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とりねこの小枝

【32-2】ニコラのピンチ?

2014/01/24 0:42 騎士と魔法使いの話十海
 師匠の読みは正しかった。
 まさにその瞬間、アインヘイルダール魔法学院の一室で、四の姫ことニコラ・ド・モレッティは(彼女にしては非常に珍しいことに)がたがた震えていたのだ。青ざめて、歯を食いしばり、手のひらにぐっしょりと冷たい汗をかいて……。
 寒さのせいではない。季節は夏の始め、陽はさんさんと降り注ぎむしろ暑いくらいだ。
 石造りの建物の中はひんやりとして涼しいが、屋外はそれこそ立っているだけで汗ばむほど。学院の制服からは重たい上着が取り払われ、麻と綿を使った身軽で風通しのよい夏服に変わっている。
「ううう、うー……」
 彼女が今座っているのは、初等訓練生の教室だ。
 石造りの外壁に包まれた漆喰塗の壁と木の床。天井は高くアーチ状で、大きな天窓から外の光をいっぱいに取り入れた室内には、生徒が読み書きするための木製の机と椅子が並んでいる。
 学院の隅々まで通う強力な魔力の流れ……力線が建物の建築様式に組み込まれた術式によって導かれ、常に一定の強さを保つように調律されている。
 本来なら魔法的にも精神的にも極めて安定し、落ち着ける環境にいるはずなのだが。
 ニコラは緊張しきっていた。
 あがっていた。
(大丈夫大丈夫って言われるけど、それで落ちたらどうすればいいのーっ!)
 極度のプレッシャーで、身も心もガチガチに固まっていたのである。

 前日に行われた学科試験では、こんな事はなかった。今まで学んで来た知識を総動員して正しい答えを書きさえすれば良かったのだから。しかし、今日行われる実技は違う。
 内容は単純だ。定められた道を通り、試験官の待つゴールへ行く事。
 ただし、途中にはニコラの術と能力に合わせた関門が設けられている。今まで習い覚えた呪文と力と知恵。全てを駆使して突破して、規定の時間内にゴールまでたどり着かなければいけない。
 言うなれば決まった答えがない。正解が存在しないのである。
(ど、どうしよう。落ちた瞬間から先の自分が想像できない……)
 なまじ試験の自由度が高いが故に、ニコラは戸惑っていた。同時に、これまで魔法で失敗したことがないからこそ、強いプレッシャーを感じていた。

 最初の呪文は師匠に教えられるまま唱えた。深く考えずに『こうするものなのだ』と素直に実行したら、使えちゃった。
 使い魔を呼ぶ試みも一回で成功した。
 それがここにきて初めて気付いてしまったのだ。
 今までつまずく事無く、何も考えず、息をするように自然に歩いてきた道が、実は高い高い塀の上だったと……一度その狭さと高さを意識してしまうと、もういけない。下を見てしまう。手足がすくむ。
 こうして今、実技試験の順番を待っている時間がとてつもなく苦しい。
 また、いかなる巡り合わせか今回は初級巫術師の試験を受けるのはニコラ一人だった。共に不安を分かち合う相手がいなかったのだ。
 日ごろ慣れ親しんだはずの教室に、一人ぼっちでじっとたたずんでいると……四方八方から静けさが目に見えない壁となり、押し寄せてくるような気がした。目でも閉じようものなら、天井までもがじりじりと下がってくる錯覚に囚われる。狭い空間に閉じこめられ、逃げ場を失い追いつめられる。息がつまる。
(もうだめ。このままじゃ、潰れちゃう!)
「ニコラさん」
「……ふぇ……姉さま?」
「え?」
 我に返り、うっすら目を開く。すぐそばに、心配そうに見つめる、澄んだ赤茶色の瞳があった。
「い、いえ、何でもありません、エルダ先輩っ!」
 怪訝そうに首をかしげる相手は、エルディニア・クレスレイク。学院の一年上の先輩だ。赤いふわふわの巻き毛に透き通った紅茶のような瞳、赤毛の人間特有の血管が透けて見えそうな白い肌。色彩こそ鮮やかではあったが顔立ちや背丈に取り立てて目立った所はなく、どこに居ても誰も気付かないし気にしない。

 学年こそ違うが、二人はナデュー先生の召喚術の授業を一緒に受けている。
 本来ならエルダは既に基本過程を終えて、神祈術、魔導術、巫術、召喚術のいずれかの初級術師の資格を得ているはずである。しかしながら二年めにも関わらず、彼が着ているのは魔法訓練生の制服だ。それぞれの属性を象徴する色で染められた、術師の証たる「魔法使いのローブ」ではない。
 ほとんどの基礎課程と学科で優秀な成績を収めながら、彼は未だに魔法訓練生のままなのだ。
 何故か。
 エルダは召喚術師志望だ。だからこそ、召喚術の授業をとっている。熱心に勉強もしている。だが魔法と言うのは、時として本人の努力と希望だけではどうにもならない場合がある。どんなに願っても、望んでも、手が届かない時がある。
 エルディニア・クレスレイクは基礎課程の中でただ一課目、基礎召喚術のみ落第していたのである。
 成績優秀なのに、術師ではない。かと言って学者志望でもない。宙ぶらりんな立ち位置のエルダは、多くの教師たちからも同級生からも、後輩からさえも、まるで腫れ物のように扱われていた。
 一部の例外を除いては。
 そして、かつて『おまけの四の姫』と呼ばれていた少女はその例外の一人だった。
「気分が悪そうだね。大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫ですにょ?」
「にょ?」
 エルダは手にした素焼きのカップを差し出した。満たされた薄い黄色のお茶からは、リンゴに似た甘酸っぱい香りがほのかに立ち昇る。
「カモミールティー、入れてきたんだ。一緒に飲もう」
「あ……はい」
 ニコラは素直にカップを受け取った。二人は並んでカップを口元に運ぶ。一口、二口すすってから、同時にほうっと息を吐いた。
「はぁ……落ち着くぅ」
「うん。落ち着くね」

 採れたてのカモミールを使ったお茶の効果はてきめん。
 しかし落ち着いたら落ち着いたで、今度は時間の経過が気になる。
 どんなに焦っても一分は一分、一秒は一秒。その時が来るまで自分の試験は始まらない。
(ああいっそ自分の番が来るまで気絶していたい!)
 一度落ち着いたかに見えたニコラの意識は再び千々に乱れ、全身から冷たい粘つく汗が噴き出す。
「あああああっ」
 やおら、がばっと机の上に突っ伏した。
「何で私、ここにいるんだろう……」
「ニ、ニコラさん?」
「たまったま師匠のお店に行って、教わった呪文が使えちゃったもんだから勢いで魔法学院に入っちゃって、ひたすら勢いとノリで突っ走ってきて。そんなんで、そんなんで術師試験なんか受けていいの?」
「ニコラさん」
「だってだってこの日のために、ちっちゃな頃から弟子入りして、こつこつこつこつ修行積んで、将来は上級術師になる予定立ててる人たちの中に混じってこんなこんな私なんかがーっ」
 足下の床がぐるぐる回り出す。両手で顔を押さえても、机にしがみついても止まらない。
「おばあさまが、リヒキュリア様の巫女だった、なんて聞いて舞い上がっちゃって。ちょっとぐらい師匠から術の手ほどき受けて、上手くいったからって調子に乗ってるだけなのに、初級試験受けようなんて、増して受かろうなんて考えるの甘いよね、どうかしてるよね、うわぁああんごめんなさいごめんなさいーっ」
「ニコラさんっ!」
「しかも試験官が、マスター・エルネストだしっ! 私あの先生苦手なの、眉毛うっすいし、三白眼だし、いっつも怒ってるみたいに眉間に皴寄せてるし、実際、いつもむっつりして不機嫌だし、何考えてるのかわかんないしっ」
「ニコラさんってば!」
 痛いほどしがみついていた机から両手が剥がされて、握られた。
「しっかりして。焦りに流されちゃいけない」
「あ……」
 自分以外の人間の肌の感触と温もりに、ぐるぐると意味のない螺旋に巻き込まれていた視界が止まる。
「思い出して。君はどうして巫術師の試験を受けようとしてるの?」
 高からず、低からず。どこにも引っかからずするっと入ってくる中庸な声に、ささくれ立った意識が包まれる。
「おばあさまや師匠と同じ神祈術ではなく、ナデュー先生と同じ召喚術でもなく。それ以前にどうして、騎士の生まれなのに魔法使いになろうとしてるの? 教養として身に着けるだけなら、学者になればいい。わざわざ術師試験を受ける必要はないよね?」
 エルダの言葉はまさしくこの瞬間、ニコラの内側からふつふつと湧きあがる焦りの本質を的確に言い表していた。
 だから、答えた。素直に答えを導き出す事が、できた。
「私……初めてちっちゃいさんの言葉を聞いた時……わかったの、何となく」
「うん」
「あの、きゃわきゃわしたくすぐったい声が、何を言ってるのか。もっとよく知りたい。理解したいって思った。今はまだ、術を使う時に決められた言葉を並べるだけで精一杯だけど……」
 手を包むエルダの指にそっと力がこめられる。
「巫術を学んで、ちゃんと話したい。聞きたいの」
 エルダはまばたきして、うなずいた。
「それは、とても素敵なことだね」
 その瞬間、全身の震えが、止まった。

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