2012/05/15 0:34 【騎士と魔法使いの話】
馬鹿だな、俺って奴は。
それでも、君を恨むことができない。たとえ仮初めの優しさでも、確かにそれはそこにあったのだから。
「君は、どうなるんだ」
「さあてね」
グレイスは腕組みして横を向き、けっと口の端を歪めた。
「しくじったんだ、おっつけ上の連中に始末されるだろうさ。まったくあんたなんかに関わるんじゃなかった」
始末される。その言葉が氷の槍となり、心臓に刺さる。
彼女が殺されてしまう。あの日、水に沈められた姉上みたいに青ざめて、堅く強張り、冷たくなってしまう。
嫌だ。
絶対に嫌だ!
「……まだ間に合う。町を出ろ」
ぎょっと目を見開くと、彼女は眉を寄せて片目をすがめ、さも小ばかにしたような笑みを浮かべた。
「あんた、馬鹿ぁ?」
何て言われようが、構うもんか。マントを拾い上げ、ばさっと頭から被せる。
「うぷっ、何するんだいっ」
「我慢しろ」
艶やかな赤毛も、白い顔も手も、刺繍の施されたスミレ色のドレスも何もかも、無骨な羊毛織りのマントの下に覆い隠して留め金を掛ける。
「あんた……」
「来い」
強引にグレイスの手を引き、歩き出す。
庭園の裏口から抜け出し、裏通りに入る。空までそびえ立つ石造りの建物に挟まれた、細い路地を奥へと進んだ。
ここを通ると、いつも猫かネズミにでもなったような錯覚を覚える。
グレイスはもう喋らない。逃げもせず、暴れもせず、黙って俺についてくる。ただ時折、重ねた手をきゅっと握って来た。
(こんなに長い間手を繋いだのは、初めてだ)
周囲の壁がすっかり薄汚れ。空気にまでベタベタと油が染みこんだ一角でひょいと曲がる。袋小路のとっつきを、半分くずれた小屋が塞いでいる。
「……ここだ」
素早く近づくと、入り口を覆うぼろ布をかき分け、木の扉を叩く。
まず三度、次いで二度、一度、仕上げに二度。
ほどなく生き物の動く気配がして、のぞき穴の向こうに影が差す。
「長に会いたい。ダインの頼みだと伝えてくれ」
きぃ……と扉が開く。素早く中に滑り込んだ。
「うっぷ! 何よ、この臭い!」
グレイスが顔をしかめ、鼻と口を覆う。湿った布と木材、油と、酒と、塩とジャガイモ、そして発酵しそこねたチーズそっくりの臭い……風呂とは無縁の生きた身体の発する臭いだ。
小屋の中には、ちっぽけなランプが灯されていた。
丸いオレンジの光でぽっかり切り取られた空間の外は、暗がりに沈み、ほとんど何があるのか見えない。だが、息を潜めてこっちを伺う気配がいくつも潜んでいる。
この小屋にいるのは、俺たちだけじゃない。
「どこなの、ここは!」
「乞食組合の、“巣(hive)”」
「はあっ?」
思わず挙げたグレイスの甲高い声に、部屋のあちこちの隅っこから『しいいいいっ』と小さな叱責が答える。
慌てて彼女は口を押さえた。
「つっても、王都の中にいくつもある拠点の一つだけどな」
「いや、だからあんたが。男爵家の若様が、何だってんな連中とつき合ってんのさ!」
ごとり、と小屋の奥で重たい物の動く気配がした。
ぞり、ぞりり……。
床の上げぶたが横に滑り、中からぬうっと影がせり上がる。汗と垢の臭いに混じり、煙草のにおいが漂った。
「よ、チャル・カル。元気か?」
ちっぽけな、しかし器用そうな手が、長ぁく伸ばした髪を左右にかき分ける。
鼻っ柱の低い、ネズミみたいな尖った顔。黒くツヤツヤした抜け目のない瞳が現われる。
「あいや、ダインでねぇの! やーっとやっと正騎士になれるんだってなぁ。はぁ、めでてぇ、めでてぇ!」
小柄な体が、豆みたいにぴょんぴょん飛び跳ねて近づき、手を握ってきた。
迷わず握り返す。ただし、潰さないよう力を加減して。
「マスター・ギアルレイんとこで剣が打ち上がったって聞いたからよ? はぁ、儀式も近いんだべなぁって思っとった! えがった、えがった」
「ありがとう。嬉しいよ」
乞食組合の長は心の底から嬉しそうに、顔中くしゃくしゃに笑み崩す。しかしグレイスを見るなり、表情を引き締めた。
「んで。頼みてぇ事ってのは、何だ?」
「うん……彼女はグレイス。俺の大事な人だ」
「んむ」
「訳あって命を狙われてる。人目につかないよう、王都から逃がして欲しい」
チャル・カルはぴくっと眉をはね上げた。
マントですっぽり覆われたグレイスの全身をねめ回し、最後にしっかり握り合った手に目を留めて。
「ふむ」
大きくうなずいた。
「よかろ。それが、おめぇさまの頼みなら。俺らはなーんでもするよ」
「……感謝する」
「そうと決まったら、とっとと出かけっど!」
乞食はどんな場所にも潜り込む。そこに彼らが居ても誰も気にしない。むしろ目をそらす。それ故彼らは情報に通じ、あらゆる場所に張り巡らされた抜け道を知り尽くしていた。
ぴょいっとチャル・カルは上げぶたの中へと飛び込んだ。と、すぐに顔を出して、ちょいちょいと手招きする。
「ほーれ、はよ来!」
「……あの中に入れっての? 冗談じゃないわ!」
「大丈夫。俺が、支えるから……失礼」
「ちょっと、あんた、何をっ」
「掴まってろ」
グレイスを抱きあげ、しっかり抱えて。一息に穴の中へと飛び込んだ。
「きゃあっ」
ひょおおっと冷たい風が頬を撫で、長い赤毛を舞い上がらせる。かと思ったら、ずっしぃいんっと足の裏から膝、腰、脳天にかけて衝撃が走った。
膝でかなりやわらげたつもりなんだが、二人分だし、な。
「……な? 大丈夫……だった……ろ?」
「あんたって、ほんと、救いようのない馬鹿ね!」
じっとりと湿った暗い地下道には、チャル・カルと明かりを携えた男が二人待っていた。組合の「若い衆」たちだ。
「ほれ。行くど」
「うん」
歩き出そうとするより早く、グレイスは俺の胸をずいと押し、腕から降りてしまった。
「お構いなく。自分で歩けるわ」
「……ごめん」
「何であんたが謝るのよ!」
俺、また余計な事しちまったんだな。後悔と恥ずかしさがずしりと肩にのしかかる。背中を丸め、うつむいた。
「………ごめん」
「ダイーーン?」
チャル・カルの声に我に返り、慌てて顔を上げる。
「今行く!」
じっとり湿った暗い道。ちっぽけな灯を頼りに慎重に足を運んだ。
「何で、あんたら、こうまで面倒見てくれんのさ」
「そーら、おめえさまはダインの大事な人だからのー」
チャル・カルはぽふっとトウモロコシパイプから香りのいい煙を吐き出した。
「俺らが、殴られたり、蹴られたり、あるいはもっと酷い目に遭わされててもよ。だーれも気にしゃしねえ。ゴミが蹴られようが捻り潰されようが、お構い無しだもんなぁ?」
「……まぁね」
「んでもよ、あの騎士様は違ってんだ。いっつーでも。いっつーでも俺らの味方してくれんだわ。いっつーでもな。したっけよぉ、俺らもあん人の味方するって、決めたんだわ」
ぽこっとまた、煙の輪が宙に浮く。
「いっつーでもなぁ!」
※
地下道は、王都から川の本流へと向う古い水路に通じていた。岸辺の葦の中にひっそりと、小舟が一艘待っていた。
「さてっと。おめぇさまはここまでだ、ダイン」
「……うん」
「東に向かう川船に乗り込む手はずはつけてある。心配すんな。おめぇさまの大事な人は、俺らが責任持って安全な所まで送り届けっからよ?」
「うん……」
言葉が出なくて、ただチャル・カルの手を握った。ちっちゃい手。だが器用で、よく動く手がにぎり返し、それからぱたぱたと背中を叩いてくれた。
改めてグレイスに向き直る。
「グレイス」
「それはあたしの本当の名前じゃない」
「知ってる。だけど他に呼び方を知らない」
眉を寄せて肩をすくめてる。しょうがない、とか。やれやれ、とか、そんなため息が聞こえてきそうな顔だ。呆れてるのかな。
呆れてるんだろうな。
「ダイン。あんたって子は……」
花が香る。地下道のすえた臭いよりも、淀んだ水よりもなお強く。暖かくしなやかな体が、ぴたりと寄り添っていた。
「だったら、その名前は……」
ゆるりと腕を巻き付けると、彼女は耳元に囁いてきた。
「あんたにあげるよ」
「っ!」
小鳥のさえずりに似たかすかな音に、体がすくみ、動けない。
ふわりとマントが翻る。寄せられた温もりが消えて行く。
こうしてグレイスは行っちまった。
ぎこちなく差し伸べた手をするりと抜けて、頬に柔らかな唇の感触を残して。
もう、振り返りもしなかった。
俺はと言えば、馬鹿みたいにぼーっと突っ立っていた。彼女を乗せた小舟が遠ざかり、ちっぽけな点になるまで。
我に返った時は、チャル・カルたちは音もなく去っていた。
一人になると、途端にひどく寒々しい気分に囚われた。水面を染める夕陽の赤が、やたらめったら目に染みる。手をかざし、目を細めても、ちくちく疼いてまぶたが引きつれる。
「ああ、もう、眩しいなあ」
騎士になるのは俺の目標だった。そのために歯を食いしばって生きてきた。
だけど、それを望まない人たちがいる。
「眩しいったら……ありゃしねぇ……」
無性にロブ先輩に会いたかった。
今、この瞬間、先輩が側に居てくれたら何て言うだろう?
ここで泣いたりしたら、怒鳴られる。背筋を伸ばせって、きっとどやしつけられる。
だから。
ぐいっと拳で顔を拭い、背筋を伸ばした。
あの人に恥じるような生き方は、したくない。
してたまるかよ。
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