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『ぼくらは明日のネジを巻く』
 by 時野つばき 2002年作成四百字詰め原稿用紙換算枚数= 100枚



 その日、時計塔の鐘が十三回鳴りました。
 
 その瞬間、私が今までしてきた事、これからするはずだった事、必ず来ると信じていた明日。
 全て消えてしまいました。
 全て崩れてしまいました。

 意識の消えるまぎわ。
 私が私であることを止め、無明の闇に飲まれる寸前に、残ったのはただ一つ……。
 たった一人の面影だったのです。

  ※  ※  ※

(1)出会

 耳もとを飛び去る風が、ペダルを踏むたび、ぐんぐん早さを増してゆく。
 時計通りの交叉点、塔都記念広場の街灯の、右から二番目、左から三番目。
 いつもの場所の寸前で、ブレーキ踏んで急停車。
 きぃーっ!
 たちどころにタイヤが金切り声をあげる。(そろそろメンテの時期かな)
 やや遅れて石畳の上、車体が踊り、荷台にくくりつけた新聞の束がはねあがる。刷りたてのインクのにおいが、ひときわ強く立ちのぼった。
「まーたお前ぇか、ミナト!」
 花屋の屋台のじっちゃんが、眉にしわ寄せ渋い顔。
「カンベンしてくれよ、いつ、こっちに突っ込んでくるか心配で、こちとら毎日冷や汗もんだ! おちおち商売もできゃしねえ」
「ごめんよ、じっちゃん、号外なんだ」
「また、妙な泥棒どもでも出たかね」
「違うって。そんなんじゃないよ。ほんっとにほんと、も、世紀の大発見なんだ」
「ふん、またかね」
 軽口叩くかたわらで、僕は自転車から滑り降り、ちゃっちゃと新聞をほどいて肩から下げた。
「百年祭が近くなってこっち、何度目の世紀の大ニュース、何十回目の世紀の大発見だ? いい加減、聞き飽きたよ」
「そら、お互いずーっとここで売ってるからねえ……」
「だいたい百年目の節目がなんだってんだ? これまで何度もあった事じゃあないか」  
「今年は特別なんだよ、じっちゃん。何てったって二千年目の節目だもん」
 ずっしり重たい客寄せ用の、ハンドベルを振り上げる。
 じっちゃんは首をすくめて耳をふさいだ。
 この、振り降ろす直前のわくわくがたまんないんだよね……。

 かららん、がららん、ぐわがらららららん。

 ドスの利いた低音の、さりとてにごりのない澄んだ音が鳴り響く。
「号外、号外、ごうがぁい!」
 がらんっと仕上げにもう一振り。
「大発見だよ。世紀の大ニュース! ドラゴン、ドラゴン、ドラゴンだ。ついに真竜が復活したよ! それもただの竜じゃない、正真正銘の千年ドラゴンだ!」
 道行く人が足を止め、一斉にこっちを振り返る。
「さてお立ち会い、御用とお急ぎでない方はとくとご覧あれ。見て損なし、聞いて損なし、買ってくれれば、おいらに損なし! みなさまよっくご存じの通り、塔都の生活を支えているものは、一にも二にもぜんまいだ。灯りも車も伝話機も、ぜんまいなければ、どもならん」
 まばらにもれる忍び笑い。ま、つかみはこんなもんだろう。
「数あるぜんまい、その中で、上質なものと言ったら何と言ってもクジラのヒゲぜんまいだ。ねばり、しなやかさ、耐久度、どれをとっても合成樹脂など足元にもおよばない」
 その通りっ、と間の手が上がる。しめたぞ、客もだんだんノってきた。
「クジラヒゲよりさらに上質なのが竜のヒゲ。ひとまきすれば百年は、狂いもなしに動き続けると言う、伝説級のぜんまいだ。しかし、既に真の竜が絶滅してから百年余。竜のヒゲなるぜんまいと、はっきりしてるは塔都のシンボル、千年塔の大時計ぐらいなもの」
 がらんっと景気付けにもう一振りベルを鳴らす。
「この大時計のぜんまいの、たった一本のヒゲから竜が生まれたってんだから驚きだ!」
「……ほんとかね、お若いの」
 ちらっと花屋のじっちゃんを見れば、ぽかん、と口を開けている。
「マジもマジ、マジ、大マジだ。先を知りたきゃ買っとくれ。塔都日報は嘘はつかない!」
 花屋のじっちゃんは、ごそっとポケットをまさぐると、歯車形の銀貨を二枚、穴開き銅貨を一枚突き出した。
「一部、くれ」
 効果抜群。
 これを合図にどっと人だかりが押し寄せてきた。
「毎度あり! 号外、号外、号外だ!」
 
 おそるべし、ドラゴン効果。
「いやあ、完売、完売……」
 目一杯積んで来た号外が、ああっと言う間に売り切れた。
「どさまぎでこっちも売れたよ……」
「なんで新聞と花束、いっしょに買っちゃうのかなあ……」
「そりゃあ、花の名前のせいだろう」
「何て花なの?」
「何だ、知らなかったのか」
 じっちゃんは星の形をした花をきゅっきゅっとまとめてちっちゃな花束を造り上げた。青に一滴紫を加えたような、りん、とした花だ。
「リンドウ、ってんだよ」
「リンドウ」
「そうとも。竜の胆、と書いて竜胆と言うのさ」
「へーえ……苦そうな名前だね」
「相変わらず食うことばっかり考えとるのー」
「食べ盛りだからー」
 できあがった花束を二枚に重ねた薄紙でくるくる包む。内側に白、外側にピンク。合わせ目をわずかにずらして二色をそろえ、仕上げに花と同じ色のリボンを結ぶ。相変わらず、いい仕事してるね。
「ほれ」
「へ? 僕?」
「残りもんだけどな」
「気持ちはうれしいんだけど、さ。男が花、もらってもなぁ……」
「だったら彼女にでもあげりゃあいいじゃねえか」
「……いればねえ」
 じっちゃんは無言で僕の右手に花束をにぎらせると、ぽんぽんと背中を叩いた。
 夕刻の風がやけに冷たく身に染みた。
 鐘が鳴る。
 西の空は茜色、東の空は既に薄紫。昼は足早に歩み去り、夜はひっそり忍び寄る。
 まず初めに広場の中央、頭上はるかな千年塔の大時計。続いて街のあちこちで。
 呼び合い、響きあい、幾重にも折り重なる鐘の音の真ん中に……

 彼女がいた。

 白いドレスを赤々と夕陽に染めて。
 見たとこ年は十三か十四、おそらく僕といくらも変わるまい。(もっとも今日びの女の子って大人びて見えるから……いまいち確証が持てないんだよね)おかっぱに切りそろえた髪の毛の、耳元をひとふさ、青いリボンでくくっているのが目を引いた。
 深い青に一滴、紫を混ぜたような。竜胆の花によく似た色だった。
 僕は迷わず彼女に歩み寄り、手にした花束を差し出した。
「あげるよ」
 少女はゆっくりまばたきをし、頭をめぐらせ、それからもう一度まばたきをして……やっと僕を見た。
「その、この花、僕より君のが似合うから」
 ああ。何言ってんだか。もーちょっと気の利いたセリフは出ないのか、自分。
「もう、会えないかと思った」
 きれいな声。ちょっと、低いけど、よく響く。合唱のパートで言えばアルトってところか。
「みなと、くん」
 一度聞いたら忘れまい。いつでも。どんな人ごみの中ででも。って……ちょっと待て。もしかして、今、僕の事呼んだ?
「南登くん」
 あ、やっぱり。
「はい?」
「あいたかった」
 次の瞬間。
 彼女は僕の腕の中、んでもって僕は彼女の腕の中にいた。
「え、あ、あ、あのっ?」
 かーっと顔が熱くなる。思考も理性もきれいさっぱり蒸発し、頭ん中、真っ白になった。あったかくって、やわらかくって、そのくせほっそりしていて、下手に力でも入れたらぽっきりいっちゃいそうでっ。
「も、も、もしもしっ」
 なけなしの理性さんを呼び覚ました頃には、たっぷり五分ほど経過していた。
「ひ、ひとちがいしてませんかっ」
「私、常葉ノエ」
 やっぱり知らない。人違いだっ。
「野原の野に、絵本の絵、と書いて野絵と読むの」
「へえ、風情のある名前だね……って、そうじゃなくってえっ」
「人違いじゃ、ないよ」
 彼女は、もとい、常葉野絵は僕を見上げてほほ笑んだ。毛糸にとびつく直前の、子猫みたいな顔で。
「あなたの名前は旋堂ミナト。ほんとは南に登るって書くんだけど、ミナミト、とかナントってしょっちゅう間違われるから、いつもカタカナでミナトって書いている」
 図星だ。
「ちっちゃい頃、階段から落ちて右手を折ったことがあるから、その気になれば両手で字が書けるんだよね」
 う、何故そこまで。
「ほら、ね。私、あなたのこと、よぉく知ってるんだよ」
「それはわかったからさっ。そ、そろそろ、離してもらえるとありがたいんだけどなあ……」
 夕方とは言えまだ明るい。広場の真ん中、抱き合う僕らはしっかりばっちり注目の的。
「あ、ごめんなさいっ」
 屋台の脇を抜けるとき、つん、と花屋のじっちゃんに横っ腹を軽く小突かれた。
「なかなかどうして、隅におけんのぉ」
「じっちゃん!」
 にらんだ所で敵もさるもの亀の甲より年の功、この程度じゃビクともしない。涼しい顔して
「おしあわせにな〜」
 と手〜振りやがった。野絵も野絵でにこにこしながら手を振り返し。今のうち、と、こっそり自転車にまたがると、くるっとこっちを向いてハンドルにしがみついてきた。
「あ、待って。売り上げ納めに行くんでしょ?」
「え、あ、うん、まあね」
「私も行く」
「えーっ」
「……だめ?」
 まいったね。ここでばっくれたら男じゃないよ。ほんと。
「……後ろ。乗って」
 尻尾があったら全開でふりそうな顔。わかりやすい、と言うか、何と言うか。とすん、と自転車の後ろがたわんだ。
「しっかりつかまってろよ」
 ほっそりした腕が腰のところに回されて、ぎゅっとしがみついた。
「じゃ……出発!」
 ペダルを踏む。一人で乗るのよりも、新聞積んでる時よりも、重たい。けれど、ちっとも辛いとは思わなかった。


(2)消失

 石畳の道を突っ走る。
 もとい。
 いつもは一人で今日は二人、どうしてもそのぶん遅くなる。曲がり角も慎重に。けれど、気付いたんだ。曲がる時、野絵はちゃんと僕に合わせて体を傾け、バランスをとってるってことに。
 そんなの、当たり前だろうって?
 とんでもない! 絶妙のタイミングだったんだ。あらかじめ右に曲がるか左に曲がるか、どの道を選ぶかわかってない限り、できっこないってくらいに。
 試しにわざと、一本手前で曲がってみた。
 お見事。あいかわらず、ぴったり。
「あれ、陸橋の下、行くんだ。遠回り?」
 ウソだろ?
 まさにその瞬間、僕らは陸橋下の、薄暗がりに走り込んでいた。街灯はまだともっていない。チェーンとタイヤのきしむ音が、壁に響いて四方八方から押し寄せる。ちょうどバスだかトラックでも通ったものか、ひときわでかい音がして、頭の上が雷よろしくごろごろゆれた。
 ぎゅっと、野絵の腕が強くしがみついてきた。
「大丈夫。大丈夫、だよ」
 騒音に混じり、かぼそいアルトが答える。
「うん」
 その瞬間、ややこしいこ理屈やら何やら考える前に勝手に足に力が入り。気がつくと一人の時よりずっと早く陸橋下を走り抜けていた。
 まぶしい! 
 真正面から差し込む西日を避けて、僕はとっさに左手を流れる川(と言っても、ほとんどドブ川だけど)の水面に目を走らせた。
「ん?」
 見慣れた光景の中に一瞬、異様な形が見えた。あり得ない色が見えた。目のさめるような強烈な青。大きさは猫ぐらい、けれど、尻尾や足の形があきらかに猫とは違っていた。
「何だ、あれ……」
「危ない!」
「えっ」
 あわててブレーキを握る。きぃいいいっと金切り声を上げて止まった前輪の、ものの1mも離れていない位置で真っ赤な自動車が急停車。
「気をつけろ!」
「……あ、ごめんなさい」
「どこに目ぇつけてやがる!」
 一時停止を無視したのはどっちだ、と思ったが。運転席から顔を突き出した男のごっつい腕を見て口をつぐむ。無言でもう一度頭を下げると、男はぎろりとこっちをにらみつけてから、車を出した。
「てやんでえ」
 走り去る車のぜんまいの、騒音に紛れて悪態ひとつ。
「そのうち事故るぞ」
「すぐに、そうなるよ」
 野絵の言葉が終るか終らないかのうちに、がしゃーん、と派手な音がした。
 あの車だ。
 カーブを曲がり切れず、橋の欄干に突っ込んでいる。おそるおそる背後を振り返る。顔から血の気が引いてゆくのが、自分でもわかった。
「平気よ、どうせ大した怪我、してないから」
 彼女は正しかった。ほどなく運転していた男は自力でドアを開け、はい出してきた。その勢いで、車体がぐらり。大きくかしいだと思ったら、そのまま欄干を乗り越えて……高々と水しぶきが上がる。角度がちょうどよかったんだろう。真っ赤な車はあっさり沈んでしまった。
「あーあ、残念。保険、入ってるといいね」
「君……知ってたの?」
「ひみつ」
 野絵は肩をすくめて、ぺろりとちっちゃく舌を出した。と、思ったらうってかわって真面目な顔で、じーっと僕の顔を見つめる。
 ど、どうしょう。
「よかった……今度は無事で」
「今度?」
「巻き込まれなくてよかったってこと」
「ああ……君のおかげだよ。ありがと」
 とたんに、ぱあっと顔全体が笑みくずれる。よく写真や絵にで見かけるような類いの気取った笑い方じゃない。あふれる嬉しさが、そのままストレートににじみでたような、とびっきりの笑顔だ。
「足は飛行機乗りの命だもんね」
「そうそう、一にぜんまい、二に脚力……って、何で知ってるの、僕の口グセ!」

 確かに、僕の夢は飛行機乗りになることだ。毎日、自転車を飛ばしているのもそのためだ。
 何故って? そりゃ、ぜんまい式飛行機は足でペダルを踏んでネジをまくから。
 機体を極力軽く保つため、あまり出力のでかい条力エンジンは乗せられない。だから二つのぜんまいを交互に使うのだ。
 片方を使って翼を動かし、飛んでる間中、残る一つを必死で巻く。うまく気流に乗れたら、しめたもの。やっと風を感じ、周囲をながめる余裕も出てくる訳で……。
 ってこれ、全部人から聞いたり本や雑誌で読んだ話なんだけどね。
 今んとこは、まだ。

「ひみつ」
 また、あの顔だ。お気に入りの靴下かたいっぽう、どこかに隠して知らんふりを決め込んだ子猫そっくり。
「不公平だよ……僕は君のこと、ぜんっぜん知らないのに」
「名前は野絵。常葉野絵」
「それはさっき聞いた」
「年は十三歳、好きな食べ物はあんみつと、大福と、タイヤキ!」
「甘党なのね……」
「飲み物は紅茶よりコーヒーが好き」
「へえ、じゃ僕と同じだ……って、そうじゃなくってえっ」
「あ、ミナトくんこっち、こっち」
 急に腕をつかまれ、僕は彼女のなすがまま。ふらふらと手近の建物の軒下に引っ張り込まれた。
「あのね、常葉さんっ」
「野絵って呼んで」
「話をそらすなっ」
 その途端。
 ざーっと、風呂オケをひっくり返したような大雨が降ってきた。
「……また……」
「大丈夫、すぐやむから」
 野絵の言葉は正しかった。

「雨あがりって大好き!」
 白いワンピースがはねる。できたての水たまりの間をぬって。
「空気が水晶みたいに透き通って、いいにおいがする」
「ああ、そりゃ正しいよ。空気の中のチリやゴミが」
「ぜ〜んぶ、洗い流されるからでしょ?」
 また当てられた。
「君、もしかして超能力でも、あるの?」
「別に……」
 野絵はぴたりと飛びはねるのをやめ、表情をくもらせた。
「私は、ただ」
 風が吹く。きぃんと冷えた、雨の名残りの湿り気をたっぷり含んだ風。花束のリボンと彼女のリボン。ゆれてたなびく二本のリボンは、よく似ていた。
 いや、そっくりだ。どっちがどっちかわかりゃしない。
 色といい、光沢のある、やわらかな布地といい、瓜二つのリボンがからみあい、先っぽが触れた。

 その瞬間!

 ぱきぃっとガラスの割れたような音がして、文字どおりリボンがくだけて飛び散った!
 ふわり、と支えをなくした野絵の髪がなびく。消えたのは、耳もとの一房をくくっていたリボンの方だったのだ。
「だ……大丈夫?」
「わ、わたし」
 野絵はリボンの色より真っ青になり、くるりと背を向け走り出した。
「あ、待って!」
 白いワンピースの胸元から、ピンクに光る何かが飛び出し、カツーンと路面に当たって弾んだ。
 ちらりと文字盤らしきものが見える。……時計?
 しまった。
 そっちに気をとられた一瞬のうちに、野絵の姿は消えていた。あわてて走り出し、めぼしい路地や角をのぞいてみたが、陰も形もありゃしない。
「足、早いなあ……」
 そんなことに感心してる場合じゃないだろう。
 頭をかきかき、自転車の所まで戻ると、つま先にコツっと何やら堅いものが当たった。拾い上げると、やっぱり。時計だった。可愛い、ピンクのチェーンウォッチ。リボンのくだけたあの時に、鎖が切れて落ちたのだろう。
 白く、丸い文字盤に一から十二の数字、下半分に月齢を現わす青い歯車。ムーンフェイズと言うやつだ。長針、短針、秒針の他に四本目の針が、文字盤の最も外側の三十一の目盛りをさしている。すごいや。日付けも表示する仕掛けになってる。
「よくできてるなあ……こんなにちっちゃいのに」
 しかし、残念ながら秒針はぴくりとも動かない。止まっていた。ぴったり、四時。しかし、日付けがずれている。
「……月齢二十、十月八日?」
 かっきり三日間、進んでいる。
「いったい、どぉゆうコト?」


(3)幻視

 その夜。
 僕はピンクのチェーンウォッチを家に持ち帰り、調べてみた。
 気になることばかりだ。明らかに常葉野絵は、何が起きるか、あらかじめ全て知っていた。僕のこともよく知っていた。
 小さなネジを一つ一つゆるめ、裏ぶたを開ける。
 手がふるえた。今、彼女の手がかりとなるのは唯一、この時計だけなのだ。
 えい、情けない。しっかりしろ。
「っかし〜なあ」
 ぜんまいも、器械も、どこも異常はなし。だのに、止まっている。三日後の日付けと月齢を指したまま。
「なーんで、動かないかなあ」
 机の上にそろりと組み直した時計を置く。隣に自分の懐中時計を並べてみる。
 ひとまわり、差があった。
「やっぱし女の子の時計だよな……ちっちゃいし。可愛いし……」
 ふたを開き、時間を確かめる。ちょうど夜中の十二時だった。銀細工の文字盤の上で、長針と短針が山羊座のマークの位置でぴったり重なっている。
「残り、二日かあ……ん?」
 その時、気付いた。

 カタカタカタカ。カタカタカタ。

 ぜんまい仕掛けの駆動音とは別に、もう一つの音が聞こえることに。しかも、だんだん大きく、激しくなっている。
「何だ?」
 時計だ!
 僕の時計と、彼女の時計がゆれている。まるでフライパンに放り込んだマメみたいに弾けて、はねたその拍子に、ピンクの時計が机の縁から飛び出した。
 とっさに手を伸ばし、受け止めた。ひやりと丸い感触が手のひらに触れたその瞬間。
 目の前がぐんにゃりひん曲がった。
「うわ、やばっ」
 あわてて耳をふさごうとしたが遅かった。

 カタカタカタカタカタ……。
 きいくる、かたかた、かた、かたた。
 きぃきぃ、みしり。きぃ、がたり。

 目に見える物がねじれて、ゆがんで、分解してゆく。
 逆に歯車の音が。ぜんまいのほどける音ばかりが次第に鮮明になってゆく。深い、水の中に飛びこんだように耳の奥がつきゅーん、と引きつる。重なりあい、響きあう音が最高潮に達したと思ったら……。
 ぐるりと視覚と聴覚がひっくり返り、僕は『音』を『見て』いた。
 空。
 青い。
 雲ひとつない。
 耳で聞こえる『音』が、目に見える『もの』と完全に入れ代わってしまった。
 妙な気分がした。ばらばらに分解された音が、次第に一つの映像に組み上げられてゆく。確かに色も形もあるのに、僕はそれを『耳』で感じている。
 青い空を背景に、くっきり浮かび上がる巨大な八角形の建物。とがった屋根が天高くそそり立ち、東西南北を向く四つの壁が、それぞれ時計になっている。時刻は四時きっかり。
 待てよ。この景色、見覚えがあるぞ。
「これ、千年塔の大時計じゃないか!」
 思わず叫んだ自分の声は、ジグザグの青い光となって目の前の(いや耳の前の?)幻像をゆさぶった。あわてて口をつぐむ。
 視界がゆれる。
 突然、空が真っ黒に埋め尽くされた。雲? 違う。あれは……。群れだ。
 何やら得体の知れない真っ黒な群れが飛んでくる。すさまじい数だ。水の上にゴマでもまき散らしたよう。ひと粒ひと粒が勝手にぎゃあぎゃあわめきながら飛び回り、ちっともじっとしてやしない。鳥にしちゃあ妙な飛び方だ。羽毛の翼じゃない。皮の膜で飛んでいる。
 コウモリだろうか。
 そう思った瞬間。僕の貧弱な想像力をあざ笑うかのように、真っ黒な群れは密集し、合体し、一つの巨大な形を造り上げた。
 長い首。広がる皮膜の翼。背を走るトゲの列、頭部より伸びる一対の角。がっと真紅の両目が開く。

「ドラゴン!」

 漆黒の竜が、鷲掴みに時計塔を捕らえ、吼えた。

 鐘が鳴る。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。まだ止まらない。
 鐘が鳴る。
 いつつ、むっつ、ななつ、やっつ。
 ひとつ鳴るごとに、ぐらぐらと幻像そのものがきしんでゆれる。
 鐘が鳴る。
 ここのつ、とお、じゅういち、じゅうに。
 そして、十三。
 
 十三?

 その時、世界が悲鳴を挙げ、崩れた。
 あとかたもなく、さらさらと。さながら波打ち際の砂の城……。

 手の中に冷たく丸い感触。
 耳障りな、荒い息の音に我に返る。どっ、どっ、と、押し出される血液が、こめかみの内側で暴れている。
「あ……戻ってきたんだ」
 声を出しても光は見えない。幻像は終ったのだ。
 僕は手を開き、ピンクの時計を見下ろした。つややかな金属の表面が、手のひらの熱気で白くくもる。
 夢なんかじゃない。ぜったいに。今、この手が熱いのと同じくらいに確かな事だ。
 あれはおそらくこの時計に焼き付いた記憶。実際に起こった出来事。
 あるいは。


(4)再会

 午後四時かっきり。
「来るかなぁ……」
 銀色の懐中時計を見ても、大時計を見上げても、ちっとも時間が進みゃしない。
「来るかなぁ……」
 時計通りの交叉点、塔都記念広場の街灯の、右から二番目、左から三番目。はっきり見えた訳じゃない。でも、確かにここなんだ。あの時、音の幻像に写っていたのは。 
 もう一度、塔を見上げる。一瞬、黒い影がよぎる。
 まさか!
「おーい、大丈夫かー」
 はっと気付けば何のことない。花屋のじっちゃんが目の前で手ー振っていやがった。
「しっかりせー、ミナ坊ー」
「だあっ、その呼び方、やめいっ」
「やーっと聞こえたか」
「もう、子供じゃないんだかんね」
「来たぞ。カノジョ」
「えっ」
 じっちゃんの指差すその先に、彼女がいた。
「野絵さんっ」
 ポケットをまさぐりつつ、ひとっとびに駆け寄る背後でじっちゃんがぼそりとつぶやいた。
「ゲンキンなやっちゃのー」
 ほっとけ。
 
 耳もとにひるがえる青いリボン。一滴紫を加えた、竜胆の青。
 まちがいない。花束のリボンだ。昨日、僕が渡したリボンだ。
「えっと……これ」
 ポケットから取り出したのはピンクのチェーンウォッチ。何十回もくり返し練習したセリフを、どうにかこうにかつなぎ合わせる。
「その、鎖、切れたままじゃ、あんまりだから」
 野絵の目が、まんまるに見開かれる。
「ありあわせで、悪いんだけど、さ」
 切れた鎖の代わりに、組みヒモをつけてみた。色は藤色と淡い象牙色。
「これなら、その、時計の色にも、合うと思って……」
 おずおずと伸ばした手のひらに、ぽとりと時計を落す。野絵は両の手のひらで時計を包み込み、うっとりと見入っていた。
「ありがとう」
 はにかむような笑顔。
 あたたかく、甘い波が、じんわりと僕の中を満たしてゆく。
 温めたミルクに砂糖とコーヒーをひとさじ溶かしたような。
「うれしいよ、ミナトくん」
 こんちくしょうめ。
 夕べ見たアレが何だろうと、彼女がどこの誰だろうとかまうもんか。
「その時計、止まってるね。月齢二十、十月八日。今日からかっきり、二日後の『今』で」
 もう、迷わないぞ。
「昨日、調べてみた。ぜんまいはもちろん、歯車の一つ、ネジの一本にいたるまで、寸分の狂いもなかった。だのに、止まってる。未来の日付け、未来の月齢で!」
 野絵の顔が強ばる。後じさろうとするのを、手をとり、引き止める。僕の指と彼女の指が触れあう。しっとり汗ばみ、どちらも同じくらい熱かった。
「教えてくれ。君はいったいTどこUから。いや」
 ぎゅっと強く握る。気を抜くと、たちどころに指の間をすりぬけてしまいそうで不安になる。
「TいつUから来たんだ?」
 野絵ははげしくかぶりを振った。
「言えない!」
「どうして!」
「きっと信じてくれないもの」
「信じるさ!」
 一瞬、彼女の肩が、びくりと震えた。
 僕はひたすら待った。握った手を離さずに。野絵はずっとうつむいたまま。
 どれほど時間が経過したろう。
 やがて、そろりとためらいがちに、華奢な指先が握り返してきた。

  ※  ※  ※

 私、ミナトくんのこと、毎日、見てたんだよ。遠くから見てるだけだったんだけどね。
 あの日。私、あなたを探して広場に来たの。今日こそ声かけるぞって、どきどきしてた。でも、いなかった。
「ああ、明日は休みだから。この場所、お祭りで使うし」
 そうだったんだ。馬鹿みたい。一人で盛り上がっちゃって。
 それでもあきらめられなくて、あなたを探してたら……
「ドラゴンが、来たんだね」
 そう。
 空が真っ黒になった。
「時計塔を捕まえて」
 吼えたわ。すごい声だった。
 だけど、その後の鐘の音のほうが、ずっと怖かった。

 十三回目の鐘が鳴った時、ね。
 
 ごおおん、だったかな。
 それとも、ぐよおおおん。
 もしかしたら、がろぉおおおん、だったかも知れない。
 とにかく、その瞬間、私が今までしてきた事。
 これからするはずだった事。
 来ると信じていた明日。

 時。
 空。
 音。
 におい。
 形。
 色。

 全て消えた。
 全て崩れた。

 波打ち際の砂の城よりもはかなく、あとかたもなく。
 あんまり静かで、あんまり素早かったから、気付いた時にはもう、私、半分崩れていた。
 意識の消える直前。
 私が私であることを止め、無明の闇に飲まれる寸前に、残ったのはただ一つ。
 家族のことじゃ、なかった。
 欲しかった赤い靴。おろしたての白いワンピース。家に残してきた子猫のチコのことでもなかったの。
 風を切って走る背中。日の光に透けてたなびく髪。もぎたてのオレンジよりもまぶしい笑顔。
 ただ一つ、あなたの事だけ。

 私、あなたにもう一度会いたかったの……。

  ※  ※  ※

「そして、君はここに来た」
「そうだよ。時間を飛び越えて」
「二日先の未来から」
「黒い竜の吼えた瞬間から」
「そして、十三の鐘が鳴り」
「形のあるもの、ないもの、見えるもの、見えないもの。全てが消える」
「全てが崩れる」
「あとかたもなく」
「……よし、決めた。止めよう!」
「何を?」
「竜の出現、世界の消滅、時間の崩壊。何て呼べばいいか、正直よくわかんないけど……」
「そんな。無茶だよ!」
「やってみなくちゃ、わかんないじゃない」
「無理だよ。できるはず、ないよ。過去を変えるなんて!」
「君にとっては、もう起こった事かも知れない。だけど、僕にとっては未来なんだ」
「確かに……そうなんだけど」
「信じて。まだ、起きてない事なら、変えられる。いや、変えてみせる! 絶対に」
「ごーいんだなあ、ミナトくんって」
「あきれた?」
「ううん。もっと、好きになった」
 思考停止。脈拍増加、体温上昇。
 そして、赤面。
「じゃあ……行くよ」


(5)侵入

「もう、信じらんない!」
「し、静かに」
 きち、きちち、きち。
 最後にもう一度、携帯型振動式水晶灯……ひらべったく言っちまえば懐中振灯のぜんまいを巻き上げる。
 辺りの気配をうかがう。人影はなし。懐中振灯の白い光はもちろん、ぜんまいの音も、足音も聞こえない。スイッチを入れる。やっと手のひらに乗るほどの四角い箱がかすかにうなり、内部に仕込まれたぜんまい仕掛けのハンマーが、まばたきよりも早く……と言うとさすがに眉ツバだけど、とんでもない早さで発光水晶を叩き始める。その名の通りこの貴重な結晶は、一定の振動を与えられると光を発する性質があるのだ。
 絞りを小さく開けると、わずかな黄色を帯びた光がうっすらと行く手の闇を照らした。
 真っ暗やみの、しかも見知らぬ建物の中を歩くにはいささか、いや、かなり心細い。けれど、ぜんまいの出力が強くなればなるほど、必然的に音も大きくなっちまう。
 手近の窓に忍び寄り、取り出しましたる十徳ナイフ。見かけはちっぽけだがついてる刃は特別製。ぺたりと吸盤張り付けて、すっと引きゃガラスもあっさり泣き別れ。
「これじゃ、泥棒じゃないっ」
「失礼な。人をまるで犯罪者みたいに……」
「立派な不法侵入じゃないの」
「とんでもない」
 ぽっかり開いた穴に手を入れて、お後はカギを開けるだけ。
「黙って入るだけだ」
「同じだってばーっ」
「しぃっ」
「……ごめん」
 長い、がらんとした廊下を歩く。一足ごとに床がきしみ、ため息の音さえ、やけに大きく聞こえた。
「夜の学校って静かだな」
「昼間、来たことがあるの?」
「まさか。大学だよ? ここ」
 同じようなドア、同じような廊下が延々と続く。一つ一つ、明かりで照らして表札を確かめる。
 外れ。
 違う。
 スカ。
 なかなか目当ての研究室が見つからない。
「あの、さ、ミナトくん」
「ん、なぁに?」
「どうして、いきなり、大学の研究室なんかに?」
「それはだね」
 ごそっと胸ポケットから新聞の切り抜きを引っ張り出す。昨日の号外から切り取ったやつだ。
「野生の真竜なんて、百年も昔に絶滅してる。今、世界中でドラゴンが確実に存在する場所といったらただ一つ、ここだけなんだ」
 僕は紙面にでかでかと印刷された活字を指でなぞってみせた。
『塔都大学研究班、ヒゲの細胞から真竜を再生!』
「……まさか、折り目の向こうにちっちゃく『か?』なんて書いてないよね」
「三流ゴシップ新聞と一緒にしなさんな。塔都日報はウソをつかない!」
「ごめんなさい、疑ったりして」
「たまに、間違える事はあるけどね」
「ミ〜ナ〜トく〜んっ」
「あった、ここだ!」
 懐中振灯の明かりに浮かび上がる、ごっつい木の表札。堂々たる毛筆で『真竜再生研室』と書かれている。くすんだ褐色の表面はピカピカにすり減って木目が浮き出ていた。まるで剣術道場の看板だ。
「明かり、持ってて」
「うん」
 再び十徳ナイフにお出まし願う。ねじれたワイヤーをこきこきと調節して鍵穴に差し込み、つつき回す。五秒もしないうちにカチャリ、とシリンダーの外れる音がした。
「うわ、チャチな鍵使ってるなあ」
 ノブを回し、ドアを開ける。極力静かに、この上もなく慎重に。
「もっと、時間食うと思ったんだけど」
「どこで覚えたの?」
「……ひみつ」
 小首をかしげてぺろりと舌を出すと、野絵はぷいっと背を向けた。
「ごめん……怒った?」
 肩が震えてる。
「ぷっ、くくくっ」
 もしかして。
「笑って、る?」
「だって。ミナトくんってば気楽すぎー!」
「そう、かな」
「不法侵入してるくせに……」
「だから黙って入ってるだけだってば」
 小声でひそひそ漫才しながらドアををくぐり抜ける。もわあっとなまあったかい空気が押し寄せてきた。
 こりゃたまらん。
 薬品の刺激臭と生ぐさいのが入り混じり、病院と動物園が一緒になったような強烈なにおいが鼻の奥まで突き抜ける。
「あ、そこ、気をつけて」
 作業台の上に所せましとビーカー、フラスコ、試験管……ガラスの実験器具が並んでいる。懐中振灯の明かりにちかっと壁面が光った。
 こぽこぽと、液体の泡立つ音がする。
「水槽?」
 どうやら、壁ぞいの棚は全て巨大な水槽で埋め尽くされているようだ。部屋が二回りほど小さくなっている。
「ずいぶんあるなあ……」
 何気なく、手近の水槽に明かりを向けた瞬間。僕らはまったく同じ言葉をつぶやいていた。
「ドラゴンだ……」
「ドラゴンだ……」
 透明な膜に包まれて、体をくるりと丸めて浮かんでいたのは、他でもない。
 長い首、背筋に並んだトゲ、折りたたまれた皮膜の翼。全身、漆黒の鱗に覆われたそいつの姿には見覚えがあった。
「これ、だね」
「うん、間違いない」
 薄いまぶたを透かしてかすかに、瞳の赤が見えた。
「あのドラゴンだ」
「ちっちゃいけど、ね」
 その通り。大きさはせいぜい手のひらをいっぱいに広げた程度、でかいカエルぐらいってとこか。(ウシガエルとかヒキガエルとか)
 ノドがからからにひからびる。
 百年も前に滅びた伝説の動物が今、目の前にいる。
 好奇心に勝てず、僕はそろりと手を水槽の中に入れた。
 なまぬるい液体が、ねっとり指にからみつく。
「ミナトくん!」
「大丈夫、大丈夫だって」
 保証はないけど。(これは秘密)
 指先が触れる。ちっぽけなドラゴンを包む、透明な膜に。
「うわ」
 表面は弾力があって、ぷるん、と僕の指を弾いた。
「なんか……両生類の卵みたいだ」
「リョウセイルイ?」
「うん。サンショウウオとか、カエル、とか、あんな感じ」
「触ったこと、あるんだ」
「試してみる?」
 野絵はだまって首を横に振った。
 その時、ぬるん、とまた別の感触が指に触った。背筋が縮む。どうやら、浮かんでいるのは一匹だけじゃなさそうだ。
「まさか……」
 あわてて手を抜き出し、懐中振灯の絞りを一杯に開けてみた。
 一気に広がった光の輪の中に、浮かび上がったのは壁面を埋め尽くす一面の水槽。
 そして、膜に包まれ、ぷかぷか漂う竜、竜、竜。
「すげえっ」
 何十、何百、いや何千匹もの、小さなドラゴン。鱗の色は一匹残らず真っ黒。おそらく瞳は赤いだろう。ガラス戸越しにちらりとのぞいた隣の部屋も、どうやら似たような水槽で埋まっているようだ。
「これ、全部、たった一本のヒゲから?」
 じっとりと、冷たい汗がにじむ。手のひらに、額に。
「限度ってもんを知らんのか……」
 にぎった拳でぞんざいに額の汗をぬぐう。
 しっかりしろよ、旋堂ミナト。お前、世界の破滅を止めに来たんだろ!(……野絵を救うついでに、だけど)
 
 がしゃーんっ!

 沈黙引き裂く破裂の音。振り向く視界の片隅でビーカーやら試験管がまとめてひと山床に落ち、粉々にくだけるのが見えた。
「あっちゃあ……」
「ご、ごめんなさい、うっかりして」

 かつかつかつかつかつっ!

 さすがに今の音に気付いたらしい。警備員とおぼしき足音が近付いてきた。
「早く!」
 明かりを絞ると、僕は野絵を引っ張って廊下に飛び出した。

 かつかつ、かつかつかつ!

 堅いカカトの足音が追ってくる。
「賭けてもいい、ありゃ十中八九、官給品の靴だ」
「ど、どう言うこと?」
「今、追ってきてる警備員、最近までプロだった可能性が高いってことさ! 警官か、軍人か知らないけど」
 つかまったらタダじゃすまない。けれど逆に足音がはっきり聞こえるからある意味、位置がわかりやすいとも言える。

 かっかっっかっっかっっかっか……

 うわ、やばい。かなり体格いいぞ、こいつ。
 しかも、近いよ、これ。絶対、近付いてるって!
「ええと……窓から入って……まっすぐ廊下を歩いてきたんだから……ここだっ」
 間一髪、野絵を押し出し、続いて夜の闇に飛び出した。しかし敵もさるもの、きっちり追ってくる。と、言うか、数が増えている。
「急いで!」
 遅れがちな野絵を引っ張り、角を曲がる。そこの板塀に、出入りするのにおあつらえむきな穴が開いてるはずだったんだが……
「うわ」
 目の前にどおんと立ちはだかったのは強固なレンガ。猫いっぴき潜るすき間もありゃしない。
「あちゃあ……曲がり角一つ、間違えたか」

 かっ、かかかかっ、かっかかかっ。

 引き返そうにも背後から、大型水晶灯の真っ白な光が、輪を描いて迫ってくる。
「どこだ?」
「そっちに行ったぞ」
 しゃちほこばったぶっとい声。十中八九、元軍人と見た。
「うう、あんまりご対面したくないなあ」
「ね、ね、正直にごめんなさい、したら許してくれないかな。私たちまだ未成年だし。黙って入っただけなんだしっ」
「あきらめるのは、まだ早いって!」
 素早く見回す。黒光りする円が見えた。
「第一、それじゃ明日の大暴走、止めらんないだろ?」
 目をこらす。
 コンクリートで固められた地べたにへばりつく、金属の丸いフタ。
 マンホールだ!
「ふんっ」
 僕は取っ手に手をかけ、全身全霊の力をこめて引っ張りあげた。(少なくとも気持ちの上では)
 重てえ……。
「何の……これしきっ」
 ぐっと足を踏ん張り、背骨をつっぱる。
「負けて、たまるくぁあっ」
 ぞりっと、フタがわずかにもちあがる。
「どっせいっ」
 高々と持ち上げて、放り投げ……られたらかっこよかったんだけど。実際はずずっと横に引きずっただけ。それでも下に降りるには充分だった。
「こっちだ!」
「でも」
 真っ暗な穴を見て、野絵は表情をくもらせた。
「大丈夫、照らしててあげるから」
「……うん」
 ちっちゃくうなずき、彼女は恐る恐るマンホールを降りてゆく。懐中振灯の取っ手を口にくわえると、僕も続いた。途中でずりずりとフタを引き寄せる。
 間一髪、フタの閉まった直後に警備員たちが踏み込んできた。
「どこだ?」
 頭の上をくぐもった声が行き交う。
「あ、見ろ!」
「信じられん。塀をよじ登って行きやがった」
 やったね。
 降りる前にわざと、レンガに靴の泥跡、なすりつけといたんだ。すっごい初歩的なトリックだけど、うまいこと引っ掛かってくれたらしい。
「向こうに回れ!」
「急げ!」
 今のうち、今のうち……。


(6)連鎖

 縦穴を降りる。サビの浮いた、冷たく細い鉄のハシゴが唯一の手がかり足がかり。ほんの五mあるかないかの距離だったけれど、もっと、ずっと長く感じた。
 ようやく、つま先が平らな床面を探り当てた時は、冗談抜きでほっとした。ぬるぬるして、湿っていて、あたり一面によどんだ水と腐ったゴミのにおいが立ちこめていたけれど……。
「大丈夫?」
「うん……平気」
 すぐそばを下水が流れていた。不思議だ。どんなににごった汚い水でも、流れる音を聞くと心がなごむ。僕は呼吸を整え、ひとかたまりの苦い言葉を舌の上に押し上げた。
「野絵、さん」
「なぁに?」
 口に出すのがつらい。けれど、言わない訳にはいかない。
「君、わざとやったろ」
「何のこと?」
「わざと派手な音を立てて、警備員を呼び寄せたろ」
「うそよ、わ、わたし、そんなこと」
「見たんだ」
「えっ」
 きついな。
 暗がりに慣れた目には、彼女の顔がくしゃりとゆがむのさえ判ってしまう。
「君の姿。水槽のガラスに写ってた。ちゃんと手の動きを視線で追っていた。うっかり引っ掛けたんじゃない。ビーカーも、フラスコも、試験管も、君が自分の意志で払い落したんだ」
 震える両腕で野絵は耳をおさえた。
「どうしてさ。野絵さん、どうしてあんな事したの!」
 にぎった拳を荒々しく打ちおろし、彼女はバネのように半身を跳ねあげ、僕をにらみつけた。
「あなたに会えなくなるからよ!」
 青いリボンがぴしゃり、と頬をたたく。それほど僕らは近くに居た。
「これが何度目の『今日』だと思う? 一度じゃない。二度目でもない。もう、何度くり返したか、わかりゃしない。二〇〇一年、十月六日、七日、そして八日の三日間!」
 野絵は絞り出された感情をそのままたたき付けてきた。髪を振り乱し、愛らしい顔を涙でぐしゃぐしゃに汚しながら。
「私だって、最初からあきらめてた訳じゃない! 何とか世界の崩壊を止めようとした。二人で街を逃げ出したこともあった。だけど、だめだった。いつも失敗した。どこに逃げても、何をしても、三日目には必ず竜が現れた。あいつはね、ただ声で世界を狂わせるんじゃないの。全ての時計が、全てのぜんまいが、あいつの声に応えるの。応えて、震えて、広がって……時間を壊す。水の波紋が広がるように。オペラの歌手の歌声が、薄いグラスを割るように」
「何てこった。破滅の連鎖反応か!」
「そして、私はまた三日間、後戻り……まるで回転木馬よ。同じ場所をぐるぐる回るだけ、ちっとも前に進めやしない」
「つまり、その、ナニかい? 君は閉じ込められちゃったってこと?」
 こくっと野絵はうなずいた。
「あなたが。別の三日間のあなたがって、意味だけど、言ったことあるよ。竜が吼え、世界が崩れた衝撃で、時間の流れがゆがんでしまったんだろうって」
「うん、多分、僕も同じ意見だ」
「傷のついた、レコードみたいに」
「あ、それ今言おうと思ったのに」
「私、それでも構わなかった。だって、あの事件がなければ私、あなたとこんな風に会うことはなかったもの。話して、笑って、自転車に乗って、手をつないで。あなたにもらったリボンで、髪を飾ることも……」
 彼女の腕の感触が蘇る。陸橋の下を抜けるとき、きゅうっとしがみついてきた。あたたかく、やわらかく。あんまりにか細いものだから不安になった。すぐそばにいるのに、今にも空気に溶けて消えちまいそうな気がして……。
「この三日間が永遠に続けばいいと思った。そうすれば、ずうっとミナトくんと一緒にいられる。世界が滅びてもかまわない、とさえ思った。何度滅びても、必ずまた、あなたの所に戻れるから。だけど時間の流れが元に戻ったら消えてしまう! この出会いも。この気持ちも。そんなの、イヤ」
 最後の『イヤ』は、ほとんど悲鳴に近かった。
 砕けたガラスにも似た切っ先が、深々と胸をえぐる。
「絶対に、イヤっ」
「信じて」
 何て穏やかな音。
 心臓から産み出した言葉をそのまま声に出したら、自分でもびっくりするほどやわらかく、深い声になった。
「例えここで会えなくても、僕らはまた出会う。必ず」
 僕は彼女を抱きしめた。
「君は僕の一部しか知らないじゃないか。出会って、三日間すぎたらまた最初にもどってやり直し。それじゃ、あんまりに寂しいよ」
 震える野絵の体を肉の腕で、凍える野絵の魂を言葉の腕で包み込む。
「君を救いたいんだ。閉じた輪の中から」
 体と言葉の産み出す熱が伝わるように、染み込むように、彼女と自分の距離をゼロにした。
「明日に向かう時間の中で、一緒に歩いて欲しいんだ」
 腕の中、彼女が小さく息を飲む。
「だって俺、君のこと好きだもの!」
 必死だよ。もう、一世一代の大勝負。
 もう一度言えって言われても二度とやれない。やれやしない。
 だのに、この大事な時に……
「ぶぇっくしょいっ!」
「……お大事に」
「お大事に……って、ええ?」
「え?」
 僕らは同時に見つめあった。
「私、じゃないよ」
「僕でもない」
「じゃあ、ダレ?」
「ぶぇっくしょいっ」
 まただ。かなり、近い。
 明かりを向ける。ちかっと、青い色が反射する。
「あ」
「あ、あ、ああっ?」
 ドラゴンだ。ただし、大きさは家猫程度。
「ま、まさかさっきの研究室から逃げてきたんじゃあっ」
「いや、違う、色が」
 そいつの鱗は黒じゃなかった。竜胆の花そっくりの、りん、とした青い色をしていた。
 ぱちりとまばたく瞳は金の色。口元にくるりと渦巻くヒゲ一対。とびきり綺麗なそのドラゴンは次の瞬間、へっと口をゆがめて吐き出すようにしゃべった。
「何でぇ。お前ぇら、オレが見えるんかい」
「……しゃべってるし」
「いやあ、川んとこでちらっとすれ違った時からそうじゃないか、とは思ってたんだがよ……そうか。やっぱり見えるか」
 言いながらドラゴンは前足で首の後ろをコリコリかいた。
「あ、もしかして、昨日の青い猫っ」
「んむ。あれだ」
 ちっぽけな青い竜は目を細めて首をこっちにのばしてきた。つられて二、三歩そばに寄る。野絵も一緒にそばに寄る。
 竜のヒゲが、にゅうっと前に突き出してきた。ちょうど「前へならい」をしたように。ネズミを見つけた猫そっくりだ。体よりわずかに明るい青色が細かく震える。
「むむ」
 一声うなったと思ったら、ヒゲがうにょーっと伸びた! 一気に二mほど。
「わわっ、ど、ど、どうなってんだ?」
「心配すんなって。何もとって食おうってんじゃねえからよ」
「それよか、質量保存の法則はどこいった!」
「オレを誰だと思ってるんでぇ、お若ぇの」
 竜は片目を細め、口のはしっこを吊り上げた。
「オレはドラゴンだぜ」
「そら、見ればわかりますが」
「お前ぇさんがたのひねくりだした小理屈の範疇なんぞに、大人しく縛られてる訳ゃねーだろ?」
「……そう言えば……」
「何となく、そんな気が」
「んじゃま、納得したところで改めて」
 にゅるるんっと伸びたルリ色のヒゲが、つん、つん、と僕らの体に触れる。
 子猫の鼻先でつつかれてるようで、妙にくすぐったい。
「ふうむ、なるほど」
 ぴたり、とヒゲが止まる。僕の左胸、ポケットの位置で。
「お前ぇ、そこに何入れてる?」
「あ」
 僕は銀時計をひっぱりだした。
「ほほぉ……」
 竜はなおも目を細めると、ぴたり、ぴたり、と何度もヒゲで時計の表面をなでた。
「これで合点が行ったぜ、お若ぇの」
「はぁ」
「お前ぇさん、名前は?」
「ミナトです。旋堂ミナト」
「やっぱり旋堂の家のもんか……。よっく聞きなよ、旋堂ミナト。この時計には、なあ」
「はい」
 竜はぱさりと羽ばたき、宙に浮かんだ。ものの十センチと離れていない位置で、金色の瞳が正面から僕の目をのぞきこむ。
「オレのヒゲが使われてるんだよ」
「ええっ、ってことは、この時計っ」
「本物の竜ヒゲぜんまいなのね……すっごい」
「野絵さん、はつみみ?」
「うん……はつみみ」
 いい傾向だ。今までとは違った道をたどり始めてる。
「かれこれ百年ばっかし前のことさね」
「ってことはあなた百歳?」
「うんにゃ、今年で二百と四十五だ」
「お歳の割には、ずいぶんとその、小柄でいらっしゃるよーで」
 べしっ。
「あうっ」
 何やら、やけに頑丈で細長いもので、ビシっと後ろ頭をどつかれた。
「だーっかーらぁ。人間の小理屈なんぞに縛られんなっつの。そもそもここ百年ばかり、何だって一匹のドラゴンも見つからなかったと思う?」
「そりゃ、絶滅したから」
「じゃあオレは何だ?」
「……最後の一匹」
 また、べしっと一発。目の隅にひゅうっと鞭のようにしなる青い尻尾が見えた。
 器用だなあ……。
「んーなこっちゃ旋堂の名が泣くぞ。常識に捕われなさんな。人間の作った歴史を鵜のみにするな!」
 僕のご先祖って、いったい……。
「いいか。お前ぇさんが見て、聞いて、感じている世界はな。一つの塊じゃない。薄紙みてぇな層がいくつも重なってるようにも見えれば、布みてぇに何本もの糸が網目になってるようにも見える。要は目玉のつけどころ次第なのさ。」
「うーん……奥が深い」
「で、オレらはちょいと居場所をずらしてる訳なのよ」
「居場所を、ずらす?」
「そう。例えて言うなら重ねた薄紙の、お前さんらがいるトコとは、別の一枚の上に乗かってるんだ。大きさの表示は自由自在、しかも素通しになってんのは一方通行。こっちからお前ぇさんらは見えるが、そっちからこは見えないって寸法よ」
「なるほどぉ、だからドラゴンが居なくなったように見えたんだ」
「ここんとこ百年ばっかし、いろいろ住みづらくなったからねえ……。ま、慣れてみりゃココもそれほど悪かないけどな。洞窟暮らしとさほど差がある訳でなし」
「そう言えばそうですね。真っ暗だし、湿ってるし」
「食い物にも困らん」
 ひゅうっと尻尾を伸ばすと、ドラゴンはひょいと流れてきた空き缶を拾い上げ、口の上でさかさに振った。ぽとり、と褐色の滴がたれる。……ビールだ。
「まったく、近頃の人間ときたら食い物を粗末にしやがるから……」
 んくんくと飲み干し、ひっく、とちっちゃなしゃっくり一つ。
「大助かり、だぜ」
 う〜ん、確かに上手い隠れ場所だ。いったい誰が考える? 自分の足の下に。下水道の中に竜が住んでるなんて!
「あ、もしかして。この時計のぜんまいが共鳴してるから、あなたの姿が見えるってことですか?」
「ちくしょう、もう、カラか。ああ? うむ、半分は、な」
「半分?」
「ああ、あとの半分は……」
 ぽいっと空き缶を投げ捨てると、青いドラゴンは野絵の方にヒゲを伸ばし、まぶしげに目を細めた。
 ふーう。
 淡い、薄紫の煙が鼻の穴から立ちのぼる。すっきりした中に、わずかに甘さの混じる香りが漂った。
「そっちのお嬢さん、どうやら、この時間軸のお人じゃあ、なさそうだな」
 野絵は小さくうなずいた。
「やっぱりなあ。何度時間のすき間を行き来したか知らんが、だいぶ稀薄になってるぜ」
「きはく?」
「うすくなってるって事さ。お嬢さん、あんた、近頃ふうっと気が遠くなったりしないかね?」
「時々……」
「やばいな」
「よくない、ですか」
「うむ。非常によくない。このままじゃ、水ん中に落した、ミルクみたいに薄まって……」
 竜はふわっと舞い上がり、野絵の肩に止まると、腕に尻尾をからめてバランスをとった。
「いずれ、消えちまう」
「却下だあっ」
 消える? 野絵が? 
「ぜえぇったい、不許可っ」
「ぐええっ、わかった、わかったからっ」
 はたと我に返ると、僕は両手でぎゅむっと竜の首をひっつかんでしめあげていた。あわてて放す。竜はよたよたと地面に降り立ち、ぜいぜいと荒い息をついた。
「あー苦しかった……一瞬、お花畑がちらついたぞ……」
「すみません、ついっ」
「ん、まあ、わからんでもないさ。ほれた女の一大事だもんな」
「そ、そ、そんなことっ」
 竜はつぴんっと耳を立てた。
「今さら照れるな、白々しい。さっきあれほどでかい声でわめきやがったくせによぉ」
「うっ」
 図星を刺された時ってのは人間、黙るしかない。
「ま、何があったかはおおよそ察しがつくけどな」
「だったら! 力を貸してください」
「言うねえ」
「だって、餅は餅屋と言うじゃありませんか! ドラゴンの事なら、ドラゴンに頼むのが一番だ」
「ふむ。一理ある、な。だがお若ぇの。人様にモノを頼もうってんだ。タダでって訳にはいかないぜ」
「あなたドラゴンでしょ」
「細けぇ事は気にすんなって。先祖が泣くぜ?」
 ご先祖っていったい……。
「も、もちろん、何でもします。僕にできることなら、何でも。野絵さんを救うためなら!」
「おいおい、世界は後回しかい」
「あ、忘れてた……」
「ま、正直なのはいいこった。気に入ったぜ」
 青いドラゴンは片目をつぶってウィンクした。ぱちっとちっぽけな火花が散った。
「ビール1ダースで手を打とうじゃないか」
「ほ、本当ですかっ。ありがとうっ」
「ぐえーっ、だから手、手、手をっ」
「すみません、ついっ」
 げほげほっとしばしせきこんでから、ドラゴンは背筋をしゃきっと伸ばして前足を差し出した。
「ま、そう言うこったから、よろしく頼まぁ、旋堂の」
 握ると思ったより温かく、鱗の手触りもすべすべとしてなめらかだった。
「オレの事ぁリンドって呼んでくれ」
「リンド?」
「そう、竜胆の花みてえな色だから、リンド。それと、どっかの国の言葉で竜のことをリンドブルムって言うらしいんだわ」
「ああ、確かにドイツ語で飛竜のことをそう呼びます」
「そうそう、ドイツだったか。その時計の作者にもらった名前さね」
 リンドはうっとりと目を閉じて、また、鼻の穴からあの薄紫の霞みを吐き出した。
「いい女だったなあ……」
「なるほど、竜は女好きって伝説は本当だったんだ」
「いちいちまぜっかせすんじゃあねえっ」


(7)断絶

  ※  ※  ※

 よっく聞きな、お若ぇの。
「聞きますとも。できることなら全身を耳にして」
 知恵のあるなし、言葉の有無が、たかだかおつむの大きさごときに左右されると思っちゃいけねえよ。確かにオレたちドラゴンは、お前ぇさんがたに比べて頭の大きさは小せぇ。だがな、オレらにはヒゲがある。
「確か、竜のヒゲは生き物の感情のゆれを感知できる。そうでしたよね?」
 その通り。だが、それだけじゃ、ないんだなあ。
《αにしてΩ、Ωにしてα》
 こんな言葉、知ってるかい?
「いいえ」
 そっか。んじゃこれでどうだ。
《個にして全、全にして個》
「私は一人の個体である。同時に、全員でもある……ってこと、かな?」
 まあまあ、ってとこかな。満点、とは行かないが、おまけで及第としとこう。
「……どうも」
 オレたち一匹一匹の持ってる知恵なんざ、たかが知れてる。お前ぇさんらから見れば、ずうっと長い時間を生きてるように見えるかも知れんが、それでも世界の始めっから終りまでとうとうと流れる時の中から見れば、限られた一切れに過ぎん。

 だからオレたちはヒゲでつながる。

 個の持つ記憶と知識をつなげて、まぜあわせ、でっかい海をつくりあげてるのさ。
 例え個体の消滅が訪れても、海に蓄積された知識と記憶は残る。今まで地上に存在した全ての竜の知恵と、意識と、思い出が練りあわさってできた歌の海。オレたちはヒゲを通じて、いつでも好きな時につながり、好きなだけの知恵と思い出を自分の中にとりこみ、吐き出すことができるんだ。
 人間の間にも、確か似たような考えがあるんじゃなかったっけかな?
「ありますよ。集合無意識とか、共有幻想とか。大いなるつながり、グレート・リンクって呼び方もあったな」
 グレート・リンクか。いいね。それが一番、近い。大いなるつながり。うん、いいカンジだ。
 
 残念ながら、オレたちゃ生まれながらにグレート・リンクとつながる方法を知ってる訳じゃあない。赤ん坊のうちは自分のおつむの中の知恵と意識でどうにかこうにかやりくりできるんだが、大きくなると、だんだんそうも行かなくなってくる。
 自分の中に存在する、とんでもない力。荒々しい本能。何でもぶちこわせる。何でも飲み込める力をどうやって扱えばいいのか、判らなくなる。そんな時は、ひどく不安で、イライラするもんだ。
 そうとも。ドラゴンの持つ力はとてつもなく大きくて、強い。単に体の生み出す目に見える力だけじゃない。もう、気付いてるとは思うが……。自分の体の構造を組み換えて、簡単に時間と空間のすき間に隠れることができるこの力を、荒れ狂う感情のまま、外側に向けて吐き出したら、どうなる?
「恐ろしいことに、なるわ。世界が崩れる。あとかたもなく」
 ああ。一万年も生きた竜なら、くしゃみ一つで世界を吹き飛ばすこともできるだろうよ。
「なんか間抜けだなあ……」
 そうならないよう、みっちり学ばにゃいかんのさ。ドラゴンの子供が育つ時は、必ずそばに親がいる。何らかの事情で親が死んだ時でも、かならず大人がそばにいる。力をもてあます年頃になる前に、子供のドラゴンは大人からグレート・リンクにつながるやり方を教わるんだ。
「でも、あの竜は……。実験室の中の竜は、一人ぼっちだ」
「あんなにたくさんいるのに?」
「だって、あれは元は全部一本のヒゲから生まれたんだろ? 全部、自分なんだ。いくつもの、ちっぽけな体に別れてるけど、たった一匹の竜なんだ」
 ぞっとする話だな。
 体だけは一人前。だのにグレート・リンクの声は聞こえない。
「感情、情熱、情動、そして力だけなんだ。機体はある。大出力の、最新式の条力エンジンもある。だけど操縦桿がない。パイロットもいない。空に浮かぶ事はできる。でも、どこまですっ飛んでくかは誰にもわからない。止められない」
 えらく限定的な例えだが……まあ、早い話がそう言うことだよな、うん。
「なんとかして、つなげないと。黒い竜を、グレート・リンクに戻さないと!」
「でも、どうやって?」
「それは……これから考える」
 よし、言い心がけだ。では耳を貸したまえ。
「後で返してくださいよ」
 カビの生えたネタかましやがって。余裕だねえ。いいか。これからぢっくり年長者の知恵を伝授してやらあ。だけど、それをどう使うか、考えるのはお前さん次第だ。OK?
「ええ。もちろん。望むところだ!」

  ※  ※  ※

 ぽかーんっと口をあけたまま、リンドはしばらく凍っていた。
「と、言うわけです。OK?」
 与えられた『年長者の知恵』をじっくりかみくだいて飲み込んで、さんざん反すうした挙げ句に考えた作戦を一通り説明し終えた所なんだけど……。野絵まで同じ顔して止まってるし。
「もしもーし」
「なんと言うか。大胆と言うか、すっごい無茶苦茶つーか」
「自分でも、無謀だなーって思います。だけど他に思い付かなかったんだからしょーがない」
「だがなあ。失敗したら、お前ぇ、消えるぞ」
「あ、やっぱり?」
「そら至近距離だからなあ」
「うーむ」
「怖いか?」
 にまあっとリンドは口のはしっこを吊り上げた。
「とぉんでもない」
 つられて僕も、にんまり。
「燃えるね。ますます」
「よし、決まりだな」
 ばしっと尻尾で背をたたかれた。
「ねえ、リンドさん」
「何だい、お嬢さん」
 あっきれた、ころっと態度が変わってるよ!
「あなたに、一緒に来てもらうって言うのは、なし?」
「ん、まあ、できることなら、オレだって自分でやりたいさ。そーゆー美味しい役回りはな。だがね」
 リンドは翼を広げて野絵の肩を優しく包み、耳もとに口を寄せた。
 ええい、ひっつくなと言うにっ。
「千年塔の中ってーのは、時間と空間がものすごく微妙なバランスで組み合ってるんだ。何せ千年生きた竜のヒゲでできたぜんまいを使ってるから、な。あんな所で、オレがいきなり元の大きさに戻ったりしたら、おおごとだ」
 くるん、と青ルリ色の尻尾がまるまった。
「積み上げたシャンペングラスの真ん前で、関取がタップダンス踏むようなもんだぜ」
 いかん。想像してしまった。
「ぷっ」
 精一杯、むすっとした顔を持続しようと努力はしたが、いかんせん顔と腹の筋肉が、あっさり裏切った。
「くくくっ」
「ああ……やっと笑ったな」
「え?」
「それでいい。こーゆーことは、よ。肩ひじはらずに、楽しむに限らぁ」
 ぽんぽん、と続けて背中がたたかれる。
「まあ、今夜はぐっすり休んで……明日は気張れよ、相棒!」
 そう言って、リンドは前足をにぎり、親指をぐっと立てて突き出した。
「お、おう!」
 僕もつられて同じ仕種を返す。野絵もおずおずと右手を差し出してきた。ちょっとためらってから、ほっそりした親指が、ぴこっと上を向いた。
「よおし、気張るぞおっ」


(8)決行

 ぽんっ。ぽぽぽんっ、ぽんむ。

 青空に、ぽくっと弾けるちっちゃな白い煙。
「ポップコーンみたいだ……」
 溶けたバターとトウモロコシの香ばしいにおいがもう、空っぽの胃袋にしみること、しみること。たまらず、腹が鳴った。
「はい」
 にゅっと目の前にてんこ盛りになった実物がつきだされた。
「あ……僕、前にも言ってた?」
「ううん。私も、食べたいなって思ったから」
 どちらからともなく僕らは大入りの紙カップに手をつっこみ、ほおばった。あったかい。
「これだけ、まわりでいいにおいさせてたらさ」
「うん」
「ほしくなっちゃうよね」
「言えてる」
 ポップコーンにアメ細工、輪投げに風船、射的に焼そば、金魚すくい。時計広場はぐうるりと、祭りの屋台で満員だ。いつもの位置にあるのは花屋のじっちゃんぐらいなもの。
 じっちゃんの親父さんも、そのまた親父さんも、ずーっと代々、あの場所で店を出してたらしい。次の時計祭も誰かがで商売してるだろうと、いつも笑って胸を張っていた。
 次か。
 次の百年、誰もが無事に過ぎると信じて疑わない。
 百年どころか、明日さえも。いや、今日の夜さえ、来るかどうかわかりゃしないってのに……。
 銀時計をひっぱり、フタを開ける。短針は牡羊座と牡牛座の間、長針は乙女座。三時四十五分だ。
「きれい……」
「親父にもらったんだ。親父は自分のじーさんから。じーさんは自分のお袋から。この時計、代々我が家に伝わってるんだってさ」
「お父さん、今、どこに?」
「さあてねえ……実はしばらく会ってないんだ。こないだ南米の方から絵葉書きてたけど、それっきり」
「心配?」
「うんにゃ。なんっとなくあの人、そう簡単にくたばりそうにないんだよね」
 だけど今日世界が終ったら……もう、会えない。二度と。
 ずしん、と胸の奥底に、冷たく重い塊が落ちる。
 ええい。ここで弱気になってどうするよ。
 奥歯をかみしめ(力入れすぎてちと痛い)僕は時計塔を見上げた。
 竜のヒゲ成る千年ぜんまいで動き、ひと巻き百年、狂いもせずに、塔都の時を刻む時計。
 今は止まってる。
 中からはきいきい、がたぴしとひっきりなしに不規則な音が聞こえてくる。朝からノンストップで調整作業を続けているのだ。なにしろ百年に一度の大掃除。しかも塔ひとっつが丸ごと時計になってるんだから、裏ぶた開けてちょいちょいってな訳にはいかない。塔の中に足場を組んで、一日がかりの大仕事。しかしそれも間もなく終る。
 さっきから楽隊が音あわせをしている。
 フロックコートにシルクハット、礼装姿の市長もしきりとネクタイを引っ張って、今か今かと懐中時計をにらんでる。

 ぽん、ぽん、ぽんっ。

 花火があがる。ポップコーンみたいな煙を見上げ、野絵がつぶやいた。
「どうして、再生しちゃったのかな」
「何を?」
「ドラゴン。あんな、恐ろしい事が起きるって、誰もわかんなかったのかな。頭いいはずなのに」
「愚者の黄金」
「え?」
「竜のヒゲぜんまいが欲しい。すっごい研究をしたって言う、名誉が欲しい。欲しいものが優先で、とりあえず自分が崖っぷちを歩いてる事は忘れる。見ないふりして、とりあえず前に進んだんだよ。もしかしたら落ちないですむかもしれない。落ちても、途中で羽が生えて助かるかもしれない。そうやって、自分で自分にウソつきながらね」
「変なの。そんな都合のいいハナシ、ある訳ないじゃない」

 ぽん、ぽん、ぽんむっ。

 合わせて六回。調整終了の合図だ。
「もしも、竜が必要じゃなかったら。世界が花火の力で動いていたら、あんな事は、起きなかったのかな」
「どうかなあ。人間って、けっこう欲張りだからさ」
 僕らは自転車にまたがった。僕は前に、野絵は後ろに。ハンドルも、サドルも、ペダルも二つずつ。二人でこぐ、二人用の自転車だ。
「そうなったらそうなったで、また別の力を求めて無茶やって、結局同じように世界の法則をねじ曲げちゃうんじゃないかな」
「そっか……そうだよね」
 ぴたり、と楽隊の音あわせが止む。
「ま、確かなことが一つある」
「なぁに?」
「花火で動く街だろうと。蒸気で動く世界だろうと。電気仕掛けの世の中だろうと。旋堂ミナトは、決して後戻りしない」
 広場にあふれる人々の、視線が一斉に時計塔のドアに集中する。
「何があっても、必ず常葉野絵と出会うってことさ!」
「……ミナトくん」
「ん?」
「言ってて、その、はずかしくない?」
「……ちょっとね」
 自転車に乗った後でよかった。ユデダコになった顔、見られずにすむ。

 さっと指揮棒が振られる。威勢のいいファンファーレとともに、ぱっと正面のドアが開いた。つん、と鼻つくオイルのにおい。真っ黒に汚れた作業服の職人たちが、一列になって出てきた。きりりと背筋をのばし、ほこらしげに胸をはり、手んでに特大のねじ回しやスパナ、ペンチを背負って。やや遅れて、オイルや布や、その他もろもろの細かい道具を満載した一輪車が後に続く。そう、一輪車だ。こいつのために、塔の中には板の足場が張り巡らされているのだ。
 開け放たれたドアの向こうに、巨大な起動レバー。ぴかぴかにみがきあげられ、燃えるようにまぶしい。厳かに市長が歩き出す。しきつめられた赤いじゅうたんの上を。
「行くよ」
「はいっ」
 僕らは片方の足をペダルに足をかけ、ぐいっと踏み降ろした。同時にもう片方の足で地面を蹴る!
 走った。
 音がゆがみ、景色が後ろに飛ぶ。
 楽隊の間をつっきり、赤いじゅうたんの上へ。そのまま、ドアめがけてまっしぐら。
 起動レバーに手をかけたまま、市長があんぐり口を開けた。
「お先にっ」
 声の出る前に僕らは階段の昇り口。段々の上に渡された、一輪車用の板を突っ走る。
 ようやく背後でどよめきがあがった。
 ばたばたと、あわただしい足音が追ってくる。
「ビー玉弾、投下!」
「りょうかい、ビー玉弾、投下!」
 ポケットから引っ張り出した袋の中身を、ざーっとぶちまける。色とりどりのビー玉が飛び出し、弾んで散った。
「うわあっ」
「なんだこりゃあっ」
 ずざ、どざざざざざっ、がしゃん。
 派手な音。
「命中、確認!」
「よし、全速前進!」
 周囲の歯車がゆっくりと動き出した。どうやら起動レバーを押すのだけはやり遂げたらしい。
 ぎしぎし板がきしむけど、気にしてられない。時間がない。
 ペダルに力を込める。きつい。連続する上り坂だ。さすがに息が切れる。だけど……。
 ちらりと時計に目をやる。
 三時五十五分、あと五分しかない!
「み、ミナト、くん」
 弱々しく野絵があえぐ。
「ゆれてる……空気が、ゆれてる」
 ぜんまいだ。竜のヒゲ成る千年ぜんまいが動き出したんだ!
 目に見えない波が体をつきぬける。骨の内側までびりびり震え、しびれた。体もろとも、魂までもつらぬき、押しつぶす、あまりのも圧倒的な力の波。
 これだ。あの真っ黒な竜は、こいつに呼ばれて飛び出したんだ……。
 自分のヒゲの発する記憶と感情の波。懐かしくて、すがりたくて、さみしくて、ただそれだけで空っぽの実験室を飛び出した。けれど、たどり着いてもそこには『誰も』いなかった。ただ時計が動いているだけ。
 絶対の孤独。
 裏切られた願い。
 くやしくて。かなしくて。
 あいつは、叫ぶしかなかったんだ。全身で、魂をふりしぼって、泣き叫ぶしかなかったんだ!
 腹の中からこみあげる、すっぱいツバを無理矢理飲みくだし、僕は叫んだ。
「心配ない!」
「うん……信じてる」
 くいっとペダルに二人ぶんの力が加わる。
「だってミナトくんが、一緒だもの」
 ぶわっと体中に熱いものが弾けた。
 そうだ、僕らは一人じゃない。
「っしゃあ、気張るぞっ」
「おっけえっ」
 実験室で最初の一匹を見つけた時。本当は、思ったのだ。
 ここでこいつを消してしまえば、事件は起きなくなるんじゃないかって。
 僕は望んだ。生まれる前の、無力な生命を消すことを。
 恐ろしい事だ。おぞましい事だ。
 それでも、やっただろう。
 野絵を救うためなら。
 でも、今は?
「あいつにも……教えて、やらなくちゃなっ」
 黒い竜は、怒りと狂気で世界を壊したんじゃない。
「仲間が待ってるって」
 求めて泣いた。求めて叫んだ。
 知恵と、思い出と、そして……。

 emotion.

 かなしい
 せつない
 うれしい
 こわい
 たのしい
 愛しい。

 一緒に想い、感じる事のできる、仲間を。
 僕が彼女を求めるように。離れたくないと願うように。
「お前は一人じゃないって!」

 階段を昇り切った。
 がしゃん、と自転車を倒す。ここからは、ハシゴだ。
 ヒザが笑ってる。でも知ったことか!
「あっ」
 野絵がよろけ、倒れた。
「大丈夫?」
 ワンピースのすそが引っ掛かったらしい。彼女はためらいもせずに、ばりっと引き裂き、にかっと笑った。白い歯がまぶしい。
「平気。行こ!」
 ハシゴに飛びつき、昇った。回りで巨大な歯車がひっきりなしに回っている。だのに、ひゅう、ひゅう、と自分の息の音がやけに大きく聞こえる。
 だんだんせまくなってくる。
 屋根の内側に入ったらしい。
 梁の間をくぐり、窓を開ける。ぶわっと風が吹き込んだ。
「いた!」
 真っ黒な体、真っ黒な翼が、目の前の空間を占領した。
 ドラゴンだ。
 鋭い爪で塔の屋根を鷲づかみにしている。
「でかい……」
 僕の中のささやかなモノサシが、ぱちん、と弾けて消えた。相当高いところにいるはずなんだが。ドラゴンの、あまりのでかさに目がくらみ、そっちの方まで頭が回らない。
 
 ぐぅるるるるる。

 ドラゴンは咽の奥でうなった。やつの基準からすりゃあ小さな声だろう。けれど、僕らにとっては髪の毛が逆立つほどの轟音だった。野絵は青ざめ(無理もない!)一歩後じさった。
 その瞬間。
「きゃあっ」
 やばい、滑った!?
「野絵っ」
 とっさに右手をのばす。
 永遠にも思えた一瞬。
 がしっと、手の中に彼女のやわらかな指を捕まえた。
「ミナトっ」
「離すな。絶対、離すなっ」
「竜が、竜が!」
 闇が、裂けていた。
 まるで、真っ黒な海面が割れ、音もなく周りの水が吸い込まれ、ぎざぎざの岩がのぞいたよう。
 ドラゴンが口を開けたのだ。
 僕は左手で時計をひっつかみ、ふりかぶった。
「受けとれ!」
 ねらい定めて、投げる!
「グレート・リンクへの鍵だっ」
 銀の光が飛ぶ。深々と裂けた竜のあぎとの奥底へ。今、まさに吹き上げんと、逆巻く破滅の声の真ん中へ……。
 あっさり、吸い込まれてしまった。

 その瞬間、見たんだ!
 
 竜が飛ぶ。
 竜が飛ぶ。
 赤、青、黄、緑、黒、茶、橙、桃色。豪華大箱百色入りのクレヨンを、ぱーっと空いっぱいにぶちまけたように。あらゆる色、あらゆる大きさの竜が飛ぶ。
 どこから来たのか。
 あるいは、ずっとそこに居たのか。
 歌う。吠える。飛ぶ。歌う。
 全ての色、全ての音がまじりあい、一つ一つの色と響きをそのまま残しつつ、同時に一つに溶け合う。もう、あの真っ黒な竜がどこにいるのかわからない。
 自由なんだ。
 グレート・リンク。
 最初の一匹が生まれてから今まで続く途方もない大きな流れ。
 触れて交わり、一緒に流れて、また離れ、あるいはまた戻るのも。
 望みさえすれば、いつでも選べる。いつでも決められるのだ。
 自分の意志で。
 
 鐘が鳴る。

 時計塔の鐘が鳴る。最初は千年塔の大時計。次いで町のあちこちで。
 僕はようやく自由になった両手で野絵を引き上げ、抱きしめた。
 鐘が鳴る。幾重にも重なり、鐘が鳴る。
 僕も一人の僕ではなかった。同時にいくつもの場所に存在し、何人もの僕が、何人もの野絵を抱きしめていた。
「君を離さない」
 何十人、何百人の僕が叫ぶ。けれど、思いは一つ。
「君のいる場所はここ、ここなんだ。離れたくない。絶対に!」
 その瞬間、幾つにも別れた僕らが集まって……一つになった。
 鐘が鳴る。
 いつもと同じ、夕方四時の鐘。
「やった……」
 彼女はそこにいた。
「やった、やった、あはははははっ」
 スソのぎざぎざに破れた、白いワンピースを夕陽に染めて。
「ミナト」
「野絵っ」
「夢じゃ、ないよね」
「ああ! 夢じゃない」
「あ……動いてる?」
 その時、時計が動き始めた。
「ほんとだ。動いてる」
 藤色の組みヒモで結わえた、かわいいピンクの時計が。

「明日、また、会えるかな」
「どうしよっかな」
 野絵は子猫みたいな顔をして小首をかしげた。それから、はっと目をまんまるにした。
「ウソみたい。明日のことが、ぜんぜんわからないなんて!」
「それ、OKってこと?」
「強引だなあ」
「あきれた?」
「ううん。もっと好きになった」
 唇が、触れた。
 彼女の唇に。
 一瞬あったかいなあ、とか、やわらかいなあ、とか色んなことがごっちゃになって頭の中をかけめぐり、ようやく一つの結論に落ち着いた。

 うん。これは、夢じゃない。

 end.
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