ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【4-13-2】エビを買う

2009/10/18 2:24 四話十海
 
「戻ったぞ」

 事務所に戻ると、オティアがパソコンを打つ手を止めてちらりと顔を上げた。
 ほぼ同時にチリチリと透き通った鈴の音が近づいてきた。足元に視線を落とし、白い猫に声をかける。

「ただいま、オーレ」

 ひゅうっと長い尻尾がしなり、ぺち、と軽くふくらはぎに触れる。そのままオーレは俺の足の間を8の時を描いてくぐり抜け、しきりにニャーニャー話しかけてくる。
 いつもは迷わずざっかざっかよじ上ってくるってのに、それどころじゃないって雰囲気だな。いったいどうした、美人秘書?

「今日はこれであがりだ」
「ん……」

 こっちも微妙に歯切れが悪い。しきりと口を開きかけるが途中でやめている。言う意志はある、だが声を出すまでに至らない。そんな感じがした。

「どうした」

 返答をうながす。だがオティアは答えず、その代わりちらり、ちらりとドアの方を見ている。なるほど、答えは今やその方角にあるようだ。
 ほどなく軽い足音が聞こえた。聞き慣れた足音。オーレがぴん、と耳を立てる。
 そして、ドアが小さくノックされた。

「どうぞ」

 かちゃりとドアノブが回り、シエンが入ってきた。

「これ」
「ありがとう」

 さし出されたファイルを受け取る。以前、レオンに渡した資料、新規の調査依頼書、その他もろもろの書類……。さして珍しいものじゃない。毎日の業務の中で普通にやりとりしているものだ。
 シエンに届けさせる、とあらかじめメールも受けている。

 ざっと目を通して分類し、ボックスファイルに移してから顔を上げると……シエンはまだ居てくれた。

「どうした?」

「………今日、水曜日だから」
「…………あ、あぁ」

 水曜日は仕事は定時で上がり。その後、オーガニック食品専門のスーパーで買い物をして、クリーニング屋に寄ってからマンションに帰る。双子がアルバイトに入ってからの習慣だった。
 だがこの二ヶ月と言うもの、買い物に着いてくるのはずっとオティアだけだった。最後に2人一緒にそろっていたのは去年の10月。

 まばたきして、もう一度シエンの様子を確かめる。

 まさか、夢じゃないだろうな。きっちりコートを着て、カバンを肩に下げて、ちゃんと帰り支度をしてるじゃないか!
 つまり、その……今日は一緒に来るってことなのか。来てくれるってことなのか?

 くそ、こんな時、どんな顔したらいいんだ? 

「そうだな」

 口にした瞬間、意外に簡単に顔からも肩からも力が抜けた。目尻がさがり、口角がゆるんでくいっと上に上がる。ほんの30分ほど前、鑑識のラボで四苦八苦したのが冗談みたいにすうっとあっけなく。
 
 オティアは何も言わない。黙ってさっさと帰り支度をしている。まるでそうするのが当然、何を不思議がることがあるとでも言わんばかりに。
 キャリーバッグを開けると、白い毛皮がひょい、と飛び上がり、するりと中に入った。
 お見事。いつもながら鮮やかなもんだ。

「行くか」

 事務所を出て、戸締まりをして。先頭に立ってエレベーターに向かう。少し遅れて軽い足音が二つ、ぱたぱたと着いて来る。
 地下駐車場に降りて車に乗り込み、後部座席に並んで座る2人をちらりと振り返る。
 色違いのおそろいのダッフルコートに手袋。出会ったころに比べて顔がすっと長くなり、鼻筋が通っている。大人の顔に近づいている。背も伸びてすんなりとしてきたようだ。ややくすんだ金色の髪は、シエンの方が長くなっていた。

(もう、骨の形が透けるほどやせ細った怯えた子どもではない……2人とも)

 秋の終わりまで何度となく繰り返され、しばらくは中断していた風景が……若干のぎこちなさを残してはいるものの、再び、ここにある。
 うれしくて、しかたがない。
 だがその一方で、ほの暗い不安の気配が拭えない。もし、ここで気を抜いたら……。その瞬間、俺はこの手で。この舌、この目、この声で、ぐしゃりと押しつぶしてしまうんじゃないかって。

 卵の殻よりも。ガラス細工よりももろい、この小さな幸せを。

「今日、夕食に客が来る。警官時代の後輩だ」
「……ん」

 オティアが眉をしかめた。ほんの、かすかに。うっかりすると見落としそうなくらいの変化だが、確かに表情が変わった。
 何を考えているのかは、そこはかとなくわかる。警戒してるんだ。他人が家の中に入って来ることを。

 おそらくは自分とシエンの二人分。

「あー、その、何って言うか、とにかく真面目で害のない奴なんだ。その、鑑識だから、頭でっかちで線も細いし………若干、背が高いけど」

 いい奴だから。言い慣れたその一言は、双子を安心させるにはてんで足りない。もっと直接的な言葉を選び、伝えるべきことを口にした。一番、不安を呼び覚ますであろう要素に答えを提出した。

「だから、あまり、怖くない」

 短い沈黙の後、シエンがこくんと小さくうなずいた。よし、第一関門は突破した。

「この所まともな飯食ってないみたいでな。今日、行ったら、アイス食ってやがった」
「アイス? こんなに寒いのに?」
「ああ。そんな訳だから、いつもより食い物を買う量が増えるぞ」
「わかった」

 オティアが一瞬、口をひらきかけたが結局は黙ったままだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 スーパーマーケットの駐車場に入って行く。夕方の買い物ラッシュの時間だ。当然のように混み合っていた。
 どうする、隅に寄せるか、第二駐車場に移動するか。迷う間もなく、双子がほぼ同時にすっと駐車スペースの一カ所を指差した。

「そこ、空く」
「OK」

 まさにその瞬間、目の前の車のエンジンがかかった。これ幸いと出た後にするりと入る。一昨年の冬、この子たちと初めて買いものに出た時もこうだった。
 ただあの時と違うのは、今は……

「に!」
「いい子にしてろよ?」
「みう」

 お留守番が約一名いるってことだろうな。

 スーパーの中に入ると、迷わず一番大型のショッピングカートを引き出す。人数が多いし、まとめ買いするし、今日は客が来るからなおさらだ。何度も買い物に来た店だが、やはり夕方は混み合う。不安なのか、シエンは心持ち俺の近くに体を寄せてくる。
 そしてオティアはさりげなく、人の流れとシエンの間に入り、ガードしている。
 自然とシエンはオティアと俺の間に挟まるような形になる。初めてこの店に買い物に来て以来、何度となく繰り返されてきたフォーメーション。
 いつものように。
 そして、久しぶりに。

 決して体が触れるほどは寄ってこない。それでも、すぐそばにいるのが伝わって来る。感じ取れる。それだけで、胸の奥にほろほろと、温かなものがほどけて広がる。

 パスタと紅茶、グリッシール(イタリアの細い、スティック状のパン)のプレーン。紅茶はアレックスに任せているから、お茶のコーナーで買うのはもっぱらシエンの好きなジャスミンティーだ。
 クリスマスにヒウェルから一箱もらっていたのを、ちょっとずつ飲んでいたようだが、そろそろ終りかけているらしい。

「あ」
「ああ、新しいの、出てるな」
「どう違うのかな……」

 お茶の箱を手にとり、説明書きを読み比べて。値札もチェックして。

「これ」

 新しいのに挑戦するつもりらしい。

「OK。二箱まとめるか?」
「ううん。最初に一箱、試してみる」
「そうか」

 賢明な判断だ。
 いかにもヒウェルの好きそうなジャンクフードの棚は、例によって華麗にスルー。キャットフードのコーナーで、オーレ用に小エビの缶詰を買う。
 さすがに客にばかりエビ食わせてオーレにはお預けってのは、かわいそうだしな。
 ボトルウォーターに牛乳、洗剤、柔軟剤、ときて……冷凍食品売り場にやってきた。

「えーっと……まずは、これだな」
「エビ?」
「ああ、エビだ」

 がっぱん、とアイスボックスの蓋をあけて、冷凍シュリンプの詰め合わせパックを無造作にひっぱりだしてカートに入れる。
 ビニールパックに詰められたむき身の小エビは、板みたいにくっついてガチガチに固まっている。
 ちょっとやそっと時間が経った程度じゃ、ビクともしない。
 かえって保冷剤代わりにちょうどいい。

 さらに鮮魚売り場に行く。ちょうどタイムセールが始まったところで、人がわんさか群がっていた。さすがにこの群れの中にカートを引いて突入するのも気が引ける。

「オティア!」
「ん」
「カートを見ていてくれ。ちょっと行って来る」
「ん」

 よし……行くぞ。
 軽く腕まくりしていると、すっと側にシエンが寄ってきた。

「一緒に来るか?」
「ん」

 材料を、自分の目で見て選びたいらしい。さすが料理好き、気持ちはわかる。
 隣のシエンをガードしながら、人ごみをかきわけて売り場に乗り込んだ。

「失礼……」

 何度かぎょっとした顔で見上げられた。やっぱり浮くのか、俺は。夕飯の買い出しタイムでは……。
 無理もない、か。さすがに屋内、それも夕方なのでサングラスこそかけていないが、黒のライダーズジャケット羽織って鮮魚売り場で買い物してる野郎は居ないものな。

 いっそエプロンでもつけて、髪の毛お下げにも編んでみるか?

 ………。
 やめた。想像しただけで何やら気色悪ぃ。

「ディフ?」
「あ、いや、何でもない」

 気を取り直してチェックする。
 ホタテと生の殻付きのブラックタイガーが特売だった。これ幸いと、ごっそりまとめ買いする。

「また、エビ?」
「うん、ブラックタイガー」
「縞模様だから?」
「そうだな」
「茹でると赤くなるよね」
「ああ、茹でるとレッドタイガーだな」

 たあい無い言葉を交わしながらカートに戻ると、オティアが読書中だった。
 暇を持て余していたのだろう。熱心に、さっきシエンがカートに入れた中国茶の箱をとって裏の説明書きを読んでいる。
 
あらかじめあたためたカップにティーバックをひとついれます
熱湯をそそぎ、フタをして3分むらします
お好みでお湯をつぎたしながら何煎もいれられます
 
 ほんと、活字なら何でもいいんだなあ。
 
「次は、何?」
「サンドイッチ用のペースト」

 冷蔵箱の中に並ぶ、小エビの描かれた四角いパックを選び出す。
 カートの中を眺めて、シエンがちょこんと首をかしげて言った。

「………エビばっかりだね」
「今日来る奴の好物なんだ。毎日食っても飽きないんだとさ」
「ふぅん……」

(何か、聞いたことのあるような?)
(でも、ここは海辺の街だし。シーフード好きな人って多いよね、きっと)

 何やら考え込んでいるシエンの隣では、オティアがじっと隣に積まれた海産加工物を見つめていた。

「……」
「ああ、カニだな」
「……」

 こくっとうなずいた。

「でも、それは本物のカニじゃない。魚のすり身をカニっぽく加工したものなんだ」
「フェイク?」
「そんなもんだな。日本ではカニカマって言うらしい」
「……そうか」
「気になるのか?」
「ちょっと」
「買ってみるか?」
「………いや。今日は、いい」
 
 
 ※ ※ ※ ※


 大量に買い込んだ生鮮食品は、ちゃんと銀色の保冷バッグに入れて密封したはずなのに……。
 車のドアを開けるなり、オーレはキャリーバッグの中で大騒ぎ。
 目を輝かせてぐるぐる回っている。バッグがぐらぐらとそれ自体が謎の生き物みたいにゆれ動く。

「にゃーっ、にゃ、にゃ、にゃうーっみゃう、にゃーっ」

 ちらっとのぞきこむと、青い瞳がらんらんと輝き、鼻面がふくらみ、ぴーんっと髭が前方に突き出している。
 要するに、臨戦態勢だ。

「冷凍エビでもわかるのか」
「生のエビは、ちゃんと密封したのに」
「ペーストもきっちり密封されてるはずなんだけどな……」
「みゃーっ」
「さすが猫だな……」
「もしかして、エビって単語に反応してる?」

 ケージのネット越しに、オーレがちっちゃな口をかぱっと開けるのが見えた。
 しかも、かりかりと蓋をひっかいている。

「………エビ」
「みゃみゃーっ」
「エビー」
「みゃーっ」
「エビ」
「みゃっ」

 思わず顔を見合わせる。シエンと、オティアと、俺とで。

「…………理解してるみたいだな」
「すごいね」
「うむ」


次へ→【4-13-3】子猫とクロワッサン
拍手する