste so good!」
一方では満面の笑顔で焼き菓子にかぶりついてる奴が約一名。
「おいしー、おいしー、おいしー。これ全部アレックスのハンドメイドだよね? アレックスさいこー、すごーい」
乳白色のクロテッドクリームに杏のジャムをほんの少し添えて。英語と日本語で交互に「おいしい」と繰り返し、スコーンを両手で抱えてさくさく食べるヨーコを見ながらディフが言った。
「……リスみたいだな」
「やっぱり、そう思います?」
「うん。そこはかとなく小動物っぽい」
「何かゆった?」
二つ目のスコーンを抱えてちょこんと首をかしげていた。
「ヨーコ。君、何って言うか……高校生の時とくらべて、変わったな」
「そりゃ、10年も経ったんだし」
「あの時の君は、きりっとして面倒見がよくて、姉さんみたいだった」
「そんな風に見てたんだ……」
「今も基本的な所は変わらないよ。でも肩の力がいいぐあいに抜けてる」
はた、とヨーコの動きが止まった。
「いっぱいいっぱいに背伸びしているような危うさがなくなった」
「先生、高校生の時はそんな子だったんだ」
「意外デス」
「ああ。飯食うときもほとんど表情動かさずに黙々と食ってた」
「えー!」
「でも、すごくいっぱい食べてた?」
「うん、パイの大食いコンテストに飛び入りで参加して、10代の部で優勝した事がある」
「あー、なんかすっごく想像できるな、それは」
「さすがデス……」
じわじわとヨーコの頬に赤みが広がり、耳たぶまで広がって行き……やにわに持ってるスコーンを猛烈な勢いで食べ始めた。
またたく間に食べ終わるとすかさずクッキーに手をのばしてさくさくさくさく。これもあっと言う間にたいらげて、お茶を飲んでふーっと息をつく。
「先生、口」
絶妙のタイミングで風見が声をかけ、ちょん、ちょん、と自分の口の端を指先でつついた。
「クッキーついてます」
「うん……ありがと」
ハンカチをとりだしてくしくしと口元を拭う姿を見てディフがうなずいた。
「やっぱり丸くなったな、ヨーコ」
「あなたもね、マックス」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、またね、マックス」
「ああ。帰るまでにもう一度くらい顔出せよ?」
「うん、ありがとう」
「お邪魔しました」
「失礼シマス」
事務所を出るなり、今の今までにこやかだった四人の表情がいっせいに引き締まる。しばらく廊下を歩いてから、ヨーコが日本語で切り出した。
「どう思う?」
神妙な面持ちで風見が答える。
「……かなりやばいですね」
「強いパワーを持ってるのに、繊細すぎて、今にも折れてしまいそうで……無理に近づいちゃいけない気がしまシタ」
「うん、そんな感じがした。ガラスの心の天使ってイメージだ」
「あの子も所長さんも危険な状態だヨ。もう一人の兄弟も、おそらく……」
サリーがうなずいた。
マクラウド探偵事務所を訪れたのは、単に旧交をあたためるためだけではない。
「まず弱った一人を狙って、その子を拠点に家族にも手を伸ばすのが『ビビ』の常套手段らしいからね」
「あの猫が首につけてる鈴、結城神社のお守りですよね?」
「うん。あれのおかげでだいぶ助かってるけど、最近は敵の数が増えてきちゃって……さっきもオティアに一匹まとわりついてたし」
「白い猫さんに撃墜されたやつですね」
「そう、あれ。夜になると親玉の邪気に釣られて羽虫みたいな有象無象がブンブン飛び回っちゃってまー、かなり五月蝿そう」
「山羊にはアブがつきものデスから」
サリーがぶるっと身震いした。
「やめてよ、その表現。できるだけ意識しないようにしてるのに」
「Sorry……」
「ごめん」
エレベーターを待ちながら風見は己の手のひらをしみじみと見つめた。指先までぽわぽわと火照って熱い。
ついさっき、お茶を媒介にして放った力の余波がまだ手のひらに残っているようだ。
「一応、応急処置はしときました。どうにか今夜までは自力で持ちこたえてくれるんじゃないかな。あの子、意志が強そうだったし」
「上等! えらいぞ、風見」
満面の笑みを浮かべてヨーコがのびあがり、首に腕をまきつける。そのままわしわしと髪の毛をなでまわした。学校でよくやるように遠慮なく。
「だーかーら。頭なでるのやめてくださいよ子どもじゃないんだから」
「照れるな照れるな」
やめてくださいよ、といいながら風見も心底いやそうな顔はしていない。先生が自分の力を認め、ほめてくれたことが嬉しいのだ。ただ表立って喜ぶのがちょっぴり気恥ずかしいだけで……。
ヨーコも彼の気持ちをちゃんとわかっている。普段は厳しいが、その分ほめるべきときは躊躇なくほめる。全力でねぎらう。
そんな二人を見守りつつ、ロイはきゅっと拳を握っていた。
(ああ……今だけボクはヨーコ先生になりたい)
オフィスビルを出ると、ちょうどホットドックの移動販売車が停まっていた。既に時間は午後3時、ランチには遅くディナーには早い。それでもちらほらとお客が訪れ、決して人の流れが途切れることがないのが不思議だった。
「よし、ごほうびにホットドッグおごってあげよう!」
「さっきあんなに食べたばっかりじゃないですか!」
「うん、だからひとっつだけ」
「このコンパクトなボディのいったいドコに入るんダロウ……」
「謎だね」
「レシピは先生におまかせ、でいいかな?」
「はい! ……って、レシピ?」
ちょこまかと屋台に近寄って行くと、ヨーコはすちゃっと片手を上げて店員に呼びかけた。
「Hey,Mr! ホットドック3つ、オニオンとケチャップはたっぷりでマスタードとピクルスは控えめにね。あとコーヒー一つ、お願い!」
最後のお願い(Please)の一言で、店員の顔ににまっと野太い笑みが浮かんだ。
「OK,little Miss!」
「あれ、一個足りないんじゃ」
「ああ、俺は食べないから」
「わかってるんだ」
「いつものことだしね」
パンからはみ出すほどの太いソーセージを柔らかく甘みのある小振りなパンに挟み、さらにその上からペーパーナプキンでくるんでそのままがぶり。
ホットドッグをかじりつつ、サリーはコーヒーをすすりつつ、歩き続ける。
「アメリカのホットドッグって、パンが角張ってるんだ」
「日本だとコッペパンっぽい形のが主流だものネ。あっちの方がボクにとっては斬新だったヨ」
次へ→【ex8-7】出陣
兆しの夢を見、サリーからのメールを受けた直後にそのまま彼に電話をした。
『本当に? そりゃ嬉しいね。会えるんだろ?』
『うん、遊びに行く。事務所の方に』
『………事務所に? 家じゃなくて?』
海外通話独特のタイムラグよりほんの少し長い沈黙。どこかほっとしているような気配が感じ取れた。
彼の戸惑いが収まるまで待ってから、ゆっくりと話を続ける。
『実は高校の教え子に留学希望の子が居てね。下見を兼ねて一緒に行くことになって。で、本物のアメリカの探偵事務所を見たいって言うから……お願いしてもいい?』
『なるほど。そう言うことなら、歓迎するよ』
『ほんと? うれしいな。それじゃ、12月22日の午後にうかがうわ』
『うん、その日なら営業中だ。茶菓子は何がいい?』
『何でも』
『それは、知ってる』
『んー、最近はスコーンに甘くないクリームつけて食べるのがマイブームかも』
『OK、アレックスに頼んどくよ。それじゃ』
※ ※ ※ ※
そして、当日。
「よーこさん、ドレス脱いじゃったんだ……もったいない」
「やー、さすがにあれ着て真っ昼間っからシスコの町中は歩けないでしょ」
「せっかくランドールさんに写メ送ろうとしたのに、写真撮る前に脱いじゃうんだもんなー」
「いいじゃん。夜には直に会うんだから」
「……クラスのみんなにも」
「風見!」
ユニオン・スクエアの雑踏の中を、ヨーコとサリー、風見とロイの四人は連れ立って歩いていた。
ヨーコとサリーは健脚だ。子どもの頃から袴姿で神社の石段を上り下りすることで自然と足腰が鍛えられたのである。さっかさっかとスケールの小ささを補ってあまりある機敏な足取りで歩く。
風見とロイは言わずもがな、二人とも幼い頃から日々鍛錬している。ロイに至っては通行人が接触しそうになるたびにさっと間に入り、風見との接触を防ぐ芸当までやらかしている。
全て何気ない動作の中で。
交差点で、四角いオープンデッキ式のケーブルカーとすれ違う。赤を貴重とした屋根付きの車体は、広告用の看板でまるでレトロなクッキー缶のようににぎやかに飾られていた。
「お、ケーブルカーだ。すごいなー、海外ドラマで見たのと同じだ!」
「あっちには路面電車も走ってるんだよ。ほら。いろんな国の古い機体が走ってる」
サリーの指差す方向には、全体がくすんだ緑色、窓部分が横一列にクリーム色に塗られたコンパクトな車体が走っていた。
「え、あれもしかして東京都電の?」
「そうだよ。日本の国旗が描かれてるでしょ?」
「本当だ。でも俺、乗るんだったらやっぱりあっちかな……」
風見は目を輝かせてケーブルカーを追いながら小さく『Everywhere you look』(海外ドラマ「フルハウス」のテーマ)を口ずさんでいる。
そんな彼の横顔を見ながらロイは密かに胸をきゅんきゅん言わせていた。
「When you're lost out there and you're all alone A light is waiting to carry you home……(君が一人道に迷っても、家に導く光が待っていてくれる)」
「わ、発音完璧! 風見くん、ずいぶん英語上達したんだね」
「羊子先生に特訓されました。DVDで海外ドラマ延々と視聴させられたんです」
「フルハウスを?」
「うん。アレは日常会話が多いからね。サンフランシスコが舞台だし、教材に最適だったの……あ、ここだ」
見渡せば、そこにある。(Everywhere you look.)
目的のオフィスビルにたどり着き、一行はエレベーターで二階に上がった。
「この先の廊下をずーっと行った突き当たりよ」
「所長のマクラウドさんって、元警察官なんでしょ?」
「うん、爆発物処理班に居たって」
「それで、今は私立探偵なんだ……背も高くて、がっちりしたタフな人なんですよね」
「ハードボイルドです」
「あー、うん、確かに職歴は正しいし頑丈で腕っ節が強いのも事実なんだけど……ね」
「まちがってはいないよ……ね」
あいまいな表情でサリーとヨーコはそれ以上の言及を避けた。
料理上手で人妻で二児の『まま』だと言うことは伏せておこう。現物を見せるに限る。
突き当たりのドアにはめ込まれた磨りガラスにはかっちりした書体で『マクラウド探偵事務所』と記されている。
『ようこそ』とか『あなたの』とか『迅速丁寧』とか『秘密厳守』とか。余計な文字は何一つない。
呼び鈴を押すと、中から深みのあるバリトンが返ってきた。
「どうぞ、開いてます」
がちゃり。
出迎えてくれたのは予想通り背の高いがっちりした男性だった。赤い髪の毛が窓からさしこむ冬の光に照り映えて燃えるように輝き、身につけたVネックのネイビーブルーのニットの上からも鍛えられた筋肉が伺える。
「Hi,マックス。元気?」
「ヨーコ。サリー!」
ぱっと見厳つい顔が一瞬ででほころび、人懐っこそうな笑みが広がった。
「よく来てくれた。会えてうれしいよ」
友人同士にふさわしいおとなしめのハグを交わしてから、ヨーコは教え子二人を手招きした。
「マックス、この子たちがあたしの教え子。風見光一と、ロイ・アーバンシュタイン」
少しばかり緊張しながら二人は所長に挨拶した。
「初めまして、マクラウドさん」
「お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ。ディフォレスト・マクラウドだ。ディフでもマックスでも好きな方で呼んでくれ」
「はい」
礼儀正しく挨拶をしている間に、ひそかに所長の背後にしのびよっている奴がいた。
足下にしのびより、ざっしざっしと爪をたててよじのぼり……肩からにゅっと顔をつきだす。
「みう」
「あ、猫」
所長の肩の上でしっぽをぴん、と立てる白い猫に向かってサリーがにこやかに声をかける。
「こんにちは、オーレ」
「みゃっ」
「何か、とくいげですね」
「高い場所にいるからな……オティア!」
すっとパソコンの前から金髪の少年が立ち上がり、歩み寄って来る。
ディフが軽く身を屈めて背中を向けると、黙って白い猫を引きはがした。爪が服にひっかからないように一本ずつ丁寧に外して。
二人ともほとんど目も合わせず、一連の作業を実になめらかにこなしている。どうやらよくあること、慣れっこってことらしい。
「……なんか……イメージが……トレンチコートより割烹着似合いそうで」
「いや、アットホームに見えて実は優秀なのかも。筋肉の着き方もきれいだし、身のこなしに隙がないヨ」
「間取りはまちがいなく、ハードボイルドっぽいんだけどなあ」
入り口からほぼ真正面にあたる奥に木製のどっしりしたデスク、右手にパソコンの置かれたスチールデスク。
パーテーションで仕切られた一角にはソファとローテーブルの応接セット。
しかしよく見るとスチールデスクの足下には猫用のバスケットが置かれ、さらに壁際にはペットサークルに囲まれた猫トイレが設置されていたりするのだった。
さらに、テーブルの上にはクッキーにスコーンにドーナッツ、マドレーヌにマフィンにタルトなど、小振りの焼き菓子が白い皿に美しく盛りつけられている。
「もしかして、かーなーりアットホームかもしれない」
「ちょっぴりよそ様のお茶の間にいる気分になって来たカモ」
「みゃっ」
風見とロイが現実を把握している間、オティアと呼ばれた少年は白い猫を連れて事務所の隅にしつらえられた簡易キッチンへと歩いて行く。
「あ、オティア」
ヨーコに呼ばれて立ち止まり、黙って振り返る。
「お湯だけ沸かしてもらえる?」
怪訝そうに見ている。ヨーコはバッグから小さな紙包みを取り出した。
「これ、お土産……日本のお茶」
「グリーンティーか。ありがとう、さっそく入れてみるよ」
「そのことなんだけど、風見に任せてあげてくれる? この子のおばあちゃん、お茶の先生なの」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、失礼して」
やかんに水を入れて火にかけると、オティアは黙々とカップを棚から取り出して並べた。次に白い丸みをおびた形のティーポットを出しかけて一旦手を止め、風見に顔を向ける。
「ポット、これでいいのか?」
「大丈夫です。ありがとう」
こくん、とうなずくとポットを準備し、何事もなかったように自分のデスクに戻って行く。小さく会釈をすると、風見は入れ違いにキッチンへと歩いて行った。
(この子が悪夢に狙われてるんだな)
同じ年頃の子が被害に会っているのを見ると、つい思い出してしまう。かつて自分が"魔"に襲われたときのことを。
すれちがいざま、さりげなく相手の様子を観察した。少しくすんだ金髪、紫の瞳。誰にも何にも無関心。
ぶっきらぼうで無愛想だけど、内側には傷つきやすいガラスの心を抱えている。今はかろうじて意志の力で持ちこたえてはいるけれど、いつくだけてしまうか……。
細い肩の上でもぞもぞと何かが蠢いている。おそらく常人の目にははっきりとは見えない。せいぜい勘の良い人間がぼんやりした影として認識する程度のものだった。
(あ)
ロイに向かって目配せする。
(どうする?)
(一応取り除いておこう)
密かにロイが動こうとしたその時だ。
不意にオーレがぴっと耳を伏せ、オティアの肩に駆け上がると空中をばしっと前足で一撃。素早く飛び降り、何かを床から拾い上げるような仕草をした。
首輪につけた金色の鈴がチリン、と澄んだ音色を奏でる。
(すごい)
(で、できる!)
白い猫は満足げにピーンとシッポを立て、鼻面をふくらませるとサリーに向かってちょこまかと駆け寄った。
「に」
「……そ、そう、えらいね」
微妙に引き気味のサリーに変わってヨーコがかがみ込み、白い猫のあごをくすぐる。
「ありがとう」
「みゃー」
かぱっとピンクの口を開けて答えるオーレから何かを受け取るような仕草をし、くっと拳を握った。
ディフが身を屈めてのぞきこんだ。
「虫でもいたのか?」
「ううん。何も」
手のひらを開く。確かに空っぽだった………少なくともディフの目にはそう見えた。だが風見とロイ、サリーには灰色の塵がくたくたと、空気にとけ込むようにして消えるのがわかった。
ふっと手のひらを軽く吹くとヨーコはオーレに向かって手のひらを上にしてさしのべた。白い猫は満足げにのどを鳴らし、彼女の手に顔をすり寄せている。
「勇敢なお姫様なのね、オーレは」
「み!」
「そっか、今は勤務中だから美人秘書なんだ」
「んにゃっ」
「この鈴、そんなに気に入ってくれてるの? よかった。お似合いよ」
「みゃー」
「猫好きなんだな、彼女」
「え、ああ、うん、そうだね、実家でも飼ってるし」
「ポチって言うんだっけ?」
「いや、それは猫じゃない」
サリーは密かに思った。
(よーこさん、猫と普通に会話してるし……)
彼女には自分と違って動物と話す能力はないはずだ。ないはずなんだけど、直感と共感で何となく意志疎通できているんだろう。たぶん、きっと。
(あれじゃ魔女って言われるのも無理ないや)
「どうぞ、お茶が入りました」
風見の運んできたお茶を一口すすり、ディフは目を細めた。
「ああ……いい香りだ。渋みも少ないし、ずいぶん口あたりがまろやかなんだな」
「少し温めのお湯で入れたんです」
オティアも静かにカップの中身を口にふくんでいる。表情はほとんど動かないが、どうやら気に入ったらしい。
「Yummy! Yummy! Yummy! It's taste so good!」
一方では満面の笑顔で焼き菓子にかぶりついてる奴が約一名。
「おいしー、おいしー、おいしー。これ全部アレックスのハンドメイドだよね? アレックスさいこー、すごーい」
乳白色のクロテッドクリームに杏のジャムをほんの少し添えて。英語と日本語で交互に「おいしい」と繰り返し、スコーンを両手で抱えてさくさく食べるヨーコを見ながらディフが言った。
「……リスみたいだな」
「やっぱり、そう思います?」
「うん。そこはかとなく小動物っぽい」
「何かゆった?」
二つ目のスコーンを抱えてちょこんと首をかしげていた。
「ヨーコ。君、何って言うか……高校生の時とくらべて、変わったな」
「そりゃ、10年も経ったんだし」
「あの時の君は、きりっとして面倒見がよくて、姉さんみたいだった」
「そんな風に見てたんだ……」
「今も基本的な所は変わらないよ。でも肩の力がいいぐあいに抜けてる」
はた、とヨーコの動きが止まった。
「いっぱいいっぱいに背伸びしているような危うさがなくなった」
「先生、高校生の時はそんな子だったんだ」
「意外デス」
「ああ。飯食うときもほとんど表情動かさずに黙々と食ってた」
「えー!」
「でも、すごくいっぱい食べてた?」
「うん、パイの大食いコンテストに飛び入りで参加して、10代の部で優勝した事がある」
「あー、なんかすっごく想像できるな、それは」
「さすがデス……」
じわじわとヨーコの頬に赤みが広がり、耳たぶまで広がって行き……やにわに持ってるスコーンを猛烈な勢いで食べ始めた。
またたく間に食べ終わるとすかさずクッキーに手をのばしてさくさくさくさく。これもあっと言う間にたいらげて、お茶を飲んでふーっと息をつく。
「先生、口」
絶妙のタイミングで風見が声をかけ、ちょん、ちょん、と自分の口の端を指先でつついた。
「クッキーついてます」
「うん……ありがと」
ハンカチをとりだしてくしくしと口元を拭う姿を見てディフがうなずいた。
「やっぱり丸くなったな、ヨーコ」
「あなたもね、マックス」
※ ※ ※ ※
「それじゃ、またね、マックス」
「ああ。帰るまでにもう一度くらい顔出せよ?」
「うん、ありがとう」
「お邪魔しました」
「失礼シマス」
事務所を出るなり、今の今までにこやかだった四人の表情がいっせいに引き締まる。しばらく廊下を歩いてから、ヨーコが日本語で切り出した。
「どう思う?」
神妙な面持ちで風見が答える。
「……かなりやばいですね」
「強いパワーを持ってるのに、繊細すぎて、今にも折れてしまいそうで……無理に近づいちゃいけない気がしまシタ」
「うん、そんな感じがした。ガラスの心の天使ってイメージだ」
「あの子も所長さんも危険な状態だヨ。もう一人の兄弟も、おそらく……」
サリーがうなずいた。
マクラウド探偵事務所を訪れたのは、単に旧交をあたためるためだけではない。
「まず弱った一人を狙って、その子を拠点に家族にも手を伸ばすのが『ビビ』の常套手段らしいからね」
「あの猫が首につけてる鈴、結城神社のお守りですよね?」
「うん。あれのおかげでだいぶ助かってるけど、最近は敵の数が増えてきちゃって……さっきもオティアに一匹まとわりついてたし」
「白い猫さんに撃墜されたやつですね」
「そう、あれ。夜になると親玉の邪気に釣られて羽虫みたいな有象無象がブンブン飛び回っちゃってまー、かなり五月蝿そう」
「山羊にはアブがつきものデスから」
サリーがぶるっと身震いした。
「やめてよ、その表現。できるだけ意識しないようにしてるのに」
「Sorry……」
「ごめん」
エレベーターを待ちながら風見は己の手のひらをしみじみと見つめた。指先までぽわぽわと火照って熱い。
ついさっき、お茶を媒介にして放った力の余波がまだ手のひらに残っているようだ。
「一応、応急処置はしときました。どうにか今夜までは自力で持ちこたえてくれるんじゃないかな。あの子、意志が強そうだったし」
「上等! えらいぞ、風見」
満面の笑みを浮かべてヨーコがのびあがり、首に腕をまきつける。そのままわしわしと髪の毛をなでまわした。学校でよくやるように遠慮なく。
「だーかーら。頭なでるのやめてくださいよ子どもじゃないんだから」
「照れるな照れるな」
やめてくださいよ、といいながら風見も心底いやそうな顔はしていない。先生が自分の力を認め、ほめてくれたことが嬉しいのだ。ただ表立って喜ぶのがちょっぴり気恥ずかしいだけで……。
ヨーコも彼の気持ちをちゃんとわかっている。普段は厳しいが、その分ほめるべきときは躊躇なくほめる。全力でねぎらう。
そんな二人を見守りつつ、ロイはきゅっと拳を握っていた。
(ああ……今だけボクはヨーコ先生になりたい)
オフィスビルを出ると、ちょうどホットドックの移動販売車が停まっていた。既に時間は午後3時、ランチには遅くディナーには早い。それでもちらほらとお客が訪れ、決して人の流れが途切れることがないのが不思議だった。
「よし、ごほうびにホットドッグおごってあげよう!」
「さっきあんなに食べたばっかりじゃないですか!」
「うん、だからひとっつだけ」
「このコンパクトなボディのいったいドコに入るんダロウ……」
「謎だね」
「レシピは先生におまかせ、でいいかな?」
「はい! ……って、レシピ?」
ちょこまかと屋台に近寄って行くと、ヨーコはすちゃっと片手を上げて店員に呼びかけた。
「Hey,Mr! ホットドック3つ、オニオンとケチャップはたっぷりでマスタードとピクルスは控えめにね。あとコーヒー一つ、お願い!」
最後のお願い(Please)の一言で、店員の顔ににまっと野太い笑みが浮かんだ。
「OK,little Miss!」
「あれ、一個足りないんじゃ」
「ああ、俺は食べないから」
「わかってるんだ」
「いつものことだしね」
パンからはみ出すほどの太いソーセージを柔らかく甘みのある小振りなパンに挟み、さらにその上からペーパーナプキンでくるんでそのままがぶり。
ホットドッグをかじりつつ、サリーはコーヒーをすすりつつ、歩き続ける。
「アメリカのホットドッグって、パンが角張ってるんだ」
「日本だとコッペパンっぽい形のが主流だものネ。あっちの方がボクにとっては斬新だったヨ」
次へ→【ex8-7】出陣
▼ 【ex8-7】出陣
2009/01/18 21:46 【番外】
めいめい食べ終わり、飲み終わった頃にはオフィス街を抜け、徐々に住宅街へとさしかかっていた。
「あれ、ホテル通り過ぎちゃったんじゃ……」
「うん、どうせだからダイブするための場所も『下見』しとこうと思って」
「なるほど」
「よさそうな場所、見つけておいたよ」
サリーは一行を住宅街の一角にある公園へと案内した。寒さと乾燥に強い芝生は真夏ほどではないものの、まだ緑を色濃く残してふかふかと生い茂り、木々の中であるものは葉を落とし、またあるものはつやつやと堅い丈夫な葉を広げている。
「……どう、ここ?」
ヨーコは公園の中を歩き回る。滑り台に回転シーソー、ブランコ、砂場、ジャングルジム、プラスチックのちっちゃなロッキンホース。
遊具の間を通り過ぎ、大きな木の根元で足を止めた。
「うん、いいね。使えそう」
すっとまぶたを細めて梢を見やる。
青い空をひび割れのように縁取る枝を透かして、ほど近い場所に6F建てのマンションがそびえていた。
※ ※ ※ ※
「ビビか。小さい頃聞いたことがあるよ」
夜。
ホテルの最上階のレストランは「シティスケープ」の名にふさわしく壁の一面がほぼガラス張りの窓になっていて、眼下にはサンフランシスコの町の灯火が夜空に散った宝石さながらにきらめいている。
ことにクリスマス前のこの時期はイルミネーションがチカチカと。一般家庭のものから街の広場、デパートの大掛かりなものまでいたる所で輝きを添えている。
「ああ、カルのお母様はルーマニアの出身ですものね」
「うむ。赤い服を着て子どもと母親を狙う魔女の話を、ね……ベッドに早く入らせるための方便かとも思ったが、今思えばあれは多分」
「用心させるために知識を伝えてたのかもしれないわね?」
「そうなんだ。小さい頃の私は……人の目には見えないモノが見えていた。大人になってからはそんなことも少なくなって、夢だったんだろうと思っていたよ」
ランドールはほのかにほほ笑むと、テーブルに並んだ一同の顔を見渡した。
ストライプのダークグレイのスーツに赤いネクタイをしめた風見と、黒いスーツに青のクロスタイをしめたロイ。そして見覚えのある濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締めたサリーと、その隣にちょこんと座ったヨーコ……
『Hey,Mr.ランドール!』
『乗せていただける? 緊急事態なの』
8月のあの日、彼女に呼び止められたのが全ての始まりだった。
「君たちに会うまでは、ね」
にまっとほほ笑むとヨーコはグラスを軽く掲げた。
背の高いフルートグラスの中身は炭酸入りのミネラルウォーター。底から立ちのぼる細かな泡に包まれて、薄切りのライムがひとひら浮いている。
この後に大事が控えているのだ。お楽しみは事件解決後の祝杯までとっておこう。
「正確にはビビ『そのもの』ではないかもしれないの。形すら定かではなかったもやもやっとした存在が、取り憑いた犠牲者の記憶とイメージを吸収して次第に確固たる恐怖に形を変えて行き、やがては現実をも浸食する力を持つに至る……それが『悪夢』(ナイトメア)」
サリーがうなずき、後を続ける。
「具現化したナイトメアは手強い。けれど悪いことばかりでもないんです。取り込んできた伝承の『規則』にも縛られるから」
「伝承にあるのと同じ固有の弱点を持つと言うことだね?」
「その通り! あたしたちの力は万能でもないし無限でもない。だからこうしてチームを組むの。あ、風見、塩とってくれる?」
「どうぞ」
「サンキュ」
軽く料理に塩を振り、ソースの味を調整している。
「力を合わせて、互いに足りない所を補って……」
ヨーコは手にしたナイフで器用に皿の上の肉を一口ぶん、さくっと切り取った。鮮やかな手つきでカチャリとも音を立てずに。
「相手の正体を見極め、弱点を突いて倒す」
さらりと言い切ると、ぱくりと肉を口に入れた。途端に顔全体がふにゃあっとゆるむ。さっきまでの凛とした表情が嘘のようだ。
「ふぇ……お肉がとろける……おいしーい」
アメリカのレストランの常として、この店の料理は肉食主体の成人男子を基準としていた。故に量はかなり多い。
育ち盛りの風見とロイはともかく、ヨーコは食べきれるだろうかとランドールは密かに心配していた。サリーの小食ぶりから察して、この小さなレディにはいささか多すぎるのではないか、と。だが、杞憂に終わった。
前菜、サラダ、スープにパン、メインの肉料理までヨーコは気持ちいいくらいにぱくぱくと完食している。ナイフとフォークを器用に操り、服やテーブルクロスに一滴も、ひとかけらもこぼさずに。
仕事が終わってホテルの部屋に迎えに行った時、ランドールは神妙な面持ちの風見とロイに手招きされた。
『これから何が起きてもびっくりしないでくださいね?』
『ヨーコ先生にとってはきわめてフツーのことなんです。引かないであげてください』
『お願いします!』
あれはどうやら、このことを指していたらしい。
確かに旺盛な食欲に少しばかり驚いたが、長旅で体力を消耗した分、食べて補っているのだろう。いいではないか、実に何と言うか、健康的だ。
「くぅう……たまらないなぁ。もう、幸せ……」
それに、この美味しそうな表情ときたら! 顔だけではない。小さな体全身で喜びを現している。シェフに見せてやりたいと思った。
ただし。
いかにテーブルの下とは言え、足をじたばたさせるのはいただけないな。
後でそれとなく指導しておこう。
一方、風見とロイは別の意味でほっと胸をなでおろしていた。
(よかった……ランドールさん、引いてない)
(見た目と行動のギャップが有り過ぎです、先生)
「ヨーコ」
「何?」
そっと指先で口元を拭う。
「あ……ついてた」
「うん。パセリがね」
「うっかりしてた」
頬を赤らめ、目を伏せた。
彼女は行動こそダイナミックだが、よく見ると仕草の一つ一つは楚々としていて細やかだ。装えばちゃんと、それにふさわしい立ち居振る舞いで動くことのできる人なのだ。
ただし、まだ原石のきらめきた。洗練された淑女にはいささか遠い。
(これは、かなり磨きがいがありそうだ)
「失礼します。デザートをお持ちしました。こちらのケーキからお好きなのをお選びください」
「わ……あ……」
目を輝かせてワゴンに並ぶケーキを見つめている。
「うーん……苺のタルト……いや、洋梨のシブースト……あ、でもチョコレートもいいなあ………ど、どうしよう……」
にこやかにロイが言った。
「苺がいいのでは? お好きでしょう?」
「うん」
「カロリーも一番低いし、お腹にたまりマスし」
「……」
もそっとテーブルクロスの下で足の動く気配がした。
「っ」
ロイが声もなく顔をひきつらせ、椅子にこしかけたまますくみあがる。
「スミマセン、失言でした………」
「わかればよろしい」
さくっと言い捨てるとヨーコはウェイターに向かってこの上なく晴れやかに微笑みかけた。
「苺のタルトをいただけますか?」
「かしこまりました。どうぞ」
「ありがとう」
至福の表情で苺を味わうヨーコの隣で、風見がぽんぽんとロイの背中を叩いてなぐさめていた。
※ ※ ※ ※
食事を終えて、一旦部屋に引き上げる。
「さて、着替えますか……『戦闘服』に」
「はい」
「御意」
「あ、ヨーコ」
ベッドルームに向かおうとするヨーコをランドールが呼び止めた。
「はい?」
「その服を選んでくれたんだね。何となくそれが一番君に合いそうな気がしたんだ……」
「う……あ……う、うん。この感じ、好き」
「そうか。うれしいよ。また着て見せてくれるね?」
深みのあるサファイアブルーの瞳がじっと見下ろしてくる。部屋の照明のせいだろうか。瞳孔と虹彩の境目すらわからないくらい濃い、極上の青。
参ったなあ。このタイミングで言うか? これから脱ごうって時に。レストランに行く前は何も言わなかったくせに。ただにこっとほほ笑んで当然って顔して手をさしのべてきた。
一瞬、何だろうって思ったけど、『どうぞ』と言われて初めてエスコートされているんだと気づいた。
本当に、この人って……紳士なんだなあ。
自然体で。
「……うん。いいよ」
嬉しそうにうなずいてる。
おしゃれするのはきらいじゃない。自分にどんなものが似合うのかもちゃんとわかっているし、ほめられれば嬉しい。
一回こっきりのドレスアップのつもりだったけれど、また着てもいいかなと思った。
彼が喜んでくれるなら、なおさらに。
※ ※ ※ ※
「お待たせ。さ、出かけようか」
ホテルを出てランドールの車に乗り込み、下見した公園へと向かう。助手席にサリーが乗り、後部座席に風見とロイ、そしてヨーコが並んで座った。後ろがちょっとばかり窮屈だったが文句を言う人間はいなかった。
若干一名、幸せのあまり心停止寸前に陥ってる奴がいたが。
「なぜ、わざわざ外へ? ホテルの部屋からでも行けるんじゃないかい?」
「うーん確かにそれも可能ではあるんですけれど……あそこ、けっこう人の出入りが多くてざわざわしてるでしょう?」
「ドリームダイブ用に結界を、ね。浄められた空間を用意しなきゃいけないんだけど、あまり向いてなかったの」
「ベテランの術者なら繁華街の真ん中だろうと、試合中のリングサイドだろうとばしばし行けちゃうんですけどね……」
「あたしたちの場合は場所を選んだ方が確実なんだ」
「なるほど」
目的の公園の駐車場に車を停める。周囲の家には庭先にクリスマスツリーが建てられ、全体に巻かれた細いライトの灯りがちかちかと控えめにまたたいている。
町の中心部と違ってこの一角は、はしごを登る電動サンタや1/1サイズのトナカイなど、大掛かりな電飾をデコレートした家は少ないようだ。
「そう言えば今日はまだ22日なんですよね」
腕時計の時間を確かめ、風見がつぶやいた。
「不思議だなあ。俺たち、22日の夕方に日本を発ったはずなのに」
「時差で一日巻き戻ってるからね……」
車から降りたヨーコは、コートのケープだけ外して羽織っている。ケープは肘のあたりまでの長さが有り、たっぷりと上半身を覆っていた。一見赤いロングスカートに見えるのは実は巫女装束の赤い袴である。足下はさすがにブーツだが、上は当然、白い小袖だ。
「このためにケープ着てきたんですか」
「そーよ。巫女装束でホテルのロビーなんざ歩いたら」
「……目立ちますね、この上もなく」
一方、ロイと風見は来たときの動きやすさを優先した服装に戻っている。と言っても風見の羽織っている長めのダウンジャケットの下には特製のホルスターに納めた小太刀が2本。ロイの黒いコートのポケット(もちろん特製)には、祖父から借り受けたニンジャ道具一式がきっちり仕込まれている。
「それにしてもその格好、寒くナイですか、先生」
「大丈夫、ちゃんと腰にカイロ貼ってるから!」
「よーこさん、よーこさん」
「青少年の夢を壊すような発言は謹んでください……」
「冷えは女性にとっては大敵だよ、ヨーコ? 気をつけなければ」
「心配ない心配ない。袴の下にはちゃんとヒートテックも着けてるし」
「だーかーらー」
「よーこさんってば……」
街頭の灯りの中、ひっそりとたたずむ遊具の間を抜けて行く。昼間のにぎわいも、クリスマスの華やかさもここからは遠い。
しんしんと凍える夜の空気の中、昼間目星をつけた木の根元にたどり着いた。
「さて、と」
ヨーコはするりとコートをぬぎ、近くの灌木の枝にかけた。
肩にかけていた紺色のバッグ……全体に薄い青紫と白で回転木馬の模様がプリントされていた……から必要な道具を取り出して地面に並べる。
小さく切った和紙、塩の詰まったジップロック、そして透明な液体を満たした小さなボトル。
「これは?」
「お神酒。神様にお供えしたお酒よ。実家からちょっぴりもらってきたの」
「化粧水の瓶に入れて?」
「便利よ? 軽くて丈夫だし。本当はお榊もあるといいんだけど……」
サリーが肩をすくめて小さく首を横に振った。
「植物の持ち込みになっちゃうからね」
その時、バッグの中でかすかに音楽が鳴った。短く5秒ほど。
「お」
ヨーコは携帯を取り出すと画面にさっと目を走らせ、うなずいた。
「和尚からドリームダイブの許可が降りたわ。始めましょう……風見」
「はい」
「それからロイも。手伝ってくれる?」
「ハイ」
手分けして大木の根方を中心に東西南北の四隅に盛り塩をして、神酒を注ぐ。
準備が整うと、ヨーコはバッグから鈴を取り出した。
手で握るための赤い輪に鈴のついた、まるで幼稚園のおゆうぎで使うようなベルだった。しかし、ただのベルではない。
ヨーコによって手を加えられ、略式ながらいっぱしの神具……神楽鈴に仕立てられていた。
輪の両端からは緑、黄色、朱色、青、白の五色のリボンが長くたなびき、鈴は全て神社で祈りをこめて作られた特別な金色の鈴に換えられている。
「あ……それ、”夢守りの鈴”ですね」
「そうだよ」
夢守りの鈴。サリーとヨーコの生家である結城神社で作られる護符の一つで、その音色は悪夢を退け健やかな眠りを守ると言われている。
「サクヤちゃん」
「うん」
大木の根元にサリーと二人並んで立つ。その後ろに風見とロイ、ランドールが並ぶ。
全員が位置に着いたのを確かめると、ヨーコはシャリン、と鈴を鳴らした。
「高天原に神留まり坐す皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百万神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて……」
サリーとヨーコ、微妙に高さの異なる澄んだ二人の声がよどみなくなめらかに。息づかいのタイミングさえずれることもなく祝詞を唱えて行く。
「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以て 打ち掃ふ事の如く遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ひ清め給ふ事を……」
何も見ない。確かめない。自然に口元から流れ出す声が夜の空気を震わせる。
「此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ事を 天つ神 国つ神 八百万神等ともに聞し食せと白す……」
シャリン、と鈴が鳴る。
その瞬間、空気が変わった。
祭壇に見立てた木を中心に見えない波が走り抜ける。波の通り過ぎた空間は清々しくて、まるで神社の境内か教会の聖堂の中にでもいるような……しん、と張りつめた中にもどこか安らぐ静けさに満たされていた。
唱え終わると二人は腰を屈め、腿のあたりまで手がくるほど深い礼を二回。
それから胸の前に両手を掲げ、ぱん、ぱん、と二回拍手。
風見とロイもこれに倣う。
ランドールは少しだけ首をかしげていたが、見よう見まねで後に続いた。
それから再度礼をして、体を起こす。
「……みんな、いい? 行くよ?」
「いつでも……」
「了解デス」
「Yes,Ma'am」
しゃん、しゃらり、しゃりん。
(チリン、チリリ、チリン)
ヨーコの鳴らす鈴の音と。今この瞬間、飼い主にぴたりと寄り添う白い子猫の身につけた鈴が共鳴して行く。
りん。
(リン)
りん。
(リン)
りん(リン)。
夢と現の境が揺らぎ、道が開いた。
次へ→【ex8-8】対決!
「あれ、ホテル通り過ぎちゃったんじゃ……」
「うん、どうせだからダイブするための場所も『下見』しとこうと思って」
「なるほど」
「よさそうな場所、見つけておいたよ」
サリーは一行を住宅街の一角にある公園へと案内した。寒さと乾燥に強い芝生は真夏ほどではないものの、まだ緑を色濃く残してふかふかと生い茂り、木々の中であるものは葉を落とし、またあるものはつやつやと堅い丈夫な葉を広げている。
「……どう、ここ?」
ヨーコは公園の中を歩き回る。滑り台に回転シーソー、ブランコ、砂場、ジャングルジム、プラスチックのちっちゃなロッキンホース。
遊具の間を通り過ぎ、大きな木の根元で足を止めた。
「うん、いいね。使えそう」
すっとまぶたを細めて梢を見やる。
青い空をひび割れのように縁取る枝を透かして、ほど近い場所に6F建てのマンションがそびえていた。
※ ※ ※ ※
「ビビか。小さい頃聞いたことがあるよ」
夜。
ホテルの最上階のレストランは「シティスケープ」の名にふさわしく壁の一面がほぼガラス張りの窓になっていて、眼下にはサンフランシスコの町の灯火が夜空に散った宝石さながらにきらめいている。
ことにクリスマス前のこの時期はイルミネーションがチカチカと。一般家庭のものから街の広場、デパートの大掛かりなものまでいたる所で輝きを添えている。
「ああ、カルのお母様はルーマニアの出身ですものね」
「うむ。赤い服を着て子どもと母親を狙う魔女の話を、ね……ベッドに早く入らせるための方便かとも思ったが、今思えばあれは多分」
「用心させるために知識を伝えてたのかもしれないわね?」
「そうなんだ。小さい頃の私は……人の目には見えないモノが見えていた。大人になってからはそんなことも少なくなって、夢だったんだろうと思っていたよ」
ランドールはほのかにほほ笑むと、テーブルに並んだ一同の顔を見渡した。
ストライプのダークグレイのスーツに赤いネクタイをしめた風見と、黒いスーツに青のクロスタイをしめたロイ。そして見覚えのある濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締めたサリーと、その隣にちょこんと座ったヨーコ……
『Hey,Mr.ランドール!』
『乗せていただける? 緊急事態なの』
8月のあの日、彼女に呼び止められたのが全ての始まりだった。
「君たちに会うまでは、ね」
にまっとほほ笑むとヨーコはグラスを軽く掲げた。
背の高いフルートグラスの中身は炭酸入りのミネラルウォーター。底から立ちのぼる細かな泡に包まれて、薄切りのライムがひとひら浮いている。
この後に大事が控えているのだ。お楽しみは事件解決後の祝杯までとっておこう。
「正確にはビビ『そのもの』ではないかもしれないの。形すら定かではなかったもやもやっとした存在が、取り憑いた犠牲者の記憶とイメージを吸収して次第に確固たる恐怖に形を変えて行き、やがては現実をも浸食する力を持つに至る……それが『悪夢』(ナイトメア)」
サリーがうなずき、後を続ける。
「具現化したナイトメアは手強い。けれど悪いことばかりでもないんです。取り込んできた伝承の『規則』にも縛られるから」
「伝承にあるのと同じ固有の弱点を持つと言うことだね?」
「その通り! あたしたちの力は万能でもないし無限でもない。だからこうしてチームを組むの。あ、風見、塩とってくれる?」
「どうぞ」
「サンキュ」
軽く料理に塩を振り、ソースの味を調整している。
「力を合わせて、互いに足りない所を補って……」
ヨーコは手にしたナイフで器用に皿の上の肉を一口ぶん、さくっと切り取った。鮮やかな手つきでカチャリとも音を立てずに。
「相手の正体を見極め、弱点を突いて倒す」
さらりと言い切ると、ぱくりと肉を口に入れた。途端に顔全体がふにゃあっとゆるむ。さっきまでの凛とした表情が嘘のようだ。
「ふぇ……お肉がとろける……おいしーい」
アメリカのレストランの常として、この店の料理は肉食主体の成人男子を基準としていた。故に量はかなり多い。
育ち盛りの風見とロイはともかく、ヨーコは食べきれるだろうかとランドールは密かに心配していた。サリーの小食ぶりから察して、この小さなレディにはいささか多すぎるのではないか、と。だが、杞憂に終わった。
前菜、サラダ、スープにパン、メインの肉料理までヨーコは気持ちいいくらいにぱくぱくと完食している。ナイフとフォークを器用に操り、服やテーブルクロスに一滴も、ひとかけらもこぼさずに。
仕事が終わってホテルの部屋に迎えに行った時、ランドールは神妙な面持ちの風見とロイに手招きされた。
『これから何が起きてもびっくりしないでくださいね?』
『ヨーコ先生にとってはきわめてフツーのことなんです。引かないであげてください』
『お願いします!』
あれはどうやら、このことを指していたらしい。
確かに旺盛な食欲に少しばかり驚いたが、長旅で体力を消耗した分、食べて補っているのだろう。いいではないか、実に何と言うか、健康的だ。
「くぅう……たまらないなぁ。もう、幸せ……」
それに、この美味しそうな表情ときたら! 顔だけではない。小さな体全身で喜びを現している。シェフに見せてやりたいと思った。
ただし。
いかにテーブルの下とは言え、足をじたばたさせるのはいただけないな。
後でそれとなく指導しておこう。
一方、風見とロイは別の意味でほっと胸をなでおろしていた。
(よかった……ランドールさん、引いてない)
(見た目と行動のギャップが有り過ぎです、先生)
「ヨーコ」
「何?」
そっと指先で口元を拭う。
「あ……ついてた」
「うん。パセリがね」
「うっかりしてた」
頬を赤らめ、目を伏せた。
彼女は行動こそダイナミックだが、よく見ると仕草の一つ一つは楚々としていて細やかだ。装えばちゃんと、それにふさわしい立ち居振る舞いで動くことのできる人なのだ。
ただし、まだ原石のきらめきた。洗練された淑女にはいささか遠い。
(これは、かなり磨きがいがありそうだ)
「失礼します。デザートをお持ちしました。こちらのケーキからお好きなのをお選びください」
「わ……あ……」
目を輝かせてワゴンに並ぶケーキを見つめている。
「うーん……苺のタルト……いや、洋梨のシブースト……あ、でもチョコレートもいいなあ………ど、どうしよう……」
にこやかにロイが言った。
「苺がいいのでは? お好きでしょう?」
「うん」
「カロリーも一番低いし、お腹にたまりマスし」
「……」
もそっとテーブルクロスの下で足の動く気配がした。
「っ」
ロイが声もなく顔をひきつらせ、椅子にこしかけたまますくみあがる。
「スミマセン、失言でした………」
「わかればよろしい」
さくっと言い捨てるとヨーコはウェイターに向かってこの上なく晴れやかに微笑みかけた。
「苺のタルトをいただけますか?」
「かしこまりました。どうぞ」
「ありがとう」
至福の表情で苺を味わうヨーコの隣で、風見がぽんぽんとロイの背中を叩いてなぐさめていた。
※ ※ ※ ※
食事を終えて、一旦部屋に引き上げる。
「さて、着替えますか……『戦闘服』に」
「はい」
「御意」
「あ、ヨーコ」
ベッドルームに向かおうとするヨーコをランドールが呼び止めた。
「はい?」
「その服を選んでくれたんだね。何となくそれが一番君に合いそうな気がしたんだ……」
「う……あ……う、うん。この感じ、好き」
「そうか。うれしいよ。また着て見せてくれるね?」
深みのあるサファイアブルーの瞳がじっと見下ろしてくる。部屋の照明のせいだろうか。瞳孔と虹彩の境目すらわからないくらい濃い、極上の青。
参ったなあ。このタイミングで言うか? これから脱ごうって時に。レストランに行く前は何も言わなかったくせに。ただにこっとほほ笑んで当然って顔して手をさしのべてきた。
一瞬、何だろうって思ったけど、『どうぞ』と言われて初めてエスコートされているんだと気づいた。
本当に、この人って……紳士なんだなあ。
自然体で。
「……うん。いいよ」
嬉しそうにうなずいてる。
おしゃれするのはきらいじゃない。自分にどんなものが似合うのかもちゃんとわかっているし、ほめられれば嬉しい。
一回こっきりのドレスアップのつもりだったけれど、また着てもいいかなと思った。
彼が喜んでくれるなら、なおさらに。
※ ※ ※ ※
「お待たせ。さ、出かけようか」
ホテルを出てランドールの車に乗り込み、下見した公園へと向かう。助手席にサリーが乗り、後部座席に風見とロイ、そしてヨーコが並んで座った。後ろがちょっとばかり窮屈だったが文句を言う人間はいなかった。
若干一名、幸せのあまり心停止寸前に陥ってる奴がいたが。
「なぜ、わざわざ外へ? ホテルの部屋からでも行けるんじゃないかい?」
「うーん確かにそれも可能ではあるんですけれど……あそこ、けっこう人の出入りが多くてざわざわしてるでしょう?」
「ドリームダイブ用に結界を、ね。浄められた空間を用意しなきゃいけないんだけど、あまり向いてなかったの」
「ベテランの術者なら繁華街の真ん中だろうと、試合中のリングサイドだろうとばしばし行けちゃうんですけどね……」
「あたしたちの場合は場所を選んだ方が確実なんだ」
「なるほど」
目的の公園の駐車場に車を停める。周囲の家には庭先にクリスマスツリーが建てられ、全体に巻かれた細いライトの灯りがちかちかと控えめにまたたいている。
町の中心部と違ってこの一角は、はしごを登る電動サンタや1/1サイズのトナカイなど、大掛かりな電飾をデコレートした家は少ないようだ。
「そう言えば今日はまだ22日なんですよね」
腕時計の時間を確かめ、風見がつぶやいた。
「不思議だなあ。俺たち、22日の夕方に日本を発ったはずなのに」
「時差で一日巻き戻ってるからね……」
車から降りたヨーコは、コートのケープだけ外して羽織っている。ケープは肘のあたりまでの長さが有り、たっぷりと上半身を覆っていた。一見赤いロングスカートに見えるのは実は巫女装束の赤い袴である。足下はさすがにブーツだが、上は当然、白い小袖だ。
「このためにケープ着てきたんですか」
「そーよ。巫女装束でホテルのロビーなんざ歩いたら」
「……目立ちますね、この上もなく」
一方、ロイと風見は来たときの動きやすさを優先した服装に戻っている。と言っても風見の羽織っている長めのダウンジャケットの下には特製のホルスターに納めた小太刀が2本。ロイの黒いコートのポケット(もちろん特製)には、祖父から借り受けたニンジャ道具一式がきっちり仕込まれている。
「それにしてもその格好、寒くナイですか、先生」
「大丈夫、ちゃんと腰にカイロ貼ってるから!」
「よーこさん、よーこさん」
「青少年の夢を壊すような発言は謹んでください……」
「冷えは女性にとっては大敵だよ、ヨーコ? 気をつけなければ」
「心配ない心配ない。袴の下にはちゃんとヒートテックも着けてるし」
「だーかーらー」
「よーこさんってば……」
街頭の灯りの中、ひっそりとたたずむ遊具の間を抜けて行く。昼間のにぎわいも、クリスマスの華やかさもここからは遠い。
しんしんと凍える夜の空気の中、昼間目星をつけた木の根元にたどり着いた。
「さて、と」
ヨーコはするりとコートをぬぎ、近くの灌木の枝にかけた。
肩にかけていた紺色のバッグ……全体に薄い青紫と白で回転木馬の模様がプリントされていた……から必要な道具を取り出して地面に並べる。
小さく切った和紙、塩の詰まったジップロック、そして透明な液体を満たした小さなボトル。
「これは?」
「お神酒。神様にお供えしたお酒よ。実家からちょっぴりもらってきたの」
「化粧水の瓶に入れて?」
「便利よ? 軽くて丈夫だし。本当はお榊もあるといいんだけど……」
サリーが肩をすくめて小さく首を横に振った。
「植物の持ち込みになっちゃうからね」
その時、バッグの中でかすかに音楽が鳴った。短く5秒ほど。
「お」
ヨーコは携帯を取り出すと画面にさっと目を走らせ、うなずいた。
「和尚からドリームダイブの許可が降りたわ。始めましょう……風見」
「はい」
「それからロイも。手伝ってくれる?」
「ハイ」
手分けして大木の根方を中心に東西南北の四隅に盛り塩をして、神酒を注ぐ。
準備が整うと、ヨーコはバッグから鈴を取り出した。
手で握るための赤い輪に鈴のついた、まるで幼稚園のおゆうぎで使うようなベルだった。しかし、ただのベルではない。
ヨーコによって手を加えられ、略式ながらいっぱしの神具……神楽鈴に仕立てられていた。
輪の両端からは緑、黄色、朱色、青、白の五色のリボンが長くたなびき、鈴は全て神社で祈りをこめて作られた特別な金色の鈴に換えられている。
「あ……それ、”夢守りの鈴”ですね」
「そうだよ」
夢守りの鈴。サリーとヨーコの生家である結城神社で作られる護符の一つで、その音色は悪夢を退け健やかな眠りを守ると言われている。
「サクヤちゃん」
「うん」
大木の根元にサリーと二人並んで立つ。その後ろに風見とロイ、ランドールが並ぶ。
全員が位置に着いたのを確かめると、ヨーコはシャリン、と鈴を鳴らした。
「高天原に神留まり坐す皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百万神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて……」
サリーとヨーコ、微妙に高さの異なる澄んだ二人の声がよどみなくなめらかに。息づかいのタイミングさえずれることもなく祝詞を唱えて行く。
「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以て 打ち掃ふ事の如く遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ひ清め給ふ事を……」
何も見ない。確かめない。自然に口元から流れ出す声が夜の空気を震わせる。
「此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ事を 天つ神 国つ神 八百万神等ともに聞し食せと白す……」
シャリン、と鈴が鳴る。
その瞬間、空気が変わった。
祭壇に見立てた木を中心に見えない波が走り抜ける。波の通り過ぎた空間は清々しくて、まるで神社の境内か教会の聖堂の中にでもいるような……しん、と張りつめた中にもどこか安らぐ静けさに満たされていた。
唱え終わると二人は腰を屈め、腿のあたりまで手がくるほど深い礼を二回。
それから胸の前に両手を掲げ、ぱん、ぱん、と二回拍手。
風見とロイもこれに倣う。
ランドールは少しだけ首をかしげていたが、見よう見まねで後に続いた。
それから再度礼をして、体を起こす。
「……みんな、いい? 行くよ?」
「いつでも……」
「了解デス」
「Yes,Ma'am」
しゃん、しゃらり、しゃりん。
(チリン、チリリ、チリン)
ヨーコの鳴らす鈴の音と。今この瞬間、飼い主にぴたりと寄り添う白い子猫の身につけた鈴が共鳴して行く。
りん。
(リン)
りん。
(リン)
りん(リン)。
夢と現の境が揺らぎ、道が開いた。
次へ→【ex8-8】対決!
▼ 【ex8-8】対決!
2009/01/18 21:47 【番外】
昼の光、夜の光、何もない光。
ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、眠りと目覚めの通い路照らす。
宵闇、薄闇、木の下闇。
明け闇、夕闇、星間の闇。
漆黒、暗黒、真の黒。 夢と現つの合間に横たわる。
瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
ひと掻きごとになお深く、ひと息ごとになお暗く……。
幾重にも塗り重ねられた闇をくぐり抜け、少年の夢の中へと降りて行く。
対応が早かったこと、強い意志の力で彼が抵抗を続けてくれたこと。二つの要素がプラスに働き、悪夢の浸食は比較的浅い位置で食い止められていた。
降り立った場所は真っ白な霧に閉ざされていた。現実の霧よりもじっとりと重たく手足にまとわりつき、音さえ飲み込む真白の闇。そのただ中でさえ悪夢狩人たちはお互いの存在を感知することができた。
「……風見」
「はい」
何をすべきか。あえて言葉に出す必要はない。風見光一は自らのなすべきことをちゃんと心得ている。
白い闇の中、しゅるりとかすかに太刀の鞘走る気配がした。
「風よ走れ、《烈風》!」
ビウ!
一迅の風とともに霧の帷が切り払われ、視界がクリアになった。
「お見事」
ちぃん、と鍔鳴りの音。白い闇を払った太刀は何事もなかったように鞘の中に収まっていた。
そして、風見光一の姿は太刀を使うに相応しく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者の姿に変わっている。これが彼のドリームイメージ……夢の中で自我を保ちつつ、自在に動く時の姿なのだ。
「Hey,各々方、油断めされるな」
片やロイ・アーバンシュタインは青いニンジャスーツ(あくまで忍び装束ではなく、ニンジャ・スーツ)に額当て、手甲、脚絆に身を固め、背にはニンジャ刀を背負い、手には手裏剣を構えている。
いつもは長くのばした前髪に隠れている青い瞳がくっきりと外に現れているのが最大の違いだった。
「敵は近いでござるよ!」
言葉もニンジャっぽい……ただしちょっと間違った方向に。普段言いたいことの半分も言えずに心の中に秘めているロイだったが、その反動か夢の中では性格がはっちゃけるのだ。
「何と言うか……ずいぶんとにぎやかになるんだね、彼は」
「ああ、あれがロイのふつー」
「そう……なのか?」
「はい、ふつーなんです」
ランドールの姿もやはり変わっている。波打つ黒髪は肩につくほど長く伸び、それを赤いリボンできりっと首の後ろで結んでいる。肌の色は血管が透けて見えそうなほど青白く、犬歯が長く伸び、ハンサムな顔立ちはそのままにどこか吸血鬼めいた様相に。
身にまとっているのも黒いマント、裏地は目のさめるような赤。その下には白のドレスシャツに黒いスーツ。
一方、ヨーコの姿は現実と同じく巫女装束のまま、足下のブーツ履きも変わらない。
そしてサリーは……。
「あれ。サクヤさんまで、巫女さんになってる」
「Oh! Fantastic!」
「あ………祝詞唱えたから、つい」
自分の服装を確認して軽く頭をかく。どうやら無意識のうちに衣装を変えてしまったらしい。ヨーコが一緒だと言うのも大きかった。小さい頃から二人でこの姿で祝詞を唱え、神事に携わってきたのだから無理もない。
「いいじゃん。今夜は久しぶりに二人巫女さんしよ?」
「俺とお前でW巫女さん、ですネっ!」
「熱いなあ、ロイ」
「モチロン! 拙者はいつでも熱血エンジン全開でござるよっ」
「はいはーい、全開はわかったから……」
みし、とヨーコの手刀がロイの頭にめり込んだ。
「ちょっとばかり静かにしてもらえる?」
「御意……」
「素直な子って大好き」
実際には彼女の腕力は微々たるものでありさして威力はないのだが。日頃の条件付けが効いているのか、あるいは躾が行き届いているのか、ロイは一瞬で静かになった。
「カル! 何か『聞こえ』ない? 魔物どもはかなりうるさい音を立ててるはずよ。空気をひっかき回して羽虫みたいにわんわんと飛び回ってるから」
「……わかった」
ランドールは目を閉じると意識を集中した。
音のない白い闇の中、物理的な聴覚のみに捕われず、もう一つの感覚を呼び覚ます。
(ふ…………うぅううん。うぅん)
かすかな揺らぎを感じ取った。何体もの小さな生き物の立てる、耳障りな空気の震え。
「いた……」
すっと手を持ち上げる。黒いマントが広がり、目のさめるような裏地の赤が翻る。
「向こうだ」
「OK。行きましょう」
うなずき交わし、走り出す。
青、浅葱、黒、そして二組の白と赤。足音もなく密やかに、軽やかに。
時折不意に、ありえない場所に溝や段差、倒れた木や穴が現れる。右に左にあるいは上に。ひょいと身軽にかわして避けて、ものともせずに前に進む。
「うわっ」
急にばりばりとやかましい音を立て、巨大な木のようなものが倒れかかってきた。
風見の太刀が一閃し、まっぷたつに斬られて掻き消える。霧散する直前によく見るとそれは倒木ではなく、建物の一部らしき鉄骨だった。
「あの子の記憶の断片のようね……近い」
然り。
ゆらりと白い霞を透かして影がうごめく。
「そこだ!」
すかさずロイが手裏剣を放った。
「ギィ!」
羽虫のような小さな魔物の群れが、蚊柱さながらにわだかまっていた。中心に小さな人影が胎児のように体をまるめてうずくまっていた。小柄な少年、少しくすんだ金色の髪。
「オティア?」
しかし昼間会ったときと何と言う変わり様だろう? 骨が浮き出て見えるほどガリガリにやせ細り、手足にはいくつもの傷や痣が浮いている。紫の瞳をうつろに見開き、服が皺になるほど強く、自分の肩を抱えていた。震えていた。胸元にまたたく小さな光に顔を寄せて。
腕にも、足にも乾涸びたか細い木の根っこのようなものが絡み付いている。
周囲に群がる羽虫ども騒ぐたびに小さな白い光が輝きを増し、魔物の群れを押し返す。
だが、悪夢の包囲網は少しずつ、確実に狭められていた。
「Hey! You!」
「そこまでだ!」
ざわっと悪夢の群れに動揺が走る。ゆらりゆらりと空間が歪み、オティアと狩人たちの間を遮るようにして背の高い人影が三つ現れた。
※月梨さん画「魔女出現」
赤い長衣をまとった山羊角の魔女……ビビだ。
「出たな、親玉」
「その子を返してもらおう」
「これ以上、オティアに手出しはさせない」
ぱちくりとまばたきすると、魔女たちは5人をじとーっとねめつけた。それから顔をのけぞらせてさもバカにしたような金切り声できぃきぃがあがあがなり出す。
「ちょっとー、何これー。ジョーダンでしょ?」
「サムライに、ニンジャにドラキュラに、キモノガールが二人ぃ? ちょっと、ふざけてない?」
「こーんなのがアタシたちの邪魔しようってわけー? ちょームカつくっ」
かっくん、と5人のあごが落ちる。ヨーコは思わずこめかみを押さえた。
「…………何、このギャル系セレブみたいなストロベリーフレーバーあふれるしゃべり方」
「今までの犠牲者を通じて現代の知識や言葉を取り込んでるんでしょう」
「よくない影響受けてんなー……ま、欠片も同情するつもりはないけどね」
「右に同じく」
「以下同文でござる!」
魔女の中で一番、背の高い真ん中の一体が右手を上げ、5人を指差した。
「やっちゃえー」
わぁん、と羽虫の群れがうなりを上げて襲いかかってくる。
白い空間にまき散らされたゴミの粒、あるいは蠢く灰色の雲。その体はひび割れ、ねじくれ、ふくれあがり、現実に存在する生き物のありとあらゆるパーツを寄せ集めてねじり合わせたようだった。
まさに悪夢の産物と呼ぶにふさわしい。
「わわっ」
サリーの顔がひきつった。虫が苦手なのだ。
「サクヤちゃん、大丈夫だよ」
白い袖が翻り、小さな手が打ち振られる。
「接触する前に倒してしまえば、どうと言うことはない………行け!」
風見が前に進み出て、抜く手も見せずに太刀を走らせる。銀光一閃、解き放たれる風の刃。効果はてきめん、羽虫の群れが二分の一ほど一掃された。
「よし……」
サリーが目を閉じ、ぱしん、と両手を打ち合わせた。途端に髪の毛が逆立ち、彼の全身が青白い光に包まれる。
「うっそーっ! ちょームカつくーっ」
「しんじらんなーいっ 何、この光ーっ」
「まぶしーっ、キモーイ!」
ざわざわと悪夢の群れに動揺が走り、山羊角の魔女たちが目を押さえて後じさる……光が苦手なのだ。
バチッ!
まばゆい電光がほとばしり、羽虫の群れが完全に一掃された。
「ふぅ……」
「OK、サクヤさんGJ!」
「……ありがとう」
「油断するな、親玉が来るぞ」
次へ→【ex8-9】対決!!
ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、眠りと目覚めの通い路照らす。
宵闇、薄闇、木の下闇。
明け闇、夕闇、星間の闇。
漆黒、暗黒、真の黒。 夢と現つの合間に横たわる。
瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
ひと掻きごとになお深く、ひと息ごとになお暗く……。
幾重にも塗り重ねられた闇をくぐり抜け、少年の夢の中へと降りて行く。
対応が早かったこと、強い意志の力で彼が抵抗を続けてくれたこと。二つの要素がプラスに働き、悪夢の浸食は比較的浅い位置で食い止められていた。
降り立った場所は真っ白な霧に閉ざされていた。現実の霧よりもじっとりと重たく手足にまとわりつき、音さえ飲み込む真白の闇。そのただ中でさえ悪夢狩人たちはお互いの存在を感知することができた。
「……風見」
「はい」
何をすべきか。あえて言葉に出す必要はない。風見光一は自らのなすべきことをちゃんと心得ている。
白い闇の中、しゅるりとかすかに太刀の鞘走る気配がした。
「風よ走れ、《烈風》!」
ビウ!
一迅の風とともに霧の帷が切り払われ、視界がクリアになった。
「お見事」
ちぃん、と鍔鳴りの音。白い闇を払った太刀は何事もなかったように鞘の中に収まっていた。
そして、風見光一の姿は太刀を使うに相応しく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者の姿に変わっている。これが彼のドリームイメージ……夢の中で自我を保ちつつ、自在に動く時の姿なのだ。
「Hey,各々方、油断めされるな」
片やロイ・アーバンシュタインは青いニンジャスーツ(あくまで忍び装束ではなく、ニンジャ・スーツ)に額当て、手甲、脚絆に身を固め、背にはニンジャ刀を背負い、手には手裏剣を構えている。
いつもは長くのばした前髪に隠れている青い瞳がくっきりと外に現れているのが最大の違いだった。
「敵は近いでござるよ!」
言葉もニンジャっぽい……ただしちょっと間違った方向に。普段言いたいことの半分も言えずに心の中に秘めているロイだったが、その反動か夢の中では性格がはっちゃけるのだ。
「何と言うか……ずいぶんとにぎやかになるんだね、彼は」
「ああ、あれがロイのふつー」
「そう……なのか?」
「はい、ふつーなんです」
ランドールの姿もやはり変わっている。波打つ黒髪は肩につくほど長く伸び、それを赤いリボンできりっと首の後ろで結んでいる。肌の色は血管が透けて見えそうなほど青白く、犬歯が長く伸び、ハンサムな顔立ちはそのままにどこか吸血鬼めいた様相に。
身にまとっているのも黒いマント、裏地は目のさめるような赤。その下には白のドレスシャツに黒いスーツ。
一方、ヨーコの姿は現実と同じく巫女装束のまま、足下のブーツ履きも変わらない。
そしてサリーは……。
「あれ。サクヤさんまで、巫女さんになってる」
「Oh! Fantastic!」
「あ………祝詞唱えたから、つい」
自分の服装を確認して軽く頭をかく。どうやら無意識のうちに衣装を変えてしまったらしい。ヨーコが一緒だと言うのも大きかった。小さい頃から二人でこの姿で祝詞を唱え、神事に携わってきたのだから無理もない。
「いいじゃん。今夜は久しぶりに二人巫女さんしよ?」
「俺とお前でW巫女さん、ですネっ!」
「熱いなあ、ロイ」
「モチロン! 拙者はいつでも熱血エンジン全開でござるよっ」
「はいはーい、全開はわかったから……」
みし、とヨーコの手刀がロイの頭にめり込んだ。
「ちょっとばかり静かにしてもらえる?」
「御意……」
「素直な子って大好き」
実際には彼女の腕力は微々たるものでありさして威力はないのだが。日頃の条件付けが効いているのか、あるいは躾が行き届いているのか、ロイは一瞬で静かになった。
「カル! 何か『聞こえ』ない? 魔物どもはかなりうるさい音を立ててるはずよ。空気をひっかき回して羽虫みたいにわんわんと飛び回ってるから」
「……わかった」
ランドールは目を閉じると意識を集中した。
音のない白い闇の中、物理的な聴覚のみに捕われず、もう一つの感覚を呼び覚ます。
(ふ…………うぅううん。うぅん)
かすかな揺らぎを感じ取った。何体もの小さな生き物の立てる、耳障りな空気の震え。
「いた……」
すっと手を持ち上げる。黒いマントが広がり、目のさめるような裏地の赤が翻る。
「向こうだ」
「OK。行きましょう」
うなずき交わし、走り出す。
青、浅葱、黒、そして二組の白と赤。足音もなく密やかに、軽やかに。
時折不意に、ありえない場所に溝や段差、倒れた木や穴が現れる。右に左にあるいは上に。ひょいと身軽にかわして避けて、ものともせずに前に進む。
「うわっ」
急にばりばりとやかましい音を立て、巨大な木のようなものが倒れかかってきた。
風見の太刀が一閃し、まっぷたつに斬られて掻き消える。霧散する直前によく見るとそれは倒木ではなく、建物の一部らしき鉄骨だった。
「あの子の記憶の断片のようね……近い」
然り。
ゆらりと白い霞を透かして影がうごめく。
「そこだ!」
すかさずロイが手裏剣を放った。
「ギィ!」
羽虫のような小さな魔物の群れが、蚊柱さながらにわだかまっていた。中心に小さな人影が胎児のように体をまるめてうずくまっていた。小柄な少年、少しくすんだ金色の髪。
「オティア?」
しかし昼間会ったときと何と言う変わり様だろう? 骨が浮き出て見えるほどガリガリにやせ細り、手足にはいくつもの傷や痣が浮いている。紫の瞳をうつろに見開き、服が皺になるほど強く、自分の肩を抱えていた。震えていた。胸元にまたたく小さな光に顔を寄せて。
腕にも、足にも乾涸びたか細い木の根っこのようなものが絡み付いている。
周囲に群がる羽虫ども騒ぐたびに小さな白い光が輝きを増し、魔物の群れを押し返す。
だが、悪夢の包囲網は少しずつ、確実に狭められていた。
「Hey! You!」
「そこまでだ!」
ざわっと悪夢の群れに動揺が走る。ゆらりゆらりと空間が歪み、オティアと狩人たちの間を遮るようにして背の高い人影が三つ現れた。
※月梨さん画「魔女出現」
赤い長衣をまとった山羊角の魔女……ビビだ。
「出たな、親玉」
「その子を返してもらおう」
「これ以上、オティアに手出しはさせない」
ぱちくりとまばたきすると、魔女たちは5人をじとーっとねめつけた。それから顔をのけぞらせてさもバカにしたような金切り声できぃきぃがあがあがなり出す。
「ちょっとー、何これー。ジョーダンでしょ?」
「サムライに、ニンジャにドラキュラに、キモノガールが二人ぃ? ちょっと、ふざけてない?」
「こーんなのがアタシたちの邪魔しようってわけー? ちょームカつくっ」
かっくん、と5人のあごが落ちる。ヨーコは思わずこめかみを押さえた。
「…………何、このギャル系セレブみたいなストロベリーフレーバーあふれるしゃべり方」
「今までの犠牲者を通じて現代の知識や言葉を取り込んでるんでしょう」
「よくない影響受けてんなー……ま、欠片も同情するつもりはないけどね」
「右に同じく」
「以下同文でござる!」
魔女の中で一番、背の高い真ん中の一体が右手を上げ、5人を指差した。
「やっちゃえー」
わぁん、と羽虫の群れがうなりを上げて襲いかかってくる。
白い空間にまき散らされたゴミの粒、あるいは蠢く灰色の雲。その体はひび割れ、ねじくれ、ふくれあがり、現実に存在する生き物のありとあらゆるパーツを寄せ集めてねじり合わせたようだった。
まさに悪夢の産物と呼ぶにふさわしい。
「わわっ」
サリーの顔がひきつった。虫が苦手なのだ。
「サクヤちゃん、大丈夫だよ」
白い袖が翻り、小さな手が打ち振られる。
「接触する前に倒してしまえば、どうと言うことはない………行け!」
風見が前に進み出て、抜く手も見せずに太刀を走らせる。銀光一閃、解き放たれる風の刃。効果はてきめん、羽虫の群れが二分の一ほど一掃された。
「よし……」
サリーが目を閉じ、ぱしん、と両手を打ち合わせた。途端に髪の毛が逆立ち、彼の全身が青白い光に包まれる。
「うっそーっ! ちょームカつくーっ」
「しんじらんなーいっ 何、この光ーっ」
「まぶしーっ、キモーイ!」
ざわざわと悪夢の群れに動揺が走り、山羊角の魔女たちが目を押さえて後じさる……光が苦手なのだ。
バチッ!
まばゆい電光がほとばしり、羽虫の群れが完全に一掃された。
「ふぅ……」
「OK、サクヤさんGJ!」
「……ありがとう」
「油断するな、親玉が来るぞ」
次へ→【ex8-9】対決!!
▼ 【ex8-9】対決!!
2009/01/18 21:50 【番外】
3体の魔女が地を蹴って宙に飛ぶ。岩山を飛び歩く山羊さながらに、3つの方向から襲いかかってきた。
「そこ!」
びしっと指差すサリーの指先から細い電光がほとばしり、真っ向から魔女の胸を貫いた。
「ギィヤアアア」
ばちばちと強烈な電撃に当てられ、青白い光に包まれて、魔女は苦悶の表情で身をよじる。
「あわ、あわわわ、しび、しびれるううう。このっ、キモノガール、よくもやったわねっ」
ずだぼろになりながらも角を振り立て、爪をひらめかせてサリーにつかみかかろうとした。
が。
「ガウ!」
子牛ほどもある狼が飛びかかり、のど笛にくらいつく。
天敵のひと噛みに山羊角の魔女は悶絶し、耳障りな絶叫を残して地に倒れた。
「グルルル……」
狼は容赦なく倒れた魔女にのしかかり、のどを締め上げる顎に力を入れた。ぽっかりと開いたうつろな目から黒い霧が二筋ゆらゆらと立ちのぼり、枯れ木のような指が空中をかきむしる。
「グゥワウ」
ぼきっと骨の砕ける音がして魔女の体が痙攣し、動かなくなった。
ピクリとも動かなくなった赤い塊から顔を上げる狼にサリーが呼びかける。
「ありがとう、ランドールさん」
狼の足下には、ランドールがさっきまで身につけていた衣服が抜け殻のようにそっくり脱げ落ちていた。
「……また、脱げちゃったんだ………」
「キュウン」
きまり悪そうに耳を伏せ、ぱたぱたと尻尾を振った。
仲間が倒れるのを見るや、魔女の一人は角を振り立てて頭から突っ込んできた。
「よーっくも妹をやったわねっ! アンタらちょームカつくーっ」
ドカカカカッ!
横合いから手裏剣が飛んできて、魔女の体に縦一列に突き立った。
「ひぎっ」
勢いがそがれたところに風見が切り掛かる。赤い衣に包まれた胴体を、無造作にも見える太刀筋でざっと一なぎ。問答無用、電光石火、横一文字に切り捨てた。
傷口からおびただしい黒い霧が吹き出し、魔女はカサカサに乾涸びて倒れ伏す。
「風神流居合…『風断ち』(かぜたち)」
ぱちりと刀を収めると風見は顔をほころばせて相棒を見上げ、ぐっと拳を握り親指を立てた。
「さんきゅ、ロイ!」
「グッジョブでござる、コウイチ!」
白い歯をきらめかせて金髪ニンジャは爽やかにサムズアップを返した。
「くぅう、こいつら、強い、強いよ……」
最後に残った一体は無駄にぴょんぴょんとそこらを跳ね回っている。隙をうかがっているのか、あるいは単にうろたえているのか。
「どうやら、残ったのはあなただけみたいね」
跳ね回る魔女に向かってヨーコがびしっと人差し指をつきつけた。
「いたいけな子どもに取り憑き、あまつさえその家族すら毒牙にかけんともくろむとは断じて許しがたし。結城神社の名にかけて、きちっとお祓いしてさしあげるわ!」
「よーこさん、よーこさん」
「何、サクヤちゃん?」
「そう言うときって神様のお名前をあげるのが筋ってもんじゃないかなあ」
「………タケミキャヅチ………タケミカジュチ………タケミ」
「はいはい、噛んじゃうのね」
「うん」
ちらっと山羊角の魔女はヨーコの様子をうかがった。
武器、持ってない。えらそうにしてるけど、あの嫌なビリビリする光も出さない。牙も爪もない。何より一番、小さい。
「こいつが一番弱い!」
高々と空中に跳ね上がり、一気に鋭角に突っ込んできた。
「角で引っ掛けてぇえええ、ざっくり血祭りぃいいいいいいいい!」
ヨーコは逃げない。避けようともしない。ただ右手をまっすぐに伸ばし、開いた手を握っただけ。
手のひらの中にチカっと銀色の光がひらめき、一瞬ではっきりした形になる。
二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観の中折れ式の小型拳銃。それはロイの祖父の用意してくれたものに比べるといささか古びていて、グリップの所に目立つ傷が一筋、斜めに走っていた。
「ぎ?」
慌てて魔女は方向転換を試みるが今更止まれる訳がない。
真っ正面から向き合った状態、至近距離でぴたりと狙いをつけられる。
BANG!
轟音一発ボツっと魔女の額に穴が空き、後頭部に銃弾が突き抜ける。
頭を射ち抜かれ、衝撃でもんどりうって倒れた体からじゅわじゅわと黒い霧が立ちのぼった。
「……当たりに来てくれてありがとう」
にやりと笑うとヨーコはくるりと銃をスピンさせ、元の場所へと戻した。
はるか日本の自分の部屋の、秘密の隠し場所へ………夢の中では、物理的な距離は関係ないのだ。
魔女は倒れた。
しかし、彼女たちの残した悪夢の檻は未だに生きている。少年の心の闇に巣食い、なおもその根を伸ばして彼を絡み取ろうとしている。
「先生、オティアが!」
「いけない。あの子をこっちに誘導しなきゃ……」
乾涸びた影の根で編まれた檻の中に居る限り、彼の意識は漂い続ける。繰り返し再生される過去の陰惨な記憶の中を。
現に今、この瞬間もオティアの力を吸収し、ざわざわと地面の底から新たな羽虫の群れがわき出しつつあった。
「何か……安心できるイメージを……」
「わかった。ヨーコさん、手伝って」
「うん」
サリーとヨーコは寄り添い、手をとりあった。
風見とロイ、そして狼に変身したカルは二人の巫女を守るために進み出て、羽虫の群れを迎え撃つ。
「あの子が安心できる場所を……」
瞳を閉じて念じる。二人の記憶の中にある場所に意識を重ねて印象を呼び覚まし、思い浮かべる。
あの場所に何があっただろう。何が聞こえただろう。空気の質感、温度、ただようにおい、そこにいるはずの人たちの顔、声、気配。
淡い金色の光が重ねた手のひらから広がり、白い袖、緋色の袴がふわりと舞い上がる。
あたたかな空気の流れに沿って光の粒が細かく舞い散り、一つの部屋の形を成して行く。
どっしりした木の食卓。北欧産のオーダーメイドの一点もの、材料はウォールナットの無垢材。
キッチンと食堂の間はオープン式のカウンターで区切られ、台所からはあたたかな湯気が漂って来る。
食卓の上には食器と皿が並べられ、誰かが来るのを待っていた。
その間にも羽虫の群れがうなりを立てて押し寄せていた。明らかに焦っていた。後から後からわき出し、数を頼みになりふり構わず二人を止めようとしていた。
しかし捨て身の攻撃も閃く太刀と正確無比に射たれる手裏剣、力強い牙と爪に削ぎ取られ、阻まれる。
サリーが目を開き、少年の名前を呼んだ。
「オティア!」
ぴくりと少年が身を震わせた。
「おいで、オティア」
きょろきょろと周囲を見回し、立ち上がった……ごく自然な動きで。夢魔の編んだ影の檻が、ばらばらにほどけて崩れ落ちる。だが、まだ完全には消えていない。
地面の上で芋虫のようにのたうち回りながらオティアめがけて這いよろうとしていた。
急がないと……
「オティア!」
(オティア)
「オティア!」
(オティア)
鈴を振るようなサリーの声にもう一つ、だれかの声が重なり響く。よく通るバリトン、だが名前を構成する音の一つ一つにまで包み込むような温かさがにじむ。
「オティア」
(オティア!)
オティアが歩き出した。
最初はぎこちなくゆっくりと。
檻の名残りが弱々しく足首に絡み付いた。
「オティア!」
(オティア!)
すっと一歩、迷いのない動きで前に出る。まとわりつく檻の名残りを苦もなく振り切って、ふわふわと寄り添い飛び回る白い光を従えて。
一歩、また一歩と着実に早さを増し、まっすぐに歩いて来る。
食卓に向かって。
もう少し………。
(オティア!)
食卓にたどり着くと、彼は迷わず椅子の一つに向かって歩いて行く。そこは彼のために用意された場所だった。
いつでも彼を迎え入れてくれる。
わずかに。
ほんのわずかにオティアの顔がほころんだ。それは、こわばりが抜けた程度のささやかな変化でしかなかったけれど……。
その瞬間、秋の日だまりにも似た柔らかな金色の翼が広がり、少年を迎え入れた。
オティアの姿が変わって行く。さっきまでやせ衰え、ぼろぼろの薄い服をまとっただけだったが今は見違えるようにふっくらして……あたたかそうな青いセーターを着ていた。
(お帰り)
ふわりと赤い髪がゆれ、だれかが笑いかけた。小さな白い光を抱きしめて、金色の翼に包まれて、オティアの姿は徐々に薄れ、食堂のイメージとともに光の中へととけ込んでいった。
同時に羽虫の群れの発生もようやく止まる。
ふう、と息を吐くとヨーコも目を開けた。
「……今の赤い髪の天使、投影したの誰?」
「……俺じゃないよ?」
「俺も、応戦で手一杯で」
「拙者もでござる」
「じゃあ……やっぱり呼ばれちゃってたんだ、彼」
「危なかったなあ……」
「ううぬぬぬぬぬ」
ロイが拳を握って身を震わせた。
「子を思う親心に付け込むたぁふてぇ野郎です。断固許すまじ!」
「ほんと、熱いなあ、ロイ」
※ ※ ※
はっとオティアは目を開けた。毛布にくるまれ、書庫の床の上で。胸元では真っ白な子猫がうずくまっている。そしてすぐそばにディフが膝をついてのぞきこんでいた。
「……ああ、起きたか。大丈夫か?」
「ん……」
そう言えば何となく呼ばれていたような気がする。でもあの声はディフだけじゃなかったような……。
ああ、なんだかものすごくだるい。
「心配したぞ。いつもは近づいただけで起きるのに、呼んでも目、さまさないから……」
ヘーゼルブラウンの瞳がじっと見下ろして来る。
のろのろとうなずく。
もう大丈夫だから。
今はただ、眠いだけだから。
ディフがうなずいた。
口に出すのもおっくうだったが、わかってくれたようだった。目を閉じて枕に顔をつける。体の上にもう一枚毛布がかけられた。
「……おやすみ」
何があってもディフは決して自分に危害を加えない。少しばかり過保護だけど着るものや食べるものの世話をしてくれるし、今の自分にとって信頼できる雇い主だ。
だから……安心して眠っていいのだと思った。
※ ※ ※ ※
一方、夢の中では一仕事終えたハンターたちが後片付けをしていた。あちこち夢魔に食い荒らされたオティアの夢を可能な限り修復し、そこ、ここにしつこくはびこる悪夢の根っこや羽虫どもの残党を取り除く。
さっきの戦闘に比べればいたって楽な作業だ。
自然と口数も増えてくる。
「ビビの弱点、一つ見つけたね。狼に弱いんだ」
「山羊ですからね」
「わう!」
「どうして今まで気づかれなかったのかな」
「うーん、狼って欧米ではよくないモノの役割振られてるからじゃないかな。狼憑きとか、人狼(ル・ガルー)とか」
「ああ、なるほど。どっちかって言うと憑く方なんだ」
「日本だと、逆に山の神様や憑き物落としの神獣だったりするんだけどね。三峰神社とか」
「大神と書いて『おおかみ』って読む説もありますしネ」
「そうなんだ」
「ほんとカルがいて助かったわ」
ランドールは二本足ですっくと立ち上がり、胸を張って爽やかに笑みかけた。
「光栄だよ、ヨーコ」
「カル…………」
にっこりほほ笑むと、ヨーコはついっと地面に散らばる黒マントその他衣類一式を指差した。
「着なさい」
「おっと」
いそいそと服を着るランドールから四人はそっと目をそらした。行儀良く、さりげなく。
「変身のたびに全部脱げちゃうのが難点ですよね」
「何度も練習したんだけどね……現実の感覚が抜けないらしくって」
「でも、確実に狼に変身できるんですよね」
「うん、あとコウモリに」
「さすがルーマニア系」
「カル、まーだぁ?」
「もう少し…………」
5人はまだ気づかない。倒したはずの魔女の姿がじわじわと変わっていることに。
確かに倒れたときは赤い衣を着た背の高い女だった。
しかしそれが今、縮んでねじくれ、別の形に変化している。長い首、細い四本の足、よれたあごひげ、二つに割れた蹄。節くれ立った角の生えた、黒い山羊へと……。
「よし、終わったよ」
ほっと安堵の息をつくと風見とロイ、サリーとヨーコはランドールに向き直った。まだちょっと襟元が乱れたり髪の毛がくしゃくしゃだったりしているが少なくとも服は着てくれた。
「OK、それじゃあたしたちも現実に戻ろうか………」
風が吹く。
ブーーーーーーーーーーーーーフゥウウウウウウウウウウウウウウウ………………
禍々しいうめき、生臭いにおいはさながら獣の息吹。
はっと身構える間もなく地面から真っ黒な紐状の何かが走り、3人の胸を貫いた。
「うっ」
「あうっ」
「くっ」
「サクヤさんっ。先生っ」
「Mr.ランドールっ?」
びっくん、とサリーとヨーコ、ランドールの体が痙攣する。
「しまった!」
駆け寄ろうとしたその刹那、目に見えるもの、触れるもの、聞こえる音、全てが形を失い、崩壊した。
※ ※ ※ ※
「う………」
凍えるような明け方の風。頭上でざわめく木々の枝。
まちがいない。ドリームアウト……強制的に夢からはじき出されてしまったらしい。舌の上にいやな苦みが。耳の奥に鈍い衝撃が残っている。
「コウイチ……大丈夫?」
「ああ。平気だ……これしき……」
風見とロイは互いに支え合い、立ち上がった。
木を中央に、東西南北四方に盛ったはずの塩がべちょべちょに溶けてしまっている。
「結界が消失しちゃったんだ……」
「だから放り出されたんだネ」
自分の意志で抜け出したときと違って感覚の切り替えが上手く行かない。音も、視界も、触覚も、薄紙を挟んだようにどこかぎこちなく、遠い。
「そうだ! 羊子先生! サクヤさん! ランドールさん!」
夢の終わる間際、影に貫かれた三人の姿が脳裏に蘇る。
「先生! どこですか、先生!」
「かざみ……?」
灌木の茂みの向こうでよれよれと、だれかが起き上がる気配がした。
「先生っ」
「ご無事だったんですネっ」
「ロイ。お前も無事だったか!」
おかしい。確かに先生の声だけど、何だか、妙に……甲高い。裏声? こんな時に?
「あーったくあの魔女め、やってくれるよ……」
がさがさと枝葉がかき分けられ、にゅっと声の主が顔を出した。
「よーこ……せん……せい?」
「どうした。二人とも妙に背がのびたな」
「いや、そうじゃなくて」
「先生が………」
「ええっ?」
ヨーコは両手でばたばたと自分の体をなで回した。つるりん、ぺたん。って言うか腕短くなってない? え、え、え? この手は何。
むっちりした子どもの手……。
あ、動いた。
やっぱり、これ、あたしの手?
「まさか……そんな、まさか………」
「先生が、ちっちゃくなっちゃってる」
「ええーーーーーーーーーーっ」
結城羊子は子どもに戻っていた。せいぜい小学校低学年、下手すりゃまだ幼稚園かもしれない。水色のベルベットのジャンパースカートに白いタートルネックのセーター、赤い靴。この服、見覚えがある。
ちっちゃい頃お気に入りだった……。
(やられた!)
「さ……さくやちゃん? カル?」
震える声で名前を呼ぶ。自分と同じ様に影に射たれた二人を。
がさがさと茂みをかき分け、だれかが出てきた。
くせのある黒髪にネイビーブルーの瞳の男の子と、くりっとした瞳にほっそりした手足、自分そっくりの男の子。
「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」
ぱちぱちとサリーがまばたきし、すがりついてきた。
「だ……だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
抱きしめてぱたぱたと背中を撫でた。カルが不安そうにこっちを見てる。手をのばすと、両手でぎゅっと握ってきた。
「だい……じょうぶ………だから………」
声がふるえる。精一杯握り返してるはずなのに、笑っちゃうくらい力が入らない。これじゃ銃なんて射てやしない。
教え子たちはおろか、自分の身さえ守れない!
どうしよう。
泣きそうだ………。
東の空がうっすらと白くなってゆく。じきに陽が昇るだろう。だが……。
風見はかすれた声でつぶやいた。
「何てこった……3人とも、子どもにされちゃったんだ…………」
じっとりと冷たい汗が額ににじむ。
小さなヨーコと小さなサリー、そしてやっぱり小さなランドール。
ついさっきまで自分たちを導いてくれた人たちが、途方に暮れた瞳で見上げて来る。しっかり手を握り合い、おびえる小動物のようにぴったりと身を寄せ合って。
悪夢はまだ、終わらない。
(to be continued…………)
後編へ→【ex8】桑港悪夢狩り紀行(後編)
「そこ!」
びしっと指差すサリーの指先から細い電光がほとばしり、真っ向から魔女の胸を貫いた。
「ギィヤアアア」
ばちばちと強烈な電撃に当てられ、青白い光に包まれて、魔女は苦悶の表情で身をよじる。
「あわ、あわわわ、しび、しびれるううう。このっ、キモノガール、よくもやったわねっ」
ずだぼろになりながらも角を振り立て、爪をひらめかせてサリーにつかみかかろうとした。
が。
「ガウ!」
子牛ほどもある狼が飛びかかり、のど笛にくらいつく。
天敵のひと噛みに山羊角の魔女は悶絶し、耳障りな絶叫を残して地に倒れた。
「グルルル……」
狼は容赦なく倒れた魔女にのしかかり、のどを締め上げる顎に力を入れた。ぽっかりと開いたうつろな目から黒い霧が二筋ゆらゆらと立ちのぼり、枯れ木のような指が空中をかきむしる。
「グゥワウ」
ぼきっと骨の砕ける音がして魔女の体が痙攣し、動かなくなった。
ピクリとも動かなくなった赤い塊から顔を上げる狼にサリーが呼びかける。
「ありがとう、ランドールさん」
狼の足下には、ランドールがさっきまで身につけていた衣服が抜け殻のようにそっくり脱げ落ちていた。
「……また、脱げちゃったんだ………」
「キュウン」
きまり悪そうに耳を伏せ、ぱたぱたと尻尾を振った。
仲間が倒れるのを見るや、魔女の一人は角を振り立てて頭から突っ込んできた。
「よーっくも妹をやったわねっ! アンタらちょームカつくーっ」
ドカカカカッ!
横合いから手裏剣が飛んできて、魔女の体に縦一列に突き立った。
「ひぎっ」
勢いがそがれたところに風見が切り掛かる。赤い衣に包まれた胴体を、無造作にも見える太刀筋でざっと一なぎ。問答無用、電光石火、横一文字に切り捨てた。
傷口からおびただしい黒い霧が吹き出し、魔女はカサカサに乾涸びて倒れ伏す。
「風神流居合…『風断ち』(かぜたち)」
ぱちりと刀を収めると風見は顔をほころばせて相棒を見上げ、ぐっと拳を握り親指を立てた。
「さんきゅ、ロイ!」
「グッジョブでござる、コウイチ!」
白い歯をきらめかせて金髪ニンジャは爽やかにサムズアップを返した。
「くぅう、こいつら、強い、強いよ……」
最後に残った一体は無駄にぴょんぴょんとそこらを跳ね回っている。隙をうかがっているのか、あるいは単にうろたえているのか。
「どうやら、残ったのはあなただけみたいね」
跳ね回る魔女に向かってヨーコがびしっと人差し指をつきつけた。
「いたいけな子どもに取り憑き、あまつさえその家族すら毒牙にかけんともくろむとは断じて許しがたし。結城神社の名にかけて、きちっとお祓いしてさしあげるわ!」
「よーこさん、よーこさん」
「何、サクヤちゃん?」
「そう言うときって神様のお名前をあげるのが筋ってもんじゃないかなあ」
「………タケミキャヅチ………タケミカジュチ………タケミ」
「はいはい、噛んじゃうのね」
「うん」
ちらっと山羊角の魔女はヨーコの様子をうかがった。
武器、持ってない。えらそうにしてるけど、あの嫌なビリビリする光も出さない。牙も爪もない。何より一番、小さい。
「こいつが一番弱い!」
高々と空中に跳ね上がり、一気に鋭角に突っ込んできた。
「角で引っ掛けてぇえええ、ざっくり血祭りぃいいいいいいいい!」
ヨーコは逃げない。避けようともしない。ただ右手をまっすぐに伸ばし、開いた手を握っただけ。
手のひらの中にチカっと銀色の光がひらめき、一瞬ではっきりした形になる。
二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観の中折れ式の小型拳銃。それはロイの祖父の用意してくれたものに比べるといささか古びていて、グリップの所に目立つ傷が一筋、斜めに走っていた。
「ぎ?」
慌てて魔女は方向転換を試みるが今更止まれる訳がない。
真っ正面から向き合った状態、至近距離でぴたりと狙いをつけられる。
BANG!
轟音一発ボツっと魔女の額に穴が空き、後頭部に銃弾が突き抜ける。
頭を射ち抜かれ、衝撃でもんどりうって倒れた体からじゅわじゅわと黒い霧が立ちのぼった。
「……当たりに来てくれてありがとう」
にやりと笑うとヨーコはくるりと銃をスピンさせ、元の場所へと戻した。
はるか日本の自分の部屋の、秘密の隠し場所へ………夢の中では、物理的な距離は関係ないのだ。
魔女は倒れた。
しかし、彼女たちの残した悪夢の檻は未だに生きている。少年の心の闇に巣食い、なおもその根を伸ばして彼を絡み取ろうとしている。
「先生、オティアが!」
「いけない。あの子をこっちに誘導しなきゃ……」
乾涸びた影の根で編まれた檻の中に居る限り、彼の意識は漂い続ける。繰り返し再生される過去の陰惨な記憶の中を。
現に今、この瞬間もオティアの力を吸収し、ざわざわと地面の底から新たな羽虫の群れがわき出しつつあった。
「何か……安心できるイメージを……」
「わかった。ヨーコさん、手伝って」
「うん」
サリーとヨーコは寄り添い、手をとりあった。
風見とロイ、そして狼に変身したカルは二人の巫女を守るために進み出て、羽虫の群れを迎え撃つ。
「あの子が安心できる場所を……」
瞳を閉じて念じる。二人の記憶の中にある場所に意識を重ねて印象を呼び覚まし、思い浮かべる。
あの場所に何があっただろう。何が聞こえただろう。空気の質感、温度、ただようにおい、そこにいるはずの人たちの顔、声、気配。
淡い金色の光が重ねた手のひらから広がり、白い袖、緋色の袴がふわりと舞い上がる。
あたたかな空気の流れに沿って光の粒が細かく舞い散り、一つの部屋の形を成して行く。
どっしりした木の食卓。北欧産のオーダーメイドの一点もの、材料はウォールナットの無垢材。
キッチンと食堂の間はオープン式のカウンターで区切られ、台所からはあたたかな湯気が漂って来る。
食卓の上には食器と皿が並べられ、誰かが来るのを待っていた。
その間にも羽虫の群れがうなりを立てて押し寄せていた。明らかに焦っていた。後から後からわき出し、数を頼みになりふり構わず二人を止めようとしていた。
しかし捨て身の攻撃も閃く太刀と正確無比に射たれる手裏剣、力強い牙と爪に削ぎ取られ、阻まれる。
サリーが目を開き、少年の名前を呼んだ。
「オティア!」
ぴくりと少年が身を震わせた。
「おいで、オティア」
きょろきょろと周囲を見回し、立ち上がった……ごく自然な動きで。夢魔の編んだ影の檻が、ばらばらにほどけて崩れ落ちる。だが、まだ完全には消えていない。
地面の上で芋虫のようにのたうち回りながらオティアめがけて這いよろうとしていた。
急がないと……
「オティア!」
(オティア)
「オティア!」
(オティア)
鈴を振るようなサリーの声にもう一つ、だれかの声が重なり響く。よく通るバリトン、だが名前を構成する音の一つ一つにまで包み込むような温かさがにじむ。
「オティア」
(オティア!)
オティアが歩き出した。
最初はぎこちなくゆっくりと。
檻の名残りが弱々しく足首に絡み付いた。
「オティア!」
(オティア!)
すっと一歩、迷いのない動きで前に出る。まとわりつく檻の名残りを苦もなく振り切って、ふわふわと寄り添い飛び回る白い光を従えて。
一歩、また一歩と着実に早さを増し、まっすぐに歩いて来る。
食卓に向かって。
もう少し………。
(オティア!)
食卓にたどり着くと、彼は迷わず椅子の一つに向かって歩いて行く。そこは彼のために用意された場所だった。
いつでも彼を迎え入れてくれる。
わずかに。
ほんのわずかにオティアの顔がほころんだ。それは、こわばりが抜けた程度のささやかな変化でしかなかったけれど……。
その瞬間、秋の日だまりにも似た柔らかな金色の翼が広がり、少年を迎え入れた。
オティアの姿が変わって行く。さっきまでやせ衰え、ぼろぼろの薄い服をまとっただけだったが今は見違えるようにふっくらして……あたたかそうな青いセーターを着ていた。
(お帰り)
ふわりと赤い髪がゆれ、だれかが笑いかけた。小さな白い光を抱きしめて、金色の翼に包まれて、オティアの姿は徐々に薄れ、食堂のイメージとともに光の中へととけ込んでいった。
同時に羽虫の群れの発生もようやく止まる。
ふう、と息を吐くとヨーコも目を開けた。
「……今の赤い髪の天使、投影したの誰?」
「……俺じゃないよ?」
「俺も、応戦で手一杯で」
「拙者もでござる」
「じゃあ……やっぱり呼ばれちゃってたんだ、彼」
「危なかったなあ……」
「ううぬぬぬぬぬ」
ロイが拳を握って身を震わせた。
「子を思う親心に付け込むたぁふてぇ野郎です。断固許すまじ!」
「ほんと、熱いなあ、ロイ」
※ ※ ※
はっとオティアは目を開けた。毛布にくるまれ、書庫の床の上で。胸元では真っ白な子猫がうずくまっている。そしてすぐそばにディフが膝をついてのぞきこんでいた。
「……ああ、起きたか。大丈夫か?」
「ん……」
そう言えば何となく呼ばれていたような気がする。でもあの声はディフだけじゃなかったような……。
ああ、なんだかものすごくだるい。
「心配したぞ。いつもは近づいただけで起きるのに、呼んでも目、さまさないから……」
ヘーゼルブラウンの瞳がじっと見下ろして来る。
のろのろとうなずく。
もう大丈夫だから。
今はただ、眠いだけだから。
ディフがうなずいた。
口に出すのもおっくうだったが、わかってくれたようだった。目を閉じて枕に顔をつける。体の上にもう一枚毛布がかけられた。
「……おやすみ」
何があってもディフは決して自分に危害を加えない。少しばかり過保護だけど着るものや食べるものの世話をしてくれるし、今の自分にとって信頼できる雇い主だ。
だから……安心して眠っていいのだと思った。
※ ※ ※ ※
一方、夢の中では一仕事終えたハンターたちが後片付けをしていた。あちこち夢魔に食い荒らされたオティアの夢を可能な限り修復し、そこ、ここにしつこくはびこる悪夢の根っこや羽虫どもの残党を取り除く。
さっきの戦闘に比べればいたって楽な作業だ。
自然と口数も増えてくる。
「ビビの弱点、一つ見つけたね。狼に弱いんだ」
「山羊ですからね」
「わう!」
「どうして今まで気づかれなかったのかな」
「うーん、狼って欧米ではよくないモノの役割振られてるからじゃないかな。狼憑きとか、人狼(ル・ガルー)とか」
「ああ、なるほど。どっちかって言うと憑く方なんだ」
「日本だと、逆に山の神様や憑き物落としの神獣だったりするんだけどね。三峰神社とか」
「大神と書いて『おおかみ』って読む説もありますしネ」
「そうなんだ」
「ほんとカルがいて助かったわ」
ランドールは二本足ですっくと立ち上がり、胸を張って爽やかに笑みかけた。
「光栄だよ、ヨーコ」
「カル…………」
にっこりほほ笑むと、ヨーコはついっと地面に散らばる黒マントその他衣類一式を指差した。
「着なさい」
「おっと」
いそいそと服を着るランドールから四人はそっと目をそらした。行儀良く、さりげなく。
「変身のたびに全部脱げちゃうのが難点ですよね」
「何度も練習したんだけどね……現実の感覚が抜けないらしくって」
「でも、確実に狼に変身できるんですよね」
「うん、あとコウモリに」
「さすがルーマニア系」
「カル、まーだぁ?」
「もう少し…………」
5人はまだ気づかない。倒したはずの魔女の姿がじわじわと変わっていることに。
確かに倒れたときは赤い衣を着た背の高い女だった。
しかしそれが今、縮んでねじくれ、別の形に変化している。長い首、細い四本の足、よれたあごひげ、二つに割れた蹄。節くれ立った角の生えた、黒い山羊へと……。
「よし、終わったよ」
ほっと安堵の息をつくと風見とロイ、サリーとヨーコはランドールに向き直った。まだちょっと襟元が乱れたり髪の毛がくしゃくしゃだったりしているが少なくとも服は着てくれた。
「OK、それじゃあたしたちも現実に戻ろうか………」
風が吹く。
ブーーーーーーーーーーーーーフゥウウウウウウウウウウウウウウウ………………
禍々しいうめき、生臭いにおいはさながら獣の息吹。
はっと身構える間もなく地面から真っ黒な紐状の何かが走り、3人の胸を貫いた。
「うっ」
「あうっ」
「くっ」
「サクヤさんっ。先生っ」
「Mr.ランドールっ?」
びっくん、とサリーとヨーコ、ランドールの体が痙攣する。
「しまった!」
駆け寄ろうとしたその刹那、目に見えるもの、触れるもの、聞こえる音、全てが形を失い、崩壊した。
※ ※ ※ ※
「う………」
凍えるような明け方の風。頭上でざわめく木々の枝。
まちがいない。ドリームアウト……強制的に夢からはじき出されてしまったらしい。舌の上にいやな苦みが。耳の奥に鈍い衝撃が残っている。
「コウイチ……大丈夫?」
「ああ。平気だ……これしき……」
風見とロイは互いに支え合い、立ち上がった。
木を中央に、東西南北四方に盛ったはずの塩がべちょべちょに溶けてしまっている。
「結界が消失しちゃったんだ……」
「だから放り出されたんだネ」
自分の意志で抜け出したときと違って感覚の切り替えが上手く行かない。音も、視界も、触覚も、薄紙を挟んだようにどこかぎこちなく、遠い。
「そうだ! 羊子先生! サクヤさん! ランドールさん!」
夢の終わる間際、影に貫かれた三人の姿が脳裏に蘇る。
「先生! どこですか、先生!」
「かざみ……?」
灌木の茂みの向こうでよれよれと、だれかが起き上がる気配がした。
「先生っ」
「ご無事だったんですネっ」
「ロイ。お前も無事だったか!」
おかしい。確かに先生の声だけど、何だか、妙に……甲高い。裏声? こんな時に?
「あーったくあの魔女め、やってくれるよ……」
がさがさと枝葉がかき分けられ、にゅっと声の主が顔を出した。
「よーこ……せん……せい?」
「どうした。二人とも妙に背がのびたな」
「いや、そうじゃなくて」
「先生が………」
「ええっ?」
ヨーコは両手でばたばたと自分の体をなで回した。つるりん、ぺたん。って言うか腕短くなってない? え、え、え? この手は何。
むっちりした子どもの手……。
あ、動いた。
やっぱり、これ、あたしの手?
「まさか……そんな、まさか………」
「先生が、ちっちゃくなっちゃってる」
「ええーーーーーーーーーーっ」
結城羊子は子どもに戻っていた。せいぜい小学校低学年、下手すりゃまだ幼稚園かもしれない。水色のベルベットのジャンパースカートに白いタートルネックのセーター、赤い靴。この服、見覚えがある。
ちっちゃい頃お気に入りだった……。
(やられた!)
「さ……さくやちゃん? カル?」
震える声で名前を呼ぶ。自分と同じ様に影に射たれた二人を。
がさがさと茂みをかき分け、だれかが出てきた。
くせのある黒髪にネイビーブルーの瞳の男の子と、くりっとした瞳にほっそりした手足、自分そっくりの男の子。
「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」
ぱちぱちとサリーがまばたきし、すがりついてきた。
「だ……だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
抱きしめてぱたぱたと背中を撫でた。カルが不安そうにこっちを見てる。手をのばすと、両手でぎゅっと握ってきた。
「だい……じょうぶ………だから………」
声がふるえる。精一杯握り返してるはずなのに、笑っちゃうくらい力が入らない。これじゃ銃なんて射てやしない。
教え子たちはおろか、自分の身さえ守れない!
どうしよう。
泣きそうだ………。
東の空がうっすらと白くなってゆく。じきに陽が昇るだろう。だが……。
風見はかすれた声でつぶやいた。
「何てこった……3人とも、子どもにされちゃったんだ…………」
じっとりと冷たい汗が額ににじむ。
小さなヨーコと小さなサリー、そしてやっぱり小さなランドール。
ついさっきまで自分たちを導いてくれた人たちが、途方に暮れた瞳で見上げて来る。しっかり手を握り合い、おびえる小動物のようにぴったりと身を寄せ合って。
悪夢はまだ、終わらない。
(to be continued…………)
後編へ→【ex8】桑港悪夢狩り紀行(後編)