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ローゼンベルク家の食卓

【3-8-4】あの子達には時間が必要だ

2008/04/13 0:30 三話十海
 背の高いどっしりした本棚が、部屋の壁を埋め尽くしている。
 分厚い本がすき間無くびっしりと並び、窓を背にして木製のデスクが置かれている。デスクの色も本棚も、フローリングの床も、色調は全て同じ、ブラックコーヒーみたいな落ちついた濃いめのかっ色。
 だが適度にやわらかく、決して人の心を圧迫しない。
 何もかも調和が取れていて落ちつくはずのこの部屋だが、今の俺は……ひどく落ちつかない。

 レオンに続いて部屋に入ると、ドアを閉めるように身振りで言われた。
 あー、なんか校長室に呼び出されるのってこんな気分かな。
 幸いにして学生時代にその憂き目を見たことだけはない。清廉潔白な学生生活だったと言い張るつもりはさらさらないが、それなりに要領は良かったのだ。
 いつでも、どんな時でも、口先と手先と舌先でくぐり抜けてきた。
 重たい波もするりと斜めに構えてすり抜けて、決して正面からは向き合わない。それが俺の遣り口であり、信条だった。

「あー……その……」

 口を開きかけた途中で透き通ったかっ色の瞳に見据えられた。
 うわ。
 動けねえ……。

「ヒウェル」

 たしなめるように名前を呼ばれた瞬間、とっさに口走っていた。

「何もしていませんよ」

 馬鹿か、俺は。これじゃ自白したも同じだろうが!

 レオンは何も言わない。ただ、黙ってこっちを見ているだけだ。すっと鼻筋の通った端正な顔立ち。切れ長のかっ色の瞳。これだけの美人と二人っきりで見つめ合うってのは考えようによっちゃものすごく美味しい状況なのだが。
 中味を知ってるだけに……楽しむどころじゃない。じわりじわりと追いつめられて、言わずにはいられなくなる。
 内に秘められた刃が鞘から抜かれるその前に。

(ほんとはこの男、弁護士より検事の方が向いてるんじゃなかろうか?)
 
「ただ……言っただけです。お前が好きだって。恋人になりたいって」

 まるで検察側の証人に反対尋問する時そっくりの口調で言われた。

「君がこれまでつきあってきた相手とは違うんだ」

 おいおい、いきなりそれかよ!

「んな事ぁ、あなたに言われるまでもなくわかってますよ」

 語尾をあまり強くできなかったのは、ふつふつと沸いて来る後悔とうしろめたさのせいだろうか。


「あの子のことを思うならもっと慎重になるんだね」


 あー、もうこの男は。
 穏やかな声とこのやたらめったらきれいな面構えで淡々と正論ぶつけてくるから苦手なんだよ。ぐるりと張り巡らされた包囲網を、1インチ単位でせばめられて、気がつくと手足をみっちり鉄条網に絡めとられてるんだ。
(そう言や鉄条網ってもともと薔薇のトゲを模して作られたんだっけな。それともイバラだったっけか?)

 ああ、くそ一服やりてえなあ……
 今、そんなこと言ったら最後、即刻に有罪ふっとばして断罪されそうな気もするが。

 だからって素直に謝るのもシャクなので、ひょいと片手を眼鏡の縁にかけ。

「慎重……ねえ……」

 斜めに下げたフレームの、上辺をかすめて視線を送り、口を歪めて言葉を返す。

「……慎重にしましたよ? ええ、俺の基準からすればかなり!」
「俺の基準でいえば、まず告白自体がはやすぎる。今はまだ、性的行為を連想させるすべてのことが彼を傷つける」


 ぐっと唇を噛んで黙るしかなかった。
 指先にくしゃくしゃの紙の感触が蘇る。
 一度丸めたのをもう一度伸ばしたり。破れたのを張り合せたり。ところどころに涙のにじんだ、ぼろぼろの紙片の束が、すーっと目の前を流れてゆく。

 そうだ。
 俺は、知っている。施設の職員とグルになった『仲買人』から売り飛ばされた先で、オティアの身に何が起こったか。おそらくは俺たち三人の中で誰よりも早く、詳しく。

「この間は俺とディフのことでも、ひどく不快感を示してたからね。気をつけてはいるんだが」
「あ……」

 恋人同士の甘い抱擁の名残でさえ、今のオティアには忌わしい記憶に直結しているのだ。
 それを知っているはずなのに、俺は。

『お前、今、恋人いる?』
『それじゃ、俺が立候補してもいいわけだよな?』

 俺って男は、つい今しがた、全力でそのスイッチを押してしまったんだ……。
 よりに寄って軽口めかした言葉と表情で。

『俺とちょっと遊ばないか?』
『初めてって訳じゃあるまいし。どうせ誰とでも簡単に寝るんだろう?』

 あいつの心の中ではおそらく、こんな風に聞こえてしまったはずだ。
 舌の奥が、苦い。

Damn!」

 罵りの言葉とともに拳で壁を叩く。衝撃が肘に響いた。無意識のうちに左手を使っていたらしい。こんな時でも商売道具……文字を書く右手を庇っている。そんな自分の要領のよさが。冷めた頭が。
 何度も危機を回避するのに役立ったはずの己の特性が、今はむしろ厭わしい。

「やっちまった……」

 ずきずきうずく手で髪の毛をかきむしっていた。

「ディフもそうだが、君も、気になるからといって構いすぎるのは禁物だよ」


 拳を握り、床をにらむ。
 ちょうどこの辺りにオティアが座っていた。紫の瞳を見開いて、本のページにびっしり並んだ文字を夢中になって追いかけていた。焼きたてのホットビスケットをかじりながら。
 たった数日前のことなのに、百年前のことのように遠い。

「怖いんだ……放っておくと……すーっと遠ざかって……そのまま二度と手の届かないとこに行っちまいそうで」

 オティアは気まぐれに餌を食いにくる猫みたいな奴だ。確かに今はすぐ傍にいる。けれど、今日眠って明日の朝起きたらふいっと姿を消していて。
 もう二度と会えなくなるんじゃないか。
 不安でたまらなくなる。居ても立っても居られなくなる。

 俺も。
 レオンも。
 ディフでさえ双子にとってはただの他人、無関係な第三者だ。
 一見安定したように見える今の生活が、明日。いや、一時間後も続いている保証は………どこにも、ない。

 俺たちは他人の集合体に過ぎないのだ。たまたま同じ部屋に居合わせて、同じ食卓を囲んでいるだけの。

「無理矢理手元に置こうとしても、傷が増えるだけだ。お互いに」

 のろのろと顔を上げて言葉を返す。いつもは軽やかに動く舌が、なんだか鉛みたいに重い。

「だから待てってことですか」
「あの子達には時間が必要だ」

 口もとに笑みが浮かぶ。苦い錠剤を含んだまま、無理矢理口角をつりあげたような不格好な笑いが。

「あなたが奴を待ったように?」
「……俺は、待っていたわけではなかったけどね」
「あー、そう言やそうだよな。下手すりゃ一生友だちのままだったかもしれないもんな」
「人は欲が深い。満足できずに、次を求めてしまう」

 何やら哲学的なことを言って来やがった。一瞬、ぽかんとしてから……猛烈に、呆きれた。
 今さら何言ってんだ、この男は!

「……次? これ以上何を求めるって言うんです。もう奴にはあなたしか見えていないのに」
「今はね。何にしろ、それを自分で抑制することも必要だ。相手があることなら、なおさら」

 俺に、と言うよりむしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だからなのか。
 さっきより素直に、レオンの言葉にうなずくことができた。

「抑制か。一番苦手な言葉だ。でも………試してみよう……あの子のために」
「長期戦になりそうだね」


 レオンが自分の抱えるディフへの友情以上の想いに気づいたのは高校の時。
 以来ずっと親友で居続けて、やっと本物の恋人同士になったのは一年前のこと、俺は二人の始まりから今に至るまでずっと見ていた。
 ディフの鈍さも、レオンの忍耐強さもいやと言うほど知っている。
 だけど。
 だけどなあ。

 俺はあなたほど忍耐強くないんだよ、レオン!

 第一もう、言っちまったんだ。何事もなかったフリして『お友達から始めましょう』なんて申し出ることもできやしねえ……。
 無理だ。

「あなたほどじゃない」

 十年近くも待つなんて。勘弁してくれ。

「……そうあって欲しい……なぁ」

「幸運を祈ってるよ……おやすみ」

 その言葉は否応無しにこの会見の終わりを意味していた。

「おやすみなさい」
「ああ、それからヒウェル」
「何でしょう?」

 ドアのところで振り返ると、レオンにさらりと言い渡された。

「三日間出入り禁止」
「執行猶予は?」
「無し」

 実刑判決かよ。やっぱりこいつ、検事の方が向いてるんじゃないか?

「情状酌量の余地は」
「無し」
「……弁護士呼んでください」



(ペペロンチーノ/了)


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