▼ 【3-8】ペペロンチーノ
2008/04/13 0:25 【三話】
- 【3-7】の数日後のできごと。
- 穏やかに続いてきた『食卓』に訪れる一つのうねり、その最初の一波。
記事リスト
- 【3-8-1】母との電話 (2008-04-12)
- 【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ (2008-04-12)
- 【3-8-3】ヒウェルの告白 (2008-04-12)
- 【3-8-4】あの子達には時間が必要だ (2008-04-12)
▼ 【3-8-1】母との電話
2008/04/13 0:27 【三話】
赤々とした西日は既に地上と空の境目ををわずかに染めるに留まり。
窓の外に広がるサンフランシスコの空は、西の薔薇色から南のラベンダーブルーと徐々に青みを増してゆき、東の空には既に藍色の夜が広がっていた。
レオンの部屋から見た時は、もう少し薔薇色の部分が少なかった。ドア一つずれただけで窓の外の風景も微妙に違うのだ。
もっともこのところ滅多になくなっていた。
この時間にディフォレスト・マクラウドが自分の部屋にいる事なんて。
深く呼吸するとディフは受話器をとり、短縮ダイヤルの二番、すなわち実家の番号を押した。
「ハロー、ディー?」
「やあ、母さん」
「珍しいわね、あなたから電話くれるなんて」
「うん……まあ、たまにはね。この間の電話で言い忘れていたこともあったし」
「まあ、何かしら」
さあ、ここからが正念場だ。ぐっと腹に力を入れて、精一杯『普通の』声を出す。
「オティアのことなんだ。ほんとはただのバイトじゃない。もう一人、シエンって子が一緒で……双子の兄弟なんだ」
「あら、そうだったの。二人ともあなたの所で?」
「いや、シエンはレオンの事務所に行ってる。それで……二人とも今、レオンの部屋に住んでるんだ」
しばしの沈黙。母なりに考えているらしい。矢継ぎ早に言葉を続けたい。だがいっぺんに言ったらおそらく混乱させてしまうだろう。
ここはじっと我慢。我慢だ、ディフォレスト。
「レオンの……親戚のお子さん、なのかしら?」
「いや。レオンの手がけた事件に関わってた子どもたちで……身よりがないんだ。行く所がないから、レオンが引き取った」
再び沈黙。ただし、かすかにうなずく気配がした。よし、いい傾向だ。
「それで……ほら、レオンの奴、家事、苦手だろ? だから俺が毎日隣に通って、世話してるんだ。飯作ったり、洗濯したり……」
「うん、うん、あなたレオンのこともしょっちゅう世話焼いてたものね。高校生の時から、ず〜っと」
「うん……一人も二人も三人も同じだから」
「ふふっ、そうね、同じ、かもね」
笑ってる。少し胸の奥が疼いた。
双子の世話をしているのは確かだが、今自分が口にした言葉と事実は微妙にマッチしていない。何よりレオンと自分の関係も母はまだ知らないのだ。
後ろめたさを胸の奥に押し込んで、本題を切り出す。
「それで、ね、母さん。今年はその、クリスマスもニューイヤーも、帰れそうにないんだ」
「そう……残念だけど、しかたないわね。育児って年中無休ですもの。」
「ごめん」
「いいのよ、ディー」
良かった。声が長調だ。頭の片隅で小さなファンファーレが聞こえた。
「よっぽど可愛いのね」
「うん! 二人ともいい子なんだ。最初はガリガリに痩せてたけど、今じゃすっかり健康になって……」
微妙に今、主語が省かれていたような気がしないでもないが、些細な問題だ。
ほっとした途端、今まで言いたかった言葉があとからあとから流れ出す。
「シエンはもの静かな優しい子で、一緒に飯、作ってるんだ。ビスケットも焼いた。中華料理が得意で、ちっちゃな鍋でいそいそ作ってる。俺が入院してた時は、見舞いにライオンのぬいぐるみをプレゼントしてくれたんだ」
「まあ、可愛いわね」
「オティアはすげえ頭が切れる子でね。事務所のアシスタントとしても有能だし、俺が教えたことを片っ端からどんどん吸収してく。本読むのが大好きで……」
「確かに有能ね!」
「ああ。いい子たちだよ……」
目を細めると、ディフは自分でも気づかぬまま、うっとりとほほ笑んでいた。目もとを和ませ、目尻を下げて。口角を上げて。
尻尾があったら、わさわさと力いっぱい左右に振っていたろう。
喉の奥から滑らかな声がこぼれる。ベルベットのようにしなやかで、あらゆるものを柔らかく包み込むあたたかな声が。
「子どもって不思議だよな。あんなにちっちゃくて、やわらかで、華奢なのに、ちゃんと人間のパーツがひとそろい揃ってる。においもふわっとしてて、大人とは違う」
「可愛くてしかたない?」
「うん」
「あなた、ランスが生まれた時も。ナンシーの時も、同じこと言ってたわよ?」
「そうだっけ?」
「ええ。あなたきっと、自分の子どもが生まれた時も同じ事を言うわね」
どきりとした。冷たい指で心臓をわしづかみにされたような心地がする。一瞬で笑みがかき消えた。
(ごめん、母さん。俺はもう、女性を愛することはできないんだ。いや、男でも女でも関係ない。ただ一人、レオン以外は……)
一番大事なことは、やっぱり言えなかった。
「ところで……。あなた、こんな時間に電話していていいの? 夕飯作ってるんでしょ?」
「ああ、大丈夫。今日の飯は、ヒウェルが作ってるから」
「まあああ! ヒウェルが? 脱いだ靴下を丸めて床に放り出して、絶対に片付けないあのヒウェルが?」
「そう、あのヒウェルが」
「いったいどうしちゃったの、あなたたち」
声が1オクターブ上がってる。よっぽど驚いたらしい。
「……まあ、いろいろあったんだよ。いろいろね」
次へ→【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ
窓の外に広がるサンフランシスコの空は、西の薔薇色から南のラベンダーブルーと徐々に青みを増してゆき、東の空には既に藍色の夜が広がっていた。
レオンの部屋から見た時は、もう少し薔薇色の部分が少なかった。ドア一つずれただけで窓の外の風景も微妙に違うのだ。
もっともこのところ滅多になくなっていた。
この時間にディフォレスト・マクラウドが自分の部屋にいる事なんて。
深く呼吸するとディフは受話器をとり、短縮ダイヤルの二番、すなわち実家の番号を押した。
「ハロー、ディー?」
「やあ、母さん」
「珍しいわね、あなたから電話くれるなんて」
「うん……まあ、たまにはね。この間の電話で言い忘れていたこともあったし」
「まあ、何かしら」
さあ、ここからが正念場だ。ぐっと腹に力を入れて、精一杯『普通の』声を出す。
「オティアのことなんだ。ほんとはただのバイトじゃない。もう一人、シエンって子が一緒で……双子の兄弟なんだ」
「あら、そうだったの。二人ともあなたの所で?」
「いや、シエンはレオンの事務所に行ってる。それで……二人とも今、レオンの部屋に住んでるんだ」
しばしの沈黙。母なりに考えているらしい。矢継ぎ早に言葉を続けたい。だがいっぺんに言ったらおそらく混乱させてしまうだろう。
ここはじっと我慢。我慢だ、ディフォレスト。
「レオンの……親戚のお子さん、なのかしら?」
「いや。レオンの手がけた事件に関わってた子どもたちで……身よりがないんだ。行く所がないから、レオンが引き取った」
再び沈黙。ただし、かすかにうなずく気配がした。よし、いい傾向だ。
「それで……ほら、レオンの奴、家事、苦手だろ? だから俺が毎日隣に通って、世話してるんだ。飯作ったり、洗濯したり……」
「うん、うん、あなたレオンのこともしょっちゅう世話焼いてたものね。高校生の時から、ず〜っと」
「うん……一人も二人も三人も同じだから」
「ふふっ、そうね、同じ、かもね」
笑ってる。少し胸の奥が疼いた。
双子の世話をしているのは確かだが、今自分が口にした言葉と事実は微妙にマッチしていない。何よりレオンと自分の関係も母はまだ知らないのだ。
後ろめたさを胸の奥に押し込んで、本題を切り出す。
「それで、ね、母さん。今年はその、クリスマスもニューイヤーも、帰れそうにないんだ」
「そう……残念だけど、しかたないわね。育児って年中無休ですもの。」
「ごめん」
「いいのよ、ディー」
良かった。声が長調だ。頭の片隅で小さなファンファーレが聞こえた。
「よっぽど可愛いのね」
「うん! 二人ともいい子なんだ。最初はガリガリに痩せてたけど、今じゃすっかり健康になって……」
微妙に今、主語が省かれていたような気がしないでもないが、些細な問題だ。
ほっとした途端、今まで言いたかった言葉があとからあとから流れ出す。
「シエンはもの静かな優しい子で、一緒に飯、作ってるんだ。ビスケットも焼いた。中華料理が得意で、ちっちゃな鍋でいそいそ作ってる。俺が入院してた時は、見舞いにライオンのぬいぐるみをプレゼントしてくれたんだ」
「まあ、可愛いわね」
「オティアはすげえ頭が切れる子でね。事務所のアシスタントとしても有能だし、俺が教えたことを片っ端からどんどん吸収してく。本読むのが大好きで……」
「確かに有能ね!」
「ああ。いい子たちだよ……」
目を細めると、ディフは自分でも気づかぬまま、うっとりとほほ笑んでいた。目もとを和ませ、目尻を下げて。口角を上げて。
尻尾があったら、わさわさと力いっぱい左右に振っていたろう。
喉の奥から滑らかな声がこぼれる。ベルベットのようにしなやかで、あらゆるものを柔らかく包み込むあたたかな声が。
「子どもって不思議だよな。あんなにちっちゃくて、やわらかで、華奢なのに、ちゃんと人間のパーツがひとそろい揃ってる。においもふわっとしてて、大人とは違う」
「可愛くてしかたない?」
「うん」
「あなた、ランスが生まれた時も。ナンシーの時も、同じこと言ってたわよ?」
「そうだっけ?」
「ええ。あなたきっと、自分の子どもが生まれた時も同じ事を言うわね」
どきりとした。冷たい指で心臓をわしづかみにされたような心地がする。一瞬で笑みがかき消えた。
(ごめん、母さん。俺はもう、女性を愛することはできないんだ。いや、男でも女でも関係ない。ただ一人、レオン以外は……)
一番大事なことは、やっぱり言えなかった。
「ところで……。あなた、こんな時間に電話していていいの? 夕飯作ってるんでしょ?」
「ああ、大丈夫。今日の飯は、ヒウェルが作ってるから」
「まあああ! ヒウェルが? 脱いだ靴下を丸めて床に放り出して、絶対に片付けないあのヒウェルが?」
「そう、あのヒウェルが」
「いったいどうしちゃったの、あなたたち」
声が1オクターブ上がってる。よっぽど驚いたらしい。
「……まあ、いろいろあったんだよ。いろいろね」
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▼ 【3-8-2】茹で過ぎは食えたもんじゃねえ
2008/04/13 0:28 【三話】
ガキの頃からサンフランシスコに住んでいて、一つ悟ったことがある。
きっちりアルデンテにゆで上がったパスタを食いたいと思ったら、まず家で作るに限るってことだ。
だいたい店で出されるやつはぐだぐだに茹だりすぎていて、口ん中でもたつくわ、胃の中でトグロ巻くわで食えたもんじゃねえ。
専門のイタリアンレストランに行けばソースはそこそこ美味いのが食えるし、ゆで加減も若干マシなのだが……それにしたって俺の基準からすりゃ充分、茹ですぎだ。
だから、オティアがパスタが好きらしいとわかった時、自分で作ることにしたんだ。
「どうしたんだ、それ」
必要な材料を買い込んできて。ウォールナットの無垢材で作られたでっかいダイニングテーブルの上にどすん、と置いたらディフの奴は目を丸くして首をかしげた。
「今日の夕飯は俺が作るよ」
「……お前、正気か?」
「失礼だなー。いっつも食わせてもらってばっかじゃ悪いからさ……って何デコに触ってんだよ」
「いや、熱でもあるんじゃないかと思って」
「おい」
「だいたいお前、家事なんか滅多にしないだろ。腹減ったらチョコバーかじってしのぐし、靴下脱いだら丸めて床に放り出しっぱなしで、絶対片付けないし……」
「そーなんだ」
シエンがうなずいている。
「高校ん時の話をいつまでもひきずるなっ! 俺だって多少は成長したぞ?」
「本当か? お前、今も自分の部屋は……」
「はい、ストーップ!」
早々にディフをキッチンから追い出すと、何やらぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻って行った。
「何を作るの?」
「ペペロンチーノ」
「この間カニと一緒に食べた、あれ?」
「そう、あれ」
うなずくと、シエンは心配そうに左肘のあたりに視線を向けてきた。少しだけ伏し目がちに。
「腕、もう大丈夫?」
「ああ、すっかり!」
ぶんぶんと回してみせると、シエンはうなずいて小さく
「そう……良かったね」
と、つぶやいた。微妙に視線を背後に……黙々とテーブルを拭いているオティアに向けて。
「ヒウェル、エプロンしなくて大丈夫?」
「ああ」
ジャケットを脱ぎ、シャツ(本日の色は極めて薄い桜色)の腕をまくった。
「ほい、これで準備完了」
「それで……いいんだ」
「俺はディフほど髪の毛長くないからな。くくる必要もないし」
「あー……」
シエンが何やら言いたげな視線を向けてきたが、結局何も言わずに自分のエプロンをつけていた。
「よし、始めるか」
寸胴鍋いっぱいに水を入れて、ぐらぐらわかしていたらいきなり鼻がむずむずして。
「ぶぇっくしょいっ」
派手なくしゃみをぶちかましていた。
すかさずシエンが小さな声で言ってくれた。
「お大事に」
「ありがとさん。ったく、誰かウワサしてんのかぁ?」
ぎろりとオティアがにらんでくる。
「鍋の前でやってんじゃねー」
「……わーったよ、気ぃつける」
「うつったらシメる」
「……………………細心の注意を払います」
にらまれた。
怒られた。
でも、自分から話しかけてくれた。それだけで胸が躍り、顔がほころぶ。
鍋に塩をひとつまみぱらっと入れて、大量のパスタをぞろりと投入する。お湯に浸かったところからくたくたと折れ曲がるのを、軽くトングで混ぜる。
「菜箸使わないの?」
「こっちのが楽」
五人分のパスタが湯の中にまんべんなく浸った所で、ひまわりの形をしたキッチンタイマーをきりっと回して、かっきり11分にセットする。
およそ男ばかりの部屋に似つかわしくない、厚さ1インチほどの黄色いお花の形のタイマー。丈夫で長持ち、今時珍しい回転式。ディフの入院中に新しく買ったものだ。
かつてこの家には、キッチンタイマーなんて洒落た道具は存在しなかった。
ディフの奴はパスタを茹でるのも腕時計のクロノグラフで計るから。時限爆弾の残り時間でも計る時みたいにそりゃもう、真剣に。
ついでに言うと、ここの台所にある鍋はどれもこれも重量級で。シエンはいつも重たい鍋を両手で苦労しながら上げ下げしていた。
時にはオティアと二人がかりで、一つの鍋を抱えて。
パスタを茹でる時なんざ、寸胴鍋をコンロに乗せてからヤカンでちまちま水を入れていた。(水が入ってると重くて持ち上げられないのだ)
だからタイマーと一緒に小さめの鍋を買った。あの子でも楽に扱えるような、軽い奴を。
「これ使うといい」
そう言ってテーブルの上に乗せるとすごくうれしそうに笑って「……ありがと」と言って。大喜びで鍋を洗って火にかけていた。
「オティア。吹きこぼれないように見張っててくれるか?」
黙ってこくっとうなずいた。
よし、これでこっちはOK。
その間に赤唐辛子を刻む。一人1本……いや、2本いっとくか。続いてベーコンを細切りにして。皮を剥いたニンニクは薄切りに。
包丁とまな板を洗ってから(臭いが着くとディフがうるさいのだ)、フライパンでがーっと炒める。
その間にシエンは隣でレタスをちぎってはボウルに張った氷水にくぐらせていた。
「あ……サラダか。サンキュ」
「うん。野菜もとらないとね」
着々と双子の食育は進んでいるようだ。手際良くトマトを切り終えると、ちっちゃな鍋をとりだして。
お湯を沸かし、アスパラを茹ではじめた。
マメだな。俺ならそこで手ー抜いて、パスタと一緒にゆでちまうよ。
チリリリリリリリリ!
レトロなベル音が鳴り響く。11分経過、パスタのゆで上がり。
一本つまみとって口に入れる。
あちち!
堅からず、柔かすぎず、芯は残ってない……よし、いい感じだ。
ほんとは一本とってびしっと壁に投げつけて、張り付くかどうかで判定したいとこだが下手にやったら……後が怖い、ディフが怖い。
鍋つかみを両手にはめて、慎重に寸胴鍋を持ち上げる。ここでひっくり返したら大惨事だ。そーっと、そーっと。
さすがに五人分は、重い。シンクまで運んでゆき、あらかじめセットしておいたザルの上に流す。
ちまちまトングで落すなんて面倒なことやってらんない。大量のお湯とパスタを、ざばーっといっぺんに。
絶対、こうした方が美味いと信じている。(根拠はないが)
もうもうと真っ白な湯気が噴き上がり、一瞬視界が真っ白になった。
「うわぷっ」
「……眼鏡ぐらい外しとけ」
「るっさい、今外そうと思ったとこだよ」
眼鏡を外して、たたんでキッチンカウンターに乗せる。ちょっとばかり世界がぼんやりしてしまったが、文字を読む訳じゃあるまいし。どうにかなるだろ。
だいたい俺の目は近視と言うより乱視が強いのだ。裸眼だと人の顔の細かい表情や文字を判別するのは難しいが、物の輪郭や色、形そのものは比較的よく見える。包丁を使うのはさすがにきついが、刻むべきものはもう全部刻んである。
よし、問題なし。
フライパンにオリーブオイルを引いて、バターをひとかけら。ベーコンと薄切りガーリックを炒めた。
人類で最初にベーコンを発明した奴に感謝したいね。ちょいと火を通しただけで美味そうなにおいがぶわぶわっと大発生。
そこにガーリックが加わった日にゃあ……吸血鬼じゃなくてよかったと心底思う。
火が通った所にパスタを投入、一気にがーっといためて塩胡椒を振って。
仕上げに刻んだ赤唐辛子を散らす。ちょい、と味見して……
「んむ、完ぺき」
「ヒウェルもけっこう料理できるよねー……」
「まあな。これでも一人暮らし、そこそこ長いから」
「皿も鍋も洗わないけどな」
ぬっと背後から厳つい赤毛が鼻つっこんできやがった。
「だって学生の時はお前がやってくれたし」
「放っておくと部屋ん中が魔窟になるからだ! だいったいお前ときたら読んだ本片っ端から部屋の床に放り出して絶対片付けないし」
「あれは置いてあるんだ。放り出したんじゃない」
「どうだか? ……シエン、皿出してくれ」
「うん」
大きめの平皿にペペロンチーノ、少し深めの小皿にサラダ。
「飲み物なんにするー?」
シエンに聞かれ、相変わらず黙々とフォークとスプーンを並べていたオティアがぼそりと答えた。
「……水でいい」
「OK、水な」
炭酸無しのボトルウォーターを取り出し、大きめのグラスについで、とりあえず一人一杯ずつ。
「粉チーズ使う奴いる?」
「一応テーブルに出しとけ」
「わーった」
皿に盛りつけたペペロンチーノとサラダが五人分、でっかいダイニングテーブルに並んだのを確認してから眼鏡をかけ直す。
「よーし、できたぞ」
不意に背後で声がした。
「……今夜はヒウェルが作ったんだって?」
「わあ、レオン、いつからそこに」
「さっきから」
※ ※ ※ ※
食ってる間中、気になってしかたなかった。何がって、オティアのことに決まってる。
ディフの入院中に何度か飯は作ってきたが、今日は特別だ。こいつのために、作った。こいつに食べて欲しくて。
相変わらず表情は動かさないが黙々と食って、二皿目をよそっている。信じられない、基本的に小食のこいつが!
シエンが目を丸くしている。
ディフも。
レオンでさえ意外そうに「ほう」と小さな声を出した。
食卓の視線がそこはかとなくオティアに集中している。
肋骨の内側でばっくんばっくん飛び跳ねる心臓をなだめつつ、聞いてみる。
「……うまいか?」
「……まぁまぁ」
「そうか!」
最上級のほめ言葉だ。
「オティア、スパゲティ好きだよね」
「……」
「そうか…好きなのか……また作るよ」
「うん」
シエンの隣でオティアが小さくうなずいた。ちらっと。ほんの短い間、確かにこっちを見ていた。
次へ→【3-8-3】ヒウェルの告白
きっちりアルデンテにゆで上がったパスタを食いたいと思ったら、まず家で作るに限るってことだ。
だいたい店で出されるやつはぐだぐだに茹だりすぎていて、口ん中でもたつくわ、胃の中でトグロ巻くわで食えたもんじゃねえ。
専門のイタリアンレストランに行けばソースはそこそこ美味いのが食えるし、ゆで加減も若干マシなのだが……それにしたって俺の基準からすりゃ充分、茹ですぎだ。
だから、オティアがパスタが好きらしいとわかった時、自分で作ることにしたんだ。
「どうしたんだ、それ」
必要な材料を買い込んできて。ウォールナットの無垢材で作られたでっかいダイニングテーブルの上にどすん、と置いたらディフの奴は目を丸くして首をかしげた。
「今日の夕飯は俺が作るよ」
「……お前、正気か?」
「失礼だなー。いっつも食わせてもらってばっかじゃ悪いからさ……って何デコに触ってんだよ」
「いや、熱でもあるんじゃないかと思って」
「おい」
「だいたいお前、家事なんか滅多にしないだろ。腹減ったらチョコバーかじってしのぐし、靴下脱いだら丸めて床に放り出しっぱなしで、絶対片付けないし……」
「そーなんだ」
シエンがうなずいている。
「高校ん時の話をいつまでもひきずるなっ! 俺だって多少は成長したぞ?」
「本当か? お前、今も自分の部屋は……」
「はい、ストーップ!」
早々にディフをキッチンから追い出すと、何やらぶつぶつ言いながら自分の部屋に戻って行った。
「何を作るの?」
「ペペロンチーノ」
「この間カニと一緒に食べた、あれ?」
「そう、あれ」
うなずくと、シエンは心配そうに左肘のあたりに視線を向けてきた。少しだけ伏し目がちに。
「腕、もう大丈夫?」
「ああ、すっかり!」
ぶんぶんと回してみせると、シエンはうなずいて小さく
「そう……良かったね」
と、つぶやいた。微妙に視線を背後に……黙々とテーブルを拭いているオティアに向けて。
「ヒウェル、エプロンしなくて大丈夫?」
「ああ」
ジャケットを脱ぎ、シャツ(本日の色は極めて薄い桜色)の腕をまくった。
「ほい、これで準備完了」
「それで……いいんだ」
「俺はディフほど髪の毛長くないからな。くくる必要もないし」
「あー……」
シエンが何やら言いたげな視線を向けてきたが、結局何も言わずに自分のエプロンをつけていた。
「よし、始めるか」
寸胴鍋いっぱいに水を入れて、ぐらぐらわかしていたらいきなり鼻がむずむずして。
「ぶぇっくしょいっ」
派手なくしゃみをぶちかましていた。
すかさずシエンが小さな声で言ってくれた。
「お大事に」
「ありがとさん。ったく、誰かウワサしてんのかぁ?」
ぎろりとオティアがにらんでくる。
「鍋の前でやってんじゃねー」
「……わーったよ、気ぃつける」
「うつったらシメる」
「……………………細心の注意を払います」
にらまれた。
怒られた。
でも、自分から話しかけてくれた。それだけで胸が躍り、顔がほころぶ。
鍋に塩をひとつまみぱらっと入れて、大量のパスタをぞろりと投入する。お湯に浸かったところからくたくたと折れ曲がるのを、軽くトングで混ぜる。
「菜箸使わないの?」
「こっちのが楽」
五人分のパスタが湯の中にまんべんなく浸った所で、ひまわりの形をしたキッチンタイマーをきりっと回して、かっきり11分にセットする。
およそ男ばかりの部屋に似つかわしくない、厚さ1インチほどの黄色いお花の形のタイマー。丈夫で長持ち、今時珍しい回転式。ディフの入院中に新しく買ったものだ。
かつてこの家には、キッチンタイマーなんて洒落た道具は存在しなかった。
ディフの奴はパスタを茹でるのも腕時計のクロノグラフで計るから。時限爆弾の残り時間でも計る時みたいにそりゃもう、真剣に。
ついでに言うと、ここの台所にある鍋はどれもこれも重量級で。シエンはいつも重たい鍋を両手で苦労しながら上げ下げしていた。
時にはオティアと二人がかりで、一つの鍋を抱えて。
パスタを茹でる時なんざ、寸胴鍋をコンロに乗せてからヤカンでちまちま水を入れていた。(水が入ってると重くて持ち上げられないのだ)
だからタイマーと一緒に小さめの鍋を買った。あの子でも楽に扱えるような、軽い奴を。
「これ使うといい」
そう言ってテーブルの上に乗せるとすごくうれしそうに笑って「……ありがと」と言って。大喜びで鍋を洗って火にかけていた。
「オティア。吹きこぼれないように見張っててくれるか?」
黙ってこくっとうなずいた。
よし、これでこっちはOK。
その間に赤唐辛子を刻む。一人1本……いや、2本いっとくか。続いてベーコンを細切りにして。皮を剥いたニンニクは薄切りに。
包丁とまな板を洗ってから(臭いが着くとディフがうるさいのだ)、フライパンでがーっと炒める。
その間にシエンは隣でレタスをちぎってはボウルに張った氷水にくぐらせていた。
「あ……サラダか。サンキュ」
「うん。野菜もとらないとね」
着々と双子の食育は進んでいるようだ。手際良くトマトを切り終えると、ちっちゃな鍋をとりだして。
お湯を沸かし、アスパラを茹ではじめた。
マメだな。俺ならそこで手ー抜いて、パスタと一緒にゆでちまうよ。
チリリリリリリリリ!
レトロなベル音が鳴り響く。11分経過、パスタのゆで上がり。
一本つまみとって口に入れる。
あちち!
堅からず、柔かすぎず、芯は残ってない……よし、いい感じだ。
ほんとは一本とってびしっと壁に投げつけて、張り付くかどうかで判定したいとこだが下手にやったら……後が怖い、ディフが怖い。
鍋つかみを両手にはめて、慎重に寸胴鍋を持ち上げる。ここでひっくり返したら大惨事だ。そーっと、そーっと。
さすがに五人分は、重い。シンクまで運んでゆき、あらかじめセットしておいたザルの上に流す。
ちまちまトングで落すなんて面倒なことやってらんない。大量のお湯とパスタを、ざばーっといっぺんに。
絶対、こうした方が美味いと信じている。(根拠はないが)
もうもうと真っ白な湯気が噴き上がり、一瞬視界が真っ白になった。
「うわぷっ」
「……眼鏡ぐらい外しとけ」
「るっさい、今外そうと思ったとこだよ」
眼鏡を外して、たたんでキッチンカウンターに乗せる。ちょっとばかり世界がぼんやりしてしまったが、文字を読む訳じゃあるまいし。どうにかなるだろ。
だいたい俺の目は近視と言うより乱視が強いのだ。裸眼だと人の顔の細かい表情や文字を判別するのは難しいが、物の輪郭や色、形そのものは比較的よく見える。包丁を使うのはさすがにきついが、刻むべきものはもう全部刻んである。
よし、問題なし。
フライパンにオリーブオイルを引いて、バターをひとかけら。ベーコンと薄切りガーリックを炒めた。
人類で最初にベーコンを発明した奴に感謝したいね。ちょいと火を通しただけで美味そうなにおいがぶわぶわっと大発生。
そこにガーリックが加わった日にゃあ……吸血鬼じゃなくてよかったと心底思う。
火が通った所にパスタを投入、一気にがーっといためて塩胡椒を振って。
仕上げに刻んだ赤唐辛子を散らす。ちょい、と味見して……
「んむ、完ぺき」
「ヒウェルもけっこう料理できるよねー……」
「まあな。これでも一人暮らし、そこそこ長いから」
「皿も鍋も洗わないけどな」
ぬっと背後から厳つい赤毛が鼻つっこんできやがった。
「だって学生の時はお前がやってくれたし」
「放っておくと部屋ん中が魔窟になるからだ! だいったいお前ときたら読んだ本片っ端から部屋の床に放り出して絶対片付けないし」
「あれは置いてあるんだ。放り出したんじゃない」
「どうだか? ……シエン、皿出してくれ」
「うん」
大きめの平皿にペペロンチーノ、少し深めの小皿にサラダ。
「飲み物なんにするー?」
シエンに聞かれ、相変わらず黙々とフォークとスプーンを並べていたオティアがぼそりと答えた。
「……水でいい」
「OK、水な」
炭酸無しのボトルウォーターを取り出し、大きめのグラスについで、とりあえず一人一杯ずつ。
「粉チーズ使う奴いる?」
「一応テーブルに出しとけ」
「わーった」
皿に盛りつけたペペロンチーノとサラダが五人分、でっかいダイニングテーブルに並んだのを確認してから眼鏡をかけ直す。
「よーし、できたぞ」
不意に背後で声がした。
「……今夜はヒウェルが作ったんだって?」
「わあ、レオン、いつからそこに」
「さっきから」
※ ※ ※ ※
食ってる間中、気になってしかたなかった。何がって、オティアのことに決まってる。
ディフの入院中に何度か飯は作ってきたが、今日は特別だ。こいつのために、作った。こいつに食べて欲しくて。
相変わらず表情は動かさないが黙々と食って、二皿目をよそっている。信じられない、基本的に小食のこいつが!
シエンが目を丸くしている。
ディフも。
レオンでさえ意外そうに「ほう」と小さな声を出した。
食卓の視線がそこはかとなくオティアに集中している。
肋骨の内側でばっくんばっくん飛び跳ねる心臓をなだめつつ、聞いてみる。
「……うまいか?」
「……まぁまぁ」
「そうか!」
最上級のほめ言葉だ。
「オティア、スパゲティ好きだよね」
「……」
「そうか…好きなのか……また作るよ」
「うん」
シエンの隣でオティアが小さくうなずいた。ちらっと。ほんの短い間、確かにこっちを見ていた。
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▼ 【3-8-3】ヒウェルの告白
2008/04/13 0:29 【三話】
舞い上がったまんま上の空で食後のコーヒーを流し込んで。鍋と皿を洗うと言ったらディフの奴はまた目を丸くした。
「……ほんっとに熱ないのか、お前」
「いいから体温計しまえよ、ディー」
「ええい、その呼び方はやめろ!」
くわっと歯ぁ剥いて怒鳴ってるが動揺してるな。耳まで赤くしてうろたえてやがる。
一本とったぜ、してやったり。
気分よく台所で鍋とフライパンを洗っていると、食べ終わった食器を持ってオティアがやってきて……そのまま、洗い始めた。
ざっと皿を軽く洗ってから食器洗浄機に並べて行く。
何のことはない、いつもこいつのやってる事だ。強いて違いをあげるとしたら今日はいつも一緒のシエンがいない。
ディフもいない。レオンは言うにおよばず。
今、キッチンにいるのは俺とオティアの二人っきりだ。
これはある意味、チャンスかもしれない。
ざばざばと景気良くフライパンを洗って、すすいで。ペーパータオルで拭ってからかるくガス台であぶって水気を完全に飛ばす。
一旦手を休めて、オティアに声をかけた。
「なあ、オティア」
こっちを見た。
「月並みな質問だけどお前、恋人とかいる?」
「は?」
「いないんだな?」
「考えたこともねーよ」
「ふーん」
ひと呼吸置いて、続ける。本当に言いたかった一言を。できる限りさりげなく、いつもの軽やかさを保ったまま。
「それじゃあ、俺が立候補してもいいわけだよな?」
「はあ?」
一歩近づき、上体を曲げて。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳をのぞきこんだ。
瞳孔が拡大し、いつもより若干深みを増したアメジストの鏡に……不自然なくらい爽やかな笑みを浮かべた自分の顔が写っていた。
自分がどれほど彼に近づいていたのかその時初めて気づいた。
ったく、何ムキになってんだ……。
声のトーンを落して、囁きかけた。
「お前が好きだってことだよ。恋人になりたいんだ」
「何を、バカなことを」
つい、と目をそらされた。
ああ、予想通りの反応だ。お前ならきっとそう言うと思ったよ。ここですんなり聞き届けられてもいささか物足りない。
ほんと、怒った顔も可愛い奴だ。
「本気なんだけどなぁ……」
オティアは黙々と皿を軽く水ですすいでは食器洗浄機に並べる作業をくり返して行く。いつもより少しだけ乱暴で、皿やフォークがカチャカチャと耳障りな音を立てる。
最後の一枚までセットしてからバタンと蓋を閉めて。スイッチを入れた。
「………オティア?」
「二度と言うな」
そのまま俺には目もくれずに素通りし、自分の部屋へと行ってしまった。
(おい)
(待て)
今、いったい何があったのだ。
俺は何をしくじった。
まちがったボタンを押したのか。
くそ……わからない。
わからない!
切り立ったガラスの絶壁に指ひっかけて、上に登ろうと足掻いてる気分だ。
「オティアっ?」
シエンが慌てて追いかける。
続いて追いかけようとしたが、リビングで足が止まった。
情けない話だが、その時になってようやく、混乱した俺の脳みそはさっき目の拾った光景を理解することができたのだ。
まだ新しい食器洗浄機。ピカピカの銀色の表面が、鏡みたいに彼の顔を写していた。
相変わらずのポーカーフェイス、表情は変わらない。けれど紫の瞳の奥に……凄まじいまでの苦い絶望が沈んでいた。
あの目。
初めて会った時も、あんな風な目をしていた。
いや、あの時よりある意味酷い。
溺れながらすがりついた手を無理矢理振り払われて、水の底に沈んで行く瞬間……人はあんな目をするのかもしれない。
「やっちまった……」
唇を噛んで立ち尽くす。濡れた手のままで。
視界の隅でレオンとディフが一瞬だけ目を合わせ、レオン一人が立ち上がるのが見えた。
「ヒウェル。書斎に」
静かな声。穏やかな声。だが、逆らうことはできなかった。
次へ→【3-8-4】あの子達には時間が必要だ
「……ほんっとに熱ないのか、お前」
「いいから体温計しまえよ、ディー」
「ええい、その呼び方はやめろ!」
くわっと歯ぁ剥いて怒鳴ってるが動揺してるな。耳まで赤くしてうろたえてやがる。
一本とったぜ、してやったり。
気分よく台所で鍋とフライパンを洗っていると、食べ終わった食器を持ってオティアがやってきて……そのまま、洗い始めた。
ざっと皿を軽く洗ってから食器洗浄機に並べて行く。
何のことはない、いつもこいつのやってる事だ。強いて違いをあげるとしたら今日はいつも一緒のシエンがいない。
ディフもいない。レオンは言うにおよばず。
今、キッチンにいるのは俺とオティアの二人っきりだ。
これはある意味、チャンスかもしれない。
ざばざばと景気良くフライパンを洗って、すすいで。ペーパータオルで拭ってからかるくガス台であぶって水気を完全に飛ばす。
一旦手を休めて、オティアに声をかけた。
「なあ、オティア」
こっちを見た。
「月並みな質問だけどお前、恋人とかいる?」
「は?」
「いないんだな?」
「考えたこともねーよ」
「ふーん」
ひと呼吸置いて、続ける。本当に言いたかった一言を。できる限りさりげなく、いつもの軽やかさを保ったまま。
「それじゃあ、俺が立候補してもいいわけだよな?」
「はあ?」
一歩近づき、上体を曲げて。ほんの少しスモークのかかった紫の瞳をのぞきこんだ。
瞳孔が拡大し、いつもより若干深みを増したアメジストの鏡に……不自然なくらい爽やかな笑みを浮かべた自分の顔が写っていた。
自分がどれほど彼に近づいていたのかその時初めて気づいた。
ったく、何ムキになってんだ……。
声のトーンを落して、囁きかけた。
「お前が好きだってことだよ。恋人になりたいんだ」
「何を、バカなことを」
つい、と目をそらされた。
ああ、予想通りの反応だ。お前ならきっとそう言うと思ったよ。ここですんなり聞き届けられてもいささか物足りない。
ほんと、怒った顔も可愛い奴だ。
「本気なんだけどなぁ……」
オティアは黙々と皿を軽く水ですすいでは食器洗浄機に並べる作業をくり返して行く。いつもより少しだけ乱暴で、皿やフォークがカチャカチャと耳障りな音を立てる。
最後の一枚までセットしてからバタンと蓋を閉めて。スイッチを入れた。
「………オティア?」
「二度と言うな」
そのまま俺には目もくれずに素通りし、自分の部屋へと行ってしまった。
(おい)
(待て)
今、いったい何があったのだ。
俺は何をしくじった。
まちがったボタンを押したのか。
くそ……わからない。
わからない!
切り立ったガラスの絶壁に指ひっかけて、上に登ろうと足掻いてる気分だ。
「オティアっ?」
シエンが慌てて追いかける。
続いて追いかけようとしたが、リビングで足が止まった。
情けない話だが、その時になってようやく、混乱した俺の脳みそはさっき目の拾った光景を理解することができたのだ。
まだ新しい食器洗浄機。ピカピカの銀色の表面が、鏡みたいに彼の顔を写していた。
相変わらずのポーカーフェイス、表情は変わらない。けれど紫の瞳の奥に……凄まじいまでの苦い絶望が沈んでいた。
あの目。
初めて会った時も、あんな風な目をしていた。
いや、あの時よりある意味酷い。
溺れながらすがりついた手を無理矢理振り払われて、水の底に沈んで行く瞬間……人はあんな目をするのかもしれない。
「やっちまった……」
唇を噛んで立ち尽くす。濡れた手のままで。
視界の隅でレオンとディフが一瞬だけ目を合わせ、レオン一人が立ち上がるのが見えた。
「ヒウェル。書斎に」
静かな声。穏やかな声。だが、逆らうことはできなかった。
次へ→【3-8-4】あの子達には時間が必要だ
▼ 【3-8-4】あの子達には時間が必要だ
2008/04/13 0:30 【三話】
背の高いどっしりした本棚が、部屋の壁を埋め尽くしている。
分厚い本がすき間無くびっしりと並び、窓を背にして木製のデスクが置かれている。デスクの色も本棚も、フローリングの床も、色調は全て同じ、ブラックコーヒーみたいな落ちついた濃いめのかっ色。
だが適度にやわらかく、決して人の心を圧迫しない。
何もかも調和が取れていて落ちつくはずのこの部屋だが、今の俺は……ひどく落ちつかない。
レオンに続いて部屋に入ると、ドアを閉めるように身振りで言われた。
あー、なんか校長室に呼び出されるのってこんな気分かな。
幸いにして学生時代にその憂き目を見たことだけはない。清廉潔白な学生生活だったと言い張るつもりはさらさらないが、それなりに要領は良かったのだ。
いつでも、どんな時でも、口先と手先と舌先でくぐり抜けてきた。
重たい波もするりと斜めに構えてすり抜けて、決して正面からは向き合わない。それが俺の遣り口であり、信条だった。
「あー……その……」
口を開きかけた途中で透き通ったかっ色の瞳に見据えられた。
うわ。
動けねえ……。
「ヒウェル」
たしなめるように名前を呼ばれた瞬間、とっさに口走っていた。
「何もしていませんよ」
馬鹿か、俺は。これじゃ自白したも同じだろうが!
レオンは何も言わない。ただ、黙ってこっちを見ているだけだ。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。切れ長のかっ色の瞳。これだけの美人と二人っきりで見つめ合うってのは考えようによっちゃものすごく美味しい状況なのだが。
中味を知ってるだけに……楽しむどころじゃない。じわりじわりと追いつめられて、言わずにはいられなくなる。
内に秘められた刃が鞘から抜かれるその前に。
(ほんとはこの男、弁護士より検事の方が向いてるんじゃなかろうか?)
「ただ……言っただけです。お前が好きだって。恋人になりたいって」
まるで検察側の証人に反対尋問する時そっくりの口調で言われた。
「君がこれまでつきあってきた相手とは違うんだ」
おいおい、いきなりそれかよ!
「んな事ぁ、あなたに言われるまでもなくわかってますよ」
語尾をあまり強くできなかったのは、ふつふつと沸いて来る後悔とうしろめたさのせいだろうか。
「あの子のことを思うならもっと慎重になるんだね」
あー、もうこの男は。
穏やかな声とこのやたらめったらきれいな面構えで淡々と正論ぶつけてくるから苦手なんだよ。ぐるりと張り巡らされた包囲網を、1インチ単位でせばめられて、気がつくと手足をみっちり鉄条網に絡めとられてるんだ。
(そう言や鉄条網ってもともと薔薇のトゲを模して作られたんだっけな。それともイバラだったっけか?)
ああ、くそ一服やりてえなあ……
今、そんなこと言ったら最後、即刻に有罪ふっとばして断罪されそうな気もするが。
だからって素直に謝るのもシャクなので、ひょいと片手を眼鏡の縁にかけ。
「慎重……ねえ……」
斜めに下げたフレームの、上辺をかすめて視線を送り、口を歪めて言葉を返す。
「……慎重にしましたよ? ええ、俺の基準からすればかなり!」
「俺の基準でいえば、まず告白自体がはやすぎる。今はまだ、性的行為を連想させるすべてのことが彼を傷つける」
ぐっと唇を噛んで黙るしかなかった。
指先にくしゃくしゃの紙の感触が蘇る。
一度丸めたのをもう一度伸ばしたり。破れたのを張り合せたり。ところどころに涙のにじんだ、ぼろぼろの紙片の束が、すーっと目の前を流れてゆく。
そうだ。
俺は、知っている。施設の職員とグルになった『仲買人』から売り飛ばされた先で、オティアの身に何が起こったか。おそらくは俺たち三人の中で誰よりも早く、詳しく。
「この間は俺とディフのことでも、ひどく不快感を示してたからね。気をつけてはいるんだが」
「あ……」
恋人同士の甘い抱擁の名残でさえ、今のオティアには忌わしい記憶に直結しているのだ。
それを知っているはずなのに、俺は。
『お前、今、恋人いる?』
『それじゃ、俺が立候補してもいいわけだよな?』
俺って男は、つい今しがた、全力でそのスイッチを押してしまったんだ……。
よりに寄って軽口めかした言葉と表情で。
『俺とちょっと遊ばないか?』
『初めてって訳じゃあるまいし。どうせ誰とでも簡単に寝るんだろう?』
あいつの心の中ではおそらく、こんな風に聞こえてしまったはずだ。
舌の奥が、苦い。
「Damn!」
罵りの言葉とともに拳で壁を叩く。衝撃が肘に響いた。無意識のうちに左手を使っていたらしい。こんな時でも商売道具……文字を書く右手を庇っている。そんな自分の要領のよさが。冷めた頭が。
何度も危機を回避するのに役立ったはずの己の特性が、今はむしろ厭わしい。
「やっちまった……」
ずきずきうずく手で髪の毛をかきむしっていた。
「ディフもそうだが、君も、気になるからといって構いすぎるのは禁物だよ」
拳を握り、床をにらむ。
ちょうどこの辺りにオティアが座っていた。紫の瞳を見開いて、本のページにびっしり並んだ文字を夢中になって追いかけていた。焼きたてのホットビスケットをかじりながら。
たった数日前のことなのに、百年前のことのように遠い。
「怖いんだ……放っておくと……すーっと遠ざかって……そのまま二度と手の届かないとこに行っちまいそうで」
オティアは気まぐれに餌を食いにくる猫みたいな奴だ。確かに今はすぐ傍にいる。けれど、今日眠って明日の朝起きたらふいっと姿を消していて。
もう二度と会えなくなるんじゃないか。
不安でたまらなくなる。居ても立っても居られなくなる。
俺も。
レオンも。
ディフでさえ双子にとってはただの他人、無関係な第三者だ。
一見安定したように見える今の生活が、明日。いや、一時間後も続いている保証は………どこにも、ない。
俺たちは他人の集合体に過ぎないのだ。たまたま同じ部屋に居合わせて、同じ食卓を囲んでいるだけの。
「無理矢理手元に置こうとしても、傷が増えるだけだ。お互いに」
のろのろと顔を上げて言葉を返す。いつもは軽やかに動く舌が、なんだか鉛みたいに重い。
「だから待てってことですか」
「あの子達には時間が必要だ」
口もとに笑みが浮かぶ。苦い錠剤を含んだまま、無理矢理口角をつりあげたような不格好な笑いが。
「あなたが奴を待ったように?」
「……俺は、待っていたわけではなかったけどね」
「あー、そう言やそうだよな。下手すりゃ一生友だちのままだったかもしれないもんな」
「人は欲が深い。満足できずに、次を求めてしまう」
何やら哲学的なことを言って来やがった。一瞬、ぽかんとしてから……猛烈に、呆きれた。
今さら何言ってんだ、この男は!
「……次? これ以上何を求めるって言うんです。もう奴にはあなたしか見えていないのに」
「今はね。何にしろ、それを自分で抑制することも必要だ。相手があることなら、なおさら」
俺に、と言うよりむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だからなのか。
さっきより素直に、レオンの言葉にうなずくことができた。
「抑制か。一番苦手な言葉だ。でも………試してみよう……あの子のために」
「長期戦になりそうだね」
レオンが自分の抱えるディフへの友情以上の想いに気づいたのは高校の時。
以来ずっと親友で居続けて、やっと本物の恋人同士になったのは一年前のこと、俺は二人の始まりから今に至るまでずっと見ていた。
ディフの鈍さも、レオンの忍耐強さもいやと言うほど知っている。
だけど。
だけどなあ。
俺はあなたほど忍耐強くないんだよ、レオン!
第一もう、言っちまったんだ。何事もなかったフリして『お友達から始めましょう』なんて申し出ることもできやしねえ……。
無理だ。
「あなたほどじゃない」
十年近くも待つなんて。勘弁してくれ。
「……そうあって欲しい……なぁ」
「幸運を祈ってるよ……おやすみ」
その言葉は否応無しにこの会見の終わりを意味していた。
「おやすみなさい」
「ああ、それからヒウェル」
「何でしょう?」
ドアのところで振り返ると、レオンにさらりと言い渡された。
「三日間出入り禁止」
「執行猶予は?」
「無し」
実刑判決かよ。やっぱりこいつ、検事の方が向いてるんじゃないか?
「情状酌量の余地は」
「無し」
「……弁護士呼んでください」
(ペペロンチーノ/了)
次へ→【3-9】アップルパイ
分厚い本がすき間無くびっしりと並び、窓を背にして木製のデスクが置かれている。デスクの色も本棚も、フローリングの床も、色調は全て同じ、ブラックコーヒーみたいな落ちついた濃いめのかっ色。
だが適度にやわらかく、決して人の心を圧迫しない。
何もかも調和が取れていて落ちつくはずのこの部屋だが、今の俺は……ひどく落ちつかない。
レオンに続いて部屋に入ると、ドアを閉めるように身振りで言われた。
あー、なんか校長室に呼び出されるのってこんな気分かな。
幸いにして学生時代にその憂き目を見たことだけはない。清廉潔白な学生生活だったと言い張るつもりはさらさらないが、それなりに要領は良かったのだ。
いつでも、どんな時でも、口先と手先と舌先でくぐり抜けてきた。
重たい波もするりと斜めに構えてすり抜けて、決して正面からは向き合わない。それが俺の遣り口であり、信条だった。
「あー……その……」
口を開きかけた途中で透き通ったかっ色の瞳に見据えられた。
うわ。
動けねえ……。
「ヒウェル」
たしなめるように名前を呼ばれた瞬間、とっさに口走っていた。
「何もしていませんよ」
馬鹿か、俺は。これじゃ自白したも同じだろうが!
レオンは何も言わない。ただ、黙ってこっちを見ているだけだ。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。切れ長のかっ色の瞳。これだけの美人と二人っきりで見つめ合うってのは考えようによっちゃものすごく美味しい状況なのだが。
中味を知ってるだけに……楽しむどころじゃない。じわりじわりと追いつめられて、言わずにはいられなくなる。
内に秘められた刃が鞘から抜かれるその前に。
(ほんとはこの男、弁護士より検事の方が向いてるんじゃなかろうか?)
「ただ……言っただけです。お前が好きだって。恋人になりたいって」
まるで検察側の証人に反対尋問する時そっくりの口調で言われた。
「君がこれまでつきあってきた相手とは違うんだ」
おいおい、いきなりそれかよ!
「んな事ぁ、あなたに言われるまでもなくわかってますよ」
語尾をあまり強くできなかったのは、ふつふつと沸いて来る後悔とうしろめたさのせいだろうか。
「あの子のことを思うならもっと慎重になるんだね」
あー、もうこの男は。
穏やかな声とこのやたらめったらきれいな面構えで淡々と正論ぶつけてくるから苦手なんだよ。ぐるりと張り巡らされた包囲網を、1インチ単位でせばめられて、気がつくと手足をみっちり鉄条網に絡めとられてるんだ。
(そう言や鉄条網ってもともと薔薇のトゲを模して作られたんだっけな。それともイバラだったっけか?)
ああ、くそ一服やりてえなあ……
今、そんなこと言ったら最後、即刻に有罪ふっとばして断罪されそうな気もするが。
だからって素直に謝るのもシャクなので、ひょいと片手を眼鏡の縁にかけ。
「慎重……ねえ……」
斜めに下げたフレームの、上辺をかすめて視線を送り、口を歪めて言葉を返す。
「……慎重にしましたよ? ええ、俺の基準からすればかなり!」
「俺の基準でいえば、まず告白自体がはやすぎる。今はまだ、性的行為を連想させるすべてのことが彼を傷つける」
ぐっと唇を噛んで黙るしかなかった。
指先にくしゃくしゃの紙の感触が蘇る。
一度丸めたのをもう一度伸ばしたり。破れたのを張り合せたり。ところどころに涙のにじんだ、ぼろぼろの紙片の束が、すーっと目の前を流れてゆく。
そうだ。
俺は、知っている。施設の職員とグルになった『仲買人』から売り飛ばされた先で、オティアの身に何が起こったか。おそらくは俺たち三人の中で誰よりも早く、詳しく。
「この間は俺とディフのことでも、ひどく不快感を示してたからね。気をつけてはいるんだが」
「あ……」
恋人同士の甘い抱擁の名残でさえ、今のオティアには忌わしい記憶に直結しているのだ。
それを知っているはずなのに、俺は。
『お前、今、恋人いる?』
『それじゃ、俺が立候補してもいいわけだよな?』
俺って男は、つい今しがた、全力でそのスイッチを押してしまったんだ……。
よりに寄って軽口めかした言葉と表情で。
『俺とちょっと遊ばないか?』
『初めてって訳じゃあるまいし。どうせ誰とでも簡単に寝るんだろう?』
あいつの心の中ではおそらく、こんな風に聞こえてしまったはずだ。
舌の奥が、苦い。
「Damn!」
罵りの言葉とともに拳で壁を叩く。衝撃が肘に響いた。無意識のうちに左手を使っていたらしい。こんな時でも商売道具……文字を書く右手を庇っている。そんな自分の要領のよさが。冷めた頭が。
何度も危機を回避するのに役立ったはずの己の特性が、今はむしろ厭わしい。
「やっちまった……」
ずきずきうずく手で髪の毛をかきむしっていた。
「ディフもそうだが、君も、気になるからといって構いすぎるのは禁物だよ」
拳を握り、床をにらむ。
ちょうどこの辺りにオティアが座っていた。紫の瞳を見開いて、本のページにびっしり並んだ文字を夢中になって追いかけていた。焼きたてのホットビスケットをかじりながら。
たった数日前のことなのに、百年前のことのように遠い。
「怖いんだ……放っておくと……すーっと遠ざかって……そのまま二度と手の届かないとこに行っちまいそうで」
オティアは気まぐれに餌を食いにくる猫みたいな奴だ。確かに今はすぐ傍にいる。けれど、今日眠って明日の朝起きたらふいっと姿を消していて。
もう二度と会えなくなるんじゃないか。
不安でたまらなくなる。居ても立っても居られなくなる。
俺も。
レオンも。
ディフでさえ双子にとってはただの他人、無関係な第三者だ。
一見安定したように見える今の生活が、明日。いや、一時間後も続いている保証は………どこにも、ない。
俺たちは他人の集合体に過ぎないのだ。たまたま同じ部屋に居合わせて、同じ食卓を囲んでいるだけの。
「無理矢理手元に置こうとしても、傷が増えるだけだ。お互いに」
のろのろと顔を上げて言葉を返す。いつもは軽やかに動く舌が、なんだか鉛みたいに重い。
「だから待てってことですか」
「あの子達には時間が必要だ」
口もとに笑みが浮かぶ。苦い錠剤を含んだまま、無理矢理口角をつりあげたような不格好な笑いが。
「あなたが奴を待ったように?」
「……俺は、待っていたわけではなかったけどね」
「あー、そう言やそうだよな。下手すりゃ一生友だちのままだったかもしれないもんな」
「人は欲が深い。満足できずに、次を求めてしまう」
何やら哲学的なことを言って来やがった。一瞬、ぽかんとしてから……猛烈に、呆きれた。
今さら何言ってんだ、この男は!
「……次? これ以上何を求めるって言うんです。もう奴にはあなたしか見えていないのに」
「今はね。何にしろ、それを自分で抑制することも必要だ。相手があることなら、なおさら」
俺に、と言うよりむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だからなのか。
さっきより素直に、レオンの言葉にうなずくことができた。
「抑制か。一番苦手な言葉だ。でも………試してみよう……あの子のために」
「長期戦になりそうだね」
レオンが自分の抱えるディフへの友情以上の想いに気づいたのは高校の時。
以来ずっと親友で居続けて、やっと本物の恋人同士になったのは一年前のこと、俺は二人の始まりから今に至るまでずっと見ていた。
ディフの鈍さも、レオンの忍耐強さもいやと言うほど知っている。
だけど。
だけどなあ。
俺はあなたほど忍耐強くないんだよ、レオン!
第一もう、言っちまったんだ。何事もなかったフリして『お友達から始めましょう』なんて申し出ることもできやしねえ……。
無理だ。
「あなたほどじゃない」
十年近くも待つなんて。勘弁してくれ。
「……そうあって欲しい……なぁ」
「幸運を祈ってるよ……おやすみ」
その言葉は否応無しにこの会見の終わりを意味していた。
「おやすみなさい」
「ああ、それからヒウェル」
「何でしょう?」
ドアのところで振り返ると、レオンにさらりと言い渡された。
「三日間出入り禁止」
「執行猶予は?」
「無し」
実刑判決かよ。やっぱりこいつ、検事の方が向いてるんじゃないか?
「情状酌量の余地は」
「無し」
「……弁護士呼んでください」
(ペペロンチーノ/了)
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