▼ 【4-11-2】もみの木と子猫1
秋の終わりにユニオン・スクエアに期間限定のスケートリンクが設置された。広場の一角を柵で囲っただけの屋外リンク。
受付と靴の貸し出しカウンターは、赤を縁取った白いテントの下。ベンチで靴を履き替え、柵を開けてリンクの上へ。
仕事が引けた後、オーレを連れて歩いているといつもけっこうな人数が滑っている。
近くのビルで働いてる人たちが、仕事帰りに一滑りして行くのだろうか。
氷の上を滑るエッジの音が遠い記憶を呼び覚ます。翼のように広がるふわふわの金色の髪の毛。青い手袋。氷の上を舞う妖精みたいな……。
「みうー」
肩にかけたキャリーバッグの中でオーレがもそもそと動く。早く外に出たいらしい。
「……わかったよ」
バッグの中に手を入れて、ふかふかの毛皮を撫でる。ごろごろと喉を鳴らしてすり寄ってきた。
指先を自分以外の生き物の体温がすりぬけ、ひやりとした鼻の感触が押し付けられる。ほんの少しの間、オティアは目を細めてじっとしていた。
やがて顔を上げて歩き出す。ここはあまりに騒がしく、交通量が多い。オーレをバッグから出すのは家に帰ってからだ。
ハロウィンのあの日以来、オティアは毎朝歩いて事務所に出勤し、そして夕方も歩いて帰る。
猫だけ連れて、たった一人で。
最初は片方の耳を塞いで歩いているような奇妙な違和感があったけれど、今はもう慣れた。慣れてみると、かえって一人の時の方が気を張らずにいられるのだと気づいた。
多分、自分以外のだれかを守る必要がないからだ。
※ ※ ※ ※
「オティア」
昨日、夕食の後でディフから白い封筒を渡された。見れば分かる。手紙だ。だけどどうして?
怪訝そうに見上げると、がっちりした指がすっと宛名をなぞった。
「これはおまえと、オーレ宛だ」
住所はレオンの部屋。けれど確かに宛名は『Mr.オティア・セーブル&Missオーレ・セーブル』と連名だ。
いったい誰が送ってきたのだろう?
くるりとひっくり返すと、きちんとした筆跡でEの字が並んでいた。
『Edward Even Edwars(エドワード・エヴェン・エドワーズ)&Elizabeth Edwars(エリザベス・エドワーズ)』
「あ」
オーレが伸び上がってくんくんと封筒のにおいをかいでいる。とても熱心に。
エドワードはすぐわかる。オーレの母猫の飼い主でディフの友だち、古書店の主の名前だ。でもエリザベスは? わざわざ一緒に名前を書いてくるんだから自分とも何らかのかかわり合いのある相手なのだろうが……。
「エリザベスって、だれだ?」
「おまえも良く知ってるご婦人だ」
仕事の話でもするように真面目な口調で答えてから、ディフはいきなりくすっと笑って手をのばし、オーレのあごの下をくすぐった。
「ああ、もちろんオーレもな」
「に」
「?」
「リズってのはエリザベスの愛称なんだよ」
「みゅ」
「ああ。人間かと思った」
納得。
※ ※ ※
自分の居間に戻ってから、そっと封を開けた。ソファに腰を下ろして、ペーパーナイフを使って注意深く、ゆっくりと。封筒の中からかすかに古書店の空気と同じにおいがした。古びた紙と糊、革、そして布と木。
オーレが膝の上に飛びのり、顔をすりよせる。
中には、白い二つ折りになったカードが入っていた。
折り曲げたカードの一端は、四角く窓の形に切り抜かれていた。まるで白く雪のつもった家のようだ。
切り抜かれた窓の向こうから、あたたかな茶色がのぞいている。
開くと、中にもう1枚、四角く切ったクラフト紙が張り合わされていた。窓から見えたのはこれだったのか。
ざらりとした紙の表面に猫の足跡が一つ。
ひとめでわかった。これはリズからの『手紙』なのだと。
リズの足跡のすぐ脇に、几帳面な筆記体でメッセージが添えられている。
メリー・クリスマス。よきクリスマスがあなたと、あなたの家族と共にあるように
考えてもいなかった。まさか自分あてにクリスマスカードが届くなんて。
同じ家に住んでるもの同士ではわざわざカードなんかやり取りしないし、外にカードを送って来るような知り合いはほとんどいない。
ディフの事務所の顧客宛にカードを発送したけれど、あれはあくまで仕事用だ。
カードを畳んで、もう一度開く。窓枠にうっすらとえんぴつで線を引いた痕跡が残っている。
どうやら自分で紙を切って、張り合わせて作ったようだ。
「器用だな、Mr.エドワーズ」
「にう」
何度もカードを閉じては開き、書かれたメッセージを読み直す。そのうち口元がむずむずとくすぐったくなってきた。
力を入れて押さえつけたけれど、くすぐったいのは一向に収まる気配がない。
試しに力を抜いてみたら、口の両端がきゅいっといい具合に持ち上がり、ふうっと気分が楽になった。
今まで個人的にクリスマス・カードをもらったことはない。そもそもクリスマスカードを受け取ること自体、去年ヨシカワさんからもらった一通だけ。しかもレオンとディフ、シエンと一緒だった。あの時は返事も一通のカードに4人でそれぞれ一筆添えて出した。
今回は自分(とオーレ)宛だ。Mr.エドワーズには、どうやって返事を書けばいいんだろう?
便せんも封筒も、事務所に行けば普通にある。だけど、これだけ手間のかかっているものにそんな風に簡単に返事を出してしまっていいのだろうか。
考え込んでいたらシエンが帰ってきた。この頃は帰る時間が早くなってきていたから、そろそろだろうとは思っていたけれど……。目の前を通り抜けるまで気づかなかった。
それだけ、カードに気をとられていたらしい。
※ ※ ※ ※
考えながら歩いていたら、いつもよりずっと早くマンションに着いてしまった。あくまで主観の問題、時計を確認したら時間的には変わらない。
エントランスのロビーには、控えめながら柊と松かさ、金色のベルが飾られていた。
よく見るとまた一つ、飾りが増えていた。表面に金の粉をまぶした電気仕掛けの赤いキャンドル。根元には柊の葉っぱがくるりと輪になっている。こんな所にもクリスマスは確実に入り込んでいる。さりげなく何気ない顔をして。
夕食はトマトのパスタとエンドウ豆のスープだった。パスタのソースは汁が大目でつるっとのどを通るように工夫されている。味付けはぴりっと辛みが強め、付け合わせは茹でたアスパラとニンジン。
食べ終わり、後片付けを終えて部屋に戻った所にシエンが帰ってきた。境目のドアですれ違う。ほとんど目を合わせず、言葉を交わすこともない。
自分の部屋に戻ってみたら、テーブルの上に白い紙が1枚、のせられていた。白いつやつやした紙を二つ折りにした、シンプルなカード。
手にとると、表面に「メリー・クリスマス」の文字が型押しされていた。
だれが、何のために置いたのか、なんて今更、確認するまでもない。
あとは何を書くか、だ……。ペンを手にとり、かちっと芯を出して、手が止まる。
メリー・クリスマス? いや、それはもうカードに型押ししてある。書かれてきたのとまったく同じ言葉を返すのも芸が無いし、あまりにも機械的で味気ない。
お元気ですか?
いや、それじゃ思いっきりただの手紙だ。いっそ事務的な書類なら楽なのに。なまじ相手の顔が浮かんでしまうから書きづらい。毎日会ってる相手なら口で言えばすむ。だけどそうじゃないから余計に考えてしまう。
ちらっと傍らのソファで毛繕いをするオーレに目を向ける。ぺったりすわりこんで、後足をぴーんと伸ばしている。ピンク色の肉球が無防備に放り出され、指が開いていた。
こいつの足形、ぺたっと押してはいできあがり、とか、だめかな……だめだろうな。リズならともかく、このおてんば娘がおとなしく足形を押させてくれるとも思えない。
書くことを何ひとつ思いつけないまま時間が過ぎて、気がつくと薬を飲む時刻になっていた。
しかたない。続きは明日、考えよう。
「オーレ」
「にゃ」
キッチンに行き、コップに水を注いで、ピルケースの中の薬を一回分。口に含み、水で流し込む。いつものお決まりの動作。
寝室に入ってパジャマに着替える。できるだけ空っぽのベッドに視線を向けないようにして。着替えが終ると部屋を出て、書庫に向かった。
壁際の床の上。デスクと本棚のすき間には、あらかじめベッドの上からもってきた羽根布団と毛布と枕が置いてある。
前は朝になるたびに寝室に戻していたが、今はもう面倒くさくておきっぱなしだ。
青い目覚まし時計をセットして灯りを消し、布団に潜り込む。
今夜は眠れるだろうか。
そもそも、自分は眠っているのだろうか。
このごろ、朝になると、かえって体の力がぐったり抜けているように感じる。手足が鉛でも詰まったように重くて、頭の芯にずきずきと鈍い痛みが居座っている。
目を閉じると胸元に小さな生き物がもそもそと滑り込み、丸くなった。
「………おやすみ」
「にう」
いっそ、夜をショートカットしてこのまま朝になってくれないだろうか……。
ブーーーーーーーーーーーーーフゥウウウウウウウウウウウウウウウ………………
ああ、風の音がうるさいな。
まるで得体の知れない生き物が、死に際に吐き出す最後の鼻息みたいだ。
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