▼ 女豹、子羊と会う
ランドール紡績の社長秘書、シンシア・ナイジェルの美貌は日々過酷なストレスにさらされていた。二代目社長は見た目は申し分無いもののぼっちゃん気質で万事において詰めが甘く。
ただでさえふわふわ浮ついてるところに最近は放浪癖までおぼえて、油断なく鼻面をびしっと捕まえておかねばすぐにどこかに潜り込む。
クリスマス・イブの会社主催のパーティーにも時間ギリギリに現れて、しかも終始上の空。客の相手もそこそこにはっと気づくと窓辺でぼんやりと物思いにふけっている始末。
挙げ句、彼女のドレスにケチをつけてきた。『シンディ、いつも思うのだが君は少し露出を控えたほうがいいね……もう3割ほど』
まったくあのボンボンと来たら! ゲイのくせに何だってこう妙なところにばかりうるさいのやら……。
あけて25日のクリスマス、彼女はとある高級ホテルのスパに予約を入れていた。
決して安くはない値段だが日頃ストレスにさらされる自分へのごほうびとしては十分妥当な額だろう。
ところが間の悪い事は続くもので……。一般の利用客に加えて宿泊客の予約が相次ぎ、けっこうな時間を待ち合わせロビーで過ごす羽目に陥った。
何たる不手際。予約担当者の顔が見たいわ。横っ面をはり倒して業務の何たるかをみっちり指導してさしあげたい……。
リラックスしに来たはずなのに余計にイライラするなんて、不条理きわまりない。
見るともなしに雑誌をぱらぱらとめくっていると、また新たな客が入って来る気配がした。
あらあらお気の毒に、きっと待たされるわ……。
受付で何やら話している気配がする。
やがてスパの従業員が近づいてきて、遠慮がちに声をかけてきた。
「あの……お客様」
やれやれ、また待ち時間が伸びるのかしら……。
「カップルルームでしたら、今すぐお使いになれますけれど。あちらのお客様と、相部屋と言うことになりますが」
カップルルーム。バスタブは2人余裕で入れる大きさで、トリートメントとマッサージを受ける台も並んで2人分。個室よりゆったりしているのは魅力だけれど、とんでもないわ。
見ず知らずの他人と一緒に使うだなんて……。
ふん、と鼻で笑って断ろうとしたその時だ。
「あの、私はかまいませんけれど」
鈴をふるような声に、よく見れば……。
相席を求められた相手はつややかな黒髪、透き通った濃い茶色の瞳。
ほっそりした小さな体は一見少女のようだが、その実均整のとれた大人の女性の身体のもので、まるで人形のような不思議な愛らしさを匂わせる。
きりっとした顔立ちに赤いフレームの眼鏡が華やかさを添えていた。
背筋をぴしっと伸ばし、凛とした気風にあふれているが決して冷たさや過度の鋭さを感じさせない。
着ているものこそ違うが、見覚えがある。いつぞや社長の携帯にあった、あの写真。
スケジュールを説明する自分の声など耳に入らぬように携帯に見入っていた。妙に幸せそうに、にまにま笑いながら。
「まあ社長、このチャーミングな方はどなたです?」
「あっこら、勝手に人の携帯をのぞくな!」
「どなたですの?」
「う……彼女は、大切な友人だ!」
仮装パーティか何かだろうか。友人とおぼしき少年2人とともに水色のエプロンドレスを着てアリスに扮していた。
(まちがいない、東洋のアリスだわ!)
彼女と相部屋なら、大歓迎。
「そうね、たまには……良いかもしれないわね。わたくしも、OKよ」
従業員はほっとした顔でうなずいた。
「恐れ入ります。では、こちらへ」
案内されてカップルルームに向かいながらシンディはひそかにほくそえんだ。
何てラッキー。これはきっと、ボンボン社長に振り回された私に神様がくれたクリスマスプレゼントね。
「よろしくお願いしますね。わたくしはシンシア。あなたは?」
さりげなくファーストネームのみ名乗り、相手の返答を誘導する。案の定、彼女は素直に答えてくれた。
「ヨーコです」
「そう。日本の方?」
「はい」
「どんな字をお書きになるのかしら」
「わあ、漢字、ご存知なんですか? すごいなあ。羊の子って書きます」
「そう………可愛らしいお名前……」
何て素直な子だろう。柔らかくて真っ白な無垢な子羊。
「よろしくね、ヨーコ」
※ ※ ※ ※
更衣室では彼女は気にする風もなくさっさと服を脱いで眼鏡を外し、バスローブを羽織ってしまった。あんまりに手際が良くてちょっと惜しいくらい。
髪をハーフアップにしていたコームを抜いたと思ったらくるくると長い髪をまとめてねじりあげ、あっという間にアップに結い上げてしまった。
そういえば日本では大勢で一緒に入浴する風習があると聞いたわ。慣れてるのね。
それにしても何てなめらかそうな肌。黒髪をかきあげたうなじの細いことと言ったら……骨格そのものからして華奢なのね。
ああ、思いっきりぎゅっと抱きしめてあげたい。腕の中にすっぽりと、さぞ収まりよく入ってくれるでしょうに。
ちらりとヨーコはシンシアを。と言うか彼女のバスローブを押し上げて誇らしげに盛り上がる二つのふくらみに視線を走らせ、小さく小さくため息をついた。
(いいなぁ……)
ウェストもきゅっとくびれてて、腰もぽんっと丸く張り出していて。ほんと、女の私から見てもどきどきしちゃうくらいにセクシー。
アメリカだからあれが標準なのかな……。
「どうぞ、こちらへ」
台にうつぶせになり、バスローブを腰まではだけられてマッサージが始まる。
とろりとしたにおいのいい液体でくまなくもみほぐされる。
(アロマオイルかな。ローションかな。ふわ……とにかくとろとろしてて気持ちいーい……)
凝り固まった場所を魔法のように探り当て、やさしくほぐしてくれる指先に身をゆだねる。
ちらっと隣を伺うと、褐色の引き締まったボディが露になっていた。
こんなきれいでナイスバディな人たちが目の前を闊歩してる環境に馴染んでたら、自分なんかてんでお子様にしか見えないだろう。
もはやゲイだからとか言う以前の問題って気がしてきた。
そもそもそれ以前に自分はどこかおかしいんじゃなかろうか。
男の人とベッドの中で抱き合っていながら。しかも自分からお願いしておいて添い寝だけで満足してしまうなんて……。
(もしかして、私って)
ひやりとした疑いが頭をもたげる。女性故にはっきりと見た目にこそ現れないものの、それは男性にしてみれば『勃たたない』レベルに等しい危機的な状況であった。
(不感症?)
「あ?」
だーっと涙が噴き出した。
やばいよ、みんな見てるって。びっくりするって。止まれ。まばたきすればごまかせるかな。
あ、だめっぽい。
うわー、枕にぽたぽたこぼれてるよ。シーツに染みできちゃってるよ……。
「どうぞ……」
施術をしていた女性スタッフが手をやすめて、タオルをくれた。顔を押し当てる。大きなコップに入った水が出てきた。ありがたく飲む。
冗談みたいに入ってゆく。水分を補給しながら涙をぼろぼろこぼした。
スタッフは万事心得ているようで、全ては静寂のうちに速やかに行われた。何も聞かれず、問われない。それがかえってありがたい。
ひとしきり涙が流れて、落ち着くまで待ってくれた。
それからは、ゆっくりと手のひらでなでさする穏やかなマッサージが続けられたのだった。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
マッサージを終えると女性スタッフは全員引き上げて行き、シンシアとヨーコの2人が残された。後はバスを存分にお使いください、と言うわけだ。
チャンス到来!
シンシアの瞳の奥に女豹の光が宿る。しかし大量の涙を流したばかりのヨーコは気づかない。眼鏡も外しているから余計にわからない。
優雅な仕草でバスタブまで歩いて行くとシンシアはおもむろにバスローブを脱ぎ、細かく泡立つ湯にその褐色の裸身を沈めた。
「いらっしゃい。さあ」
「……はい」
ちょこまかと近づくとヨーコはバスローブを脱いでおずおずと湯船に入った。
「しつれいしまーす」
「ふふ、礼儀正しいのね」
「うひゃうっ」
「あら、ジャグジーは初めて?」
「え、い、いや、いきなりじゅわーっときたから、びっくりしちゃって」
「もうちょっとこっちにお寄りなさいな。そこは噴き出し口の直撃を受けちゃうものね?」
「はい、それじゃ……」
ん……思った通り胸のサイズはそれほどでもないのね。手のひらですっぽり隠せそう。背中のラインがとてもきれい。マッチョではないけれど筋肉のつきかたもバランスがいいわ。身体を鍛えているのかしら?
それにこの子のヒップときたら! ぷりっと丸くて、張りが合って、何て愛らしいの。
ああ、今すぐにでもなで回してさしあげたいわ……。
「あの……シンシアさん?」
「なぁに、ヨーコ?」
「さっきは、ごめんなさい。びっくりしちゃいましたよね、あんな……その……」
うつむいて真っ赤になっている。瞳も赤い。
どうやらさっき大泣きしたことを言っているらしい。
「気にしないで。よくあることよ。身体の緊張が解けた途端にね、押さえていたものがどっと噴き出すの……」
「そう、なんですか?」
「ええ。身体と心って、思った以上に密接につながっているものなのよ?」
「そっか………そうだよなあ……うーん、うっかりしてた」
女らしく恥じらっていたかと思えば今はむしろ少年のようにさばさばとして、頭なんかかいてる。
無防備すぎるわ、ヨーコ。かわいらしいお乳が丸見えよ?
まあ、乳首が桜色に色づいて……ええい、この泡が邪魔ね。
「涙はね、自分の中に溜め込んだあれやこれやをすっきり洗い流してくれるの。だからこんな時はがまんしちゃいけないわ。リラックスしに来たんですものね?」
「そう言えば、すっきりしたかも」
すうっと目を細めると、シンシアは穏やかな声で話しかけた。
「よろしければ何があったのか……話してくださらない? いえ、無理にとは言わないけれど」
「……………あー、その………大したことじゃないんですけど」
「ん?」
「………………………………………………ないんじゃないかって」
「え?」
「私…………………なんじゃないかって」
「何……が?」
しばらくの沈黙の後、ヨーコはジャグジーの泡立つ音にかき消されそうなくらい、かすかな声でぽつりと言った。
「私、マグロなんじゃないかって」
「は?」
ぽかーんとあっけにとられる。
「Tunaがどうかしたの?」
「あー、その、これは日本の慣用句って言うか、スラングの一種で……ベッドの中で冷凍のマグロみたいにごろーんとなって……」
ふるっと細かく彼女の肩が震えた。
「感じない女ってことです」
また涙が一粒、ぽろっとこぼれた。
ああ………。
そっとシンシアはほっそりした丸い肩を抱き寄せた。小柄な身体がさして抵抗するでもなく腕の中にすっぽり収まる。
くしゃくしゃと黒髪を撫でた。濡れた絹のような手触りだった。
「だれかに言われたの?」
(もしそうなら、そいつの目玉をえぐりだしてやる!)
かすかに首を横に振っている。
「そう……」
少なくとも爪を研ぐ必要はなさそうだ。
「ただ……その………好きな人と抱き合っても……………」
ちらっと見上げてくる濡れた瞳を見つめてほほ笑んだ。
「溜め込んではいけないわ。わたくしたち、ここにはリラックスするために来ているのでしょう? 言いたいのならお言いなさい。言いづらいのなら黙っていてもいいのよ」
「………………………セックスしたいって思わなくて」
「……いや、まあ、それは確かにそうしょっちゅうしたいって思うことではないでしょう」
「ベッドの中で」
「ああ」
「しかも相手の人、服、着てなかったし」
「下着姿で?」
「いや、それも無し」
「……あなたは?」
「パジャマの上は着てました」
その瞬間、シンシアは全力で相手の男に嫉妬した。
まあああ! まったく何ってもったいないことをしたの! あるいは、尊敬すべき忍耐力だわ……信じられない。
ふと、一つの可能性に思い当たる。
きっとこの子はまだ知らないのだわ。女の悦びを……。
あまりにピュアな『好き』の気持ちに体の本能が追いついていないだけ。それなのに、こんなに悩んで、思い詰めて。きっと今、彼女の近くにはこの悩みを打ち明けられる相手がいないのね。
「ねえ、ヨーコ?」
「はい?」
「これ以上、あなたが不安にさいなまれているのは見るにしのびないわ」
「あ、ありがとうございます」
顔を寄せて耳元でささやいた。
「あなたさえよければ、確かめてみない?」
「何を?」
「あなたはTunaなんかじゃないってことを」
しばしの沈黙。その間じっとシンシアは待った。自制心をフルに発揮して抱きしめる腕には力をこめずに、あくまでやんわりと支えるだけにとどめて。
やがて、腕の中の彼女がこくん、とかすかに。だが、確かにうなずいた。
「OK、ヨーコ……力を抜いて。私に任せて」
言われるままに息を吐いて身を委ねてくる。ああ、本当に何て素直な子なんだろう!
(教えてあげるわ。あなたの体は、ちゃんと愛されることを知っているって)
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