「うーわー……」
現場に到着し、調査用キットを収めたケースを片手に車から降りた瞬間。エリックは思わず空をあおいだ。十字でも切りたい心境。だがあいにくと自分は神父ではない。
彼の仕事は鑑識だ。現場に行き、どんな些細な証拠も見逃さずに採取し、分析し、真実を探り出す。TVドラマほど華麗にとは行かないが、それでも地道な調査の結果が犯罪を立証し、犯人の有罪が確定すると清々しい充足感に満たされる。
だが、それも全て、まず最初に調査があってこそ。
彼は今、よどんだ水の溜まった……そう、そこの水は流れることを半ばあきらめていた。もう随分と長い間……古い水路にいた。
比喩ではなく、まさに水路の中に。腰まであるゴム長を履いて、防水加工のほどこされたCSIのロゴ入りの上っ張りを着て、ゴム手袋をはめて。
(遺伝子的にはバイキングのしぶとさを受け継いでるはずなんだ、真冬の北海に比べればシスコの水路なんて!)
ちゃぷん、と跳ねた水が顔に飛ぶ。目元はかろうじてゴーグルで守られているが、あいにくと首筋がフリーだった。
「うう、やっぱり寒い」
スタイルにこだわらずタオルでも巻いとくべきだったか。
死体発見の通報が届いたのはランチタイムが終わってすぐのこと。
駆けつけてみると確かに死体はあった。と、言うか、浮いていた。
この寒い中、何も水路に浮かばなくても良かろうに……いや、そもそも被害者からしてみれば死体になんかなりたくなかったはずなのだ。(自殺じゃないと仮定しての話)
水につかっていた割には比較的『しゃん』としている。
どうやら溺死ではなさそうだ。
二〇代か三〇代、男性、白人。
水路に浮いてる水死体の写真を撮影する。角度を変えて、何枚も。水のサンプルを採取し、付着物のうち、水から上げたら剥がれてしまいそうなものから集めて行く。綿棒でぬぐい、ピンセットでつまみ、小さな袋に密封してラベルをつけてゆく。
「よし、いいだろう。そろそろ上がるか、エリック」
「Ja」
「え?」
「……OK、キャンベル。あがろっか」
曾祖父の代に移住して来たエリックの家では、今でもたびたびデンマークの言葉がやり取りされる。
肯定を意味する二音節のJa! は英語のYesより言いやすかったので、子どもの時の口癖だったのだ。
今も考え込んでいるとつい、ふっと口をついて出る。
ハンス・エリック・スヴェンソンは一つの事に集中しすぎるとしょっちゅう周りのことが意識から消えるタイプの人間だった。
そんな彼にとって、この仕事はある意味天職とも言える。
ラボの中で研究に没頭する時も。こうして現場で証拠を集める時も。
※ ※ ※ ※
水から上がると、ことさら寒さが身にしみた。汚水に濡れたゴム長と上っ張り、手袋もそれなりに寒さを防ぐ効果はあったらしい。
震える歯を噛みしめていると……胸ポケットの携帯が鳴った。
(うー、ダルいなあ。居留守使っちゃおうかなあ……せめて署に戻って熱いシャワー浴びて、人心地ついてからかけなおしたい……)
サブディスプレイを確認する。送信者は"D"。
即座に応答。この電話だけは後回しにできない。
「ハロー?」
「よう、エリック」
張りのあるバリトンが聞こえる。なんでこんな声してるのに可愛いなんて思ってしまうのかな、この人のことを。
「ども、センパイ」
「今、話せるか?」
「……大丈夫ですよ」
「そうか。この間、頼んだ繊維の分析結果な……いつごろ上がるか知りたいんだが」
「あーあれ、ですか……」
ちらっと隣でゴム長を脱いでいる同僚を見る。
「今、出先なんで、署に戻ったらやっときます」
「そうか。すまんな」
「や、気にしないでください。ついでっすよ、ついで!」
「サンキュ、エリック。そのうち飯でもおごる」
「楽しみにしてます……それじゃ、また」
電話を切ってからエリックは深い深いため息をついた。
(飯、おごるって……二人っきり? だったらうれしいけど)
先日、マーガレットの花かご持参で見舞いにいった時、病室で会った弁護士の面影がよぎる。
(きっとあの人が一緒なんだろうな……)
「へっへっへっへっへっへっへ……」
ふと足元を見ると、黒毛のロングコートシェパードが一匹、尻尾を振っていた。さっきまで捜索にあたっていた警察犬だ。
「やあ、ヒューイ」
ぶっとい首に腕を回し、がしっと抱きしめた。
「ちょっと温もり分けてもらえる?」
「わう?」
あー……なんか、癒される。
※ ※ ※ ※
署に戻ったエリックはさっそくシャワー室に直行した。
純粋に寒かったと言うのもあるが、それ以上に髪にも身体にもそこはかとなくヘドロくさい水路の臭いがしみついて、いたく他の署員に不評だったのだ。
着ているものを脱ぎ、腰にタオル一枚だけ巻いてシャワー室に入る。8つあるブースのうち、一つの間仕切りを開けて中に入る。
(ここ、使うのあまり気が進まないんだよな)
蛇口をひねり、お湯を出した。しばらく手のひらで温度を見てからざーっと勢いよく出す。
もうもうと白い湯気が立ちのぼり、がちがちに凍り付いていた身体がほぐれてゆく。
「……ふぅ……」
北欧系特有の透ける様に白い肌。お湯のかかった場所にピンクのドットが浮かび、みるみる広がって行く。
男性用だから間仕切りなんかほとんどあってないようなものだ。
最低限見苦しくない程度に胸から腰を覆う程度、それにしたってついてるだけマシと言うもの。
エリックは背が高い。だからどうしてもはみ出す度合いが高くなる。
しかし彼がここのシャワーを使うのに気乗りしない理由は別の所にあった。
(ここのシャンプーもボディソープも。除菌性は高いんだけど、香りがきっついんだよな……肌も荒れるし)
しかし背に腹は変えられない。にゅるにゅると付属のボトルから手のひらにシャンプーをひねり出す。
ちょっと出過ぎたか。
いいや。
あわ立てて頭に着ける。
目をとじてわしゃわしゃと、短く堅い金髪を洗い始めた。
(うう……やっぱりにおいがきついな………)
※ ※ ※ ※
CSIは原則として二人一組で一つの事件を担当する。組み合せは毎回変わり、特定の相棒は決まっていない。
その日エリックがキャンベルと組んだのもたまたま主任の差配でそうなっただけの話。
しかしこのことはキャンベルにとって少なからぬ幸運でもあった。
冷たく淀んだ水路に浸かりはしたものの、こうして同じタイミングで堂々とシャワーを使うことができるのだから。
さりげなくシャワー室に入るとエリックの隣のブースを目指すふりをして…途中で立ち止まった。
思った通り、だいぶ胸から上がはみ出してる。
しかも頭を洗っていらっしゃる。両手を上げていて、なんとも無防備な格好だ。
お湯を浴びて白い肌がピンク色に染まっている。胸の中央、乳首がとくに濃い。
思わず口笛を吹きたくなる。
細いからってひ弱って訳じゃない。
胸も腹も引き締まってはいるが割れてると言うほどじゃない、そこがまたいい。
軽くお湯を浴びただけであんなに色づく肌に、キスの一つもしたら一体どうなるんだろう?
すっと目を細める。
いつもツンツンに尖っている堅めの金髪が、ぐっしょり濡れて額にへばりついている。
研究室の無機質なライトの下、真剣そのものの眼差しで試験官をのぞくあの知的な表情が、ベッドの中ではどんな風に変わるのか。
見てみたい気がする。
(自分より背ぇ高い男を押し倒すってのもいいかもしれないな……)
しかし、どうやらこの男には片想いの相手がいるらしいのだ。
滅多に自分から声をかける事もなくなったし、時折ため息をついて物思いにふけっている。
口説くのなら、まずそいつをあきらめさせることから始めなくちゃいけない。
(手始めに今夜誘ってみるか?)
さりげなく。あくまでさりげなく間仕切りに手をかけると、キャンベルは声をかけた。
「よう、エリック」
※ ※ ※ ※
髪を洗いながらエリックは思い出していた。ついさっき、水路で回収した死体を。
直接思い出すのではなく、カメラのファインダー越しの記憶を頼りに。
二の腕に特徴のあるタトゥーがあった。
詳しく調べてみないとわからないけど……見覚えあるぞ。組織がらみかな?
入れられた日付は、おそらく入団した日じゃないだろうか。
「なあ、今夜あたり……ヒマか?」
憶測は禁物、だが自らの記憶という名のデータベースもなかなかどうして馬鹿にしたもんじゃない。
ゼロをプラスに変えるきっかけにはなる。
LAほどではないにしろ、ここのところシスコ市内にもそこはかとなく不穏な気配が見え隠れするようになってきた。
「新しい店見つけたんだけど」
先月、逮捕した容疑者の中にも同じタトゥーをしていた奴がいたような気がする。
あれは何の事件だったろう? 上がったら調べてみようか。
それにしても。
(あー、やっぱり、このシャンプー苦手だ。帰ってからもう一度風呂入ろうっと)
顔をしかめてボディソープを手にとり、わしゃわしゃとあわ立てて身体に塗りたくる。タオルでこすと甘い香りが広がった。
純粋に甘いのではなく、鼻の奥にツンとした刺激臭が後を引く。
相変わらずきつい。でもこれなら水路の淀んだ水とヘドロのにおいを打ち消してくれるだろう。
「おーい、エリックー」
ざーっとお湯の勢いを強めてボディーソープもシャンプーも、もろともいっぺんに洗い流してゆく。
「……聞いてないのか」
キャンベルは首をすくめてシャワー室を出た。
脈無しとなると、こいつのシャワーシーンは見るだに目の毒。早々に退散するに限る。
無視した訳じゃあるまい。
気づかなかっただけなのだ。けっこうな勢いでお湯が飛び散っていたし。
眼鏡もかけていなかったし。
(まったく……あいつは天然だからなあ)
残らずすすぎ終えるとエリックはお湯を止め、タオルで身体をぬぐいながら間仕切りから出た。
脱衣所まで来たところでうっかり腰に巻くべきタオルで頭をふいていたことに気づき、慌てて周囲を見回す。
……良かった、誰もいない。
さすがに下半身何もつけずに(もっとも上にだって何も着けてないけれど)人前を堂々と歩くのは問題がある。
いくらここがシャワー室の脱衣所だからって。
(本当に良かった。誰もいなくて)
ロッカーを開けて眼鏡をとりだし、かける。ぼやけていた視界がクリアになる。
「……あー、その」
「わあ、キャンベル」
居た。
「これから?」
「ああ、これから」
「そっか。それじゃ、お先に」
※ ※ ※ ※
「どうぞ、センパイ、これが例の繊維の分析結果です」
「サンキュ、エリック。無理言って悪かったな。ラボの設備、貸してくれるだけでも良かったのに」
「いいえ。ついでですから! ……せっかくですから」
内心、どきどきしながら声をかけてみる。
「休憩室でコーヒーでもいかがっすか」
「ん……すまん、今日は時間ないんだ。今度、またな」
何となく、そんな気がしていた。
大またで遠ざかる広い背中を。たてがみのような赤毛を黙って見送った。
通りすぎる他の署員達とも気さくに笑みを交わし、手を振っている。そうだ、こう言う人だった。
あの笑顔はオレだけに向けられたものじゃない。
もっと近くにいた頃。バッジを着けていた時でさえ、あの人とオレの間にあったのは信頼と友情でしかなかった。
すっぱり諦めるつもりでいたんだ。
それなのに。
何で。
あんなに、色っぽさに磨きがかかっちゃってるんだろう、センパイってば。
深いため息が漏れる。
(これじゃ生殺しだ……)
「よう、エリック。すまんがちょっとこいつの面倒見ててくれるか?」
「どーぞ」
「たのんだ。すぐ戻るから」
足早にトイレに入って行く相手は爆発物処理班のハンドラー。手渡されたぶっといリードの先には、茶色い顔と尻尾、黒い背中のシェパードが一頭。
きちっと後足を折り曲げて座っている。
「やあ、デューイ」
「わふっ」
爆弾探知犬である。水路の捜索に駆り出されたヒューイとは母犬の同じ兄弟犬。
もう一頭ルーイと名付けられた探知犬がいたが、惜しくも二年前に殉職している。
彼が、一瞬。ほんの一瞬早く反応したおかげで処理中の警官はからくも死を免れたのだ。
「………ちょっと温もり分けてくれる?」
両手でがしっとぶっとい首を抱きしめる。
ああ。何となく似てるなあ。この骨太でごっつい感じが……
ばったんばったんと丈夫そうな太い尻尾が床を叩いている。
うん、似てるな。仕事以外ではやたらフレンドリーなとこも。
「あ……水死体の検死報告聞きにいかなきゃ」
名残を惜しみつつ、エリックは手をほどいて立ち上がった。
「遺留品も分析しないとな……あー、これで何日間、あったかいご飯食べてないだろ……」
「わふ」
たしっと爆弾探知犬がでかい前足を膝の上に乗せてきた。
しっかりと右手で握り、堅い握手を交わした。
「……ありがとな、デューイ」
(降りしきる雨みたいに/了)
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