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ローゼンベルク家の食卓

【ex14】メリィちゃんと狼さん

2013/10/15 2:10 番外十海
  • ランドール紡績の若き二代目、カルヴィン・ランドール・Jrは仕事で日本に赴いた。
  • レンタルした車に乗込み、ふと気配を感じて助手席を見ると……いつ来たものか、見事な銀髪をなびかせて、びしっと和服を着付けてサングラスをかけた白人男性がちゃっかり座っているではないか!
  • 「さあ行こうかMr.ランドール!」「あ、あ、あなたはっ」
  • 彼こそは今も昔も幅広い世代に愛されるハリウッドの人気俳優、ニンジャマスターことウィリアム・アーバンシュタイン、ニンジャ少年ロイの祖父である。
  • 「何故、ここへ?」「うん、せっかく日本に来たんだから孫に会って行こうと思ってね」
  • ニンジャマスターの目的はもう一つあった。「昔、世話になった女性の月命日なのだ。彼女に花を贈りたい」
  • 友人の祖父の頼みを断る理由はない。絹の名産地、綾河岸市に向かうランドールとニンジャマスターの行く手に待ち受けているものは!
  • 長らくお待たせしました、222222ヒット御礼小説、やっとお目見えの運びとなりました。
  • 2008年の初登場以来、読者さまをやきもきさせてきた「先の気になる二人」メリィちゃんことヨーコ先生とランドール社長をメインにしたエピソードです。
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【ex14-0】登場人物

2013/10/15 2:17 番外十海
 
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【結城羊子】
 通称ヨーコ、サクヤの従姉。26歳。
 小動物系女教師、期間限定で巫女さんもやります。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 現在は日本で高校教師をしているが、うっかりすると生徒に間違われる。
 NGワードは「ちっちゃくてつるぺた」「メリィちゃん」
 
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【結城朔也】
 アメリカでの愛称はサリー。
 サンフランシスコに留学中の23歳、癒し系獣医。
 従姉の羊子とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 巫女さん姿がよく似合う。
 
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【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。
 サンフランシスコ在住の33歳、通称カル。
 骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
 風見とは海と世代を越えたメル友同士。
 狼とコウモリに変身し、吸血鬼を彷彿とさせるドリームイメージ(夢の中の分身)を持つ。
 
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【風見光一】
 目元涼やか若様系高校生。羊子の教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 剣を携えた若武者のドリームイメージを有す。
 律義で一途でちょっぴり天然。
 先生と社長の微妙すぎる距離が気になる今日この頃。
 
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【ロイ・アーバンシュタイン】
 はにかみ暴走系留学生。風見の幼なじみで親友、17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。いろいろまちがった方向に迷走中。
 ニンジャのドリームイメージを持ち、密かに風見を仕えるべき『主』と決めている。
 ニンジャなだけに変装は完璧。
 コウイチに近づく者は断固阻止の構え。 
    
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【ウィリアム・アーバンシュタイン】
 ロイの祖父。風見の祖父とは親友。69歳。
 映画俳優で親日家。アメコミヒーローを実写映画化した『ニンジャマスター』は最高の当たり役として大絶賛され、コミック版の容姿も彼に似せて描かれる程。
 新作の宣伝キャンペーンの為、訪日する。
 日本通だが微妙にまちがっている……そしてロイのお手本でもある。
 
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【神楽裕二】
 羊子の兄弟子でサクヤちゃんの初恋の人。
 結城家とは亡き祖母とともに家族ぐるみで付き合いがある。
 占い喫茶「エンブレイス」を経営し、オーサー(悪夢狩人たちのまとめ役)でもあるがこちらは現在は休業状態。
 小柄で童顔、実年齢より若く見られて苦労した揚げ句ヒゲを生やすがあまり役には立っていない。
 羊子を手玉にとれる数少ない人物の一人。
 
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【三上蓮】
 ちょっぴり腹黒い糸目のお兄さん。
 本職は神父だが現在、結城神社に潜伏していた事もあった。
 天涯孤独で教会で育てられた過去を持つ。
 29歳、大柄で意外に鍛えている。
 風見の祖父より剣術の手ほどきを受け、兄弟子にあたる。
 羊子、サクヤとは学生時代から面識あり。

【チャールズ・デントン】
 通称チャーリー。ランドール社長の大学時代のルームメイトで親友。
 大手食品メーカーの三代目社長、通称「ピーナッツ・バターの王子様」。
 コミックが好き、女の子が好き、黒髪の女の子はもっと好き。
 女性を喜ばせるためならあらゆる手段で全力を尽くすブレない男。

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【藤島千秋】
 風見の幼なじみで羊子の教え子。ロイとは同級生にあたる。
 学校では合唱部に所属するスレンダーな女の子。
 でも将来有望な17歳。
 
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【ex14-1】ニンジャマスター参上!

2013/10/15 2:20 番外十海
 
「ではテリーくん、ビリーくん、頼んだよ」
「OK、ボス」
「任せとけ。仕事がんばってな」
「わうん」
「ありがとう。じゃ、行ってくるよ」

 五月の第三土曜日、カルヴィン・ランドールJrは愛犬サンダーを二人のドッグ・シッターに預け、家を出た。
 目的は出張、予定は四日間。
 荷造りしている間、サンダーは不思議そうな顔をしてスーツケースを嗅いでいたものの、感心な事に中に入ろうとはしなかった。
 今回使うスーツケースはかなり大きい。何となれば出張先は海外だからだ。
 空港のパーキングに車を預け、ロビーに入って行くとそこには兼ねてからの打合せ通り、友人が待っていた。

「やあカル! ……楽しかったよハニー。それじゃ、またね」
「やあ、チャーリー……」
 
 どうやら黒髪美人と話が弾んでいたらしい。別れ際に投げキッスを交わしている。

「彼女、見送りかい?」
「いや、君を待ってる間に知り合った」
「………さすがだね、チャーリー」
「名前とメールアドレスはゲットしたよ」
「さすがだよ、チャーリー」

 さらっといつものように受け流しつつ搭乗手続きを済ませ、荷物を預ける。

「こう言う時ってどれだけ準備しても、何か忘れたんじゃないかって不安になるよね」
「ああ、大抵のものは日本で買う、ぐらいの心積もりで居ればいいんじゃないかな」
「なるほど、その手があったか」

 今回、日程が重なったのは幸運な偶然だった。ランドールは日本での絹織物のシンポジウムに参加し、同じ日程で親友チャーリーはデントンナッツの日本進出に伴い、提携メーカーとの打合せでそれぞれ訪日が決まった。
 ただし会場が離れている為、到着後は別行動になる。それでも長い道中、チャーリーと一緒なのは心強く、またありがたい。
 学生時代以来の親しい友人だし、何より彼と話していると飽きない。余計な事に気を回す暇が無い。

 何となれば、日本には、彼女が居る。去年の十二月、胸の引き裂かれるような思いで別れた女性……すなわち、ユウキ・ヨーコが。その後、間接的な方法ではあるものの、何度か言葉を交わしたし顔も見た。最後に話した時は笑顔だった。
 会場となる綾河岸市は、彼女の実家の所在地でもある。そこから電車でほんの2駅も行けばヨーコの住んでいる戸有市だ。
(いっそ会議をすっぽかして会いに行ってしまおうか)
 いや、いや、まさか。
 責任ある社会人としてそんな無茶な事はできない。するつもりもない。九割方、自分に当てた冗談のつもりで考えて、気を紛らわせている。そのつもりだったが……。日本出張が決まって以来、うたた寝の覚め際とか、寝入りばなの意識がもうろうとした時につい、考えずにはいられない。
(同じ国にいるのだから、会えに行ってもいいんじゃないかな)
(さすがに仕事中は無理だとしても、夜なら上手く時間をやりくりすれば、会えるんじゃないか?)
 気付いた瞬間から、遠足さながらにテンションは上がる一方。日本に向かう道中、もし一人だったら……熱気とやる気を持て余し、良識ある社会人として。企業の社長としていささか問題ある行動に走り兼ねない。
 要するに、暴走だ。

「チャーリー」
「ん?」
「君が居てくれて良かったよ」
「ありがとう、カル!」

     ※

 滞りなく搭乗手続きを終え、飛行機に乗り込む。座席は二人そろってファーストクラスだ。一応、大企業の社長であり、また恵まれた体格故にエコノミークラスの座席は窮屈なのだ。時差を気にせず、到着直後からフルの状態で動けるように考慮した上での選択である。

「お……おぉっ!」

 機内に乗込み、席に向かう途中で突如、チャーリーが目を輝かせた。

「見てよカル!」

 少年ならば大声で叫ぶ所だろうが、さすがに三十路の大人である。顔を寄せて小声で囁いて来る。

「どうしたんだいチャーリー。好みのCAでも見つけたのかい?」
「違うよ、ニンジャだよ!」
「まさか。いくら日本行きの便だからって」
「そうじゃなくて、ほら! ニンジャマスターのウィル・アーバンシュタインだよ!」

 ニンジャマスター。チャーリーの愛読しているコミックのヒーローだ。映画俳優ウィル・アーバンシュタインの主演で実写映画化され、彼の当たり役として大ヒットを飛ばした。チャーリーの解説によれば、近年ではコミックの絵柄の方がむしろウィル・アーバンシュタインに合わせていると言う。
 くい、くい、とチャーリーがそれとなく目線で指し示す方角を見て、納得した。
 なるほど、ニンジャマスターだ。
 シンプルなチャコールグレーのスーツに藍色のマフラー。正しくコミックで見たままのウィル・“ニンジャマスター”・アーバンシュタインが座していた。さすがにサングラスで顔を隠しているが、端正かつ威厳に溢れる顔立ちや濁りのない見事な銀髪、60代とは思えぬほど引き締まった体格は隠し切れるものではない。
 チャーリーがうずうずしている。すぐにでもすっ飛んでサインをねだりたいのだろうけれど、さすがにそこは大人だ。
 自制している。
 しかし、席についた途端堰を切ったように喋り始めた。

「アルティメット・セイバーズの新作映画が公開されるから、宣伝キャンペーンで訪日するんだね! ほら日本は時差の関係でアメリカより一日早く公開されるだろ? ああ、まさか同じ便に乗れるなんて僕は何てラッキーなんだろう!」
「ああ、まったくラッキーだね」

 大企業の御曹司が。れっきとした社長が、まるで少年のように頬を赤らめ、瞳をきらきら輝かせている。ほほ笑ましいやら、楽しいやらでついランドールはにじみ出る笑みを隠す事ができなかった。

 やがて飛行機が離陸して、ベルト着用のサインが消えた頃。

「……よし、行ってくる」
「健闘を祈るよ」

 チャーリーはコミック雑誌(当然、ニンジャマスターの本だ)を片手に立ち上がった。ウィル・アーバンシュタインの席に歩いて行き、礼儀正しく挨拶。雑誌を差し出してサインを求めている。
 ニンジャマスターはチャーリーとにこやかに言葉を交わして後、おもむろに懐からペンを取りだし、さらさらと走らせる。

「ありがとうございます! 映画最新作も楽しみにしています。初日に劇場に行きます!」
「ありがとう。嬉しいよ」

 席に戻ってくるチャーリーは、ほとんど雲の上を歩くようなふわふわした足取りだった。

「サイン、もらえたんだね?」

 こくっとうなずき、コミック雑誌のページを開く。そこには見事な毛筆書きでウィリアム・アーバンシュタインの署名が記されていた。

「……え、ショドウ!?」
「うん、彼、筆を携帯してたんだ」
「さすがだね」

 ぽーっとなったままチャーリーはもらったばかりのサインをしみじみと見つめ、いきなりガッツポーズをとった。

「やったあ、ウィル・”ニンジャマスター”アーバンシュタインのサインげっとだぜ!」
「実に気さくで気持ちのいい人だね」
「うん、紳士だね! いや、ニンジャか」

 無邪気に喜ぶチャーリーを見守りながらランドールは思った。
 大企業の社長なんだから、名刺を渡して社交上の付き合いを求める事もできただろうに。
 チャーリーは自らの社会的な地位を利用する事なんか考えもしなかった。ただ純粋な一人のファンとして礼儀正しく彼にサインを求めた。少年の頃そのままに瞳を輝かせて。
 そんな彼だから、ニンジャマスターも快く応じてくれたのだろう。
(まったく君は大した奴だよ、チャーリー)

 その後、日本に至るまでの10時間余りのフライトの間、チャーリーはしっかりと黒髪のCAを口説いて携帯のメアドをゲットしていた。
 やっぱり自分の社会的な地位をひけらかすことなく純粋に、一人の男として口説いてた。ある種、潔い。

     ※

「土曜日の夕方に出発して、土曜日の朝に着くって何だか不思議な気分だね」
「日本は東の国だからね」
「あ、お迎えの人が来てる」
「君の健闘を祈るよ、チャーリー」
「サンクス! 君もね、カル! 寂しかったらいつでも電話しろよ!」
「はは、ありがとう」

 出迎えの社員と共に立ち去る友人を見送りながらランドールは思った。
(君と一緒で良かったよ、チャーリー)
 一人残され、急に寂しさを覚える。
(しっかりしろ、カルヴィン・ランドール)
 自分で自分を叱咤しつつ、空港を出て、案内図を頼りにレンタカー店を目指す。
 シンポジウムの会場となる地方都市は、サンフランシスコほど交通機関が行き届いていない場所だった。宿泊先や会場への移動を考えると車を使った方が便利と判断したのだ。
 幸い国際免許証は修得しているし、乗り慣れたトヨタの車を借りる事ができた。カーナビも万全だ。交通ルールも予習済み。若干、不安がないではないが行けるはずだと確信していた。
 それに……。
 バスや電車に乗るより運転している方が、気が紛れる。
(電話……いやせめてメールの一通も入れるべきかな)
 レンタカーに乗込み、目的地の住所を確かめようと手帳を開く。だが開いたのは件のアドレスを書いたページではなく……大事に赤いリボンを挟んだページなのだった。
(君の国に今居ると告げたら、どんな顔をするだろう?)
 澄んだ目で常に先を見通すヨーコが、意表を突かれて慌てふためる姿を想像し、ついつい笑みがこみ上げてしまう。
 この間、ランドールの全神経は赤いリボンに集中していた。だから顔を上げてカーナビをセットしようと手を伸ばすまで、気付かなかったのだ。助手席にキモノ姿の男が座っている事に!

「……え?」

 鍛え抜かれた引き締まった体格、にごりの無い銀髪。服装こそ変わっているもののその姿に見覚えがあった。
 だが一瞬理解できなかった。何故、彼がそこにいるのか。いや、それ以前にいつ来たのか。
 呆気にとられて硬直していると、男はひょいとサングラスをずらしてほほ笑んだ。

「さあ行こうか、Mr.ランドール!」
「何故、私の名をご存知なのですか」

 ごくっと咽を鳴らし、半信半疑で相手の名を口にする。 

「Mr……アーバンシュタイン」
「何故なら私がニンジャマスターだからだ」

 それこそもう、何度もスクリーンから聞こえた台詞だった。だ、もんだからつい納得してしまったのだ。『ああ、そうか、ニンジャマスターならしかたないな』と。(げに、条件反射とは恐ろしい。チャーリーに付き合って何回も見たのがじわじわ効いてるらしい)

「……と言うのは冗談で」
「冗談だったんですか!」
「実を言うとね、Mr.ランドール。君と私の間には共通の友人がいるのだよ」
「……えっ?」
「改めてお礼を言わせてくれ、孫がお世話になっている」
「孫って……」
「ロイだよ」
「ああ」

 ここに至ってランドールはようやく気付いた。映画スターウィル・アーバンシュタインと、己のチームメイトたるロイ少年の血縁関係に。ファミリーネームが一緒だし、どちらもニンジャだ。むしろ事実が判明した今、何故気付かなかったのかと疑問にさえ思えてくる。

「確かに顔立ちがそっくりですね」
「そうか! いやあ、よく言われるんだよ」

 満面笑み崩して答えるその顔は、まるっきり孫を愛するおじいちゃんの顔なのだった。

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【ex14-2】彼女に花を

2013/10/15 2:21 番外十海
  
 カルヴィン・ランドールJrは戸惑っていた。レンタカーに乗り込んで、手帳(に挟んだリボン)に気を取られているうちに助手席にニンジャマスターが座っていた。しかもきちんと和服を着こなし、顔にはサングラスをかけて。もちろん、シートベルトも締めている。いつの間に。一体、どうやって? 聞きたい事は山ほどあった。
 しかし、当人はすっかり説明を終えたつもりでいる!

「わかってくれれば話は早い。では早速、出発しようか」
「えーっと……どこへ?」
「決まってるだろう、君」
 
 ニンジャマスターはサングラスをかけ直す。何気ない仕草がいちいち絵になって、カメラを構えたい衝動にかられる。

「綾河岸市だよ」
「何故、私の行き先をご存知なのですか」
「正確にはその手前の戸有市だな」
(だめだこの人、人の話を聞いてない!)
「ロイに会いに行くのだよ」
「ああ」

 戸有市には、目下の所留学中の彼の孫、ロイ・アーバンシュタインが滞在中なのだ。
「久しぶりに古い友人にも会いたいしね」
 そして、同じく戸有市に住む風見光一の祖父はアーバンシュタイン氏の親友であると聞いている。
 なるほど、彼の目的はわかった。行く方向が同じだと言う事も理解できた。だがもう一つ気になる事がある。

「あの、お仕事は?」

 さすがにハリウッドスターが訪日中、勝手に独り歩きをするのはいろいろ問題があるだろう。セキュリティ上……はあまり問題ない気もするが(何と言っても彼は本物なのだ。孫のロイの腕前を見れば自ずと祖父の技量も推し量れる)、そもそも彼は映画の宣伝のために日本を訪れたはずだ。
 スケジュールは大丈夫なのだろうか?
 諸々の疑問を凝縮したひと言に、ニンジャマスターはいとも簡単に返答した。

「心配ない、ちゃんと身代わりを置いて来た」

(スタントマンにでも頼んだのだろうか。さすが映画スターだ、抜かり無いな)
 カルヴィン・ランドールJrは少年じみた暴走をする時もあったが、大体において良識ある社会人だった。だからあくまでその想像力も常識の範囲内に限られている。
 故に彼は失念していた。助手席に座っている男が、名実ともにニンジャマスターだと言う事を。
 事実はランドールの予想の斜め上をぶっ飛んでいたのだ。

     ※

「Mr.アーバンシュタイン、そろそろ移動を……げえっ!」
 その頃、空港のラウンジでは頭を抱えるマネージャーの姿があった。預けた荷物を回収し、出迎えに来た現地のスタッフと合流し、万事移動の手段を調えた上で迎えに来たその部屋に、ニンジャマスターの姿はなかった。
 座り心地のよい椅子の上には、スーツを着た丸太がぽつねんとたたずんでいるばかり。
「おのれ、カワリミ=ジツか!」
 とっさに口走ってしまうあたり、彼もかなりウィル・アーバンシュタインのペースに呑まれていると言えよう。
 いかなる方法で、丸太なんぞを調達してきたのか、常人ならまずそこから追求したくなる所だがこの敏腕マネージャーは違っていた。何故なら、彼の相手はニンジャマスターだからだ。
 ニンジャなら、この程度の仕込みは日常茶飯事なのである。いちいち驚いていたら身がもたない。
 ほどなく、敏腕マネージャーは発見した。身代わりの丸太の胸に、メモが止めてある。曰く。
『孫に会いに行く。インタビューの日までには帰ってくるから安心してくれたまえ』

     ※

「……と言う次第なのだよ。万事手抜かりは無い」
 一部始終をウィル自身の口から聞かされ、ランドールは心底、マネージャー氏に同情した。
 まあ、インタビューまでに帰るのなら業務に差し支えはないだろう。相手が映画俳優だから身構えてしまったが、冷静に考えれば友人のおじいちゃんを、たまたま同じ方角に行くから乗せて行くだけなのだ。
 何ら問題は無いじゃないか。
「さあ、行こうではないか、Mr.ランドール。我々の目的地は一つだ!」
「わかりました、Mr.アーバンシュタイン。私のことはどうぞ、カルと呼んでください」
「では、私のこともウィルと呼んでくれたまえ」

 ウィル・アーバンシュタインはほほ笑み、右手を差し出す。ごく自然ににぎり返し、堅い握手を交わした。
 形の良い口元から白い歯がのぞく。親しみを覚えるには充分で、それでいて上品さを失わない程度につつましい絶妙のバランスだった。

「道案内は任せてくれたまえ。綾河岸市と戸有市はこれまで何度も訪れているのだ。カーナビよりよほど私のガイドの方が正確だぞ!」
「助かります」
「君が疲れたら運転も代われるしな!」
「では、よろしくお願いします、ウィル」
「こちらこそ、よろしく、カル」

 改めて車をスタートさせながら、ランドールは秘かに思った。この流れには覚えがあるな……と。
 そうだ、ヨーコと初めて会った時も、いきなり車に乗り込んできて指図されたのだった。

『Hey,Mr.ランドール! 乗せていただける? 緊急事態なの。あの車を追って!』
『……わかった』
 さほど疑問も抱かずに素直に従い、今に至る。
 何故、彼女が自分の名を知っていたのか、質問したのは走り出した後だった。
(ひょっとしたら、これが日本式のコミュニケーションなんだろうか?)

 断じて、違う。

      ※

 空港を出て高速道路に入り、一路綾河岸市方面へと向かう。ウィルのナビゲーションは完璧だった。次はどう動けばよいのか、まさに気にし始めたタイミングで的確な指示が入る。お陰で初めての日本での高速道路の運転もスムーズに行う事ができた。
 しかしながら飛行機の中で充分、睡眠はとったはずなのだがやはり時差の影響か、そのうち集中力が鈍ってくる。
「ふむ、どうやら休憩をとった方がよさそうだね」
「そうですね。一度、降りますか?」
「いや、その必要はないよ。あと200mでサービスエリアに着く」

 路肩から一度高速道路を外れて駐車場に入る。
 きびきびした所作でニンジャマスタは降り立った。一見窮屈そうにも見える着物は彼の所作に沿ってなめらかに流動し、いささかも手足の動きを妨げない。あれほど長時間車に乗っていたと言うのに、皴も乱れもない。
 生地が素晴らしいのか、ウィル自身の体捌きが優れているのか。あるいはその両方か。

「……どうかしたかね、カル」
「見事な生地ですね、そのキモノ」
「これは綾河岸産のツムギだよ。紡糸から織りに至るまで全て手作業で仕上げられているのだ」
「それは素晴らしい!」
 思わず身を乗り出す。灰色がかった藍色の生地の布目は実にそろって美しく、綿密に織り上げられている。
 これが全て、手作業だなんて。
 着ている物を無遠慮にじろじろと眺められても、ニンジャマスターは動じない。ランドールが繊維の専門家であると知っているからだ。 
「匠の技だよ、カル」
「タクミ、ですか……素晴らしい」
 ツムギ。その言葉はランドールの記憶に刻み込まれた。

「せっかくだから、蕎麦をたぐって行こうか」
「ソバを……タグる?」
「来たまえ」
 悠然と歩き出すニンジャマスターの後を一も二もなく着いて行く。イヌ科の動物はすべからく、リーダーに従う。ランドールは己の内なる本能の命ずるまま動いていた。
 連れて行かれたのはセルフサービス式の食堂だった。ウィルは慣れた仕草でサイフを取り出し、自動販売機でチケットを購入する。
「君の分だ」
「ありがとうございます」
 どうやらこのチケットは食事をするための物のようだ。慣れない仕組みだが、彼のする通りに動けば問題ないだろう。
 学食や社食のカフェテリア方式に似ていない事もない。トレイを持ってウィルの後に並び、カウンターで待ち受ける店員に渡す。入れ違いに出てきた料理を受け取り、空いている席に座った。

 それは、ランドールが今まで見た事も聞いたこともない食べ物だった。
 陶器に似せたプラスチックのボウルに熱々のソイソース・スープが満たされ、茹でたソバが浸っている。さらにその上に、何やら平べったい楕円形のフライが乗っているではないか。
「日本に来たらまず、これだよカル」
 勧められるまま一口すする。魚介類をベースにソイソースで味付けされたスープ。そこにフライの衣が浸った事で、濃厚なこくが出ている。
 フライの中味は、彼にとっても馴染みのある料理……マッシュポテトだった。
「個性的な味わいですね」
「だろう?」

 ニンジャマスターは、己のステルス=ジツに絶対の自信を持っていた。ごく普通の一般人として、周囲の情景に馴染んでいると信じていた。だが、イケメン外人の二人連れは実際目立つ。そして、一分の隙も無く着こなした和装にサングラスと言う出で立ちは、スクリーン上のニンジャマスターそのものだった。
 日本のファンによる目撃談がツイッターに上がるのに、さして時間はかからなかった。

『ありのままに起こった事を話すぜ。今高速のサービスエリアで飯食ってたら、目の前でウィル・アーバンシュタインが蕎麦食ってた!』
『マジかよニンジャマスター!』
『確かに来日中のはずだけどプライベートかっ』
『わからん。見た所、カメラはないようだ。黒髪のイケメンと二人してコロッケ蕎麦食ってた』
『さすがだ日本通!』
『黒髪のイケメンって誰よ。アルティメット・セイバーズのキャストかっ?』
『落ち着け、スタッフかも知れないじゃないか』
『ちょっと俺もコロッケ蕎麦食ってくる!』

 この日、日本の一部で局地的にコロッケ蕎麦の消費が伸びた。

 熱心なファンによるツイートは、ほどなく敏腕マネージャーの目にも止まる所となる。親日家のアーバンシュタインのマネージャーたるもの、日本語の読み書きは基本中の基本スキルなのだ。

「ああよかった、とりあえず行方不明じゃないよな……」
 孫に会いに行く、と彼は言った。ならば最終的な目的地はわかっている。そして敏腕マネージャーは、ウィル・アーバンシュタインの家族とも懇意にしていた。
 すかさずロイにメールを打つ。『おじいさんがそちらに向かってる、会ったら連絡してほしい』と。

 彼にとって不運な事に、ちょうどその時間、ロイは携帯をマナーモードにしていて、しかも電車に乗っていた。さらには風見光一と一緒だった。当然の事ながら、彼の神経は目の前の親友、コウイチに全集中。
 メールの着信に気付くのは必然的に後回しとなってしまった。

     ※

 昼食後。気力も集中力も回復し、ランドールは快調に運転を再開した。車に乗り込んで来たタイミングこそ奇抜ではあったが、ウィル・アーバンシュタインは話も上手く、気配りも行き届き、ユーモアを理解する。そして、二人の間には多くの共通の友人がいる。
 旅の道連れとして、これ以上に好ましい相手はいなかったのだ。

「そろそろ高速を降りてくれるかね、カル」
 指示されたインターチェンジは、記憶にある戸有市の最寄りのインターチェンジよりさらに一つ手前だった。
 裏道でもあるのだろうか、と思ったが、絶妙のタイミングでウィルが言葉を繋いできた。
「目的地の一つ手前だ。だがそこには昔、世話になったご婦人が住んでいてね……今日は彼女の命日なのだ」
 この時、ランドールは彼があえて突飛な方法で単独行動をとった理由がわかったような気がした。
「藤野サンに、花を贈りたい」
「わかりました」

 指示されたインターチェンジで高速を降りる。面白いもので、道一つ横に入っただけで、いきなりひなびた印象の町並みに入った。道は狭く、建物も小さい。急に自分が巨大化したような錯覚にとらわれる……ここは確かに異国なのだ。
 それでも、駅前に続く道に沿って店が集まっている所はアメリカと同じだった。路肩のパーキングエリアに車を止めて、花屋へと入る。ウィルの足取りには欠片ほどの迷いもない。さすが何度も訪れているだけはある。
 日本語も流暢だ。
 
「やあ、お嬢さん、赤い薔薇をいただけるかな。とびっきり美しいのを」
 
 そして、何を言ってるのかは大体仕草でわかった。

「は……はい!」

 花屋の店員は頬を染めてうなずき、手際よく赤い薔薇を選んで花束を作る。

「お待たせいたしました」

 会計をすませて花束を受け取ると、ウィルはおもむろに一本抜き取って差し出した。

「これは、君に」
(おおう)

 あくまで自然体で、気負う事なく、さりげなく。
 見事だ。 
 並の男がうかつにやったら、まちがいなく、滑る。チャーリーや自分ごときでは到底、あの領域には届かない。開き直って笑いに走った方がまだマシと言うものだ。

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【ex14-3】いきなりメリィちゃん

2013/10/15 2:24 番外十海
 
 ウィルの案内でたどり着いた墓地は、畑と林に囲まれた静かな土地だった。見慣れたアメリカの墓地とは墓石の形が全く違う。平べったい四角い台が二段に重なった上に、縦に長い四角柱が乗っている。その背後には更に、細長い木の板が何枚か立て掛けられていた。
 石には漢字が刻まれ、木の板には見慣れない文字が書かれている。そして墓石の前には、細い棒状のインセンス(香)が白い糸のような煙を漂わせていた。エキゾチックな香りがする。嗅ぐと自然と身が引き締まるような心地がした。
 墓石の形は違うが、やはりここは墓地だ。しめやかに、ひっそりと亡き人を偲ぶための空気が満ちている。

「日本では墓前に香をたむける風習があるのですね」
「うむ、センコーと言うのだ。良い香りだろう?」
「はい」

 墓前に供えられた花はいずれも水を満たした花入れに活けられている。花束をそのまま置いて乾くまま、朽ちるままに任せるのではない。できるだけ長く鮮度を保とうとしている。
 興味深いことに、墓前の花入れは竹の形を模した緑色のプラスチック製だった。元は竹をそのまま土に挿していたのだろうか。事前に
日本に対する情報を一通り読んではいたが、こればかりは、資料だけではわからなかった。
 菓子や缶に入った飲み物が供えられているのも見かけた。この辺りはアメリカと同じだ。
 やがてウィルが一つの墓の前で足を止めた。

「……藤野サン」

 その墓石は、雨も降っていないのに濡れていた。しかも全体的に均等に。単に水をかけたと言うより、丁寧に洗われたような印象を受けた。墓前の小さな台の中ではセンコーが香しい煙をなびかせている。そして花入れには既に紫色の細長い花が挿してあった。真っ直ぐに伸びた細い茎の先端に、小粒の紫の花が麦の穂のように固まって咲いた花。

「これは……ラベンダーですね」
「うむ。彼女の好きな花だよ」

 ラベンダーの花は瑞々しく、センコーはまだ燃え続けている。

「どうやら先客がいたようですね」
「そのようだね」

 ウィルは音も無く墓前に跪き、両手で薔薇の花をささげ持つ。そのまま、あたかも生身の女性に渡す時のようにうやうやしく差し出した。その間、キモノの袖も裾もなめらかにさばかれ、一筋の乱れもない。

「やあ藤野サン。久しぶりだね。ラベンダーではないけれど、君に一番、似合う花を持って来たよ。受け取ってくれるね?」

 花束に軽く口付けると、ウィル・アーバンシュタインは墓石の前に静かに薔薇を置いた。
 その時、ふわりと穏やかな風が吹いた。花束を包む紙が翻り、赤い花びらが揺れる。
 ウィルはほほ笑み、うなずいた。

「気に入ってくれて嬉しいよ」

 あたかも映画の1シーンを切り取ったかのような情景だった。ランドールは言葉も無く見蕩れていた。
 どれほどそうしていただろう? 我に返ると、ウィルは両手を合わせて祈りを捧げている。見様見まねで従った。

「さてと、カル。実はこの近くに、藤野サンのお孫さんが住んでいるんだ」
「ああ、それではあのラベンダーは……」
「うむ、恐らく彼が手向けたのだろうね。どうだろう、君さえよければ、挨拶して行きたいんだが」
「わかりました。こうなったらとことんおつき合いしましょう」

 日本とアメリカに遠く隔てられているのだ。会えるチャンスなんか滅多にない。知りあって間も無い友人の頼みを断るなんて選択肢は、カルヴィン・ランドールJrには無いのだった。

     ※

 車で駅に向って引き返す。繁華街と住宅地の境目の部分に、その建物はあった。
 ありふれた三階建ての雑居ビル。外壁は永年の風雨にさらされ、さながら石造りの古い館のような雰囲気を醸し出している。

「ここだよ。カフェを経営してるんだ」 

 鉄の手すりに支えられた上がり段を3段ばかり上がり、アーチ型に石が組まれた戸口に至る。上部の半円にはステンドグラス、その下には木枠に偏光処理の施されたガラスがはめ込まれた両開きの扉が収まっていた。
 全体的に繊細で、細部まで丁寧に作り込まれ、植物を思わせる意匠が施されている。
(まるでアールヌーボーだ)
 軒先に下がる真鍮のプレートに、店の名前が刻印されていた。Embrace……抱擁、受容、あるいは帰依。そんな意味合いだ。
 その扉の前に立った瞬間、ランドールの胸にかすかな予感が去来した。

「あ」

 この匂い、忘れようが無い。むしろ、何故気付かなかったのだろう。花の香りとセンコー・インセンスの煙に紛れてはいたが、確かに自分は墓地でもこの匂いを嗅いでた。
 目の前でウィル・アーバンシュタインがゆっくりとドアを開け放つ。深みのあるドアベルの音が響く。
 
「やあ、ユージ! 久しぶりだね」
「おんや、Mr.アーバンシュタイン、お久しぶり」

 磨き抜かれたこげ茶色の木の床、奥にはやはり同じチョコレートブラウンのカウンター。
 店内のインテリアは全てこげ茶と温かいオレンジに統一されている。コーヒーの刺激的なにおい、くつろぎを誘う紅茶の香り、そして焼けた小麦粉と砂糖のにおい。
 あふれ出す穏やかな香りの連鎖の中に、夢見るような心地で足を踏み入れる。

「そっちのハンサムさんは初めて見る顔だねえ? もしかして彼氏?」
「はっはっは、残念ながら違うよ。彼は……」

 カウンターの向こうから眠たげな瞳の小柄な男が声をかけてくる。しかしながら店の主人とウィルの声はきれいに左の耳から右の耳へと突き抜けていた。 
 ランドールの目は、店の中にたたずむただ一人に釘付けになっていたからだ。
 ほとんど凹凸のない小柄な体、絹のようにつややかな長い黒髪、つるりとした瓜実顔。ぱっちりしたアーモンド型の瞳の上には、赤いフレームの眼鏡が乗っている。カウンター前の脚の長いスツールの上に、ちょこんと腰かけた姿はさながらリスか小鳥のように愛らしい。

「か、カルっ?」
「ヨーコ」

 何故、彼女がここにいるのか。そんな些細な疑問は頭の中からきれいに吹っ飛んでいた。目の前にヨーコがいると言う事実こそが大事なのだ。
 静止した時間の中、ランドールは迷わず大股で歩み寄り、一寸の躊躇も無くヨーコを抱きしめた。スーツに包まれた広い胸板の中に、すっぽりと。ずっと、こうしたいと思っていた事を素直に実行した。

「夢のようだよ、まさか君にここで会えるなんて!」
「ゆめじゃ……ないよね……な……なんで、ここにいるの」

 しとろもどろに答える声がかすかな震動となって伝わってくる。ああ、確かに彼女はここに居るのだ。

「仕事でね。近くまで来たから知らせようと思ってはいたんだ。いたんだけれど、その前に、会ってしまった」
「そ……そうなんだ……」
 
 耳まで赤くして、目を見開いて硬直している。なるほど、君は不意を打たれるとそう言う顔をするんだな。覚えておこう。
 できるものなら、思い切りにおいを嗅ぎたい。その艶やかな髪の毛を存分に撫で回したい……が、あいにくとここにいるのは自分たち二人だけではない。

「君は、どうしてここに?」
「ここは……私の兄弟子がやってるお店なの」
「兄弟子?」
「そう、魔女術の……タロットカードの使い方を教えてくれた先生のお孫さんでね……」

 パシャッ!

 シャッターの音で我に返る。電子的に合成された音ではあったが、それでも何が起きたのかは想像がついた。
 カウンター奥に座る男が携帯の画面をのぞき込み、せわしなく親指を動かしている。メールか、電話か……。
 親指の動きが止まる。一通り画面に目を走らせて後、ピっと一回、電子音が鳴る。それで用事は終わったようだ。男は再び顔をあげてこっちを見る。
 どうやらメールだったらしい。
 腕の中のヨーコが巣の中の小鳥のように身じろぎし、首を伸ばして振り返った。

「ちょっ、兄ぃ、今何送りましたかっ」
「さぁってねぇ?」

 何やら日本語でやりとりしている。口調と仕草から、この二人がかなり親しい間柄であるとわかった。
 どうやら、彼が『兄弟子』らしい。
 それとなく繋がりが見えて来た。恐らく藤野サンがヨーコの魔女術の師匠なのだろう。

「おじいさま!」
「ロイ! おお何と言う幸運だ、まさかこんな所で会えるとは!」

 隣では、ウィルがロイと熱いハグを交わしていた。さらにコウイチが笑顔で祖父と孫を見守っている。
 そうだ、ヨーコがこの場にいるのだから、彼らが同行している事も予想すべきだった。

「やあコウイチ、元気そうだね」
「お久しぶりです、アーバンシュタインさん」

 ひとしきり孫を愛でると、ウィル・アーバンシュタインは軽く咳払いをして背筋を伸ばした。

「ユージ、改めて紹介するよ。こちらはカルヴィン・ランドールJr。サンフランシスコの盟友だ」
「ああ、サクヤがあっちで世話になってる社長さんか」
「うむ。カル、彼はカグラ・ユージ、藤野サンの孫でこの店のオーナーだ」
「よろしく、Mr.ランドール」
「こちらこそ、よろしく」

 挨拶を交わすと、ユージはへらっとゆるい笑みを浮かべた。

「んで。いつまでメリィを抱えてるんだい?」
「……メリィ?」

 聞き慣れない名前に戸惑い、首を傾げているとユージはくいっと親指をしゃくって指さしてきた。自分の腕の中にすっぽり抱え込まれて、耳まで赤くして小刻みに震えている……ヨーコを。
 しまった。つい人前だと言う事をきれいさっぱり失念していた。慌てて手を離し、社会人として慎み深い距離に戻った。

「つーか、メリィちゃんも、らしくないねぇ。いきなり抱きつかれて、大人しく抱えられてるなんてよ? いつものお前サンなら蹴りか頭突きの一発二発……」
「めーっ! メリィちゃん言うなーっ」
「ずーっとそう呼んでんだから、今更変えろって言われてもなぁ」

 どうやら彼の言うメリィとは、ヨーコの事らしい。元の名前と似ても似つかぬニックネームがつけられるのはよくある事だ。

(しかし何故、メリィ?)

「ほれ、ブルーベリーパイ食うか」
「いつもそう食べ物で釣られるとっ! ……いただきます」

 ついさっきまで、顔を真っ赤にして今にも飛びかからんばかりの勢いだったヨーコが、素直にパイを受け取り食べ始める。

(何と言うことだ。あのヨーコが、軽くあしらわれている!)

 さっくり焼き上げたパイ生地の上に、カスタードクリームと甘く煮たブルーベリーを載せたパイだ。ブルーベリーの丸い粒は用心しないとすぐにパイから転げ落ちる。しかも色の濃いソースが服に着くとなかなか落ちないシミになる。
 必然的にヨーコは食べる事に集中し、静かになった。これがクッキーなら2秒、マフィンならものの5秒で食べ終えていただろうに。

(さすが兄弟子)

 飄々とした態度やのんびりした口調、愛嬌のある見た目とは裏腹にこの男、かなりの切れ者らしい。

     ※

 その頃。喫茶店Embraceから、電車で三駅ばかり離れた教会の一角で、三上 蓮はポケットから携帯をひっぱりだしていた。
 メールだ。送信者は神楽裕二。
(まさか、何か事件でも?)
 若干の不安を抱きながら開いたメールに添えられていた写真には……
 ランドール社長とがっつりハグを交わす、と言うか一方的に抱きすくめられている結城羊子が写っている。メール本文に曰く。『これが例の彼氏か?』
 息を呑み、写真をたっぷり三秒ほど凝視。しかる後、元から細い目をそれこそ糸のように細め、唇の片端をきゅうっとつり上げる。

「これはこれは、幸せそうですね。……ですが、いつの間に日本に来たんでしょうね?」
「兄さん、何があったんです?」

 ただならぬ事態と察知したのだろう。ひょい、と手元を見習いシスターの小夜がのぞきこむ。こちらもしばし写真を凝視して後、まばたきしてひと言。

「……はんざいしゃ」

 あまりに率直すぎるひと言に、三上は床に崩れ落ちた。
 知らぬ者が見たら、年端もゆかぬ少女をがっつり抱きすくめている成人男性にしか見えまい。
 たとえハグされてるのが二十六歳の成人女性だとわかっていても、見た目があまりにも犯罪的すぎる。

「お巡りさんこいつです! って、こう言う時に使うんですね」
「……『はんざいしゃ』『お巡りさんこいつです』……」

 椅子の背に手をついて身を起こしたところに更に追加の一撃。
 三上はしばらくの間、いつものように穏やかな微笑を保ったまま肩を小刻みに震わせていた。

「……通報した方がいいのかしら」

 あくまで真面目な小夜のひと言に、とうとう壁が決壊した。

「ぷっ、くくく、くっ」

 一度崩れるともう止まらない。上体を反らせ、声を上げて大爆笑。

「くっくっくく、あーっはっはっっはっ!」

 文字通り腹を抱えて笑い転げる三上を、小夜は怪訝そうに見上げた。

「……兄さん、何がおかしいんですか?」
「小夜の表現が、あまりに的確すぎるからですよ……くく……見た目には」
「見た目には……って、どういう事ですか?」
「彼女、小夜と同じくらいですよ」
「え、ええっ!?……ま、まぁ若く見えるっていいですよね」
「……本人の前では言わない方がいいですよ、それ」

 しれっと答える一方で手早く返信した。

『ええ、「例の」彼です。』と。

「そ、そうですか。……それで、こちらの方は?」
「ああ、小夜は初見でしたっけ。以前話したサンフランシスコの協力者ですよ」
「ああ、狼男な方ですか。確かに男前ですけど……」

 小夜がこの写真を見て、何を思い出しているのかは容易に知れた。
 以前、男嫌いの神獣『貘』と共闘する為にランドールは(もちろん風見光一も、ロイも)女装した事がある。
 元にしたのは学生時代のハロウィンの仮装、白雪姫。宝塚さながらの濃いぃメイクで完璧に、神獣『ぽち』を懐かせる事に成功した。少なくとも、途中までは。
 当人には抵抗がなかったが傍から見れば……。

「あれって、本当に罰ゲーム状態だったんですね」


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【ex14-4】なりゆきホームスティ

2013/10/15 2:25 番外十海
 
「立ち話も何だから、まあ座ってくれ」

 ユージに勧められ、改めて六人そろってテーブル席に着く。ユージは気だるげな動作で湯を沸かして茶葉を入れたポットに注ぎ、カップを六つテーブルに運んだ。さらに器に盛ったヘーゼルナッツとチョコチップのクッキー、1ホール丸ごとのブルーベリーパイをでんっと乗せてひと言。先ほど、餌付けに使われたのと同じパイなのだろう。丸いパイは既に一切れ、切り取られていた。

「セルフサービスだ。食べたきゃ自由にとってくれ」

 純然たる客ではない、言うなれば身内の集まりだからこその手抜き……いや、合理的な選択だった。無論、文句が出るはずもない。ただし紅茶は当人にもこだわりがあるのか、きっちり三分経ってから一人一人のカップに注いでいた。

「Mr.アーバンシュタイン、パイいかがですか?」
「嬉しいね、ヨーコ。いただこう」
「他にも欲しい人、手ーあげて」

 ヨーコがてきぱきとパイを切り分け、皿に乗せて行く。めいめい紅茶を飲んでひと息ついた所で、ランドールは素朴な疑問を口にした。

「何故、彼女をメリィと?」

 紅茶のカップを持ったまま、ヨーコはその場で硬直した。ひくひく口元が小刻みに震えている。ロイと風見は緊張した面持ちで先生の様子をうかがっているが、ユージは一向に気にしない。

「羊だから」

 即答だった。しかし脈絡のない繋がりにランドールの疑問はさらに深まる。

「何故、羊?」

 高校生二人の顔からさーっと血の気が引いた。かろうじて笑顔は保っていたものの、じっとりと冷たい汗がにじんでいた。

(そこまで言う?) 
(それ以上は追求しちゃダメです!)
「それは、私から説明しよう」
(おじい様!)

 ニンジャマスター=ウィル・アーバンシュタインは素早く無駄のない所作で懐から、俳句用の短冊と筆ペンを取り出した。
 一座の者がおお、と息を飲む中、おもむろにペンのキャップを外してさらさらとしたためる。

「Missヨーコの名前は、漢字で『羊の子』と書くのだよ」
「おお!」

 ずあっと表にされた短冊には、見事な筆致で『羊(sheep)子』と記されていた。
 あまりに明快かつ鮮やかな回答に、ランドールは思わず手を打った。聞き慣れたあの童謡の歌詞が耳の奥に鮮やかに再生される。
 メリーさんの羊、羊、羊……

「メリィさんの羊なんですね!」
「そーゆーこと。可愛い羊のメリィちゃーんってな」

 不規則に歯を鳴らしてヨーコは紅茶を飲み干した。ソーサーとカップが触れ合いカチリと硬質な音がする。
 怒りのためか動揺のためか、あるいはただの静電気か、髪の毛が不自然にもわもわと舞い上がっている。

「め……」
「お?」
「……」

 おもむろに攻撃の準備体勢に入る。とっさにユージは次の一撃を予測した。頭突きか、蹴りか、とにかく来るはずだ。『メリィちゃん言うな!』と。しかし、ギリギリの所で大人の常識が勝ったらしい。
 髪の毛が勢いを失いぱさり、と元のように肩の上に落ちる。ヨーコは顔をあげてにこやかにほほ笑んだ。

「カルはお仕事で日本に来たんだよね? ここの近くって、どこ?」

 話題を別方向に振る手に出た。
 ランドールはものの見事に思考を誘導された。ころっと『メリィさん』を忘れ、手帳を引っ張り出す。

「綾河岸グランドホテルだよ。絹織物をテーマにした国際シンポジウムが開かれるんだ」
「お、結城神社のすぐ近くじゃねーの」
「そうなのかい?」
「え、あ、う、うん。綾河岸は絹織物の名産地だから……ね」

 せいぜい、隣町だろう、ぐらいに軽く考えていたのが、まさかどんぴしゃり、実家のご近所とは! 予想だにせず、慌てふためいた結果、ヨーコの答えはほとんど脈絡が無い。
 綾河岸市は絹織物の産地である。紡績会社の社長であるランドールの仕事との繋がりが深いであろう事は、容易に予測できただろう。
 そう、普段のヨーコなら速やかにその関連性に気付いたはずだった。
 
「綾河岸グランドホテルと言やあ、結婚式で毎度、結城神社の宮司と巫女さんが出張頼まれてるんだぜ。お前さんも何度も行ったろ?」
「う、うん、そーだね」

 ユージに指摘されてうなずくも、てんで棒読み。
 この時、男女の機微に聡いウィルは既に、ランドールとヨーコの間に流れる微妙な空気を読み取っていた。
 増して兄弟子の裕二にとって、結城羊子の思考パターンは手に取るようにわかる。三上から前もってランドール社長と間にと何があったか聞かされていたから尚更だ。
 そ知らぬふりでさらっとすすめる。

「いっそお泊めしちまったら?」

 言外に含まれる『何か文句あるのなら言ってみな』と言うニュアンスにヨーコは息を呑んだ。
 さらにニンジャマスターが畳みかけるように援護射撃を行う。正しく達人。人生の大先輩。

「それはいいね! ランドールくん、一度日本文化を体験してみるといい」
「えっ」
「心配するな、結城神社の部屋数は多い。そうだろう、Missヨーコ?」
「え、あ、はい、確かに部屋は多いですっ」
「年末年始は、確かロイとコウイチがお世話になった事もあったね」
「ハイ、そうです」
「三上さんも一緒でした」
「う、うん、手伝いの人とかホームステイを受け入れられるようになってるしね」
 
 答えながらヨーコはひしひしと感じていた。

(私、自分で退路を断ってる! って言うか……詰んだ!)

 カルヴィン・ランドールJrは天然だった。そして純粋に好奇心もあった。以前、メールに添えられた写真で垣間見た古めかしい日本の建物は、いたく彼の興味をそそったのである。

「ご迷惑でなければ、ぜひ。大丈夫、ちゃんとスリーピングバッグ(寝袋)も持って来たし」

 ユージは呆れて眉をしかめた。

「あんた、ほんとにセレブかよ」
「いつ野宿するハメに陥るかわからないしね」

 砂漠で車がエンストした時、以来常に備えているのだった。

「その心配はないぞ、ランドールくん。日本にはフートンと言うすばらしい寝具があるんだ!」
「おお、フートン! 話には聞いていましたが実物はまだ見たことがありません」
「善は急げだ、さっそく結城サンに連絡しよう」
「え、あ、あわわ、Mr.アーバンシュタイン?」
「ちっちっちっ、いかんなあ、Missヨーコ」

 慌てふためくヨーコに向かって、ウィル・アーバンシュタインはウィンクしてみせた。絶妙の笑顔とタイミングで繰り出されたパーフェクトなウィンクに思わずヨーコは時間を忘れ、見蕩れた。

「ウィルと呼んでくれたまえ」
「はい……」

 その間もちゃっかりウィルの手は携帯を操作し、電話をかけていた。

「ハロー? 結城サン! そうだよ、ウィルだ、久しいね」
「え、え、ええっ?」
「やあ、藤枝サン! 相変わらずキュートな声だね。うん、そうなんだ、孫に会いに日本に来ているんだ」

(え、なに、もう母に換わったの!?)

 慌てふためくヨーコを尻目に、着々と報告と交渉が進んで行く。宮司である羊子の父が話していたのはほんの二、三秒。そこから先、母と伯母に換わってからは急ピッチで話が進んで行く。
 やがてウィルはおもむろに携帯を切った。

「フートンを干して待ってるそうだ」
「うわあああんいつの間にぃいいっ」
「落ち着け、メリィちゃん。社長さんがおろおろしてるぜ?」
「め?」

 改めて振り返ると、確かに。途方にくれた子犬のような顔をしてじっとこっちを伺ってる。
 眉を八の字に寄せて、不安げに首をかしげて。何を考えているのか手に取るようにわかる。
(いいのかな。ほんとにいいのかな……)
 兄弟子とニンジャマスターのペースに乗せられてなし崩しに話がまとまっちゃったけど。元より好いた相手だ、泊める事に異存は無い。それに……。
 彼はいずれアメリカに帰ってしまう人なのだ。来てくれただけでも驚き。だけど会えた以上は、一秒でも一緒に居たい。
 ヨーコはランドールに向き直り、背筋を伸ばしてきちっと一礼した。

「……ヨロシクオネガイシマス」
「こちらこそ」

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【ex14-5】恥じらいメモリアル

2013/10/15 2:28 番外十海
 
「ここに来る前に藤野サンの墓前にも花を捧げて来たよ」
「さんきゅ、月命日、ちゃんと覚えててくれたんだな」
「当然じゃないか」

 ランドールの結城神社への宿泊プランをさっさと取りまとめた二人は、何事もなかったかのように故人に思いをはせている。元々、ウィル・アーバンシュタインはそのためにここに立寄ったのだ。こうなるのは当然の成り行きではあった。

「この店に来たのも何年ぶりだろう……懐かしいね」
 青い瞳で店内をぐるりと見渡すと、ウィルは左胸に己の手を載せて目を伏せる。
「こうしていると、今にも藤野サンが奥から出てきそうに思えてならないよ。黒い猫と、烏を連れて……」
 いつになくしんみりした口調の祖父の手をロイが握る。ヨーコもまた、カウンター奥の扉に視線を送る。どこか遠くを見ているような。あるいは夢見るような眼差しで。
 かつて在った人の面影を呼び出すには、あの日々はあまりに遠い。なまじ過去を見通す事を知っているだけに、届かぬ指先が寂しい。
 何とはなしに湿っぽくなった空気に、のんびりしたユージの声がするりと入り込む。
「何だったらばーちゃんの写真見てくかい、ウィル?」
「おお、ぜひに」
「ちょうど、こいつらに見せようとしてたとこだったからよ」
 こいつら、と言うのは言うまでもなく高校生二人の事である。亡き師との思い出に浸っていたからか、あるいは予期せぬランドールとの再会と、よりにも寄って彼が今晩、実家に泊まると決まった事実に動揺していたからか。その時、不覚にもヨーコは兄弟子の行動の行き着く先を読む事ができなかった。
「あ?」
 我に返った時は、既にユージがカウンターの下からアルバムを持ち出してテーブルの上に広げていた。
「あわ、あわ、あわわ……」
 見ちゃ駄目と、突っ伏して視界を遮るには既にタイミングが遅すぎる。この場で上に乗って許されるのは猫ぐらいだろうが、あいにくとヨーコは猫ではない。
「おお、ありがとう、ユージ。ああ、懐かしいなあ」
 それ以前に、口元をほころばせ、目を細め、(目尻に寄った細かな皴が魅力的すぎる!)しみじみと喜びを表しつつアルバムに見入るニンジャマスターの視界を遮るなんて、そんな非礼かつ非道なマネができようか。いや、できるはずがない!
 ウィルは一枚の写真に手を差し伸べ、愛おしげに撫でた。
「これが藤野サンだよ」
 ランドールとロイ、そして風見光一が彼の手元をのぞきこむのはきわめて自然な成り行きであった。
 そこには、ティーポットを手に、にごりのない銀髪を結い上げて穏やかな笑みを浮かべる老婦人の姿が写っている。
「優しそうな方ですね」
「うむ。優しくて強い人だよ、ロイ」
「ユージさんは写ってませんね」
「そりゃそうだ。この写真を撮ったのは俺だからな」
「あれ?」
 風見光一の素っ頓狂な声に、ヨーコはびくうっとすくみ上がった。
「この男の子はもしかして……サクヤさん?」
 藤野の隣に、眼鏡をかけた小柄な人物が写っている。骨格は華奢でボディラインはつるりとして平坦。身に着けているのは白い襟つきのシャツに黒いベスト、細身のズボン、腰に巻き付けるカフェスタイルのエプロンに蝶ネクタイと言ったギャルソンもしくはウェイターの制服。
「いや、それは」
 ユージより早くランドールが答える。
「ヨーコだね?」
「よくお分かりで」
「ひと目でわかるよ」
 この瞬間、ヨーコは不覚にも(本日二度目の不覚だ)時めいてしまった。男としての彼の観察力と、時折妙に冴える直感を思えば有り得ない事ではない。だがそれでも、嬉しかったのだ。ランドールが瞬時に自分と見分けてくれた事が。
「しかし、何故ギャルソンの格好を?」
「うん、さっきも言ったように当時ヨーコは俺のばーちゃんに師事して魔女術を学んでたんだ」
「併せて店の仕事も手伝っていたのか」
「Yes! 師匠の店を手伝うのは弟子の勤めだからな。で、当時のメリィちゃんはとにっかく余裕がなくてクソ真面目で」
「メリィちゃん言うな!」
「へいへい」
 くわっと牙を剥く暴れ羊をユージは片手で制止、開いた口へとキャンディを放り込む。不意を突かれてヨーコはとっさに口を閉じ、もごもごとキャンディをしゃぶる。
「喫茶店で働くんだから、形っから入るっつって最初は、まあこんな格好をしてたんだ」
 ひょいとユージが掌を返して別の写真を指し示す。そこには盆に乗せた水を運ぶヨーコの姿があった。
 身に着けた制服は基本的な構造はギャルソンの制服と同じ。だが下がエプロンを兼ねたスカートになっていた。丈は長めで、まるでパラソルのようにふんわりと裾が広がっている。
「ウェイトレスだね」
「そう、ウェイトレス」
「立ち姿が妙に心もとないように見えるのだが……」
「うん、正にそこなんだよ」
 ユージはくっくっと咽を鳴らして笑った。
「スカートの丈が長いからってんで、無理してハイヒール履いてんだな、これが」
 がきょっと硬い物を砕く音がした。
「兄ぃ!」
 続く言葉を予期して、あめ玉を噛みつぶしたヨーコが反撃ののろしを上げる。だが一歩遅かった。
「ところが、慣れない靴のせいでバランスがとれなくって、店のど真ん中ですっ転んでよ?」
 さっとランドールの顔が青ざめる。
「何と言うことだ。怪我はなかったのか?」
「いんや。幸い、とっさに受け身とったんで怪我はなかった。んでも転んだ拍子にスカートがめくれあがって……」
(まさか)
 ランドールの脳裏に、昨年のクリスマスの情景が浮かぶ。ベッドの上で飛び跳ねるヨーコを止めようとして自分は、よりにもよって……。
「パンツ丸出しになった」
「!?※@*¥%$#&…………!!」
(ああっ!)
 文句と反論と弁解をまとめて唇が読めないような速さでペラペラとまくし立てる彼女の言葉は、既に日本語として聞き取りきれないような速さだった。
 多量かつ超高速の文句をユージはしれっと聞き流し、ウィル・アーバンシュタインは慈愛に満ちたほほ笑みで見守っていた。そしてロイと光一はと言えば聞き流す事も見守る事もできず、ただ頬を赤らめ、そわそわと視線をそらすしか無かったのだった。
 もはや件のウェイトレス姿のヨーコの写真も直視できないらしい。
「……」
「……」
 ちらっ、と何かを伺うように自分を見てくる教え子二人に、羊子はたまらず声をあげた。
「こっち見るなばかぁっ」
「まあ、あれだな。ご開帳されたぱんつが可愛いキャラ物のだったから、皆大爆笑だったさね。ほほ笑ましいっつーか、あったかく見守ってるって言うか?」
「ちっ、ちがうっ、キャラ物じゃなくてっ! 鹿! 子鹿だから!『おやディ○ニーかい』とか兄ぃゆってたけどふつーの鹿だから、あれ!」
 慌てふためいているせいか、自分で盛大に自爆して墓穴を掘っているのに気付かないらしい。そんな妹弟子の慌てっぷりに、ユージはまたクツクツと喉を鳴らして笑う。
 そしてゆるりと、自爆の被害を受けた若者二人を指差した。
「普通の鹿なのは良いけどよぉ……男子連中の顔、真っ赤になってるぞ」
 そこには、顔を真っ赤にして肩身が狭そうに縮こまっているロイと光一、そして何故か片手で目元を押さえるランドールの姿があった。
「……………………………」
「…………………」
「…………」

(カルのH! HENTAI!)
(HENTAI? 私が、HENTAI……)
 あれは事故だったと、言い訳の効く状況ではなかった。いかに子供の姿だったとは言え、自分がヨーコのお尻に顔をつっぷした事実は変わらない。
「あらまぁ」
 ユージがランドールの頭の少し上を見て、何やら日本語で呟いた。意味はわからない。だが自分が今何を思い出し、そして考えているのか見透かされたような気がして、ランドールは酷くばつの悪い思いがこみ上げて来るのを感じた。
「いやいや、仲がいいことで」
「っ!」
 やっぱりばれてるのかっ?
 ああ、穴があったら入りたい。
 ぐるぐると渦巻き混乱する記憶の潮流に翻弄されつつ、ランドールの中の一部は奇妙なくらい冷静に分析していた。
 やっぱり鹿なのか。彼女のランジェリーはいつも鹿なのだな、と。
 一方でヨーコはいたたまれず、がばっと頭を下げた。
「…………ごめん」

 事態が一応の収拾に向い始めた頃合いを見計らってニンジャマスターが口を挟む。
「なるほど、それでギャルソンの制服を着たのだね」
「そそ。次の日からはギャルソンで。そうしたら客の警官に『男子中学生』と間違われて補導されかけてよ」
 少年二人は何も言えなかった。写真を見た瞬間、サクヤと間違えてしまっただけに。
「……結局、ばあちゃんがこいつ用に新しく制服作ったんだよ」
 指し示す写真には、長からず重からず。華奢な体格に合わせた優しげなAラインの生成りのワンピースと、青と白のギンガムチェックのエプロンを身に着けたヨーコの姿があった。
「無論、靴はぺったんこでな」
「兄ぃ!」
 ふたたび牙を剥いて詰め寄ろうとするヨーコの動きが途中で止まった。ランドールの漏らしたたった一つの呟きで。
「……似合ってる」
 ぱちぱちとまばたきして見上げてくるヨーコに気付かず、ランドールはほほ笑んだ。
 サファイアのように深い青の瞳を細め、過ぎし日の写真に向かって。
「エプロンとワンピースの配色を逆に持ってきた所が、実にユニークだね」
 気配を感じたのか目線を転じ、今のヨーコに笑みかける。
「似合ってるよ、ヨーコ」
「サ……thanks」
 もぞもぞとくすぐったそうに身じろぎをしながら、頬を染めてヨーコは感謝の言葉を口にする。
 その隣で風見光一ははたと何かを思い出し、手を叩いた。
「だから文化祭で喫茶店やったとき、ハイヒールやだって言ってたんだ」
「ギャルソンも断固拒否だったんデスネ」
「い、今はハイヒールで走れるから! ジャンプも余裕!」
 それは関係あるのか? と男性陣の脳裏を過ぎるものがあったが、さしもの兄弟子も多少の良心はあるのか、これ以上えぐることはしなかった。
 だが、予想外の方向から追い討ちが来た。
「今はこーゆーのも着ますよ」
「あ、風見、ちょっとストップっ」
 光一が携帯の画面に出したのは、昨年の文化祭の際に羊子がしたアリスのコスプレの写真であった。
 何も恥じる所は無いといわんばかりにどーんっと差し出す姿はいっそ清清しい。
「ぷっ……」
 ユージはひと目見るなり吹き出し、続いて咽をそらせて爆笑。
「っはは! 良く似合ってるじゃねぇか! うん!」
「やあ、これはアリスだね」
 その隣でニンジャマスターもさながら孫娘を見守るおじいちゃんのような温かいまなざしで見守っている。
「こんなのもアリマス」
「ああっ、そ、それはっ」
 続けてロイが風見に習って出したのは、ピンクのボンネットにワンピース、羊飼いの杖を持った姿。
「やあ、これは、『ちっちゃな羊飼いボー・ピープ』じゃないか」
 この瞬間、ランドールは閃いた。閃いてしまった。
 昨年、この写真がメールで送られて来た時はさほど深い意味を考える事はなかった。『ちっちゃな羊飼いボー・ピープ』はアメリカでも定番の仮装のモチーフだったからだ。しかしヨーコ=羊の子、と言うつながりを知った今は別の意味合いが見えて来る。
「……羊だから?」
「……イチオウ羊はボクでしたヨ?」
「俺が牧羊犬でした」
 教え子二人はさらりと話題をそらせる。
(イエスって言ったらヨーコ先生が!)
 横目に見た彼等の先生は、既に拳を握ってプルプルと震えている……。これ以上刺激したら爆発するに違いない。
 賢明な二人は、そっと言葉の地雷原を渡りきったのだった。
 そんな彼等を見て、裕二は楽しげに緩い笑みをへらりと浮かべる。どこか安心したような笑みだった。
 
     ※

「それじゃ、ご馳走さまでした」

 窓の外の日はすっかり西に傾き、濃いオレンジ色の夕焼けが空を染めている。占い喫茶「エンブレイス」の昼の営業時間がそろそろ終わりつつあった。

「カル、帰りにロイとコウイチも乗せてもらっていいかな?」
「はい、もちろんです」
「助かるよ。戸有市のコウイチの家まで頼む。そこから先、結城神社までは……」
 意味あり気な目配せを受けて、ヨーコも後を続けるしかなかった。
「私がナビするわ。自分の家だし」
「ありがとう、ヨーコ!」
「ではロイ、それにコウイチも車に乗りなさい」
「ハイ」
「はい!」
 ごく自然に車のキーを持つランドールも店の外へと向かう。後に続こうとするヨーコの袖を、くいとユージが引っ張った。
「ちょいと待て、メリィちゃん」
「何?」
 じと目で振り向く暴れ羊の鼻先に、突きつけたのは瓶詰めのハーブティ。つい今し方、小分けにして瓶に入れたばかりなのだろう。(何て手の早い!)ほんわりと甘い香りが漂っている。
「土産だよ。ハーブティだ。リラックスして疲れがとれる。社長さんにな?」
「何で私に」
「お前ねぇ」
 ついっと人さし指で額を突かれ、ヨーコはのけ反った。
「一番時差ボケできついのは今夜だろ?」
「はっ、そうだった!」
「泊まった先の家で。しかも勝手のわかんねぇ外国で、お茶入れるから台所貸してくださーいとか言えるか?」
「……無理です」
 しおらしくなった妹弟子の手に流れるような動作でハーブティの入った瓶を滑り込ませ、ユージはしみじみと言い聞かせた。
「だからお前さんが入れてやれ。な?」
 ヨーコはしばらくの間、目を伏せて手の中の可愛らしい、丸い瓶を見つめた。店頭に並んでいる瓶詰めと違ってラベルは無い。所々に青い花びらが混じって見える。多分、ラベンダーだ。軽く揺すると、かさかさと瓶の中で乾いた香草が揺れ、香りが強くなる。
「さんきゅ、兄ぃ」
 小さな声で礼を言う。耳まで赤く染めて。顔は伏せたままだ。けれどユージには妹弟子がどんな表情をしているのか、手に取るようにわかった。
 にやにやしながら見守っていると、やおらヨーコが勢い良く顔を上げる。
「あ、何度も言うけど! たまには神社にも顔出してよね? 母も桜子おばさんも、父も待ってるから!」
 ユージは口元をほころばせ、ひらひらと手を振った。
「ほいよ、そのうちなー」
「じゃ、またねっ!」
 片手を上げて挨拶したと思ったら身を翻し、ちょこまかと駆けて行く。ヨーコを見送りつつ、まだ店にとどまっていたウィルはぽつりとつぶやいた。
「懐かしい香りだ。あれは、藤野サンの秘伝のブレンドだね? 『オープンハート』だったかな」
「さっすが、よくご存知で」

 飲めばリラックスして心身の疲れが癒される。だが肝心要の効能はその名の通り、『壁を取り払い、頑なに閉ざされた心を開く』事にある。
 悪夢に取りつかれ、心を閉ざした人を癒すために藤野が長年の経験を元に編み出したものだ。
 本職の魔女が、本気でブレンドした特製の薬草茶。効き目は通常のハーブティーの比では無い。

「それでは、私も行こう。久しぶりに会えて嬉しかったよ、ユージ」
「ん、またな、って言いたいとこだけど滅多に会えるもんじゃねーしな」
「何、いつだって会えるさ」

 ウィル・アーバンシュタインはぱちりと片目を閉じてウィンクした。

「スクリーンの中でね!」

 しかる後、サングラスをかけ直し、和服の袖をなびかせ颯爽と歩き去る。見送りながら神楽裕二は一人呟いた。声音にも、眉を寄せた表情にも、どこか寂しげな色が漂う。

「……ほんっと、惜しいなあ」

 しかし。
 ドアベルが鳴り、扉が閉まるのを見届けるや否や、一転して携帯を取り出し、何やらぽちぽちと指を滑らせる。
 ランドールの今夜の宿泊先を知らせるためのメールであった。宛先は言うまでもない。

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【ex14-6】ニンジャマスターVSグレートサムライ

2013/10/15 2:29 番外十海
 
「サンダーは元気?」
「ああ。最近は換毛期でね。ブラッシングの度に大量に毛が抜ける。糸に紡いだら靴下ぐらい編めそうだよ」
「大きいし、むくむくのふっさふさだものね、あの子」

 エンブレイスを離れ、戸有市に向かう道すがら、車内の会話は弾んでいた。
 助手席のウィルと後部座席に背筋を伸ばして風見とロイ、そしてちょこんと座ったヨーコ。三人の誰かしらが的確なタイミングで次にたどるべき道を知らせ、合間合間に積もる話に花を咲かせる。
「日本では学年が四月に変わるのか」
「はい、俺たち先月から三年生です」
「今年もヨーコ先生の担任なんデスヨ!」
「そうか、ヨーコは今年も君たちの先生なんだね」
「……うん」
「早いものだ、もう三年生か」
 ウィルがしみじみとつぶやく。
「卒業後の進路はもう決まっているのかい?」
「はい!」
 風見光一が元気よく答える。
「文系の大学に進みます。民俗学をじっくり勉強したくて!」
「おお、それは素晴らしい!」
「ハンターとしての知識を増やしたいって言うのもあるんですけど、純粋に、面白くて」
「ふむふむ。なるほどね」
「教員の資格とって、将来、学校の先生になるのもいいかなって」
 祖父と風見の聞きながらロイは秘かに顔を赤くしていた。自分の進路希望は既に祖父に伝えてあった。このまま日本にとどまり、大学に進学したいと。
「コウイチくん」
「はい」
「これからもロイをよろしく頼むよ」
「もちろんです!」
 風見光一はこの上もなく爽やかな笑顔で答えた。
「親友ですから!」
 ちょうどこの瞬間、車は信号で停止していた。車内に一瞬訪れた静けさ。それを打ち破るように、短く賛美歌の一節が鳴り響く。
『まきびとひつじを 守れるその宵……』
「牧人羊を」の出だしの一節だ。
 ヨーコがわずかに身を固くする。
「おや?」
 ランドールが首をかしげる。彼の鋭敏な聴覚は、今の音楽の出所がどこなのかヨーコの反応を見るまでもなく聞き取っていたのだ。
 彼女の携帯からだ、と。
「出なくていいのかい、ヨーコ?」
「う、うん、平気」
 ばれてる。とっさに察して答えるが、出てきたのは日本語だった。慌てて英語で言い直す。
「大丈夫、メールだから!」
「そうか」
 ランドールは思った。『羊の子』だからあの曲を着信音にしてるのだな、と。だからそれ以上追求もせず、運転に集中する。
 だが、本当は違うのだ。送信者指定の着信音なのだ。
 ヨーコは焦っていた。バッグの上からぎゅっと自分の携帯を押さえる。
(何で、こんな時に三上さんから?)
 音を聞かれたからって、三上からだと知れる訳ではないけれど。それでも一瞬、身がすくんだ。

『ねえ、羊子さん』
 先刻のロイと風見の進路の話題と相まって、ちょうどヨーコの思考は彼らが進路を決めたのと同じ頃に三上蓮と交わした会話に引き戻されていたのだ。
『そろそろ結婚しませんか? 結城の血筋を受け継ぎ、夢守り神社を守るために……ね』
『それが、あなたの為すべき務めだ。よもやお忘れではないでしょう?』
『忘れてなんか……忘れる訳なんか………』
『私なら、知っていますからね。貴女がかつて誰を愛し、今、誰を想っているか……』
『あ……』
『滅多にいるものではありませんよ? 何もかも全て知った上で、受け入れることのできる男なんて』
 返事は保留のまま。そんな相手から届いたメールを、書かれてる文面が何であれ、今、彼の居る前で読む事なんかできる訳がない。
 己の胸の内を見透かしたようなタイミングで届いたメールが、兄弟子からの一報を受けて送られて来たものだなんて事は、羊子は知る由も無かった。
 いつもの彼女なら、すぐに察しがついたであろうものを……。

     ※

 やがて、二十分近い行程を経て五人の乗る車はどっしりした門構えのある日本邸宅の前に到着した。
 あらかじめ到着を知らされていたのであろう。邸宅内に通じる門は開け放たれていた。
「ランドールさん、そこに入ってください。奥に車を留められる場所がありますから」
「OK」
 車が出入りできるように作り替えてあるとは言え、武家屋敷さながらの屋敷門だ。通り抜ける時はさすがにランドールも緊張して体が細かく震えた。
「まるでサムライの屋敷だね」
 ため息交じりにつぶやくと、助手席のウィルがうなずいた。
「正解だ、カル。コウイチの祖父、カザミ・シローは我が盟友にして……本物のサムライだ」
「何と!」
 日本に旅行した、と言うと、だれしも大抵一度は口にするジョークがある。
「ニンジャとサムライは見たのかい?」と。
 帰国したら胸を張って答えてやろう。「ああ、どちらも居たよ」と! 信じてくれるかどうかは疑問だが、少なくとも嘘はついていない。
「おや、お出迎えだ」
 いつ来たものか。玉砂利を敷き詰めた車寄せに、男が一人立っていた。年齢はおそらくウィル・アーバンシュタインと同年齢だろう。藍色の着物を隙無く着こなし、背筋を伸ばして微動だにせず立っている。鋭い眼差し、切れ長の瞳、涼しげな面差しには紛れも無く風見光一と通じる面影がある。
 シートベルトを外すとウィルは車のドアを開け、ゆらりと外に降り立った。両者並び立つとシローの方が若干背が低いようだった。だが風格はいずれも劣らずほぼ互角。

 二人は無言のうちに見つめあう。
 空気がピンと張りつめる。
 と。
 次の瞬間! シローの手には木刀が握られている。そしてニンジャマスター・ウィルの手には、おお!星のような形の十字型の平べったい武器が装填されているではないか!
「あれは……スリケン?」
「Yes、スリケンデス!」
 分かりあうアメリカン二人。対して日本人二人はそっと目配せ、無言で語り合う。
(本当は手裏剣なんだけど)
(言いづらいから仕方ないよね)
 不意にシローが動いた。日舞・ダンスにも似た静かでかつ優雅な動きで一歩踏み出すや、無駄のない鋭い動きに転じて打ちかかる。
「イヤアッ」
 あわやウィルは木刀の一撃を額に受けたかと思われたが。
「ぬうっ」
 ニンジャマスターの姿はそこにはなかった。軽々と宙を飛び、見事な枝ぶりの松の木の上にすっくと立っている。
 
「ハアッ!」
 気合い一閃、目にも止まらぬ早業でスリケンが放たれる。一撃、二撃、三撃、さらに二撃! 恐るべき早さで繰り出されるスリケンを、カザミ・シローは木刀を振るって打ち落とす。
 カキン、カキンと鋭い音が響き、叩き落とされたスリケンが玉砂利の間に、庭木にと突き刺さる。
「イヤーッ!」
 さらにニンジャマスターは両手から一枚ずつスリケンを繰り出し、同時に空中へと飛び上がる! シローの木刀が閃き、スリケンが叩き落とさる。だがその時、ニンジャマスターの右手に握られたクナイがまっしぐら。シローの眉間めがけてふり下ろされようとしていた。
 南無三! サムライは真っ向から額をたたき割られてしまうのか!
 だが。
 クナイはシローの体に触れる直前にぴたりと止められた。重力に逆らい、衝撃を一瞬のうちに押さえ込んだ、見事なミネウチ・フェイントであった。
「……腕を上げたな、ウィル・アーバンシュタイン」
「君こそ見事だ、カザミ・シロー」
 何と言うことか! 先刻、スリケンを叩き落とした木刀は振り切られた姿勢のまま左手に握られていた。そしてシローの右手には、30センチほどの長さの小木刀が握られている。切っ先はぴたりと、ウィル・アーバンシュタインの心臓の直前で止まっていた。
 二人は目を合わせてにっと笑いあった。同時に構えを解き、互いに肩を叩きあう。

 ここに至ってようやく、光一とロイ、そしてランドールとヨーコは息を吐き、力を抜いた。今の今まで呼吸も忘れ、見守っていたのだ。見守るしかなかったのだ。ニンジャマスターとグレートサムライの、文字通り息詰まる手合わせを!
「見事です」
「お見事デス!」
「ブラボー!」
 ようやく金縛りが解けた四人は手を叩き賞賛の言葉を口にした。
 カザミ・シローは静かに笑みを浮かべて来訪者たちに向き直った。
「やあ、いらっしゃい、羊子くん」
「お久しぶりです、風見先生」
 楚々とした仕草でヨーコは一礼。
「こちらはMr・カルヴィン・ランドールJrです」
「おお、君がランドール君か」
 サムライの口から流暢な英語が流れ出してもランドールはさほど驚かなかった。
「光一から聞いているよ。私は風見紫狼だ。孫が世話になっているそうだね。ありがとう」
「いえ……私こそコウイチには助けてもらっています」
「アメリカンにしては謙虚な男だな、君は」
「そうでしょうか?」
 正直、ランドールも驚いていた。本物のサムライが、とても気さくフレンドリーな人だった事に。だが落ち着いて考えてみれば、彼は風見光一の祖父なのだ。この人当たりの良さと気持ち良い気っ風は、紛れもなく光一も受け継いでいる資質だ。
「長旅で疲れているだろう。部屋を用意しているからゆっくり休め」
「いやいや、まだまだ若いもんには負けんぞ! すまんがカル、トランクを開けてくれるか?」
「どうぞ」
 いつの間に入れたのやら。トランクにはきっちりとウィル・アーバンシュタインのスーツケースが収められていた。
 
     ※

 それから20分後。ランドールは再びハンドルを握った。今度は助手席に座っているのはヨーコだ。
「急に静かになっちゃったね」
「ああ、人が減ったからね」
 妙なものだ。最初はこうして自分一人で運転して来るはずだったのに。いつの間にか人が増えていた。
「Mr.シローは、気持ちのいい人だね」
「そうね、気さくだし、いつも笑顔で話しかけてくれる。あれでなかなか厳しい所もあるんだけど」
「うん、君が彼の前だと妙に大人しく……と言うかしとやかにしているのに気付いたよ」
「…………あ、頭が上がらないの、風見先生には、昔っから……」
「ふぅん?」
 ランドールの口元から笑みがこぼれる。
「何、にやにやしてるの?」
「いや、今日一日で、君の今まで知らなかった面を色々と知ったなと思ってね」
「あうっ」
 ヨーコはがばっと顔を伏せてしまった。ちらっと横目で見ると、耳まで赤くなってる。窓の外に広がる、濃いオレンジの夕焼けが照り映えているのか、あるいは……。
「あ、そこ右に曲がって」
「OK、右だね」
 行く手にこんもりと丸く、木立に覆われた小山が見え始める。
 鎮守の森だ。夢守り神社は、もうすぐそこまで来ていた。

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【ex14-7】ご対面

2013/10/15 2:32 番外十海
 
 一の鳥居を潜り、玉砂利の敷き詰められた細い道を進む。神社に向かう石段が近づくにつれてランドールは車の速度を緩めた。
「もしかして、ここで車を降りなければいけないのかな?」
 実際、石段の上り口の手前には駐車場へと続く分かれ道があった。
 石段は鎮守の森の木々の間を抜けて、上へ上へと続いている。海外用のスーツケースを抱えてこの石段を上がるのは結構、いい運動になりそうだ。何て考えていると、ヨーコがすっと石段脇の一角を指さした。
「大丈夫。その脇に、車が通れる道があるから」
 確かに。ひっそりと木の葉の影に隠れるようにして、斜面に添ってゆるく登って行くスロープがあった。幅はそれほど広くはない。やっと車二台がすれ違える程度だろうか。車を乗り入れながら思わず、ランドールは感心してつぶやいた。
「てっきり、毎日石段を上り下りしてるのかと思ったよ」
「いやいやいや。お守りとか、お札を納品するのは車使わなきゃ追いつかないし、車『の』お祓いも受け付けてるからね」
「なるほど」
「歩いてる時は、そうするけど」
 さらっとすごい事を聞いたような気がした。

 スロープを登り切り、たどり着いたのは荘厳な作りの破風を備えた、瓦葺きの日本家屋だった。それはここに来る前に訪れた風見家の屋敷とどことなく似ていたが、場に満ちる空気は柔らかく、包み込むような優しさを感じる。
 車が前庭に入って行くとカラカラと玄関が開き、キモノを来た男女が出てきた。
 上はいずれもそろいの白いキモノで、女性二人は赤いハカマを履き、男性はグリーンのハカマを身に着けている。ヨーコやサリーがいつも身に着けている神社のユニフォームだ。
「えーっと、あの二人は君の……お姉さん……?」
「よくそう言われるけど、母と伯母です」
「ってことは片方は」
「そ、サクヤちゃんのお母さん」
 つるんとした卵形の顔に、ぱっちりした黒目の大きな栗鼠のような瞳。黒髪はつやつやと長く、小柄でちょこまかとよく動く。うっかりすると、どちらがどちらなのかわからなくなりそうだ。
「なるほど、君たちはこんなにもよく似た母親から生まれたのだね」
 道理で、そっくりなはずだ。性別の差などいともたやすく飛び越えてしまうレベルで。

 車を下りると、女性二人がすばやく近づいてくる。
「おかえりーヨーコちゃん」
「いらっしゃいませ、お待ちしていました」
 日本語だが、歓迎されている事は何となくわかった。
「ただいま、お母さん、おばさん。こちらがMr.カルヴィン・ランドールJr。サンフランシスコでお世話になった方よ」
「まあ、お噂はかねがね」
「お会いできて嬉しいわ」
 まるで三羽の小鳥がさえずりあうような光景だった。音も、見た目も。
「カル、こちらは母の結城藤枝と桜子おばさん……サクヤちゃんのお母さんよ」
 ランドールはきちんと背筋を伸ばし、うやうやしく一礼した。
「お会いできて光栄です、藤枝=サン、桜子=サン」
 母&伯母コンビは目をぱちくり。次の瞬間。頬を染めて嬉しそうにはしゃぎはじめた。
「まあ、紳士ね!」
「桜子さんって呼んでくださったわ、嬉しい!」
 手に手をとってはしゃぐ母二人からやや離れた位置で、緑の袴の男性が軽く咳払いをした。
 白髪の混じった髪、意志の強そうな顔立ち。所作はきびきびして一分の隙も無い。しかしながらまとう空気は極めて穏やかで、向き合う者を受け入れる懐の深さを感じる。ランドールは直感で悟った。
 彼がこの神社の統治者なのだと。同時に、その面差しの中に紛れも無くヨーコと通じる物を見出してもいた。
(この人は、ひょっとして……)
 果たしてヨーコは男性を指し示し、ひと言。
「父です」
「ようこそ、ランドールさん。羊子の父、結城羊司です」
「ハジメマシテ、羊司=サン」
 互いに向かい合って一礼する。やはり父親に挨拶する時の方が緊張するものだ。ぎこちない日本語ではあったが、言えてよかった。
「ささっ、ランドールさん、長旅お疲れだったでしょう?」
「中にどうぞ、すぐにお部屋にご案内しますからねっ」
 ひらひらと着物の裾をなびかせた母二人に囲まれて、否応なくランドールは(かろうじてスーツケースを引っ張り出すのには間に合った)玄関の奥へと連れ込まれる。その背を見送りながら結城宮司はぽつりと低い、小さな声でつぶやいた。
「青い目………ついに来てしまったか」

「やあ、ポチ。久しぶりだね」
 神社の奥に設えられた囲いの中にそいつは居た。ビロードのような滑らかな毛並に覆われた細長い鼻面。色は赤みの強い褐色。背中にはうっすらと白い斑点が並び、枝分かれした角はまだ皮膚に覆われている。
 以前、夢の中で会った時とはかけ離れた姿形、だが間違いなく、あの時会ったポチだ。黒い瞳を半開きにしてじとーっとこちを睨め付け、しかる後、背中の毛を逆立ててぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……どうやら、わかってもらえたようだね」
「うん、リアクションが同じだものね……ぽちー!」
 ヨーコは手にしたタッパーから小さく切ったリンゴを取り出した。
「おやつだよー」
 途端にご神鹿は上機嫌。んふんふと鼻息荒くしながらヨーコにすりより、手のひらに鼻面をつっこんで、サクサクとリンゴをかじり始める。
「やっぱりリンゴが好物なんだね」
「うん、大好きなの」
 沈む夕陽にオレンジに染まりながら二人は寄り添って柵にもたれかかり、ご神鹿との久々の再会を満喫していた。
「今なら触れるかもよ?」
「大丈夫かな」
「うん、リンゴに夢中だからね」
 ランドールは静かに静かに手を伸ばし、ポチに触れた。皮膜に覆われた角は温かく、ほんの少し柔らかい。ご神鹿さまは耳を伏せてはいるものの、逃げもせず怒りもせずに大人しく撫でさせている。
「撫でられた」
「よかったね」
 ちょうどその時、リンゴが無くなった。ポチは即座に顔を背け、のっそのっそと体を揺すってランドールから遠ざかり……そっぽを向いて「ふんっ」と鼻を鳴らしたのだった。

「ランドールさんお刺し身大丈夫よね?」
「サシミ! ブラボー、素晴らしい!」
 夕食の席には、和と洋の料理が混在している。ウィル・アーバンシュタインから連絡を受けてすぐに、食材を買い足したのだろう。カツオの刺し身と鳥の唐揚げ、ハンバーグ、ポテトサラダにホウレンソウの胡麻和え、里芋の煮っ転がし、野菜の漬物色々と。若干、肉類が多めなのは『お客様』に合わせたからか。
 とは言えヨーコの食べる量も決して、ランドールに引けを取るものではなかった。
 三匹の猫たちは行儀良く自分たちの分け前をたいらげ、畳の上や板の間、テレビの脇等、思い思いの場所でくつろぎ、毛繕いをしている。今、ねだってももらえない。むしろ叱られるだけだとわかっているのだ。それでも時折、何やら期待した目をランドールに向ける。
 彼女たちはちゃんと知っているのだ……お客さんは優しい、と。
 しかしランドールも犬を飼っている身である。人間の食事と動物の食事の間にきっちり線は引いている男だった。しばし様子をうかがってから、猫たちは諦めた。
「ランドールさんお箸の使い方上手ね」
「シスコでも中華料理はお箸で食べるから」
「でも里芋つかめるのは上級者よ」
「わ、すごい」
 賑やかにさえずる母と伯母と娘。反して父親は口数が少ないものの、時折、低い声で相づちを打っている。
(何だか、ヨーコが三人に増えたような気がする)
 長い会話になるとさすがにヨーコが合間合間に通訳を入れる。だが、短い会話は英語と日本語でもそれなりに意味が通じているようだった。話す時間が長くなるほど、通じている感覚が強くなる。
 これは一般的なものなのか、この母娘たちならではの事なのか。ヨーコ自身の普段の勘の鋭さを思えば、さほど不思議ではないような気もした。
(ああ、確かに今、私は君の家族に囲まれているのだね……)

     ※

 夕食後。
 ランドールは客間へと引き上げ、ヨーコは母、伯母とともにかいがいしく後片づけをしていた。
 食器をすすぐ水音が途切れた瞬間、食卓に置いたままにしておいた携帯が震え、賛美歌の一節が流れる。
『まきびとひつじを 守れるその宵……』
 刹那、ヨーコの動きが止まる。母と伯母はまったく動じる風も無く手を動かしながらさらりと言った。
「よーこちゃん、ここはもう、私たちがやっておくから」
「お部屋に戻ってていいのよ?」
「う……あ……はい」
 ぎくしゃくした動きで携帯を手にとり、足早に自室に引き返す。廊下との境目の襖を閉めても、すぐには携帯を確認する勇気が無かった。
 ささやかな胸が上下する。知らない間に呼吸が荒くなっていたようだ。全力疾走している訳でもないのに、胸が苦しい。心臓が肋骨を突き破って今にも飛び出て来そうだ。こめかみの内側では、大きな岩を打ち合わせるような。舟が波に揺れ、岸辺にぶつかるような低い音が轟いている。できるものなら両手で顔を覆い、背けたい。
 そう思ったまさにその瞬間。手の中の携帯が震え、再びあの曲が流れる。
『まきびとひつじを 守れるその宵……』
 びくっと、その場ですくみあがっていた。
 賛美歌は出だしの一節のみで後には続かない。電話ではなくメールだ。しかもこれで三通め。
 どうしても開く事ができなかったのだ。彼のいる場所では。書かれているのがどんなに些細な事であれ、きっと平静を保ってはいられない。
 だけど今、自分は一人だ。先延ばしにする理由は、もうない。
 震える手でヨーコは携帯を開き、着信したメールを確認する。『送信者:三上さん』が三通、時系列に合わせて、最初に届いたメールから順に開く。

『あの時の約束、忘れてませんよね』
『考えていてくれてますよね?』

 挨拶も前置きもなしに、いきなりこれだ………。
 へなっと足から力が抜け、ヨーコはその場にへたりこんだ。

『私は真剣です。あなたはどうなんですか?』
(バカにして!)

 最後のメールは少なからず彼女の中の闘志をかきたててくれた。まだ畳にへたりこんだままではあったけれど、ヨーコはふっくらした唇を引き結び、迷いも戸惑いもかなぐり捨てて一気に返事を書き上げる。
 ただひと言。『忘れてない。答えを、出す』、と。送信してから、急激に頭に昇っていた血が下がってくる。それにつれて、逃れようのない気まずさがこみ上げる。
(やっちまったーっ!)
(答えを出すって、どうやって? 何を?)
 白も黒も頭の中で一緒くたになってぐるぐると回る。そのくせ決して混じり合わない。混ぜれば混ぜるほどぶつかり合って、つきつけて来る。近いのやら遠いのやら、多少の違いはあるものの、今生きている自分の時間の延長上に、確実に存在する『現実』ってやつを。
(ああ、もう、どうしろって言うのーっ)

 頭を抱えて部屋中を転げ回りたい。だけど変に気合いを入れたもんだからもう体が強ばって動けない。石になったように硬直していると、不意に誰かがふすまを叩いた。
「は、はい、どなたっ?」
 何て間の抜けた会話してるんだろう。案内も無しに自分の部屋を訪れる人なんて家族以外にいるはずがないじゃないか。
 極めて常識的な思考は、遠慮がちに話しかけて来る声を聞きつけた瞬間、粉々になって吹っ飛んだ。
「ヨーコ? 入ってもいいかな」

(英語ーーーーーーーーーっ!)

「ど、ど、どーぞ」
 畳に両膝ついて座り込んだ姿勢のまま、その場で180度回転。
 襖に手を伸ばして開けると……よりによって浴衣姿のカルヴィン・ランドールJrが立っていた。着ているのは、泊まり客の為に用意されている浴衣だ。くつろいで眠れる事を旨とした肌触りの良い木綿。白地に藍色で麻の葉の模様が入っている。
 サイズは大から小までそろっているはずなのだけれど、日本のトールサイズでは幅も背丈もあるランドールにはいささか丈が足りなかったらしい。
 足首が、見えている。手首もだ。そこはかとなーくつんつるてんの着物を着た子供、と言う印象が漂う。
 それでも帯はきっちり腹で結んでいる辺り、見事な着付けだ。考えてみれば今日は長時間、ウィル・アーバンシュタインと言うまたとないお手本が隣に座っていたのだ。

「やあ。こんな格好でどうかなとも思ったのだけれど、これが日本の習慣ですって君の母上に言われてね」
 ほんの少し目を伏せて、かき回す髪の毛は湿っている。いつもより巻きが強い。そして漂う石けんの香り、肌はほんのりと上気している。つまり、風呂上がりなんだ!
(いつの間にお風呂っ?)
 仰天して時間を確認すれば何としたことか。自分が部屋に引き上げてから、既に一時間近く経過しているではないか。
(私、どんだけぼーぜんとしてたのーっ)
 どうやら、その間に母がランドールに風呂を勧めたらしい。恐らく使い方も説明したのだろう。日本語で、堂々と。
「伝えてくれって頼まれたんだ。風呂が空いたから、次は君にって」
「そそそそ、そうなのっ、ありがとうっ」
 明らかに動揺して何度も詰まりながら答えてから、ヨーコは『んっ?』と首を捻った。
「それ、全部通じたの?」
「ああ、うん。身振り手振りに絵もつけてくれたし、所々英単語が混じってたから何となく……ね?」
 母の押しが強いのか。それともランドールの洞察力が高いのか。

「ふーっっ!」
 洗い場で念入りに体を洗ってから湯船に浸かる。
 熱いお湯に身を浸すと、つい反射的に声が出てしまう。久しぶりの実家のお風呂は、一人暮らしのアパートよりずっと広い。大人2〜3人が同時に入れるように作られているのだ。小さいながらも旅館か民宿の風呂にひけを取らない大きさがある。
 実際、自分やサクヤが家に居た時は(一緒ではないにしろ)総勢5人で入っていたし、泊まりがけで手伝いに来てくれた人も含めて10人近い人数が使っていた時期もあった。それが普通だったし、別段不思議に思った事もない。家族以外の人と同じ風呂を使う事を意識した事なんてなかったはず、なのだけれど。

(さっきまでカルがここに入ってたんだ………)
(時間差で今、混浴しちゃってるんだ!)

 一度、そっちに思考が引っ張られるともう止まらない。耳も頬も首筋も、つるんとした肩、背中、丸い尻、そしてささやかな胸。全身くまなく赤くゆで上がり、その場で硬直。その場でヨーコは湯船に沈んだ。タイル張りの浴槽は、大型の家庭用プールに匹敵するサイズがある。小柄な体はあっと言う間に見えなくなり、残るのはごぼごぼと弾ける泡のみ。

「……ぶはあっ!」

 直後に風呂の水面が割れ、真っ赤にゆで上がった羊が一匹浮かび上がる。

「はー、はー、はー……」
(ダメ、これ以上浸かってたらのぼせる。絶対、倒れる)
 よろめきながら風呂から上がり、濡れた髪をタオルで巻いた。
 いきなり帰っても下着や寝巻に困らないのが実家の良い所だ。時々、自分でも知らないうちに新しいのが追加されていたりもする。ほとんど飾り気のないシンプルな木綿のショーツに、同じく木綿のキャミソールを身につけてから、頭に巻いたタオルを外してそのまま髪の水気をふき取る。
 ある程度ぬぐった所でおもむろにドライヤーをスイッチオン。ぶわっと乾いた風が顔を撫で、髪の毛を吹き上げる。
「あやうく実家の風呂で溺れる所だった……」
 あの大きさにも広さにも慣れてるはずなのに、情けない。やっぱり相当、テンパってる。

 ドライヤーで念入りに乾かすうちに濡れてぺったりしていた髪の毛が、元の軽やかさを取り戻す。仕上げに冷風で一吹きしてからブラシで梳かす。
(毛先、そろそろ切った方がいいかな)
 首に巻いていたタオルを外し、寝巻に袖を通した。洗いざらしのやわらかな木綿が火照りの残る体を優しく包む。白地にエンジ色で染め抜かれた模様はブドウ。伸びた蔓と葉っぱと実がくるくると踊っている。
 前を合わせて腰ひもで縛れば出来上がり。さすがに冬は寒いのでパジャマを着ているが、実家にいる時はもっぱら和装の寝巻と決めている。着替えるのが楽だし、昔からの習慣と言うか、すっかり体に馴染んでいるのだ。

 ひたひたと廊下を歩いて部屋に戻ると、机の上に置いた携帯の着信ランブが光っていた。緑色の点滅と言う事はメールだ。
 開いた画面には予想通り、三上 蓮からの返信が届いていた。
『お待ちしています』
 答えを待っているってことだ。一見、穏やかに受け入れているようでその実、挑発している。携帯の画面をにらむヨーコの口が、きっと一文字に結ばれた。

 わずか十文字に満たないメールが結城羊子にどんな反応をもたらすか。
 実の所、送信者は百も承知の上だった。
 礼拝堂に隣接した神父の執務室では、糸目の神父こと三上蓮が携帯を手に穏やかにほほ笑んでいた。画面には送信済みの文字。
「さて、どう出ますかメリィちゃん……」
 咽の奥で忍び笑いを漏らす。
「くく、くっくっく」
「……兄さん。何か楽しみにしてるのはわかりますけど、ものすごーく悪人っぽいですよ?」
 戸口から投げ掛けられた見習いシスターの言葉を、神父はあえて否定はしなかった。
「迷える子羊の背中を押してみたので、結果が楽しみなんですよ」
「ああ、また撞木でどついたんですね」
 携帯を閉じると、三上はしれっと答えた。
「まぁ、そうとも言います」
「……せめてそこは否定してください、兄さん」

 一方でヨーコは無言で携帯を閉じてバッグに突っ込んだ所。
(ば、か、に、し、てーっっ!)
 せっかくきれいに梳かしたばかりの髪の毛が、もわもわと逆立つ。
 送信した当人が目の前に居たのなら、胸ぐらひっつかんで真意を問いただしたい所だ。そう、当人が居さえすれば!
「あ」
 荒々しく開けたバッグの中から、ふわりと立ち昇る香り。お日さまと、乾いた草と、花の香りだ。
「……」
 ハーブティーの詰まった丸い小瓶。『占い喫茶エンブレイス』で兄弟子の裕二から渡されたものだ。
 手のひらで包み込み、ぽんっと蓋を開ける。あふれ出す香りはさっきよりずっと濃く、強い。吸い込むと荒れ狂っていた感情が、嘘のように静まった。
 雨上がりの青空のようにしんっと冴えた記憶の底から、裕二の言葉が浮かび上がる。
『時差ボケが一番キツいのは今夜だろ?』
「お茶……入れてこなきゃ」
 丸いガラス瓶を抱えて、ヨーコはいそいそと台所に向かった。既に頭の中ではハーブティーを入れる手順をなぞっている。
(一人分は小さじに一杯、ポットのためにもう一杯。ぬるめのお湯で、三分間。ぬるめのお湯で三分間……)
 
 丁度その頃、香草茶をブレンドした当人は……
『夜の部』の営業時間の真っ最中。カウンターの内側でグラスを磨く手を止めて、一人ほくそ笑んでいた。
「さぁてはて……そろそろだろうかねぇ……紳士な狼とテンパり羊……楽しみだこと……にひひっ」
 丁度その時、ドアベルの響きとともに入ってきた客が不審げに首を捻る。
「なぁににやついてんだ、ユージ?」
「いんや? 何でもない、何でもなぁい」
「ふぅん……」
 日本人ばなれして大柄な、浅黒い肌の青年だった。勝手知ったる風で頭に乗せていた帽子を脱ぎ、傍らの帽子掛けに投げるとものの見事に着地。カウンターに肘を付き、品書きも見ずにひと言。
「バーボン。ロックで」とだけ告げた。
「ワンパターンだなあ。たまには他のもの頼めよ」
「……ほっとけ」

 そんな兄弟子どもの反応など露知らず、ヨーコはお盆に乗せたカップ二つを抱えて、しずしずと廊下を歩いていた。長い長い廊下を通り抜け、やって来たのはランドールの泊まる部屋。以前光一やロイ、三上が宿泊してい一角だ。泊まりがけで手伝いに来てくれる人や来客を泊めるための別棟で、宮司一家の居室からは渡り廊下で結ばれている。
 淡い照明に照された廊下を延々と歩く間、ずっとハーブの香りに包まれていた。月の光に浮かぶ中庭の景色もどこか現実離れしていて、池の鯉の跳ねる音が、ぽわんっと遠くで弾けた気がした。
 半ば夢を見ているような気持ちで目的の部屋へとたどり着き、ほとほとと襖を叩く。
「はい?」
「カル、まだ起きてる?」
 声が震えていた。
「ハーブティ、入れたの。ハニーヴァニラカモミールじゃないけど……良かったら……」
 すっと襖が開き、彼が立っていた。
「ああ、良い香りだね……」
 盆の上にはカップが二つ並んでいる。ランドールはごく自然に一歩横に引いて、ヨーコを部屋に招き入れたのだった。

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【ex14-8】あなたに触れたい

2013/10/15 2:33 番外十海
 
 部屋の中には座卓が置かれている。その傍らには客用のフートン……ではなくて布団だ。普段、ベッドで寝起きしているランドールへの配慮だろうか、畳の上にマットレスを敷いて、さらにその上に厚めの敷布団を二枚重ねている。
 座卓にはA4サイズのファイルが載っていた。パソコンから打ち出した紙を綴じたものらしい。所々に漢字が混じっていて、添えられている写真はどこか見覚えのある風景だった。紙を濡らさぬよう、注意してカップを載せた盆を下ろす。
 藍色の草花の模様が入った白いカップだ。一つとって、両手で差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 ごく自然に自分の分をとり、向かい合って口に運ぶ。まず立ち昇る温かな香りと蒸気を吸い込んだ。お日さまのにおい、乾いた草原と、花の香り。温かく、湿っていて、咽の奥へと滑り降りて行く。
「いい香りだね」
「うん……藤野先生がよくいれてくれたなぁ」
 緑と黄色の混じった透き通ったお茶を口に含むと、体の中に染み透る香りが一段と強くなった。
「不思議な味だね。初めて味わうのに、懐かしさを感じる」
「あ、多分、カモミールも入ってるんじゃないかな」
「なるほど、道理で」
「……はちみつ、入れた方が良かった?」
「いや。これはこれで充分味わい深いよ」
 ランドールはくすりと小さく笑った。
「それに私はもう、子供じゃないんだよ?」
 つられてヨーコも笑顔になる。
「そうだった」
 何を固くなってたんだろう。何に脅えていたんだろう。こうして彼と向き合って、顔を見て話していると……どうして自分がこんなにもこの人に惹かれるのか、その一番根っこの部分を強く感じる。明確に言葉にはできないけど、わかる。 

「何、見てるの?」
 目線のみ、卓上のファイルに向ける。
「ああ、秘書が用意してた資料をね。せっかく日本に行くのだから、伝統的な絹織物の工房をその目で見て来るようにアポイントをとってくれたんだ。ただ一つ困ってる事があってね」
 ランドールは眉を寄せて広い肩をすくめた。けれど目元が笑っている。深刻に困っている訳ではないのだ。
「通訳の手配までは手が回らなかったらしい。どうだろう、この工房で英語が通じる人はいるのかな」
 改めてヨーコはファイルに記された工房の名前を読み上げた。見覚えがあるのも道理、よく見知った場所だった。
「あ、ここなら知ってる。うちの氏子さんだから、小さい頃はしょっちゅう遊びに行ってたよ?」
「そうなのか」
「場所も近いしね。工房では、織物の体験もできるよ?」
「ほう、素晴らしい! ぜひ体験してみたいな!」
 青い瞳をきらきらさせている。ああ、この人は本当に自分の仕事が好きなんだなあ。って言うか繊維に触れるのが。
 ごく自然に口にしていた。気負う事もなく、ただ感じるままに。
「私も一緒に行ってもいいかな。久しぶりだし」
「ありがとう、君が一緒なら心強いよ」
「……うん。通訳は、任せて」
(ありがとうって言いたいのは、私の方だ)

 資料に書かれた事に目を通しながら、自分の知識で捕捉しつつ、彼に伝えた。話した。
「綾河岸市は昔から蚕の名産地なの。綾、つまり絹織物を川船で運んだから、『綾河岸』と言う地名になったのよ」
「なるほど! この漢字にはそんな意味が秘められていたのだね!」
「ここで作っているのはツムギと言ってね。日常的に使うため、元は厚みがあって固い生地だったの。でも今は技術が進んで細い、しなやかな糸を作れるようになったから、軽くて柔らかい布になったの」
「おおう、素晴らしい!」
「小学生の時は、学校の実習で実際に蚕の繭から糸を取るのを体験させてもらったわ。もちろん商品じゃなくて体験コーナーなんだけど……」
「何と、実際に繭に手を触れて、糸を取ったのかい!」
 ランドールは頬をうっすら赤く染めて身を乗り出して来た。まるで少年だ。
「うん。細くて、しなやかで、あんなにちっちゃな繭の中に、こんなにも長い糸が詰まってるんだって驚いちゃった」
「素晴らしい! 君は生まれたてのシルクに触れたのだね……この手で。この指で」
「っ!」
 手を握られていた。うっとりとした表情で指先を見つめている。
(落ち着いて、彼が見てるのはあくまで『絹に触れた指』だから。『糸に触った』指だから!)
 必死になって言い聞かせても、ばくばくと脈打つ心臓はなかなか静まってくれない。振り払う事なんか、できるはずがない。あと一秒でも長くつないでいたいって全力で願ってるから。片手にもったハーブティをごくりと飲み干した。
(これでちょっとは、落ち着ける、はず)

「か、絣や縞模様が多いのは、昔の名残ね」
「カス……リ?」
「そう」
 カップを置いて、資料に添えられた写真を指さす。
「こっちが絣で、こっちが縞」
 がっしりした温かい手が離れて行く。ランドールは自分の指で写真に触れていた。
(ああ、やっぱりそうなるよね)
 ちょっぴり寂しい。けど、いかにも彼らしい。
「うううむむむ、何て細やかな模様だ。これはぜひ、実物をこの目で見なくては。サンプルも欲しいな」
「サンプルが欲しいのなら、コースターとかハンカチがお勧めかな。ちっちゃくて、種類がいっぱいあるから」
「なるほど、その発想はなかったよ! ただの端切れを持ち帰るよりずっといい」

 カルの細かな仕草一つ一つを飽きることなく見守った。声を聞いた。一緒にお茶を飲んでる。そんな何気ないことが楽しい。隣にいるから、すぐに触れられる。表情の変化も見られるし、黒い髪の柔らかさも、たくましい体の質量も肌で感じ取る事ができる。メールだけじゃ、電話だけじゃ伝わらない。
 ずっとこうしていられたらいいのに。
(彼も同じことを感じてくれてるんだろうか)
「その繭の糸とり体験、サリーも一緒に?」
「いいえ。学年が違うし、サクヤちゃん、虫が苦手だから」
「ああ……」

 ずっとこんな日が続くって、あの時も信じていた。

 自分たちはハンターだ。
 いつ命を落とすかわからない。次にまた会えるかも定かじゃない。
 九月には三上さんにプロポーズの返事をしなきゃいけない。
 それまでにカルと直接会えるのは、多分これが最後のチャンスだ。
(振ってわいた、予想外のチャンス。まるで夢のよう。いっそ会えないままならば、迷わずにいられたのに)
(何であなたは今、私の目の前にいるの? 夢でも幻でもない、生きた現実の肉体をそなえて……)
 目の奥から温かい雫がにじみ、ぽろっと零れる。

「ヨーコ?」
「あれ? あれれ?」
「どうかしたのかい?」
「な、何でもない」
「何でもないはずがないだろう! 言ってくれ」

 一度綻びた感情が収まらない。何故泣くのか、聞かれても答えられない。声が詰まる。どうしよう、カルが困ってる。眉を寄せて、首をかしげてる。いけない。困らせてはいけない。
(どうしよう。何だかもう、色々と我慢できない)
 戸惑うランドールに静かに抱きついた。拒まれはしなかった。太いがっしりした腕が背中に回され、ゆっくりと抱きしめられる。
(ほんと、どこまで優しい人なんだろう……)
 その瞬間、揺らいでいた心が決まった。
 今だけは、そこにつけ込もう。狡い女。悪い女になろう。今だけは。

「一度だけでいいの……お願い」
 それが何を意味するのか。聞き返すほど彼は子供ではなかった。はずなんだけど!
「何を?」
「………言わせる?」
「言ってくれ、でなきゃわからない」
(あああああああっ、言うの? 言わないといけないのっ!)
 すさまじい羞恥が腹の底からわき起こり、全身の細胞一つ一つを焼き尽くす。でもここまできたら引き返せない。前に出るしかない!
 意を決してヨーコは強ばる口を無理矢理開いた。
「う………だから、その……」
「その?」
「あなたと、したいの」
「何を?」
「っ、だ……だ……」
 肝心要のひと言は、クシャミでもするみたいにぽろっと口からこぼれ落ちた。
「抱いて。抱っことか添い寝とかそう言う意味じゃなくて。性的に!」
「性的にっ」
「性的に。あなたと一つに……なりたい……の」
 消え入りそうな声で。真っ赤になって。それだけ言い終えるとへにゃへにゃと体の力が抜けてしまった。
「も……だめぇ……」

 へなへなと崩れ落ちるヨーコをランドールは慌てて抱き留めた。言われた事の意味がばらばらになって頭の中で渦を巻いている。
「何故」
「そ、それはっ」
 ぽろっと涙がこぼれ落ちる。口を震わせ、何度も咽を詰まらせながらヨーコは必死で声を絞り出した。
「わ、私たちはハンターだから……いつ、何が起きるかわからない。いつか。いつか、私かあなたか、あるいは両方が倒れてしまうか、わからないじゃない」
 言葉の繋げ方も使い方も滅茶苦茶だ! 彼女にしては珍しい。だが言わんとする事は伝わってくる。
 言葉の繋ぎになんか気が回らない程動揺してるのだろう。白く細い咽がひっきりなしに震えている。うつむいていて顔はよく見えない。だが小さな指が借り物の浴衣にすがりつき、握りしめてくる。柔らかな生地に皴が寄り、布のすき間に手の熱さがこもる。
「逃げても悪夢は追ってくる。自分自身の恐怖からは絶対に、逃げられない……だから、だからっ」
 ず………っと鼻をすする気配がした。声はすっかり水を含んでくぐもっている。
「今日、会えるなんて思ってもみなかった。あなたと偶然会えて、家に泊まるなんて、ものすごい幸運。だから余計に思ってしまうの。次もまた、元気で会えるとは限らないって」
 次もまた、元気で。
 いつ倒れるか分からない。
 二つの言葉が互いに響きあい、あまりに厳しい現実を示す。
「……み、みっともないってわかってるんだけど止まらなくってっ」

 ランドールは戸惑っていた。
 こんなにも弱さをむきだしにした姿に、胸が高鳴るのは何故だ。不覚にも程がある。不謹慎きわまりないじゃないか!
 だが同時に、あのヨーコが。いつも凛として危機に怯まず、冷静に仲間を率いる勇敢なヨーコが、ここまでよれよれになった弱い姿をさらしている。その事実に驚くと同時に感じてもしまうのだ………嬉しいと。
「一度だけでいいの……お願い……」
 つつましく袖で顔を拭いながら肩を震わせ、すがりつく彼女の何と愛らしい事か。
「それだけで私、この先ずっと生きて行ける」
 ここまで来ると、何を求められているのか、さしものど天然にもわかってしまった。
 一度理解してしまったら、体のありとあらゆる感覚を通して入ってくる情報の多さに。
 その一つ一つの意味する事実に気付いてしまう。
 嗅覚……甘い。ひたすら甘い。滴る涙の一滴までもがねっとりと頭の中に忍び込み、まといつくような香りがする。しかも次第に強くなって行く。
 触覚……手にしっとりと吸い付くこの肌の熱さはどうだ!
 聴覚……息が荒くなっている。心臓の鼓動まで聞こえそうだ。
(抱く? ヨーコを?)
 激しい鼓動とともに心臓が限界まで膨らみ、次いで痛いほど収縮する。
 薄い寝巻のすぐ下に包まれた肉体の存在を強く感じた。自分に比べて華奢な骨格で、つるりと凹凸がなく、それなのに丸みを帯びた不思議な生き物。いけないとわかっているのに、思い出してしまう。
 これまで何度か触れ合った事はあった。ただその時は自分が裸でも彼女が服を着ていたり、あるいはその逆だったりで、一度も生まれたままの姿で抱きあった事はなかった。
 それに気付いた瞬間、浴衣や下着がとてつもなく邪魔な物に思えてきた。
 その衝動が結びつく先を想像すらできないまま、カルヴィン・ランドールJrはひたすら戸惑っていた。うろたえていた。

「む……無理だ………ヨーコ………私は………」
 ゲイだ、なんて言い訳は表層部分を軽くかすめるだけ。問題はもっと、奥深くにある。それを口にするのは男性としてすさまじく勇気のいる事だった。『雄の面子』に関わることだった。
 それでも言わなければいけない。
 今、顔中涙でくしゃくしゃにしてすがりついているヨーコに答えなければいけない。彼女は恐らく、自分なんか想像もできないほどの葛藤を経て女性として、おそらくは一番、勇気のいる事を口にしたのだから。
 混乱して記憶の欠片が明滅し、意識がうずを巻く。そんなとんでもない状況に陥りながらもランドールはあくまで紳士だった。
「私は、今まで女性を抱いた事がないんだ!」
 腕の中でヨーコが息を呑む。
「ちゃんとできるか……わからない……」
 二人は硬直したまま、呼吸さえ忘れて見つめあった。カップから立ち昇るハーブティの湯気だけが唯一の動く物だった。
 どれほどの間、そうしていただろう。
「は……初めてなのは………私も、同じだから」
 じわじわとヨーコの頬に、首筋に薄紅色が広がって行く。
(ああ、君の肌にはこんなにも美しく紅がさすのか)
 服で隠れた部分はどうなっているのだろう。においだけではもどかしい。布の上から触れてるだけでは物足りない。
「そうか。初めて同士なんだね、私たちは」
「そうよ。初めてと初めて。だから戸惑うのも当たり前、失敗するのも当たり前。一番、みっともなくて恥ずかしい部分を見せてしまうから、あの、その……っ」
 何だか急に肩にがちがちにこもっていた嫌な強張りが抜けてしまった。
 ああ、そうか。みっともなくても、恥ずかしくても、失敗を繰り返してもいいんだ。体裁とか、自分で作った規則なんか全部取り払ってしまえ。そんなものに縛られるだけ時間の無駄と言うものだ。
 一緒にいる時間は限られている。迷ってる暇なんかないはずなんだ。
「後悔はしないね?」
「するぐらいなら、最初っからこんな事しない」
 彼女らしい。涙をいっぱいにためた潤んだ瞳で、真っ赤になって小刻みに震えて……それでもまっすぐに見つめてくる。
 ランドールは改めてヨーコの腰に手を回して引き寄せる。
「君に触れたい。何に遮られる事も無しに」
 小さく、だが確かにうなずいた。これから起きる事全てを受け入れると無言のうちに伝えてくれた。

全年齢向けルート→【ex14-10】パニック朝ご飯
大人向けルート→【ex14-9】★★★夢の外までも

【ex14-9】★★★夢の外までも

2013/10/15 2:35 番外十海
 
 震える手で眼鏡をつまんで、外す。ツルを畳んで座卓に載せて……ヨーコの体を静かに布団に横たえる。
「え、あ、カル、ちょっとっ」
 帯に手をかけるとヨーコはうろたえた。
「望んだのは君だ。そうだろ?」
「ち、ちがうの、そうじゃなくって……明かり、消してっ」
「嫌だ」
「え」
「明かりを消したら、私には見える、けれど君には見えなくなってしまうだろう?」
「あ、あ、あ……」
 自分の帯に手をかけて一気にほどいた。支えを失った浴衣を肩から抜き取り、後ろに落とす。
「ふわぁ……」
 そのまま勢いでパンツを脱ぎ、足から抜き取る。
「君の全てが見たい。私の全てを見て欲しい」
 ヨーコはおずおずと寝巻を留める帯に手をかけてほどいた。半身を起こし、緩めた帯を抜き取って前を開く。
「キモノの下には下着はつけないんじゃないのかい?」
「こ、これは寝巻だから」
 単純な構造の下着には男女の差はほとんどない。だからランドールもためらわずに取り去る事ができた。
 互いに一糸纏わぬ姿で布団に横たわり、抱きあった。
 肌と肌が直に触れあう。その場所から蕩けて一つになりそうな心地がする。もっとだ。もっと触れたい。溶け合いたい。
 重なりたい。ただそれだけの想いが手を動かす。
「あっ」
「柔らかいな、君の胸は」
「は、はずかしいこと言わないでぇ」
「不思議な手触りだ。こんなに……」
「薄いのに?」
 胸の厚みに関して言えば明らかにランドールの方が、量があった。ただしその中味は鍛えられた筋肉だ。固く張りつめている。乳首のつき方も違う。確かめるたびに彼女の体がわななき、震え、手のひらで塞がれた口からかすかな喘ぎがこぼれる。
 その声に誘われてまた触れる。

 未知の領域を探りながら一歩、また一歩と奥に進んだ。
「ひゃっ、あ、カルぅ、そ、そこはぁ」
「ヨーコ……」
「あふ……な、何?」
「濡れてる」
「………っっ!」
 ばっと両手で顔を覆ってしまった。
「そ、そこは、そう言う仕組みになってるのっ」
「すまない、触れるのが初めてなんだ」
 こんなに狭い場所に、果たして入れるものなのだろうか? 入ってしまっていいんだろうか?
(とにかく、解さないと……)
 幸い、彼女自身の零した雫で濡れている。指ですくいとり、塗り広げた。にちゃっと粘りのある水音を聴くと、ひどく卑猥な事をしている気分になる。
「……触るよ?」
「う、うん」
 指の一本も入るのが困難かに思われたそこは、ランドールの想像以上に柔らかく、しなやかで伸縮性があった。
 だが同じくらい強く収縮し、弾力のある肉壁にぎちっと指が締めつけられる。
「う、うぅ、んん、んぅんっ」
「あったかいなあ……大丈夫か、痛くないか?」
「い、いたくはない……けどっ」
 充血し、膨らんだ内壁を注意深くまさぐると、不意にヨーコが咽をそらせ、びくん、びくんっと震えた。
「どうしたんだ、ヨーコっ」
「ふ、は、あ、らめ、そこはっ」
「っ!」
 大量のとろみのある液が奥から分泌され、さらに滑りが良くなった。痛いのではない。苦痛ではない。
「そうか……ここが……」
 もはやためらう理由はない。あふれ出す蜜の助けを借りて、指を抜き差しした。彼女の中のポイントを時にじらしながら。時に執拗に攻めながら。
「う、うぐぅ、んふぅ、う、う、うくーっ」
 ヨーコは寝巻の襟を噛み、必死で声を殺している。奔放なアメリカンの反応とは全く異なっていた。その慎ましさにさらに体内の火がかき立てられる。男でも女でもない、自分は今、ヨーコと言う存在を欲しているのだ。
「一度……イっておいた方が良さそうだね」
「う、ぇえ?」
「力を抜いて。私に委ねてくれ」
「う……うん」
 指だけで彼女を高みに導いた。それはとても不思議な感触だった。手の中で熱く濡れた体が弾み、歓喜の声を上げて意志や自制心の軛を放たれる。切れ切れに洩れる声は日本語だった。英語を操るだけの理性が飛んでしまったのだ。
 他ならぬ自分の手が彼女を奏でているのだと思うと、体内の血が沸騰し、それがそっくりそのまま心臓に集い、容赦なく叩き込まれて行く……足の間に向かって。
「あ……あー……」
 恍惚として余韻に震える体から指を引き抜くと、とろみのある透明な糸が滴った。潤滑剤なんか必要ないくらいに濡れている。
 女性の体と言うものは、男を受け入れるようにできているのだとつくづく思う。
 いきり立つモノを見て、彼女が咽を鳴らす。
「や……おっきい……は、入るかな」
 こう言う所は男も女も同じ反応をするらしい。
「大丈夫だよ。たっぷり弄って解してあげたからね……さあ、力を抜いて」
「う……うん」
 財布の中からコンドームを取り出すのにほんの少し手間がかかった。明かりをつけっぱなしにしておいてよかった思う。いかにもせせこましい動作であり作業だったけれど、それ故に冷めると言う事は何故だかなかった。顔を覆う指の間からちらちらとヨーコが見ていたからだろうか。時折、『きゃ』とか『わあ』とか声を零しながら。
(可愛いな)

 そしてあまりにも新鮮だ。
 女性の性的な興奮は外見上の変化に乏しい。だがそれ以上に内側は熱く熟れ溶けている。
「……入るよ」
 狭く引き絞られた中をいくらも進まないうちに、先端が固く締まった弾力のある『輪』に突き当たった。尚も奥に進もうとすると、ヨーコが眉をしかめ、うめく。
「あ、う、ううんっ」
「痛いのかい? やめようか?」
「い、いえ、だめ……そのまま、来てぇ」
 言葉に出さずともわかっていた。通じていた。今、ためらったら次は無いのだ。ランドールは腹を決めた。細くなめらかな腰を両手でがしっとばかりに抱え込み、一気に腰を打ち付けた。
「………っっ!」
 寝巻の襟を噛みながら咽奥でヨーコが叫ぶ。閉じた目から涙がこぼれる。
 ぶつっと何か固く締まった輪を通り抜け、最奥に達したのを感じた。
(何て狭さだ。もう、届いてしまったのか?)
(このまま、欲望の赴くままに暴れたら……君を壊してしまうっ)
 つかの間そんな恐怖に震える。歯を食いしばって震えながらヨーコは目を開いた。その姿が一瞬、二重にぶれる。
「はー、はー、はー……」
「ヨーコ?」
「反則かなって思ったんだけど……も、大丈夫。『治した』から」
 それでも滴る破瓜の血は消えない。
 改めて知る。彼女は正真正銘、バージンだったのだ。他のどんな男も触れてはいなかったのだ。生まれて初めて受け入れたのは、自分なのだと。
「……ヨーコ」
「きゃっ」
 手をしっかり握りあったまま、動いた。委ねられた小さな体の中を、夢中になって抉った。奥まで深々と貫いた。
 釣り上げられた魚のように跳ねる瑞々しい肢体を貪った。
「う、く、う、あ……っ、カル、カルヴィン……っ!」
 せっぱ詰まった吐息の合間、切れ切れに名を呼ばれて脳みそが沸騰する。
(君が欲しい。食べてしまいたい。他の奴になんか見られないように、隠してしまいたい)
 小柄で華奢な体を丸ごと腕の中に抱え込み、自分自身の体で飲み込んで、獣みたいにがくがくと腰を揺すった。
「あ……………っ!」
「う、んぅっ」
 放出は一度では収まらなかった。
 二度、三度と小刻みに放ち、その度にわななく彼女の震動に包み込まれ、恍惚の境地に導かれる。
 抱きしめているはずなのに、逆に抱きしめられているような心地がした。
「はっ、あ、あー……」
 心地よい脱力感に身をまかせ、まどろみの底に意識が沈みかける。
(ダメだ、まだ眠ってはいけない。する事が……残ってる)
 名残を惜しみつつ、鋼鉄の意志を振り絞って体を離す。その動きに導かれて鮮やかな赤い血が伝い落ち、点々と敷布に滴った。まるで新雪の上に散った薔薇の花びらのようだった。

     ※

 水が流れている。
 さらさらと。
 さらさらと。

(ここは……前にも来た事がある)

 岸辺の木々の枝葉の間から、金色の光がこぼれ落ちる。目を射るほどの眩しさは無い。穏やかで、優しい光だ。
 足下の草は青く柔らかく、間に小さな花が咲いている。青、赤、白、そして黄色。いずれも花の内に露を抱き、うっとりするほど甘い香りを放っている。
 川の水は透き通っていた。それこそ底の砂の一粒一粒まで数えられそうなくらいに。水の流れを目で追いかけると、そこに彼女が居た。
 白い薄物一枚まとっただけの姿で仰向けに川床に横たわっている。透明な水がすんなりと伸びた細い手足やつるりとした胸、ふっくらと丸い腰、黒いつややかな髪を濯いでいる。少女のようであり少年のようであり、妖精じみた肢体をもはや誰はばかることなく目で愛でる。
(本当に、君は、きれいだ)
 半ば閉じられたまぶたの間からのぞく濃い褐色の瞳は夢を見ているように穏やかで、彼女がとても満ち足りた状態でいる事が伝わってくる。
 同じ思いが、胸の中に湧いた。
 その瞬間、手の中に花が生まれていた。
 薔薇だ。
 小さな薔薇。色は明るいクリーム色で花びらの端にほんのりと紅が入っている。みずみずしい花びらに口付けを落とすと、ランドールは生まれたばかりの薔薇のせせらぎに浮かべた。
 穏やかな水の流れが、小さな薔薇をヨーコの元へと運んで行く。彼女は目をあけて、こっちを見て、ほほ笑んだ。
 それが嬉しくて、また新しい花を浮かべる。今度のは瑠璃色の矢車菊を。次は白いヒナゲシを。流れ着いた花はヨーコの髪や衣服にそのまま宿り、彼女を彩る。
 どれほどの間、この他愛ない遊びに没頭していただろう。
 ふと気配を感じ、ランドールは顔をあげた。
 見られている――。

 対岸に、男が立っていた。黒に近い灰色のスーツを着て、内側のシャツは濃い藍色。背はランドールほど高くはないが、日本人男性としては高めだ。顔に深い皴が刻まれてはいるが、年齢は四十代半ばと言った所だろうか。額を中心に眉は強く上向きの直線を描き、薄い唇は硬く引き結ばれている。
 だが目元は………。
 目尻が下がり、優しげだ。
 男はじっと川床に横たわるヨーコを見つめていた。いや、見守っていた。だからこそ、こんなにも穏やかな眼差しをしているのかも知れない。ランドールの気配に気付いたのだろう。顔を上げ、こっちを向いた。
 刹那、二人の男の目線が交差する。
(あなたは……?)
 彼が何者なのかはわからない。けれどヨーコに深い関わりを持つ人間なのだと知った。
 それは、一瞬の邂逅だった。
 男は口元をゆるめてかすかにほほ笑み、背を向けて歩き去る。行く手は淡い光に包まれていて先を見通す事はできない。
「待っ……!」
 もっと、彼と話したい。話さなければいけない。そう思って踏み出した時にはもう、男の姿は光に溶け入るようにして消えていた。
「……」
 ぱしゃり、と水音が聞こえる。いつの間にかヨーコが水から上がり、岸辺にちょこんと腰かけていた。
 迷わず隣に腰を下ろし、肩に手をかけて引き寄せる。
 小さな華奢な体が寄り掛かってくる。

(そうか)

 胸の奥底に幾重にも重なる箱が開いて、開いて、開いていって、一番最後の蓋が開く。
 中にある答えはあまりにも単純で、ありふれていて、今まで見えなかったことが笑ってしまうくらい不思議に思える。
 
(私は君と一緒に居たいのだ。夢の中でも。外でも変わらずに、寄り添っていたいのだ)

 ヨーコの髪に挿した花がしゅるしゅると伸びて、葉を茂らさせ、広がって行く。伸びた蔓にもまた蕾が生まれ、膨らみ、花開く。蕾が開くたびに、水晶の鈴を転がすような透き通った音色が響いた。
 枝の間から降り注ぐ光は次第に輝きを増し、周囲の景色がかすみ始める。

 手のひらを重ね、指をからめて握りしめた。
 夢が終わっても、離れぬように………。

 夢の終わる間際。どこからともなく舞い降りた青いリボンが、ふわりと重ねた手に巻き付いた。

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【ex14-10】パニック朝ご飯

2013/10/15 2:36 番外十海
 
 日曜日の朝。
 風見光一と、ロイ・アーバンシュタインは爽やかに目覚めた。今朝は何と、ニンジャ・マスターが。ウィル・アーバンシュタインが直々に稽古をつけてくれるのだ! 前の晩は二人とも楽しみでなかなか寝つかれなかった。さながら遠足前日の小学生のように。
 睡眠時間が多少削られたが、そこは日ごろ鍛えた体力で乗り切る。稽古着に着替えて庭に出ると、そこには既に身支度を整えたウィルが待っていた。
「やあ、おはよう、ロイ、コウイチ」
「おはようとざいます!」
「おはようございます!」
「では行こうか」
 紺の稽古着姿でウィル・アーバンシュタインは胸を張り、懐からサングラスをだして、かけた。
「え、庭で稽古するのではないのですか?」
「うむ、今朝はちょっとばかり遠出をしようと思ってね。付いて来れるかな?」
 ロイと風見は顔を見合わせ、力強くうなずいた。
「もちろんです!」
「はっはっは、では来たまえ、若者たちよ!」
 言うなり走り出すニンジャマスター。その姿は常人には視認する事すら不可能! しかしロイと風見はためらわず、後を追った。ちらりと振り返ってそれを確認すると、ニンジャマスターは口元に笑みを浮かべ、一段と足を早めた。

 三人は走る。袴の裾をなびかせ、常人には感知し得ない早さで。通常の道はおろか、時には塀の上、屋根の上すらも通り道として、三次元的かつアクロバティックな経路で。
 直に二人の少年は気付いた。これは単なる移動ではない。ニンジャマスターに置いて行かれないように走る事そのものが、試練であり鍛練なのだと!
 時折、あまりに予想外の動きにニンジャマスターの姿を見失う時もあった。
 だが二人は力を合わせて彼の痕跡を探し、感知し、再び追跡を始める。夢中になって走り続けた。持てる力の全てを尽くして、感覚を振り絞って走った。
 やがて、ニンジャマスターは足を止めて振り返った。やや遅れて、二人の少年が彼の背後に下り立つ。

「よくぞついて来られたな。腕を上げたね、コウイチ、ロイ!」
「ありがとうございます!」
「やったぁ!」
 三人は今、こんもりと生い茂った森の中の、高い高い石段を上った先……神社の境内に居た。
 風見とロイは改めて周囲を見回し、あっと声をあげた。
「こ、ここはっ」
「結城神社じゃないですかっ!」
 ヨーコ先生の実家であり、二人とも度々手伝いで訪れている場所である。
「いつの間にこんな遠くまで」
「おじい様を追いかけるのに夢中で、気付かなかったヨ……」
「はっはっは! そうだろう、そうだろう! ……さて、せっかくだから結城サンたちにご挨拶して行こうか」
「え、でもこんなに朝早くからお邪魔しちゃっていいんでしょうか」
「大丈夫、既に桜子=サンと藤枝=サンには連絡しておいた」
 ウィルの手にはきっちりと携帯電話が握られている。
「ま、まさか走ってる途中で電話したんですか!」
「いや、さすがにそこまでは。ちょっとメールしただけだよ」
 風見とロイはぽかーんっと口を開けた。
(いつの間に?)
 自分たちはウィルに置いて行かれないように走るのに必死で、とてもじゃないけどそんな余裕は無かった!
「はっはっは、いやあ気持ちのいい朝だな!」
 爽やかに笑いながら歩き出すウィル・アーバンシュタインの背を見ながら二人はぼう然とつぶやいたのだった。
「さすが、おじい様デス……」
「ニンジャマスター、恐るべし」

 それはある意味、虫の知らせのようだった。
 珍しく朝早く、ベッドの中で目を開けた途端、神楽裕二はふっと思ったのだ。
(結城神社に挨拶入れとくか?)と。
 文字通り降って湧いたこの考えは、昨日会った妹弟子と、彼女との間に何やら訳ありな青い目の紳士に端を発する物だった。ゆるく仕掛けた糸が果たしてどんな結果をたぐり寄せたか、気になる。起き出す前に携帯に手を伸ばした。
 眠たい目をこすりながら、どうにかこうにか短いメールを打ち終える。
 ただひと言『おはようさん、心の鍵は開いたかい?』
 宛先はテンパり羊のメリィちゃん。まあ答える余裕があるかどうかは疑問だが、いつ見るかは問題じゃない。
 カンの良い妹弟子のことだ。この一文を見れば昨日、自分の渡したお茶の正体にも気付くだろう。
 ほくそえみながらベッドから抜け出す。軽くシャワーを浴びて、着替え済ませると下に降り、今しもエンジンをかけたばかりの車のドアを開けてひょいと乗り込んだ。運転席に座っていた、がっちりした体格の男がぎょっとした顔で目を見開いた。
「うぇ、ユージ? 何で? 俺、起こしちまったか?」
「いんや。ちょいと用事を思い出して、自主的に、ね」
「うっそだろ。マジかよ……雪降るんじゃね?」
「言ってろ」
 助手席のシートによりかかり、シートベルトを締める。ハンドルを握る青年が、自分の頼みを断らない事は百も承知の上だった。
「行きたい所があるんだ。車、出してくれるか?」
 青年は何やらぶつくさ呟いていたが、素直に車を発進させた。
「で、どこに行くって?」
「んー、結城神社」
 
 社務所の前で車を降りた頃には、何故、日曜の朝っぱらから自分がここに来たのか、あらかた理由を説明し終えていた。(もっともあくまで表面的な事柄ではあったけれど。)
「んじゃ、こっから先は俺一人で行くから」
「おう、気を付けてな」
「あんがとな、倫三」
 走り去る車を見送ってから、呼び鈴を……押す前にがらっと玄関が開く。
「ゆーじさん」
「待ってたのよ。ささ、一緒に朝ご飯食べてくわよねっ」
「え、あ、はい」
 ひらひらと現われた桜子と藤枝に挟まれて、否応なく中に連れ込まれる。今朝は食堂のテーブルではなく、茶の間の座卓に料理が並んでいた……人数が多いからだ。
「おや」
「やあ、ユージ、おはよう!」
「あ、おはようございます裕二さん」
「オハヨウゴザイマス」
 ウィル・アーバンシュタインと孫のロイ、そして風見光一までもが朝の食卓を囲んでいたのだった。
 皿の上には、人数分のシャケの切り身がこんがりと焼かれ、ナスとキュウリの漬物と、豆腐とホウレンソウの味噌汁、ご飯、納豆にひじきの煮物、目玉焼きが並んでいる。
「ほー、久しぶりだね、これだけきっちりした和食の朝ご飯は」
 それとなく目線を走らせる。隣り合って座ってるくせに、一向に目を合わせようとしないランドールとヨーコの二人に向けて。気配に気付いたのかヨーコがちらっと顔を上げ、ほんの一瞬、にらんで来た。どうやら、メールを読んだらしい。
 にじみ出す笑みを隠そうともせずに見返すと、熟したトマトよろしく真っ赤になる。ひと言も言い返してこないとは、珍しい事もあったもんだ。
「いただきます」
「いただきます……」

 にやにやしている間に食事が始まる。白いご飯にシャケを乗せて一口ほお張ってから、裕二はそれとなく水を向けてみた。
「で、昨夜はよく眠れたかい、社長サン?」
 びくっとランドールと、なぜかヨーコもそろって身をすくませた。
(おー、おー、おー……わっかりやすいねぇ)
 ほくそ笑む間もあらばこそ。次の瞬間、カルヴィン・ランドールJrは誰もが予測し得なかった行動に出た!
 がばっと畳に手をついて、頭を下げたのである。
 ヨーコの両親に向かって。
 そして、彼は言った。

「お嬢さんとの結婚を許可していただきたい!」

 もちろん英語で。

 一瞬のうちに、その場の空気がしんっと凍りついた。
 誰も彼もが箸を持ったまま凍りついていた。廊下でまるまると寛いでいた猫たちでさえ、動きを止めた。
「………………裕二くん」
「何すか、羊司さん」
「私は、あまり英語が得意ではなくってね……彼は、何と言ったのかな」
「あー、その………ヨーコと結婚させてくれって」
 裕二は見た。かくかくとした動きでヨーコが箸を置き、立ち上がり、右手を振り上げて、おもむろにランドールの後頭部をぺちっと張るのを。
「オウっ?」
「おばかっ! 順番が逆でしょうがっ! 何でいきなり、私をすっ飛ばしてお父さんお母さんに言ってるのよっ」
「すまない、動揺してたんだ」
 ランドールは慌ててヨーコに向き直り、がっしとばかりに両手を握った。
「昨日、自分の本当の気持ちに気付いた。君と一緒に居たいんだ。夢やメールや電話越しじゃない。生きている君と、同じ場所で、同じ時間を共有したいって」
「そんな……カル……」
 ぱちっと瞬きすると、黒目がちの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わ、わたしだって、一緒にいられたらいいなって思ったけど………願っちゃいけないことなんだって、それで、それで……」
「一度、気付いてしまったらもう、二度と手放せない。改めて言う。君を愛してる。お願いだ、ヨーコ。私と結婚してくれ。生涯の伴侶となってくれ」
「っっっ!」
 凄まじい勢いで交わされる英語のやりとりを、裕二は手短に通訳していた。
 何となればウィル・アーバンシュタインは慈愛に満ちた瞳で見守っているだけだったし、ロイに至っては感動に打ち震えていてとてもじゃないけど、通訳どころじゃあなかったのだ。
 ヨーコは言葉も無しにぽろぽろと涙をこぼしていたが、やがて、ゆっくりと、確かにうなずいた。
「……はい」
 ランドールはヨーコを抱き寄せて、そのまま二人は……熱い口付けを交わしたのだった。
 朝食の席上で。
 両親と伯母と教え子とニンジャマスターと兄弟子が見ている前で。

「あー、その、裕二くん……もしかして私の娘は、OKしたってことなのかな」
「どうやら、そのようで」
 結城羊司はがばっと片手で目を覆い、肩を落として呟いた。
「あの子が留学するって言った時からいつか、こんな時がくるんじゃないかって思ってたんだ。金髪に青い目のボーイフレンドを紹介されるんじゃないかって」
「一気に結婚まで行っちゃいましたもんねえ」
「まあ、青い目だけど金髪ではないし。ダメージは半分、半分だっ」
 拳を握って何やら自分に言い聞かせる羊司の姿を見て、裕二は思った。
(この人も、かなり動揺してるんじゃね?)
 ここに来てようやく、真っ赤になってただただ震えていたロイが硬直状態を脱した。
「おめでとうございます」
 やや遅れて風見光一も後に続く。
「おめでとうございます。よーこ先生、ランドールさん」
「Thanks……」
「あ、ありがとう」
 やっと実感がわいてきたのだろう。二人はしっかりと手を握りあったまま頬を染め、うなずいた。
「おめでとう」
 よく響くバリトンでウィル・アーバンシュタインが祝福の言葉を述べる。
「やあ、今日は予想外に素晴らしい日になったね!」

 その間、伯母と母はさっさかさと台所で忙しく立ち働いていた。ほどなく、手際よく食卓に新たな椀が並べられて行く。
 中味が何なのか、確認した途端ヨーコの髪の毛がもわっと逆立った。
「え、お赤飯っ? いつの間にっ!?」
「………ナイショ」
「今は便利よね、炊飯器で簡単に炊けちゃうから」
「オセキハン?」
「日本の伝統だよ、カル。ハッピーな事があると、それを祝ってアズキを入れて炊いたゴハンを食するのだ」
「なるほど、この豆はアズキなのですね……」
 おめでたい席ではお赤飯。正しいのだけれど。正しい事なのだけれど。風見光一はじっと、椀に盛られた赤飯をにらんだ。
(何なんだろう。胸の奥がもやっとする)
 それが、姉も同然の先生が目の前でプロポーズを受け入れた事に対する戸惑いと、ささやかな嫉妬の混成物なのだとは、彼自身まだ気付いてはいなかった。
 
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【ex14-11】ずるいや

2013/10/15 2:37 番外十海
 
 少しばかり時間を遡って日曜日の朝。
 いつになく落ち着かない気分で朝のお務めを終えた結城羊子が、巫女装束を着替えるべく部屋に戻って来ると……。机の上で携帯が、ちかちかと着信ランプを点灯させていた。
「あー」
 すっかり触る事すら忘れていた。手を伸ばして開くとメールが二通。まず先に届いていた方から開封して目を通す。
「サクヤちゃん」
 文面はただひと言『おめでとう』、それだけ。携帯を胸に抱きしめ、羊子は深く息を吐いた。
(やっぱり伝わっちゃったのね……)
 だったら余計な言い訳も説明も必要ない。かちかちとボタンを押して短い返事を送った。
『ありがとう』
 これで充分。

 続いて二通めを開けた瞬間、ヨーコの目が点になった。
『おはようさん、心の鍵は開いたかい?』
 差出人は兄弟子の神楽裕二。無味乾燥な電子の文字の向こう空、歯を剥いて笑ってる顔が見えたような気がした。
「め……」
 道理で、懐かしい香りがするはずだ。あのハーブティ、時差ボケ対策なんかじゃない。藤野先生直伝のハーブティ『オープンハート』。その名の通り閉ざされた心を開く魔法のお茶だ。
 確かにリラックスはするし、疲れもとれる。神楽裕二は嘘は言っていない。言っていないけれど。
「めーっっ!」
(騙されたーっっ!)
 いたたまれずうつ伏せにつっぷし、手足をばたつかせる。悔しさと恥ずかしさがないまぜになって、素直に返事を出せない。とにもかくにも着替えをすませ、台所に向かう。
「今日は何だか量が多いね」
「ええ、せっかくお客さんがいるんですもの! ね?」
「ね?」
 この後、羊子は思い知らされる事になる、浮き浮きとした母と伯母の様子を不思議に思わなかった己の迂闊さを……。

      ※

 疾風怒涛、波乱万丈の朝食の後、予定通りランドールとヨーコは織物工房へと見学に出かけた。何しろ有能秘書シンディが訪問予定時間まできっちりと段取りをつけてくれたのだ。すっぽかしては失礼に当たる。
『外国の社長さんが見学に来る!』
 出迎えた先方はがちがちに緊張していたが、同行したヨーコと挨拶を交わし、彼女が通訳を務めると聞くと一気に壁が崩れた。
 繭からの糸取りから染色、機織りまであらゆる工程を体験し、サンプルとなるコースターや端切れを入手して、さあお仕事はこれで終わりですとなった時点で工房の主が何気なく尋ねた。
「それで、結城神社のお嬢さんとはどう言ったお知り合いなのですか?」
 条件反射でさくっとヨーコが英語に翻訳したこの問いかけを聞くと、ランドールはきっぱりはっきり正々堂々と答えたのだった。ご丁寧にヨーコの手をとって。
「彼女は私のフィアンセなのです」
 ……もはや翻訳するまでもなかった。言葉以上に見つめる視線の熱さと、指までからめてしかと握り合う手と手が語っていた。

「おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
 祝福を受け、熟したトマトのように真っ赤になったヨーコと腕を組み、ランドールは意気揚々と工房を後にしたのだった。
「実に実りの多い訪問だったよ。ありがとう、ヨーコ」
「どういたしまして……」
 車を出しながらランドールは不思議そうにヨーコの顔を見つめた。
「暑いのなら、エアコンを強くしようか?」
 びっくんっとヨーコは助手席で飛び上がり、首を左右に振った。
「ち、ちがうの、そう言うんじゃないの。ただその……」
「うん?」
 首を傾げて次の言葉を待つ。
「おめでとうって言われれば言われるほど、ああ、ほんとにあなたと結婚できるんだって、実感が強くなってきて……」
 耳まで赤く染めながらヨーコはランドールの瞳を見つめ返し、ほほ笑んだ。桜桃のような唇をほころばせて。
「うれしいの」
 ランドールは思った。
 もしも今ハンドルを握ってさえいなければ、この場で抱きしめてキスするものを! そう、婚約者なのだからもはや誰に遠慮する必要があるだろう。
 ……と、ここまで来て思い出す。
(いや、待て、ここは日本だ)
 深呼吸一つ。
 さすがに、サンフランシスコの開放的な感覚で行動しては、いろいろと問題があるだろう。ならば、日本においても許容されているであろう大切な事を済ませておこうではないか。

「ヨーコ」
「なぁに?」
「この近くに、ジュエリーを扱ってる店はないだろうか」
「……ふぇ?」
 ぱちくりとまばたきしている。ああ、普段の君ならここまで言えばすぐに答えを返しているだろうに。
 どれだけ舞い上がっているのかと思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「指輪を探したいんだ」
「それって……まさか」
 うなずくと、彼女は真ん丸に目を見開いた。
「帰国の前に、エンゲージリングを贈りたい……君に」

 運命と言うのはどこでどう、巡り合うかわからない。サンフランシスコの目抜き通りの宝石店だろうが、地方都市の駅前の、商店街の片隅にある個人経営の小さなアクセサリー工房だろうが、見つかる時は見つかるものなのだ。
「これ……素敵」
 ヨーコが選んだのは、プラチナの地金にハートシェイプのサファイアをあしらった指輪だった。流れるような白銀の流線が、優しく濃紺のハートを包み込む。一粒添えられたダイヤモンドは小さいけれど、その輝きの強さでサファイアの青をよりいっそう、際立たせる。
「サファイアだよ?」
 メインはダイヤモンドでもないし、ヨーコの誕生石でもない。なぜこの石を選んだのか。イギリス王家の妃殿下たちにならったのかと思ったが答えは意外な方向から飛んできた。
「そうよ。あなたの瞳の色と同じ」
 完全に不意を打たれた。ランドールは目を丸くして、それから照れ臭そうに笑ってひと言
「Thank you」と答えた。

      ※

 その夜。
 ヨーコは自室で一人携帯を開いた。左手の薬指にきらめくサファイアを見つめ、きっと口を引き結ぶと震える指先で電話をかけた。宛先は三上蓮。昨日、メールで宣言した『答え』を、声に出して伝えなければと決心したのだ。
 震える心臓の発する衝撃はあまりに大きく、座ってるだけでも体がぐらぐら左右に揺さぶられる。耳に伝わる呼び出し音が、雷のように轟く。一回のサイクルがとてつもなく長く感じられた。
 どうしうよう。
 今、切ればまだ間に合う?
 いえ、だめ。履歴が残ってしまう。
 もう、戻れない。
(ああああ、早く出てぇっ!)
 硬直したまま、だらだらと脂汗をにじませていると……。
『はい、三上です』
(出たーっっっ!)
 誰からかかってきた電話か、既にわかっているはずだ。さあ、答えを伝えよう。息を深く吸い込んだ瞬間、落ち着き払った三上の声が火照った耳に飛び込んできた。
『ああ、そういえばMr.ランドールと婚約されたそうですね。おめでとうございます』
「めーーーーーーーーーーーっ!」
 ほとばしる悲鳴をもはや隠す事もできない。突っ伏すだけでは留まらず、文字通り畳の上を転げ回った。

 その気配を聞き取りながら、三上蓮は糸のような目をさらに細めてほほ笑みグラスを掲げた。カウンターの向こうで裕二が肩をすくめる。
「おやおや、お人が悪い」
「ご謙遜を。あなたほどでは」
 しれっと答えながら三上は携帯をスピーカーフォンに切り替えた。
『ななななな、何で知ってるのーっっ』
「神楽さんから聞きました」
 答えるのは沈黙。いや、正確には言葉が出ないのだろう。口をぱくぱく開け閉めしているのか、それともぽかーんと開けっぱなしにしたまま硬直しているのやら。想像しながら、三上は不自然なほど爽やかに、決定的なひと言を口にした。
「いやぁ、さんざん背中を押した甲斐があったと言うものです」
『そ、それって、まさかっ』

 さすがに気付いただろう。だがあえて種を明かす。懺悔と言うよりはむしろとどめを刺す意味で。
「だって、こうでもしなければあなた、いつまでたっても踏み出せなかったでしょう?」
『せ、せ、聖職者のくせにーっっ! 神父のくせにーっ』
「似非ですから」
『めぇえええっっ!』
 ああ、何だかちっちゃな拳でぽかぽか叩かれてる気がする。実際、顔を合わせてたらそうしているだろう。
「いずれ改めてお祝いを申し上げにうかがいますが、今宵は電話にて。改めてご婚約おめでとうございます」
『…………………………………………』

 長い長い沈黙の間に、三上は二杯目をオーダーした。
「いやいや本当、良い性格してるねぇ……」
 裕二はともすれば爆笑したいのをこらえながら、咽奥でくつくつと笑うに留め、グラスに琥珀色の液体を注ぎ、氷を浮かべる。店名のロゴの刻印されたコースターを敷いてカウンターに置いたその拍子、震動で氷が揺れて澄んだ音を奏でる。
「んじゃあ、妹分の婚約破棄の違約金がわりだ。今日は俺の奢りさね」
「ありがたくいただきましょう」
 グラスの中味が半分ほど減った所で、ようやっと消え入るような声が答える。
『ありがとうございます』
「どういたしまして」

     ※

 その後の出来事をかいつまんで説明すると……。
 カルヴィン・ランドール・Jrと結城羊子は宮司立ち会いのもと、互いに記念品を交換して滞りなく婚約の儀を済ませた。忙しい合間を縫って短いながらもしっかりと互いの愛情を確認し、今後の計画を話し合った。
 火曜日の朝に至るまでの貴重な二人きりの時間の短さは、別れ際のキスの長さに比例した。
 そして空港に向うべく、乗り込んだレンタカーの助手席に何食わぬ顔で乗っている和服姿の男性を発見しても、ランドールはさして驚かなかった。いるんじゃないかと思ったらやっぱりいた、それだけの事だったのだ。
 車が走り出す。結城神社の鎮守の森が背後に消えてから、ランドールは問いかけた。
「あなたはこうなる事を知っていたのではありませんか?」
「何故そう思うのかね?」
「………………ニンジャマスターだから」
 ウィルは眉尻を下げ目元に細かく皴を寄せ、口角を上げた。スクリーン上で何度も見たチャーミングなほほ笑みが今、すぐ隣にいる。数日前までは夢にも思っていなかった。だが今となってはごく自然にその状況を受け入れている。
「仕事場まで乗せていってもらえるかな、カル? 人を待たせているんだ」
「Yes,sir」
 ニンジャマスターはサングラスをかけ、うなずいた。
「では、行こうか」

「おーい、カル! カルヴィーン!」
 ウィル・アーバンシュタインを送り届けて後、空港のロビーでチャーリーと再会した。こちらから探すまでもなく、向こうから手を振って駆け寄って来てくれたのだ。
「やあ、チャーリー。ご機嫌だね」
「ああ、聞いてくれ、黒髪美女とメアドを交換したよ! 五人も!」
 はじけるような笑顔を見た瞬間から何となく予想はしていた。日本は彼にとってはまさしく黒髪天国、理想の土地だったのだろう。
「……仕事は?」
「それはもう、ばっちりさ」
 良かった、社会人としての務めは忘れてはいなかったようだ。いや、ひょっとしたら先方の社員が好みの美女だったのかも知れない。
「お土産で持っていったピーナッツバターとチョコチップのクッキーが好評でね! あとアレルギー対策のお菓子も」
 懐かしい。チャーリーがレシピを考案したアレルゲンフリーのクッキーを、ハロウィンの街角で配ったのはもう10年も前だ。
「グルテンフリーの材料として、米粉は正に救世主だよ。これでまた、アレルギーを気にせずに食べられる子が増えると思うと嬉しくて嬉しくて!」
 ……そして悩めるお母さん方も救われる、と。動機がはっきりしてるからこそ、チャールズ・デントンの行動にはブレが無い。
「じつに実りの多い旅だったよ。君はどうだった?」
「ああ、うん。昔ながらの手作業で絹織物を作っている工房を見学した。この手で伝統的な工法を体験したし、サンプルも沢山もらえた」
「うんうん、実に有意義だね! ……しかしせっかくの訪日に仕事一筋だったのかい。相変わらず真面目だなあ、カルは」
 
 そっと胸を押さえる。
 シャツの下には、銀のロケットペンダントが下がっている。つるりとした銀色の楕円形で、表面に一粒だけ、小さなサファイアが埋め込まれている。指輪を見つけたのと同じ店で買い求めたものだった。中には癖のない真っ直ぐな黒髪が収められている。指輪の代わりに、婚約の証として選んだのがこのロケットだったのだ。

 彼には報告したい。
 後日改めて、なんてまどろっこしい手順など踏まずに今、この場で。
 もし仮にチャールズが同じ立場だったら、やはり真っ先に自分に報告するだろう。堅苦しい礼儀や作法なんか抜きにして。だからこそ、ランドールは深く呼吸してから力まず、焦らず、精一杯さりげなく、大事なことを口にした。
 
「実は、婚約した」
「え」
 一瞬、チャーリーは目を見開いたまま動きを止めた。
「式の時は是非、君に花婿付添人(ベストマン)を頼みたい」
「そりゃもちろん喜んで!」

 そのまま二人は滞りなく搭乗手続きを終えると、紙コップのコーヒーを手にロビーに並んで座り、大人しくコーヒーをすすった。
 しばしの沈黙を経て、ぽつりとチャーリーが言った。

「……ずるいや、カル」
「………ごめん」
「おめでとう」
「ありがとう」

      ※

 風見光一はむっつりと押し黙って窓枠に寄り掛かり、空を見上げていた。
 そろそろ、ランドールさんを乗せた飛行機が飛び立つ頃だろうか。見える訳なんかないけれどつい、見てしまう。
 正直、あの人が日本にいる間は落ち着かなかった。日曜の朝のあの一件の後は特に。

「光一!」
 呼ばれて振り向くと、ほっそりした人さし指にぷにっと頬を突かれた。
「千秋……」
 クラスメイトで幼なじみの藤島千秋だった。
「何ぼーっとしてるの?」
 頬を突かれたまま、返答に詰まる。
「何か悩みがあるなら言ってご覧よ。昨日っから光一、どこか変だよ? 心こにあらずって感じ」
 いいや、別に秘密って訳じゃない。遅かれ早かれ明らかになる事だし、千秋は知ったからって考えも無しにいいふらすような子じゃない。
 意を決して、口を開く。
「よーこ先生が、結婚する」
「まぁっ」
 千秋は両手を頬に当てた。みるみる頬に、目のまわりに桜色が広がる。
「素敵……!」
 ああ、やっぱり女の子だ、リアクションが全然違う。
「式は、俺たちが卒業してからだけど……」
「ふうん。それじゃ、あたしたちが居る間は、きっちり最後まで先生やってくれるってことだよね?」
「……うん。でも」
「でも?」
「相手はアメリカの人なんだ。海を越えて外国に嫁に行っちゃうってことなんだ」
 目をそらせていた現実が、口にすると胸に迫る。将来、必ず訪れる事なのだと。
「だから拗ねてるんだ?」
「っ、拗ねてなんかっ」
 思わず声が跳ね上がる。けれど千秋はまったく動じない。小さく首をかしげたまま、人さし指を唇に当てている。
「だぁって今の光一ってば、何って言うか……お姉さんとられちゃう、どうしようって顔してるんだもん」
「うぐっ」
「あはっ、図星? って言うか、自覚なかったんだ」
「う………うん」
 うなだれていると、ぽんっと手のひらが頭に乗せられた。いつもなら、ここで乗せられるのはよーこ先生の手だった。
 だけど、今は……。
「えらいぞ、光一」
「え?」
「おめでとうって、言えたんでしょ?」
「何で、それを?」
 千秋は白い歯を見せて、にっかーっとばかりに豪快に笑ったのだった。
「見ればわかるよー。よーこ先生、すっごく幸せそうだもん。それって光一がちゃんとおめでとうって言ったからだよね?」
(ああ)
(女の子の成長って、早いんだな)
 ちょっぴり悔しくもあり、うらやましくもある。とにもかくにも、風見光一は元気を取り戻し、一緒になってほほ笑んだ。
「よし、決めた。俺は全力でよーこ先生を祝福するぞ!」
 そんな風見光一を密かに見守りながら、ロイは胸を熱くしていた。
(コウイチ! 何て立派なんだろう。僕はそんな君を、全力でお守りするよ!)

 なお、付け加えておくとニンジャマスター、ウィル・アーバンシュタインの来日インタビューは無事に行われた。
 ただし有能マネージャー氏の胃薬の服用量はちょっぴり増え、髪の毛は逆にちょっぴり減ったらしい。

(メリィちゃんと狼さん/了)

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【ex15】ラベンダーの花束を

2013/10/15 2:40 番外十海
lavender.png
  • あの人に贈ろう、ラベンダーの花を。涼やかに香る指先で心の傷を包みこみ、洗い清める紫の花……。
  • 五月のとある土曜日の午後、風見光一とロイ、二人の生徒を伴ってヨーコが訪れたのは、とある墓地。墓前には既に、花が手向けられていた。持参したのと同じ、ラベンダーの花が。
  • まだ中学生だったサクヤが占い喫茶「エンブレイス」を訪れてから十年。オーナーとなった神楽裕二と、大人になった結城羊子との二度目の出会いを描く【ex14】メリィちゃんと狼さんの前日譚。
本作は、いーぐると十海が共同で執筆した作品をいーぐるが編集しました。

【ex15-1】土曜の午後に

2013/10/15 2:41 番外十海
「あ、先生!俺ら今からハンバーガー食べに行くんだけど、一緒に行かない?」

「ん〜?ごめん、…今日は用事あるからまた今度ね。」

『……えっ?』



 あの人に贈ろう、ラベンダーの花を。涼やかに香る指先で心の傷を包みこみ、洗い清める紫の花。



―ラベンダーの花束を―


(な、なぁロイ…今先生…。)

(ラ、ランチのお誘いを断ったネ…。)

((…そ、そんな馬鹿なッ!?))


お昼で終わる土曜日の授業…どうせだから外で食べようと自分達の教師である羊子に声をかけたのは、風見光一とロイという2人の少年だった。
しかし、2人は今驚愕の事態に直面している。十中八九乗ってくるだろうと思っていたその誘いを、なにやら神妙な顔をしながら断られてしまったのだ。


「せ、先生大丈夫!?何か悪い物でも食べたんじゃ!?」

「でも光一っ、先生ならすぐにそんなの治せるヨ?」

「…こらこら君ら、一体私をどんな目で見てるんだ?」


目に見えて取り乱した二人をじと目で見ながら一言問いかければ…返って来たのは微妙な苦笑いなのにふぅ…と小さく溜息を吐くと、
154cmの小さな体の肩を軽く上下させるように竦めてから、2人に言葉を投げる。


「言っただろ?今日は用事があるんだって。」

「あ…っと、どんな用事なんだよ、先生。」

「お墓参り、今日知り合いの命日なんだ。」


きっぱりと告げる羊子に、予想外の答えが返ってきたらしい二人は顔を見合わせると、それぞれバツが悪そうに頬を掻いたりもじもじしたりして。


「…なんか、ゴメン。」

「申し訳のうゴザイマス。」

「いや、別に謝る事でもないし。…何なら風見達も来るか?全く無関係って訳でもないしね。」

「無関係じゃない…?」


そう聞くとまた二人で目を見合わせて首を傾げる…といっても、片方はその瞳を綺麗な金髪で隠してしまっているが。
しかし、自分達2人と無関係じゃない、と聞くと…思い浮かぶのはやはり3人の共通項である悪夢狩人…ナイトメアハンターの事で。


「…えっと、お爺様達のお知り合いとかデスカ…?」

「多分ね。家とは家族ぐるみのつき合いがあったし…ま、あれだ…私の二人目の師匠だよ。」

「羊子先生の…」

「二人目のお師匠サマデスカ…?」

「そ…こっちのね。」


と言いながら羊子が取り出すのは、彼女が過去を読み取る時に使っているタロットカード…確かに実家が神社の彼女にしては異質なものではあった。


「…で、一緒に来るの?」


そう聞かれて、三度目を見合わせた2人は…何度か相談するように言葉をかわすと、彼女に頷いて見せた。



そうして彼女たちが目指した墓地は、電車でいくつか駅をまたいだがそう遠い場所にあるわけではなかった。
途中の花屋でその師匠が好きだったらしいラベンダーを小さな花束にしてもらい、やってきた小さな墓地。
もう既に誰かが来ていたのか、綺麗に掃除されてラベンダーの花が一輪添えられていた墓には『神楽 藤野』と刻まれていた。


「羊子先生、先生の師匠ってどんな人だったんですか?」

「ん?藤野先生…あぁ、元々うちの父親が大学で民俗学やってた時の先生だったから、そう呼んでたんだけどな。穏やかで何時もにこにこしてて…でも言うべき事はきっぱりと言う人だった。」


ちょっとおっとりしてたけどな、と苦笑いする羊子がラベンダーの花を墓前に置いて手を合わせると、教え子2人もそれに倣って手を墓に合わせる。
目を閉じた羊子の瞼の裏に浮かぶのは、いつも優しげに微笑んでいる安楽椅子に腰掛けた白髪の老婦人。
彼女と交わした言葉が遠く…記憶の底から耳に響いてくる…。


『羊子ちゃん、占いというのは指針…道標であって決められたレールじゃないわ?参考にすることはあっても、結果に縛られちゃ駄目なの…。』

『まぁ、メリィちゃんなんて可愛いじゃない?羊子ちゃんも当然素敵だけど…。』

『貴女が戦う力を失っても、貴女には彼から教わった知識と経験がある…そして、ここで新たに学んだ知識もある…。それをこれから戦う子達に教え、伝えれば…それは彼等の力になるわ。…それはきっと彼の希望に適う事よ…頑張ってね?』


(藤野先生、今日は教え子を連れてきました。学校の教師としても、ハンターとしても教え子の奴等です。ひよっこだと思ってたのに最近こいつらめっきり強くなっちゃって、嬉しいやら寂しいやら…先生も、こんな気持ちで居てくれたんでしょうか…。)


『他人を大事にしたいなら、まずは自分を大事になさい!』

 頬をピシャッ!と叩かれてそう言われた。 サクヤちゃんや母さん達が察しすぎて直接言わなかったことを、藤野先生は私の目の前でキッパリと口にしてくれた。

『他人を導きたいなら、まず貴女が凛となさい。ぐらぐら揺れる旗には、誰も近寄ってはくれませんよ?』


手を合わせながら、墓に…故人に伝える思いを教え子2人が知ることはなく、ただただ沈黙が流れて十数秒…ぱっと、羊子は顔を上げた。


「さて、と…掃除もしてあるみたいだし、帰りに何か食ってく?今日は私の奢りって事で!」

「やった!先生俺ラーメン食べたい!」

「ボ、ボクは光一と一緒ならどこでも…ッ!」

「はいはい、ホント仲良いなぁ…ってか、ハンバーガー食うんじゃなかったの?」


奢りと聞いてはしゃぐ黒髪の少年と、それに同調する金髪の少年に小さな女教師は苦笑いをしながら…三人で墓地を離れていく。
ユラユラとそよ風に揺れるラベンダーの花束に一陣の風が吹き付ければ…ブワッ、と香りと花弁が空に届かんばかりに舞い上がった。

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【ex15-2】ラーメン屋で再会

2013/10/15 2:42 番外十海
 
「ここだよ、ここ! 鳳凰軒っての」

 記憶をたどってやって来たラーメン屋は、あの頃とちっとも変わっていなかった。
 煮しめたようなのれんも、赤を基調にした店の外観も。ただ幾分、雨風や日光にさらされてくすんでいた。無理もない、あれから6年近い月日が流れたのだ。

「こんにちわー」
「へい、らっしゃい! 何名様ですかっ」
「三人。テーブルでお願いね」
「どうぞ、開いてるとこへ!」

 入り口のガラス戸を開けると、もわっと濃厚な油とスープのにおいが押し寄せてきた。
 昼食のラッシュ時を少し回っていたおかげだろうか。さほど広くない店だが、食べ終った家族連れが立った所に入れ替わりに席に着く。

「少々お待ちくださいねー」

 手早く丼が片づけられ、テーブルが拭かれる。すかさずロゴ入りのガラスコップにつがれた水がとんとんとんっと三つ出てきた。

「ご注文お決まりですか?」
「醤油ラーメン一つ」
「あ、ボクも」
「豚骨ラーメン一つ、大盛りで!」

 白いタオル地のおしぼりで手をふきつつ、風見光一は「んっ」と首をかしげた。
 店の中は熱気と蒸気がこもっていて暑かった。外よりも、学校よりも。汁が跳ねるのを防ぐためでもあったのだろう。羊子先生が上に羽織っていたアイボリーの上着を脱ぎ、下に着ていたネイビーブルーのブラウス一枚になった。
 濃い色の布地に覆われて、いつもにも増してすとーんと滑らかに見える胸元に、三日月一つ。
 いつも勾玉と鈴のあるべき位置にふらりと揺れている。蜂蜜を溶かした紅茶のような優しく煙るオレンジ色……何かの宝石だろうか。一緒に銀色の星のモチーフが二つ揺れていた。

「先生、それ……」

 思わず指さしていた。

「ん、ああ、これか?」

 先生はそ、と人さし指と親指で三日月のペンダントヘッドをつまんだ。

「お守りだ。今日は特別な日だから」
「そっか」

 見慣れぬ六芒星と五芒星、月と星のペンダント。どことなく西洋魔術の香りがする。きっと、藤野先生からもらったものなんだ。そうに違いない。

「ごちそうさま」
「ありがとうございましたー」

 また一組食事を終え、カウンターに座っていたお客がまとめて席を立った。店の中の人口密度がごっそりと減って、奥の席まで視線が通る。

 と。

「ん……あれ、メリィ?」
「え?」

 小柄な男が座っていた。年上だとは分かるが具体的な年齢が判然とせぬ風体で、長めの茶髪を首のすぐ後ろで束ね、無精ヒゲがうっすら顎を覆っている。
身に付けているのは着崩したワイシャツにスラックス、そして視線の位置が……低い。身長が羊子とほとんど差がない。床に立った状態でもせいぜい5cmあるかないかだ。目尻が下がったたれ気味の目のせいか顔立ちも柔和で、そこはかとなく幼さを感じさせる。

 茶髪の童顔男は赤いドンブリを前にチャーシューをかじる手を、いや口をとめてこっちに歩いてきて、羊子先生をまじまじとのぞきこみ、うなずいた。

「……うわ、やっぱメリィか、変わってねぇなぁ」

(うわあ!)
(言ったぁ!)

 途端に風見とロイは蒼ざめ、身構えた。

(その名前で呼ぶってことはハンターだろうけど!)
(いきなりそれはーっ)

 炸裂するのは回し蹴りか。パンチか? 場合によっては体を張って止める覚悟で次の動きを見守る。しかし意外にも羊子はきちっと背を伸ばし、手をそろえて一礼した。

「お久しぶりです、神楽さん」
「え」
「ええ?」

 こんなことってあるんだろうか? 殴らないし、怒らないし、怒鳴らない。頭突きも回し蹴りもグーパンチも無し。

「ん、久しぶり」
「それと……できればその名前で呼ばないでいただけます?」

 強いて言うならほんの少し、口の端がひきつってる。

「って、この名前気に入ってなかったっけか?」
「気に入ってるとか気に入ってないとかそうじゃなくってですね……」

 ロイと風見はかぱっと口を開けたまま、一時停止の状態に陥っていた。信じられない。こんなことって、あるんだろうか?
 メリィと呼ばれて、よーこ先生が大人しくしてるなんて。

「……まあ、良いや。元気そうで何よりさね。なんか、後ろで若干2人ほどわたわたしてるが」
「あ、これ私の高校の教え子で、風見光一とロイ・アーバンシュタイン」

 くるっと振り向いて、見上げてきた。

「ロイ、風見、こちらは神楽裕二さん。藤野先生のお孫さんで、私の兄弟子にあたる人だ」

 やはりハンター仲間だった。しかも、ついさっき自分たちがお参りしてきた人のお孫さん。
 それなら、この反応もうなずける。

「風見光一です」
「ロイ・アーバンシュタインと申しマス」

 二人はそろってきちっと背筋を伸ばして一礼した。

「その教え方するってことは、この子らも……ってことか」
「はい」
「神楽 裕二だ、まあ孫っつっても血は繋がってねぇけどな。ちょい、手ぇ出しな?」
「はい?」

 素直に手を出すと、神楽裕二と名乗った人はころん、ころん、と丸いものを手のひらに置いてくれた。

「よろしくな」
「あ……キャンディ?」

 その時、風見光一は気付いてしまったのだ。神楽の手首に巻かれたブレスレットに、三日月と銀色の星が二つ揺れているのを。
 三日月の材質は白く霞むムーンストーン。石の種類こそ異なってはいたが、羊子のペンダントと似ている……いや、おそろいと言ってもいい。

(同じだ……先生のと、同じ)

「ありがとうございます」

 半ば上の空でお礼を言う。

 いつも身につけていた勾玉のペンダントの代わりに今、羊子の胸元に揺れているのと、同じ。兄弟子だから。同じ人に師事していたのだから当然なのだ。増して今日はその藤野先生の命日なのだから。
 判っていても、胸の奥がざわつく。

「ん〜、この日にこの辺に居るってことは……祖母さんの墓参りに来てくれたのか、サンキューな」
「はい」
「掃除とかは俺がやっちまったけど」
「やっぱりな。あの一輪だけのラベンダー……兄ぃだったんだ」
「あぁ」

 そう言って神楽は手をのばし、わしゃわしゃと撫でた。先生の頭を。つやつやした黒髪を無造作に。おそろいのチャームの下がったブレスレットをつけた手で。

(……あ)

 薄いガラス片を積み重ねて、ざらっとなであげたような感覚を指先に覚える。
 何だろう、この感じ。

(よーこ先生、何だって大人しく撫でられてるんだ? いつもなら『子ども扱いするな!』ぐらい言う。絶対、言う!)

 そうこうする間に神楽はにんまり笑ってとんでもない事を口にした。

「あ、そういや三上から聞いたぞ。彼氏出来たんだって?」
「レン……あんにゃろ……」

 拳を握り、ふるふると震えている。これは、やばい。嵐の予感がする。果たして、次の瞬間。

「彼氏じゃなーいっ!」

 とっさに背後からしがみつき、準備体勢に入っていた回し蹴りを、間一髪で阻止。

「先生っ、蹴りはまずいです、蹴りはっ」
「お店の中デス! ラーメンにほこりが入りマスっ!」

 丁度その時、店員さんができあがったラーメンをどんっとテーブルに置いた。この程度では動じないらしい。

「はいお待たせ、豚骨ラーメン大盛り一つと醤油ラーメン二つね」
「ほら先生、ラーメンが伸びますよ?」

 効果はてきめんだった。ささっとテーブルに戻ると羊子はきちっと手を合わせて一礼。

「いただきます」

 ぱっきんっと慣れた手つきで割りばしを割り、ずぞぞぞーっとすすり始めた。

「おーおー、相変わらずいい食べっぷりだね。そら、今のうちにお前らも食っとけ」
「……はい」
「ではお言葉に甘えテ」

 ロイと風見も慌ただしくラーメンをすすった。

(食べてる間にクールダウンしてくれればいいんだけど……)

「美味いか?」
「はい、美味しいです」
「そーかそーか」

 爆弾発言を打ち上げた当人は余裕でチャーシューの残りをかじってる。好物は最後にとっておく主義らしい。
 
「……ぷは、ごちそうさまでした……」

 かちゃ、と丼が置かれる。中味はからっぽ、汁も残さず完食していた。
 ハンカチで口元をぬぐうと、羊子先生はとことこと神楽の元に歩み寄り、きっぱりと言い切った。

「彼氏じゃない………私の片思いだ」
「……へぇ、お前さんにしちゃ珍しく消極的……ってわけでもねぇな。肝心な所で引け腰になるなぁ、メリィは」

 上から目線、かつメリィ呼ばわり。しかもよりによってランドールさんの事を話題にしてる。普段の羊子先生なら、とっくに回し蹴りの一つや二つ、三つ四つは炸裂してる。
 でなきゃ、暴れ羊と化して頭から突っ込むか、だ。

「……ま、恋愛経験なんて欠片もねぇ兄弟子でよけりゃ、相談に乗ってやるさね。」

 始めて手が出た。
 羊子先生はぐい、とばかりに神楽の胸ぐらをひっつかみ、じーっとにらみ付けた。
 大人同士がやっていると思うと物騒な仕草だが、いかんせんそろって小柄な体格と幼い顔立ち。にらみ合ってるとどこか子ども同士のケンカのように見えてしまう。
 今ひとつ深刻さに欠けるせいか。あるいは単にじゃれてるように見えるのか、誰も止めに入らない。だが内心、風見とロイは気が気ではなかった。
 少なくとも片方の『子ども』の中に潜む激しさ、鋭さを知っているから尚更に。

(いざとなったら……)
(力使ってでも止めるか)

 しばらくしてから、羊子先生は手を離し、ぽんぽん、と神楽の胸元を叩いて皴くちゃになった服を整えた。

「……考えとく」
「……おう」

(あ)
(あ)

 また、わしゃわしゃ頭を撫でている。それだけではない。
 その瞬間、風見光一は見た。
 頭をなでられている羊子から、もう一人が伸び上がって神楽の頬に手を当てて引き寄せ、きゅっと抱きしめるのを。
 彼の顔を胸元に包み込むようにして……
 穏やかな目をしていた。心細い時、うつむいた時、自分も何度もあんな風に抱きしめてもらった。
 だからこそ、余計に落ち着かなくなる。先生と自分たちの間にいきなり、割り込まれたような気がして。

「どうした少年、何か不機嫌だぁねぇ」

 はっと気付くと手が伸びてきて、わしゃわしゃと頭をなで回されていた。男の人の手ではあったけれど、角度や高さが羊子先生と同じだったものだから、つい素直に受け入れてしまう。

「いえ……なんでも……ありません」
「そうか? 初めて会った親戚の叔父さんにお姉ちゃん取られて何か悔しい弟……みてぇな顔してたぜ?」
「なっ!」

 ものの見事に言い当てられてうろたえる。そうだ、確かに自分の中に湧いているもやっとした気持ちはそんな感じだ。

「心配しなくてもとりゃあしねぇよ………な?」

 咽の奥で笑うと、神楽裕二は風見とロイ……何故か「2人」に向けてこう言ったのだった。
 
(…………デキル)

 ロイの背にじわっと冷汗がにじむ。そう、神楽が風見の頭をなで回した瞬間、彼は前髪のすき間からぎりっと睨んでいたのだ。
 ばっちり気付かれていたらしい。

(さすが、よーこ先生の兄弟子、タダモノではない!)
(コウイチを守らないと!)

 この瞬間、金髪忍者の魂に秘かに火がついた。しかし当の風見光一はその理由を露ほども知らず、着けた本人は気付いているのかいないのか。ひとしきり黒髪と金髪頭を交互になで回してから、改めて羊子に向き直る。
 先生はひと足早く離脱して、ツゲの櫛で乱れた髪を整えていた。

「結構先生出来てるじゃねぇか、慕われてんねぇ」
「ふ、ふふん、どーだ恐れ入ったか」

 得意げに羊子が胸を張る。

「……でも、三上から聞いてちょっと言っておきたいことあるから、とりあえず店来い」
「了解」

 顏は笑ってはいるが、目が笑っていない。羊子先生はと言うと何やら察したのか神妙にうなずき返している。

「店?」
「喫茶店やってるんだ、この人。オーサーも兼ねてる」

 その一言で、どんな種類の店なのかおおよその察しがついた。ただの喫茶店ではない、ハンターの拠点としても機能し得る場所なのだ。

「あ、俺はオーサーじゃねぇぞ? 祖母ちゃんがオーサーだったから、ちゃんとフェローズ決まるまでは俺が代理してるだけで……な」
「失礼、オーサー代理。でも、もう5年ばかりそう言い続けてるよーな気がするんだけどなー」
「しゃあねぇだろ、中々後引き次いでくれる人みつからねぇんだから」

 申し合わせたように二人は同時にそれぞれ、ラーメンの伝票の留められたクリップボードをがしっと掴んだ。

「行くか」
「はい」

 めいめい会計をすませて店を出る。

「ありがとうございましたー」

 外に出てからレシートを見て、羊子はきゅうっと眉を寄せ、口をすぼめた。

「どうしたんですか、先生」
「三人とも学生料金になってる……普通、制服着てなければ学生証見せてくださいって言われるはずなのにーっ」

 ぷっと神楽が盛大に噴き出した。

「……6年前にも来てたのになぁ」

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【ex15-3】エンブレイス

2013/10/15 2:42 番外十海
 駅から伸びるメインストリートが終わりにさしかかり、やがて徐々に町並みに溶けてゆく。そんな境目の場所にその店は在った。
 ありふれた三階建ての雑居ビル。外壁は永年の風雨にさらされ、昔風の余裕のある……ある意味遊びと装飾の多い造りと相まって、石造りの古い洋館のような雰囲気を醸し出している。

「こっちだ」 

 鉄の手すりに支えられた上がり段を登る。アーチ型に石が組まれた戸口の上部にはステンドグラス、その下には木枠に偏光処理の施されたガラスがはめ込まれた、両開きの扉が収まっていた。
 軒先に下がる磨き抜かれた真鍮のプレートに曰く「Embrace」。その下の電気じかけの置き看板はもっと今風の書体で、カタカナで読みが振ってあった。

「エンブレイス?」
「抱擁、とか受容、帰依とか、まぁそんなとこだな……」

 小さな声で『お前さんたちには』とか何とか呟いたのは気のせいか。
 慣れた手つきで鍵を開けると、神楽はドアノブにかかっていた札をくるりと回し、「open」に変えた。

「入ってくれ。まあ狭い店だがな」
「お邪魔します」
「失礼シマス」

 かららん、とドアベルが優しくも深い音色を奏でる。始めて来た場所のはずなのに、風見とロイはどこか懐かしいような感覚を覚えた。ベルの音の根底に流れる響きが、同じなのだ。とても身近な鈴の音に。

 磨き抜かれた木の床とカウンターは深みのある焦げ茶色。店内に置かれたテーブルと椅子も全て同じ色の木材で作られている。
 淡い色調の草花模様の壁紙は目に優しく、陽の光を含んだ香りすらほんのりと漂ってくるような心地がする。
 どこからかカチ、コチと規則正しい音が聞こえる。見回すと、壁に小さな振り子時計がかかっていた。

(ああ。変わっていないな、ここは。今にも奥から藤野先生が出てきそうだ。黒い猫と、カラスを連れて……)

『いらっしゃい、メリィちゃん。待ってたわ』

 カウンターに裕二兄ぃがサクヤちゃんと並んで座って。私の『授業』が終るのを待っていた。静かに紅茶を飲んで、クッキーをかじって……

「気持ちのいい場所だな」
「落ち着きマス」

 教え子たちの声に我に返る。

「そこのドアベル、実は夢守りの鈴なんだ」
「えっ」
「こんなのもあるんだ……」
「特注品だよ。それと、ほら」

 羊子は東西南北の壁を順繰りに指し示した。何もかも記憶のまま、あの日と同じ場所に置かれていた。
 北の壁に、金貨を埋めた盾のオブジェ。

「これはタロットのペンタクル、土の護り」

 南側、さっき入ってきた扉の取っ手は炎を模した棒の形。

「これはワンド、もしくはロッド。炎の護り」

 西の壁には杯の形をした花瓶、東の壁には模造剣がかけられている。

「あっちの花瓶は聖杯、水。そしてこの剣は風の護り」
「結界になってるんだ!」
「そうか、だからこんなに空気が清浄で、心が引き締まるんだネ!」
「まぁ、そう言うことだ。一応、夢魔からの避難所にもなる程度にはな?」

 神楽はカウンターの椅子に腰を降ろし、身振りで座るように勧めてきたので三人もそれぞれカウンターの椅子に着いた。
 店の中に他に客はいない。ほとんど貸し切り状態だ。それでも何となく一ヶ所に集まってしまうのは、狭い部室で過ごす時の習慣が染みついてるせいか。

「……さて、と」

 神楽のまとう空気が変わる。飄々とした雰囲気から気だるげな印象が増し、無気力とも言える目でじっと羊子を見た。単にやる気がない、と言うよりもっと根源的な何かが欠落している。そんな底知れぬ空虚さを感じさせるまなざしで。

「……アメリカで呪いかけられたって?」
「い、いえす」
「……間抜け」
「面目ない」

(えっ)

 風見とロイは思わず顏を見合わせ、我が身我が目を疑った。
 こんなことってあるんだろうか。先生が一言も言い返さないなんて!

「言いたい事があるなら聞くぜ?坊主共」
「………………ないです」

 そう答えるしかなかった。 
 サンフランシスコでの一件、三人の魔女と戦ったとき、自分たちも油断をしていた。不覚をとったのは事実なのだから。

   ※

『そーいえばメリィちゃんなんですけどね、上原さんのことを忘れるとまでは言わなくとも、過去のことに出来そうなんですよ』

 先立つこと数日前、三上蓮と神楽裕二の間ではこんな会話が交わされていた。

『ええ、彼女本人から『好き』と明言されましたし』
『この前の事件の時に少し突っついてみたんですが、相手の方もまんざらでもなさそうです。最後は単身彼女を救出してくれましたし、ね』
『彼を意識しだしたのはアメリカでの事件後のようですね。私はその時は関わっていないので伝聞ですが、皆で呪われてしまって一時は危なかったようです』

 呪われたとはどう言うことか?
 問われるままに仔細を語る三上の口から、初めて神楽は知ったのだ。妹弟子の勇み足故の失態を。

『私が言うよりは兄弟子からの方が効くでしょうから、一度説教してあげてください』

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【ex15-4】兄弟子と妹弟子

2013/10/15 2:43 番外十海
「……別に俺ぁ、不意打ち食らったのを怒ってる訳じゃねぇ、もし呪われたのがお前等なら『災難だったな』で済ませる。話に聞いてるアメリカの社長にもそうだ。朔也はギリギリでアウトってとこだが……だが羊子、てめぇは別だ」

 三上の読みは正しかった。
 同じ術を学び、自分に何ができるかを知り尽くしている兄弟子の言葉は、ずしんと羊子の心臓に響いたのだ。

「お前さんは知ってたはずだよな?『呪いを弾く方法』を……アメリカで神道式の呪詛返しは難しいにしろ、魔女術の呪い返しの準備は出来たはずだ。知ってたんだよな? 下調べで『相手は呪いをかけてくる』って」

 羊子はうつむいたきり。膝の上で手を握り、油をしぼられるガマみたいに黙って脂汗を流していた。

「風見」
「はい」
「ロイ」
「ハイ」
「改めて聞くが、羊子は何か呪い用の準備してたか?呪いの身代わりになる人形の準備、清めた鏡を使った護符の準備………」

(あああああっ)

 いたたまれない。
 あの日の朝。魔女に呪われ、サクヤとカルともども子どもにされた瞬間から、何度も繰り返し己に向けた問いかけが今、神楽の口から放たれる。何故、準備を怠ったのか。何故、気付かなかったのか。
 何故。
 何故。

 できるものなら、両手で耳を塞いでしまいたい。
 目を閉じてひたすら脂汗をたらしていると、ふと傍らの気配が変わるのを感じた。

(風見……ロイ?)
 
 見える。
 視線の位置が低いからこそ、見えてしまった。唇を噛みしめ、悔しさをじっとこらえる二人を。
 そうだ、あの場に居たのは自分たちではない。
 がばっと羊子は顏をあげた。

「ミスは認める。だが二度と繰り返さない」

 ほんの少し、声が震えていた。

「だからもう……この子らを追い込むな。私が呪われて一番、苦労したのはこいつらなんだから」
「……ん、悪ぃ。ちょっと言い過ぎた。」

 頭をポリポリと掻く神楽の瞳から、無気力さ…というより、目に見えていた『欠落』が隠れて消えていく。

「こっからは、高校生2人へのレクチャーと思って聞いてくれ」

 元の飄々とした口調に戻っている。

「確かにナイトメアは弱点を見つけないと倒せない、反則的にタフな奴等だ。隙を突き、裏を掻いて見つけた弱点を的確について倒すことも大事だ。でもそれ以前の問題に、『俺らはナイトメア程頑丈じゃない』んだよ」

 羊子は秘かに安堵した。神楽裕二は気だるげになった時こそが本気なのだ。

「だから、下調べの時は弱点だけじゃなく『相手がどんな攻撃をしてくるか』にも同じ位気を払え」
「はいっ、わかりました、ご教授ありがとうございます!」
「肝に銘じマス」
「攻撃の種類が分かったら、まず『事前に防げない』か考えろ……ま、大半は無理ってことが多いが。相手が刃物を振り回したり、爪で引っかいてくるのを事前に止める手段なんか無いからな」

 確かにその通りだ。
 けれど、そうと判っていても、風見光一は飛び出すことをやめないだろう。大切な人を守るためなら。
 彼なら、きっとそうする。

「こういう『呪い』みてぇな事前対策できる手段の方が稀だから……まあ、頭の片隅にでも置いといてくれ。やっぱり重要なのは『弱点』な事に代わりはねぇ」

 だんだん、いたたまれない気分になってきた。ほんの6年ほど前に、まったく同じ小言を食らったのだ。
 この店の、この椅子で。

「とりあえず若いの、この妹弟子は『倒すこと』に重点置きすぎて『身を守る事』をすっぽかす傾向があるから」
「あー……」
「確かに……」

 うわ、こいつら思いっきり納得してるし!
 つまるところ、進歩がないってことか、私は……

「呪いとか祟りとか。そういうオカルト的悪影響がありそうな単語が下調べの中に出てきたら、『何か防ぐ手段ありませんか?』とでも聞いてやってくれ、そしたらコイツも思い出すから」

 防ぐ手段。
 身代わり人形。
 二つの言葉がつぴーんっと頭の中で結びつく。はたと羊子は床に下り立ち、両手を握って力説した。

「ああっ、そうだ、ウサギのぬいぐるみ持ち込めばよかったんだーっ」
「えっ、あれを?」
「ロイのじっちゃんの、サイン入りを?」
「しまった、それがあった」
「そもそもお前、紙とペンと鋏があれば、身代わりの紙人形作れるだろうが、こんにゃろぅ」

 あっと言う間に羊子の頭が神楽の拳で挟み込まれていた。指の第二関節がこめかみに、ぐり、ぐり、ぐりとねじ込まれる。
 よーこ先生の十八番、グリグリ攻撃が本人相手に炸裂。

「いだだだだ、いたい、いたい、いたい」
「ほれ、やってみろ!」

 神楽はFAXにセットしてあった紙を一枚抜き取り、差し出してきた。
 受け取ると、羊子はバッグの中をひっかきまわして手帳を取り出し、挟んであったボールペンを引き抜く。かちかちとボタンを押してペン先を繰り出し、ぐりぐりと人の形を描く。

「う……」

 描き上げた物を見て、がっくりと肩を落とした。
 丸い頭、ずんぐりした短い手足に逆三角形の胴体。長い耳と点目、ばってんの口の足りないミッフィー的な何かがそこにあった。

「なんで書く必要あるんだよ」

 舌打ちすると、神楽はもう一枚紙を抜き取り、鋏でチョキチョキと切り始めた。

「そら、これで良いだろうが」

 紙を細長く切り、切れ目を入れて首筋、四肢の形に似せる。紙本来の形を活かしつつ、直線で効率良く形作った『ヒトガタ』ができあがっていた。

「これの胴体の片面に名前、もう片面にペンタクル書きこんで、祈祷すりゃ出来上がりだろうが」

 ばあちゃんから教わったろう。
 言外にそう伝えつつ、兄弟子は作ったばかりの紙人形でぺしぺしと、妹弟子の額を叩いた。

「そら、やってみろ」

 鋏を受け取ると、今度は下書きなしでチョキチョキと紙を切る。

「できた!」

 ぴらっと掲げられたのは、やっぱり『ミッフィー的な何か』なのだった。

「うう」
「お前……そこまで壊滅的に図画工作下手だったっけ?」

(図画工作って……美術ですらない? 小学生レベルってことっ?)

 ぴきーんっと羊子の中で何かのスイッチが入った。バッグから和紙を取り出し、ばばばっと鋏で切る。
 ものの10秒もかからず、式用の紙人形ができあがっていた。

「これならいけるんだってば、これなら!」
「だから、それ作れって言ってんだろうが」

 カウンターの上に並ぶ二つの紙人形は、頭の形が違う程度でほとんど同じだった。強いて言えば羊子が作った方は頭が尖っていて、神楽の切った方は平ら。

「……あ、あれ?」
「先生……」
「固定概念にとらわれてマスね……」
「いや、だってこっちは和紙だし、こっちはコピー用紙だし」
「材質なんざ関係ねえっつの」

 ぺちっとまた紙人形で額を叩かれる。

「『人間の形をしたもの』を作って、身代わりにしたい奴の名前書き込んで、身代わりになってくれるように祈祷する……それができりゃ良いんだよ。」
「き、基本を忘れていた、不覚」

 がくっと肩を落とし、猛烈に反省する。

(藤野先生ごめんなさいっ 日々の忙しさにかまけてつい鍛練を怠っていましたーっ)

 拳を握りしめ、肩を震わせる羊子の後ろ姿を見守りつつ、神楽は少年たちに向かってやれやれ、と肩をすくめた。

「とまぁ、こう……お前さん等も知ってるだろうがこういう奴だから、サポートしてやってくれな、今の羊子の一番身近なフェローズはお前さん達なんだから」

 すかさずロイがうなずき、風見が答える。

「心得マシタ!」
「俺が前に出る以上は、先生達の所に攻撃は届かせませんっ」
「おう、頼むわ」

 にんまり笑って答えてから、神楽裕二はもう一つ付け加えてきた。

「あと、朔也にも油断するなよ。アイツは単独だとしっかりしてるが、羊子が傍に居るとその意見に引きずられて同じ事すっぽかす傾向があるから」
「あー……」
「ああ……」
 
   ※

 
「くっしゅん!」
「おっと、お大事に」
「……ありがとう」

 高校生二人がうなずいたちょうどその時、サンフランシスコの一角で、サクヤが派手にくしゃみをしていた。

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【ex15-5】ではまたいずれ

2013/10/15 2:44 番外十海
「しかし、祖母ちゃんが居る時にそんなヘマしないで良かったなメリィ」

そう言ってにんまりと笑みを浮かべる裕二を見た羊子の顔が、何かを思い出したように引きつる。

「う」
「もしやってたら『メリィちゃんはやっぱり、実体験で呪いへの対策を怠ったらどうなるかを感じる方が良さそうね。』って笑顔で一週間ぐらい猫耳と語尾にニャンがつくようなオモシロ呪いかけられるところだぞ」
「そ、そ、それだけは! 耳はともかく語尾にニャンは……自分で自分が許せないーっ」
「ま、弄るのはこの辺にしといてやるかね。お茶淹れてくる。」

そう告げた途端、裕二の祖母の『お仕置き』を思い出して身震いしていた羊子の震えがピタリと止まって視線を裕二に向けなおす。
パタパタと、犬の尻尾が期待にゆれているような幻影を、教え子二人は教師の背中に見た。

「くっきーは?」
「へいへい、月のお菓子作ったあまりでチョコチップクッキー作ったから、ちょっと待ってろ。」
「月のお菓子?」
「魔女術の儀式には、お菓子とかワインを使うものが多いんだ。」

お茶の準備をしに店の奥に引っ込んだ裕二に代わり、羊子が答えるが……その答えに教え子二人に同じ考えがよぎる。

((まさか、先生、それが目当てで弟子入りしたんじゃあ……))

「ほい、お待ちどうさん。」

注ぎ口から湯気の見えるポットと人数分のティーカップ、それにお皿に盛られたクッキーを持って裕二が帰ってくる。
皿の上にはバター、マーブル、チョコチップの他に、三日月型のヘーゼルナッツが入ったクッキーがあった。それを羊子が手に取ると……

「これが、月のお菓子。」

そう言って口に放り込み、さくっと音を立ててクッキーを噛み砕く。
口に残ったクッキーを紅茶で流し込むようにごくごくとティーカップを飲み干すと、ぷはぁっと大きく息を吐いた。

「はー……おいしい」
「先生、クッキーついてます」
「おっと」

風見に言われて口元を紙ナプキンで拭う仕草は、「食べて補給する」タイプの羊子が消耗していたのが見て取れた。
おそらく、精神的に……。まあ、誰のせいかと言えば、そ知らぬふりでマーブルクッキーを齧る兄弟子のせいだろうが。
そんな先生を横目に見ながら、風見がお茶を口にすると、口に広がった香りに目を見開く。

「うわ、これすっげー美味い!」
「なはは、これでも30年近く茶器弄ってるからなぁ。継続は力なり…って奴かね。すっかり体が覚えちまったい。」
「三十年……え、幾つなんですか?神楽さん。」
「ん?確か40そこそこだったかね。でも最初は酷かったぜ?砂糖と塩間違えたし、カップなんて幾つ割ったことか…そもそも30年前は紅茶なんて飲んだこともなかったしよ。」
「40……。」

ロイと風見が顔を見合わせる。てっきり羊子先生より一つ二つ上くらいかと思っていたら、一回り以上年上だったことに驚きを隠せなかった。
しかし、正面切ってそう口にするのも憚られて、二人はその話題を話し合ったかのように流すことにした。

「ひ、日々鍛練してきたんですね! すごいや神楽さん」
「いや、鍛錬してきたというか…『働かざるもの食うべからずよ?』って、笑顔で言ってのける祖母ちゃんに逆らえなくてなぁ……。」
「かっこいいなー藤野先生」

懐かしそうに呟く年長二人に、穏やかな人だと伝え聞いた『羊子先生の師匠』が、意外とスパルタなのだと知った若者二人だった。
そのまま、裕二は昔を懐かしむように続きの言葉を紅茶を嗜みながら紡ぎだす。

「で、まあ長年やってりゃ流石に慣れもするもんで…20年くらい経った時に、祖母ちゃんに羊子が弟子入りしたんだよ。」
「ナルホド……先生もやっぱり最初は失敗とかしたんデスカ?」

何気なく聞いたロイに、にやりと笑う裕二とは対照的に、ビクッと一瞬肩も体も引きつらせたように見える羊子……。

「まあ、神社の娘で高校生だったから、羊子は砂糖と塩間違えたりはしなかったけどな……」
「あれは……『洋装』に慣れてなかっただけで」

含みを持たせた言い方をする兄弟子に、羊は目線と濁す言い方で必死に『言うな!』とアピールするので、兄弟子は小さくクツリと笑う。

「そうそう、風見にアーバン……長いな、ロイで良いか?」
「あ、ハイ!大丈夫デス。」
「俺も光一で良いですよ。」
「そうかい?じゃあ光一にロイ。俺とお前さんらは初対面だが、お前さん達の爺さんとは知り合いなんだぜ?」
「えっ!?」
「そうなんデスか!?」
「あぁ、じっさま達の写真が入ったアルバムがあるんだ、今度見に来るかい?」
『是非!!』

そのまま、自分達の祖父の話で盛り上がる彼等と、それを微笑ましげに一歩離れて見つめる羊子を見て、裕二は楽しげに緩い笑みをへらりと浮かべる。
何か心配事が杞憂に終わって、安堵したようなほっとした笑みだった。

「ははは……でもあれだ、うん…人生楽しんでるみたいで何よりさね。最初うちに来た時は、時々半ばガムシャラだったからなぁ。」

そう言われると、どこか気恥ずかしそうに羊子が視線を逸らす。
当時を知らない風見やロイはその仕草に気づいたものの、意味がわからず首を傾げているが、当人は覚えがあるのか……羊子は軽く頬をぽりぽりと掻いた。

「空っぽになってたから……ただ前に進むことしか考えてなかったから」
「今はもう…大丈夫なんだろ?それなら構わねぇさ。既に祖母ちゃんにみっちり叱られてることだしな」

『他人を大事にしたいなら、まずは自分を大事になさい!』

一瞬懐かしい声が聞こえた気がして、さらに気恥ずかしくなったのか、羊子は皿のクッキーをむんずと一掴みして口に放り込む。
さくさくさくさくさくさく……
リスが木をかじるような音を立て、チョコチップクッキーを高速で食べて。食べかすひっつけたままにかっと笑った。

「うん!」
「よし。さて、と……今日は店じまいだ。そろそろお前さんらも帰んな。」

ほれ、と指差した窓の外は既に日が落ちて暗くなりだしている。
いそいそと帰り支度を始める教師と教え子を見ながらティーセットを片付ける喫茶店の店主に、帰り支度をしていた教師が視線と声を向けた。

「ねぇ裕二兄ぃ、今度はこっちにも来なよ。母さんや叔母さんも全然顔見せないって寂しがってるし。」
「あ〜……そういや祖母ちゃんの葬式終わってから全然顔出してなかったっけな。……ん、また暇が出来たら行くさね。」
「よし。……じゃ、またね兄ぃ!」
「お茶とクッキー、ごちそうさまでした!」
「また先生のお話聞かせて下サイ!」
「はいよ、じゃあまたな。」

そう言って3人を見送り、扉を閉めて……「Opne」の看板をひっくり返して入り口の鍵を閉める。
ゆらりと……ひっくり返った「Close」の看板が、扉の前でゆっくりと揺れた。

(ラベンダーの花束を/了)

この続きは…→【ex14】メリィちゃんと狼さん
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さんふらん通信3「エドワーズの試練」

2013/10/15 2:48 短編十海
 
 それは、エドワード・エヴェン・エドワーズにとって一つの試練だった。

 最初の結婚は寂しい結末を迎え、独り身に戻ってから十余年。警察官として真面目に職務を全うし、退職してからは父親から引き継いだ古書店を切り盛りしてきた。若い頃のヤンチャはともかく、結婚に破れひたすらコツコツと真面目に生きてきた男が……
 もう一度恋をした。
 相手は飼い猫リズの主治医、サリー先生。日本からやって来た、黒髪にぱっちりした瞳の、子鹿のように可憐な獣医さんだ。出会った当初こそ女性と誤解していたが、男性だとわかった時には既に彼への恋心は確たる物になっていた。
 そっくりな従姉がいたからって乗り換えられるような問題ではないのである。

 その後、自分より若く、お金持ちでハンサムな男性とデートをしているのを見かけ、さらにその席上でサリー先生と同じ年ごろの青年が「俺たちつきあってます!」と宣言するのを聞いてしまった。
 あの時は衝撃のあまり酔いつぶれ、元上司に介抱される失態を演じた。その後も度々あの人を思い、同じ名前の薔薇を買い、物思いにふけって居間で酔いつぶれた。
 セクシーな夢を見て、年甲斐も無く朝っぱらからパンツを洗う羽目に陥った事もある。
 サリー先生の事となると、いともたやすく冷静な判断力を失ってしまう。かつての暴走少年が、重ねた歳月と社会的良識の殻をぶち破って出現するのだ。
 そんな三十六歳バツイチ男の目の前でよりによってサリー先生が倒れた。

 場所はエドワーズ古書店、時間は朝。
 店に入って来た時はいつものように笑顔で挨拶を交わしたのだが、思えばその時から少し、様子がおかしかった。ほんのりと頬を桜色に染め、濃い茶色の瞳は潤んでいるように見えた。風邪気味……だったのだろうか。
「いらっしゃい、サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」
「みゃ」
「こんにちは、リズ」
 いつものように和やかに言葉を交わしていると、急にサリー先生が体を硬直させ、びくんっと震えた。リズが鋭く鳴くのを聞いた瞬間、確信した。これは非常事態だ、と。
「サリー先生!」
 とっさに駆け寄り、伸ばした腕の中にくたんっと小柄な体が倒れ込んできた。
「サリー先生、サリー先生!」
 呼んでも反応が無い。抱き留めた体は、衣服を通してさえわかるほどはっきりと熱い。
(熱?)
 確かに肌の赤みも強くなっているし、ほんのり汗ばんでいる。息づかいも荒い。
「……失礼」
 とっさに背中と膝に腕を回して抱き上げた。意識がないとは言え、華奢なサリー先生の体は苦も無く腕の中に収まった。
(休ませないと!)

 奥の住居に通じる扉を開け、階段を上る。一歩一歩慎重に……。三階の寝室か二階の居間か、一瞬迷った。
「はぁあ……んんっ!」
 胸元に響く悩ましげな喘ぎを聞いた瞬間、腹を決めた。
 二階だ。今、この人を寝室になんか連れていったら、正直、理性を保つ自信がない。
 それほどにサリー先生の声は艶めいていて、男としての本能を強く強く揺さぶらずにはいられない物だったのだ。
 しきりと身じろぎする手や足、肩が押し付けられる。弾けるような若い体の存在に鼓動が跳ね上がる。
 自制心を総動員して居間に通じるドアを肩で押し明け、ソファの上に彼の体を横たえた。

(楽にしてあげた方がいいのだろうか?)
 迷いながら、シャツの一番上のボタンを外し襟元を緩める。この程度なら、応急処置の範疇を越えないだろうと判断した上での決断だった。ゆるめられた衣服と肌の間から、ほんのりと暖まった空気が立ち昇る。ねっとりと甘い、それでいてぴりっとした刺激が鼻腔の奥まで突き抜ける。
「っくぅうんっ!」
 眉根を寄せて、ぴくぴくっと手足を震わせる。その仕草は経験に基づいて判断する限り苦痛よりはむしろ、快楽よりのものだったが。
 すがりつくように伸ばされた華奢な手をとっさに握りしめていた。
「あ……も、もっと」
「え?」
 予想以上に強い力で引き寄せられ、あっと思った時には床に膝をついたまま、上半身のみサリー先生に覆いかぶさるような姿勢になっていた。
(こ、これは……っ!)
 今にも心臓が爆発しそうだ。両腕でしがみついたまま、サリー先生は切なげな吐息を漏らしている。囁かれる言葉は日本語なのだろう、意味はわからない。だが……『こう言う時』の求め方は、言語に関わらず体で理解できる。
「っはぁ、うぅん……っ……もっと……強く、抱いてぇ……っ」
「サリー先生……サクヤっ」
 求められるままエドワーズは彼を抱きしめた。しがみつく手がシャツを掴み、指の間に皴が寄る。ぴったり密着した体と体は、既に間に布を挟んでいる事を忘れそうになるくらいに熱くて、生々しい質感を感じる。
(ああ、だめだ、このままではっ!)

 相手に意識がないか、もしくは正常な状態で無いことはわかりきってる。この状態で求められるまま本能に身をまかせたら。手を出したら、自分は最低の男になってしまう。
(しっかりしろエドワーズ)
 滾る血潮を無理矢理ねじ伏せる。
 サリー先生との絆は、自分にとっては至上の宝だ。
 一時の肉体的な欲望なんかとは、到底引き換えにできるものではない。
 警察官時代に培った鋼のごとき強靭な精神力を振り絞り、エドワーズは熱い抱擁をやんわりとほどき、サリー先生の体をソファに横たえた。
 頭の下に枕代わりにクッションを置く。眼鏡を外して畳み、テーブルの上に乗せた。
「少しだけ待っていてください。サリー先生」

 三階の寝室から毛布をとってきて、ついでに一度店に戻って『休憩中』の札を出し、改めて二階の居間に入る頃には、エドワーズはいつものイギリス人らしい良識と確固たる自制心を取り戻していた。
「みゃ」
 サリー先生の傍らで白い猫が首をもたげる。ずっと付き添っていてくれたのだろう。
「ありがとう、リズ」
 顎の下を撫でてて労ってから、毛布をかける。うっすらと汗ばんだ額に乱れた髪が貼り付いていた。
 ごく自然に手を伸ばし、髪を整える。その何気ない動作の直後に訪れたわずかな隙に、鉄壁の理性がほころぶ。
 気付いた時はもう行動は終わっていた。
 火照り、色づき、しっとり湿り気を帯びた肌が唇に当たっている。きめの細かさ、なめらかさを直に感じた。
(あ)
 エドワド・エヴェン・エドワーズは、秘かに恋する相手の。サリー先生の額に、唇で触れていたのだった。
(しまった!)

 しかし己の迂闊さを悔いるよりもその瞬間、エドワーズの全身は甘美な喜びに満たされていた。
(ああ、私は、サリー先生に……キスしてしまった!)
 たかだか額へのキスである。祝福とか挨拶と称しても許されるレベルのキスだ。しかし、そんな礼儀正しい定義では済まないことはエドワーズ自身がよくわかっていた。
「うーん………」
 間近で響く声にはっと理性を取り戻す。エドワーズは再び強固な自制心を総動員し、体を起こした。
 体内でくすぶる炎はまだ冷めない。だが、とにもかくにも最大の試練は乗り越えた。
 そう、信じて。

     ※

 小さくうめくと、サリーはうっすらと目を開けた。
「大丈夫ですか、サリー先生」
 明るいライムグリーンの瞳が見下ろしてくる。夢の続きを見ているような、ほんわりした心地で差し伸べた手が、ほんの少し乾いた器用そうな手のひらに包まれる。骨組みのしっかりした、見かけよりずっと力強い手。その熱さと確かさが心地よくて、また意識がほわほわと漂いそうになる。
「サリー先生?」
 問いかけるようにまた、名前を呼ばれた。この声、知ってる。低く滑らかな響き、耳に心地よいイギリス式のアクセント……そう、イギリスだ。知ってる中でこんな喋り方をする人は一人しかいない。
「っ、エドワーズさん」
(どうして? いや、何でっ?)

 衝撃と驚きに吹き出したアドレナリンの恩恵で意識がはっきりする。
「急に倒れたから、心配しました」
「え、う、あ、はい、あ、ありがとうございます」
 今朝は朝早くから体調が変だった。頭がぽやーっとして、妙に脈も速かった。風邪でも引いたかなとも思ったけど、クシャミも咳もない。体温が少し高めだけれど、これぐらいなら許容範囲だ。
 今日は病院の勤務は午後からで午前中はフリー。せっかくエドワーズ古書店に行ける貴重な機会を、諦めたく無かったのだ。
 ケーブルカーに揺られる途中、何度か意識がふうっと漂いそうになったけれど、幸い通い慣れた道筋だ。どうにかこうにか砂岩作りの細長い建物にたどり着き、和やかなドアベルの響きに迎えられた時はほっとした。
「いらっしゃい、サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」
「みゃ」
「こんにちは、リズ」
(ああ、やっぱり来て良かった)
 エドワーズさんと言葉を交わしながら、紙と糊と革、そして木とインクの香る静かな空気の中をゆっくりとたゆたう。
 そんな掛け替えのないひとときの中、不意に衝撃が訪れた。
「あ……れ?」

 体の奥底で何かが弾けるような感触があった。と思ったら次の瞬間、ありとあらゆる感覚が真っ白に焼き付いた。
 リズが警戒の声を上げ、駆け寄ってくるエドワーズさんが伸ばした腕の中に倒れ込んで………後は覚えていない。
「……俺、失神しちゃってたんですね」
「はい。不躾ながらこちらにお運びしました」
 カボチャ色の明るい壁に囲まれた部屋で、ソファに寝かされていた。以前、ここで一緒に昼食を食べた事がある。
 ここは、エドワーズさんの居間だ。頭の下には枕がわりのクッションが置かれ、体には毛布がかけられている。
「すいません、ご迷惑かけて」
「とんでもない。お身体の調子はもう、よろしいのですか?」
「はい……」
 胸に手を当てる。さっきのは、あくまで余波だ。原因は自分ではない。海を越えた向こうにある。
(よーこちゃん……)

 どう言う状況なのかまではわからない。けれど、とても満ち足りて幸せなのだと感じた。
(だから、これでいいんだ)
 ぽろっと涙がこぼれる。
「サリー先生っ?」
「あれ? あれれっ?」
 止まらない。後から後からぽろぽろとこぼれる。エドワーズさんがポケットからハンカチを取り出し(さすがイギリス紳士、いつも持ち歩いているのだ。)拭ってくれたけどそれでも追いつかない。
「ごめんなさい……な、なんだか、止まらなくってっ……っ!」
 エドワーズさんは何も聞かなかった。ただ両腕を広げて、抱きしめてくれた。がっしりした手が。本を直す『魔法の手』が、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
 余計な事なんか考える余裕がなかった。内側からあふれ出す感情が静まるまでずっと、優しい腕に身を委ねた。

「も……大丈夫です……ありがとう……ございます」
 腕が解かれる。離れて行く温もりに思わず手を伸ばして追いすがりそうになった。
「お茶をいれて来ます。こう言う時は、あたたかいものを飲むのが一番だ」
「……はい、お願いします」

 エドワーズさんが台所で立ち働く間、リズはずっと付き添っていてくれた。白い柔らかな毛並に顔を埋める。
「リズ」
「にゃ」
「よーこちゃんがね、ランドールさんのお嫁さんになるんだよ」
「にゃうう!」
「うん……そうだね」
 ごそごそとポケットから携帯を取り出し、メールを打とうとして初めて気付く。
「眼鏡………」
 きょろきょろと見回すと、すぐ近くのローテーブルにきちんと畳まれた眼鏡が乗っていた。
(外してくれたんだ。)
 かけ直すと、ぼやけていた世界がはっきりと輪郭を取り戻す。深呼吸してから指を走らせ、短いメッセージを送った。
『おめでとう』
 ただ、それだけ。
(これで、いい)
(だけど、よーこちゃんがお嫁に行くのなら、神社の跡を継ぐのは……)
 つくん、と胸の奥が疼いた。
 それは、まだ先の事。だけど確実に待ち受けている事実。
 このまま、サンフランシスコ(ここ)でずっと続いて行くんじゃないかって思っていた日々の暮らしに、初めて突きつけられた変化の兆し。

「お待たせしました、どうぞ」
 エドワーズが盆に乗せたカップを運んできた。きっと紅茶だ。だって、この人はイギリス生まれだもの。
「……ありがとうございます」
 カップからたちのぼる湯気には、はちみつの香りが混じっていた。
「あ。甘い」
「はちみつとレモンを入れました。体調が良くない時は、これが一番です」
 穏やかに見守ってくれるライムグリーンの瞳。見上げながらふと思った。
(日本に帰ったら……エドワーズさんとも会えなくなっちゃうなあ)
 親しい友人の誰よりもまず、彼の事を思い浮かべたのは何故なのか。サリー自身もまだ、気付いていなかった。

(さんふらん通信3「エドワーズの試練」/了)

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