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【32-3】あきらめない理由

2014/01/24 0:43 騎士と魔法使いの話十海
「もう大丈夫だね」
「はい。ありがとうございます、先輩」
 この時点で始めてニコラは気付いた。
「あの、先輩は何故、ここに?」
「僕も今日、試験を受けるから」
「そっかぁ……だから落ち着いてるんですね」
「ううん、緊張してるよ? だって初めてだし」
「………えっ?」
 二人は手を握り合ったまま、固まった。
「だって先輩、二年めで、術師試験は年に二回あって……え? え? え? え?」
「そうだよ、夏に一回、冬に一回」
 エルダは肩をすくめて目を伏せ、小さくため息をついた。心なしか声が沈んでいる。
「一年めの夏に落ちても、冬にもう一度チャンスはある。そのはずなんだけど……」
 魔法学院に入学して二年めのエルダには、少なくともこれまでに二回、受験のチャンスがあったはずなのだが。
「先輩、何の試験受けるんですか?」
「召喚術」
「……途中で志望を変えたとか?」
「ううん。最初から召喚師希望だよ。入学してからずっとね。でも何度挑戦しても、最初の使い魔が呼べなくって」
「あ……」
 ニコラは何となく気まずくなって、胸元の琥珀のブローチに視線を落とした。
 そうだった。エルダはナデュー先生の授業を受けるのは二年目なのだ。 

 基礎課程での使い魔召喚は、召喚師になるための最初の関門だ。向き不向きを知るための試金石でもある。
 それに失敗するって事はつまり、召喚術の適性が無いと言う事。スタートラインに立てないと言う事なのだ。
 ほとんどの訓練生は、最初の召喚が成功しなければ召喚師への道に見切りをつける。
 実習用の召喚円とは比べ物にならないくらいに試験用の円は大きく複雑で、強い魔力が必要となる。実習授業の召喚にすら失敗してしまった者にとっては、とんでもなくハードルが高いのだ。
「そろそろ他の術……巫術なり魔導術へ転科するか、あるいは学者を目指す事を勧められてるんだ。だけど、どうしてもあきらめられなくって、ナデュー先生にお願いしちゃった。一度でいいから試験を受けさせてくださいって」
 目に浮かぶようだ。『じゃあ受ければ?』って、軽い口調でOK出したんだろうな、あの先生。手続きとるの、すごくめんどくさいはずなのにおクビにも出さずに。
「一度もチャレンジしないで終わりたくない。受かっても落ちても、これが僕にとって前に進む最初の一歩なんだ!」
 気弱なようで芯が強く、後ろ向きなようでいて実はポジティブ。普段は控えめで目立たない先輩の、思いも寄らぬ強い気概に触れて、四の姫の闘志が再び燃え上がる。
 とんっと足を肩幅に踏ん張り、ニコラは拳を握った。
「よぉし、私もがんばる! まだ一年めだし!」
「そうそう、その調子! 僕なんか二年めだからね!」
 言ってから自分の言葉がずっしりとのしかかってきたのか、エルダは力なく肩を落としてうなだれる。今度はニコラが彼の手を握る番だった。
「先輩は、どうして召喚師になりたいんですか? やっぱり、ナデュー先生に憧れて?」
「うん、それもある」
 自分の希望と真剣に向き合う事は、確実に前に進む力になる。さっき、ニコラ自身を勇気づけてくれたのと同じように今、エルダの声に力が戻ろうとしている。
「五年ぐらい前だったかな。僕がまだ故郷の村に居た頃……あ、ソーエンハウンって言う、湖のほとりのちっちゃい村なんだけどね?」
「あ、聞いた事がある! 三日月型の湖なんですよね」
「そうそう、山間の小さな村で、ほとんど人の出入りもない静かな所なんだ。たまに、旅芸人が来たりするともう、村中、大賑わいで……宿の酒場や村の広場に集まるんだ。ほとんどお祭りだよ」
 エルダは首に指を回し、そこにかけていた革ひもをひっぱった。胸元から小さな袋が現われる。
(あれ?)
 初めて見たはずなのに、ニコラは何故だかそれが、とても身近で親しみのあるものに感じられた。
「ある日やってきた旅の楽師さんがね。可愛い猫を連れていたんだ。黒と褐色まだらの小さな子猫で、背中には翼が生えていた」
「っ!」
 思わず息を呑む。
(もしかして、それって?)
「それだけじゃないんだ。その子猫はね、歌ったんだ! 楽師さんと声を合わせて、きれいな声で。小鳥のさえずりと子猫の鳴き声が合わさったような、そりゃあ可愛い声だった」
「ぴゃあぴゃあって?」
「そう、ぴゃあって!」
 ニコラの中で、おぼろげな予測が形をとりつつあった。
「何て不思議で、魅力的な生き物だろうって思った……おばあちゃんが、きっと異界からやってきた生き物だろうって言ってた。おばあちゃんは若い頃、バンスベールに住んでいたんだ」
「ああ!」
 バンスベールの町には、異界との境界線が走っている。だからアインヘルダールよりもっと、沢山の召喚師が住んでいる。もちろん、使い魔も。町の人たちにとっても、それだけ身近な存在なのだ。
 専門の召喚術師を目指す者は初級試験に合格した後、バンスベールの分院に移る。
「僕も、あんな風に異界の生き物と友達になりたい。通じ合いたいって思ったんだ」
 エルダは小袋の口をゆるめ、中に収められていた物を指先でつまんで大事そうにとり出した。
「これ、ね、公演が終わった後、広場の片隅で見つけた。僕のお守りだよ」
 黒と褐色入り混じる、一枚の小さな羽根。
(ちびちゃんの羽根だーーーーーー!)
 この瞬間、ニコラの予測が確信に変わった。

「それに。マスター・エルネストは君が思ってるほどおっかない人じゃないよ? ああ見えても美人の奥さんと可愛い四人の子供がいるんだ」
「美人の奥さんっ? 四人の子供!?」
「うん。愛妻家で、子煩悩なお父さんなんだよ」
「そ、想像できない……」
 ちょうどその時、扉が開き、赤いローブをまとった教師が入って来た。ほお骨が浮いて見えるほど痩せていて、琥珀色の瞳はやぶにらみ。眉間には深い皴が刻まれている。話題の主、マスター・エルネストだ。
 上級巫術師はじろりと(少なくともニコラにはそう見えた)二人の生徒を睨め付け、淡々とした声で告げる。
「ニコラ・ド・モレッティ、エルディニア・クレスレイク。君たちの番だ。試験会場へ移動しなさい」
「はいぃっ」
「はいっ!」
 弾かれたように二人は立ち上がり、見つめ合った。

 赤いローブの教師の後をついて、長い長い廊下を歩く。階段の所で二人はわかれた。巫術師の試験を受けるニコラは下に、召喚師の試験を受けるエルドは上に。ここから先は会場が別なのだ。
「じゃあ、先輩、がんばって!」
「ありがとう。ニコラさんの健闘を祈ってる」
 ニコラはぐっと拳を握り、親指を立てて笑いかけた。何もかも吹っ切れた、迷いのない笑顔で。
「後で師匠のお店で祝杯上げようねっ」
「うん、楽しみにしてる!」

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【32-2】ニコラのピンチ?

2014/01/24 0:42 騎士と魔法使いの話十海
 師匠の読みは正しかった。
 まさにその瞬間、アインヘイルダール魔法学院の一室で、四の姫ことニコラ・ド・モレッティは(彼女にしては非常に珍しいことに)がたがた震えていたのだ。青ざめて、歯を食いしばり、手のひらにぐっしょりと冷たい汗をかいて……。
 寒さのせいではない。季節は夏の始め、陽はさんさんと降り注ぎむしろ暑いくらいだ。
 石造りの建物の中はひんやりとして涼しいが、屋外はそれこそ立っているだけで汗ばむほど。学院の制服からは重たい上着が取り払われ、麻と綿を使った身軽で風通しのよい夏服に変わっている。
「ううう、うー……」
 彼女が今座っているのは、初等訓練生の教室だ。
 石造りの外壁に包まれた漆喰塗の壁と木の床。天井は高くアーチ状で、大きな天窓から外の光をいっぱいに取り入れた室内には、生徒が読み書きするための木製の机と椅子が並んでいる。
 学院の隅々まで通う強力な魔力の流れ……力線が建物の建築様式に組み込まれた術式によって導かれ、常に一定の強さを保つように調律されている。
 本来なら魔法的にも精神的にも極めて安定し、落ち着ける環境にいるはずなのだが。
 ニコラは緊張しきっていた。
 あがっていた。
(大丈夫大丈夫って言われるけど、それで落ちたらどうすればいいのーっ!)
 極度のプレッシャーで、身も心もガチガチに固まっていたのである。

 前日に行われた学科試験では、こんな事はなかった。今まで学んで来た知識を総動員して正しい答えを書きさえすれば良かったのだから。しかし、今日行われる実技は違う。
 内容は単純だ。定められた道を通り、試験官の待つゴールへ行く事。
 ただし、途中にはニコラの術と能力に合わせた関門が設けられている。今まで習い覚えた呪文と力と知恵。全てを駆使して突破して、規定の時間内にゴールまでたどり着かなければいけない。
 言うなれば決まった答えがない。正解が存在しないのである。
(ど、どうしよう。落ちた瞬間から先の自分が想像できない……)
 なまじ試験の自由度が高いが故に、ニコラは戸惑っていた。同時に、これまで魔法で失敗したことがないからこそ、強いプレッシャーを感じていた。

 最初の呪文は師匠に教えられるまま唱えた。深く考えずに『こうするものなのだ』と素直に実行したら、使えちゃった。
 使い魔を呼ぶ試みも一回で成功した。
 それがここにきて初めて気付いてしまったのだ。
 今までつまずく事無く、何も考えず、息をするように自然に歩いてきた道が、実は高い高い塀の上だったと……一度その狭さと高さを意識してしまうと、もういけない。下を見てしまう。手足がすくむ。
 こうして今、実技試験の順番を待っている時間がとてつもなく苦しい。
 また、いかなる巡り合わせか今回は初級巫術師の試験を受けるのはニコラ一人だった。共に不安を分かち合う相手がいなかったのだ。
 日ごろ慣れ親しんだはずの教室に、一人ぼっちでじっとたたずんでいると……四方八方から静けさが目に見えない壁となり、押し寄せてくるような気がした。目でも閉じようものなら、天井までもがじりじりと下がってくる錯覚に囚われる。狭い空間に閉じこめられ、逃げ場を失い追いつめられる。息がつまる。
(もうだめ。このままじゃ、潰れちゃう!)
「ニコラさん」
「……ふぇ……姉さま?」
「え?」
 我に返り、うっすら目を開く。すぐそばに、心配そうに見つめる、澄んだ赤茶色の瞳があった。
「い、いえ、何でもありません、エルダ先輩っ!」
 怪訝そうに首をかしげる相手は、エルディニア・クレスレイク。学院の一年上の先輩だ。赤いふわふわの巻き毛に透き通った紅茶のような瞳、赤毛の人間特有の血管が透けて見えそうな白い肌。色彩こそ鮮やかではあったが顔立ちや背丈に取り立てて目立った所はなく、どこに居ても誰も気付かないし気にしない。

 学年こそ違うが、二人はナデュー先生の召喚術の授業を一緒に受けている。
 本来ならエルダは既に基本過程を終えて、神祈術、魔導術、巫術、召喚術のいずれかの初級術師の資格を得ているはずである。しかしながら二年めにも関わらず、彼が着ているのは魔法訓練生の制服だ。それぞれの属性を象徴する色で染められた、術師の証たる「魔法使いのローブ」ではない。
 ほとんどの基礎課程と学科で優秀な成績を収めながら、彼は未だに魔法訓練生のままなのだ。
 何故か。
 エルダは召喚術師志望だ。だからこそ、召喚術の授業をとっている。熱心に勉強もしている。だが魔法と言うのは、時として本人の努力と希望だけではどうにもならない場合がある。どんなに願っても、望んでも、手が届かない時がある。
 エルディニア・クレスレイクは基礎課程の中でただ一課目、基礎召喚術のみ落第していたのである。
 成績優秀なのに、術師ではない。かと言って学者志望でもない。宙ぶらりんな立ち位置のエルダは、多くの教師たちからも同級生からも、後輩からさえも、まるで腫れ物のように扱われていた。
 一部の例外を除いては。
 そして、かつて『おまけの四の姫』と呼ばれていた少女はその例外の一人だった。
「気分が悪そうだね。大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫ですにょ?」
「にょ?」
 エルダは手にした素焼きのカップを差し出した。満たされた薄い黄色のお茶からは、リンゴに似た甘酸っぱい香りがほのかに立ち昇る。
「カモミールティー、入れてきたんだ。一緒に飲もう」
「あ……はい」
 ニコラは素直にカップを受け取った。二人は並んでカップを口元に運ぶ。一口、二口すすってから、同時にほうっと息を吐いた。
「はぁ……落ち着くぅ」
「うん。落ち着くね」

 採れたてのカモミールを使ったお茶の効果はてきめん。
 しかし落ち着いたら落ち着いたで、今度は時間の経過が気になる。
 どんなに焦っても一分は一分、一秒は一秒。その時が来るまで自分の試験は始まらない。
(ああいっそ自分の番が来るまで気絶していたい!)
 一度落ち着いたかに見えたニコラの意識は再び千々に乱れ、全身から冷たい粘つく汗が噴き出す。
「あああああっ」
 やおら、がばっと机の上に突っ伏した。
「何で私、ここにいるんだろう……」
「ニ、ニコラさん?」
「たまったま師匠のお店に行って、教わった呪文が使えちゃったもんだから勢いで魔法学院に入っちゃって、ひたすら勢いとノリで突っ走ってきて。そんなんで、そんなんで術師試験なんか受けていいの?」
「ニコラさん」
「だってだってこの日のために、ちっちゃな頃から弟子入りして、こつこつこつこつ修行積んで、将来は上級術師になる予定立ててる人たちの中に混じってこんなこんな私なんかがーっ」
 足下の床がぐるぐる回り出す。両手で顔を押さえても、机にしがみついても止まらない。
「おばあさまが、リヒキュリア様の巫女だった、なんて聞いて舞い上がっちゃって。ちょっとぐらい師匠から術の手ほどき受けて、上手くいったからって調子に乗ってるだけなのに、初級試験受けようなんて、増して受かろうなんて考えるの甘いよね、どうかしてるよね、うわぁああんごめんなさいごめんなさいーっ」
「ニコラさんっ!」
「しかも試験官が、マスター・エルネストだしっ! 私あの先生苦手なの、眉毛うっすいし、三白眼だし、いっつも怒ってるみたいに眉間に皴寄せてるし、実際、いつもむっつりして不機嫌だし、何考えてるのかわかんないしっ」
「ニコラさんってば!」
 痛いほどしがみついていた机から両手が剥がされて、握られた。
「しっかりして。焦りに流されちゃいけない」
「あ……」
 自分以外の人間の肌の感触と温もりに、ぐるぐると意味のない螺旋に巻き込まれていた視界が止まる。
「思い出して。君はどうして巫術師の試験を受けようとしてるの?」
 高からず、低からず。どこにも引っかからずするっと入ってくる中庸な声に、ささくれ立った意識が包まれる。
「おばあさまや師匠と同じ神祈術ではなく、ナデュー先生と同じ召喚術でもなく。それ以前にどうして、騎士の生まれなのに魔法使いになろうとしてるの? 教養として身に着けるだけなら、学者になればいい。わざわざ術師試験を受ける必要はないよね?」
 エルダの言葉はまさしくこの瞬間、ニコラの内側からふつふつと湧きあがる焦りの本質を的確に言い表していた。
 だから、答えた。素直に答えを導き出す事が、できた。
「私……初めてちっちゃいさんの言葉を聞いた時……わかったの、何となく」
「うん」
「あの、きゃわきゃわしたくすぐったい声が、何を言ってるのか。もっとよく知りたい。理解したいって思った。今はまだ、術を使う時に決められた言葉を並べるだけで精一杯だけど……」
 手を包むエルダの指にそっと力がこめられる。
「巫術を学んで、ちゃんと話したい。聞きたいの」
 エルダはまばたきして、うなずいた。
「それは、とても素敵なことだね」
 その瞬間、全身の震えが、止まった。

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【32-1】★いちじくの香る庭で

2014/01/24 0:41 騎士と魔法使いの話十海
 双子月(六月)が終わり、巨蟹月(七月)に入ると陽射しは急に強くなる。
 常に青空の片隅に居座っていた灰色の重たい雲は跡形も無く吹き払われ、まばゆい夏の輝きが目に写るあらゆる物を塗りつぶす。
 木々の緑も花の赤も、この季節はことさらに鮮やかだ。虫も鳥も魚も獣もそして人間も。生きるものは皆、短い夏の間に高らかに生命の喜びを歌い上げる。
 アインヘイルダールの北区の一角、裏通りにたたずむ古い古い薬草屋「魔女の大鍋」も例外ではなかった。
 裏庭に広がる薬草畑では香草や薬草、果樹がすくすくと枝葉を広げ、花を咲かせ果実を実らせ、むせ返るほどに濃密な『生命の香り』を練り上げていた。

「上手い事伸びたなぁ」
「すくすく伸びてますねぇ」
 店の主、フロウライト・ジェムルはしゃがみこんで目の前に生い茂る薬草に手を差し伸べる。
 井戸の脇のその一角は、この春に手に入れた東方の珍しい薬草を蒔いた場所だった。土地に宿る魔力……力線の恵みを受けて、気候も地質も異なるこの庭でも根付き、芽吹き、すくすく伸びてくれた。
「ほんっと、まさか自分とこの庭でこの草が採れる日が来るなんて夢に思わなかったよ」
「俺も、この草はまだ文献でしか読んだ事がなかったんで……感動しました」
「送り主に感謝しなくっちゃぁな」
 隣で屈みこんでいた黒髪の青年が、えっと声をたてて首をかしげた。
「買ったんじゃないんですか?」
「いんや。ある人からのプレゼントさね」
 にんまりと笑うフロウの顔には、明らかに含みがあった。
「レイヴンさんのお土産……じゃ、ないっすよね。あの人が戻ってくるより前にもう、種まいてたし」
「ん、まぁ何って言うか、そう。匿名のプレゼントって奴さね、エミル」
「はぁ……」

 少し離れた一角では、銀髪のすらりとした青年と、対照的にがっちりした体格の褐色の髪の大柄な男が二人してイチジクの実を摘んでいる。
「イチジクも薬草だったんだな。知らなかったよ」
 褐色のでか物が感に堪えないと言った口調でつぶやくと、銀髪くんが得たりとばかりにうなずいた。
「はい。葉も果実も、樹液も全部役に立ちます。無駄のない樹なんですよ、先輩」
「さすが果樹神の神官だな、シャルダン」
 先輩に褒められ、銀髪のシャルダンはほんのりと頬を染めてはにかんだ。並の男なら一撃で撃墜されそうな女神のほほ笑みも、目の前の唐変木にとっては可愛い後輩の範疇を出ない。だからこそ、エミルは比較的安心してこの二人を見守る事ができるのだ。
「おっと」
 やおら大柄な青年は顔をしかめ、で己の手を睨む。ねっとりと甘ったるい香りがひときわ強く夏の空気に混じる。
 どうやら、力を入れ過ぎてせっかく摘んだ実をつぶしてしまったらしい。
「ダイン」
 フロウの呼びかけにこたえ、眉をしかめたまま顔を向ける。
「イチジクってのは柔らかいからな。優しく扱え。優しくな?」
「……わかった」
 口をヘの字にひき結んでいる。しくじったのが悔しいのだろう。薬草を無駄にしてしまったと悔やんでいるのかも知れない。つくづく真面目な男だ。
「それ、食っていいぞ」
「ほんとか!」
 しょげたと思ったらもう、目を輝かせている。
 迷わず潰れた実の下側にぽっかり開いた開口部を指でつまみ、裏返すようにして表面の皮を剥いてしまった。
「おや」
 やたらと手際が良い。イチジクの薬効は知らずとも食べ方は心得てるって訳か。
 濃い赤紫と白、二層の果実を口に含み、もしゃもしゃとかみ砕く。指についた果汁まできれいに舐めとっていた。残ったのは皮だけ。実に器用なもんだ。
(あれができるのに、どーして潰すかねぇ?)
 フロウは首をすくめて再び眼前の薬草に視線を落とす。イチジクの収穫は順調に進んでいるようだ。この分なら、昼前に作業を終える事ができるだろう。
 夏場の作業は、空気の涼しい朝の内にすませるに限る。
「しっかしお前さんらも、物好きだねえ。せっかくの休みなんだから、もっとこうのびのび過ごす事だってできるだろうに」
「やあ、今日はどうしたって学院回りの力線が活性化して……『緊張』しちまうんで」
 雑草をむしる手を止めて、エミルは肩をすくめた。
「落ち着かないんですよ」
「ああ、確かに」
 だからって、何で俺の家に来るんだか。そんな疑問を口にするより先に、裏口の扉がばーんっと勢い良く開いた。
「やっほー、お茶の準備ができたよー」
 現われた青年……と言うべきなのだろうか。つるりとした手足にどこか猫めいた容貌。前髪の一房が赤く、黄金色の瞳の中世的な容貌の人物は、レースとフリルのたっぷりついたエプロンを身につけてこの上もなく上機嫌だ。
 すっかり馴染み切っている。だが、彼はこの家の住人ではない。
「こんにちは、ナデュー先生」
「やあ、ディーテ! 元気そうだね」
「その呼び方はちょっと、その……」
「え、何か問題あるかな」
「……ないです」
 満面の笑みを浮かべ、大柄なわんこ騎士をいとも楽々と丸め込む彼は、『マスター』の称号を持つ魔法学院の教官だった。
「イチジクのタルトを作って来たんだ。みんなで食べよう!」
「はーい!」
「おう」
 めいめいに返事をしてまずは井戸へ向かう。草むしりやイチジク摘みで手が汚れていたし、強い日差しの下での畑仕事で汗ばんでいたからだ。
 地下から組み上げた井戸水は、夏でも冷たい。それがむしろ心地よい。手を洗い、顔を流している最中にフロウはふとダインと目が合った。と言うより、顔を上げたら彼がこっちを見ていたのだ。
「どうした?」
「ん」
 答える代わりにダインは身をかがめ、首を傾けて顔を寄せてきた。あっと思う間もなく唇が重なる。目を細めて受け入れる。向こうは向こうで目を閉じもせずじっとこっちを見つめてる。左目の奥にかすかに、白い光が閃くのが見えた。
 厳密には白ではない。赤に橙、黄色、青に紫そして緑。入り混じる光の粒を呑んだ虹色のきらめきだ。強い魔力の流れや、ダイン自身の感情の昂ぶりに合わせて現われるその光は、つかの間見えてまた沈んだ。
 左目の異相。魔力の流れや異界の存在を見通す『月虹の瞳』は、今は彼の意識の統制下にある、と言うことだ。
「……」
 目に気を取られてる間にダインはもう顔を離していた。触れるだけの短いキス、だがこの数日、何かにつけて繰り返される。すれちがう度に、あるいは目が合う度にこの調子だ。初心な後輩たちが見ていようが、召喚術の先生が見ていようがお構いなしだ。そして、それは三人目の同居人たるレイヴンの前でも同じなのだった。
(わけがわからん)
 独占欲の為す技って訳でもない。そう言う時はもっとしつこく、荒々しい。奪い、貪り、場を選ばずそのまま押し倒される。
 しかし今のこれは、あくまでしたいと思った時に迷わずしてるって感じだ。あんまりにさりげないものだから、誰も突っ込まない。ナデューにしろ、シャルやエミルにしろ。
 海千山千の術師はにこにこと頑是無い笑みで見守り、初心な後輩たちはそっと目をそらす。当のダインはと言えば、何事もなかったように黙々と顔を洗っていた。
「ダイン」
「ん?」
「……いや、何でもない」
「ん」
(まあ、これで気が済んでるのなら良かろう。今んとこ邪魔になるでなし)
 そう考えて、フロウもあえて問いたださない事にしている。
 家に入る時、またされるのだろうなと予測しながら。
 
 事実、彼の予感は的中した。
 
     ※

 店の奥の台所。どっしりした樫の木製の食卓には、既にお茶の支度が万事整えられていた。まさに勝手知ったるなんとやら。
「んっぴゃ、んっぴゃああ」
 黒と褐色斑の猫が翼を広げ、天井から舞い降りる。
「とーちゃん!」
 肩に舞い降りた鳥のような、猫のような生き物をダインは目を細めて撫でた。
「ちび。こいつ、どこに潜り込んでたんだ?」
「ぴゃっ、ぴゃああ」
 ちびと呼ばれた生き物は、答えるかわりにぴとっとダインの頬に鼻をくっつけた。ひんやりとして、湿っている。
「冷たっ。ほんっとお前は涼しい所を見つける天才だよな」
「ぴゃあ!」
 女神のごとくたおやかな銀髪の騎士と筋骨逞しい黒髪の魔法使い、褐色の髪の大柄な騎士に亜麻色の髪の小柄な薬草師、そしてふりふりのエプロンを着て上機嫌な上級召喚師。風変わりな取り合わせの五人は薄荷を混ぜたお茶を飲みつつ、イチジクのタルトをほお張る。
「ちびちゃんの分もあるよ、タルト」
「んっぴゃっ!」
 ちびは瞬く間に自分の分を完食し、当然のように絹のような毛並みをすりよせ、おこぼれをねだる。それを断るような人間はこの場にはいなかった。

「あれ、レイヴンは?」
「うん、彼は研究が忙しいみたいだからね。部屋に持ってった」
「……そうか」
 ナデューの返事を聞いて、ダインはほっと安堵の息をついた。
 一つ屋根の下での三人暮らし。互いの存在に慣れてはきたが。いや、慣れようとはしてきたが、やはり視界に入る位置にいると落ち着かないのだ。
「ナデュー先生」
 銀髪の騎士が首を傾げる。その傍らではいつ移動したのか、ちゃっかりとりねこが赤い口をかぱっと開けて、タルトのおこぼれにあずかっていた。
「今日は、初級術師の試験の日、なんですよね?」
「そうだよ」
 あっさりナデューが答える。
 そう、だからこそフロウの弟子にして伯爵家の四の姫、金髪のニコラはここには居ないのだ。
 今、この瞬間、彼女は初級巫術師の試験を受けるべく魔法学院にいる。
「それなのに、先生はお休みなんですか?」
「私は今年は試験官じゃないからねー。試験中は、試験官と受験生以外は基本、学内立ち入り禁止なんだよ」
「ああ、だからエミルもお休みなんだ」
「うん。研究室からも追い出される」
 ナデューはイチジクのタルトの最後の一口をほお張り、薄荷茶で流し込むとため息交じりにつぶやいた。
「今年は気になる子がいるから、できれば立ちあいたかったのだけれど、ね」
「それって、まさかニコラさんのの事ですか」
「ううん。彼女は優秀だよ? 模試でもトップだったし、実技も目立った失敗は無い」
 ふーっとまたため息一つ。
「それはそれで、心配なんだけどね」
「へ?」
 ダインはぱちくりと瞬きして首をかしげた。何となれば、ニコラは自分よりよほど覚えが良いからだ。事実、己が手こずった祈念語の読み書きもあっさりクリアして先に進んでしまった。
「優秀だから、心配って、どう言う意味だ?」
 ゆるりとした口調でフロウが答える。
「あーゆータイプはかえって、つまづきのない事こそが壁になっちまうんだよ」
「わけわかんねぇ」
「木登りだってそうだろ? ちょっと登ってはずり落ちながら登ってった方が度胸はつくし、体もなじむ。なまじ最初っから高い所まで失敗せずに登っちまうと、それだけ怖くなる。ここから落ちたらどうなるんだろうってな」
「あぁ……それなら、何となくわかる……かな」
「ん。一生懸命になってるのがわかってるから、迂闊に落ちても気にするな、とは言えないしなあ。真面目な子だし……」
「ぴゃああ」
 すりよるちびの柔らかな毛皮を撫でて、フロウは目を細める。
「俺らにできることは、こうして待つ事だけ、って訳だ」
 そうなのだ。
 実際、ニコラの首尾が気になるからこそ、彼らはこうして顔をつきあわせているのだった。

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【32】四の姫の初級試験

2014/01/24 0:40 騎士と魔法使いの話十海
  • 夏祭り(七月から八月)を前に魔法学院の初級術師試験が行われる。アインヘイルダールで行われるのは神祈術、魔導術、巫術、召喚術の各種専門術。フロウの弟子、四の姫ニコラも巫術師試験を受ける。
  • 「まあニコラなら優秀だから心配ないよな」「阿呆。優秀だから心配なんだっつの」
  • 魔法に関してはこれまで挫折した経験が無い。だからこそ、ニコラは強烈なプレッシャーを感じていた。「うわぁん、どうしよう、ここで落ちたらどうしよう!」
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【おまけ】恋しくて、嫉ましく。

2013/07/07 16:38 騎士と魔法使いの話十海
  • 拍手お礼短編の再録。
  • 本編【30】四の姫と騎士訓練終了後、フロウの寝室で何があったのか。生まれて初めての嫉妬に戸惑いながらダインのとった行動は?
 
 でっかい生き物が、のしかかってる。
 夢うつつの中、フロウは感じた。
 恐怖は感じない。この気配、ほぼまちがいなくダインだ。金髪混じりの褐色の癖っ毛といい、人懐っこい目といい、でっかいわんこそっくりの騎士さま。背が高く、がっちりした体格で黙っていればそれなりに男前。いつでも素直に真っ直ぐに……。
(何か、今日は妙におとなしいな……)
 まどろみながら眉を寄せる。いつもなら、とっくにキスの一つ二つは降ってくるタイミングだ。唇だけならまだしも首筋やら耳たぶやら、時には胸元、鎖骨あたりにまで。不意打ちで腹に吸い付かれた時はさすがに一発どやしつけた。犬ってのはとにかく躾けが肝心だ。増して(あらゆる意味で)血気盛んな若者ならば尚更に。

 それが、何故か。のしかかるだけで、触れてこない。肩のすぐそばに、掌の熱を感じる。太い腕に繋がる厚い胸板、鍛えられた筋肉の発する圧倒的な質量が肌に伝わってくる。だが、あくまで気配だけだ。
(妙だな)
 こうなると、現実の出来事なのかそれとも夢なのか、あやふやになる。
 眠気とだるさにひっぱられる瞼をこじあけた。
(あ)
 うっすら霞む視界の中に、見おろす緑の瞳は無い。たてがみみたいな金褐色の癖っ毛も。厳ついくせにどこか柔和な顔も。
 出会った時は眉尻を下げ、困ったような笑みをにじませ、背中を丸めていた。
 猫背癖は未だに抜けないが、あの頃に比べりゃ見違えるほど堂々としてきた。ことに自分と向き合う時は、いつだって決して遠慮しない。ぐいぐいと分厚い頑丈な体をすり寄せてくる。
(夢、か?)
 ゆるゆると手を動かし、傍らをまさぐる。皴になったシーツにほのかに温もりが残っていた。
 明らかに自分以外の生き物が。それもでっかいのが寝た痕跡がある。
「……ダイン?」
 夜明けの薄明かりの中、つぶやいた名が虚しく響く。
 返事は無かった。

     ※

 その頃、ディートヘルム・ディーンドルフことダインは馬小屋に居た。
 黒毛の軍馬は患わしそうに耳を伏せたものの、素直に起き上がる。寝ている最中に起こされるのには慣れっこなのだ。
「いや、違うんだ、黒。出動じゃない」
 口調と服装から、馬なりに状況を読み取ったのだろう。長い、熱い鼻息が乗り手の顔に吹きつけ、髪を舞い上がらせる。
「……すまん」
 眉根を寄せて力の無い笑みを浮かべながらダインは思った。
 そう言やこいつに出会った時はもう、避難所を求めて馬屋にこもる機会も滅多に減っていたな、と。理由は単純にして明快。黒を手に入れた時は既にフロウと出会い、肌を重ねていたからだ。

 自分の身に宿る力の本質を教えてくれた。受け入れてくれた。文字通り身も心も彼の温もりに包まれて、以来ダインは目覚ましい変化を遂げた。ただ一人、受け入れてくれれば充分だったのだ。自ずと背筋は伸びる。
(フロウが、好きだ)
 彼が『寛容』を美徳とする女神の信徒であり、気に入った男なら誰にでも肌身を許し、情を交わすと知ってもその気持ちは変わらない。何となれば、自分はフロウの奔放さ、自由さにこそ惹き付けられているのだから。
 彼が自分を受け入れてくれたように、自分もまた彼の全てを受け入れる。そう決めたし、そう在ろうとしている。
 納得したはずではなかったか。それなのに。
「俺は……最低だ……」
 愛馬のぶっとい首をかき抱き、たてがみに顔を埋める。ありがたいことに振り払われはしない。自分以外の生き物の質感と体熱に安らぎ、強ばった手足から力を抜いた。
 あのレイヴンと言う男の存在を知って以来、胸が焼けつく。自分こそが後入りの新参者なのだと思い知らされた瞬間から、咽元に苦い塊が詰まっている。時間の経過とともに膨れ上がり、息が詰まる。

 眠るフロウを見おろしながら、どろどろと青黒い炎に身を焦がしていた。
 この場で犯したい。
 着てる物全て引き裂いて、甘くしなやかな体の隅々に己の印を刻みたい。
 こいつは俺の物だと。俺だけの物なのだと!
 こみ上げる衝動を必死でねじ伏せ、部屋を出て、ここに来た。
 いや、逃げ込んだのだ。
「あれ以上あいつの顔見て、においかいでたら、俺は……俺は……っ」
 咽が震える。泣きたいのか。叫びたいのか。怒りたいのか、笑いたいのかわからない。己の腑を焼き、咽を爛れさせる感情が何なのか、知らない。わからない。

 引きがねとなったのはあの魔術師……レイヴンだ。いっそ高慢で嫌な男なら嫌うこともできただろうに。
 冷徹で冷静で、淡々として。挑発しても眉一つ動かさない。
(奴は、フロウを知っている)
(フロウの本質を受け入れてる)
(若造一匹増えた所で、歯牙にもかけちゃいないんだ)
 また、じりっと胸が灼けた。

『俺も寝る、フロウの隣で。同じ部屋の、同じベッドでだ』
『……そうか』
『本気だからな! やるっつったらやるぞ!』
『……あぁ』

 夜半のやり取りが脳裏をよぎる。あの時、思い知らされた。自分はどうしようもなく男として劣っている。負けているのだと。
「このままじゃ、奴にフロウをとられちまう」
 ぼそりとこぼした己の言葉に、ダインは凍りついた。
(俺、今、何て言った?)
(わかってんのか。取られるも何も、後から割り込んだのは俺だぞ!)
(あいつは、俺なんかが赤ん坊の頃からフロウとつきあってて……)

 ずくんっと胸を貫く緑の稲妻が、咽を突き抜け目玉の奥まで抉り通した。
「あ……」
 鼓動が、痛い。
 肋の内側で膨れ上がった心臓が、凄まじい勢いで血潮を噴き上げる。今にも血管が弾け飛び、肉も骨も、もろとも突き破りそうだ。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ! 知った事か!)
「だめ……だ」
(フロウは俺のものだ。俺だけの………っ!)
「よせっ!」
 瞼を固く閉じ、左目を掻きむしる。己の内側で身をよじり、咆哮を挙げる獣がいる。ねじ伏せろ。押し戻せ。今を守るために……。
(守ってどうする?)
(これからずっと一つ屋根の下で過ごすのか? フロウだけじゃない。あのいけ好かない魔術師と……)
(もう一人の男と!)
「黙れぇっ」
 壁を殴る。渾身の力をこめて。
 しかし、叩きつけようとした拳は寸前でぐいとばかりに引き止められた。
「え?」
 シャツの袖口を、愛馬がしっかりとくわえていた。
 黒目がちな瞳に、己の姿が写っている。見た途端、すーっと血の気が引いた。

 目を剥き口を歪ませ歯を食いしばる。その瞳に宿る光には見覚えがあった。
 七年前、父親の屋敷に迎えられた時に出会った眼差しだ。初めて正式に親子の対面を果たした大広間、父の傍らに控える黒髪の少年と……彼によく似た、美しい女性。
(同じだ)
(俺は今、あの人たちと、同じ目をしてる)

「俺……あいつに………レイヴンに、嫉妬してる」
 へなっと膝から力が抜ける。ぼう然とへたりこむダインの頬に、黒毛の軍馬が鼻面を寄せる。
「黒……」
 自分からも顔をすりよせ、目を閉じる。
「恋しいと、嫉ましいって対になってんだな」
 馬が答えるはずもない。ただ、静かにそこにいる。いつものように尻尾でひっぱたいたり、床を踏み鳴らす事もなく。
「あの人も……親父を愛してるから……俺を憎むのか」
 わかってしまうのが恐ろしかった。だから常に身をかがめ、人と深く関わるのを避けていた。生まれて初めて恋した女の正体を知ったその時から、ただ尽くすだけ、守るだけでいようと決めたはずだった。憎む事も、愛する事も放棄して。
 そのはずだった。

「何で、俺は……っ」
 理屈じゃ歯止めが利かないくらい、まっすぐに、強く惹かれてしまった。ただ一人、フロウライト・ジェムルと言う男に。
 だからこそ今、レイヴンが嫉ましい。
「フロウ……フロウ……」
 顔をくしゃくしゃに歪め、恋しい男の名をつぶやいた。
 無くしたくない。壊したくない。受け入れられ、満たされる喜びを。
『今』を失いたくない。
「フロウ………っ」

 お前が愛しくて、恋しくて、あいつが嫉ましい。

「とーちゃーん」
「あ……ちび」
 柔らかな翼が頬を撫で、しなやかな体がくいくいと押し付けられる。いつ来たものか、とりねこが肩にとまっていた。長い尻尾がしなり、首に巻き付く。
 食いしばった顎から力を抜き、ダインはようやく、ほほ笑んだ。
「くすぐったいなぁ」
「ぴゃ。ぴゃああ」
 綿菓子のような毛並をなでながら囁いた。
「ちび……」
 半ば自分に、半ばちびに言い聞かせる。
「フロウには内緒だぞ。他の誰にも、な」
 受け入れろ。順応しろ。できるはずだ。
 ちびはじっと聞いてくれた。それからかぱっと赤い口を開け、一声鳴いた。
「ぴゃあ」

(恋しくて、嫉ましく。/了)

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