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2012年5月の日記

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【16-7】町を識る者

2012/05/15 0:34 騎士と魔法使いの話十海
 
 馬鹿だな、俺って奴は。
 それでも、君を恨むことができない。たとえ仮初めの優しさでも、確かにそれはそこにあったのだから。

「君は、どうなるんだ」
「さあてね」

 グレイスは腕組みして横を向き、けっと口の端を歪めた。

「しくじったんだ、おっつけ上の連中に始末されるだろうさ。まったくあんたなんかに関わるんじゃなかった」

 始末される。その言葉が氷の槍となり、心臓に刺さる。
 彼女が殺されてしまう。あの日、水に沈められた姉上みたいに青ざめて、堅く強張り、冷たくなってしまう。

 嫌だ。
 絶対に嫌だ!

「……まだ間に合う。町を出ろ」

 ぎょっと目を見開くと、彼女は眉を寄せて片目をすがめ、さも小ばかにしたような笑みを浮かべた。

「あんた、馬鹿ぁ?」

 何て言われようが、構うもんか。マントを拾い上げ、ばさっと頭から被せる。

「うぷっ、何するんだいっ」
「我慢しろ」

 艶やかな赤毛も、白い顔も手も、刺繍の施されたスミレ色のドレスも何もかも、無骨な羊毛織りのマントの下に覆い隠して留め金を掛ける。

「あんた……」
「来い」

 強引にグレイスの手を引き、歩き出す。
 庭園の裏口から抜け出し、裏通りに入る。空までそびえ立つ石造りの建物に挟まれた、細い路地を奥へと進んだ。
 ここを通ると、いつも猫かネズミにでもなったような錯覚を覚える。
 グレイスはもう喋らない。逃げもせず、暴れもせず、黙って俺についてくる。ただ時折、重ねた手をきゅっと握って来た。

(こんなに長い間手を繋いだのは、初めてだ)

 周囲の壁がすっかり薄汚れ。空気にまでベタベタと油が染みこんだ一角でひょいと曲がる。袋小路のとっつきを、半分くずれた小屋が塞いでいる。

「……ここだ」

 素早く近づくと、入り口を覆うぼろ布をかき分け、木の扉を叩く。
 まず三度、次いで二度、一度、仕上げに二度。
 ほどなく生き物の動く気配がして、のぞき穴の向こうに影が差す。

「長に会いたい。ダインの頼みだと伝えてくれ」

 きぃ……と扉が開く。素早く中に滑り込んだ。

「うっぷ! 何よ、この臭い!」

 グレイスが顔をしかめ、鼻と口を覆う。湿った布と木材、油と、酒と、塩とジャガイモ、そして発酵しそこねたチーズそっくりの臭い……風呂とは無縁の生きた身体の発する臭いだ。
 小屋の中には、ちっぽけなランプが灯されていた。
 丸いオレンジの光でぽっかり切り取られた空間の外は、暗がりに沈み、ほとんど何があるのか見えない。だが、息を潜めてこっちを伺う気配がいくつも潜んでいる。
 この小屋にいるのは、俺たちだけじゃない。

「どこなの、ここは!」
「乞食組合の、“巣(hive)”」
「はあっ?」

 思わず挙げたグレイスの甲高い声に、部屋のあちこちの隅っこから『しいいいいっ』と小さな叱責が答える。 
 慌てて彼女は口を押さえた。

「つっても、王都の中にいくつもある拠点の一つだけどな」
「いや、だからあんたが。男爵家の若様が、何だってんな連中とつき合ってんのさ!」

 ごとり、と小屋の奥で重たい物の動く気配がした。
 ぞり、ぞりり……。
 床の上げぶたが横に滑り、中からぬうっと影がせり上がる。汗と垢の臭いに混じり、煙草のにおいが漂った。

「よ、チャル・カル。元気か?」

 ちっぽけな、しかし器用そうな手が、長ぁく伸ばした髪を左右にかき分ける。
 鼻っ柱の低い、ネズミみたいな尖った顔。黒くツヤツヤした抜け目のない瞳が現われる。

「あいや、ダインでねぇの! やーっとやっと正騎士になれるんだってなぁ。はぁ、めでてぇ、めでてぇ!」

 小柄な体が、豆みたいにぴょんぴょん飛び跳ねて近づき、手を握ってきた。
 迷わず握り返す。ただし、潰さないよう力を加減して。
 
「マスター・ギアルレイんとこで剣が打ち上がったって聞いたからよ? はぁ、儀式も近いんだべなぁって思っとった! えがった、えがった」
「ありがとう。嬉しいよ」

 乞食組合の長は心の底から嬉しそうに、顔中くしゃくしゃに笑み崩す。しかしグレイスを見るなり、表情を引き締めた。

「んで。頼みてぇ事ってのは、何だ?」
「うん……彼女はグレイス。俺の大事な人だ」
「んむ」
「訳あって命を狙われてる。人目につかないよう、王都から逃がして欲しい」

 チャル・カルはぴくっと眉をはね上げた。
 マントですっぽり覆われたグレイスの全身をねめ回し、最後にしっかり握り合った手に目を留めて。

「ふむ」

 大きくうなずいた。

「よかろ。それが、おめぇさまの頼みなら。俺らはなーんでもするよ」
「……感謝する」
「そうと決まったら、とっとと出かけっど!」

 乞食はどんな場所にも潜り込む。そこに彼らが居ても誰も気にしない。むしろ目をそらす。それ故彼らは情報に通じ、あらゆる場所に張り巡らされた抜け道を知り尽くしていた。

 ぴょいっとチャル・カルは上げぶたの中へと飛び込んだ。と、すぐに顔を出して、ちょいちょいと手招きする。

「ほーれ、はよ来!」
「……あの中に入れっての? 冗談じゃないわ!」
「大丈夫。俺が、支えるから……失礼」
「ちょっと、あんた、何をっ」
「掴まってろ」

 グレイスを抱きあげ、しっかり抱えて。一息に穴の中へと飛び込んだ。

「きゃあっ」

 ひょおおっと冷たい風が頬を撫で、長い赤毛を舞い上がらせる。かと思ったら、ずっしぃいんっと足の裏から膝、腰、脳天にかけて衝撃が走った。
 膝でかなりやわらげたつもりなんだが、二人分だし、な。

「……な? 大丈夫……だった……ろ?」
「あんたって、ほんと、救いようのない馬鹿ね!」

 じっとりと湿った暗い地下道には、チャル・カルと明かりを携えた男が二人待っていた。組合の「若い衆」たちだ。

「ほれ。行くど」
「うん」

 歩き出そうとするより早く、グレイスは俺の胸をずいと押し、腕から降りてしまった。

「お構いなく。自分で歩けるわ」
「……ごめん」
「何であんたが謝るのよ!」

 俺、また余計な事しちまったんだな。後悔と恥ずかしさがずしりと肩にのしかかる。背中を丸め、うつむいた。

「………ごめん」
「ダイーーン?」

 チャル・カルの声に我に返り、慌てて顔を上げる。

「今行く!」

 じっとり湿った暗い道。ちっぽけな灯を頼りに慎重に足を運んだ。

「何で、あんたら、こうまで面倒見てくれんのさ」
「そーら、おめえさまはダインの大事な人だからのー」

 チャル・カルはぽふっとトウモロコシパイプから香りのいい煙を吐き出した。

「俺らが、殴られたり、蹴られたり、あるいはもっと酷い目に遭わされててもよ。だーれも気にしゃしねえ。ゴミが蹴られようが捻り潰されようが、お構い無しだもんなぁ?」
「……まぁね」
「んでもよ、あの騎士様は違ってんだ。いっつーでも。いっつーでも俺らの味方してくれんだわ。いっつーでもな。したっけよぉ、俺らもあん人の味方するって、決めたんだわ」

 ぽこっとまた、煙の輪が宙に浮く。

「いっつーでもなぁ!」

     ※

 地下道は、王都から川の本流へと向う古い水路に通じていた。岸辺の葦の中にひっそりと、小舟が一艘待っていた。

「さてっと。おめぇさまはここまでだ、ダイン」
「……うん」
「東に向かう川船に乗り込む手はずはつけてある。心配すんな。おめぇさまの大事な人は、俺らが責任持って安全な所まで送り届けっからよ?」
「うん……」

 言葉が出なくて、ただチャル・カルの手を握った。ちっちゃい手。だが器用で、よく動く手がにぎり返し、それからぱたぱたと背中を叩いてくれた。
 改めてグレイスに向き直る。

「グレイス」
「それはあたしの本当の名前じゃない」
「知ってる。だけど他に呼び方を知らない」

 眉を寄せて肩をすくめてる。しょうがない、とか。やれやれ、とか、そんなため息が聞こえてきそうな顔だ。呆れてるのかな。
 呆れてるんだろうな。

「ダイン。あんたって子は……」 

 花が香る。地下道のすえた臭いよりも、淀んだ水よりもなお強く。暖かくしなやかな体が、ぴたりと寄り添っていた。

「だったら、その名前は……」

 ゆるりと腕を巻き付けると、彼女は耳元に囁いてきた。

「あんたにあげるよ」
「っ!」

 小鳥のさえずりに似たかすかな音に、体がすくみ、動けない。
 ふわりとマントが翻る。寄せられた温もりが消えて行く。

 こうしてグレイスは行っちまった。
 ぎこちなく差し伸べた手をするりと抜けて、頬に柔らかな唇の感触を残して。
 もう、振り返りもしなかった。

 俺はと言えば、馬鹿みたいにぼーっと突っ立っていた。彼女を乗せた小舟が遠ざかり、ちっぽけな点になるまで。
 我に返った時は、チャル・カルたちは音もなく去っていた。

 一人になると、途端にひどく寒々しい気分に囚われた。水面を染める夕陽の赤が、やたらめったら目に染みる。手をかざし、目を細めても、ちくちく疼いてまぶたが引きつれる。

「ああ、もう、眩しいなあ」

 騎士になるのは俺の目標だった。そのために歯を食いしばって生きてきた。
 だけど、それを望まない人たちがいる。

「眩しいったら……ありゃしねぇ……」

 無性にロブ先輩に会いたかった。
 今、この瞬間、先輩が側に居てくれたら何て言うだろう?
 ここで泣いたりしたら、怒鳴られる。背筋を伸ばせって、きっとどやしつけられる。

 だから。

 ぐいっと拳で顔を拭い、背筋を伸ばした。
 あの人に恥じるような生き方は、したくない。
 してたまるかよ。

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【16-6】初恋の君

2012/05/15 0:32 騎士と魔法使いの話十海
 
「いってぇ!」

 いきなり額に衝撃が走り、視界が派手に揺れる。
 グレイスの名前を出した途端、フロウがむくっと起き上がった。あれっと首を傾げていたら、片膝を立てて身を乗り出して、ぺっちん! と来たもんだ。
 元々こいつは寝る時は楽な服装を好む。だからなのか、たまたま今日があったかいからなのか。よりによって膝丈ぎりぎりの半ズボンなんぞ履いてやがるもんだから、つい目が吸い寄せられちまう。

(ああ、手ーつっこんで撫で回してぇ!)

 履き口からのぞくむっちりした太もも。
 食い入るように凝視してたら、さらにもう一発ぺしっと叩かれた。

「ってえなあ。さっきっから何すんだよ」
「何かいらん事考えただろお前」
「悪ぃかよ。んーな色っぽい格好見せられて、もよおさない訳ねぇだろ!」

 フロウはついっと咽を反らせ、じとーっと半開きにした目で見下ろして、ぽつりと言った。

「馬ぁ鹿」

 ぐっと言葉に詰まる。次の瞬間、じわじわと猛烈な羞恥心がこみ上げて来る。

「……しみじみ言うなよぉ……」

 俺の抗議に耳も貸さず、フロウは何事もなかったようにまた、膝の上に頭をのっけてころんと寝そべった。
 ぺちぺちと太ももが叩かれる。

「いいから。続き」
「……わかったよ」

 キスの一つぐらい、させてくれたっていいだろうに。
 ケチ。
 
     ※
 
 恋をした。
 生まれて初めて、恋をした。
 風になびく赤い髪、琥珀の瞳のたおやかな乙女に。
 街を歩いていて、柄の悪い男にからまれてる所を助けたのが始まりだった。
 親を亡くし、今は親類の元に身を寄せていると聞いた。何だか身につまされて、自分も似たような身の上だと打ち明けてから、一気に親しくなった。
 化粧っ気のほとんどない顔はほんのりばら色に染まり、大きく開いたドレスの襟ぐりからのぞく胸元には、ぽつぽつとそばかすが散っている。
 彼女の鈴をころがすような笑い声を聞く為なら、俺は何だってする。

「会いたかった」
「俺も……」

 抱き合った手が、背中の剣に触れたのだろう。
 グレイスは「あ」と小さく声を立て、首を傾げた。

「どうして、二本も剣を持っているの?」

 蜂蜜みたいに滑らかで、甘い声がこぼれ落ちる。聞いてるだけで胸の奥がくすぐったくなる。

「ベルトに一本、背中に一本。重くはないの?」 
「全然。こっちのは、さっきできたばかりなんだ」

 馬鹿か、俺は。パンが焼き上がったのとはレベルが違うぞ。(いや、パンも大事だが!)

「誓いの儀式のために、新しく、作った」

 背中から剣を下ろし、ついでに羽織ってたマントも脱いでばさっと芝生の上に広げる。

「どうぞ」
「ありがとう」

 優雅な仕草でグレイスが座るのを見届け、隣に腰を降ろす。ほんの少し離れて。

「ずいぶん大きな剣ね」
「うん。鍛冶工房のマスターが俺に合わせて作ってくれた」
「ダイン、力持ちだものね」

 やわらかな温もりが膝に触れる。
 グレイスが自分から体を寄せてくれたんだ。まるで猫みたいに、音も無く。

「やろうと思えば、もうちょっと重たいのも振れるんだけど。長時間ぶん回したら、どうしても疲れてくるだろう? だから持久力優先ってことで、少し短めに作ってある。その分、両手で持った時は早く動かせるし……」

 一気に喋って、はたと思い直す。

「あ、ごめん。こんな話退屈だったかな」
「ちょっとね」

 首をすくめてる。ごめん、と言いかけた口に、ほっそりした指があてがわれて優しく言葉を封じた。

「剣の話する時のダインって、すごくいい顔してる。目がきらきら輝いて、とても楽しそう。だから……」

 どどどっと心臓から大量の血が流れ出し、顔がかっかと熱くなる。耳の奥で、ごおん、ごおんと地鳴りに似た音が轟き始める。

「好きよ」
「そ、そ、そうかっ」
「騎士の剣って、もっと豪華で飾りがいっぱいついてるものだと思ってた」

 白い、長い指が剣の上を滑る。柄から鍔へ。その交差する場所へ。

「そう言うのも、ある。でも俺には何ってぇか、似合わないだろ? がっつんがっつんやってる間に、すぐに壊れて吹っ飛びそうだものな」
「んー、ここでうんって言っちゃっていいのかなぁ」
「構わないさ。それが俺だもの」

 とんっとグレイスの指先が、無地のプレートを弾いた。

「何でここは、無地のままなの?」
「それは……俺、まだ自分の個人紋、決めてないから」
「ふうん?」
「家紋とは別の、俺専用の印を刻むための場所なんだ。そう思ったら、いろいろ考えちまってさ……」
「強そうな生き物を彫ってる人、多いよね。鷲とか。ライオンとか」
「いまいち、柄じゃないなぁ。それによくある図柄だと、区別つけるの難しそうだし」
「そう? 似合うと思うんだけどな。あ、いっそ両方かけあわせてグリフォンとか!」
「それは……止めとく」

 真紅の鷲獅子は、他ならぬ父の紋様だ。息子なんだから、線なり、星なり書き加えて使うってのも有りだろう。実際、親や兄弟で同じ紋を使う例はよくある。

 だが俺には許されまい。
 6年前、太陽を抱いた真紅のグリフォンが兄の剣に刻まれたからだ。ハンメルキンの正当な跡継ぎの証として。

 ちらっとグレイスを見る。彼女はいつも、花を象った指輪を身に着けていた。
 銀の輪に白ヒスイから削り出した花をあしらったその指輪は、亡くなった母親の形見だと言っていた。

「花も、いいかな」
「花?」
「うん。その、君の指輪の花……何て種類なんだ?」
「ああ、これはね」

 グレイスは右手を掲げた。薬指にはめた指輪が、よく見えるように。

「鈴蘭」
「そっか。じゃあ……」

 鈴蘭を刻むのも、いいかも知れないな。
 らしくないってギアルレイは笑うだろう。けど、きっちり仕事はこなしてくれるはずだ。

「ね、ダイン。あなた疲れた顔してる?」
「え?」
「すごく眠そうよ?」
「そう……なのかな」

 しなやかな手が頬を撫でる。彼女の肌からは、庭園に咲くどの花よりも甘い香りがした。
 
「ふぁ……うぅ」

 あれ。俺、もしかして今、あくびしたのか?

「ほんとだ。ちょっと眠いかも……」
「儀式の準備で、忙しいんでしょ。ちょっと休んで行ったら?」

 そう言って、グレイスはぱたぱたと自分の膝を叩いた。
 その仕草には見覚えがあった。姉上が。伯母上が。そしてリーゼがしてくれた。ここにおいでって。

「いらっしゃいな、ダイン」

 彼女の声が、染みとおる。かさかさに干からびていた胸に。心臓に。
 こっくりとうなずくと、俺は剣から手を離し、グレイスの膝に頭を乗せていた。

「いい子ね、ダイン。いい子ね……」
 
 柔らかな指が髪の間を通り過ぎ、耳をなぞる。頭なんか撫でられたのは何年ぶりだろう。
 自分以外の人間の体温を、こんなに身近に。くつろぎながら感じるなんて。
 甘く香る優しい指先に身を委ねながら、うっとりつぶやいていた。

「ユニコーンの気持ちがわかった。乙女の膝の上ってこんなに気持ちよくて、安らげるんだな……」
「眠ってもいいのよ?」
「ん……ちょっとだけ眠る」

 目を閉じて、力を抜く。
 噴水の水音が、ふわあっと浮き上がって、解けて行く。降り注ぐ陽射しと、それよりも暖かなグレイスの膝の感触に意識が溶ける。
 ああ、いーい気持ちだ……。

「っ!」

 ちかっと左目の奥で火花が散る。
 同時にかちり、と何かの割れる音がした。

 目を開け、飛び起きる。
 すぐ側に、小さなガラス瓶が落ちていた。芝生に埋まった小石にでも当たったか、割れている。
 だがそれだけじゃない。中の液体がこぼれ、その下の草花が黒く変色している。萎れている。まるでそこだけ見えない炎に焼かれたように。
 さっきまでは、そんなもの無かった。俺の持ち物じゃない。この場には他の人間はいない。だとすれば、可能性はただ一つ。

「グレイス?」

 彼女は青ざめ、顔からは一切の表情が抜け落ちていた。
 外れてくれ……心底願った。だが疼く左目には、見えてしまったんだ。
 瓶と彼女の手を結ぶ、細い糸が。

「ほんと噂通りのうすっ気味悪い目だねぇ、ええ、ハンメルキンの呪われた若様」

 桜色の唇が三日月の形につり上がり、引きつった笑みを作る。

「魔物の血を引く、穢れた恥じかきっ子」
「グレイス……?」

 冷たい指が胸の中に埋まり、ぐちゃぐちゃに掻きむしる。
 ああ、その言葉だけは聞きたくなかった!

「立派なもんだねえ騎士様。きっちり敵に身構えてるじゃないか」
「あ」

 本当に。たったこれだけの間に、俺の手はしっかりと剣を掴んでいたのだ。
 
「教えてやるよ。あんたに近づいたのは、何もかも『あるお方』の依頼を果たすためさ」

 すっくと立ち上がり、彼女は優雅に裾を整えた。

「これに懲りたら、男爵家の跡取りになろう、なんて大それた望みは抱かないことだね」
「グレイス………」
「はいはい、グレイスねぇ」

 くくっと咽を鳴らすと、赤毛の女は面白そうに俺を見下ろした。

「好きに呼びな、坊や。どうせ本当の名前じゃないし?」
「っ!」

 ぷちっと、俺の中で何かが潰れた。
 どろりと苦い血を流して。

 嫌われるのは慣れている。薄気味悪い目の、呪われた息子。男爵家の恥じかきっ子。
 それこそ何十回、何百回と言われ続けた言葉だ。
 だけどグレイス、君には。君の口からだけは、聞きたくなかったよ……。
 
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【16-5】従騎士ダイン

2012/05/15 0:25 騎士と魔法使いの話十海
 
 がっつんっと金属の金属のぶつかる音が、骨に響き腕を震わせる。
 練習用の刃のついていない剣とは言え、重さと堅さは本物だ。受け止めた盾を支える腕が、じんっとしびれる。
 だが、止まった。止められた。
 昨日までは押し切られ、転がされていた一撃を。

「おおっ」

 気合いとともに打ち払い、相手がよろけた所にすかさず切り掛かる。だが、そこまでだった。
 繰り出される腕と鋼が絡みつき、あっと思った時には剣が巻き上げられて、手から離れて宙を舞う。

「あ」

 慌てて盾を構えようとしたが既に遅く。相手の剣の切っ先が、鼻先で揺れていた。
 俺の動きなんざ、とっくにお見通しだったってことか。

「いい動きだ、ダイン。だが詰めが甘いな」

 荒い息を吐きながら、教官がにやりと笑う。
 十四の歳から6年間。俺が馬鹿みたいにすくすく育つ一方で、この人は年齢を重ね、四十路から五十路へとさしかかっていた。
 最近は細かい文字が読みづらいとぼやいていたが、ひとたび剣を手にすればこの通り。
 ただの一度も勝てた試しがありゃしない。

「……参りました」
「盾は守るだけの物じゃない」

 言うなり、教官はぶんっと盾を水平に寝かせて、宙を薙ぐ。ぎりぎりの所で縁が顔をかすめ、勢いでぶわっと髪の毛が舞い上がった。頬が、ひやあっと冷えたのは、流れる汗が風にあおられたせいだけじゃない。

「臨機応変にな。それを忘れるな」
「はい! ありがとうございました」

 互いに礼をして、構えを解いた。

「今日の訓練はこれで終わりだ。午後は自由にしていいぞ」
「はい!」
「宣誓式の準備で何かと忙しいだろうからな!」
「その事なんですが、オーランド教官」

 本当は、稽古をつけてもらう前に頼みたかった。でもつい気後れして、言い出せなかった。剣を交えた後の高揚感を頼みに、思い切って口火を切る。

「授与者の役を、お願いできますか?」
「ほう?」

 ぴくっと教官が灰色まだらの眉をはね上げる。糸のように細い目が、鋭い光を帯びた。

 宣誓の儀式においては、儀式を受ける騎士に縁の者で、なおかつ一定の地位にある者……爵位を持つ貴族、司祭、正騎士、地方の領主などが、『剣の平もて肩を叩いて』騎士の位を授けるのが決まりだ。
 本来は父親なり、叔父なりがこの役を勤める事が多い。
 だが、ハンメルキン男爵にその意志はなかった。
 無理もない。嫡出こそ認めてはいるものの、俺との関わりを極力、避けている人なのだから。公の場で息子と認めるなど、持っての他。元より義母が黙っちゃいないだろう。

「いいのか?」
「……はい」

 教官はやれやれ、と言った表情で肩をすくめ、小さくため息をついた。

「すんません。ご迷惑おかけしてしまって」

 授与者を引き受けるのは、今後も公の場で俺と関わりがある、後ろ盾となる意志があると宣言するも同じ事。
 それはとりもなおさず、男爵夫人に逆らうことでもあった。王都では、必ずしも望ましい事ではないはずだ。
 知らず知らずのうちに声が尻つぼみになり、うつむいていた。

「でも、俺、他に頼める人がいなくて……」

 もごもご言いながら自分のつま先を睨んでいると、いきなりばっしいんっと平手で背中を張り飛ばされた。

「おぶっ」
「しゃきっとしろディーンドルフ。背筋を伸ばせ!」
「は、はいっ」

 慌てて顔をあげる。

「俺は平民からのたたき上げだ。しかもいい年だ。この先の出世なんざたかが知れてる」

 けっと鼻先で笑ってる! そうだ、こう言う人だった。

「俺がため息ついちまったのはな。ロベルトが居たら、って思ったからなんだよ!」
「あ……」

 ロブ先輩が東方の交易都市に赴任してから、もう2年になる。元気にしてるだろうか。

「あいつ、お前の成長を楽しみにしてたものなぁ。痣が残るくらい、きっついのをお見舞いしてくれただろうぜ?」

 肩を揺らし、くっくっと楽しげに笑いながら教官は、手のひらで軽く俺の肩を叩いた。

「貴様の実力は確かだ。これからいっくらでも伸びる。胸ぇ張って授与者をやらせてもらうさ!」
「……はい! ありがとうございます、教官!」
「伯母上たちには知らせたのか?」
「はい。決まってすぐに、手紙で」
「そうか。さぞ喜んでるだろうな……で、今日はこれからどうする?」
「マスター・ギアルレイの鍛冶工房に行こうかと。そろそろ剣ができ上がる頃合いなんで」
「そうか。よし、行ってこい」
「はい!」

 ごめん、教官。ほんとはそれだけじゃない。

「汗流してけよ!」
「……はい!」

 どきっとした。
 ひょっとしたら、全部お見通しなのかも知れない。

       ※

 剣は基本的に使う者の体格と腕力に合わせるのが理想だ。
 体の成長と、使い方の癖に合わせて行った結果、俺の場合は両手持ちと片手持ち、どちらでも扱える剣に落ち着いた。
 従騎士から正騎士になるに当たり、自分専用の剣を持つことが許された。
 金の出所が親父からってのがいささか気にくわないが、それでも自分に合わせて剣をあつらえるのは、嬉しかった。

『受け取りなさい、父上の名誉を。家名を汚すおつもりか?』

 支度金を届けに来た家令は、相変わらずお堅い口調でぴしりと言い捨てた。

『これは既に決定事項です。あなたに拒否権はありません』

 さすがにもう、恥じかきっ子と面と向かって言う度胸はないようだったが。久しぶりに俺と対面したとき、明らかに狼狽していたものな。親父にそっくりだからか、あるいは……
 単に、俺が彼の背丈を追い越していたからか。
 で、せっかくだから全部剣につぎ込み、最上級の素材と細工を依頼した。本来なら、宣誓式に着る晴れ着一式の分も含まれていたんだろうが……
 ダンスパーティーに行く訳でなし、わざわざめかし込む必要もあるまい。礼装用の制服で十分だ。

「よう、ダイン! 丁度いいや。使いを送る手間が省けたな!」

 鍛冶工房を訪れてみれば、マスター・ギアルレイ自らが出迎えてくれた。

「ってことは、できたのか!」
「おうよ。さっき、柄の細工を仕上げた所だ。そら、使ってみろ!」
「ありがとう」

 差し出された剣を受け取る。
 刀身は両手持ち専用の大剣に比べていささか小振り。対して柄は片手用の剣よりやや長く、両手で扱うこともできる。
 鍔(ヒルト)は刀身を中心に山形を描くように突き出し、柄には黒く染めた革がみっしりと巻き付けられていた。
 細部に至るまで丁寧に作り込まれ、無駄がない。目のみならず、触れる指先から直に感じた。
 柄と鍔の交差点には、盾型のプレートがはめ込まれている。
 自分の個人紋(クレスト)を刻むための場所だ。ここに己の印を刻んで証とし、騎士たる者の名と責任を背負うのだ。
 表面にはまだ何も刻まれていない。それでも指を這わせると胸が震えた。

 まだほんのり暖かい剣を握り、試しに二度、三度と振り回す。刃先が空を切る感触が心地よい。
 初めて使う武器は大抵、違和感を覚える。その長さ、重さに慣れるまでは、無骨な鉄の塊を握る感触が、抜けない。だが、これは……。

「完ぺきだよ、マスター! 初めて触ったはずなのに、しっくり手に馴染んで……何って言うか、自分の腕の一部みたいだ!」
「おう、おう、そうだろうとも! お前さんの攻めの動き、守りの動きをそれこそ穴ぁ開くまでじーっと見て、打った剣だからな!」

 ずいっと胸をそらすと、ギアルレイは赤らんだ厳つい顔いっぱいに満足げな笑みを浮かべた。

「いい剣が打てたぜ。それで、ダインよ。ついでにぱぱっとお前さんの個人紋も刻印しちまいたいんだが……」
「あ……それは……まだ、決めてないんだ」
「おやおや。ま、宣誓式の後でも問題なかろうしな!」
「うん……」

 正直、まだ迷っていた。騎士たる己を現す印。俺が俺であることの証明。
 だが俺は、何に対して誓おうとしているのだろう。クレストによって証明されるのは、誰だ?
 ハンメルキン男爵家の庶子か。それともディーンドルフ家の養い子か?

「どうした。冴えない顔しやがって」
「や、多分、緊張してんだ」
「そーかそーか」

 ばっしばっしと骨太の手で背中を叩かれた。

「ま、大事な儀式の前だもんなあ、堅くもならぁな。それ、一杯やってくか?」
「……ありがとう」

 勧められたビールをぐっとあおる。
 苦味と、香ばしさを引きつれて、しゅわしゅわと弾ける液体が咽を滑り降りる。

「おう、いい飲みっぷりだ」
「美味いっ」

 下品な酒だ、騎士の飲むものじゃないって言う奴もいるけど、俺は好きだ。ロブ先輩に初めて教わった酒だ。一気に飲むとすかっとするし、蜜酒を割っても美味い。

「またいつでも来いよ。刃こぼれの修理から研ぎ直しまで、何でも引き受けるからな!」
「うん。ありがとな、マスター!」

 でき上がったばかりの剣を受け取り、工房を出る。自然と足取りが弾んでいた。
 背中に背負った新しい剣。ぴっかぴかの剣を、早く見せたかったんだ。

     ※

 王太子宮殿の東隣には、大きな庭園があった。
 遠征や貿易、外遊に熱心だった四代前の国王が、持ち帰った種や苗を植えたのが始まりと言われている。今では一般に解放され、誰でも自由に出入りができる。

 庭園の奥深く、芽吹き始めた緑に縁取られた小道を進む。
 ルピナスや早咲きの薔薇、スミレに水仙、ヒナゲシ、鋭く青い矢車草。咲き乱れる春先の花の合間を抜けて、目指すのは小さな噴水だ。

 約束の時間には、まだ少し早い。それでも足はおのずと早くなり、水音を聞いた瞬間、駆け出していた。
 翼を広げた青銅のコウノトリが天を仰ぎ、くちばしからこぽこぽと澄んだ水を吐き出している。
 流れる水は花を模した水盤の縁からこぼれ落ち、同じく青銅の蓮の葉の上にうずくまるカエルの上に降り注ぐ……柔らかな雨のように。

 青銅の噴水の傍ら。ふんわりと柔らかな芝生の絨毯の上に、彼女が居た。俺の足音を聞きつけ、こっちを見て、手を振ってきた。
 
「グレイス!」
「……ダイン」

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【16-4】闇より矢は放たれる

2012/05/15 0:24 騎士と魔法使いの話十海
 
 流れる黒髪、血管が浮くほどの青白い肌、血のように赤い唇。
 ハンメルキン男爵夫人はその美貌を磨くのと同じくらい、義理の息子を貶める為の努力を惜しまなかった。 

『その左目は魔族の血を引く印』
『忌まわしい』
『汚らわしい』
『お前は呪われている』

 影に日なたに言われ続け、ダインが騎士の修業を続けること6年。
 同期の訓練生達は次々と宣誓の儀式を済ませ、正騎士となってそれぞれの任地へと旅立って行った。
 訓練所にもすっかり馴染み、さすがに従騎士としてはトウが立ちすぎてはいるものの。苛められる機会は徐々に減り、ダイン本人にしてみればそれほど悪い暮らしではなかった。
 
 そして彼が二十歳になって間も無い春。ようやく、騎士宣誓の儀式を受けることが許された。
 庶子とは言え、いつまでも男爵家の息子が従騎士では体裁が悪い……それが理由であったにせよ。

 男爵夫人は焦った。
 6年の歳月を経て、ダインは父親の若い頃に瓜二つの頼もしい青年に成長していた。
 剣の腕はいよいよ冴え渡り、勇猛果敢な性質と相まって従騎士ながらも一目置かれるようになっていた。
 かろうじて嫉妬に根ざす蔑みの方が勝ってはいたが……長きにわたり従騎士に留まることは、いきおい彼が訓練所でも古株になることに繋がっていた。

 とかく年かさの者が威張り散らして新入りをいたぶる中、ダインはあくまで彼らに対して公平に接した。平民出身であろうと、年下であろうと、優れた所は認め、評価した。
 自らが過ちを冒した時は、躊躇せずに謝罪した。それこそ、東方に旅立ったロベルトから教えられた通りに。
 誰にでも分け隔てなく接し、田舎育ちから得た経験から、まき割りや武具の手入れ、馬の世話と言った下働きのするような仕事も進んでやる。困っている者に行き合えば迷わず手を貸し、惜しみなく力を尽くす。
 加えてまっすぐな性質故に、ダインは好かれた。
 後輩や、町の住人たち、とりわけ底辺に生きる人々に。

(このまま訓練所に留まっていても、結果は良くない)
(だが忌まわしい愛人の子がハンメルキンの騎士になるなど、もっての他)

 男爵夫人は一計を案じ、腹心の部下を呼び寄せた。

「イアーゴ、頼みたい事があります。また私のために働いてくれますね? 十四年前のように………」
「仰せの通りに、レディ」

 夜の闇の中、秘かに放たれた悪意と言う名の見えない矢。その切っ先が己に向けられていることを、ダインはまだ、知る由も無かった。
 
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【16-3】恥じかきっ子

2012/05/15 0:21 騎士と魔法使いの話十海
 
 王都からやってきた迎えの馬車は、やたらめったら派手な造りで、正直あまり俺の好みじゃなかった。金かけてるな、とは思ったが。
 だが馬車を引く馬は、そろいもそろって素晴らしかった。
 手入れの行き届いたつややかな毛並み。力強く堂々たる体格。身に付けた馬具も上質な革で、きっちり作られていて、目を奪われた。
 撫でたくてうずうずしたが、迎えに来た男は毛ほどの興味も馬には持っていないようだった。それだけならまだいいんだが、俺にも同じ態度を強いたので閉口した。

 まったく、こいつは馬を何だと思ってるんだろう? ただ自分の乗った馬車を引いて、目的地に運ぶだけの動く物体だとでも?
 御者ともろくに口をきこうとせず、たまに話しかける時の、横柄で冷淡な態度と来たら! あれが人に物を頼む態度か。とにかく一緒に居ると息苦しく、酷く嫌な気分になる男だった。

 後で知ったがそいつは父に仕える家令だった。
 俺は領土から徴収する税金や小作料と同じように、この男に回収されたって訳だ。

 差し向いで馬車に乗ってる間、家令は延々と俺に説教し続けた。
 だいたい言ってることは同じ事の繰り返し。

「庶子とは言え、あなたはハンメルキン男爵家の一員として迎えられるのです」
「くれぐれも家名を汚さぬように」
「兄上の妨げとならぬように万事において分をわきまえ、謹みなさい。あなたはこれから王都で暮らすのです。田舎の領主館とは格が違うのです」

 父親にも義母にも会いたいとは思わなかったし、愛情も感じていなかった。
 だけど兄がいると知って、興味がわいた。

「兄貴がいるのか?」

 その瞬間、ぴしりっと手首をひっぱたかれた。馬に興味のない男が、何で乗馬用の鞭なんざ持ち歩くのかと思ったが、このためだったのか!

「いてぇっ」
「下品な言葉遣いは謹みなさい。これだから田舎育ちの『恥じかきっ子』は……」

 恥じかきっ子。
 父親の放蕩の結果、正式な婚姻によらずに生まれた子って意味だ。
 この後折に触れ、何度も耳にすることになった。それこそ呆れるくらいに繰り返し。
 真っ赤になった手をさすりつつ、ぐっと歯を食いしばる。腹ん中はかっかかっかと煮えくり返っていた。

 下品なのはどっちだ、この下衆野郎。しかも出し抜けに人を鞭でひっぱたくなんて!
 こいつの鼻っ柱に一発食らわしてやらなきゃ気が済まない!

 だけど一方で悟ってもいた。
 こいつの意に沿わぬことをすれば、それは全て伯母上たちの咎となる。それだけは、避けなければ。
 沈黙を服従と受けとったか、男は満足げに鼻を鳴らした。

「兄上とお呼びしなさい。あなたなど足下にも及ばない、正規の婚姻による尊い生まれの若君です」

 既に俺の目と耳は、そいつの言うことも聞いていなければ、蔑みのまなざしも見てはいなかった。
 俺に、兄弟がいる。
 血の繋がった、兄がいる。
 それだけで、灰色に塗りつぶされた胸の中にぽっと小さな灯がともったような気がした。
 
     ※

 馬車で走り続けること丸二日。王都の石造りの巨大な門をくぐった時は、さすがにあっけにとられて開いた口が塞がらなかった。
 こんなにでかい建造物が、人間の手で作られたのが信じられなかったんだ。門の向こうには大勢の人、人、人。いったいどこから出てきたんだろう?
 生まれて初めて見る石畳の町に圧倒され、ぽかーんっとしてる間に馬車は、これまたでっかい屋敷の裏門から中に入って行った。
 そう、裏門だ。子供にだって判る。立派な馬車で迎えに来たのは、あくまで体裁を整えるため。
 俺はやはり歓迎されてはいない。できる事なら人目に触れさせたくない。隠しておきたい存在なんだなって。

 屋敷に入るや、否応なく浴室に放り込まれ、がしがし洗われて。ついぞ袖を通したことのない、立派な……しかし酷く収まりの悪い服を着せられた。

「ご家族との対面まで、ここでじっとしているように」

 言い含められて押し込まれた部屋は、天井が高く、火の気が全くない。置かれている家具は立派だが、やたらと寒々しく、息が詰まった。
 窓からぼんやりと外を眺めながら思ったね。
 こんなにいい天気なのに。しかも、すぐそばに気持ちの良さげな中庭があるってぇのに、薄暗い部屋ん中でじーっと座ってる道理があるか?
 幸い部屋は一階で、しかも庭に面した窓には鍵はかかっていなかった。とっとと抜け出し、歩き回る。
 ふかふかした芝生を踏みしめ、手入れの行き届いた庭木の間を通り抜け、鳥のさえずりに耳を傾ける。
 手足を伸ばし、芝生にころっと寝ころんで、二日ぶりに「生きてる」実感を味わってると……

 薔薇の茂みの向こうから声が聞こえてきた。滑らかで、柔らかな響きの女性の声と、それに応える男の子の笑い声だった。
 芝生にうつ伏せになって、葉影から覗いてみる。
 緑のドレスを着た黒髪の女性と、彼女に良く似た、すらりとした体つきの少年が居た。
 即座にわかった。
 あれが兄貴なんだって。肌の色は透き通りそうなほど青白く、骨組みも華奢で、たおやかで。まるで絵本に出て来る妖精みたいな人だった。

 兄は瑞々しい赤い薔薇を一本手にしていた。さっき手折ったばかりなのだろう。

「母上、どうぞ」

 女性は目を細めて薔薇を受けとり、顔を寄せて香りを嗅いだ。
 美しい人だった。以前聖堂で見た女神像にも似た、穏やかな笑顔だった。正直面食らったが、とくんっと胸が鳴った。
 この人が、父の正妻。俺の義母にあたる人なのか。思ったより優しそうだ。これなら案外、上手くやってけるんじゃないか?
 
 淡い希望を抱きながら、足音を忍ばせて控えの間に戻る。ほどなく呼び出された広間で生まれて初めて『家族』と対面した。

 窓のほとんどない広間は、どっしりと重苦しい暗赤色に塗りつぶされ、所々が金色で縁取られていた。カーテン、床に敷かれた絨毯、壁紙から、一段と高い奥に設けられた立派なひじ掛け付きの椅子に至るまで。
 椅子の後ろの壁には、ぴかぴかに磨き抜かれた盾が掲げられている。銀色の表面には、後脚で立ち上がった真紅の獣が描かれていた。獅子の後脚、鷲の顔と前足、翼をそなえた雄々しい獣……グリフォンだ。

「長旅ご苦労だったな」

 椅子に座った男が、肘かけに腕を乗せて身を乗り出した。横にはさっき庭で垣間見た女性と少年。義母と兄が付き従っている。

「前に出で、顔を見せろ」

 家令にせっつかれて前に出る。
 柱の影から進み出て、差しこむ陽の光の中に踏み出した瞬間。居合わせた人々が、一斉に息を飲む気配が伝わって来た。部屋の隅から、中央の壇上から。さざ波のように押し寄せ、床に立つ俺の体を揺さぶった。
 まるっきり晒し者じゃないか!
 酷くいたたまれない気分になる。できるものなら小さく縮こまって、家具の下にでも潜り込みたい。

 愛人の子を引き取るのは、貴族の家では珍しい事じゃない。だが、よくある事と受け流すには、俺はあまりにも父に似過ぎていた。
 緩く波打つ金髪混じりの褐色の髪。緑の瞳。骨組みのがっしりした頑強な体。
 八年ぶりに会った父は、誰の目にも親子だとはっきりわかるほど、俺との共通点が多かったのだ。
 そして父本人も、その事に気付いたようだった。
 
「その頬の傷はどうした」
「剣の稽古の時に、受け損ねました」
「ほう、お前はもう剣術の稽古をしているのか」
「はい、八つの時から」
「ふむ……」

 父は椅子から降りて俺に近づき、ぐっと顔を寄せて、のぞき込んで来た。

「かなり深く切ったな。もう少しずれていれば、目を抉ったやも知れぬ。あるいは、鼻がもげたかもな」

 ひくっと咽の奥が引きつれる。
 嫌なことを言う。だがどちらも傷を負った時、正に俺が想像した事だった。

「どうだ、ディートヘルム。稽古が怖くなったか?」
「いいえ」

 この男は俺を試している。負けるものか。
 父の目を見返し、きっぱりと答える。

「次はもう、同じ失敗はしません!」

 くっと口の端を上げ、父は満足そうにほほ笑んだ。
 背を向けていたから、彼は気付かなかった。だが俺には、はっきりと見えた。
 その瞬間、血の繋がった兄と義理の母の顔は憎悪に引きつれ、目には暗い炎が燃えたぎっていた。

 淡い希望は打ち砕かれ、嫌というほど思い知らされる。自分は望まれない存在なのだと。同時にどれほどディーンドルフの家族に守られていたのかを。
 そしてあの男……兄の側に影のように控える黒髪の男を見た瞬間、悟ったんだ。

(姉上を水に沈めたのは、森を彷徨う角のある狩人なんかじゃなかった)
(生きて血の通った人間の手だった)

 庭園で薔薇を手にほほ笑んでいた二人の姿が脳裏をよぎる。
 他ならぬ自分の存在こそが、あんなにも穏やかな人たちを憎しみに駆り立てた。
 母を思いながら義母を娶った、父こそが全ての元凶。

 心に別の人間を住まわせながら、儀礼上の義務を果たすだけにもう一人を娶ったりしたら……それは、裏切りだ。どちらに対しても。

 俺は決してなるまい。
 あの男のようには。

     ※

 父が俺に対して興味を示したのは、後にも先にもそれっきりだった。
『どこからともなく』湧いた『色の変わる呪われた瞳』の噂が広まるにつれ、父にとって俺は、できるものなら忘れてしまいたい、厄介なお荷物となって行った。
 屋敷を出て、訓練所に入りたい。そう申し出た時は露骨にほっとした顔をしたもんだ。

 俺が訓練所に入って間もなく、兄が正騎士になったと聞いた。王侯貴族を招いて派手に祝ったらしい。

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