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» フェイス・オフ » date : 2004/09/25  
■フェイス・オフ /97年米 ジョン・ウー監督 ジョン・トラボルタ/ニコラス・ケイジ
 2000年12月9日ゴールデン洋画劇場にて放映

「そろそろお互い戻らないか?」「お前に奪われた者は戻らない」
「じゃあ、仕方ない。殺し合おう」
そして二人は鏡を隔て、銃を構える。かつての仇敵、今の己自身の顔に向かって。

実直なFBI捜査官、アーチャー(ジョン・トラボルタ)。
ブチ切れた天才テロリスト、トロイ(ニコラス・ケイジ)。

二人は永年の宿敵同士。互いが獲物で互いが狩人。
トロイはアーチャーを狙撃するが、過って幼い息子マイケルを射殺してしまう。
もはや、二人の男の間には憎しみよりも強く、愛よりも深いねじれた感情しか存在しない。永年の追跡の末、ついにトロイとその弟を捕らえたアーチャー。しかし、逮捕される直前に彼らはアメリカの「とある場所」に高性能の時限爆弾を仕掛けていた。逮捕の折の銃撃戦でトロイは昏睡に陥り、爆弾の仕掛けた場所を知っているのは弟だけとなる。刻一刻と爆発の時刻が迫る中、アーチャーの上司ティトはとんでもなく奇想天外な作戦を実行する。
それは、トロイの顔をアーチャーに移植、刑務所に潜入させ、弟から爆弾の在り処を聞き出すと言うものだった。
「何があっても二日でお前を刑務所から出してやる」
しかし、ここで誤算が生じる。
昏睡に陥っていたトロイがいきなり意識を取り戻す。顔を奪われ、静かに狂乱するトロイ。彼は顔を移植した医師と作戦を知るFBIを捕らえて生きたまま焼き殺す。(ガソリンばっしゃばっしゃぶっかけられてじたばたしてる所なんざえらく生々しくて夢に出てしまいました。あれ、表面が炭化するんでなかなか死ねないそうですね。日本だと、別にテロリストじゃなくても、そこらのヤンキィがちょこっとムカつく相手を簡単にこの方法で始末しちゃうんだから、ある意味、アメリカもまっつぁおの暴力天国と言えましょう)極秘作戦だったことも災いし、二人の顔の挿げ替えを知る者は誰一人としていなくなる。

そして、トロイの顔をつけたアーチャーの前に彼自身があらわれる。
トロイは奪われた己の顔のかわりに、アーチャーの顔を移植させたのだ。

ここでスパイ大作戦ならマスクかぶって潜入となるところですが、顔の皮をひっぺがして張り替えちゃうとこが凄いです。悪趣味です。なんでワザワザそこまでせにゃならんと言う気もしますが、これは映画です。娯楽なのです。

要するに前半では善悪まるっきり違う立場でしかも憎しみあってる宿敵同士の二人が、いきなり顔を取りかえて立場が逆転したらどうなるか、と言うシチュエーションをひねり出すために、理由と、理屈をこじつけて、圧倒的な説得力でごり押ししたんですね。

皮一枚張り替えただけで、がっちりしたトラボルタと線の細いインテリタイプのニコラス・ケイジを「入れ替えよう」って発想からしてそもそも無茶なのわわかりきってますが……顔の挿げ替えシーンをこと細かに映像化されて、どぉんっと見せられた日にゃあ……。レーザーメスで削ぎ取って、透明なカバーを上から密着させてべりっと剥がす。合間合間にコンピューターの操作画面が挿入され、決して『皮を剥がしたあと』は直視されることはない。

ないのだけれど、視界のすみっこにちらっと写る赤が妙に想像力を刺激する。
被せた面の皮を、指でぐにぐにやって馴染ませてるとこなんざ「うわ〜もうカンベンしてくれえっ(号泣)」としか言い様がございませんでした、はい。幼い頃、薄暗い小児科の隅っこで、はじめてブラック・ジャックを読んだ時のようなショックを思い出した。

トラボルタとニコラス・ケイジは、前半と後半で役割を取り替えた訳だが、お互いに癖やしゃべり方をとことん研究したそうです。吹き替え版では、同じようにトラボルタを江原正士、ニコラス・ケイジを大塚芳忠が演じていました。両者ともに「実直」な男の声もできれば「完全にイっちゃってる」ヤツの声も出せるベテランさん。ちゃんと、ここまで気を配ってくれてるあたりが嬉しい。

今回、見ていてジョン・ウーってのは、「やっちゃっていい場所」と「押さえる場所」をきちんと心得た監督さんだと思いました。銃撃ばんばん、血渋きはじける、炎があがる、ごろごろ死体が転がる、1カットであっさり人が死ぬ。
でも、映画の展開上、必要(?)な所だけ。
暴力だけが売りなのかと言うとそうではなく、要所要所では肉親、友人、上司の間の、固い絆、愛情を実にさり気なく描き出して見せる。例え相手が骨の随まで歪んだ悪人だとしても。


だからなのか。見終わってから、殺伐とした印象は残らない。かさかさに乾いて、そのくせ胃袋の底からやたらと酸っぱいものが込み上げるような。あの、バトル・ロワイアルを読んだ時にキちゃったような、いやあな感じがしないのです。

結局、かの小説の『青春ものとして』よくできた部分は(私に限って言えば)他の部分を隠すだけの説得力を持たなかったと言う事か。ついでに言うと「遊星からの物体X」や「エスケープ・フロムLA」「ニューヨーク1997」を見た時のような「すかっと乾いた爽快感」も感じられませんでした。これってヘン?
» category : 映画とTVドラマのこと ...regist » 2004/09/25(Sat) 02:51

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