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» 永遠のワルツ(白い犬とワルツを) » date : 2004/09/25  
「いい天気だ。葬式はこんな日がいい。日光と一緒に埋めろ。」平凡に生き、穏やかに死んだ普通の男のありふれた愛の物語

★1994年アメリカ/監督:グレン・ジョーダン/主演:ヒューム・クローニン/ジェシカ・タンディ
   DVD発売中。

去り行く時の流れは誰にも止める事はできない。 今は若さを謳歌していても、いつかは年老いる。ただ日々の忙しさと華やかさにまぎれて忘れてしまったような気になるだけだ。振り向けばいつもすぐ隣を歩いていると言うのに…『老い』も、『死』も。 自分がその時になったら、その時が来てしまったら、どのように彼等に挨拶し、付き合えばよいのやら今のところ見当もつかない。が、こんな風に迎える事ができればよいなと思うような、そんな映画を見た。

アメリカの農園主サム・ピークは、妻のコーラと結婚五十周年を迎えた。二人の娘とその連れ合い、二人の息子(何と末っ子のジェイクはFBI!)、そして孫のボビー(またこの子が美少年でねえ)と永年の友人たちを招いた記念パーティの席上で彼は
コーラとワルツを踊る。薄紫の帽子と揃いのドレスをまとい、軽やかに踊るコーラ。(演じるは「ドライビング・ミス・ディジー」「フライド・グリーン・トマト」のジェシカ・タンディ。老いてなおチャーミングな女優さんである。)しかし、パーティの直後にコーラは急死する。表面上は気丈に振る舞うものの、めっきり気弱になったサム。ある夜明けに妻の墓地を訪れた彼は、そこで真っ白な犬に出会う。

吠えもせず、尻尾もふらず、まるで亡き妻の化身のように彼を慕う白犬に支えられ、サムは生きる事の美しさを知る。そして忍び寄る死を穏やかに、なおかつ朗らかに受け入れる準備を始めるのだった。あたかもあの日踊ったワルツのステップのように軽やかに…

「昔に戻りたいと思う?おじいちゃん。」
「いや。最高の人生を送ってきたからな。」
「全てが消えてしまう訳じゃないんだ。わしそっくりのお前の耳。ペカンの林。指のタコ。
残してきたものの中に存在し続ける。」
(本編より)

負け惜しみでもない。強がりでもない。何て平凡で、何て穏やかな末期の言葉だろう…


★穏やかな死

話自体はすんげぇ地味です。淡々としています。「よっしゃあ映画鑑賞じゃあああっ」と気合入れて見てると 絶対途中で飽きます 。ころんっとひっくり返って文庫の一冊でも合間に読みながら見るが得策かと。(わあ、邪道だなあ)
マスター・キートンで「穏やかな死」と言うエピソードがあったのを覚えていますか?(アニメにもなっとりますが)IRAで壮絶な爆死を遂げた祖父を唯一の英雄として崇拝し、自身もまたテロリストとして半生を過ごしてきた男が、天寿を全うした老人の死に顔を見てはっとする話です。「それは穏やかな死に顔だった。」
主人公サム・ピークは、正にこの「穏やかな顔」で天寿を全うする老人なのである。そう、ラストはお墓に入ってます。なのに見終わった感覚が実に清清しく、明け方の空気のように透明なのだ。多分、彼が最後迄自分の人生にも、避けられない死に対しても前向きだったからだろう。
人生に対して前向きであることと、死を見つめること。一見相反するこの二つの行動は、決して矛盾しない。つきつめれば同じベクトルなんだと言うことを彼は教えてくれた。

★ワルツをもう一度
ストーリーの中核となるのは真っ白な犬。サムの友人ニーリー(かっぷくのいいアフリカ系の頼もしいおばちゃん)に言わせると「幽霊犬」なんだそうな。確かに「吠える」「尻尾をふる」この犬の当たり前の行動を封じただけなのに、何やら異界の存在めいた風格が漂う。ふさふさと柔らかな毛並みは、生クリームのような白。雪や塩のそれとは違い、どこかあたたかみのある白。穏やかな真っ黒な目がいつも笑っているようにキラキラ輝いている。しかも種族の違いを乗り越えて、どっから見つけてきたんだと思うくらいジェシカ・タンディにそっくりなのだ。

この白い犬は、サム以外の人間が呼んでも決して姿は見せない。父親の面倒を見にきた娘たちが餌を与えても顔を見せず、そっといつの間にか食べ物がなくなる事で、その存在が確認されるだけである。(って何か水スペっぽくなってきたぞ)
一度は入院し、危篤に陥るサム。父の死の予感におびえる家族の目の前にひっそりとあの白い犬があらわれる。

「お父さん、私達犬を見たの。真っ白な犬よ。」

そして、娘たちの呼び掛けに応えてサムは意識をとりもどす。退院した彼は歩行補助用のハーネスなしには歩けない身体になっていた。
「わしの犬はどこだ?いや、お前達が居ては出てこない。家の中から見ていろ。」
どこからともなく走り出る白い犬。にこにこと微笑みながらサムの歩行器に前足をのせ、キスをするように顔をなめる。(目を細めて、口をあけ、かすかに舌を出す。これが犬の笑い方です。)
「見て…あの犬、ワルツを踊っているわ。」 手と前足を重ねてリズミカルに歩く老人と犬の姿。それは確かにワルツを踊っているかのように見えた。

★人生最良の日
生死の境を乗り越えたサムは一大決心をする。
若い頃住んでいたマディソンに行き、高校の同窓会に出ようと。そして、一番素敵な場所に行くのだ。かつて人生最良の時をすごした池のほとりに。本当は、コーラを連れてゆくはずだったができなかった。だから白い犬を連れてゆく。
「お前のママたちには内緒だぞ。びっくりして家に閉じ込められてしまうからな。」
途中で道に迷いもするが、どうにかこうにか昼前に学校に到着。しかし集まってきたのは(当たり前の話だが)白髪頭、よろける足腰。息子や娘に支えられてやっと階段を登る老人ばかり… 「何だ。皆、あんな奴ばかりか?違うぞ。あれはわしの仲間じゃない。あんな連中であるもんか。」

昔の場所に戻っても、昔の時間には戻れない。 「池に行こう…」  けれどそこだけは、変わっていなかった。野花と草と小さな木立に囲まれた、深く、静かな池。かつてそこで出会った最愛の人に、あの日送った言葉を呟くサム。あの時と同じ答が不意に後ろから返ってきた。

彼女は在りし日の姿でそこにいた。交わす言葉は若き日に贈られた言葉だが二人の姿はセピア色の青年と娘ではない。あくまで白い髪、しわを刻んだ『現在』の顔。老人の顔なのである。サムが求める最愛の妻の姿は若い日のそれではなく、あくまで共に年月を重ねた姿だったのだ。

「人生最高の日だった…」
「いいえ。まだ続いているわ。」
「お前がいない。」
「私はいつもあなたと一緒よ。気付いていると、思ったけど。」
(本編より)

真っ黒な目をきらきらと輝かせてコーラは微笑む。そのまま彼女の姿は消えてしまうが、振り向くと池のほとりに、あの白い犬がいた。

★閑話休題
このシーンで表れるコーラの姿が何なのか。あえて推論を巡らすのは野暮と言うものだろう。ぼけ老人の妄想だよ、とかほざいたあなたは即刻このページ読むの辞めなさい。「これはいい映画なんだから感動しろ、しねえと承知しないぞっ」と強制するつもりはさらさらないが、そゆ発想しかできない人間とゆーのはつまり、いずれ自分が年寄りになると言うことを理解していない人です。自分だけはいつまでも若者だと思いこんでる人です。そゆ人がこの手の話見ても読んでも退屈なだけです。

★旅の終わり
一方、家では大騒ぎ。(まあ普通そうなるわな。)
呼ばれた保安官が「あの年での運転は危険だ」「追突事故を起こす」「しかも助からないだろう」とかなんとか言うのを聞いて、ひとり秘密を打ち明けられた孫のボビーの顔がだんだん蒼ざめてゆく…「あ、あのね、パパ、おじいちゃんの事なんだけどっ」
家に戻る道すがら、水没した道を無謀にもオンボロトラックで渡ろうとするサム。案の定、川のまん中でトラックはエンスト。どうにかしようと外に出たその時、流れに足をとられて転んでしまう。川は思ったよりずっと深かった。

その頃、息子二人はボビーをつれて追いマディソンへ車を走らせていた。
「ママたちはともかく、何で僕にまで黙ってたんだ、ボビー」
「だって叔父さん、いつも僕を子供扱いするから…」
「何だ?あれは?白い犬?」
「おじいちゃんの犬だ、叔父さん、止めて!」
白い犬を追い掛けてゆくとそこには川に浸かって瀕死のサムがいた。

★約束
医者の診断によれば心臓は30代並。ただときどき肺に雑音が混じると言う。
しかし、ときおり咳き込む様子には一種の絶対的なある前兆があった。
死を知る物にはそれとわかるほど、はっきりと。
この辺のヒューム・クローニンの演技はあまりにもリアルだ。横たわるのは自分の家の自分のベッド。心電図も管もつけてはいない。背筋もしゃんと伸ばしているし、てきぱき話もする。しかし、忍び寄る死の影はあまりにも濃厚で、咳を聞いていてわかってしまう。「ああ、その時がきたのだ」と。
ベッドに寄り添う白い犬にサムは晴れ晴れとした顔で話しかける。
「ありがとう。もう、いいよ。行け。行きなさい。すぐにまた会えるさ…そう、すぐにな。」

★この世に終わりはない
何のことのない短いシーンだが、このあと印象的だったカットがある。
末息子のジェイクと、孫のボビーとの会話だ。

ボブは白い犬が姿を消したことをおじいちゃんに言おうか言うまいか迷っている。落ち込んでしまったらどうしよう?と不安なのだ。彼なりに、何かただならぬ事が近付いているのがわかるのだろう。悩んだ末、彼は思いきって不安を言葉に出す。

「おじいちゃんはもう助からないの?」

しばしの沈黙。そしてジェイクが答える。

「そうだよ、ボブ。もう、長くないかも知れない。」

子供の呼び名である「ボビー」を使わず、敢えて甥っこを「ボブ」と呼ぶことで、彼を一人前の大人として扱っていること、近付きつつある別れが、避けられないものである事実を伝えている。誰よりも父親を愛しているのは、彼自身だと言うのに。(ってゆーかはっきり言ってファザコン)

この会話の直後寝室を訪れた二人に、サムは静かに、しかし朗らかに語りかけるのだ。
「あの犬は、母さんだ。もう、わかっただろう?人生に終わりはない。ただ、発見だけだ。今迄ずいぶんと多くの事を発見してきた…残りは一つだけだ。」
「犬に会いたければ夜明けに墓地に行け。」

★再会
サムを埋葬してから3日後、ジェイクはボビーを連れて墓地に行く。
朝靄の中、真新しい墓が二つ並んでいた。
ひとつはコーラの。ひとつは、サムの。
その時、二人は見る。
まだ柔らかいサムの墓の土の上に記された犬の足跡を。
あたかもワルツを踊るように軽やかな、二つの足跡を…

サムはただ平凡に生き、平凡に知り、そして静かに死んだ。悟りも切れもせず、宗教にも走らず、最後まで凡人のままだった。この手の『末期もの』で、オチを宗教に求めずあくまで一個人の認識の変化に留めた映画には滅多にお目にかかれない。死ぬ前に残した言葉も、踏み締めてきた時間の長さが自然ににじみ出たような、しっかりと地面に根っこをおろした言葉だった。

エンドタイトルを見ながら、頭の中にあのテロリストの言葉が浮かんできた。
『それは穏やかな死に顔だった。俺もあんな風に死にたい。』
死を見つめることも、生を見つめることも同じように大切なのだ。とどのつまり、未来を突き詰めてゆけば必ずそこに辿り着くのだから。

ジェシカ・タンディとヒューム・クローニンって実生活でも夫婦だったんだそうです。
あまりに平凡すぎて曲解もできなきゃ皮肉も入らない。ただ見て、感じるだけ。
たまにゃこう言う透明感のある平凡な話を見るのもいい。
» category : Bの大箱(再録) ...regist » 2004/09/25(Sat) 14:37

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