▼ 【おまけ】★愛しくて、離れ難く
2014/01/24 0:49 【騎士と魔法使いの話】
最近、ダインがおかしい。
自分では今までと同じように振る舞っているつもりなのだろうし、実際、表面上はそう見える。
だが、ふとした拍子に日常と言う名の薄い皮に裂け目が入り、内側に潜む生臭い溶岩が噴き上がる。
今日なんかニコラ相手に本気で怒鳴ってた。敵意を含んだ声に後先考えずにカウンターを離れ、台所を覗いた。一声だけだったのは不幸中の幸いだ。あのまま二度、三度と続けていたら、迷わず飛び込んでいた。
その後、畑で肩を凄まじい力で掴まれた。ほんのつかの間、だが衣服の上から爪が刺さるほど強く。
肌に刻まれた赤い痕は、まだ消えない。
夜ごとにベッドに潜り込んでくるのはいつもの事だが、抱きついたりしない。手も握らず、キスも自分からは仕掛けてこない。何よりこの二週間と言うもの、一度も肌を重ねていないのだ。今まではそれこそ、三日と明けずにせがんできたものを!
(もっと早くに気付くべきだったんだ。明らかに不自然すぎる)
これが並の男なら浮気を疑う所だが、ダインに限ってそれはまず、有り得ない。自分が父親と同じ轍を踏む事を、あいつは何よりも嫌っている。嫌悪と憎悪による忌避は、徳に根ざした自制なんかよりも、遥かに強い。
よほど疲れているのか、あるいは立たなくなったのか?
(いや、それは、無いな)
昼間、掴まれた肩が疼く。若い雄特有の猛々しさは、欠片ほども損なわれちゃいない。
理由は薄々察しがついている。
レイヴン。
二十年来の同居人が、東への遠征旅行から帰って来た。ダインの異変は、彼との対面を境に始まった。
(一度、きっちり話をつけなきゃなあ)
心の片隅にそんな懸念を残しつつ、今日も切り出せぬまま一日が終わる。
ニコラが帰ってから、ダインはむっつり黙り込んでほとんど口もきかない。黙りこくったまま寝室に入り、無言の内にベッドに横たわる。だが決して触れては来ない。それどころか、背中を向けている。
規則正しい呼吸だけが隣から聞こえてくる。試しに寝返りを打つふりをして、わざと体をくっつけてみた。
「っ!」
声もなくダインが身をこわばらせる。触れ合わせた肩と腕から、細かな震動が伝わってくる。
震えているのだ。
(そら、やせ我慢すんな。溜まってるもの全部、吐き出しちまいな)
さらに体を寄せて、胸や尻、太ももまで押し付ける。しっかりとした弾力のある質感と肌の温もりを伝える。
いつもならとっくにこっちに向き直り、がばっとばかりに覆いかぶさって来る所だが、果たして……。
ぎしり、とベッドが軋む。
(やれやれ、やっとその気になったか)
今夜ぐらいは我がままを聞いてやろうか。なんて心構えになっていた矢先、聞こえてきたのは深いため息。
(え?)
歯を食いしばる気配とともに、ダインはベッドの反対側の端にむかって体をずらす。
離れた。
それも、自分から!
(重症だな)
今からでも遅くはない。別にベッドの中で話してもいいではないか。きっかけさえあれば、すぐに突破口は開ける。そのはずなのに……押し寄せる疲れを言い訳に目を閉じる。
(駄目だ、もう頭が回らねぇ)
(明日だ。明日、話そう)
すぐに眠れるかと思った。
だが、そうではなかった。
意識の一部が細い釣り針にひっかかり、宙ぶらりんになっている。
眠っているのか、起きているのか、それとも『眠れない』夢を見ているだけなのか。目を開けようにも、瞼が鉛のように重い。
もがいて、もがいて、目覚めたかと思えばそこはまだ夢の中。幾重にも重なった息苦しい夢をくぐり抜け、必死になって水面を目指す。段々、天井が低く。壁が狭くなってきた。やばい、このままじゃ、押しつぶされる!
「っは……」
咽から絞り出される息の音に我に返る。やれやれ、ようやく目を覚ます事ができたようだ。
首筋に粘つく汗がにじんでいる。手足が強ばり、肩だの背中がガチガチに固まっている。やれやれ、かえって眠る前より疲れてしまった。
頭を振って起き上がると、妙にベッドが広い。
「……ダイン?」
隣に眠っているはずの男は居なかった。手洗いか、あるいは自分の部屋で眠ってるのか?
そのどちらでもない事は、わかっていた。月明かりの差し込む部屋の中、彼の脱いだはずのブーツが無くなっている。つまり、外に出たって事だ。
(ったく、世話の焼ける騎士様だ)
※
裏口を開け、庭に出る。
空には満月を少しすぎたばかりの十六夜の月。月光に満たされた庭は、灯火無しでも歩けるほど明るい。
しかしながら薬草畑の何処にも。壁際のベンチにも。井戸の側にも、のっそりたたずむばかでっかい図体は居なかった。
と、なると可能性はあと一つ。
庭を横切り、馬小屋に向かう。果たして、ダインはそこに居た。何を思ったかこの夜更けに、黒馬にブラシをかけている。
「……居ないと思ったら何してんだ?」
「見りゃわかるだろ。黒の手入れだ」
手も止めず、振り返りもしない。
「……前髪触ってるぞ」
動きが止まり、ぴくっとブラシを握る指が震えた。有り得ないとわかっていても、反射的に動いてしまったのだろう。
(当たり、か)
出会って間も無い頃に見抜いたダインの癖だ。
いらいらしてる時。落ち着かない時や拭えども拭えぬ不安を抱えてる時、こいつは無意識に髪に触れる。それも左目を覆い隠すように不自然に降ろした前髪に。何気なく指摘した時は驚いた顔をしていた。多分今もそうだろう。
こちらに向けたままの背中は揺るぎもせず、事情を知らなければそれなりに逞しく、また頼りがいがあるようにも見える。
「レイヴンが気に入らないか?」
藁山に腰を降ろして問いかける。この二週間と言うもの、先延ばしにしてきた言葉だった。こうして口にできるのは、寝起きでぼんやりしているせいか。
それとも、振り向こうともしないダインに苛立ちを覚えたからなのか。
「……あいつは…………………いい奴だ…………腕も立つ」
黒の首筋に手を当ててうつむいている。あくまでこっちを見る気は無いらしい。
(こンの野郎!)
何かにつけてひっつきたがる。顔を見たがる。しっぽを振ってでかい図体をすり寄せる。
うっとおしいと思っていたこいつの行動の数々が、欠けている事に気付いてしまったら、妙に落ち着かない。
ぽっかり空いた穴がやたらと寒々しいのだ。
「お前と20年のつき合いがあって、同居してるって以外は、いい奴だと思う」
なるほど。それがお前さんにとって最大級の妥協って訳か。
乾いた唇を舐めて湿す。だったらこっちも答えなければいけない。
「いや……うん、言い忘れてたのは悪かった。お前と出会った頃、ちょうどアリスタイアの方に行ってたんだよ、あいつら」
初めてこの家に泊めた時、こいつはちびを(一時的にしろ)手放した直後だった。
元気が取り柄の男だってぇのにぽやーっとして、一人じゃボタンの掛け外しもできないような状態で、見るに見かねて連れ込んだ。以来、なし崩しに居着いて今に至る。
同居人の存在を話さなかったのも、ダインを迎え入れたのも、どちらも自分だ。言い逃れはすまい。こいつが出て行くと言うのならそれまでだ。引き止める権利は、無い。
「フロウ」
「ん?」
ようやくダインは黒馬の傍を離れ、大股に近づいてきた。相変わらずうつむいたまま、どっかりと腰を降ろした位置はベッドの中に居た時より近い。ほんの少し指先を動かせば触れ合いそうだ。
「お前は、悪くない」
「の、割にはご機嫌斜めじゃねえか」
「頭でわかってても、気持ちが納得しない」
藁の上に投げ出された手が、きつく握りしめられる。がさがさと乾いた音を立て、文字通りダインは「藁をも掴んで」いた。
「自分で自分の手綱が……取れない」
「……そりゃまた、難儀なこったねぇ」
手を伸ばし、頭を撫でる。汗ばみ、もつれた金褐色の毛並に指をからめる。
息を呑み、身をすくませる気配が伝わってくる。だが敢えて離さず、逆に引き寄せて胸元に抱え込む。
「っおい!」
抵抗は無かった。ずっしりと重たい体が呆気なく腕の中に頃がりこんできた。だが、固い。手足を強ばらせ、奥歯を噛みしめ、震えている。
「俺は逃げも消えもしねぇんだから……な?」
「……フロウ……」
軋るような声で名前を呼ばれた。
(どんだけ思い詰めてるんだ、お前)
「もしも。もしも、レイヴンが旅に出ないで家に居たら……お前はあの時、俺を」
「ああ、泊めたよ。とてもじゃねぇけど、あのまんま一人にはしとけなかったからなあ」
くぐもったうめき声とともに息が吐き出される。鼻と、咽から延々と。彼の中で煮え滾っていた物がそっくりそのまま溶け込んだような、生々しい熱さがこもっていた。
長い長いため息をついた後、ようやくダインは力を抜いた。
「フロ……ウ……」
拳がひらいて、ゆっくりと腕が巻き付けられ……しがみついてくる。二週間ぶりの抱擁だった。
背中に手を回して、撫でる。張りのある筋肉に触れ、手のひらから甘美なしびれが広がる。
そのまま、ゆるやかに互いの体を触りあった。撫で回した。
どんなに水を飲んでも癒せなかった渇きが。満たされなかった飢えが少しずつ埋まって行く。何のことはない。こいつが自分に触れたかったように、自分もダインに触れたかったのだ。
藁山の上で抱きあって、どれほどの間そうして触れ合っていただろう。
「……フロウ」
「ん?」
ほんの少しためらってから、ダインは久しぶりに。本当に久しぶりに、その言葉を口にした。
「キスして、いいか?」
忍び笑いとともに答える。
「……何を今さら」
熱く湿った手が頬を押さえ、唇と唇が触れあう。それが精一杯だったのだろう。動きを止め、固く目を閉ざしている。こちらから吸い付くと、ようやく安心したのか……改めて深く重ねて来た。
差し込まれる肉厚の舌を迎え入れ、むしゃぶりつく。わざと音を立てながら何度も吸い上げてやった。
「ん……っふっ……うー……う」
抗いもせずに吸われるままだ。シャツを握る指に力がこもる。陽に焼けた咽が上下して、混じり合う唾液を飲み下す。
息が、荒い。顔に当たり、髪をなびかせる。
(俺が教えてやるまでこいつは、キスの時に鼻で息をすることすら知らなかった)
(かわいいやつ……)
さんざん舌先をねぶり上げてから、根元から先端へとしごくようにして唇を離す。
「はー、はー、はー……」
顔を赤らめ、息を弾ませている。だがもう一つ聞こえるこの息の音は誰のだ? 黒か?
「ふ……はぁ………あぁ……」
絡めた腕の中でダインはうっとりとこっちを見上げ、親指でなぞってきた。今し方離れたばかりの濡れた唇を。
「んっ」
(何てこった。この乱れた息は、俺のだ!)
「俺、どうしようもなくお前が……好きだ。大好きだ」
このまま、溺れてしまえたらどんなにいいか。このあまりに一途で純粋な愛情に、心置きなく浸れたら。
「いっそ冷たくした方が女に目がいくのかねぇ……」
苦笑混じりに答えると、しがみつく腕に力が加わった。息が詰まるほどではない。だが、逃げる事を許されないほどには強い。
「……やだ。放さない」
「はいはい、逃げねぇよ。お前さんが愛想尽かすまでは」
「愛想なんか、尽かしてやんねぇ」
「そうかよ」
背筋からこみ上げる疼きが肌の表面にまで突き抜け、細かい泡となって散開する。
眩暈がするほど心地よい。
自分はこんなにも強く、この男に求められている。若くて力に溢れ、純朴な男に、ひたすら一途に慕われているのだ。
男としての盛りは過ぎた。この先、衰えるばかりだと言うのに……。
離れなきゃいけない。離れたくない。相反する感情を持て余し、手綱を取れずにいるのは自分も同じだ。
レイヴンの存在を言い忘れていたのも。話しあう事を先延ばしにしていたのも、その結果なのだ……恐らくは。
「……ったく。俺は寝るから好きにしな」
「うん……」
ダインの腕に身を委ねて目を閉じる。頑丈な骨太の体がもぞもぞと動き、抱きしめられる側から抱きしめる側に体勢を変える。
「おやすみ、フロウ」
「おやすみ、ダイン」
藁の中、抱き合って目を閉じる。
今度はすぐに眠れた。
(愛しくて、離れ難く/了)
次へ→【32】四の姫の初級試験
自分では今までと同じように振る舞っているつもりなのだろうし、実際、表面上はそう見える。
だが、ふとした拍子に日常と言う名の薄い皮に裂け目が入り、内側に潜む生臭い溶岩が噴き上がる。
今日なんかニコラ相手に本気で怒鳴ってた。敵意を含んだ声に後先考えずにカウンターを離れ、台所を覗いた。一声だけだったのは不幸中の幸いだ。あのまま二度、三度と続けていたら、迷わず飛び込んでいた。
その後、畑で肩を凄まじい力で掴まれた。ほんのつかの間、だが衣服の上から爪が刺さるほど強く。
肌に刻まれた赤い痕は、まだ消えない。
夜ごとにベッドに潜り込んでくるのはいつもの事だが、抱きついたりしない。手も握らず、キスも自分からは仕掛けてこない。何よりこの二週間と言うもの、一度も肌を重ねていないのだ。今まではそれこそ、三日と明けずにせがんできたものを!
(もっと早くに気付くべきだったんだ。明らかに不自然すぎる)
これが並の男なら浮気を疑う所だが、ダインに限ってそれはまず、有り得ない。自分が父親と同じ轍を踏む事を、あいつは何よりも嫌っている。嫌悪と憎悪による忌避は、徳に根ざした自制なんかよりも、遥かに強い。
よほど疲れているのか、あるいは立たなくなったのか?
(いや、それは、無いな)
昼間、掴まれた肩が疼く。若い雄特有の猛々しさは、欠片ほども損なわれちゃいない。
理由は薄々察しがついている。
レイヴン。
二十年来の同居人が、東への遠征旅行から帰って来た。ダインの異変は、彼との対面を境に始まった。
(一度、きっちり話をつけなきゃなあ)
心の片隅にそんな懸念を残しつつ、今日も切り出せぬまま一日が終わる。
ニコラが帰ってから、ダインはむっつり黙り込んでほとんど口もきかない。黙りこくったまま寝室に入り、無言の内にベッドに横たわる。だが決して触れては来ない。それどころか、背中を向けている。
規則正しい呼吸だけが隣から聞こえてくる。試しに寝返りを打つふりをして、わざと体をくっつけてみた。
「っ!」
声もなくダインが身をこわばらせる。触れ合わせた肩と腕から、細かな震動が伝わってくる。
震えているのだ。
(そら、やせ我慢すんな。溜まってるもの全部、吐き出しちまいな)
さらに体を寄せて、胸や尻、太ももまで押し付ける。しっかりとした弾力のある質感と肌の温もりを伝える。
いつもならとっくにこっちに向き直り、がばっとばかりに覆いかぶさって来る所だが、果たして……。
ぎしり、とベッドが軋む。
(やれやれ、やっとその気になったか)
今夜ぐらいは我がままを聞いてやろうか。なんて心構えになっていた矢先、聞こえてきたのは深いため息。
(え?)
歯を食いしばる気配とともに、ダインはベッドの反対側の端にむかって体をずらす。
離れた。
それも、自分から!
(重症だな)
今からでも遅くはない。別にベッドの中で話してもいいではないか。きっかけさえあれば、すぐに突破口は開ける。そのはずなのに……押し寄せる疲れを言い訳に目を閉じる。
(駄目だ、もう頭が回らねぇ)
(明日だ。明日、話そう)
すぐに眠れるかと思った。
だが、そうではなかった。
意識の一部が細い釣り針にひっかかり、宙ぶらりんになっている。
眠っているのか、起きているのか、それとも『眠れない』夢を見ているだけなのか。目を開けようにも、瞼が鉛のように重い。
もがいて、もがいて、目覚めたかと思えばそこはまだ夢の中。幾重にも重なった息苦しい夢をくぐり抜け、必死になって水面を目指す。段々、天井が低く。壁が狭くなってきた。やばい、このままじゃ、押しつぶされる!
「っは……」
咽から絞り出される息の音に我に返る。やれやれ、ようやく目を覚ます事ができたようだ。
首筋に粘つく汗がにじんでいる。手足が強ばり、肩だの背中がガチガチに固まっている。やれやれ、かえって眠る前より疲れてしまった。
頭を振って起き上がると、妙にベッドが広い。
「……ダイン?」
隣に眠っているはずの男は居なかった。手洗いか、あるいは自分の部屋で眠ってるのか?
そのどちらでもない事は、わかっていた。月明かりの差し込む部屋の中、彼の脱いだはずのブーツが無くなっている。つまり、外に出たって事だ。
(ったく、世話の焼ける騎士様だ)
※
裏口を開け、庭に出る。
空には満月を少しすぎたばかりの十六夜の月。月光に満たされた庭は、灯火無しでも歩けるほど明るい。
しかしながら薬草畑の何処にも。壁際のベンチにも。井戸の側にも、のっそりたたずむばかでっかい図体は居なかった。
と、なると可能性はあと一つ。
庭を横切り、馬小屋に向かう。果たして、ダインはそこに居た。何を思ったかこの夜更けに、黒馬にブラシをかけている。
「……居ないと思ったら何してんだ?」
「見りゃわかるだろ。黒の手入れだ」
手も止めず、振り返りもしない。
「……前髪触ってるぞ」
動きが止まり、ぴくっとブラシを握る指が震えた。有り得ないとわかっていても、反射的に動いてしまったのだろう。
(当たり、か)
出会って間も無い頃に見抜いたダインの癖だ。
いらいらしてる時。落ち着かない時や拭えども拭えぬ不安を抱えてる時、こいつは無意識に髪に触れる。それも左目を覆い隠すように不自然に降ろした前髪に。何気なく指摘した時は驚いた顔をしていた。多分今もそうだろう。
こちらに向けたままの背中は揺るぎもせず、事情を知らなければそれなりに逞しく、また頼りがいがあるようにも見える。
「レイヴンが気に入らないか?」
藁山に腰を降ろして問いかける。この二週間と言うもの、先延ばしにしてきた言葉だった。こうして口にできるのは、寝起きでぼんやりしているせいか。
それとも、振り向こうともしないダインに苛立ちを覚えたからなのか。
「……あいつは…………………いい奴だ…………腕も立つ」
黒の首筋に手を当ててうつむいている。あくまでこっちを見る気は無いらしい。
(こンの野郎!)
何かにつけてひっつきたがる。顔を見たがる。しっぽを振ってでかい図体をすり寄せる。
うっとおしいと思っていたこいつの行動の数々が、欠けている事に気付いてしまったら、妙に落ち着かない。
ぽっかり空いた穴がやたらと寒々しいのだ。
「お前と20年のつき合いがあって、同居してるって以外は、いい奴だと思う」
なるほど。それがお前さんにとって最大級の妥協って訳か。
乾いた唇を舐めて湿す。だったらこっちも答えなければいけない。
「いや……うん、言い忘れてたのは悪かった。お前と出会った頃、ちょうどアリスタイアの方に行ってたんだよ、あいつら」
初めてこの家に泊めた時、こいつはちびを(一時的にしろ)手放した直後だった。
元気が取り柄の男だってぇのにぽやーっとして、一人じゃボタンの掛け外しもできないような状態で、見るに見かねて連れ込んだ。以来、なし崩しに居着いて今に至る。
同居人の存在を話さなかったのも、ダインを迎え入れたのも、どちらも自分だ。言い逃れはすまい。こいつが出て行くと言うのならそれまでだ。引き止める権利は、無い。
「フロウ」
「ん?」
ようやくダインは黒馬の傍を離れ、大股に近づいてきた。相変わらずうつむいたまま、どっかりと腰を降ろした位置はベッドの中に居た時より近い。ほんの少し指先を動かせば触れ合いそうだ。
「お前は、悪くない」
「の、割にはご機嫌斜めじゃねえか」
「頭でわかってても、気持ちが納得しない」
藁の上に投げ出された手が、きつく握りしめられる。がさがさと乾いた音を立て、文字通りダインは「藁をも掴んで」いた。
「自分で自分の手綱が……取れない」
「……そりゃまた、難儀なこったねぇ」
手を伸ばし、頭を撫でる。汗ばみ、もつれた金褐色の毛並に指をからめる。
息を呑み、身をすくませる気配が伝わってくる。だが敢えて離さず、逆に引き寄せて胸元に抱え込む。
「っおい!」
抵抗は無かった。ずっしりと重たい体が呆気なく腕の中に頃がりこんできた。だが、固い。手足を強ばらせ、奥歯を噛みしめ、震えている。
「俺は逃げも消えもしねぇんだから……な?」
「……フロウ……」
軋るような声で名前を呼ばれた。
(どんだけ思い詰めてるんだ、お前)
「もしも。もしも、レイヴンが旅に出ないで家に居たら……お前はあの時、俺を」
「ああ、泊めたよ。とてもじゃねぇけど、あのまんま一人にはしとけなかったからなあ」
くぐもったうめき声とともに息が吐き出される。鼻と、咽から延々と。彼の中で煮え滾っていた物がそっくりそのまま溶け込んだような、生々しい熱さがこもっていた。
長い長いため息をついた後、ようやくダインは力を抜いた。
「フロ……ウ……」
拳がひらいて、ゆっくりと腕が巻き付けられ……しがみついてくる。二週間ぶりの抱擁だった。
背中に手を回して、撫でる。張りのある筋肉に触れ、手のひらから甘美なしびれが広がる。
そのまま、ゆるやかに互いの体を触りあった。撫で回した。
どんなに水を飲んでも癒せなかった渇きが。満たされなかった飢えが少しずつ埋まって行く。何のことはない。こいつが自分に触れたかったように、自分もダインに触れたかったのだ。
藁山の上で抱きあって、どれほどの間そうして触れ合っていただろう。
「……フロウ」
「ん?」
ほんの少しためらってから、ダインは久しぶりに。本当に久しぶりに、その言葉を口にした。
「キスして、いいか?」
忍び笑いとともに答える。
「……何を今さら」
熱く湿った手が頬を押さえ、唇と唇が触れあう。それが精一杯だったのだろう。動きを止め、固く目を閉ざしている。こちらから吸い付くと、ようやく安心したのか……改めて深く重ねて来た。
差し込まれる肉厚の舌を迎え入れ、むしゃぶりつく。わざと音を立てながら何度も吸い上げてやった。
「ん……っふっ……うー……う」
抗いもせずに吸われるままだ。シャツを握る指に力がこもる。陽に焼けた咽が上下して、混じり合う唾液を飲み下す。
息が、荒い。顔に当たり、髪をなびかせる。
(俺が教えてやるまでこいつは、キスの時に鼻で息をすることすら知らなかった)
(かわいいやつ……)
さんざん舌先をねぶり上げてから、根元から先端へとしごくようにして唇を離す。
「はー、はー、はー……」
顔を赤らめ、息を弾ませている。だがもう一つ聞こえるこの息の音は誰のだ? 黒か?
「ふ……はぁ………あぁ……」
絡めた腕の中でダインはうっとりとこっちを見上げ、親指でなぞってきた。今し方離れたばかりの濡れた唇を。
「んっ」
(何てこった。この乱れた息は、俺のだ!)
「俺、どうしようもなくお前が……好きだ。大好きだ」
このまま、溺れてしまえたらどんなにいいか。このあまりに一途で純粋な愛情に、心置きなく浸れたら。
「いっそ冷たくした方が女に目がいくのかねぇ……」
苦笑混じりに答えると、しがみつく腕に力が加わった。息が詰まるほどではない。だが、逃げる事を許されないほどには強い。
「……やだ。放さない」
「はいはい、逃げねぇよ。お前さんが愛想尽かすまでは」
「愛想なんか、尽かしてやんねぇ」
「そうかよ」
背筋からこみ上げる疼きが肌の表面にまで突き抜け、細かい泡となって散開する。
眩暈がするほど心地よい。
自分はこんなにも強く、この男に求められている。若くて力に溢れ、純朴な男に、ひたすら一途に慕われているのだ。
男としての盛りは過ぎた。この先、衰えるばかりだと言うのに……。
離れなきゃいけない。離れたくない。相反する感情を持て余し、手綱を取れずにいるのは自分も同じだ。
レイヴンの存在を言い忘れていたのも。話しあう事を先延ばしにしていたのも、その結果なのだ……恐らくは。
「……ったく。俺は寝るから好きにしな」
「うん……」
ダインの腕に身を委ねて目を閉じる。頑丈な骨太の体がもぞもぞと動き、抱きしめられる側から抱きしめる側に体勢を変える。
「おやすみ、フロウ」
「おやすみ、ダイン」
藁の中、抱き合って目を閉じる。
今度はすぐに眠れた。
(愛しくて、離れ難く/了)
次へ→【32】四の姫の初級試験