▼ ダインの場合・前編
2013/10/28 7:25 【お姫様の話】
エミリオの来店からさらに三日後、午後も遅く、太陽が西に傾いた頃。
がつん、ごつん、と地面を震わせ、蹄の音が聞こえた。
心地よい午睡のまどろみの中、ぼんやりとフロウは思った。ああ、馬車が通るのか……と。しかし重厚な轟きの後に続くべき車輪の軋みは聞こえない。
(おや?)
ちびが膝を蹴り、ぴょんっとカウンターに飛び上がる。その振動ではっきりと眠りから覚めた。
目を開けると、黒と褐色の入り交じる斑の尻尾がぴーんと垂直に立ち、細かく震えていた。
「とーちゃん! とーちゃん!」
ほどなく、のっしのっしと大股に重たい足音が近づき、裏口に通じる扉がきぃ……っと開いた。
ぬうっと背の高い男が入ってくる。ほんの少し背中を屈めて。
「とーちゃん! とーちゃんおかえり!」
ちびの目は真ん丸に見開かれ、ヒゲを震わせて大喜び。鷲に似た翼を打ち振るや、ひとっ飛びに男の肩へと飛び移り、するりするりと体をすり寄せる。
「よう、ちび」
「んぴゃあぐるる、ぴゃあるるるぉう!」
襟巻きのように巻き付く猫を撫でつつ、男は緑色の瞳をカウンターに座る中年男に向けた。
「よう、フロウ」
「よう、ダイン」
(珍しいこともあるもんだ)
いつもと変わらぬ、とろんとした眠たげな眼差しで答えつつも、フロウは内心思っていた。
今日は夜勤明けのはずだ。いつもなら、それこそ朝飯も終わらぬうちに押しかけてくるってぇのに。
今日に限っていったい、何をのんびりとしていたのやら?
一眠りしてから来たのかとも思ったが、その割にはげっそりしていて毛づやもよくない。目の下にクマが浮き……
ぴくっと眉が跳ねる。
いや、これは、痣だ! 赤い痣がくっきりと、右目の周りに輪を描いている。
端の方から徐々に紫色に変化していた。ってことはしばらく前にできた傷だってことだ。
「どうした、その顔」
「話せば長い事ながら」
「ったく、のん気に前置きしてる場合か!」
ぴょんっとちびがカウンターに飛び降り、心配そうに鼻を寄せる。
「ぴぃ」
「ん、ん、心配ない、大丈夫だからな」
「大丈夫な訳ねぇだろ。ほら、これで冷やせ」
手ぬぐいを水に浸し、きゅっと絞って渡す。ダインはカウンター前のスツールにどかっと腰を降ろし、濡れた手ぬぐいを目に当てた。
「っつぁああ、気持ちいい……」
「夕べは夜勤だったんだろ? 何ぞ捕物でもやらかしたか?
「いや、違う」
半ば予想はしていた。昨夜ちびが騒いだ覚えはない。つまり、命の危険は無かったって事だ。
他に深刻な怪我をしている様子もないし、見た所、打ち身だけのようだ。カウンターの下からオトギリソウとアルニカの軟膏を取り出した。
「そら、見せてみろ」
「うん……」
そろりとダインが手を降ろす。がっしりした顎を片手で支え、ぺとりと軟膏を塗り付けた。
「う」
「染みるか」
「ちょっと」
「我慢しろ。あーこりゃ半日はほったらかしにしてたな? しばらく残るぞ」
目に入らぬように気をつけながら、軟膏を指先の熱で溶かしつつ、丁寧に擦り込む。菊科独特の苦味のあるつーんとした香りが広がり、ダインがわずかに眉を寄せる。だが感心なことに逃げもせず、文句も言わない。
「仕方ないんだ。俺がヘマやったから……」
「ヘマ?」
「うん」
恥ずかしそうに目を伏せて、ぽつり、ぽつりとダインは話し始める。
「昨日は俺、『夜の二の番』だったんだ。門番じゃなくて、砦のな」
※
西道守護騎士団の砦の扉は、夜も閉ざされる事はない。さすがに大半の騎士は眠りに着くが、一部は交代で寝ずの番に当たる。
砦を警護するためであると同時に、夜間の呼び出しに備える為だ。町の治安を預かる騎士団が、『今は夜だから寝ています』では済まないのである。
シフトは門番と同じく夜の一の番と、二の番の交代制。夜中から夜明けにかけてを受け持つ『二の番』に当たった団員は、兵舎ではなく詰め所脇の仮眠所で眠る。
その日の二の番は、ダインともう一人、ロベルトだった。『兎のロベルト』は万事公平な男だった。隊長だろうが副長だろうが新米だろうが等しく夜勤を割り振り、自らも務めを果たす。
この日も夕食後に仮眠所のベッドに入り、教会の夜半の鐘が鳴るより早く目を覚ました。むくっと起き上がると上着を羽織り、相方を起こしにかかる。
でっかい体をくるっと丸めて、枕にすがりつくようにして顔を埋めていた。
(相変わらず犬みたいな寝相しやがって)
苦笑しつつ声をかける。
「ディーンドルフ。起きろ」
「ん……んん、隊長……?」
「交代の時間だ、行くぞ」
「はい……。」
ごそごそと上着を羽織るダインを従え、詰め所に向かった。
しかし……夜勤の一の番と交代し、詰め所で二人っきりになった所でわんこ騎士はやらかしたのだ。
自分としては、丁度いい機会だと思ったのだ。
他に誰もいないし、いつも一緒のシャルダンも今は兵舎で眠っている。だから思い切って聞いてみたのである。
「隊長」
「何だ」
「恋人ができたと言うのは、本当ですか?」
「貴様………」
その瞬間、ロベルトは固まった。
固まったまま、ほんのりと頬骨の周りに赤みが差す。些細な変化ではあったが、長年ロベルトと共に過ごしたダインには分かった。
(隊長が、恥じらってる! やっぱりあの噂は本当だったのか?)
彼はまちがっていた。
この時、ロベルトの頭には銀髪のシャルダンの事はかけらもなく。ただ、ただ、働き者で気立ての良い、仕立屋の縫い子さんの事でいっぱいだったのだ。
「誰から何を聞いたか知らんが……出来た所でいちいち報告せん!」
「それでは隊長。隊長とシャルダンがデキていると言うのは」
事実無根なのですね?
問いかけの後半を言うより早く、長靴が飛んできた。当然、中味つきで。
「あんな胸も尻も限りなく足りなくかつ股間に余計なモノぶら下げた脳天お花畑男、誰が貰うかぁああああっっ!!!」
どっかあっと蹴り飛ばされ、吹っ飛んだ先に運悪く机があった。
動揺のあまりロベルトは力加減ができず、全力で蹴っていた。ダインもまさか、このタイミングで蹴られるとは予測だにせず。
「おわあっ」
頭から突っ込んでしまったのだった。
がつん、ごつん、と地面を震わせ、蹄の音が聞こえた。
心地よい午睡のまどろみの中、ぼんやりとフロウは思った。ああ、馬車が通るのか……と。しかし重厚な轟きの後に続くべき車輪の軋みは聞こえない。
(おや?)
ちびが膝を蹴り、ぴょんっとカウンターに飛び上がる。その振動ではっきりと眠りから覚めた。
目を開けると、黒と褐色の入り交じる斑の尻尾がぴーんと垂直に立ち、細かく震えていた。
「とーちゃん! とーちゃん!」
ほどなく、のっしのっしと大股に重たい足音が近づき、裏口に通じる扉がきぃ……っと開いた。
ぬうっと背の高い男が入ってくる。ほんの少し背中を屈めて。
「とーちゃん! とーちゃんおかえり!」
ちびの目は真ん丸に見開かれ、ヒゲを震わせて大喜び。鷲に似た翼を打ち振るや、ひとっ飛びに男の肩へと飛び移り、するりするりと体をすり寄せる。
「よう、ちび」
「んぴゃあぐるる、ぴゃあるるるぉう!」
襟巻きのように巻き付く猫を撫でつつ、男は緑色の瞳をカウンターに座る中年男に向けた。
「よう、フロウ」
「よう、ダイン」
(珍しいこともあるもんだ)
いつもと変わらぬ、とろんとした眠たげな眼差しで答えつつも、フロウは内心思っていた。
今日は夜勤明けのはずだ。いつもなら、それこそ朝飯も終わらぬうちに押しかけてくるってぇのに。
今日に限っていったい、何をのんびりとしていたのやら?
一眠りしてから来たのかとも思ったが、その割にはげっそりしていて毛づやもよくない。目の下にクマが浮き……
ぴくっと眉が跳ねる。
いや、これは、痣だ! 赤い痣がくっきりと、右目の周りに輪を描いている。
端の方から徐々に紫色に変化していた。ってことはしばらく前にできた傷だってことだ。
「どうした、その顔」
「話せば長い事ながら」
「ったく、のん気に前置きしてる場合か!」
ぴょんっとちびがカウンターに飛び降り、心配そうに鼻を寄せる。
「ぴぃ」
「ん、ん、心配ない、大丈夫だからな」
「大丈夫な訳ねぇだろ。ほら、これで冷やせ」
手ぬぐいを水に浸し、きゅっと絞って渡す。ダインはカウンター前のスツールにどかっと腰を降ろし、濡れた手ぬぐいを目に当てた。
「っつぁああ、気持ちいい……」
「夕べは夜勤だったんだろ? 何ぞ捕物でもやらかしたか?
「いや、違う」
半ば予想はしていた。昨夜ちびが騒いだ覚えはない。つまり、命の危険は無かったって事だ。
他に深刻な怪我をしている様子もないし、見た所、打ち身だけのようだ。カウンターの下からオトギリソウとアルニカの軟膏を取り出した。
「そら、見せてみろ」
「うん……」
そろりとダインが手を降ろす。がっしりした顎を片手で支え、ぺとりと軟膏を塗り付けた。
「う」
「染みるか」
「ちょっと」
「我慢しろ。あーこりゃ半日はほったらかしにしてたな? しばらく残るぞ」
目に入らぬように気をつけながら、軟膏を指先の熱で溶かしつつ、丁寧に擦り込む。菊科独特の苦味のあるつーんとした香りが広がり、ダインがわずかに眉を寄せる。だが感心なことに逃げもせず、文句も言わない。
「仕方ないんだ。俺がヘマやったから……」
「ヘマ?」
「うん」
恥ずかしそうに目を伏せて、ぽつり、ぽつりとダインは話し始める。
「昨日は俺、『夜の二の番』だったんだ。門番じゃなくて、砦のな」
※
西道守護騎士団の砦の扉は、夜も閉ざされる事はない。さすがに大半の騎士は眠りに着くが、一部は交代で寝ずの番に当たる。
砦を警護するためであると同時に、夜間の呼び出しに備える為だ。町の治安を預かる騎士団が、『今は夜だから寝ています』では済まないのである。
シフトは門番と同じく夜の一の番と、二の番の交代制。夜中から夜明けにかけてを受け持つ『二の番』に当たった団員は、兵舎ではなく詰め所脇の仮眠所で眠る。
その日の二の番は、ダインともう一人、ロベルトだった。『兎のロベルト』は万事公平な男だった。隊長だろうが副長だろうが新米だろうが等しく夜勤を割り振り、自らも務めを果たす。
この日も夕食後に仮眠所のベッドに入り、教会の夜半の鐘が鳴るより早く目を覚ました。むくっと起き上がると上着を羽織り、相方を起こしにかかる。
でっかい体をくるっと丸めて、枕にすがりつくようにして顔を埋めていた。
(相変わらず犬みたいな寝相しやがって)
苦笑しつつ声をかける。
「ディーンドルフ。起きろ」
「ん……んん、隊長……?」
「交代の時間だ、行くぞ」
「はい……。」
ごそごそと上着を羽織るダインを従え、詰め所に向かった。
しかし……夜勤の一の番と交代し、詰め所で二人っきりになった所でわんこ騎士はやらかしたのだ。
自分としては、丁度いい機会だと思ったのだ。
他に誰もいないし、いつも一緒のシャルダンも今は兵舎で眠っている。だから思い切って聞いてみたのである。
「隊長」
「何だ」
「恋人ができたと言うのは、本当ですか?」
「貴様………」
その瞬間、ロベルトは固まった。
固まったまま、ほんのりと頬骨の周りに赤みが差す。些細な変化ではあったが、長年ロベルトと共に過ごしたダインには分かった。
(隊長が、恥じらってる! やっぱりあの噂は本当だったのか?)
彼はまちがっていた。
この時、ロベルトの頭には銀髪のシャルダンの事はかけらもなく。ただ、ただ、働き者で気立ての良い、仕立屋の縫い子さんの事でいっぱいだったのだ。
「誰から何を聞いたか知らんが……出来た所でいちいち報告せん!」
「それでは隊長。隊長とシャルダンがデキていると言うのは」
事実無根なのですね?
問いかけの後半を言うより早く、長靴が飛んできた。当然、中味つきで。
「あんな胸も尻も限りなく足りなくかつ股間に余計なモノぶら下げた脳天お花畑男、誰が貰うかぁああああっっ!!!」
どっかあっと蹴り飛ばされ、吹っ飛んだ先に運悪く机があった。
動揺のあまりロベルトは力加減ができず、全力で蹴っていた。ダインもまさか、このタイミングで蹴られるとは予測だにせず。
「おわあっ」
頭から突っ込んでしまったのだった。