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ローゼンベルク家の食卓

【5-1】入学前夜

2011/03/14 0:13 五話十海
  
 サンフランシスコは桜の町だ。町の至るところに桜が植えられ、四月の第二週からはジャパン・タウンで桜祭りが始まる。
 濃いピンクのつぼみが花開き、徐々に白く変わり、最後は雪のひとひらのように宙に舞い、地に落ちる。その儚いひと時に、ここぞとばかりに町中が賑わい、浮かれ、沸き立ち踊る。
 桜色を目にすると自然と心が浮き立ち、足取りが軽くなる。
 スーパーのチラシにプリントされた桜。街灯にくくりつけられたプラスチックの造花。そして、地面に植えられた本物の木。
 通りすがりにふと、足を止めて見上げてみる。
 何てタイミングだ。
 くるくる回る花びらが、ぺとっと顔に貼り付いた。指でつまんでしみじみと眺める。ハートを引き伸ばした形の、白に近い薄いピンク色。ちっぽけな花びらが記憶の鍵穴にぴたりとはまり、過去につながる扉を開く。

 桜が咲くたび、思い出す。きっとこの先、何度も、何年も――。
 あの日から全てが始まった。
 
    ※
 
 1995年4月、テキサス州、ベルトン。

 卒業を二ヶ月後に控えたある日の放課後。中学の中庭に寝ころんで、満開の桜を見上げてた。
 まるで天と地がひっくり返って逆さになって、桜が散っているのか、昇っているのかわからなくなる。青い空に吸い込まれそうな気分になった。
 心はとっくに決まってる。先生とも相談した。後は家族にいつ、どんな風に伝えるか、だ。
 別に隠してるつもりじゃない。
 タイミングが掴めないってだけで。
 ひらっと落ちてきた花びらが、ぺとりと鼻に貼り付いた。

「ぶえっくしっ」

 派手なクシャミひとつ。脳みそがいい感じにシェイクされ、あっちこっちにぶわぶわ飛んでた考えがすーっと一つにまとまった……ような気がした。

(ええい、ぐだぐだしてても、何も始まんねえや!)

 むくっと起き上がったら、花びらがぱらぱらと足下に落ちた。西の空がいつの間にか真っ赤だ。けっこう長い間、ここに居たんだな。
 
     ※
 
 その日、夕食の席でダンカン・マクラウド署長は何気なく次男に言った。

「ディー。お前、進学先は決めたのか?」

 口いっぱいにほお張ったミートローフをごっくん、と飲み下すと、赤毛の次男はまばたきを一回。しかる後、はっきりと答えた。

「うん、聖アーシェラ高校」
「……聞かない名だな。どこの学校だ」
「サンフランシスコ」

 つかの間、食卓を静寂が覆う。署長も長男もひと言も喋らず、ただマクラウド夫人が小さな声で「まぁ」と言っただけ。
 
「先生にも相談した。OKもらった。州外からの学生も受け入れてくれるとこだし、寮もある」
「……そうか」

 署長がうなずく。それを合図に、一時停止していた夕食は何事もなかったように再開された。
 しかしながら。食事が終わり、夫人の手作りのチェリーパイを心ゆくまで賞味して後、彼は眉一つ動かさずに息子に問いかけたのだ。

「理由を聞こう」

 間髪入れず赤毛の次男坊が答える。

「俺、警察官になりたいんだ」
「だったら地元の高校でも問題ないだろう」
「ある。ここに居る限り、どこに行っても俺はマクラウド署長の息子だ」

 声には張りがあり、まっすぐ見返すヘーゼルブラウンの瞳には迷いの欠片もない。ただ感情が昂ぶっているのは確かなようだ。ほお骨の辺りが赤く染まり、顔に散ったそばかすがいつもよりくっきり浮かび上がっている。
 何より瞳の中央にちろちろと、緑色の炎が踊っている。

「だから他の州で警官になる。だったら、早いうちからその土地に馴染んでおいた方がいい」
「……なるほど。一理あるな」
「家族は愛してる。でも確かめたいんだ。自分一人で何ができるか」

 わずかに言いよどんだのは、最初のうちだけ。後はもう淀みなくすらすらと言葉が出ている。堂々とした口調で、力がこもっていた。昨日今日考えついた、薄っぺらな計画ではないようだ。
 何度もかみ砕き、長い年月をかけて練り上げてきたのだろう。
 くいっと食後の紅茶を飲み干すと、署長は今やすっかり緑色に染まった息子の瞳を見返し、厳かに告げた。

「良かろう。だが覚悟を決めた以上、途中で投げ出すな。いいな、ディー」
「うんっ! ありがとう、父さん」

 途端に満面の笑みが花開く。一気に緊張がほどけたのだろう。

(よかった……)

 ほっと安堵の息をつくと、マクラウド夫人は二切れ目のチェリーパイを息子の皿に乗せた。
 ディーもダンカンも頑固な所はそっくり。意地の張り合いになったらどうしよう、と内心冷や冷やしていた。でも結局は警察官を目指すあたり、ディーも父親を慕い、尊敬しているのだ。
 彼も、ちゃんとそれがわかってる。だから許可したのだろう。相変わらず堅苦しい、厳しい言い方だったけれど。

(嬉しいのね、ダンカン。可愛い人……。それにしてもサンフランシスコだなんて! 何でわざわざ、そんな遠い場所を選んだのかしら?)

「ディー」
「なに」
「何で、サンフランシスコなんだ?」

 長男も同じことを考えていたらしい。兄弟同士、やはり親より距離が近い。気にしていたことを、するっと聞いてくれた。

「んー、海辺の街だから」
「それだけかよ」
「まだある」

 ずいっとマクラウド家の次男、ディフォレストは胸を張り、得意げに言いきった。

「SFPDの制服って、すげえかっこいいんだぜ!」
「………」

 やれやれ。
 マクラウド署長は小さくため息をつき、こめかみを押さえた。
 少し、早まったかも知れない。
 
    ※
 
 季節は流れ、桜の咲く4月から若葉の芽吹く5月を経て、巣立ちの6月に。そして輝きの7月と8月――長い、長い夏休みが始まった。

 無事に中学校の卒業式を終えてから、ディーはせっせと荷造りに精を出していた。着替えやお気に入りの本、靴、文房具。働きバチのように動き回り、見知らぬ土地で学校生活を送るのに必要なものを、せっせと箱に詰めこんだ。
 フォトフレームに収めた家族の写真に続き、ベッドの上の茶色いクマに手を伸ばす。
 ごく自然に手にとって、ふと動きが止まった。

 テディベア、テディベア、黒いつぶらなボタンの目、ジョイントで繋がったがっしりした手足がぐりぐり動く。ばんざいするのも、ハグも、握手も自由自在。
 ディー坊やが生まれた時に、おじいちゃんがプレゼントしてくれた、大事なクマのぬいぐるみ。片方耳が取れていて、茶色い毛皮も今は色あせ、ほとんどカフェオレみたいな薄茶色になっている。
 ずうっと一緒だった。無くした時は、必死になって家中探した。

「っと……」

 ちらりと箱の中味を見る。
 結局、元通りベッドの上に戻した。
 そうだ、まだ時間はある。いざとなったら、サンフランシスコに発つ時に、カバンに入れて持って行けばいい。
 今送るのは重たいもの。
 かさばるもの。

「……そうだ」

 立ち上がり、廊下に出る。とことこと階段を降りて、台所に向かった。

 コーンミールと小麦粉の割合は1対1、ベーキングパウダーとバターと粉チーズ、メープルシロップと玉子に牛乳を加え、塩をぱらっと振って、木ベラでざっと混ぜる。
 
「母さん」

 マクラウド夫人は手を止め、顔を上げた。

「どうしたの、ディー」
「あ、コーンブレッド作ってるの?」

 目をきらきらさせて手元をのぞきこんで来る。

「ええ、そうよ」
「手伝う」

 四角い型にいそいそとバターを塗っている。小さい頃から、この子は料理ができ上がるまで、じっとのぞきこんでいた。
 見ているうちに、手順を覚えてしまったのだろう。自分の好物は特に。
 パンケーキにコーンブレッド、コーンスープ、ミートローフにアップルパイ、そして忘れちゃいけない、スクランブルエッグ。

 型に種を流し込み、とん、とん、と揺すって空気を抜く。仕上げに上にもコーンミールを振って、余熱の終ったオーブンに入れる。
 後は焼き上がるのを待つばかり。

「ありがとう、助かったわ! それで、何か用事があったんじゃないの、ディー?」
「あ、うん、そうだ。母さん、鍋貸して?」
「え、お鍋?」
「うん。あの俺がちっちゃい頃、スープ煮るのに使ってたオレンジ色のやつ」
「ああ……あれね」

 下の棚を開けてとり出したのは、どっしりした鋳物のホウロウびきの鍋。マクラウド家の台所で一番最初の、一番古い鍋だった。
 結婚のプレゼントでもらって以来、新婚家庭の食卓を豊かにしてくれた。ことこととスープを煮て、シチューを煮て。肉も魚も、キャベツもジャガイモも。
 息子たちが生まれてからは、ベビーフードを作るのに大活躍。
 今でも、ちょっとジャム煮たり、玉子を茹でるのに使っていた。

「はい、これ。どうするの? 何か作りたいものでもあるの?」
「うん。でも今すぐじゃない。サンフランシスコに持って行きたいんだ。学校の寮に、キッチンついてるから。ちちゃい流しと電熱式のコンロ一台と、冷蔵庫一つのままごとみてーなコンパクトな奴だけど」

 ああ、何となくそんな予感がしていた。

「いいの? もっと新しいお鍋もあるわよ?」
「いいんだ。これが、いい」

 にっこり笑って、ぺたぺたと鍋をなでている。

「こいつがあれば、いろいろ作れる。きっと楽しい」
「……そうね。あなたがそうしたいのなら。持ってお行きなさい」
「サンクス!」

 部屋に戻ると、ディーはオレンジ色の鋳物の鍋を、しっかりと新聞紙で包んだ。さらにエアーキャップで包んで、箱の一番下に入れた。
 さあ、必要なものは全部入れた。フタを閉めて、ダクトテープで念入りに封をした。
 後は発送するだけだ。箱を抱えて、廊下に出て階段を下りる途中で呼び止められた。

「ディー!」
「何、兄貴?」
「忘れもんだぞ」

 兄の手には、茶色のクマが握られていた。

「これがなきゃ眠れないだろ?」

 兄貴の奴、確信してるんだ! このクマ、当然サンフランシスコに持って行くんだろうって。
 むっと口をヘの字に曲げると、ディーはきっぱりと答えた。

「それは、ここに置いて行く」
「え? マジか?」
「うん。もう高校生になるんだから、自立する」
「……無理すんなよ」
「してない」
「そーかよ」

 振り向きもせずにだかだかと階段を降りて、そのまま荷物を出しに行った。
 
     ※
  
 8月の終わり、出発の日。
 身の回りの品を詰めたバッグを肩にかけて、ディフォレスト・マクラウドは住み慣れた部屋を出た。
 最後に戸口で振り返る。
 やけにがらん、として見えた。
 それほど沢山の荷物をシスコに送った訳じゃない。ただ、よく使う物が。今まで常に身近に出してあった物が、きれいに消えている。ベッドの枕元にちょこんと座った茶色いクマ以外は。

「……行ってくる」

 お別れじゃない。ここは自分の家だから。帰ってくる場所だから。
 ドアが閉まる。

 さんさんと日の光の差しこむ部屋には、クマが一匹残されていた。
 
     ※
 
 聖アーシェラとはSancta Ursula――「小さな熊」を意味する。


(入学前夜/了)

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