『襟元をなぞる指先』 by 時野つばき 2003年作成四百字詰め原稿用紙換算枚数= 50枚
すうっと襟足をなぞられた。
冷たく、ほっそりした指先で。
一瞬、相方の悪ふざけかとも思ったが腕の中の女の体はあくまで熱く、しっとり潤んでいる。第一、この体勢で首筋に手の指が届くはずがない。
怪訝に思い見上げると、そこには……。
(一)
しんしんと煎餅布団を貫く寒さに夜通し悩まされ、翌朝ガタつく板戸を開ければ案の定。裏庭には一面、うっすらと霜が降りていた。
道理で冷えるはずよ、と背中を丸めて歯を磨いていると、ぬっと雪手丸が鼻先に縁の欠けたどんぶり鉢を差し出してきた。
「小父さん、金魚が動かないよ」
ひと目見て、烈刀は思った。
こりゃ、やばい。
昨夜から何とはなしに元気がなかったが、いよいよ成仏めされたか。
鉢をのぞいてみれば金魚殿、ものの見事に腹を上にして、ぷかあっと浮いている。
元はと言えば去年の夏、売れ残ってタライのすみっこでへろへろ泳いでいたのを安く買ったもの。よくぞ今までもったと思う。が、それも道理のわかった大人なればこそ。
「治るよね? 治して、くれるよね?」
震える声に目を上げて、おっかなびっくり雪手丸の顔をうかがうと……。
くりっとした真っ黒な瞳がすでにうるると濡れていた。しかしここで口あたりのよいごまかしを打てるほど、御子神烈刀は器用な男ではなかった。そもそも、それが災いして未だに仕官の口も見つからず、浪々の身に甘んじている訳で……。
そこそこ腕が立つのと小知恵が回るのを頼みに幼い甥っ子と二人、どうにか食ってゆけるだけの稼ぎをひねり出してはいるものの、うだつの上がらぬ浪人暮しに全くの不満がないと言えば嘘になる。とはいえ、元もと宮仕えなんぞより町中の気侭な暮らしの方が性に合っていたのだろう。それが証拠にものの一年とたたぬうちに江戸っ子流の伝法な立ち居振る舞いが骨の髄まで染み付いた。
染まった、と言ったが近いやも知れぬ。
「いや。もう治らねぇ。よく聞け、雪。金魚はな」
じわっと雪手丸の目のふちに涙が盛り上がる。
「死んだんだ」
ぽとり。
染みだらけの畳に、澄んだ雫が落ちた。
そのまま雪手は一日泣き明かし、翌朝すっかり堅くなった金魚を長屋の裏庭に埋めた。
真っ赤に泣き腫らした目を見ると心が痛んだが、冬の最中に金魚売りなぞ回って来ようはずもなく。金魚の終の住処となったどんぶり鉢は、空っぽのまま縁側の隅に伏せられた。
それでも聖人君子じゃあるまいし、人間いつでも心清らか健やかにいられるもんじゃない。出物腫れ物何とやら、一度ざわりときたらどうにも収まりのつかないモノがある。
そんな訳で烈刀はその夜、留守を隣の坊主に頼んで『香梅屋の隠居んとこに将棋をさしに』出かけた。
これは一種の符丁であった。
香梅と言うのは馴染みの遊郭の屋号、もとより隠居なぞいようはずもない。要は将棋ではなく別の物を“さしに”行く訳だ。
「何でえ。局が違うじゃねぇか」
「あら、気になりますかえ?」
馴染みの遊妓を名指しして、部屋に通された所で烈刀はふと眉をしかめた。
部屋に一歩踏み入れた瞬間、嗅ぎ慣れぬにおいを嗅いだのだ。
細い糸のようにしのびこみ、いつまでも咽の奥にまとわりつくような……。
白粉や髪油のにおいとはまた別の、どことなくぬるりとした、何ともなまめかしいにおいであった。出所をさがして首をめぐらすと、箪笥の上に置かれた丸いものに目が吸い寄せられた。贔屓の客の誰ぞからもらったものか。水を満たした小さなギヤマンの鉢の中、赤い金魚が二匹。ひらひらと寄ったかと思うとまた離れ、すれ違いざま、ふわりと鰭の先っちょで相方の体に軽く触れたりなんぞしながら、くるくると泳ぎまわっていた。
「別に。場所なんざどこでもかまやしないさ。お前さんさえ一緒なら」
「だと、思った」
「かえって目先が変わってうずうずすらぁな」
帯締め、帯揚げ、朱の布。帯を留める薄い布と細い紐とを解くのももどかしく烈刀は女の帯に手をかけ、わざとぐいっと乱暴に引っ張った。
「あれ、ご無体な」
くるりくるりと回りながら、女はすとんと床の上に膝をついた。舞でも舞うような、実になめらかな身のこなしであった。裾が乱れ、赤い布団の上に白いふくらはぎが横たわる。くずれた襟元からはなめらかなうなじはおろか、ふっくら丸い乳房までちらりと拝むことができた。
「なにをなさいますの、烈さまぁ」
半ば袖に顔を隠しながら、きゃっきゃと少女のように声をあげて笑うこの女、源氏名を『えり鈴』と言う。その名の通りころころっと鈴のようによく笑う女だった。この手のおふざけにも気軽に応えてくれる、気っ風とノリの良さも持ち合わせている。
かと思えば涙もろく、よくぞ赤の他人のためにここまで泣けるものよ、と感心するほどぼろぼろ泣く。
そこがまた烈刀は滅法気に入っていた。
「さぁて何をしようかなあ」
後ろより抱きざま、身八つ口より両手を差し入れる。
「あれ、冷たい」
「悪ぃな。今夜は風がやたら強くてね……すっかり凍えちまった」
軽く耳たぶをついばみ、舌先でつついてまた離す。
「あっためてくれ」
乳房の感触を手のひら全体で味わいながら、やわやわふと指を蠢かせる。揉むほどにえり鈴の肌はしっとりと汗ばみ、指に吸い付いてくる。指先の感触で、見ずとも中央の蕾みが少しずつ堅く立ち上がってくるのがわかったが、わざと触れずにそばを掠める。
「あ……」
かすかな吐息をもらし、女が体をよじった。
「おっと。まだ冷たいか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
ほんのり薄紅に染まるうなじに口をよせ、触れるか触れないかの微妙な間合いで肩に向けて滑らせる。
「あ、あ、後生ですから……もう、焦らさないでくださいまし」
「いいにおいだ」
軽く唇を押しあて、きゅっと乳首をつまむ。
「や、あぁん」
女の口から、甲高い声が漏れた。
「……まだ、冷たいか? ん?」
「いえ……」
上気した顔で見上げる眼差しは、とろんと熱く潤んでいた。
「とろけそう……」
「どれ」
烈刀はおもむろに赤い襦袢の襟に手をかけ、押し広げた。
「それは是非、確かめねばなるまいなぁ」
こぼれおちる白い肌身に己の体をかぶせる暇もあらばこそ、待ちかねたように女の腕がからみついてきた。
改めて乳房にのびる手を、えり鈴の白い手がそ、と軽く押さえた。
「今、ね……今、濡れているの。だから、触って。今すぐに」
「どこに?」
そろそろと女の手が烈刀の指を下に導いてゆく。指をのばして女の肌に軽く触れ、なだらかな曲線をなぞった。たわわにゆれる胸から汗ばむ腹へと滑り降り、途中で襦袢の紅絹をかすめて柔らかな茂みへ。
空いた左手で、堅く結い上げた女の襟足をさかさまになぞる。
どことなく、似ていた。
「ここを、ね」
やっと、えり鈴の手が離れた。
くっとなだらかな丘に沿って手のひらを押し付け、人さし指と中指を内側に曲げる。
「ここ、か」
そろそろと指先で茂みをかきわける。ほわほわと縮れた和毛の奥に隠れた姫貝の合わせ目が、既にたっぷり露を含んでふくらんでいた。軽く押し広げただけで指をつたって温い雫がしたたりおちる。
「なるほど、濡れてるな」
十分に指を濡らしてからおもむろに合わせ目に沿ってさかのぼる。
ほどなく、こりっとした花芯を探り当てた。
その瞬間、声もなくえり鈴の背が反り返った。烈刀は腕に力を込め、びくびくと鮎のように跳ねる女の体を抱き締めた。
「逃げるなよ……触れないじゃないか」
「で、でも」
そろり、と背中に回した左腕を背筋にそって滑り降ろす。
布地の上から触れているにもかかわらず、えり鈴の口から艶っぽいため息がこぼれた。
「相変わらず感じやすい躯だねぇ、お前さん」
「い、いや、そんなこと」
「だけど、こんなことしたら」
右の手をさらに押し付け、ゆっくり円を描くようにして揺する。揺すれば揺するほどえり鈴の息が次第に荒くなってゆく。
「ほら……」
ころ合いを見計らって烈刀はつぷりと指を差し入れ、うるみきった蜜壷の入り口あたりで泳がせた。
「あれ、いやだ、はずかしい」
「嫌だと言われちゃしょうがない」
あっさり抜いた指先が、ねとっとぬるい糸を引く。
「あ、だめ、やめないで」
「いやだと言ったり、やめるなと言ったり。どっちなんだぃ、ええ?」
えり鈴は乱れた襟を合わせてそっぽを向いた。
「いや、いや、そんなの言えない」
本気で恥じらってるのかこれも粋な遊びのうちなのか。未だに判じかねるが気にしたところでどうなるでもなし。
「そうか、言えないのなら仕方ない。しばらく静かにしていてもらおうか」
解いた帯紐を手にとるや、烈刀はすばやく手のひらほどの幅の柔らかな布を女の顔にまきつけ、口をふさいだ。
「んっ」
軽く首をよじりはしたものの、えり鈴はされるがままに猿ぐつわを受け、あまつさえ自ら歯を立て、きゅっとくわえこんだ。
さらに裾をまくりあげ、膝の辺りに両手をもぐりこませて開こうとすると、女はいやいやと首をふりながら手をのばして押し退けようとする。
もっとも力なんぞほとんど入ってはいないのだが。
「いけない手だな」
烈刀はきゅっと白い手首をつかんだ。見上げるえり鈴の両目は熱く潤み、明らかに何かを待ち焦がれていた。
「こうして……結わえてしまおう」
紫の組み紐を二重に巻き付け手の動きを封じる。えり鈴はうっとりと目を細め、猿ぐつわの下で小さく呻いた。
そろそろと両手に力を入れる。白い脚があっさりと開き、秘め所をあらわにする。
「ああ、こっちの口は正直だな」
咽の奥で湿った笑いをたてるや、烈刀は女の脚の間に体を潜り込ませた。
「真っ赤に熟れてる。まるで柘榴みたいだ。さて味の方は……いかがなものかな」
舌先で割れ目を押し開ける。
くぐもった声が応える。
ねっとりと熟れた花弁の合間を舐め上げ、仕上げにコリコリと尖った花芯を口に含む。強く吸うと、えり鈴の口からあられもない声が漏れた。
かすかにツンとしたにおいを嗅いだ。
情慾に燃え立つ女の汗ばんだ肌と白粉の溶け合ったにおいと、金魚のにおい。どことなく似ている。とろりとして、なまめかしい。最初に吸い込む時はちと眉をしかめたくならぬでもない。しかし、なぜだか離れがたい。
妙に後を引き、『癖になる』のだ。
「あ、烈さま……もう、もう」
あまりに激しく悶えたものだから、猿ぐつわが解けてしまったらしい。もともとゆるくお遊び程度に巻き付けていただけなのだから無理もない。
烈刀は顔をうずめてもう一度強く吸った。
「口吸いは、ご法度だからなぁ……」
軽く息をふきかけ、もう一度。
「せめて、こっちに、な」
奥深くまで舌を差し入れる。
ぴん、と宙に突き出された白い脚がひきつり、指先まで反り返った。
かすかに震える女体から離れると、烈刀はのしかかるようにえり鈴のうなじに舌をはわせる。それだけで女の体に震えが走った。
足首をつかみ、ゆっくりと肩に担ぐ。
「いい眺めだ」
「やぁ……。見、見ないでぇ」
目を細めると、烈刀は開ききった女の体の中に己自身を沈めた。
「あったかいな。ずっとここにこうしていたいや」
「ば、かぁ……」
せつなげな女の声に、堰が切れた。
今まで押さえていた全てを解き放ち、烈刀はいつになく激しく荒れ狂った。
「あ、あ、烈さま、烈さまぁ」
かぼそい声であえぎながら、えり鈴は男の体に脚をからめて引き寄せた。
ほどなく、遊郭の二階に艶めいた声が響く。
「あれ、 えり鈴姐さん、今宵は一段と佳い声で鳴いていなさるねぃ」
当然のことながら、はしたないの何のと眉を潜める者なぞ誰もいやしない。
「でも……なんだって鈴菊さんの部屋で?」
「ほら、例の」
「ああ」
「それじゃ、そろそろ……」
女たちは廊下の奥をうかがった。ぎゅっと着物の襟のあたりを握りしめ、青ざめた顔で、肩を寄せ合って。
ひやり、とか細い指が襟足をなぞる。
(おい、止せよ……)
言いかけて、口をつぐむ。えり鈴のおふざけかと思ったが、違う。腕の中の女の躯は熱く、湿っている。それにこの感触は手の指だ。しかも上から触れている。
待てよ。
上?
烈刀は顔を上げた。
女が一人、まくら元の屏風の上からのしかかるようにして覗いていた。
だらりと垂らしたその指先が、すうっと烈刀の鼻先を掠めた。
ひいやりとした冷気が骨の芯まで染み通る。
血の気の失せた青い顔。果てなく冥い無明の闇を写した瞳。ひと目で生身の女ではないと知れた。第一、届くはずがない。よしんば百歩ゆずってよじ登ったとて、うすっぺらな屏風一枚、どうして人一人支えることができようか?
咄嗟に烈刀は立ち上がった。無体に引き抜かれてえり鈴が、切羽詰まった何とも悩ましい悲鳴をあげたがあいにくとそいつを楽しんでいる暇はない。
屏風の縁に手をかけ、引き戸を開け放つ要領でざらりっと横に薙ぎ払った。
ぱたぱたと屏風が折り重なって右に寄る。
ばさり。
刹那、何か柔らかなものが顔におっかぶさってきた。
目の前が白く霞む。
赤が散る。
白を引き裂き、赤が散る。
花びらみたいに点々と、真っ赤な雫が弾けて散った。
ぱた、ぱたり……ばたん。
閉じた屏風が畳の上に倒れる。
その音で烈刀はようやく我に帰った。
「なん、だ、今の」
女の姿は、どこにもなかった。
目の前には行李が一つ。ちょいとずれた蓋の合間から、ちらりと着物の片袖がのぞいている。
「こいつぁ……」
間違いない。
白地に散らした藤紫の萩の花。
「同じだ」
まさしく。
先刻の女が着ていたのと同じものであった。
「やっぱり……また」
えり鈴が震える声でぽそり、とつぶやいた。
「またぁ? だと」
ぴん、と烈刀の左眉が跳ね上がる。
はにかんだ笑いを浮かべたまま、女はおずおずと襟元を合わせて身を起こした。
「そう、また」
(二)
「で、どうしたって?」
「どうしたも、こうしたも。一気にやる気もその気もそがれちまったわな」
「そりゃよかった」
「よかねえよ!」
「少しは節したがお主の身の為よ」
「大きなお世話だ、生臭坊主が」
「今月、将棋を挿しに行くのは何度目だ? かように使う金があるなら、そのぶん雪手の世話でも焼いてやれぃ」
ぐっと言葉に詰まって烈刀はうつむいた。薄壁一枚隔てた向こうでは、雪手丸が寝息をたてているはずだ。
納豆売りの声を聞きつつ朝帰りとしゃれこんだはいいものの、些細な事情で己の家に入れず、こうして隣の『くそ坊主』、火煉の家にあがりこんでいる。
この火煉と言う男、つきあいを始めてからじきに二年になるがつくづく得体が知れぬ。去年の春先、ふらりと現われこの長屋に住み着いた。すんなり店子になったところを見ると、誰ぞ江戸に身請け人でもいたか、あるいは大家に顔がきいたのか。いずれかは知らぬが、僧形のくせに有髪と言うあたりからして既にうさん臭い。当人いわく、剃るのが面倒なので伸ばしているだけなのだそうだが。
身のこなしや言葉づかいの名残りから、大方、武家の出だろうと察しはつくが、それ以上の事は杳として知れぬ。
知れないなりに何とはなしに馬が合い、こうして今では少々後ろぐらい事情も分かち合うまでになったのだが……。
如何せん、くだけているようでもやはり坊主は坊主。事あるごとに説教たれるが珠に傷。
「で。局が変わってたのは要するにアレか。お前さんとその女の幽霊を引き合わせるためだった、と」
しかし今回は他に頼る相手がいないのだから仕方ない。事が事だけに、なおさらに。
「ま、有り体に言えばそうなるわな……。元は静菊姐さんの部屋だったんだとさ」
香梅屋の売れっ妓、静菊の部屋に異変が起きたのは七日ばかり前のこと。
客とよろしくいたしている時、決まって屏風の上から女の幽霊がだらりと覗くのだ。
それなりの口止め料はつかませたはずなのだが、人の口に戸は立てられぬ。客足も途絶え、何より静菊本人が怖くてたまらない。ほとほと困り果てていたところに……たまたま烈刀が来たのを幸い、えり鈴と部屋を変わってもらったのだと言う。
「ってか、十中八九、あいつが手前ぇから言い出したんだろうなあ」
「ほう」
「訳聞いたら、何つったと思う? 『烈の旦那なら、どうにかしてくれると思った』んだと」
「真理だな」
「まぁ、なあ。女の頼みごとは断らんってのが俺の信条だし」
「と言うより断れんだろ」
また、烈刀は言葉に詰まった。
実際、そうなのだからしかたない。
「まったく、超の字のつくお人好しだな、お前さんは」
「ほっとけ!」
「まあ、お主のそう言う所、嫌いではないがね」
「おきゃあがれ、野郎に好かれても嬉しかねぇよ」
ばさっと烈刀は萩模様の着物を広げた。
「で。まあ、この着物が原因らしいってんでとりあえず持ち帰ってみたンだが、どうにもいけない」
「何ぞあったか」
「抱えるのも何だし、朝方は冷える。だから羽織って歩いてきたんだが」
「ワケ有りの着物を、よくもまあ……」
「それよ。歩いてる間中、どうも背中にな。やわっとした女の躯がおぶさってるみてぇでいや、気になること気になること」
ふう、と火煉が小さく息をはき、肩をすくめたが、かまわず烈刀は続けた。
「そうこうするうち、ぴゅっと北風が吹き付けてきた。軽く肩にひっかけていただけだから、こりゃやばいってんで押さえようとしたら……確かに裾から腰のあたりまではふわふわ舞い上がってるんだが、途中で止まってるんだよ」
「ほう」
「見ると袖からこう、白い腕が伸びてな。俺の胸んとこにしがみついていたよ。まっしろな二の腕がまきつくようにして……。思わず、ぞくっとしたね」
「気味悪くて?」
「いや。それがめっぽう色っぽくて」
「ほう、そうか。そんなによけりゃあ」
ひくっとかすかに火煉の笑顔の端っこがひきつり、じゃらっと数珠を取り出した。はて経文でも唱えるかと思いきや、甘かった。
「一生、背負ってろ!」
逃げる暇もあらばこそ、ぎゃりっと喉元二重に巻いて、ぎりりりぎりりと容赦なく締め上げる。
「息っ息がっつまるっ」
「このまま三途の川渡るか? あぁん?」
「め、滅相もないっ」
ようやくざらっと数珠がほどかれ、ぜいぜいと荒い息をつく。
「見ろ」
火煉が着物の裾を指差した。
白々と差し込む朝の光の中、昨夜見落としたものが見えた。
藤紫の萩の花に混じりひと房だけ、赤い萩が咲いていた。わずかに鉄錆びの色をふくんだ鈍い赤。すっと烈刀は目を細めた。
「血だな」
「いかにも。血まみれの手で、ぐっと着物の裾をつかみでもしたのであろうよ」
花と見えたは指の跡だったのだ。
「血染めの萩とは穏やかじゃねえが……とにかく、これではっきりした。お前さんに経の一つもあげてもらって、そこらの寺に収めりゃ一件落着だ」
「そうも行かんな」
氷でも呑んだみたいな声で火煉が告げた。
「取り憑く先が、な。この着物から」
ひょろ長い指先でぱたぱたと着物を叩いてから、ひらひらと烈刀の鼻先に向けて泳がせる。
「お前さんに変わってる」
「まじ、か?」
「冗談を言ってるように見えるか?」
満面の笑み。子供から老人にいたるまで満遍なく好かれそうな極上の笑みを浮かべてやがる。
「まじ、なのね」
笑顔のまま火煉がうなずいた。
「こりゃ、ケリがつくまで家には戻れんなぁ……」
「カンの良いお子だからな、雪は」
「あぁ。しかし手がかりはこの萩の着物だけ、か」
「静菊は、何と?」
「馴染みの客からの賜りものだそうな」
「その客は、どこから?」
「さぁな。見たとこ、仕立てあがりって訳でもなさそだし。どこゾの古着屋からでも見つくろってきたんじゃないか?」
「だとしたら、かなりの掘り出しものだな」
す、と火煉は着物の表面に指をすべらせた。
「布目も縫い目もしっかりしている。おそらく布の染めから織り、仕立てにいたるまで、あつらえた品物であろうよ」
「そうなの?」
「……まったく、お主、それでよく気づいたもんだ」
「何がだよ」
「その幽霊の着物と、こいつが同じだってことに、さ」
「んなもん、見りゃわかるだろ、見りゃ。どうして今まで誰も気づかなかったかねえ。そいつが不思議でならん」
「あの状況で、並の男が幽的の着てるもんの柄にまで気が回るとでも?」
「女ならどうだ。静菊が見てそうなもんだが」
「それよ」
「どれだ」
「香梅屋の静菊姐ぇさんといやあ、おきゃんが売りの妓であろう?」
「名前とは、あべこべにな」
「自分からこう、男の上に乗っかって、悩ましくも激しく腰をくねらせると言うではないか」
「どーして知ってるかね、坊主のクセに」
「その格好では、上は見えんだろ」
「どーして知ってるかねぇ、坊主のクセに」
火煉はけろりとした顔で言い抜けた。
「生臭だからな」
「威張るな、威張るな……。それにしても何だって、客としてる時に『出る』のかね」
「男」
「は?」
「男を、さがしてるのではないかな。その女」
「そのこころは?」
「廓に男が出入りするのは客が来たときであろう」
「他に男がいないワケじゃああるまいに。下働きの若い衆とかよ」
「香梅屋の若い衆と言や、五十過ぎの爺様ではないか」
「……あぁ、確かに」
爺だろうが若者だろうが中年だろうが。廓で働く男衆はみなひっくるめて若い衆と呼ぶ。なぜだか知らぬがそう言う習わしなのだからいたしかたない。
「するってと、何か。俺は上になっててツラが見えなかったから、ちょっかい出されたって事ですかい」
「良かったじゃないか、女に好かれて」
「てめ、他人事だと思いやがって!」
色めき立った烈刀であったが、急にびくり、とすくみあがり、己の背後を振り返った。
「どうした?」
「わ、笑った」
「なに?」
「今、あの女が、くすっと笑ったような気がする」
「……憑かれて、と言うべきであったか」
(三)
「ったくあのクソ坊主め……」
烈刀は両手を懐につっこんで、ぶらりぶらりと何気ない風を装いながら表通りを歩いていた。
例の、萩模様の着物を羽織ったまま。
思案の挙げ句に火煉のひねり出した策がこれだった。
朝っぱらの人気のない刻限ならともかく、真っ昼間に老若男女、ぞろぞろと行き交う往来をにこの格好で歩くのはいささか、いや、かなり気が引ける。しかし火煉は涼やかな笑みを浮かべたまま、頑としてゆずらなかった。
「よいか。そいつは特別あつらえの一点ものだ。着て歩けば、縁りの者の目に止まらぬはずがない」
「殺った当人が寄ってきたらどうするよ」
「それこそ願ってもないことだ。違うか?」
「まぁな……しかし、どうしうてもやらなきゃ、ダメかね?」
「情けない顔をするでない、軟弱モンが。その刀は飾りか?」
「おい火煉」
やわらかな笑みを浮かべたまま、烈刀は抑揚のない声で答えた。
「言っていい事と悪い事があるぜ」
一瞬、ピンと二人の間に流れる空気が張り詰めた。
「戯れ言だ、許せ」
「ったく、冗談キツいぜ……しかしなあ」
先程とは打って変わった世にも情けない顔で烈刀は着物の袖をつまんだ。
「シラフで昼日中にこいつを羽織って歩くってのが、ちょっとなあ」
「何だったらきっちり着つけるか?」
「丈が足んねーぞ」
「よいではないか。裾を端折る手間が省けて」
まだなにごとかもごもごとつぶやく烈刀を知ってか知らずか。火煉は境目の壁を見遣ってしんみりとした口調で
「雪も可哀想になあ」
と、つぶやいた。
「小父さん、まだ帰ってこないの、と、一人涙をこらえておったよ」
その言葉を耳にするやいなや、烈刀は無言でばさっと萩の着物を引っ掛けた。
すれ違う人々の視線が痛い。
(なーんか火煉の野郎にうまいことのせられた気がするなあ……)
ぼりぼりっと頭をかきながら烈刀は秘かに悪態をついた。
(あンのクソ坊主。雪の事さえ持ち出しゃ俺が言いなりになると思ってやがる!)
実際、そうなのだからいたしかたない。
今頃、どうしているだろう。
思っただけで、きゅうっと胸がしめつけられる。
「……もそっと、人通りの多い所に行ってみるか」
上手い具合に近くの稲荷神社で縁日が立っていた。
「ほい、ごめんよ。ちょいと通しとくれ」
出店の立ち並ぶ参道を、わざと流れに逆らい歩く。もともと上背があるだけに、かなり目立った。端から端まで歩き、さてもうひと回り、と足をめぐらせたその時だ。
つい、と片袖を引かれたような気がした。
振り向きざま、視界の隅で縞模様のスソがちらりと動いた。
粋と言うにはちと派手すぎる、堅気の衆には不釣り合いな柄だった。
ミラレテイル。
烈刀はそ知らぬ顔をして歩き続けた。
と、いくらも歩かぬうちに、ぽん、と肩を叩かれた。
「よう」
「……なんだ、手前か、火煉」
「似合ってるぞ」
「お前さんにほめられたって、ちぃとも嬉しかねぇよ」
「正直者だな」
「それが取り柄だ」
「どうだか……ところで、お主」
すっと火煉は顔をよせ、かすれた声でささやいた。妙な色気と迫力に気押されて、思わずどきり、とした。
「尾けられてるぞ」
「あぁ」
きゅうっと烈刀は口の端っこを上にねじまげた。
「知ってる」
「楽しそうだな」
「そう見えるかね」
「では、お邪魔虫は退散つかまつろう……」
水の中でも泳ぐようにしてするぅりと火煉は身を離し、瞬く間に人込みにまぎれて消えた。
「相変わらず得体の知れねぇ野郎だ……さてっと」
烈刀は行き先を変えた。
縁日でにぎわう参道を離れ、境内を抜け、わざと人気のない方へ。
さらに寂しい方、寂しい方へと足を運び、いつしか小さな池のほとりに出た。
枯れた葦が北風にからからと乾いた音を立てる。この寒い中、釣をしようと言う物好きもいない。
底抜けに青い空が池の面に写り、かすかに揺れている。
静かだ。
鳥の声さえ途絶えた静寂の中、ぱきっと乾いた音がした。
のっそりと烈刀は懐から両手を引き抜いた。
「俺に、何ぞ用か?」
振り返る。立ち木の影から、男が一人現れた。髷を斜に結い、裏地に赤をあしらった下品一歩手前の派手な縞模様の着物を着ている。ぐっと懐につっこんだ右手は微動だにしない。
両目をぎとつかせ、食い入るように烈刀を、いや、萩模様の着物をにらんでいる。
狂い犬だ。
ひと目でピンときた。
己の保身のためにはいとも簡単に他人を屠る。前に浴びた血が乾かぬうちにまた次を浴び、いつしか慣れ切ってしまった男の顔だ。
こいつなら、一夜の飲み代とひきかえに、ためらいもなしに人を殺めるだろう。
「それとも、この着物にか?」
答える代わりに男は右手を抜き出した。
案の定、ぎらぎらした匕首が現れた。
「……手入れの悪ぃドスだね、おい」
男は体を低くし、右手で構えた匕首の柄に左手を添えた。
「なぁ、兄ぃさん。人斬った脂ぐらいは拭っておきねぇ。そんなんじゃ」
たっと、猫でも走るみたいな格好で男が突っ込んで来た。
烈刀は軽く体をひねってかわし、無造作に手刀を振り降ろした。
「俺は斬れないぜ」
親指の付け根、骨の合わせ目を強打され、男はあっさりと匕首を落した。
すとん、と降ろされた手刀は意外に重く。
骨の芯までずしりと響いたのである。
烈刀はすばやく匕首を踏み付け、刀の鯉口を切った。
「さぁて……どうしてやろうかな……」
抜くまでもなかった。
みるみる男の目から光が失せ、地べたにへたりこむ。その時になってようやく烈刀は気づいたのだ。
萩模様の袖からほっそりと白い腕が二本。ぐっと指をカギのように折り曲げて、男の顔に向かってわきわきと、蟹のように蠢いていた。
「なるほど。お前が手形の主か」
襟首をつかんで引きずり起こす。
途端に白い腕が男の顔に、首に巻き付いた。てっきり掻きむしると思ったのだが……。白い指先は、やわやわと男の首筋やら耳たぶのあたりをなでまわし、つついたり、くすぐったりしている。あたかも恋しい男を愛撫しているようにも見え、やんわりと獲物をいたぶる猫の手付きに似ているようにも思えた。
問いただす暇もあらばこそ、男はいとも簡単に洗いざらいをぶちまけた。
粋がってはいても所詮この世の理の中のこと、異界の者にはかなわぬと見える。
(四)
その夜。
烈刀と火煉はとある空家を訪れた。
「ほう、いい家だ」
火煉が目を細めた。
根に囲われた庭付きの、家と言うより寮と言ったがしっくりきそうな一軒家。何もかもこじんまりとして、ささやかで、手入れが行き届いていた。
「さしずめ妾の囲い家と言ったところかな」
「うむ。何でも大店の旦那が女を囲ってたそうだ」
「ほぉう」
「カミさんより古い付き合いだったらしい。請われて主家の娘の婿になったものの、なかなか切るに切れない仲だったんだろうなぁ」
「で、それが妻女に知れたと」
「そう言うことだ」
家の中は酷い有り様だった。
板戸は残らず開け放たれ、障子ふすまは破れ放題、吹きっさらし。雨風が吹き込み、荒れるがままに捨ておかれている。家の中には家具調度は一切なく、がらんとしていた。
ただ一つ。庭に面した部屋に屏風が転がっていた。
引き起こすと、その下から赤黒い染みが現れた。
「間違いない」
烈刀は畳に手を触れた。
「ここで死んだんだ。この女(ひと)は……」
すっかり乾いた血の染みの上に、ぽたり、と真新しい染みができた。
「おい、御子神」
「えっ?」
ぼろぼろっとまた水滴が滴る。
涙であった。
烈刀は両目から大粒の涙をこぼして、泣いていたのだ。
「どうした」
「なんっか知らなねぇんだが……こう、切なくてたまんねぇんだよ……胸んとこがきゅーっとしめつけられてよ」
「……横座りしてるぞ、お主」
然り。
女よろしく、烈刀は足を崩して座っていた。
「……仇っぽいと言うか、気色悪いと言うか……この毛ズネが何とも」
「う、うるせえっ」
凄んだところで泣き顔では却って情けない。
「泣いているのは女であろう。泣かせてやれ。死人はもう、涙も流せぬ故に」
「ふん」
軽く肩をいからせ、烈刀は鼻を慣らしてそっぽを向いた。
「坊主のくせに、わかった風な口、ききやがって」
「生臭だからな」
あとから、あとから涙が出た。
悲しいのか、悔しいのか、それとも嬉しいのか。
いずれか知らぬが、やっと涙がとまった時、烈刀はいつになくすがすがしい心持ちになっている己に気づいた。
まるで、夕立ちの後のような……。
胸の内にわらかまった恨みつらみが、もろとも洗い流されて、さっぱり澄み切っていたのである。
「気が済んだようだな」
「そうらしい」
差し出された手ぬぐいを、ありがたく受け取り顔を拭う。
目がはれぼったく、咽の奥が妙に塩っからかった。
「あのヤクザ者、女将に頼まれてやったと言っていたよ。この部屋で、亭主と妾が睦みあってるところを、ばっさりとな」
烈刀は屏風を起こし、開いた。黄金色の表面に、べっとりと血の飛沫がこびりついている。
婚礼の金屏風だった。日陰の身に甘んじた女への、せめてもの手向けであったのだろうか。
「女は死んで、亭主は虫の息。今はお店に連れ戻され、女房どのがつきっきりで世話してるそうだ」
「ぞっとする話だな」
「ここに来る前にちょいと、のぞいてみたんだがな」
「ほう。どんな女だった。やはり凄みのある美人か?」
「それが……おっとりとして色白で。絵に描いたような、いいとこのお嬢様って感じだったよ」
「意外だな」
「それがさ。目に」
「んむ?」
「目の奥に、ぎらぎらとした光がこごっていてさ。そら、雨の降る夜に、沼地や墓場でちろちろと、青白い火が燃えるだろ?」
「ああ、鬼火とか、狐火とか言うあれのことかね」
「まさしく、それだ。ちっぽけな目の奥底で、熱の無い焔がぼうっと燃えてるようで……見ていて、ぞうっとしたね」
烈刀はするりと肩から萩の着物を落とした。
「何でも聞くところによると女房どの、亭主を連れ戻すのもそこそこに、この家に有るもの一切合切ハシ一本に到るまで、二足三文で売っ払ったらしいや」
「では、その着物も」
「ああ。間違い無い。さすがにこの屏風だけは、売れなかったと見える」
こつん、と烈刀は血の飛び散った屏風を軽く叩き、そっと萩の着物を被せた。
ひるがえる袖が、まるで名残りでも惜しむように手首にまとわりつき、しばらく離れようとしなかった。
背中が軽い。
ほっとする一方で、一抹の寂しさがぎゅうっと胸の奥を噛んだ。
「さて。これでようやく、お役ご免だ」
立ち去る前に二人は部屋の障子を閉めた。
吹きさらしにしておくには偲びない気がしたのだ。
帰りしなに庭先を横切ると、片隅に茶碗の破片が散らばっていた。
「でかい茶碗だな」
と、火煉。
「いや、二つだろ。大きいのと小さいの、揃いの模様で」
「夫婦茶碗か」
かがみこんで破片を拾いながら、烈刀は肩をすくめた。
「まったく、女ってのは底が知れねぇや」
「だから好きなんだろ?」
「……まぁ、な」
垣根をくぐり、道に出る。最後に烈刀はもう一度振り返り、着物を残してきた部屋の方を見遣った。
その時だ。
煌々と照る下弦の月が雲に隠れた。
うっすらと藍色に霞む闇の中、影が写った。
障子に一つ、女の影が。障子に手をかけ、まるで、こちらを見送りでもしているようにして立っている。
目をこらす。
刹那、影が増えた。
もう一つ、女の影に寄り添うようにしてぴったりと、男の影が立っていた。
風が吹く。
雲が散り、月が現れた。
障子にはもう、何も写ってはいなかった。
「見たか?」
「ああ。見たとも」
「楽しそうだったな」
「ああ。楽しそうだ」
そのうち、どこぞの大店の主人が同じ刻限に死んだ、なんて話を耳にすることもあるだろう。
しかし、それは烈刀の預かり知らぬこと。
萩の女(ひと)はやっと、探し人に巡り会えたのだから。
(五)
「そんな事が、ねえ」
ぐしゅん、とえり鈴が鼻をすする。
事のてん末を聞くやこの女、半分もゆかぬうちにぼろぼろと泣き出し、終わった時にはもう、土砂降り。
「可哀想、可哀想。萩の人も。その女将さんも。可哀想。可哀想」
「そうかぁ? 萩の人はともかく、カミさんのほうは、ちょと、なあ」
「だって。そんなにまでして、ご亭主を手元に引き戻したかったんだよ? だのに結局、一人ぼっち置いてかれて……哀しいよ。哀しいよ」
ほらよ、と烈刀は枕の下から花紙を引き出し、手渡した。
「きっとねえ。生きてる間は、ひとっことも言えなかったんだよ。あんたが好きだ、一緒にいたいって。二人で話すことといったらお店のことやら、その他のいろんな決まりごとばっかりで、夫婦らしい、あったかい言葉のやり取りなんか、一度もなかったのかも知れない」
げに、女の勘とはあなどれぬ。
烈刀の漏れ聞いた件の夫婦の実情は、まさにえり鈴が言い当てた通りの間柄だったのだ。
「そうだな。哀しいな」
「うん……うん」
派手な音を立てて鼻をかむえり鈴を見守りながら烈刀は思った。
(まったく。化粧は流れちまってるわ、紅はどろどろ、鼻はずるずる。見られたもんじゃねえ)
思うこととは裏腹に、後ろから抱きすくめる。
(だのに、何だって俺ぁ……毎度毎度、この顔にぐらりと来ちまうんだろうねえ)
震える女のほほに顔を寄せ、こぼれる涙を舌先ですくいとる。
今度は最後まで幽霊は出なかった。
「ねぇ、烈さま」
乱れた髪を撫でる男の手をとり、えり鈴は唇を押し当てた。
「んん?」
「今度のことで、ね。ぜひともお礼がしたいって、静菊姐ぇさんが」
「よせやい、礼だなんて」
「でも、気持ちだから」
かり、とえり鈴は軽く歯を立てた。
「痛っ。わかった、わかりましたっ。ありがたくいただきます」
ふと、その時。
烈刀の頭に閃くものがあった。
「そうだ……一つだけ、静菊姐ぇさんに、頼みてぇ事があるんだが」
(六)
「雪! 今帰ったぞ」
「小父さんっ」
小さな、熱い体がとすんっと飛びついてきた。
「おっとっと……」
雪手丸の肩が震えている。見ると、烈刀の胸の顔をうずめ、声を殺して泣いていた。
「……すまん」
ぱたぱたと左手で背中をなでつつ、一方でそろっと右手に抱えたものを板の間の上に置く。
「雪」
つん、と頬をつつく。雪手丸は顔をあげ、首をかしげた。
「そら。見てみな」
指差す方に目をやった、途端に雪手丸の顔がぱっと明るくなる。
「わぁ!」
丸いギヤマンの鉢の中、赤い金魚が二匹並んでゆらゆらとゆれていた。
「楽しそうだね」
「ああ。楽しそうだ」
(了) |
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