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ローゼンベルク家の食卓

【ex14-8】あなたに触れたい

2013/10/15 2:33 番外十海
 
 部屋の中には座卓が置かれている。その傍らには客用のフートン……ではなくて布団だ。普段、ベッドで寝起きしているランドールへの配慮だろうか、畳の上にマットレスを敷いて、さらにその上に厚めの敷布団を二枚重ねている。
 座卓にはA4サイズのファイルが載っていた。パソコンから打ち出した紙を綴じたものらしい。所々に漢字が混じっていて、添えられている写真はどこか見覚えのある風景だった。紙を濡らさぬよう、注意してカップを載せた盆を下ろす。
 藍色の草花の模様が入った白いカップだ。一つとって、両手で差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 ごく自然に自分の分をとり、向かい合って口に運ぶ。まず立ち昇る温かな香りと蒸気を吸い込んだ。お日さまのにおい、乾いた草原と、花の香り。温かく、湿っていて、咽の奥へと滑り降りて行く。
「いい香りだね」
「うん……藤野先生がよくいれてくれたなぁ」
 緑と黄色の混じった透き通ったお茶を口に含むと、体の中に染み透る香りが一段と強くなった。
「不思議な味だね。初めて味わうのに、懐かしさを感じる」
「あ、多分、カモミールも入ってるんじゃないかな」
「なるほど、道理で」
「……はちみつ、入れた方が良かった?」
「いや。これはこれで充分味わい深いよ」
 ランドールはくすりと小さく笑った。
「それに私はもう、子供じゃないんだよ?」
 つられてヨーコも笑顔になる。
「そうだった」
 何を固くなってたんだろう。何に脅えていたんだろう。こうして彼と向き合って、顔を見て話していると……どうして自分がこんなにもこの人に惹かれるのか、その一番根っこの部分を強く感じる。明確に言葉にはできないけど、わかる。 

「何、見てるの?」
 目線のみ、卓上のファイルに向ける。
「ああ、秘書が用意してた資料をね。せっかく日本に行くのだから、伝統的な絹織物の工房をその目で見て来るようにアポイントをとってくれたんだ。ただ一つ困ってる事があってね」
 ランドールは眉を寄せて広い肩をすくめた。けれど目元が笑っている。深刻に困っている訳ではないのだ。
「通訳の手配までは手が回らなかったらしい。どうだろう、この工房で英語が通じる人はいるのかな」
 改めてヨーコはファイルに記された工房の名前を読み上げた。見覚えがあるのも道理、よく見知った場所だった。
「あ、ここなら知ってる。うちの氏子さんだから、小さい頃はしょっちゅう遊びに行ってたよ?」
「そうなのか」
「場所も近いしね。工房では、織物の体験もできるよ?」
「ほう、素晴らしい! ぜひ体験してみたいな!」
 青い瞳をきらきらさせている。ああ、この人は本当に自分の仕事が好きなんだなあ。って言うか繊維に触れるのが。
 ごく自然に口にしていた。気負う事もなく、ただ感じるままに。
「私も一緒に行ってもいいかな。久しぶりだし」
「ありがとう、君が一緒なら心強いよ」
「……うん。通訳は、任せて」
(ありがとうって言いたいのは、私の方だ)

 資料に書かれた事に目を通しながら、自分の知識で捕捉しつつ、彼に伝えた。話した。
「綾河岸市は昔から蚕の名産地なの。綾、つまり絹織物を川船で運んだから、『綾河岸』と言う地名になったのよ」
「なるほど! この漢字にはそんな意味が秘められていたのだね!」
「ここで作っているのはツムギと言ってね。日常的に使うため、元は厚みがあって固い生地だったの。でも今は技術が進んで細い、しなやかな糸を作れるようになったから、軽くて柔らかい布になったの」
「おおう、素晴らしい!」
「小学生の時は、学校の実習で実際に蚕の繭から糸を取るのを体験させてもらったわ。もちろん商品じゃなくて体験コーナーなんだけど……」
「何と、実際に繭に手を触れて、糸を取ったのかい!」
 ランドールは頬をうっすら赤く染めて身を乗り出して来た。まるで少年だ。
「うん。細くて、しなやかで、あんなにちっちゃな繭の中に、こんなにも長い糸が詰まってるんだって驚いちゃった」
「素晴らしい! 君は生まれたてのシルクに触れたのだね……この手で。この指で」
「っ!」
 手を握られていた。うっとりとした表情で指先を見つめている。
(落ち着いて、彼が見てるのはあくまで『絹に触れた指』だから。『糸に触った』指だから!)
 必死になって言い聞かせても、ばくばくと脈打つ心臓はなかなか静まってくれない。振り払う事なんか、できるはずがない。あと一秒でも長くつないでいたいって全力で願ってるから。片手にもったハーブティをごくりと飲み干した。
(これでちょっとは、落ち着ける、はず)

「か、絣や縞模様が多いのは、昔の名残ね」
「カス……リ?」
「そう」
 カップを置いて、資料に添えられた写真を指さす。
「こっちが絣で、こっちが縞」
 がっしりした温かい手が離れて行く。ランドールは自分の指で写真に触れていた。
(ああ、やっぱりそうなるよね)
 ちょっぴり寂しい。けど、いかにも彼らしい。
「うううむむむ、何て細やかな模様だ。これはぜひ、実物をこの目で見なくては。サンプルも欲しいな」
「サンプルが欲しいのなら、コースターとかハンカチがお勧めかな。ちっちゃくて、種類がいっぱいあるから」
「なるほど、その発想はなかったよ! ただの端切れを持ち帰るよりずっといい」

 カルの細かな仕草一つ一つを飽きることなく見守った。声を聞いた。一緒にお茶を飲んでる。そんな何気ないことが楽しい。隣にいるから、すぐに触れられる。表情の変化も見られるし、黒い髪の柔らかさも、たくましい体の質量も肌で感じ取る事ができる。メールだけじゃ、電話だけじゃ伝わらない。
 ずっとこうしていられたらいいのに。
(彼も同じことを感じてくれてるんだろうか)
「その繭の糸とり体験、サリーも一緒に?」
「いいえ。学年が違うし、サクヤちゃん、虫が苦手だから」
「ああ……」

 ずっとこんな日が続くって、あの時も信じていた。

 自分たちはハンターだ。
 いつ命を落とすかわからない。次にまた会えるかも定かじゃない。
 九月には三上さんにプロポーズの返事をしなきゃいけない。
 それまでにカルと直接会えるのは、多分これが最後のチャンスだ。
(振ってわいた、予想外のチャンス。まるで夢のよう。いっそ会えないままならば、迷わずにいられたのに)
(何であなたは今、私の目の前にいるの? 夢でも幻でもない、生きた現実の肉体をそなえて……)
 目の奥から温かい雫がにじみ、ぽろっと零れる。

「ヨーコ?」
「あれ? あれれ?」
「どうかしたのかい?」
「な、何でもない」
「何でもないはずがないだろう! 言ってくれ」

 一度綻びた感情が収まらない。何故泣くのか、聞かれても答えられない。声が詰まる。どうしよう、カルが困ってる。眉を寄せて、首をかしげてる。いけない。困らせてはいけない。
(どうしよう。何だかもう、色々と我慢できない)
 戸惑うランドールに静かに抱きついた。拒まれはしなかった。太いがっしりした腕が背中に回され、ゆっくりと抱きしめられる。
(ほんと、どこまで優しい人なんだろう……)
 その瞬間、揺らいでいた心が決まった。
 今だけは、そこにつけ込もう。狡い女。悪い女になろう。今だけは。

「一度だけでいいの……お願い」
 それが何を意味するのか。聞き返すほど彼は子供ではなかった。はずなんだけど!
「何を?」
「………言わせる?」
「言ってくれ、でなきゃわからない」
(あああああああっ、言うの? 言わないといけないのっ!)
 すさまじい羞恥が腹の底からわき起こり、全身の細胞一つ一つを焼き尽くす。でもここまできたら引き返せない。前に出るしかない!
 意を決してヨーコは強ばる口を無理矢理開いた。
「う………だから、その……」
「その?」
「あなたと、したいの」
「何を?」
「っ、だ……だ……」
 肝心要のひと言は、クシャミでもするみたいにぽろっと口からこぼれ落ちた。
「抱いて。抱っことか添い寝とかそう言う意味じゃなくて。性的に!」
「性的にっ」
「性的に。あなたと一つに……なりたい……の」
 消え入りそうな声で。真っ赤になって。それだけ言い終えるとへにゃへにゃと体の力が抜けてしまった。
「も……だめぇ……」

 へなへなと崩れ落ちるヨーコをランドールは慌てて抱き留めた。言われた事の意味がばらばらになって頭の中で渦を巻いている。
「何故」
「そ、それはっ」
 ぽろっと涙がこぼれ落ちる。口を震わせ、何度も咽を詰まらせながらヨーコは必死で声を絞り出した。
「わ、私たちはハンターだから……いつ、何が起きるかわからない。いつか。いつか、私かあなたか、あるいは両方が倒れてしまうか、わからないじゃない」
 言葉の繋げ方も使い方も滅茶苦茶だ! 彼女にしては珍しい。だが言わんとする事は伝わってくる。
 言葉の繋ぎになんか気が回らない程動揺してるのだろう。白く細い咽がひっきりなしに震えている。うつむいていて顔はよく見えない。だが小さな指が借り物の浴衣にすがりつき、握りしめてくる。柔らかな生地に皴が寄り、布のすき間に手の熱さがこもる。
「逃げても悪夢は追ってくる。自分自身の恐怖からは絶対に、逃げられない……だから、だからっ」
 ず………っと鼻をすする気配がした。声はすっかり水を含んでくぐもっている。
「今日、会えるなんて思ってもみなかった。あなたと偶然会えて、家に泊まるなんて、ものすごい幸運。だから余計に思ってしまうの。次もまた、元気で会えるとは限らないって」
 次もまた、元気で。
 いつ倒れるか分からない。
 二つの言葉が互いに響きあい、あまりに厳しい現実を示す。
「……み、みっともないってわかってるんだけど止まらなくってっ」

 ランドールは戸惑っていた。
 こんなにも弱さをむきだしにした姿に、胸が高鳴るのは何故だ。不覚にも程がある。不謹慎きわまりないじゃないか!
 だが同時に、あのヨーコが。いつも凛として危機に怯まず、冷静に仲間を率いる勇敢なヨーコが、ここまでよれよれになった弱い姿をさらしている。その事実に驚くと同時に感じてもしまうのだ………嬉しいと。
「一度だけでいいの……お願い……」
 つつましく袖で顔を拭いながら肩を震わせ、すがりつく彼女の何と愛らしい事か。
「それだけで私、この先ずっと生きて行ける」
 ここまで来ると、何を求められているのか、さしものど天然にもわかってしまった。
 一度理解してしまったら、体のありとあらゆる感覚を通して入ってくる情報の多さに。
 その一つ一つの意味する事実に気付いてしまう。
 嗅覚……甘い。ひたすら甘い。滴る涙の一滴までもがねっとりと頭の中に忍び込み、まといつくような香りがする。しかも次第に強くなって行く。
 触覚……手にしっとりと吸い付くこの肌の熱さはどうだ!
 聴覚……息が荒くなっている。心臓の鼓動まで聞こえそうだ。
(抱く? ヨーコを?)
 激しい鼓動とともに心臓が限界まで膨らみ、次いで痛いほど収縮する。
 薄い寝巻のすぐ下に包まれた肉体の存在を強く感じた。自分に比べて華奢な骨格で、つるりと凹凸がなく、それなのに丸みを帯びた不思議な生き物。いけないとわかっているのに、思い出してしまう。
 これまで何度か触れ合った事はあった。ただその時は自分が裸でも彼女が服を着ていたり、あるいはその逆だったりで、一度も生まれたままの姿で抱きあった事はなかった。
 それに気付いた瞬間、浴衣や下着がとてつもなく邪魔な物に思えてきた。
 その衝動が結びつく先を想像すらできないまま、カルヴィン・ランドールJrはひたすら戸惑っていた。うろたえていた。

「む……無理だ………ヨーコ………私は………」
 ゲイだ、なんて言い訳は表層部分を軽くかすめるだけ。問題はもっと、奥深くにある。それを口にするのは男性としてすさまじく勇気のいる事だった。『雄の面子』に関わることだった。
 それでも言わなければいけない。
 今、顔中涙でくしゃくしゃにしてすがりついているヨーコに答えなければいけない。彼女は恐らく、自分なんか想像もできないほどの葛藤を経て女性として、おそらくは一番、勇気のいる事を口にしたのだから。
 混乱して記憶の欠片が明滅し、意識がうずを巻く。そんなとんでもない状況に陥りながらもランドールはあくまで紳士だった。
「私は、今まで女性を抱いた事がないんだ!」
 腕の中でヨーコが息を呑む。
「ちゃんとできるか……わからない……」
 二人は硬直したまま、呼吸さえ忘れて見つめあった。カップから立ち昇るハーブティの湯気だけが唯一の動く物だった。
 どれほどの間、そうしていただろう。
「は……初めてなのは………私も、同じだから」
 じわじわとヨーコの頬に、首筋に薄紅色が広がって行く。
(ああ、君の肌にはこんなにも美しく紅がさすのか)
 服で隠れた部分はどうなっているのだろう。においだけではもどかしい。布の上から触れてるだけでは物足りない。
「そうか。初めて同士なんだね、私たちは」
「そうよ。初めてと初めて。だから戸惑うのも当たり前、失敗するのも当たり前。一番、みっともなくて恥ずかしい部分を見せてしまうから、あの、その……っ」
 何だか急に肩にがちがちにこもっていた嫌な強張りが抜けてしまった。
 ああ、そうか。みっともなくても、恥ずかしくても、失敗を繰り返してもいいんだ。体裁とか、自分で作った規則なんか全部取り払ってしまえ。そんなものに縛られるだけ時間の無駄と言うものだ。
 一緒にいる時間は限られている。迷ってる暇なんかないはずなんだ。
「後悔はしないね?」
「するぐらいなら、最初っからこんな事しない」
 彼女らしい。涙をいっぱいにためた潤んだ瞳で、真っ赤になって小刻みに震えて……それでもまっすぐに見つめてくる。
 ランドールは改めてヨーコの腰に手を回して引き寄せる。
「君に触れたい。何に遮られる事も無しに」
 小さく、だが確かにうなずいた。これから起きる事全てを受け入れると無言のうちに伝えてくれた。

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