少年♂赤ずきん

外伝3「本屋とハンスと赤い靴」

akaikutu 時は19世紀、所はデンマーク。西のユラン半島、東のシェラン島に挟まれたフューン島。小さな島の一番大きな都市オーデンセは、一時はこの国の首都だったこともある。
 当時の王様が築いた大きな大きな教会は、600年経った今もその堂々とした姿をそびえ立たせている。四角い赤レンガの鐘楼は、尖った屋根で天を突き刺さんばかり。その前を通る度に見上げるたびに誰しも思い知らせるのだ。天の高さに比べれば、己は何てちっぽけな小人なのだろう、と。

 小さな島の大きな町の、大きな大きな教会の裏に、ちっぽけな本屋があった。
 と言っても、本なんか買えるのは裕福な一部の人ばかり。町の住人のほとんどは聖書以外は買う余裕などあるはずもなく、ほとんどの場合は借りて済ます。だから本屋と言っても、ほとんどは貸すために置いてあるようなもんだった。
 さもなくば、誰かの手に一度渡った古本か、だ。
 靴屋の息子ハンスは、この界隈には珍しく本が好きで、好きで、たまらない少年だった。ぱっちりした灰色の瞳に、黒檀よりも黒い巻き毛の愛らしい容貌もさることながら、天性の美声の持ち主でもある。
 文字を覚えた頃から暇を見ては本屋に入り浸り、十四才の今ではすっかり本屋の主とは顔なじみ。ことに三年前に父親が亡くなってからは親密度はいや増して、父とも兄とも慕う絆ができあがっていた。
「僕はね、将来、オペラ歌手になりたいんだ」
 本屋のカウンターの前で、もはや彼専用に置かれた椅子にちょこんと腰掛けてはほぼ毎日、さえずるのが少年の日課だった。
 本屋の主は黒髪に黒い髭を蓄えて、いつもぱりっとした白いシャツに黒いベストと灰色のズボンを身に着けて。およそ色彩らしい色彩のない容色の中、ひときわ鮮やかな青い瞳を細めて答える。
「君ならなれるさ。フューン島で一番、きれいな声をしてる」
「本当にそう思う?」
「ああ、もちろん。青空を舞うヒバリよりも、君の声は美しい」
 それを聞くと少年は嬉しそうにほほ笑んで、うなずくのだった。家族は誰もハンスの夢なんか聞いちゃくれない。眉をしかめ、口を歪めて言うばかり。
「馬鹿言ってないで、さっさと皮を運べ」
「本を読む暇があるんなら、靴の作り方の一つも覚えてみせろ」と。
 けれど本屋の主人は違う。
 それどころかハンスが行くたびに、新しく仕入れた本をただで読ませてくれるのだ。
「お代はいらない、感想を聞かせてくれればそれで良い」と。
 小さな本屋の片隅で、少年は時間も忘れて読み耽った。見知らぬ人が書いた架空の話。実在した人物の生き様、遠い国を旅した足跡。時を越えてなお、演じ続けられる芝居の数々を。
 本屋はそんな少年を見守っていた。晴れ渡る六月の空よりなお青い瞳で、まばたきもせずに。

     ※

 ある日、ハンスがいつものように店にやって来た。
「やあハンス。新しい本が入ったんだ」
「そう」
 素っ気ない返事。そわそわと落ち着きが無い。少年はすとんとカウンター前の椅子に座り、滅多にないことだが足を組んだ。
「ほう?」
 本屋の主は顎髭を撫で、わざとらしく突きつけられた足に視線を落とす。
 いつもぼろぼろの靴を履いていた少年は、珍しく。ほんとうに珍しく、新品の皮長靴を履いていたのだ。
 彼の華奢な足にぴったりあつらえられた特注品。しなやかな上等の皮で丁寧に作られた最上級の一品だ。
「おやおやハンス。ずいぶんときれいな靴を履いてるじゃないか」
 賞賛の言葉を聞いて、少年はますます得意そう。胸をそらせて、へへんっと笑った。
「いったいどうしたんだい?」
「ヨハンおじさんがね」
「ああ、君の亡くなったお父さんの職人仲間だね?」
「うん。とびっきり上等の皮で、こんなにすてきな長靴を作ってくれたんだ。堅信礼のお祝いだって。見て!」
 少年は椅子から下り立ち、たんとん、たんとん、と踵で床を叩く。
「それは、すてきな贈り物だね」
 堅信礼。子供が大人になる、教会の大事な儀式だ。親の保護から独り立ちし、自分の意志で信仰を選ぶ節目でもある。
 本屋の主は身をかがめ、長い指先で長靴をひとなで。細く開けたまぶたの隙間から、きれいな透き通る青い瞳で見つめた。
「何てよく光る靴だ。きっとフューン島中で一番、きれいな靴だよ」
「Tak!」
「Selv tak」
 新しく入った本はハンスが大好きな作品だった。不思議な力を身に着けた狩人が、悪魔と戦い、そして殺す。
 いつも夢中で読むシリーズなのに、その日はまるで上の空。気がつくとうつむいて、靴を見ているのだ。しかし本屋は失望するどころか静かにほくそ笑み、低い声でつぶやいた。
「本当に、きれいな靴だ」

 そして、日曜日。
 ハンスの堅信礼の日がやってきた。黒いきちんとした上着を着て、あの皮長靴を履いて教会へとやってきた。
 家族も、近所の人も、もちろんヨハンおじさんも。皆集まり、祝福してくれた。
 けれどハンスは上の空。
 堅信礼を受ける子のための特別なお祈りが捧げられる間中、まるっきり神父さんの声を聞いていなかった。祈りの声も、賛美歌も何もかも、右から左にただただ素通り、何も残らない。
 代わりに頭の中をぐるぐると回るのは、あの本屋さんの青い瞳。そして、とろけるように甘く響く低い声。

『何てよく光る靴だ。きっとフューン島中で一番、きれいな靴だよ』

 そうだ、僕の靴はきっと、今日、堅信礼を受ける子の中で一番、きれいな靴。よく光る靴。立派な靴だ。
 どんなお金持ちの家の子にもこれだけは負けない。馬鹿にされない。
 僕の大事な靴。きれいな靴……。

「ハンス。ハンス・アナーセン!」

 はっと我に返る。神父さんが呼んでいた。教会の中にくすくすと控えめな笑いが広がる。
「はい」
 かすれた声で返事して、前に進む。
 白くて細長いアーチの連なる天井の下、真ん中の通路を進む。
 いくつもの人形を並べて、名前も知らない偉い人たちの物語が彫刻された黄金の祭壇の前に歩み出る。
 その間、ずっと靴を見ていた。磨き抜かれた木の床を踏み、踵の鳴らす規則正しい音に胸を躍らせた。

 たんとん、たんとん。たんとん、たんとん。

 居並ぶ人は囁いた。
「おや、ハンスは下を向いたっきりだよ」
「緊張してるんだね」
「神父さんに呼ばれても、気が付かないくらいだものね」
 だけどほんとは違ってた。
 ハンスが見ていたのは、ぴかぴかの皮長靴。フューン島中でいちばんきれいな靴。よく光る靴。
 神父さんから聖体を授かる時も、上の空。
「あっ」
 危ない、危ない。聖なるパンの欠片がもうちょっとで、唇からぽろりと落ちる所だった。
 これはイエス様の体。これはイエス様の肉。落とすなんてとんでもない。とても、とてもいけない事だ。
 慌てて顔を上げると、黄金の祭壇に刻まれた天使と目が合った。恐ろしく厳しい顔で、手には剣を握っている。
(怒ってる!)
 ハンスは心底ぞっとした。震え上がった。
(イエス様の体を粗末にした僕を怒ってるんだ。ずっと皮長靴のことばっかり考えていたから!)
 家に帰ってからも、恐ろしさは消えなかった。
 恐ろしい。
 次の日曜が来るのが恐ろしい。
 また、靴のことばかり考えてしまうんじゃないか。今度こそ聖体を落としてしまうんじゃないか。
 あの、剣を持った天使に罰せられるんじゃないかって。
 こんな時、相談できる相手は一人しかいなかった。
「どうしたんだい、ハンス」
 本屋の主はいつもと同じように、あたたかく迎えてくれた。とろけるほどに甘く響く低い声で受け止めてくれた。
「なるほどね。そんなに皮長靴のことが忘れられないのかい?」
「うん」
「お祈りの間も忘れられない」
「そうなんだ」
「だったら簡単だよ。靴をしまってしまえばいい」
「そうか、ありがとう本屋さん!」

 次の日曜日、ハンスは長靴を箱に入れて、戸棚の奥にしまいこんだ。
「これでもう、大丈夫」
 駄目だった
 戸棚の扉は閉めたけど、心の扉は閉まらない。
 教会の硬い椅子の上で祈りを捧げていても。賛美歌を歌っていても、聞こえるのだ。あの暗い戸棚の中で、皮長靴が、たんとん、たんとんと床を踏みならす音が。
 どんどん大きくなって行く。こっちに向かって来るような気がする。
 たんとん、たんとん
(怒ってるんじゃないか)
 たんとん、たんとん。
(あんなに大事にしてたのに、いきなり暗い中に押し込めてしまうなんて)
 たんとん
(上等の靴だもの、手入れしないとすぐ、曇ってしまう。カビてしまう。あんなにぴかぴかで、僕の足にぴったりの素晴らしい靴なのに)
 たんとん!
(ああ、僕の靴。僕の大事な皮長靴。なんでしまい込んだりしたんだろう!)
 結局、また靴のことばかり考えていた。
 重たい足を引きずり教会を出る。気がつくと本屋の椅子に座り込んでいた。どこをどう歩いたのか、全然、まったく、覚えていない。
「僕は悪い子だ」
「そんなことはないさ。美しいもの、きれいなものに心惹かれるのは自然なことだよ」
「神様よりも? 教会よりも?」
 本屋の主は答えてくれない。
「僕はどうすればいいんだろう……」
眼球青 すがるように見上げる少年を、曇りのない青い瞳が見おろした。黒い豊かな髭に囲まれた形のよい唇が、動く。
 ハンスは待った。乾ききった花が雨を待ち望むように、その口が動き、咽が震えるのを待った。
「ああ、そうだ君、良い考えがある。聖書にこんな言葉があったね」
 本屋は聖書を開いて淀みの無い声で読み上げる。
『もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい』
 ハンスは凍りついた。いつだって、本屋さんの言うことは正しい。僕を優しく導いてくれる。この人は決してまちがったことを言わない。
 だけど。
「それって」
 だけど。
「それって……」
 震える唇、引きつる舌を動かして、しゃがれた声で問いかける。
「僕の足を、ちょん切って、捨ててしまえって言うの?」
「足が無ければ靴は履けない。もう二度と君を惑わす事もない」
 こんなに恐ろしい事を言っているのに、この人の声はいつもと変わらない。静かで、低く、耳に心地よい。
(本当にそうだろうか)
 少年は悩んだ。家に帰っても夕食は咽を通らず、ベッドに入っても寝付けない。
 眠れないまま、迎えた夜明け前。家族は皆、寝静まっている。ハンスは静かにベッドを抜け出し、裏庭にまろび出た。
 乾いた板塀で囲まれた、猫の額よりもちっぽけな庭。ストーブにくべる薪を割るための斧がひっそりと、壁に立てかけてある。
 ひび割れた柄を握る。
 自分の足を、見る。
 咽が引きつる。口の中はカラカラだ。一方でやたらと冷たい汗がじっとりと、手のひらににじみ、背をしたたる。

『足が無ければ靴は履けない。もう二度と君を惑わす事もない』

 足が無ければ。
 この足さえ無ければ。
 振り上げた。
(この足さえ無ければ!)
 震える手で鋭い斧を、今まさに振り下ろそうとしたその刹那。

 聞こえる。
 聞こえる。
 鐘の音。
 天突き破らんばかりにそびえ立つ、尖った屋根持つ赤レンガの鐘楼から。

「あぁ……」
 きんっと冷えた夜明けの空気の中、あたたかな滴が頬を涙が伝い落ちる。
 嫌な汗が。冷たく、ねばつく汗が、洗い清められる。
 東の空を覆う重たい灰色の雲が途切れ、金色の光がさっと一筋。夜の闇を切り開く。
 強ばった手が力なく下がり、斧が地面に転がった。

    ※

 その日。ハンス少年は本屋を訪れた。
「紙とペンを貸してください」
 本屋はちらりと少年を見て、ペンと、インクと、まっさらな紙を一束、惜しげも無く差し出した。
「好きに使いたまえ」
「ありがとう」
 それからのハンスの日々は過酷だった。前にも増して足蹴く本屋に通い、何かに取り憑かれたように書いた。
 寝食を忘れ、魂をすり減らして書き続けた。夜が更ければ炉の灯で書き、夜明けの最初の光で書いた。書いては破り、破っては書き、内側に荒れ狂う得体の知れぬ事々をうすっぺらい紙に叩きつけた。
 もはやペンは彼の指の一部だった。記すインクは溶けた血肉。
 頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪はばさばさに荒れた。ヒバリのようだと言われた美声さえも、いつしか乾いて低く、しわがれた。
 本屋は全てを見届けた。ただ静かに待っていた。
 そして、ある日、聞いたのだ。夜明けを告げる鐘の音に混じり、店の戸を叩く音を。それはとても弱々しく、小鳥の羽ばたきよりも微かだったけれど、聞き逃しはしなかった。
 果たして、扉を開けると。
 石畳の道の上、痩せこけた少年が震えていた。しかしその灰色の瞳は炯々と輝き、明けの明星さながらの眩しさで……。
「できました、本屋さん。一番始めに、あなたに読んで欲しくて」
 本屋は少年を招き入れた。痩せこけた手に、蜂蜜を溶かしたミルクを満たしたカップを持たせて、読み始める。
 少年は身じろぎもせずに待っていた。甘いミルクに口もつけず、じっと待っていた。
 何度も線を引いて消して、その上からまた同じ事を書き直し。思いつくまま勢いにまかせ、荒れ狂う激情をぶちまけた原稿はとても見辛く、言葉遣いもつたない。だが綴られる物語は粗削りながらも胸を打ち、惹きつける。
 全てを読み終えた本屋は告げた。本を商う者として、言わずにはいられなかったのだ。
「これは……多くの人に読まれるべきだ」
 やつれた顔をほころばせ、少年はやっと、誇らしげにほほ笑んだのだった。

     ※

 時は流れて21世紀。
 何処とも知れぬ怪しげな街の片隅の古本屋。半分はカフェに改造され、訪れる客は思い思いの飲み物を片手に好みの書物を読み耽る。
 飴色のガラス窓を通して降り注ぐ光の中、藍色の髪の少年が絵本を抱えてちょこまかと、本棚の前に立つ店主の元へと歩み寄る。
「ああ、読み終わったのですね」
 少年から絵本を受け取ると、本屋は深々とため息をついた。
(何だってあんな事を伝えてしまったのか)
 正に書くことで、あの子は誘惑を退けた。書くことが彼の祈りであり、贖罪だったのだ。皮肉なことに容色は衰え、美声も失った。だがそれ故に彼の魂は光り輝いた。
「もう少しで、この手に入ったものを」
 苦々しげにつぶやき、棚に収める絵本は「赤い靴」。
 作者の名は、ハンス・クリスチャン・アンデルセン。デンマーク流に発音すれば、アナーセン。
 フューン島のハンスは、世界でもっとも有名な童話作家になったのだ。惜しくもその魂は彼の指をすり抜けて、遥かなる天空の高みへと昇ってしまったけれど。
「……」
 藍色の髪の少年は、ちょこんと小首をかしげて店主を見上げる。主は一転顔をほころばせ、新たな絵本を差し出した。
「今度はこの本はいかがです? 同じ赤でも、こちらは頭巾ですけどね」
 少年はばら色の頬をほころばせ、うなずいた。
「Merci」
「De rien」
 短いやり取りの後テーブルに戻り、連れの紳士の膝に抱き上げられる。
「やあ、ロビン。今度はどの絵本を選んだのですか? ほほーう『赤ずきん』ですか! よろしい、読んでさしあげましょう」
 他の客の迷惑省みず、紳士は朗々と読み上げる。ロビンと呼ばれた少年は膝の上、じっと聞き入っている。ちょっぴり申し訳なさそうな表情を浮かべて。
「やれやれ」
 肩をすくめると本屋の主は改めてもう一冊、絵本を棚から抜き取った。
「今度こそ逃がさない。絶対にね。周到に念入りに、糸を張り巡らせよう。君の周りに、隙間無く。どんな時でも見守っているよ。そう、どんな時でもだ」
 何度も撫でられたのだろう。すっかり表紙が摩滅している。やはりこれも童話の本だ。作者の名は……
「逃さないよ、可愛い小鳥」
 愛おしげに表紙をなでる本屋の顔には、壮絶な笑みが浮かんでいた。

 

(Fin)

 

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