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ローゼンベルク家の食卓

【ex14-7】ご対面

2013/10/15 2:32 番外十海
 
 一の鳥居を潜り、玉砂利の敷き詰められた細い道を進む。神社に向かう石段が近づくにつれてランドールは車の速度を緩めた。
「もしかして、ここで車を降りなければいけないのかな?」
 実際、石段の上り口の手前には駐車場へと続く分かれ道があった。
 石段は鎮守の森の木々の間を抜けて、上へ上へと続いている。海外用のスーツケースを抱えてこの石段を上がるのは結構、いい運動になりそうだ。何て考えていると、ヨーコがすっと石段脇の一角を指さした。
「大丈夫。その脇に、車が通れる道があるから」
 確かに。ひっそりと木の葉の影に隠れるようにして、斜面に添ってゆるく登って行くスロープがあった。幅はそれほど広くはない。やっと車二台がすれ違える程度だろうか。車を乗り入れながら思わず、ランドールは感心してつぶやいた。
「てっきり、毎日石段を上り下りしてるのかと思ったよ」
「いやいやいや。お守りとか、お札を納品するのは車使わなきゃ追いつかないし、車『の』お祓いも受け付けてるからね」
「なるほど」
「歩いてる時は、そうするけど」
 さらっとすごい事を聞いたような気がした。

 スロープを登り切り、たどり着いたのは荘厳な作りの破風を備えた、瓦葺きの日本家屋だった。それはここに来る前に訪れた風見家の屋敷とどことなく似ていたが、場に満ちる空気は柔らかく、包み込むような優しさを感じる。
 車が前庭に入って行くとカラカラと玄関が開き、キモノを来た男女が出てきた。
 上はいずれもそろいの白いキモノで、女性二人は赤いハカマを履き、男性はグリーンのハカマを身に着けている。ヨーコやサリーがいつも身に着けている神社のユニフォームだ。
「えーっと、あの二人は君の……お姉さん……?」
「よくそう言われるけど、母と伯母です」
「ってことは片方は」
「そ、サクヤちゃんのお母さん」
 つるんとした卵形の顔に、ぱっちりした黒目の大きな栗鼠のような瞳。黒髪はつやつやと長く、小柄でちょこまかとよく動く。うっかりすると、どちらがどちらなのかわからなくなりそうだ。
「なるほど、君たちはこんなにもよく似た母親から生まれたのだね」
 道理で、そっくりなはずだ。性別の差などいともたやすく飛び越えてしまうレベルで。

 車を下りると、女性二人がすばやく近づいてくる。
「おかえりーヨーコちゃん」
「いらっしゃいませ、お待ちしていました」
 日本語だが、歓迎されている事は何となくわかった。
「ただいま、お母さん、おばさん。こちらがMr.カルヴィン・ランドールJr。サンフランシスコでお世話になった方よ」
「まあ、お噂はかねがね」
「お会いできて嬉しいわ」
 まるで三羽の小鳥がさえずりあうような光景だった。音も、見た目も。
「カル、こちらは母の結城藤枝と桜子おばさん……サクヤちゃんのお母さんよ」
 ランドールはきちんと背筋を伸ばし、うやうやしく一礼した。
「お会いできて光栄です、藤枝=サン、桜子=サン」
 母&伯母コンビは目をぱちくり。次の瞬間。頬を染めて嬉しそうにはしゃぎはじめた。
「まあ、紳士ね!」
「桜子さんって呼んでくださったわ、嬉しい!」
 手に手をとってはしゃぐ母二人からやや離れた位置で、緑の袴の男性が軽く咳払いをした。
 白髪の混じった髪、意志の強そうな顔立ち。所作はきびきびして一分の隙も無い。しかしながらまとう空気は極めて穏やかで、向き合う者を受け入れる懐の深さを感じる。ランドールは直感で悟った。
 彼がこの神社の統治者なのだと。同時に、その面差しの中に紛れも無くヨーコと通じる物を見出してもいた。
(この人は、ひょっとして……)
 果たしてヨーコは男性を指し示し、ひと言。
「父です」
「ようこそ、ランドールさん。羊子の父、結城羊司です」
「ハジメマシテ、羊司=サン」
 互いに向かい合って一礼する。やはり父親に挨拶する時の方が緊張するものだ。ぎこちない日本語ではあったが、言えてよかった。
「ささっ、ランドールさん、長旅お疲れだったでしょう?」
「中にどうぞ、すぐにお部屋にご案内しますからねっ」
 ひらひらと着物の裾をなびかせた母二人に囲まれて、否応なくランドールは(かろうじてスーツケースを引っ張り出すのには間に合った)玄関の奥へと連れ込まれる。その背を見送りながら結城宮司はぽつりと低い、小さな声でつぶやいた。
「青い目………ついに来てしまったか」

「やあ、ポチ。久しぶりだね」
 神社の奥に設えられた囲いの中にそいつは居た。ビロードのような滑らかな毛並に覆われた細長い鼻面。色は赤みの強い褐色。背中にはうっすらと白い斑点が並び、枝分かれした角はまだ皮膚に覆われている。
 以前、夢の中で会った時とはかけ離れた姿形、だが間違いなく、あの時会ったポチだ。黒い瞳を半開きにしてじとーっとこちを睨め付け、しかる後、背中の毛を逆立ててぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……どうやら、わかってもらえたようだね」
「うん、リアクションが同じだものね……ぽちー!」
 ヨーコは手にしたタッパーから小さく切ったリンゴを取り出した。
「おやつだよー」
 途端にご神鹿は上機嫌。んふんふと鼻息荒くしながらヨーコにすりより、手のひらに鼻面をつっこんで、サクサクとリンゴをかじり始める。
「やっぱりリンゴが好物なんだね」
「うん、大好きなの」
 沈む夕陽にオレンジに染まりながら二人は寄り添って柵にもたれかかり、ご神鹿との久々の再会を満喫していた。
「今なら触れるかもよ?」
「大丈夫かな」
「うん、リンゴに夢中だからね」
 ランドールは静かに静かに手を伸ばし、ポチに触れた。皮膜に覆われた角は温かく、ほんの少し柔らかい。ご神鹿さまは耳を伏せてはいるものの、逃げもせず怒りもせずに大人しく撫でさせている。
「撫でられた」
「よかったね」
 ちょうどその時、リンゴが無くなった。ポチは即座に顔を背け、のっそのっそと体を揺すってランドールから遠ざかり……そっぽを向いて「ふんっ」と鼻を鳴らしたのだった。

「ランドールさんお刺し身大丈夫よね?」
「サシミ! ブラボー、素晴らしい!」
 夕食の席には、和と洋の料理が混在している。ウィル・アーバンシュタインから連絡を受けてすぐに、食材を買い足したのだろう。カツオの刺し身と鳥の唐揚げ、ハンバーグ、ポテトサラダにホウレンソウの胡麻和え、里芋の煮っ転がし、野菜の漬物色々と。若干、肉類が多めなのは『お客様』に合わせたからか。
 とは言えヨーコの食べる量も決して、ランドールに引けを取るものではなかった。
 三匹の猫たちは行儀良く自分たちの分け前をたいらげ、畳の上や板の間、テレビの脇等、思い思いの場所でくつろぎ、毛繕いをしている。今、ねだってももらえない。むしろ叱られるだけだとわかっているのだ。それでも時折、何やら期待した目をランドールに向ける。
 彼女たちはちゃんと知っているのだ……お客さんは優しい、と。
 しかしランドールも犬を飼っている身である。人間の食事と動物の食事の間にきっちり線は引いている男だった。しばし様子をうかがってから、猫たちは諦めた。
「ランドールさんお箸の使い方上手ね」
「シスコでも中華料理はお箸で食べるから」
「でも里芋つかめるのは上級者よ」
「わ、すごい」
 賑やかにさえずる母と伯母と娘。反して父親は口数が少ないものの、時折、低い声で相づちを打っている。
(何だか、ヨーコが三人に増えたような気がする)
 長い会話になるとさすがにヨーコが合間合間に通訳を入れる。だが、短い会話は英語と日本語でもそれなりに意味が通じているようだった。話す時間が長くなるほど、通じている感覚が強くなる。
 これは一般的なものなのか、この母娘たちならではの事なのか。ヨーコ自身の普段の勘の鋭さを思えば、さほど不思議ではないような気もした。
(ああ、確かに今、私は君の家族に囲まれているのだね……)

     ※

 夕食後。
 ランドールは客間へと引き上げ、ヨーコは母、伯母とともにかいがいしく後片づけをしていた。
 食器をすすぐ水音が途切れた瞬間、食卓に置いたままにしておいた携帯が震え、賛美歌の一節が流れる。
『まきびとひつじを 守れるその宵……』
 刹那、ヨーコの動きが止まる。母と伯母はまったく動じる風も無く手を動かしながらさらりと言った。
「よーこちゃん、ここはもう、私たちがやっておくから」
「お部屋に戻ってていいのよ?」
「う……あ……はい」
 ぎくしゃくした動きで携帯を手にとり、足早に自室に引き返す。廊下との境目の襖を閉めても、すぐには携帯を確認する勇気が無かった。
 ささやかな胸が上下する。知らない間に呼吸が荒くなっていたようだ。全力疾走している訳でもないのに、胸が苦しい。心臓が肋骨を突き破って今にも飛び出て来そうだ。こめかみの内側では、大きな岩を打ち合わせるような。舟が波に揺れ、岸辺にぶつかるような低い音が轟いている。できるものなら両手で顔を覆い、背けたい。
 そう思ったまさにその瞬間。手の中の携帯が震え、再びあの曲が流れる。
『まきびとひつじを 守れるその宵……』
 びくっと、その場ですくみあがっていた。
 賛美歌は出だしの一節のみで後には続かない。電話ではなくメールだ。しかもこれで三通め。
 どうしても開く事ができなかったのだ。彼のいる場所では。書かれているのがどんなに些細な事であれ、きっと平静を保ってはいられない。
 だけど今、自分は一人だ。先延ばしにする理由は、もうない。
 震える手でヨーコは携帯を開き、着信したメールを確認する。『送信者:三上さん』が三通、時系列に合わせて、最初に届いたメールから順に開く。

『あの時の約束、忘れてませんよね』
『考えていてくれてますよね?』

 挨拶も前置きもなしに、いきなりこれだ………。
 へなっと足から力が抜け、ヨーコはその場にへたりこんだ。

『私は真剣です。あなたはどうなんですか?』
(バカにして!)

 最後のメールは少なからず彼女の中の闘志をかきたててくれた。まだ畳にへたりこんだままではあったけれど、ヨーコはふっくらした唇を引き結び、迷いも戸惑いもかなぐり捨てて一気に返事を書き上げる。
 ただひと言。『忘れてない。答えを、出す』、と。送信してから、急激に頭に昇っていた血が下がってくる。それにつれて、逃れようのない気まずさがこみ上げる。
(やっちまったーっ!)
(答えを出すって、どうやって? 何を?)
 白も黒も頭の中で一緒くたになってぐるぐると回る。そのくせ決して混じり合わない。混ぜれば混ぜるほどぶつかり合って、つきつけて来る。近いのやら遠いのやら、多少の違いはあるものの、今生きている自分の時間の延長上に、確実に存在する『現実』ってやつを。
(ああ、もう、どうしろって言うのーっ)

 頭を抱えて部屋中を転げ回りたい。だけど変に気合いを入れたもんだからもう体が強ばって動けない。石になったように硬直していると、不意に誰かがふすまを叩いた。
「は、はい、どなたっ?」
 何て間の抜けた会話してるんだろう。案内も無しに自分の部屋を訪れる人なんて家族以外にいるはずがないじゃないか。
 極めて常識的な思考は、遠慮がちに話しかけて来る声を聞きつけた瞬間、粉々になって吹っ飛んだ。
「ヨーコ? 入ってもいいかな」

(英語ーーーーーーーーーっ!)

「ど、ど、どーぞ」
 畳に両膝ついて座り込んだ姿勢のまま、その場で180度回転。
 襖に手を伸ばして開けると……よりによって浴衣姿のカルヴィン・ランドールJrが立っていた。着ているのは、泊まり客の為に用意されている浴衣だ。くつろいで眠れる事を旨とした肌触りの良い木綿。白地に藍色で麻の葉の模様が入っている。
 サイズは大から小までそろっているはずなのだけれど、日本のトールサイズでは幅も背丈もあるランドールにはいささか丈が足りなかったらしい。
 足首が、見えている。手首もだ。そこはかとなーくつんつるてんの着物を着た子供、と言う印象が漂う。
 それでも帯はきっちり腹で結んでいる辺り、見事な着付けだ。考えてみれば今日は長時間、ウィル・アーバンシュタインと言うまたとないお手本が隣に座っていたのだ。

「やあ。こんな格好でどうかなとも思ったのだけれど、これが日本の習慣ですって君の母上に言われてね」
 ほんの少し目を伏せて、かき回す髪の毛は湿っている。いつもより巻きが強い。そして漂う石けんの香り、肌はほんのりと上気している。つまり、風呂上がりなんだ!
(いつの間にお風呂っ?)
 仰天して時間を確認すれば何としたことか。自分が部屋に引き上げてから、既に一時間近く経過しているではないか。
(私、どんだけぼーぜんとしてたのーっ)
 どうやら、その間に母がランドールに風呂を勧めたらしい。恐らく使い方も説明したのだろう。日本語で、堂々と。
「伝えてくれって頼まれたんだ。風呂が空いたから、次は君にって」
「そそそそ、そうなのっ、ありがとうっ」
 明らかに動揺して何度も詰まりながら答えてから、ヨーコは『んっ?』と首を捻った。
「それ、全部通じたの?」
「ああ、うん。身振り手振りに絵もつけてくれたし、所々英単語が混じってたから何となく……ね?」
 母の押しが強いのか。それともランドールの洞察力が高いのか。

「ふーっっ!」
 洗い場で念入りに体を洗ってから湯船に浸かる。
 熱いお湯に身を浸すと、つい反射的に声が出てしまう。久しぶりの実家のお風呂は、一人暮らしのアパートよりずっと広い。大人2〜3人が同時に入れるように作られているのだ。小さいながらも旅館か民宿の風呂にひけを取らない大きさがある。
 実際、自分やサクヤが家に居た時は(一緒ではないにしろ)総勢5人で入っていたし、泊まりがけで手伝いに来てくれた人も含めて10人近い人数が使っていた時期もあった。それが普通だったし、別段不思議に思った事もない。家族以外の人と同じ風呂を使う事を意識した事なんてなかったはず、なのだけれど。

(さっきまでカルがここに入ってたんだ………)
(時間差で今、混浴しちゃってるんだ!)

 一度、そっちに思考が引っ張られるともう止まらない。耳も頬も首筋も、つるんとした肩、背中、丸い尻、そしてささやかな胸。全身くまなく赤くゆで上がり、その場で硬直。その場でヨーコは湯船に沈んだ。タイル張りの浴槽は、大型の家庭用プールに匹敵するサイズがある。小柄な体はあっと言う間に見えなくなり、残るのはごぼごぼと弾ける泡のみ。

「……ぶはあっ!」

 直後に風呂の水面が割れ、真っ赤にゆで上がった羊が一匹浮かび上がる。

「はー、はー、はー……」
(ダメ、これ以上浸かってたらのぼせる。絶対、倒れる)
 よろめきながら風呂から上がり、濡れた髪をタオルで巻いた。
 いきなり帰っても下着や寝巻に困らないのが実家の良い所だ。時々、自分でも知らないうちに新しいのが追加されていたりもする。ほとんど飾り気のないシンプルな木綿のショーツに、同じく木綿のキャミソールを身につけてから、頭に巻いたタオルを外してそのまま髪の水気をふき取る。
 ある程度ぬぐった所でおもむろにドライヤーをスイッチオン。ぶわっと乾いた風が顔を撫で、髪の毛を吹き上げる。
「あやうく実家の風呂で溺れる所だった……」
 あの大きさにも広さにも慣れてるはずなのに、情けない。やっぱり相当、テンパってる。

 ドライヤーで念入りに乾かすうちに濡れてぺったりしていた髪の毛が、元の軽やかさを取り戻す。仕上げに冷風で一吹きしてからブラシで梳かす。
(毛先、そろそろ切った方がいいかな)
 首に巻いていたタオルを外し、寝巻に袖を通した。洗いざらしのやわらかな木綿が火照りの残る体を優しく包む。白地にエンジ色で染め抜かれた模様はブドウ。伸びた蔓と葉っぱと実がくるくると踊っている。
 前を合わせて腰ひもで縛れば出来上がり。さすがに冬は寒いのでパジャマを着ているが、実家にいる時はもっぱら和装の寝巻と決めている。着替えるのが楽だし、昔からの習慣と言うか、すっかり体に馴染んでいるのだ。

 ひたひたと廊下を歩いて部屋に戻ると、机の上に置いた携帯の着信ランブが光っていた。緑色の点滅と言う事はメールだ。
 開いた画面には予想通り、三上 蓮からの返信が届いていた。
『お待ちしています』
 答えを待っているってことだ。一見、穏やかに受け入れているようでその実、挑発している。携帯の画面をにらむヨーコの口が、きっと一文字に結ばれた。

 わずか十文字に満たないメールが結城羊子にどんな反応をもたらすか。
 実の所、送信者は百も承知の上だった。
 礼拝堂に隣接した神父の執務室では、糸目の神父こと三上蓮が携帯を手に穏やかにほほ笑んでいた。画面には送信済みの文字。
「さて、どう出ますかメリィちゃん……」
 咽の奥で忍び笑いを漏らす。
「くく、くっくっく」
「……兄さん。何か楽しみにしてるのはわかりますけど、ものすごーく悪人っぽいですよ?」
 戸口から投げ掛けられた見習いシスターの言葉を、神父はあえて否定はしなかった。
「迷える子羊の背中を押してみたので、結果が楽しみなんですよ」
「ああ、また撞木でどついたんですね」
 携帯を閉じると、三上はしれっと答えた。
「まぁ、そうとも言います」
「……せめてそこは否定してください、兄さん」

 一方でヨーコは無言で携帯を閉じてバッグに突っ込んだ所。
(ば、か、に、し、てーっっ!)
 せっかくきれいに梳かしたばかりの髪の毛が、もわもわと逆立つ。
 送信した当人が目の前に居たのなら、胸ぐらひっつかんで真意を問いただしたい所だ。そう、当人が居さえすれば!
「あ」
 荒々しく開けたバッグの中から、ふわりと立ち昇る香り。お日さまと、乾いた草と、花の香りだ。
「……」
 ハーブティーの詰まった丸い小瓶。『占い喫茶エンブレイス』で兄弟子の裕二から渡されたものだ。
 手のひらで包み込み、ぽんっと蓋を開ける。あふれ出す香りはさっきよりずっと濃く、強い。吸い込むと荒れ狂っていた感情が、嘘のように静まった。
 雨上がりの青空のようにしんっと冴えた記憶の底から、裕二の言葉が浮かび上がる。
『時差ボケが一番キツいのは今夜だろ?』
「お茶……入れてこなきゃ」
 丸いガラス瓶を抱えて、ヨーコはいそいそと台所に向かった。既に頭の中ではハーブティーを入れる手順をなぞっている。
(一人分は小さじに一杯、ポットのためにもう一杯。ぬるめのお湯で、三分間。ぬるめのお湯で三分間……)
 
 丁度その頃、香草茶をブレンドした当人は……
『夜の部』の営業時間の真っ最中。カウンターの内側でグラスを磨く手を止めて、一人ほくそ笑んでいた。
「さぁてはて……そろそろだろうかねぇ……紳士な狼とテンパり羊……楽しみだこと……にひひっ」
 丁度その時、ドアベルの響きとともに入ってきた客が不審げに首を捻る。
「なぁににやついてんだ、ユージ?」
「いんや? 何でもない、何でもなぁい」
「ふぅん……」
 日本人ばなれして大柄な、浅黒い肌の青年だった。勝手知ったる風で頭に乗せていた帽子を脱ぎ、傍らの帽子掛けに投げるとものの見事に着地。カウンターに肘を付き、品書きも見ずにひと言。
「バーボン。ロックで」とだけ告げた。
「ワンパターンだなあ。たまには他のもの頼めよ」
「……ほっとけ」

 そんな兄弟子どもの反応など露知らず、ヨーコはお盆に乗せたカップ二つを抱えて、しずしずと廊下を歩いていた。長い長い廊下を通り抜け、やって来たのはランドールの泊まる部屋。以前光一やロイ、三上が宿泊してい一角だ。泊まりがけで手伝いに来てくれる人や来客を泊めるための別棟で、宮司一家の居室からは渡り廊下で結ばれている。
 淡い照明に照された廊下を延々と歩く間、ずっとハーブの香りに包まれていた。月の光に浮かぶ中庭の景色もどこか現実離れしていて、池の鯉の跳ねる音が、ぽわんっと遠くで弾けた気がした。
 半ば夢を見ているような気持ちで目的の部屋へとたどり着き、ほとほとと襖を叩く。
「はい?」
「カル、まだ起きてる?」
 声が震えていた。
「ハーブティ、入れたの。ハニーヴァニラカモミールじゃないけど……良かったら……」
 すっと襖が開き、彼が立っていた。
「ああ、良い香りだね……」
 盆の上にはカップが二つ並んでいる。ランドールはごく自然に一歩横に引いて、ヨーコを部屋に招き入れたのだった。

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