▼ 【4-13-5】それってナンパ?
客が来ると聞いた瞬間、オティアはわずかに眉をしかめた。
警官時代の友人は何人もいるけれど、ディフが夕食に招くほど親しくしている(それも自分とシエンがいるのに)相手は限られる。
(もしかして、あいつだろうか?)
「どうも、D」
「お、来たな、エリック。3号のエレベーターで上がってきてくれ。6階の一番奥の部屋だ」
インターフォンの声を聞き、確信した。
(あいつだ。サンフランシスコ市警のCSI)
何度も電話で話した相手だ。
Rが少し鼻にかかり、濁音の強い、独特の話し方。『元気?』とか『調子はどう?』とか余計なことは一切言わない。
まず自分が何者であるかを名乗り、続いて要領よく、用件を話す。急ぎの時はその旨一言添えることを忘れない。
それなりに有能だし、真面目な男なのだと言うのは分かる。普段から、探偵事務所のためにいろいろ便宜を計ってくれる相手だ。
……が。
じりっと胸の奥で苦い記憶が閃く。
あいつには結婚式の時、抜け出すのを途中で阻止されている。ことわりも無くずかずかと、自分の領域に踏み込んで来た。
のほほんとした顔の裏で、微妙に自分との距離を計りつつ、巧みに行動を封じて来た。
結果として自分は、レストランに引き返さざるを得なかった。
あいつは、黒でも白でもない。強いて言うなら、ほんのり灰色。
玄関の呼び鈴が鳴る。
シエンが迎えに出た。少し迷ってから、自分もリビングに向かった。
「どうぞ」
「ありがとう」
「コートはこっちにかけて」
「わかった」
(え?)
ほんのり灰色のCSIとシエンが親しげに話してる。結婚式の時に顔は合わせてるとは言え、ほとんど初対面のはずなのに。
他の人間の基準から見れば、あくまで普通のやり取りでしかない。だが自分から見れば……十分親しげだ。
「にう」
「わあ、美人さんだ! 名前は?」
「オーレ」
「よろしく、オーレ」
「に」
しかもこの男ときたら、オーレまで手なずけている!
オーレは足元に近づいて、ふんふんとにおいを嗅いで……ざっしざっしと登り出した。ズボンに、セーターに、容赦なくちっぽけな爪が刺さる。
さすがに慌てるだろうと思ったら。
「あ、だめだよ、オーレ降りないと」
「いや、大丈夫。慣れてるから」
肩の上で、得意げに足を踏ん張る子猫を撫でている。いい年こいた大人が、満面の笑顔で、うっとりと目まで細めて。
「ちっちゃいなあ……軽いなあ……」
「よう、エリック、来たか」
「あ、センパイ。お招きいただきありがとうございました」
ディフがにこやかに出迎えている。仕事用の顔じゃない、あれはオフタイムに、ごく親しい人間にだけ見せる顔だ。
挨拶を交わす間、オーレは尻尾をぴーんと立てて金髪眼鏡男に顔をすり寄せていた。
「……オーレ」
ぽつりと呼ぶと、ぴょん、とこっちに飛び移ってきた。
しなやかな筋肉をフルに活かした完ぺきな踏み切り。
ヒウェルなら反動でよろっとしそうな強さのはずだ。けれどこいつはビクともしない。
「わお! すごい跳躍力だね!」
にこにこして見送ってる。これくらい、余裕ってことなのか。ひょろいようで、意外にがっちりしてるらしい。警官だから、それなりに鍛えてるのか?
何だろう、このもやっとした感じは……。
※ ※ ※ ※
「あ、いいにおいだな……エビですね?」
バイキング男は遠慮せずに台所にまで入ってきた。
「ああ、エビだ。好物だろ?」
「はい! 毎日食べても飽きません」
「にゃーっ!」
「あれ、もしかして君もエビ、好き?」
「みゃう」
くすっとシエンが笑ってる。
また、腹の底がもやっとした。
招待された客の分際で、キッチンにまでずかずかと踏み込んで来るなんて。
それなのに、どうして嫌な顔一つせずに受け入れてるのか。ディフはともかく、シエンまで!
(そうだ、こいつは結婚式の時からして遠慮が無かった)
「これ、運んでおきますね?」
金髪眼鏡のバイキング野郎は、あつかましくもキッチンカウンターに鼻を突っ込み、ひょい、と小さな黄色いボウルを手にとった。
手のひらにすっぽり入るほどのミキシングボウルの中には、フリッター用のタルタルソースが満たされている。
「ありがとう」
シエンがうなずいている。
「ああ、やっぱりこれ、マルグレーテのボウルだ」
「え? これ、エリックの知ってる人が作ったの?」
「ううん、そうじゃなくてね。『マルグレーテ』って言う商品名なんだ。デンマークの女王様の名前なんだよ」
「へぇ……面白いな、キッチン用品に女王様の名前つけちゃうなんて」
「王室御用達のキッチンウェアだからね」
二人並んで食堂に歩いて行く。
話してるのは何てことない、台所道具の話題だけれど、妙に楽しげだ。
シエンは料理が好きだから、自然と道具の話にも興味を引かれたのだろう。実際、あのミキシングボウルは機能的で使いやすい。
その時。
エビを揚げるのに集中していたディフが、ひょいと顔をあげて。はっとした表情になった。
「おい、エリック、そこ!」
「はい?」
どんがらがっしゃん。
引っかかったのは足か、手か。それとも両方か。とにかく『はい』と答えた時にはもう、事は半分、為されていた。
観葉植物の鉢植えがひっくり返り、タルタルソースが食堂の床にまき散らされる。
空になったミキシングボウルがコロコロと転がり、オーレは尻尾をぼわぼわ膨らませて威嚇のポーズ。背中を丸めてそびやかし、斜めに、と、と、と、と後じさった。
エリックはぽかーんとして、空っぽになった手と、床の上の大惨事を交互に見つめている。
「鉢植え……気をつけろ、と言いたかったんだが………いや、もういい」
「手遅れ、ですね……すみません……」
シエンがだまってモップとちり取りを持って来た。
それを見てようやくバイキングはフリーズから回復し、手近の布をつかんでびったん、と床にひざまずいた。
「せめて、こぼれたとこだけでもっ」
「いいよ。被害が広がりそうだから」
「エリック」
「はい?」
「それ、雑巾じゃなくてテーブルナプキンだ……」
「あ」
時既に遅し。テーブルナプキンは、タルタルソースと鉢植えの土にまみれていた。
黙ってディフがつまみあげ、ボウルともども無造作に流しの洗い桶に突っ込んだ。
さすがに、あれをそのまま洗濯機に放り込む訳には行かない。
「オティア。隔離だ」
「OK」
すーっと貧弱なバイキングの横に歩み寄り、一言告げる。
「おっさん。こっちで座ってろ」
「キツいなぁ、俺まだ23歳なんだけど」
頭をかきながらも、エリックはオティアの後を着いてリビングに向かった。その足元をちょこまかと、白い子猫が駆け抜ける。
床の片付けを終えると、シエンは肩をすくめた。
「ソース、作り直しだね」
「いや、こうなったらケチャップとマスタードで行こう。エリックもそっちのが好きだしな」
「そうなんだ」
「ああ、あとマヨネーズな」
(また、口の端っこにつけちゃうのかな)
シエンは自分でも気づかないうちに、くすっと笑っていた。
※ ※ ※ ※
リビングに入ると、オティアはだまってソファを指し示した。
エリックが素直にそこに座る間、また何かひっくり返すんじゃないかと思うと気が抜けなかった。
オーレはぴょん、とソファの背に飛び上がり、優雅に尻尾をくねらせて往復している。
こいつが気になって仕方ないらしい。そう、目下の所、キッチンで調理中のエビよりも!
確かに見た所、猫の扱いには慣れているようだ。(サリーやMr.エドワーズほどではないが)しかも微妙に下に出て、猫の気まぐれな高慢さを満足させるやり方を心得ている。
「ほんとに可愛いお姫様だな」
「にゅ」
「うん、似合ってるね、その首輪。瞳の色にぴったりだよ」
「みう」
果たして、オーレの性格を見抜いた上でやっている事なのか。自然と行動した結果なのか。
読み切れない。
「なあ、おっさん」
「何だい?」
否定も突っ込みも、無し。さほど気にしていないのか、自分が呼ばれたと認識できれば問題ないのか。
「CSIのラボ勤務なのか?」
「いや、捜査官」
「現場に出てるのか」
「そうだよ。元はラボに居たけどね。DNAの分析担当だった」
ぴくっとオティアは眉を跳ね上げた。あれだけそそっかしいくせに、よく、そんな細かいものを扱えるもんだ。
「なかなか、テレビドラマみたくかっこよくは行かないけどね……」
右手を広げてしみじみ見下ろしている。骨組みのしっかりした、指の長い器用そうな手。血管が透けて見えるほど白い。が、決してひ弱ではない。
「滅多に銃も撃たないし……ああ、でもご飯食べる暇がないってのは本当」
その言葉を裏付けるように、ぐぎゅうっと腹が鳴った。
「やっぱ忙しいんだな」
「うん。でも好きで選んだ仕事だから」
「……で。シエンとは、どこで知り合ったんだ?」
「コーヒースタンド。相席して、一緒にコーヒーを飲んだ。彼はカフェラテ、オレはキャラメルラテ」
「コーヒーだけか」
「小エビのサンドイッチも食べたよ? シエンはスコーンかじってたな。ちまちまと……」
なるほど、つまり一緒に座って、コーヒーを飲んで、軽く食事をしたってことだ。
一緒に。
二人、一緒に。
オティアの頭の中で非常ベルが鳴り始める。
「それって、ナンパだろ」
「ナンパかな?」
わざと、声のトーンを上げた。大声ではないが、キッチンまで通るはずだ。
果たして間髪置かず、聞き慣れたバリトンが返ってきた。
「おい、今ナンパって聞こえたぞ!」
どかどかと重たい足音が響き、にゅうっとディフが顔を出す。
「言ったよな、オティア?」
黙ってそっぽを向く。
「言いました。オレはシエンをナンパしたらしいです」
「らしいって何だ、らしいって!」
こいつ、馬鹿か? 自分から白状してる。だが目的は達成した。これでディフも警戒するようになるだろう。口をへの字結んでぎろりと睨みつけている。
「ディフ」
シエンがそ、とエプロンを引っ張った。
「コーヒースタンドで、相席しただけだから」
「……そうなのか?」
「はい」
「そう……か」
ピーっと甲高い電子音が響く。オーブンの中味が焼き上がった合図だ。
ディフはじろっとエリックを睨んでから、のしのしとキッチンに戻っていった。
※ ※ ※ ※
「……ディフ」
シエンはためらいながら口を開いた。
さっき、ものすごく怖い目でエリックを睨んでいた。自分とオティアを守るためなら、ディフは相手が何者であれ容赦しない。たとえ親しい友だちでも。
(このままでは、不公平だ。彼は俺を助けてくれたのに)
「感謝祭の週末の夜に、ね……俺、あの人に会ってるんだ」
「何だって?」
「うん。ケーブルカーの駅に行く途中で、酔っぱらいに絡まれそうになって。困ってたら、エリックが助けてくれた」
「そんなことがあったのか! ああ……さぞ、怖かったろうに」
「ん、も、平気。通せんぼされただけだから」
「そうか……」
大きくうなずくと、ディフは小エビのすり身を練り合わせて、丸めて、平べったくつぶして、小さく円盤状にした。
小麦粉をはたき、溶き卵をくぐらせ、パン粉をつけて、手際良く油で揚げて行く。
「エビカツ?」
「ああ。サンドイッチに挟むのが好きなんだ」
だれの好物かは、言わずもがな。シエンはキッチンナイフをとって、クロワッサンに切れ目を入れ始めた。
オティアが戻ってくると、料理が一段階レベルアップしていた。
「ディフ、ちょっと作り過ぎだよ」
「さすがに余るか……よし、エリックに持ち帰らせよう」
「うん」
シエンはそそくさとタッパーを持ち出し、サンドイッチを詰め始めた。
(どう言うことだ?)
ディフの警戒スイッチを入れたはずなのに……知らない間に、あの金髪バイキングの人物評価が上がってる!
計画失敗。オティアはしかめっ面をして、事の成り行きを見守るしかなかった。
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