▼ 【5-4-5】いわゆる洋風卵酒
2012/02/18 23:14 【五話】
海の中にいた。でもちっとも冷たくないし、涼しくもない。
体温よりちょっと高いぐらいの、微妙なぬるさの海。ここが熱帯ならきれいな色の魚とか、イルカとか居そうなものなのに……
ぽっかりからっぽの海の中、浮いているのは自分だけ。何故か顔は海面すれすれで、うっかりするとごぼっと波を被る。鼻から咽に塩辛い、ぬるい水が流れ込んで、苦しい。
必死で手足を動かそうとしても、目に見えない重いものにからめ捕られてちっとも自由にならない。
潜ることも、浮かぶこおもできずにただがぼがぼと塩水にむせながらもがく。もがく。もがく。
(ああ、これは夢だ。目を開ければ終わるはず)
まぶたに力をこめて、開く。
だめだ、まだ海の中。
あきらめるな、もう一度。目を閉じて、さっきより力を入れてゆっくりと。
今度はどうだ?
そうやって一体、何度まぶたを開けたことだろう? 覚めたと思ってもまだ夢の中。何層にも重なった息苦しい海をようやく通りすぎたと思えば、今度は何処とも知れぬ天井に顔を押し付けられ、潰されそうになる。
自分の居る空間が、どんどん狭くなってくる。下からじりじりとまた、ぬるい塩辛い水がせり上がってくる。急がないと、息ができなくなってしまう。
急げ、ああ口が浸かった。もうすぐ鼻が沈む。
早く。
早く!
「あ……」
やっと、本物の天井が、見えた。
病気の時ってのは、だいたい目覚めに二種類ある。一つは起きた時、眠った時より皮一枚はがしたみたいに『よくなってる』なって感じる時。もう一つは『相変わらず苦しいまま』。
今回はどっちだろう?
手足の皮膚、耳、目。ぼやけて霞んでいた感覚が次第にはっきりとしてくる。
手足や首、肩が妙な具合に強ばり、きしきしと疼く。鼻の奥に赤いもやもやのトゲが居座っている。頭の中が、ごわーん、ごわあーんっと金属をぶったたくみたいに振動してる。
その振動に合わせて額の奥が痛い。後頭部が重い。枕に圧迫されてうっ血してるように感じる。
残念。『相変わらず苦しいまま』だった。
がっかりしたが、ため息をつく以前にまず、息ができなかった。手さぐりでティッシュを引き抜き、びーむっと鼻をかんだ。
「うわぁ」
ごっそりと大量の鼻水。しかも今回は粘度が高く、ちょっぴり血が混じっていた。
ぎょっとした。でも、すっきりした。
続けて二回、三回とかんでいると、塊が出切ったのか、ほとんど色のない鼻水に戻った。
「ふー、はー、はー……」
やりすぎた。
頭がシェイクされてふらふらする。ぐーるぐると回る意識をどうにか一つにまとめていると……
かちゃり、ことり、と台所から微かな物音が聞こえた。
誰かが立ってる。動いている。
(母さん?)
ない、ない、ある訳ない。ここはサンフランシスコだ。学校の寮だ。何があっても、家族は頼れない。自分一人でどうにかするしかないんだ。
「目が覚めたかマクラウド」
不意に枕元で声がした。顔をあげると、そこに居たのは……
「レオン……?」
ずいっと目の前に突き出されたのは、見覚えのあるオレンジの円筒形。医務室で処方された薬のボトルだ。
「薬をもらっても、飲まなくては意味がない」
「あー、そうだよな」
やばい。薬飲む前に寝ちまった。受けとると手の中でカロカロと、錠剤の転がる音がした。
蓋をねじって開けようとしたが、上手く指に力が入らない。
(くそ)
落ち着け、落ち着け。別に筋力そのものが落ちてる訳じゃない。もう一度、今度はゆっくりと……。
きゅっと白い蓋が回った。
やった、開いた!
「マクラウド」
「ん?」
つい、と目の前に湯気の立つマグカップが差し出される。
「飲む前に、何かお腹に入れておいた方がいい」
「これ、何だ?」
最初はあっためたミルクかと思った。だがよく見ると、もっと黄色が濃くて、とろりとしてる。においは………だめだ、全然わからない。
「エッグノック。アルコールは入ってない」
「……作ったのか」
「混ぜればいいだけだから」
そう、ただ、混ぜればいい。
温めた牛乳と、ときほぐした卵と砂糖、仕上げにクリームをひとたらしとナツメグをひとふり。切る必要もないし、皮もむかずにすむ。
ただ一つ、卵を割るのが最大の試練だった。
アレックスの動きを思い出しながら、ボウルの端に軽く卵を当てて、割れ目が入ったら親指の先をひっかけて、左右にそっと広げて……るはずなのに、どうしても途中でぐしゃっとつぶれる。落ちた殻を指先でつまみ上げようとしても、つるりつるりと逃げてしまう。まるで生き物みたいに。
4回失敗して、5回めに開き直った。
「濾そう!」
殻の欠片の混ざったまま、卵を混ぜて解きほぐし、最終的に茶こしで漉したのだった。どうにか卵と殻を分離するのに成功したものの、あいにくと茶こしに生臭いにおいが残ってしまったけれど……
洗って、アレックスに送ればきっと何とかしてくれる。その間は予備を使えばいい。
紅茶をいれるための道具は常にストックしてあるのだから。
「甘い……」
「糖分と、たんぱく質と水分が補給できる」
「うん」
両手でカップを包み込み、少しずつ飲んだ。
甘くて、あたたかい液体が、咽を通り過ぎて空っぽの胃袋に落ちて行く。
体の内側から温められて、鼻の奥が嘘みたいにすーっと楽になって、舌の奥にかすかにナツメグの香ばしさを感じることができた。
「あったかい……甘い……」
ただ、それだけの事なのに。悲しくて、苦しくて、寂しくて、焦っていた。
体と頭が、トゲのついた見えない針金でぎっちぎちに結ばれていたみたいだった。
どう振り払っても取れない。ずっと続くんじゃないかと思った痛くて苦しい戒めがふわっと溶けて、消えてしまった。跡形も無く。
「………ありがとな、レオン」
「君はルームメイトだから」
ペットボトルに入った水をレオンはそ、と枕元に置いた。
「ちゃんと薬を飲んで、早く治してくれよ。同室者が寝込んでいると、落ち着かない」
「うん」
それは、偽らざる心の言葉。
レオンハルト・ローゼンベルクは心の底から赤毛のルームメイトの回復を願っていた。望んでいた。
久しぶりに一人で食べた食事の不味さ、味気なさと言ったらなかったのだ。
なまじ二人一緒に食べるのに慣れ始めてていただけに、余計にわびしかったのだ。
※
この日を境に、姫はちょっとだけわんことの距離が縮まった。
けれど彼はまだ気付いていなかった。
熱にうなされるディフを見た時、かすかに生じた皮膚の内側がざわつくような感触の正体に。
熱く濡れた指先が、そろりと撫でた思春期の扉。
芽吹きはもう、すぐそこに。
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