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【5-4-1】鬼のかく乱

2012/02/18 23:10 五話十海
 
 霧はサンフランシスコの風物詩だ。
 ……なんて話には聞いていたが、実際に目にするまでディフォレスト・マクラウドは事態を甘く見ていた。

「せいぜい、朝方、遠くが少しもやっとするくらいだろ?」 
「お前ねえ。そんなテキサスくんだりの朝もやなんかと一緒にすんなよ? ここをドコだと思ってる」
「……サンフランシスコ」
「……」

 黒髪の同級生、ヒウェルは一瞬、拍子抜けしたような顔をしたがすぐに気を取り直してまくしたてた。

「そう、そーだよサンフランシスコだよ! アクティブなんだぞ。海側からもわもわとすっげー濃厚なのが押し寄せてくるんだ。町中すっぽり雲ん中に飲み込まれたみたいに真っ白になるんだよ」
「ごめん、想像できない」
「ったく」

 ひょいと片手で眼鏡の位置を整え、じとーっと目を半開きにしてねめつけてきた。
 なまじ愛くるしいリスのような風貌をしてるだけに、人相が三割増し悪く見える。

「知ってるか? サンフランシスコの霧はなあ、缶詰めして土産物で売られてるんだぞ? 文字通り『タダの霧』じゃないんだよ!」

 確かに土産物屋で見たことがある。興味を引かれたけど、さすがに買おうとは思わなかった。誰かからもらったら面白がったろうけど。
 その程度の認識だった。

「うはっ」

 11月の始め、唐突にその日はやってきた。
 朝、外を見たら白かった。
 窓の外が真っ白に塗りつぶされて、あるべきはずの庭木も、空も、遠くに見えるはずの校舎も視界から隠されていて……まるで自分の住んでる部屋が切り取られて、どこか見知らぬ世界にぽいっと放り込まれたような気分になった。

「すげーっ、すげーっ、ほら、見ろよレオン!」

 思わず窓を開けた。

「真っ白だ! 空気が牛乳みたいだよ、なーんにも見えない!」

 しかし、大はしゃぎするルームメイトに向けられるレオンハルト・ローゼンベルクの眼差しは、あくまで冷ややかだった。

「窓を閉めてくれないか、マクラウド。湿気が入る」
「………ごめん」

 さながら下賎の者どもの馬鹿騒ぎを横目で一べつする、王侯貴族のごとき威厳に滾る血潮は急転直下。すとーんと氷点下まで落ち込んだ。

(さすがに二年目になると、慣れるのかな)

 子供みたいにはしゃいでた自分が急に恥ずかしくなって、ディフは背中を丸めてそろっと窓を閉めた。

 霧の出る日は寒暖の差が激しく、冷え込みが厳しい。地元出身の生徒や、この地に住んで二年以上経過している上級生、あるいは下調べをきっちりしてきた要領の良い新入生にとっては周知の事実。
 だがテキサスの乾いた冬に慣れたこの野生児は……

「お前、そんな薄着で大丈夫かよ!」
「平気だって。サンフランシスコはあったかいよな! テキサスに比べりゃ天国だ!」

 そう、彼はすっかり油断していた。忘れていたのだ。霧の正体は細かい水の粒だってことを。
 物珍しさのあまり、上着も着ずに霧の中をふらふら歩き回った。
 結果として鮮やかな赤毛がいつもに増して強くカールし、くりんくりんになっても気にしない。着ていたトレーナーがしっとりしても着替えなかった。風呂にも入らなかった。
 見た目の「ふわふわ」にすっかり騙されていた。体が濡れて、実際に感じているよりずっと体温が下がっているなんて、想像だにしなかったのだ。
 
  雲の中に飲み込まれるような濃い霧が、一週間も続いたある夕方。
 
「……あれ?」

 アイスホッケーの練習を終えて寮に戻る途中。
 ひゅううっと吹き抜けた風に、ぞくぅっと背筋が冷えた。のみならず、その寒気は袖やズボンに沿ってぞぞぞぞおっと走り抜け、最後に腹の底からがくがくと体が揺れるほどの震えを引き起こし、唐突に消えた。

「あー、汗かいてリンクで冷えたからなあ……」

 アイスホッケーってのは氷の上でやるんだから、冷えるのは当たり前。
 練習の後、シャワーを浴びて、トレーニングウェアから私服に着替えたけれど、やっぱり汗は残っていたんだろう。
 部屋に戻ったらもういっぺん体を拭いて、着替えておこう。

「あれ?」

 異変はさらに続いた。
 寮に戻って階段を駆け上がり、部屋に戻ったらかくっと妙な具合にバランスを崩した。膝に上手く力が入らなかったらしい。
 肘の具合も妙だ。
 ひねったとか、ぶつけたとか、その種のシリアスな痛みではない。
 わなわなと、手足が妙な感じに疼いている。『笑ってる』……そう呼ぶのが一番しっくりする。改めて手足の筋肉に力を入れると、消える。
 
「筋肉痛か? 情けないなーあの程度の練習で……」

 ぶつくさ言いながらざかざかと服を脱ぎ、上半身裸になって。ごっしごっしとタオルで体を拭いているとレオンが戻ってきた。
 流麗な眉をしかめると、美貌のルームメイトは目をそらし、抑揚のない声でぴしりと一言。

「マクラウド。何度言ったらわかるんだ。ちゃんと服を着てくれ」
「ごめん、今着るから」

 汗を拭うのもそこそこに、慌てて服を着た。
 急いでいたものだから、乾いた着替えではなく、さっき脱いだばかりの生乾きのを。肌に触れた瞬間ひやあっとした。
 我慢、我慢。じきにに体温が伝わって体に馴染む。それまでの辛抱だ……。

 いつも通りに夕食を食べ終えて、部屋に戻って、食後の紅茶を飲んだら、けっこうすっきりした気になった。
 悪寒に震え、手足の関節痛。
 紛う方なき風邪の引き始めだったのだが、なまじ体力があっただけに、体調の変化を感じることなく乗り切ってしまった。
 しかし、体は正直だ。
 
「ぶぇっくしょい!」

 パジャマに着替えようとして、服を脱いだら、派手なクシャミが炸裂。本を読んでいたレオンにじとっと睨まれる。

「……ごめん。もう寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」

 もそもそとベッドに潜りこんだ。いつもより早い時間にシャワーも浴びずに。
 普段の生活習慣とは若干、ずれた行動だったが、レオンは気にも留めなかった。彼にとって、ルームメイトなんてその程度の興味しかなかったのだから。

     ※

「……」

 翌朝もひどい霧だった。
 レオンハルト・ローゼンベルクは不機嫌だった。煩いルームメイトが昨夜は珍しく早々に寝てくれた。これ幸いと一人の時間を満喫しようとしたら、すさまじいいびきをかき始めたのだ。
 起こしても、「んんー」とか「ああー」とか唸るだけで、またすぐいびきが再開する。
 いっそ廊下に捨ててやろうかと本気で思ったが、生憎とこの下級生、引っ張り出すにはいささか重過ぎる。
 やむなく、ティッシュを丸めて耳に詰めて。明日一番に、アレックスに耳栓を届けさせようと堅く誓いつつ、ベッドに入った。
 おかげで目覚めは最悪だ。さすがに一言、文句を言ってやらなければ収まらない。

 覚醒と同時にむくりと起き上がり、台所の方を見る。
 
「?」

 マクラウドは、そこには居なかった。珍しいこともあるものだ。風呂に入ってるのかと思ったが、浴室を使っている気配はない。

「………」

 ぐるりと部屋の中を見回すと、彼は意外に近くに居た。
 ベッドの上で毛布がぽっこりと丸く、人の形に盛り上がっていたのだ。枕のあたりにちらりと赤い髪の毛ものぞいている。
 珍しいこともあったもんだ。

 そろりそろりと近づいてみる。頭からすっぽり毛布をかぶり、体を丸めていた。

「……マクラウド?」

 まぶたが震えて、潤んだ瞳があらわれる。いつもの穏やかなヘーゼルブラウンがうっすらと、緑に染まっていた。

「あ……レオン」

 どきっとした。肌がうっすらと汗ばみ、まだらにピンク色に染まっている。顔のそばかすがいつもよりくっきりと浮かび上がっている。それ故に、思い知らされた。
 彼の肌が、どれほど白いのか。

「どうした」

 答える声は低く、かすかでほとんど力が入っていなかった。

「ごめん、すぐ、飯作る……」
「よせ」

 よれりと起き上がろうとするのを、押しとどめる。ほとんど力を入れていなかったのに、マクラウドの体は簡単にベッドに倒れてしまった。
 わずかに触れた手のひらが、熱い。

「寝てろ。寮長を呼んでくる」
「……うん」

 赤毛のルームメイトに何が起きたのか? いかな世間知らずの『姫』でも、ここまではっきりと変化が出ていればわかる。
 まっすぐに寮長の部屋に行き、ドアをノックして、顔を出したマイケル・フレイザーに淡々と告げた。

「マクラウドが熱を出しました。動けないようです」
「すぐ行く」

 早朝の訪問者がレオンと知った時、マイクは少々、慌てていた。眼鏡もかけず、服も着かけたまま戸口に飛び出していた。
 ついに、来るべき時が来たかと思ったのだ。

『もう限界です。アレを引き取ってください』

 この一ヶ月、何度夢に見たことか! だがレオンの目的は違っていた。それはそれでやっぱり心配だったけれど。とにかく身支度を整え、必要なものを持って、彼らの部屋に急ぐ。

「体温104度(摂氏38度)、咳と鼻水、頭が痛い。鼻も乾いてる、と」
「え?」
「いや、こっちの話。たぶん風邪だね。ドクターが出勤してきたら、来てくれるように連絡しよう」
「いい……俺が、自分で、行く」
「動けるのかい?」
「動く」

 よれよれになりつつ、それだけははっきりと言った。ひどい鼻声だったけれど。
 これは、やめろと言っても聞かないだろう。そう言う子だ。

「OK、マックス。欠席届は、僕から担任の先生に伝えておく。さしあたって君は……」

 タオルを水で濡らして、きゅっとしぼり、汗ばむ額に乗せた。

「医務室が開くまで、あったかくして、おとなしく寝てるんだよ。いいね?」
「……はい」
「そら、これ」

 持参したボックスティッシュ一箱と、ペットボトル入りの水を一本、枕元に置いた

「絶対必要になるから」
「ありがどうございまふ」

 ずびび、と水っぱなをすすると、ディフはさっそく箱からティッシュを二枚ほど引き抜いて、派手に鼻を噛んだ。
 その音にまぎれて、レオンはこっそりと安堵の息をついていたのだが……ディフもマイクは気付く由もなかった。

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【5-4-2】ぜいぜいげほげほ

2012/02/18 23:11 五話十海
 
 マイク寮長が帰った後、部屋には赤い顔で寝込んだディフと、困った顔をしたレオンが残された。そう、この時点でようやくレオンハルト・ローゼンベルクは一つ、差し迫った問題を抱えていることに気付いたのだ。

 今朝の朝食はどうすればいいんだろう? 

 この二週間と言うもの、朝は毎日、マクラウドが作っていた。部屋で朝食を食べてから、学校に行くことに慣れていた。その事実に自分でも驚く。
 わかっている。料理のできる人間が寝込んでしまってる以上、選択肢は一つしかない。だが、果たして病人を一人、部屋に残して行っていいものかどうか。
 経験が無いだけに、困る。どうしたらいいのかわからない。
 視線に気付いたのだろうか。マクラウドがうっすら目を開けた。

「……大丈夫だから。飯食って、学校、行けよ」
「わかった」

 別に心配していた訳じゃない。ただ、戸惑っていただけ。それでも、彼の言葉を聞いてほっとした。

「行ってくる」
「んー……行ってらっしゃい」

 あくまで単純に事実の報告をしただけなのに。まさか送り出されるとは思わなかった。

 久しぶりに寮の食堂の朝食を口にした瞬間、レオンは眉をしかめた。

「う」

 改めて、自分が口に入れた食べ物の残りを観察する。
 スクランブルエッグとベーコン、マッシュポテト(何故かこれは昼夜献立を問わず、必ず付いてくる)と半分に切ったオレンジ、パンはトーストかロールパンの選択。何てことはない、いつもマクラウドが作るのとほぼ同じ献立だ。
 材料は卵とベーコンと、調味料。誰が作った所で味はそう変わらない。
 それなのに。

(美味しくない)

 ほんの二週間前までは、毎日『これ』を食べていたはずだった。
 機械的に皿の上の物を口に運ぶ。それが自分にとって食事と言う行為の全てだった。それなのに、何故こんなにも、味気ないのだろう?
 釈然としないまま食べ終えると、レオンは教室へと向かった。流麗な眉の間に刻まれた皴は、消えることがなかった。

     ※

「げぇほごほ、ごほがほぐへっ」

 レオンを送り出したら、気が抜けのか。咽奥からととととっと機関銃の一斉掃射のように見えない塊がせり上がってきて、派手に咳き込んでいた。
 さすがに同じ部屋に人がいると遠慮してしまう。と、言うか、レオンに申し訳なくて我慢していたけど。
 
「げへっ、ごほっ、がふっ」

 咳が出るのは、体からよくないものを排出するためなんだ。だから、がまんせずにやっちゃった方がいい。
 元気な時は一、二度咳き込めば詰まっていたものがとれてすっきりする。だけど熱がある時の咳は、何度しても余計に苦しくなるばかり。

「うー、すっきりしない……」

 一人つぶやく声も、ごぼごぼ水がからまってまるで海中撮影のドキュメンタリーみたいだ。(何のことだかもう)
 布団を被り直して枕に頭を乗せる。体が妙に収まりが悪い。ここはいつも自分が寝ているベッドの上なのに。医務室が開くのは8時半からで、今はまだ7時。一時間半ってのが微妙に半端で落ち着けない。
 いっそ二時間ならゆっくりできるし、三十分なら逆にすぐに起き上がる心構えができるだろうに。
 一時間半。
 体が落ち着いた頃に起きて着替えなきゃいけない訳だ。ああ、面倒くさい。

(え?)

 自分で自分に驚く。
 嘘みたいだ。動くのが面倒くさいだなんて考え、いったいどこから出てきたんだろう?

「う」

 急に意識がはっきりした。
 息が詰まる。
 咽奥が塩辛い。水が咽に流れ込んでる。慌てて起き上がると、たーっと鼻から水が滴り落ち、唇の上を伝ってぽつっと布団に染みを作った。

「うゔぁ!」

 鼻水だ! あわててざかざかとティッシュを引き抜き、鼻をかんだ。
 所が、かんでもかんでも鼻詰まりがとれない。ただ粘度の低い鼻水が出るばかりで、全然すっきりしない。それどころか、かえって息苦しくなってきた。
 鼻がまったく通らない。口でしか息ができない。もう、鼻の奥そのものが腫れて道が塞がってる感じだ。

「げえほごほがほっ」

 体を起こしてると、後から後から垂れてくる。横になればなったで、咽の奥にまた逆流する。どんな格好をしても、逃げられない。

(俺、溺れるかも……)

 鼻が詰まってるってだけで、頭が回らなくなるんだから困ったもんだ。
 頭全体がはれぼったくなって、いつもより3割機能ダウンって感じだ。

(もはや3割どころじゃないかもしれない。あー、数字がわかんねえ)

 嗅覚のみならず、視覚に聴覚、味覚。ありとあらゆる感覚が鈍っていた。溶けたキャラメルの中で動いてるみたいだ。時計の針もなかなか進んでくれない。

「うー……」

 起き上がって鼻をかみ、また横になる。息ができなくなって起き上がる。
 何ていやぁなローテーション。全然体が休まらない。
 枕の周囲に使用済みティッシュがこんもり山になった頃、ようやく医務室の開く時間になった。

「起きなきゃ……」

 わざわざ口に出さなきゃもはや動けなかった。ベッドから出ると、寝巻きを貫き、痛いほどの冷気が肌を刺した。

「さむい」

 ああ、もういっそ医務室になんか行くのやめよっかな。このまま寝てようかな。(ダメだって、絶対)

 ともすればベッドに引き返そうとする体を無理やり動かした。
 這うように洗面所に行き、歯を磨いて、顔を洗って、髪の毛をとかす。もはや第二の皮膚になりつつあったパジャマを脱ぎ捨て、新しいシャツに袖を通す。
 肌に触れる布の冷たさに、思わずすくみあがった。トレーナーに手を伸ばして、途中で止める。

(これじゃ、薄い)

 サンフランシスコに来てから、初めてそう思った。
 先日、実家から届いたばかりの厚手のセーターを着込み、さらに厚手の靴下をはいた。毛糸がちくちく当たってこそばゆいけれど、とにかくあったかい。

(もっと早くに着ておけばよかったなあ……)
 
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【5-4-3】行き倒れ

2012/02/18 23:12 五話十海
 
 雲を踏むような心地で学生寮を出て、医務室へ向かう。いつもなら意識せずにさっさか歩けるはずの距離が

「すげえ遠い……」

 理由は簡単。移動速度そのものが落ちている上に、くらくらしてなかなか前に進めないのだ。

(やばいなー。地面が回ってる……酔いそう)

 壁に手をついてぜいぜいと息を切らしていると、ぽんっと肩に手を置かれた。

「おーい、大丈夫かマックス」
「あー、ヒヴェル?」
「………誰だそれは」
「ごゔぇん、鼻づまっでで」
「みたいだな」

 わざわざ言う必要もなかっただろう。
 移動中に鼻が垂れないように、詰まりの酷い左側の鼻の穴によじったティッシュをつっこんできたのだ。
 この上もなく、一目瞭然。

「お前、顔真っ赤だぞ」
「熱、あるから」
「医務室行けよ」
「うん、今行くとこ」

 行こうとする努力と、実際に体が動く速度。なまじいつもどたばた突っ走るのを見慣れているだけに、今の壊滅的な落差がすさまじい。
 見るに見かねて、ヒウェルは盛大にため息をついた。

「あーもー見てらんねーわ。ほら、つかまれ!」
「さんきゅ」

 差し出された細い肩に、のしぃっとがっちりした体が寄りかかる。

「と、とととぉっ」

 ヒウェルとディフ、二人の身長差はそれほどない。だが、密度には歴然と差があった。ほっそりとがっちり。文系美少年と体育会系野生児。
 客観的に見て到底支え切れるはずもなく、ヒウェルは級友もろとも派手によろけて、今度は自分が壁に手をつくハメに陥った。
 
「……ごめん」
「うん、気持ちだけ受けとっておく」
「とりあえず、医務室まで付きあうよ」
「ありがとな」

 それでも、ディフにしてみれば一人で歩くよりずっと早かったし、何より気持ちが楽になった。

 気持ちの上でも、物理的にも長い長い廊下を歩き、ようやくたどりついた医務室は混み合っていた。
 待合室のベンチには、ペットボトル入りの水を片手にマスクをしてうずくまる生徒たちが、ひっそりと群を成していた。みんなして申し合わせたようにセーターだのスタジャンをもこもこに着込み、背中を丸めてうつむいている。

「多いんだなあ、風邪引き」
「霧が続いたからな、今週」
「関係あんのか?」
「ああ。霧の出る日は、ぐっと冷え込むんだよ。寒暖の差が激しいんだ」
「そーなんだ」
「中歩くと、濡れるし」
「気がつかなかった……」
「っかー、これだから内陸生まれは! 今度から気をつけろよ?」
「うん。授業あるだろお前。教室、行けよ」
「OK。お大事にー」
「ありがとなー、ヒヴエル"」

 誰。それ。
 
      ※

 診察の結果は、やはり風邪だった。

「ああ、咽の奥が赤いね。咽頭炎だ。インフルエンザではないようだが、熱が下がらなかったら必ず来ること。いいね?」
「はい」
「水分の補給を忘れずに。それと、これを使いなさい」
「マスク?」
「呼吸が楽になるから」

 なるほど、確かに引きつれるような咽の痛みが緩和された。
 しかし、湿り気が封じ込められて内側に「篭る」。温室の中に閉じこめられたみたいで、これはこれでやっぱりぼやーっとしてくる。

 ああ、中途半端に熱い。んでもって湿っぽい。
 セルフ温室だよ。地球温暖化だよ。
 今なら俺、口ん中で熱帯魚飼えるかも……。

 ぼやぼやと浮いては沈むりとめのない妄想を追いかけつつ、寮に戻った。
 ごっそりと血も肉ももろとも削り取られたみたいに、体の真ん中からがくーっと力が抜けていた。もはやセーターが重い。脱いだ瞬間、寒さに縮み上がったがその反面、急に体がふわっと軽くなった。
 ベッドの上に脱ぎ捨てたパジャマを手にとると、じっとり汗で湿っていた。とてもじゃないが、もう一度身に付ける気にはなれない。汚れ物用の篭に放り込み、新しいのを身に付ける。

 もらった薬を机に並べた。粉薬が一種類とカプセルが二種類。何気なく見た薬瓶に書かれた薬の名前が妙におかしくて

「トランサミンってトランスフォーマーみてぇ。あは、あははは……」

 気がつけば一人、へらへらと声をあげて笑っていた。

(やばいな。錯乱してる)

 もそもそとベッドに潜り込む。
 消耗しきっているせいか、手足の関節がわらわらと、内側からくすぐられてるみたいにこそばゆい。力を入れればその瞬間は楽になる。わかっていても、入れる力が出てこない。
 疼く体を横たえ、枕の上に頭を乗せた。
 相変わらず居心地は悪いが、もう力を入れなくていいのだ。歩かなくていいのだ。
 ほうーっと息を吐いた。

「あ、水飲んでおかないと……」

 水なら、あるじゃないか。鼻の中にたっぷりと塩辛いのが。
 だから、後でいいんだ。もう、体がだるくて起き上がるのがめんどくさい。飲みに行くのがめんどくさい。

(寝よう。とにかく、寝よう)

 意識を手放した瞬間、理性は散り散りになって四方八方に霧散した。これ幸いとそのまま目を閉じて、ぶくぶくと熱帯の海に沈んで行くのに任せた。

(目が覚めたら、ちょっとは楽になってると……いいな)

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【5-4-4】風邪引で三割増し

2012/02/18 23:13 五話十海
 
 午後四時半。
 授業を終えたレオンは、珍しくまっすぐ寮に戻った。図書館にも寄らず、学校内の『隠れ家』で時間を潰すことなく、まっすぐに。
 扉を開けると、部屋の様子は朝出た時とほとんど変わっていないように見えた。
 しかし徐々に微妙な違いが浮かんでくる。
 
 ドアから向かって左側にある、マクラウドのクローゼットがまず開けっぱなし。扉からだらりと逆さ釣りになっているのは、脱いでそのまんまの形になったセーターだ。一瞬、仰向けにのけぞった人の体に見えてぎくりとした。

 机の上には、薬の入ったオレンジ色の円筒形のボトルが転がっている。
 そしてベッドの中には、朝出かけた時と同じようにマクラウドが入っている。体を丸めて、目を閉じて。周辺の床には丸めたティッシュが散らばっていた。マイク寮長に渡されたのを使ったんだろう。
 念のため近くに寄って様子を確認してみる。

 もわっと熱気が顔に当たった。まだ熱は下がっていないらしい。
 
(あ、生きてる)

 相違点をまた一つ発見した。朝見たのとは別のパジャマを着ている。
 今朝は白地に青の縦ストライプ。今着てるのは薄いクリーム色。形は同じ襟つきの前開き……シャツ型の寝巻きが好みらしい。この手のガサツな体育会系の男は、寝る時だろうと起きている時だろうと、スウェットを着てるものと思っていたが。
 
「ん……」

 眠ったままマクラウドは眉間に皴を寄せ、ごろりと寝返りを打った。横向きだった体が、仰向けになる。

「っ!」

 何てことだ。どう言うボタンの止め方をしたのかこいつは。
 パジャマのボタンが互い違いにずれている。一番上のボタンが下から三番目の穴に。結果として襟元が大幅にひらき、鎖骨はおろか胸板まで見えている!
 普段、服の内側になっている胸元は、陽に焼けた首筋や顔、手足と異なりくっきりと白かった。生まれたままの白さを保った肌の下を通る血管が、透けて見える。
 肌が見えているのは、たかだか手のひらで隠れそうなほどの小さな面積だ。それなのに、まるで『裸』を見ているような、奇妙な感覚を覚える。
 
 つーっとマクラウドの額から汗が流れる。顔から頬、顎、首筋と伝い落ち、鎖骨に沿って胸元へと消えて行く。つすーっと、また一つ。
 目で追いかけていると、ざわぁりと何かが蠢いた。自分の皮膚の内側で、目に見えない生き物が身じろぎしたような、奇妙な感覚だった。
 慌てて目をそらす。だが気になってちら、とまた横目で見てしまう。

「ふ……は………はぁ……っ」

 口をうっすら開いて喘いでいる。
 つらそうだ。
 医務室に行ったはずなのに。薬ももらっているのに。

「は……は……は……あぁ……んぅう」

 何だって悪化してるんだ?
 机の上の薬瓶を手にとってみる。
 添えられた説明書きによると、解熱鎮痛剤と、咽の炎症をおさえる薬、総合感冒薬の三種類を処方されている。毎食後に服用。だが、いずれも封を切った形跡がない。

 こつんと何か重い、円筒形のものが足に触れる。ペットボトル入りの水だ。今朝、寮長が置いていったものだろう。やはりこちらも未開封。
 この期に及んでようやく気付いた。そのガサツな性格と行動様式にも関わらず、マクラウドは真面目な奴だ。
 この種の注意書きや説明書きにはきっちり従う。薬を飲んでいないと言うことは、つまり食事もしてないってことだ。

(こいつ、もしかして今日は何も飲み食いしてないのか?)

 やれやれ。せっかく医務室に行っても薬を飲んでいないのでは、かえって動いた分悪化するばかりじゃないか。これだけ大量の汗や鼻水が流れたら、体の水分も失われているはずだ。
 脱水症状を起こしかねないじゃないか。まったく、人の食事は心配するくせに……。
 
 冷蔵庫を開けて中を確認する。部屋で朝食を食べるようになって以来、中に収められた食料品の数も種類も増えていた。
 卵にベーコン、リンゴに牛乳、食パン、冷凍庫にはミックスベジタブル。
 食べられそうなものは、それなりにあった。でも、どうやって調理すればいいのか、わからない。まさか病人を起こして作らせる訳にも行かない。

 レオンは腕組みして考えた。

 自分が熱を出した時、アレックスは何を食べさせてくれただろう?
 記憶をたぐりよせる。
 チキンスープ……論外。材料が無いし、第一難易度が高すぎる。
 オートミール……これもやはり難易度が高い。

 すりおろしたリンゴ。今、リンゴはあるけれど皮がむけない。そもそもむいたことがない。増してすりおろすなんて無理だ。不可能だ。

(アレックスは、他に何を作ってくれただろう?)

 できれば包丁を使わずに調理できそうなもので……

「あ」

 思い出した。あれならきっと、大丈夫。
 改めてキッチンにある食材と調味料を確認し、使うものを調理台に並べた。牛乳、紅茶用のクリーム、卵、砂糖、そしてナツメグ。

「ふむ」

 材料はそろっている。器具もある。後は、混ぜるだけだ。

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【5-4-5】いわゆる洋風卵酒

2012/02/18 23:14 五話十海
 
 海の中にいた。でもちっとも冷たくないし、涼しくもない。
 体温よりちょっと高いぐらいの、微妙なぬるさの海。ここが熱帯ならきれいな色の魚とか、イルカとか居そうなものなのに……
 ぽっかりからっぽの海の中、浮いているのは自分だけ。何故か顔は海面すれすれで、うっかりするとごぼっと波を被る。鼻から咽に塩辛い、ぬるい水が流れ込んで、苦しい。
 必死で手足を動かそうとしても、目に見えない重いものにからめ捕られてちっとも自由にならない。
 潜ることも、浮かぶこおもできずにただがぼがぼと塩水にむせながらもがく。もがく。もがく。

(ああ、これは夢だ。目を開ければ終わるはず)

 まぶたに力をこめて、開く。
 だめだ、まだ海の中。
 あきらめるな、もう一度。目を閉じて、さっきより力を入れてゆっくりと。
 今度はどうだ?

 そうやって一体、何度まぶたを開けたことだろう? 覚めたと思ってもまだ夢の中。何層にも重なった息苦しい海をようやく通りすぎたと思えば、今度は何処とも知れぬ天井に顔を押し付けられ、潰されそうになる。
 自分の居る空間が、どんどん狭くなってくる。下からじりじりとまた、ぬるい塩辛い水がせり上がってくる。急がないと、息ができなくなってしまう。
 急げ、ああ口が浸かった。もうすぐ鼻が沈む。
 早く。
 早く!

「あ……」

 やっと、本物の天井が、見えた。

 病気の時ってのは、だいたい目覚めに二種類ある。一つは起きた時、眠った時より皮一枚はがしたみたいに『よくなってる』なって感じる時。もう一つは『相変わらず苦しいまま』。
 今回はどっちだろう?
 手足の皮膚、耳、目。ぼやけて霞んでいた感覚が次第にはっきりとしてくる。
 手足や首、肩が妙な具合に強ばり、きしきしと疼く。鼻の奥に赤いもやもやのトゲが居座っている。頭の中が、ごわーん、ごわあーんっと金属をぶったたくみたいに振動してる。
 その振動に合わせて額の奥が痛い。後頭部が重い。枕に圧迫されてうっ血してるように感じる。
 残念。『相変わらず苦しいまま』だった。
 がっかりしたが、ため息をつく以前にまず、息ができなかった。手さぐりでティッシュを引き抜き、びーむっと鼻をかんだ。

「うわぁ」

 ごっそりと大量の鼻水。しかも今回は粘度が高く、ちょっぴり血が混じっていた。
 ぎょっとした。でも、すっきりした。
 続けて二回、三回とかんでいると、塊が出切ったのか、ほとんど色のない鼻水に戻った。

「ふー、はー、はー……」

 やりすぎた。
 頭がシェイクされてふらふらする。ぐーるぐると回る意識をどうにか一つにまとめていると……
 かちゃり、ことり、と台所から微かな物音が聞こえた。
 誰かが立ってる。動いている。

(母さん?)

 ない、ない、ある訳ない。ここはサンフランシスコだ。学校の寮だ。何があっても、家族は頼れない。自分一人でどうにかするしかないんだ。

「目が覚めたかマクラウド」

 不意に枕元で声がした。顔をあげると、そこに居たのは……

「レオン……?」

 ずいっと目の前に突き出されたのは、見覚えのあるオレンジの円筒形。医務室で処方された薬のボトルだ。

「薬をもらっても、飲まなくては意味がない」
「あー、そうだよな」

 やばい。薬飲む前に寝ちまった。受けとると手の中でカロカロと、錠剤の転がる音がした。
 蓋をねじって開けようとしたが、上手く指に力が入らない。

(くそ)

 落ち着け、落ち着け。別に筋力そのものが落ちてる訳じゃない。もう一度、今度はゆっくりと……。
 きゅっと白い蓋が回った。
 やった、開いた!

「マクラウド」
「ん?」

 つい、と目の前に湯気の立つマグカップが差し出される。

「飲む前に、何かお腹に入れておいた方がいい」
「これ、何だ?」

 最初はあっためたミルクかと思った。だがよく見ると、もっと黄色が濃くて、とろりとしてる。においは………だめだ、全然わからない。

「エッグノック。アルコールは入ってない」
「……作ったのか」
「混ぜればいいだけだから」

 そう、ただ、混ぜればいい。
 温めた牛乳と、ときほぐした卵と砂糖、仕上げにクリームをひとたらしとナツメグをひとふり。切る必要もないし、皮もむかずにすむ。
 ただ一つ、卵を割るのが最大の試練だった。
 アレックスの動きを思い出しながら、ボウルの端に軽く卵を当てて、割れ目が入ったら親指の先をひっかけて、左右にそっと広げて……るはずなのに、どうしても途中でぐしゃっとつぶれる。落ちた殻を指先でつまみ上げようとしても、つるりつるりと逃げてしまう。まるで生き物みたいに。
 4回失敗して、5回めに開き直った。

「濾そう!」

 殻の欠片の混ざったまま、卵を混ぜて解きほぐし、最終的に茶こしで漉したのだった。どうにか卵と殻を分離するのに成功したものの、あいにくと茶こしに生臭いにおいが残ってしまったけれど……
 洗って、アレックスに送ればきっと何とかしてくれる。その間は予備を使えばいい。
 紅茶をいれるための道具は常にストックしてあるのだから。

「甘い……」
「糖分と、たんぱく質と水分が補給できる」
「うん」

 両手でカップを包み込み、少しずつ飲んだ。
 甘くて、あたたかい液体が、咽を通り過ぎて空っぽの胃袋に落ちて行く。
 体の内側から温められて、鼻の奥が嘘みたいにすーっと楽になって、舌の奥にかすかにナツメグの香ばしさを感じることができた。

「あったかい……甘い……」

 ただ、それだけの事なのに。悲しくて、苦しくて、寂しくて、焦っていた。
 体と頭が、トゲのついた見えない針金でぎっちぎちに結ばれていたみたいだった。
 どう振り払っても取れない。ずっと続くんじゃないかと思った痛くて苦しい戒めがふわっと溶けて、消えてしまった。跡形も無く。

「………ありがとな、レオン」
「君はルームメイトだから」

 ペットボトルに入った水をレオンはそ、と枕元に置いた。

「ちゃんと薬を飲んで、早く治してくれよ。同室者が寝込んでいると、落ち着かない」
「うん」

 それは、偽らざる心の言葉。
 レオンハルト・ローゼンベルクは心の底から赤毛のルームメイトの回復を願っていた。望んでいた。
 久しぶりに一人で食べた食事の不味さ、味気なさと言ったらなかったのだ。
 なまじ二人一緒に食べるのに慣れ始めてていただけに、余計にわびしかったのだ。

      ※

 この日を境に、姫はちょっとだけわんことの距離が縮まった。
 けれど彼はまだ気付いていなかった。
 熱にうなされるディフを見た時、かすかに生じた皮膚の内側がざわつくような感触の正体に。

 熱く濡れた指先が、そろりと撫でた思春期の扉。
 芽吹きはもう、すぐそこに。


後日談→【3-3】okayusan

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【5-5】俺のクマどこ?

2012/07/17 1:48 五話十海
 
  • ローゼンベルク家の主寝室には、ドイツ生まれの小さなクマが居る。茶色の毛並にビーズの目のテディベアが、何故そんな所にいるのかと言うと……。
  • 1995年、11月も後半にさしかかる頃。全てはわずか一足の赤い靴下から始まった。
  • ディフの初デートと初寝ぼけ、そしてレオンの性の目覚めを描くエピソード。

【5-5-1】戸惑う姫

2012/07/17 1:49 五話十海
 
 レオンハルト・ローゼンベルクは戸惑っていた。
 全ての原因は同室の一年生、ディフォレスト・マクラウド。鮮やかな赤毛にヘーゼルブラウンの瞳、犬のように人懐っこい、図体のでかい奴。

 およそ「美少年」なんて言葉からはほど遠いこの少年に、まさか。まさか自分がこんなにも心をかき乱されるなんて!

 最初に会った時は、生活に割り込む珍獣としか思わなかった。
 動きがいちいち大ざっぱで、立てる音も話す声もでかい。風呂上がりに裸でうろうろするし、牛乳は紙パックから直に飲むし……
 寮の部屋に空きができ次第、速やかに出て行って欲しい。さもなきゃ自分が部屋を出ようとさえ思っていた。
 できるだけ一緒に居たくないから、朝は速やかに寮を出て、授業が終わってからは学校のあちこちで時間を潰していた。

 それが。

「レオン、飯できたぞ!」
「ありがとう」
「卵に塩足すか?」
「いや、このままでいい」

 今は毎朝、彼の焼いたトーストと、卵を食べて自分の入れたお茶を飲んでいる。
 彼が風邪を引いた時は気掛かりになって授業が終わるなり、部屋に戻ってしまった。
 逆に自分が寝込んだ時は……。

 いつもに増してお節介で。暑苦しいくらいにひっついて、世話を焼かれた。
 のみならず、まさかあんな風に軽々と抱きあげられるなんて!
 お姫様みたいに。あるいは花嫁みたいに。
 ベッドにおろされた時、体が震えた。屈辱とも驚きともまた違う、どこか甘ささえ漂う不可思議な衝動で……。

(熱のせいだ)
(今は体が普通じゃないから)
(大体あれは、病人を運ぶのに至極一般的な抱き方じゃないか。花嫁もお姫様も関係ない!)

 揚げ句、コメのスープをスプーンで食べさせようとした。(子供じゃあるまいし!)さすがにそれは遠慮して、自力で食べた。
 何でそこまでして面倒を見るのか、と問いかけたら、自分の風邪がうつったから。自分が熱を出した時に看病してもらったからだと答えた。
 至極真っ当な理由で、それ以上問い詰める必要性も感じなかった。
 
 しかしその一件の後、確実にレオンハルト・ローゼンベルクとディフォレスト・マクラウドの関係は変わった。
 まず、レオンはいつの間にか、マイク寮長を問い詰める事を忘れていた。以前はそれこそ顔を合わせる度に「あいつを早く引き取ってください」と詰め寄っていたのに。

 さらに。

「レオン、風呂空いたぞ」
「………ディフ。そろそろ何か着てくれないか?」
「あ、ごめん」

 マクラウドでもなければ、ディフォレストでもなく、愛称で呼ぶようになった。
 赤毛のルームメイトは、今やすっかりレオンの生活の一部になっていたのだった。
 
 しかしながらレオン自身はその事実をちらとも自覚してはいなかった。あくまで「一緒に居ることを認めている」だけなのだと思っていた。
 クラブの練習や買い物でディフの帰りが遅くなると、妙に落ち着かず、そわそわしてしまう。

「今日は友達と出かけるから」

 なんて聞かされでもした日は一日中、胸の奥にもやっとした奇妙な重苦しさが広がり、自ずと眉が寄ってしまうのだが……
 本人はまるきり、その事実に気付いていない。
 遠巻きに見守るクラスメイトたちも、何故『姫』の機嫌が悪いのか首を捻るものの、誰一人として真相に至る者はいないのだった。

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【5-5-2】赤い靴下ピンクのシャツ

2012/07/17 1:51 五話十海
 
  
 聖アーシェラ高校ガブリエル寮の地下には、共用の洗濯室がある。
 置いてある機械はやや旧式ではあるものの、町中のコインランドリーとそう代わり映えはしない。脱水機能のついた洗濯機が2台と乾燥機が一台。

 寮生全員が使うには足りない。しかも洗剤こそ自前だが、使用に関してはコインランドリーと違って無料なのだ。
 当然の事ながら霧や雨の続いた日は使用希望者が殺到し、順番待ちの長い列ができる。
 人が待っていると思うと使う時も自ずとせわしなくなる。洗濯機が空いたら、慌ただしく自分の分の洗濯物を入れて、洗剤をセットして、スイッチを入れる。
 そんな状況下ではついつい、中の確認もおろそかになったりする訳で……。
 
「うわっ!」

 脱水の終わった洗濯機を開けた瞬間、ディフはあんぐりと口を開けた。
 白いシャツが。靴下が。タオルが。ことごとくピンクに染まっている!

「何でだ? 色ものとは分けたはずなのに!」

 わっさわさと取り出して一枚一枚確認して行くうちにふと、見慣れぬ物体に気付く。
 淡いピンクの洗濯物に紛れ込んだ、一足の真っ赤な靴下に。

「……これか」

 やっちまった。
 恐らく前に使った誰かが忘れて行ったのだろう。少なくとも自分の持ち物じゃない。
 よくぞまあこのちっぽけな布きれから、大量の布を染めるだけの色が染み出したもんだ。驚き呆れながらもとにかく、これ以上被害が拡大しないよう危険な靴下を取り除く。
 後で食堂の壁にでも貼っておこう。その程度の憂さ晴らしは許されるだろう。
 
「乾かせば、ちょっとはマシになるかなあ」

 わずかな望みをかけて、きれいに染め上がったシャツその他もろもろを乾燥機に入れた。
 
      ※

 若干薄くはなったものの、乾かしてもやはりピンクはピンクのままだった。
 ピンクのワイシャツ、ピンクのTシャツ、ピンクの靴下、ピンクのタオル。
 畳んでクローゼットに入れながら、ディフは深々とため息をついた。

「どーすんだこのピンク……」

 使用上の問題はない。履けるし、着られるし、拭ける。だが問題は、色だ。

(思いっきり女の子の色じゃねーか)

 いみじくもテキサス男子たるもの、ピンクのシャツなんぞ間違っても着られない!
 できれば取り換えたい。だがこれから実家に連絡して、代わりを送ってもらうまでに何日かかるだろう。
 まとめて洗ったのが仇になり、ほぼ全滅だ。届くまでの間、残された衣類でしのげるだろうか?
 それ以前に、何て説明すりゃあいい。

「やっぱ買い替えるしかないのか……」

 がっくりと肩を落とす。
 けっこうな出費になりそうだ。元を正せば自分のミスで招いた事態だと思うと余計に落ち込む。
 
(無駄遣いではないけれど、やっぱり無駄遣いだよなあ……)

 仕送りの中から、自由に使える金額は限られている。十分やりくりできると思っていたが、不測の事態に備えるにはやはり足りないのだ。

「うーむ……」

 悩んだ所でお金は天からは降ってこない。行動を起こすしかない。

 ディフォレスト・マクラウドはこうと決めたら動くのは早い少年だった。その場で電話をかけて家族と話した。ただし、換えの靴下を送ってもらうためではない。
 何となれば彼が電話をかけたのは、実家ではなく……農場を営む伯父の家だったのだ。

     ※

「レオン」
「何だい?」

 その日の夜。夕食を終えて部屋に戻り、いつものように紅茶を飲んでいる時に打ち明けた。

「俺、バイト始めることにしたんだ」

 レオンハルト・ローゼンベルクはカップを口に運ぶ手を止め、小さく「ほう」とつぶやいた。
 切れ長の茶色の瞳、ふさふさとカールした豊かな睫毛、絹のようにさらりとしたライトブラウンの髪、細い眉。すっと通った鼻筋に形の良い唇……大理石の女神像のごとき丹精な美貌はいつものように冷静そのもの。
 揺らぐ気配は塵ほども無い。

「どこで働くんだい?」
「郊外の農場。牧場やってる伯父さんに、知り合い紹介してもらったんだ。家畜の世話は慣れてるからな!」
「そうか、君は伯父さんの手伝いをしていたんだったね」
「うん。こう言うのは、やっぱツテと信頼が大事だしな」

 農場の主マッキロイ氏は、マクラウド家と同じくスコットランド人を祖先に持つ男だった。マクラウド牧場の主の甥っ子の頼みを、二つ返事で引き受け手くれたのだった。

「手の空いてる時間は馬に乗っていいって言ってくれた。牛乳とか、自家製のバターとか、ベーコンとか卵も分けてもらえる事になったし」
「なるほどね」

 ディフは満面の笑みで報告した。

「いいことづくめだろ?」
「……それで。いつから行くんだい?」

 するりと躱し投げ掛けられるレオンの問いかけに、何の疑問も抱かず素直に答える。

「今週の日曜。週末の空いてる時間に行く事になったんだ。部活の練習とか、試合のない日に」
「それはよかったね」

 レオンも表面上は何食わぬ顔で頷いた。さしたる興味もないかのように振る舞っていたが、その実、内心穏やかではなかった。

(これから君は週末、出かけるのか。部活のない日も、毎週)
(俺の知らない場所で、別々の時間を過ごすと言うのか)

 もやっとした重苦しさが胸の底にわだかまる。
 同室になった当初は、極力ディフと顔を合わさぬよう、何かと理由を着けては部屋から出ていたはずなのに。
 自分の中に起こった変化を、レオンはまるで自覚していなかったのだ。
 少なくともまだ、この時点では。
 
     ※

 そして、日曜日がやって来た。
 朝食を済ませた後、ディフは意気揚々とマッキロイ農場へ向かった。自分を見送った後、レオンが深い深いため息をついた事など知る由も無く。

 サンフランシスコの街は狭く、建物が密集している。
 郊外に向うバスに乗って30分も経たないうちに、窓の外はぎっしり立ち並ぶ家々から、なだらかな丘と広大な農地へと変わって行く。
 標識と待合用のベンチ以外、ほとんど何もない停留所でバスを降りた。
 歩き出すと、いくらも立たないうちに懐かしいにおいが漂って来る。牛や馬、鶏、山羊、羊。生きた体と植物と、そして彼らの出したあれやこれやが混じり合い、醸し出す濃厚なにおい。

「んーっ! 久しぶりだなぁ」

 思わず立ち止まって、深呼吸した。不思議なもので、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出すと鼻の奥に牛乳やラムチョップと同じにおいが残る。
 同じ生き物の体から出ているんだから当然と言えば当然だ。
 新学期が始まってから二ヶ月か。生まれてこの方、こんなに長い間、このにおいから遠ざかっていた事があっただろうか?
 体の中のずうっと奥で、しくしく疼いていたちっちゃな穴が、すぽっと埋まった気がした。自分では平気なつもりだったけれど、やっぱりテキサスが恋しかったのだ。

 カーン。
 コン。
 ガコン。

 どこからか釘を打つ音が聞こえて来る。 

『マッキロイ農場へようこそ!』

 風や日の光にさらされていい感じに古びた木の看板に、テンガロンハットを被った五十がらみの男が釘を打ち付けている。白髪交じりの栗色の髪、瞳は青。頬と鼻の下をごま塩みたいなヒゲが覆っている。
 くたくたに着古したチェックのシャツにブルージーンズと言う出で立ちは、ディフにとって見慣れた姿だった。

「こんにちは」
「おう、おまえさんがマックスの甥っ子か!」

 皴だらけの日焼けした顔が、くしゃっと笑みを作る。白い歯が眩しかった。

「話は聞いとるよ」
「伯父さんもマックスって呼ばれてるんだ……」
「うむ。俺がマッキーで伯父さんがマックスな。ひょっとしてお前さんも?」
「はい、学校じゃマックスって呼ばれてます」
「だ、ろうな!」

 マッキロイ氏は顔をのけ反らせ、愉快そうに笑った。

「歓迎するよ。手伝いは多い方がいいからな、ディフォレスト。だが学校はおろそかにしちゃいかんぞ?」
「はい! よろしくお願いします」

 差し出された手を握る。節がごつごつして、皮が堅く、指の付け根にタコがあった。

「所でお前さん、着替えは持って来ただろうな?」
「はい」

 肩に背負ったデイパックを揺する。力仕事は汗をかくのだ。冬でも秋でも。

「よし、ちゃんとわかっとるな、感心感心! 長靴はこっちで貸してやる」
「ありがとうございます」
「それじゃあさっそく手伝ってもらおうか」
「はい!」

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【5-5-3】苛立つ姫

2012/07/17 1:51 五話十海
 
 レオンは落ち着かなかった。
 休みの日、以前はマクラウドと一緒にいるのがうっとおしくてたまらなかった。それなのに彼が出かけてしまった後、妙に部屋の中が寒々しい。
 妙な話だ。元々はこれが日常だったはずなのに。

 図書館に行こうかとも思ったが、何故だか外に出かける気になれなかった。
 机に座り、本を開く。だがページを繰っても中味はまるで頭に入らない。合間合間に時計を見ても、二本の針は凍りついたようにちらとも動かない。

 さらさらさら。
 さらさらさら。

 砂のこぼれる音が聞こえる。乾き切った灰色の砂が落ちて行く。積もって行く。こう言う時に限って嫌と言うほどゆっくりと。その名を『時間』と言う。
 彼が農場から帰ってくるまで、あと何時間?
 
 じりじりと過ごすうちに昼になったので、ディフが用意してくれた昼食を食べた。全粒粉のイングリッシュマフィンに薄切りのソーセージとチーズと野菜をはさんだサンドイッチだ。
 いつもの朝食とほぼ同じ食材のはずなのに。確かにディフが作ったはずなのに(自分も隣で見ていたのだからまちがいない)
 まるで砂を噛むように味気ない。
 それでも最後まで口に入れたのは、ひとえに彼の作った食事を残したくなかったからだ。

 食べ終わった皿をシンクに運び、この日何度目かのため息をつく。
 いっそ雨が降ればいいのに。そうすれば農作業は中止になる。それだけディフが早く帰って来る。
 窓から空を見上げたが、忌々しいことに雲一つない。諦めて読みかけの本に戻ろうとすると……

 ドアがノックされた。
 その瞬間、レオンの眉間に刻まれた深いしわは消え去り、目が見開かれる。ライトブラウンの瞳が揺らぎ、ぱあっと顔全体が輝いた。
 足取りも軽く駆け寄ってドアを開ける。そこに立っていたのは……

「あ、ども、こんにちは」

 つややかな黒髪にくりっとした琥珀色の瞳。ほっそりした体つきの、リスにも似た愛らしい少年だった。
 ずうんっと氷の塊がレオンの喉元を滑り降りる。
 ついさっきまで揺らいでいた温かな炎は一瞬にして消え去り、分厚い氷が全てを覆い尽くした。

     ※

 ヒウェル・メイリールは観察眼の鋭い少年だ。
 だからクラスメイトの些細な変化にすぐに気付くことができた。

「何、お前珍しい色の靴下履いてるのな」

 指摘した瞬間、ディフはかーっと頬を赤くした。鼻と頬の周りに散ったそばかすがくっきりと浮かび上がり、肌の上に赤みが広がる。ヘーゼルブラウンの瞳が逃げ場を求めて左右に泳いだ。

「そんな色の靴下持ってたっけ? ピンクの……」
「わーわーわーっ!」

 ディフは慌ててがしっと腕をヒウェルに巻き付け、手で口を塞ぐ。

「ふごっ、ふぐ、ふぐぉっ」

 あまりの慌てっぷりに誰かから(それも女の子)からのプレゼントかとも思ったが、真実はもっと単純で間が抜けていた。

「はぁ? 赤い靴下と一緒に洗っちまった?」
「……うん」
「前の奴が忘れてったの気付かずに、そのまま」
「うん」

 肩をすくめ、背中を丸めてこっくり頷く友人の姿は、自信満々に飛びついたフリスビーを僅差で逃した犬そっくりだった。

「ってことは、一緒に洗ってたシャツとかタオルなんかも………」
「全滅だ」
「あー……」
「残った分でやりくりしてたんだけど、どうしても足りなくってさ」

 赤毛をわしゃわしゃかき回しながら、うつむいてぽつり、ぽつりと説明する。
 その顔で女の子に同じことを言えば、たちどころに半年分の靴下が集まるだろうに。この朴念仁ときたら。

「女の子たちには内緒だぞ」

 なんて念押しして来やがった。テキサス男子たるもの、ピンクの靴下を履いてることを女子に知られるのは言語道断、ってことらしい。しかも親にも頼らず、靴下買うためにバイトするとかどんだけ本末転倒か。

(ったく、世話の焼けるカウボーイめ!)

 その日家に帰ってから、里親のウェンディに尋ねてみた。

「ウェンディ。この間、ピーターの靴下まとめ買いしてたよね?」
「ええ。安かったからね。まさか、もう足りなくなった?」
「ううん、俺の分は足りてます、十分です」

 自分の分も同じくらいがばっと買いだめしてくれたのだ。

「実はさ、マックスの奴がさ」
「あのテキサスから来てる子?」
「うん。寮の洗濯機で、うっかり赤い靴下と白いのまとめて洗っちゃって……」
「あらあら」
「全部ピンクになっちゃったんだ」
「あらまあ」
「俺のだとサイズが合わないけど、ピーターだったら合うんじゃないかなーって思って」
「ちょっと待ってね」

 その場でウェンディーは寝室に行き、靴下の詰まった箱を抱えて戻ってきた。

「持ってきなさい」
「いや、さすがにこれ全部は多すぎるから!」
「じゃあ、半分だけ?」
「もう一声」

 みっしり詰まっていた靴下は徐々に減って行き、ヒウェルが「うん」と頷いた時は箱にはだいぶすき間が空いていた。

「ちょっと待ってね」

 ウェンディが次に飛んで行った先は、キッチンだった。

「これも持ってきなさい。あとこれも……これも……」

 結局、箱のすき間は埋まった。

     ※

 そんな訳で日曜日。ノートを貸す約束もしてあったし、物はついでだ、善は急げだ。
 靴下以外のスープやスパムの缶詰め、タオルにパスタにビスケット、そしてリンゴ。それこそ実家から届いた荷物そのまんまのラインナップが詰まった箱を、えっほえっほと抱えてやって来た。

 けれどドアを開けたのは、ディフじゃなかった。

(うっそだろ? まさかいきなり、姫とご対面とか!)

 予想外の相手と出くわし、ヒウェルはびっくり仰天。とっさに答えてしまった。

「えーっと……その………ディフいます?」

 呼び名を切り替えるのを忘れたと気付いた時は、既に遅かった。
 ただ冷たいだけだった姫の表情に、さらに磨きがかかる。さっきまでが氷柱なら、今は氷の刃だ。触れた瞬間すぱっと切れる。

「いや」

(うーわぁああ、やっべーっ)

 腋の下にじっとり冷たい汗がにじむ。まさか今日から既にバイトに行ってたのかディフ。即断即決、何て素早い奴なんだ。

「あ、その、それじゃ待たせてもらっても」
「断る」
「…………………………」

 ばっさり斬り付けられて、ついでに三枚に下ろされた気がした。ここは大人しく引き下がった方が身の為と判断し、恐る恐る箱を差し出す。

「あー、それじゃこれ、頼まれてたノートと荷物……渡しといてください」
「わかった」

 憮然とした表情で姫は箱を受けとった。と思ったら、鼻先でドアを閉められる。ばったんっと、そりゃあもうすんごい勢いで。
 ばっふん、と前髪が舞い上がる。
 つま先を挟まれずに済んだのは、多分奇跡だろう。
 ドアの材質自体が重たいから、とか。たまたま風が吹いたから、とかそんなんじゃ到底説明のつかないようなレベルだった。

 すごすごと帰る道すがら、ヒウェルは思った。

(あれって、やっぱ焼きもちなんだろうなあ……)
(ひょっとして姫ってば、すっごくディフを気に入ってる?)

     ※

 レオンはイライラしていた。
 もはや本を見る気にもなれない。
 どさりと箱をディフの机の上に置いた。本当は床の上に放り出してやりたい所だったけれど、彼宛に届いた以上はもう、ディフの物だ。おいそれと粗末にする訳には行かない。
 いくら持ってきた相手が気に入らなくても。

(何なんだ、あいつは!)

 愛称で呼んでいる所を見ると、かなり親しいようだ。恐らくはクラスメイトか。

(そうだ、ディフと呼んでいた。マックスでもなく、マクラウドでもなく)

 そのことがさらに苛立ちを煽りたてる。
 しかも言うに事欠いて待たせてくれ、とは。絶対あり得ない。冗談じゃない!

 ちらっと箱を見る。テープで封をされていないし、ふたも半分開いている。中からちらりとノートが覗いていた。
 頼まれていたのは本当だろう。しかし、他の荷物は一体何なのか。
 気にならないと言えば嘘になる。だが人の物を勝手に開けるには、レオンハルト・ローゼンベルクはあまりに礼儀正しかった。

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【5-5-4】Earthquake!

2012/07/17 1:52 五話十海
 
 不愉快なクラスメート」の訪問にもそれなりに利点はあった。
 結局、荷物の存在に気を取られたお陰でその後の時間が早く進んでくれたのだ。
 
 陽射しが西へと傾く頃、力強いノックが聞こえてきた。今度こそ間違いない。飛んでいってドアを開ける。

「ただいま、レオン!」
「……お帰り、ディフ」

 途端に部屋の中の空気が変わった。

「これ、お土産だ! 卵とバター。牛乳もあるぞ!」
「そうか。良かったね」
「明日の朝楽しみにしてろよ!」

 意気揚々と土産を冷蔵庫に収めてから、ようやくディフは気付いた。自分の机の上に乗っている、見慣れない箱に。

「あれ、これどうしたんだ?」
「君あてに届いた」
「え」

 まさか実家からだろうか? その割には封がされていないし、送り状もない。開けてみると、中には見覚えのあるノートが入っていた。

「ヒウェル来てたのか」

 レオンはちょっとの間考えた。
 名前は知らないが、とにかくディフの知り合いらしい生徒が来ていたのは確かだ。

「ああ」

 小さく頷く。

「すぐ帰ったけどね」
「そっかー」

 確かにヒウェルから月曜日に歴史のノートを借りる約束をしていた。
 だが箱の中味はそれだけじゃなかった。インスタントのスープや缶詰め、そして未使用のタオルに靴下!

(あいつ……!)

 友人からの救援物資を、ディフはありがたく受けとる事にした。

「ゆっくりしてればよかったのに」
 
 レオンは胸の奥でかすかに何かがよじれるような気分になった。
 よりによってディフはほほ笑んでいたのだ。あいつの持ってきた荷物を見て、口元を緩め、目元を和ませて、それはもう、嬉しそうに笑っていたのだった。

     ※
 
 夕食後、部屋に戻り、レオンとお茶を飲んでいる時にそれは起きた。
 カタカタと窓が鳴った。
 最初は思ったんだ。風が強くなったのかな、って。でも違っていた。

 いきなりめきっと窓枠が軋み、壁が、天井が、床が揺れ始める。ゆっさゆっさと得体の知れない巨大な生き物が、建物に手をかけて揺さぶってるみたいだ……
 いや、揺れてるのは地面。
 これは………地震だ。
 大地震だ!

「地震だーっ!」

 大急ぎでテーブルの下に潜り込む。だがレオンの奴は平然として、すましてお茶なんか飲んでる。

「レオン、何やってんだ!」

 慌てて上半身を突きだし、手を伸ばす。

「早く来……いでっ」

 後頭部にずがんっと衝撃が走り、目から火花が散った。

「ってぇえ……」

 頭を抱えてしゃがみ込む。どうやら思いっきり天板の裏に後頭部をぶつけてしまったらしい。
 
「大丈夫かい?」

 目を開けると、レオンの顔がすぐ近くにあった。彼は床にしゃがみこんで、こっちをのぞき込んでいた。

「大丈夫……ってお前、早くこっちに!」
「揺れならもう収まってるよ」
「……へ?」

 本当だ。壁も床も天井も、もう揺れてはいなかった。窓ガラスも静かだ。
 おっかなびっくりテーブルの下から這い出した。

「すげえ地震だったな。震度5ぐらいか」
「さあね。震度3ぐらいじゃないかな」
「へ?」
「ここは四階だし、建物も古いからね。実際より大きく揺れを感じたんだろう」

 よく見ると、部屋の中の物は何一つ倒れちゃいなかった。俺の分のカップに満たしたお茶がちょっと零れていたけど、それは多分、俺がテーブルにぶつかったせい。

「見事な避難行動だったね。正に教科書通りだ」

 くくっとレオンが咽を鳴らす。こいつ、笑ってる。力いっぱい噴き出してる。
 かーっと頬が熱くなった。

「こ、これはビビってるんじゃないぞ! ただ、ちょっと、びっくりしただけだ!」
「すぐに慣れるさ。ここは地震の多い地域だから」

 頬の熱は顔全体に広がり、耳までぽっぽと熱くなってきた。
 あんなに地面が揺れたのは、産まれて初めてだった。テキサスは地震のない州だ。物心ついた時から、地震に会った記憶なんてほとんどない。

 抜かった。
 南カリフォルニアは地震の多発地帯だった……。何で今まで忘れていたんだろう。
 ロマ・プリータ地震でベイ・ブリッジが崩れてから、たかだか6年しか経っちゃいないんだ!

「う………」

 ぞわあっと背筋が寒くなる。子供の頃、ニュースで見た映像が脳裏に蘇る。橋が溶けたチョコレートみたいにぐねぐねとうねって、ワイヤーがぶちっと切れて……。

 いや、いや、落ち着けディフォレスト。記憶を混ぜるな、あれはカリフォルニアの映像じゃない(多分)。
 ベイ・ブリッジもゴールデンゲート・ブリッジもここからは遠いんだ!

 分かっているのに、さっきまで火照っていた顔から血の気が引く。まるで氷でも当てられたみたいにはっきりと、皮膚が冷えるのを感じた。

「ディフ。どうしたんだい?」

 レオンがこっちを見てる。もう、笑ってはいなかった。

「な……何でもない!」

 心配かけちゃいけない。無理に歯を見せてにかーっと笑い、胸を張る。

「も、大丈夫だ。ちょっとびっくりしただけだからな!」

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【5-5-5】俺のクマどこ?★

2012/07/17 1:53 五話十海
 
 その夜、異変が起きた。
 
 レオンハルト・ローゼンベルクは異様な気配を感じてベッドの中で目を開けた。
 何かが枕元に立っている。ぬうっとしか言いようのない質量を供えた体温の高い生き物が、二本足で。ぎょっとして半身を起こし、ベッドサイドの明かりを着ける。
 淡いオレンジの光に浮かび上がったのは……

「ディフ?」

 見慣れたルームメイトの顔だった。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛はもしゃもしゃに乱れ、縞模様のシャツパジャマを着ている。
 一応、ベッドに入った時と同じ服装だ。しかし、一体どう言う寝相をしていたらこうなるものか。パジャマのボタンが外れて袖がずり落ち、左の肩が完全に剥き出しになっている!
 しかもこの寒い中、彼がパジャマの下に着ていたのは袖無しのランニングシャツだった。
 くしゃくしゃになった白い布地は、ほとんど肌を覆う役割を果たしていない。大きく開いた襟ぐりから、鎖骨がくっきりと覗いている。
 それだけじゃない。肉厚な体にぴちっと薄い布が張り付いて、乳首の形がぽっちりと盛り上がっていた。
 どきっとした。

(馬鹿な、何故、慌てる必要がある。これまで何度も見てるじゃないか。もっとだらしのない恰好だって見ているはずなのに!)

「……ディフ?」
「……」

 妙だ。とろーんとして、目の焦点がほとんど合っていない。のろのろと緩慢な動作も彼らしくない。どうしたんだろう、また熱でも出したのだろうか?

「ディフ」

 心配になって、今度はさっきよりもう少し、大きな声で呼びかけた。すると彼はのろーりと首を巡らせ、こっちを見下ろした。
 ゆっくりと口が動く。

「……どこ?」
「え?」

 たどたどしい、子供みたいな喋り方だった。

「俺のクマどこ?」

 クマ(Teddy bear)?

 頭の中が真っ白になる。問い返すことも、答えることも忘れていた。

「俺のクマ……茶色で耳がかたっぽとれてるやつ」

 ゆーらゆーらと手が差し伸べられ、髪に触れた。

「あ……」

 ほわあっとディフの顔に幸せそうなほほ笑みが浮かぶ。

「あった」
「え?」

 次の瞬間。熱い、がっちりした体がベッドの中に潜り込んできた。

「なっ!」

 何が起きたのか、とっさに理解できなかった。ようやく現実を把握した時には、同じベッドの中でがっしりした腕に抱きしめられていたのだった。

「っっっ!」

 それは生まれて初めての感触だった。
 風邪で寝込んだ時も彼に抱きあげられたが、その比ではない。限られた空間の中、手も足もしっかりと絡み合い、体温が混じる。薄い寝巻きを通して彼の『体』を識った。今まで見てきた逞しさを、肌の熱さを直に感じた。

「う……」

 ずっと、飢えていた。自分の中の最も奥深い部分にぽっかり開いた、底なしの穴が叫んでいた。
 欲しい、欲しい! と。
 その穴が今、満たされている。
 今までどれほどの物を放り込んでも吸い込まれるばかりで、決して埋まることなどなかったのに!

 ただ体が触れ合っている、それだけの事なのに。
 こんなに単純な事だったのか。何をしても、見ても聞いても、食べても飲んでも決して消えることのなかった飢えを満たすのは。

(ずっと、ここに居たい)
(彼に包まれて居たい)

 二人分の体熱の篭った毛布の中、密着したディフの体から鼓動が伝わって来る。
 穏やかで、ゆっくりとしている。
 一方でレオン自身の心臓は激しく脈打ち、今にも肋骨を突き破りそうだった。耳奥で轟音が響き、こめかみの内側で血管がぱちっと弾けそうだ。

(欲しい)
(彼が欲しい)

 ぎゅんっと足の間で何かが疼いた。下着の内側に熱が篭る。だが痛くはない。むずがゆく、その癖、妙に甘美で、もどかしい。
 自分の中に初めてわき起こる生臭い衝動。熱を出して寝込んだディフを見た時には、かすかな騒めきでしかなかった『それ』に突き動かされ、ぴくりと手が震える。

(服が邪魔だ。何もかもはぎ取って、直に触りたい。見たい。味わいたい!)

 指先が、ぴったりと密着した脇腹をかすめ、胸元をなで上げる。
 がっちりした骨組み、しなやかな筋肉。その上を覆う、滑らかで白い肌。布越しに触れただけでも熱く、張りがある。手のひらを押し当てて撫で回したらどんなに気持ちいいだろう?

 既にパジャマの片袖はずり落ちている。袖無しのシャツをほんの少し、ずらせばいい。
 身を乗り出した瞬間、ふわふわの赤い髪の毛が、顔に触れた。

(あ……)

 息を吸い込み、顔を埋める。絹のように柔らかなその感触に引き寄せられ、手を伸ばしていた。指をからめて、綿菓子みたいな髪を撫でた。

「ん……」

 鼻にかかった声を漏らし、ディフが身じろぎする。
 その声を聞いた瞬間、さーっと血の気が引いた。

(自分は今、何をしようとしていたんだろう?)

 いけない。このままでは、いけない。踏み越えてはならない壁を突き破ってしまう!
 恐れとも罪悪感とも知れぬ冷たさにわななきながら、レオンはぐいっと渾身の力を込めてディフを押しのけた。

「う?」

 ごろんっとベッドから転がり、床に落ちる。
 けっこうな衝撃があったはずなのだが……ディフはもぞもぞと身じろぎして、その場で丸まり、目を閉じた。
 すぐに、すーっ、すーっと穏やかな寝息が聞こえ始める。

「……」

 レオンはそろりと動いた。それまで凍りつき、息も潜めていたのだ。
 
 どうしよう。ベッドまで運ぼうか? 
 多分無理だ。自分にはそんな力はない。あったとしても、もう一度彼の体に触れるなんて……。
 ぴくっと指が震える。遠ざかったばかりの熱を求めて。

(だめだ!)

 拳を握り、ベッドから抜け出した。火照った素足に床板の冷たさが染みる。だが構うものか。いちいちスリッパなんか探している場合じゃない。
 ディフのベッドから毛布をはぎ取り、彼の上に被せた。それが精一杯だった。
 
「ん………」

 ディフはもそもそと背中を丸めて、顔を埋めてしまった。
 ようやく、危険な身体が分厚い毛布に覆われた。だが、それは依然として『そこ』にある。

 ベッドに潜り込み、彼に背を向けた。
 身体が細かく震えている。熱いからなのか、寒いからなのか、分からない。
 今度抱きつかれたら自分は何をやってしまうか分からない、それが恐ろしい。
 一度満たされる事を知ってしまうと、魂の奥底の空っぽの穴は前にも増してどん欲になった。より強烈な飢えを訴えて、叫んでいる。

『彼が欲しい! 欲しい! 欲しい!』

 男に……いや。ディフに触りたかった。裸を見たかった。
 身に着けているものを残らずはぎ取り、一糸纏わぬ身体を思う存分いじり回したい。キスしたい。押し倒してセックスしたい。
 これまで薄い殻一枚被ったまま、蠢いていた生々しい自分の欲望。今やレオンハルト・ローゼンベルクはその正体をはっきりと自覚していた。
 思い知らされてしまった。

(自分は男に欲情している)
(俺は、ゲイだったんだ!)

 どうしよう? どうすればいい?
 戸惑い、混乱しながら必死で考えた。
 まんじりともせぬまま夜を明かし、明け方になってようやく、結論に達した。
 クマ(Teddy bear)を探してるのなら、それを渡してやればいい。
 
     ※

 空が白み始める頃。レオンはこっそりと起き出してバスルームに篭った。しっかりと鍵をかけ、携帯電話を取り出す。短縮ダイヤルで呼び出したのは、忠実な執事アレックスの番号だ。
 こんな時間にも関わらず、すぐに出てくれた。

「アレックス。手配してもらいたいものがあるんだ。実は……」
「かしこまりました。早速、オーダーメイドの一点ものをドイツのシュタイフ本社からお取り寄せして……」
「そんなに待てない。とにかく急いでくれ」
「かしこまりました」

 16才の少年が求めるにしてはいささか不釣り合いな代物を、有能執事は何ら問い返す事なく、迅速に手配してくれた。
 そして昼休み、レオンが一度部屋に帰った時には既に、件の荷物は管理室に預けられていたのだった。

 受け取り、部屋に持ち帰る。ディフがいないのを確認してから箱を開けた。
 ふかふかとして手触りのよい茶色の毛並、黒いボタンの目、同じ色の糸で念入りに刺繍された鼻と口。
 丁寧に作られた、身の丈30センチほどのテディ・ベア。ずんぐりした手足はそれぞれ肩と足のジョイントで胴体に接続し、自在に動かせるようになっている。
 左の耳についた黄色いタグには流れるような書体で「Steiff(シュタイフ)」と書かれていた。

 これが果たしてディフの探しているクマと100%同じかどうかは分からない。
 だが、気をそらす役には立つはずだ。何と言っても、自分と間違えたくらいなのだから。
 レオンは満足げにうなずき、テディ・ベアをクローゼットにしまった。

 次に『あれ』が起きたら、これを渡せばいい。

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【5-5-6】ナマズガーディアン

2012/07/17 1:55 五話十海
 
 サンフランシスコに来て初めて、大きな地震のあった次の日。
 朝、起きたら床で寝てた。しかも自分のベッドじゃなくて、レオンのベッドの下で。目を開けてまず思ったんだ。「俺、何でこんなとこで寝てるんだろう」って。
 寒くは無かった。ちゃんと毛布を被っていたから。ただ、残念なことに枕はなくて、直に床に頭をつけていた。
 隣のベッドは既に空っぽ。レオンはとっくに起きて、きっちりと身支度を整えていた。

「これ、お前が?」
「また、風邪を引いたりしたら困るからね」
「ありがとう」
「どういたしまして」

 ついっと顔を逸らしてしまった。何だかやたらと恥ずかしい。きっと寝てる間にベッドから落ちたんだろうな。しかもこんな所まで転がって……どんだけ寝相が悪いんだ、俺は。
 そそくさと起き上がり、毛布をベッドに戻す。

「あいてっ」

 めきっと首や肩がきしむ。そりゃしょうがないよな。床の上で寝てたんだから。
 いつにも増してくしゃくしゃになったパジャマを脱ぎ捨て、シャツに袖を通す。ボタンを留めているとふと気配を感じた。振り向くと、レオンがこっちを見ていた。

「どうした?」
「……何でもない」

 ぷいっと、今度は完全にあっちを向いちまった。
 どうしたんだろう。俺、何かあいつを怒らせるようなこと言っちまったのかな? あ、ひょっとしたら腹減ってるのかも知れない!
 大急ぎで服を着て、歯を磨く。髪の毛をとかすのもそこそこに、キッチンに立った。

「すぐ、飯作るからな!」
「ああ」

 卵が焼けて、トーストにバターを塗るまでの間に、レオンはすっかりいつものレオンに戻っていた。入れてくれた紅茶も美味い。でもどこかが、何かが違う。ボタンを掛け違えたような感覚が抜けなかった。

「なあ、レオン……」

 口を開きかけたその瞬間、みしっと壁が揺れた。

「っ!」

 びくっと全身がすくみあがる。

「………風だよ」
「そ、そっか、風か」

 ほっと胸をなで下ろし、あわてて付け加える。

「ちょっと、びっくりしただけだからな! ビビってなんかいないぞ!」
「わかってるよ」

 レオンは小さく笑ってうなずいた。いつもと同じ表情。いつもと同じ声。
 うん、さっきの違和感は、やっぱり気のせいなんだ。そうに違いない。

     ※

 教室に行っても、誰も昨日の地震の事なんか話題にしてなかった。俺の感覚じゃあものすっごい大きな地震が起きたって感じなのに。ほんと、サンフランシスコじゃあ日常茶飯事なんだな。
 おかげで困った事に誰に言うこともできない。

『夕べの地震、すごかったなぁ』って。

 結局レオンの前じゃ強がって平気なふりしちまったし。
 何かの形で口に出せないと、どうにもこう内側に篭って、消えない。
 部屋が揺れた瞬間のショックと恐怖が、心臓の辺りに冷たくわだかまってるようで……。どうしよう。どうすればいい。あの逃げ場のない、絶望感。日常生活が崩れて底なしの穴に吸い込まれる感覚が、消えない。
 ってなこと考えていたら、また窓がめきっと軋んだ。
 とっさに身構えるより早く、足下からゆさっと揺さぶられた。間違いない、床が揺れた、これは地震だ!

「うわっ、揺れたぁっ」

 どうする、机の下かっ? とっさに見回したが……。
 誰も動いてない。ちょっとびっくりした顔してるだけで、のん気に喋ってる。

「お、揺れたね」
「夕べのよりは弱いかな」

 そっか……。夕べのより弱いんだ……。
 へなへなと膝から力が抜ける。椅子にへたりこんでいると、にゅっと眼鏡をかけた琥珀色の瞳がのぞき込んできた。ヒウェルかと思ったけど、違う。あいつはこんなに髪の毛を長く伸ばしてないし、瞳の色も、もっと薄い。

「大丈夫?」
「あ、ヨーコ?」

 そうだ、彼女なら地元の人間じゃないし、地震が怖いってのも通じるかも!
 なんて思ったのも束の間。ヨーコはじーーーっと涼しげな瞳で俺の顔をのぞき込み、きっぱり言った。

「何、あんた地震怖いの?」
「う」

 ……そうだよ、彼女、日本の出身じゃないか。日本って世界有数の地震大国なんだよな。慣れもするよな、うん。

「……うん」

 猛烈に恥ずかしくて、小さく小さくうなずいた。

「じゃあこれあげる」

 ヨーコは抱えていたバインダーを開いて、ぺらっと紙を一枚取り出した。厚みがあって、しなやかな紙には、黒い流線型の体をした、でっかい生き物が描かれている。頭の上に、着物を着てヒゲを生やした男が乗っかって足を踏ん張り(サムライか?)、でっかい石で謎の生き物を押さえ込んでいた。

「何だこれ。サカナ?」
「ナマズよ」

 ああ、確かにヒゲがある。

「何で、ナマズ?」
「地震封じのお守りなの」
「そ、そうか、これ地震のカーディアンなのか!」
「部屋の壁にでも貼っときなさい」
「うん! ありがとな、ヨーコ!」

 お守り。それだけで何だか心が軽くなった気がした。ちょうどいいんだ。俺にとって地震ってのは得体の知れない化け物みたいなものだから。

「……君、いつもこんなの持ち歩いてるのか?」
「イエス。実家が神社だからね」
「ジンジャ?」
「教会みたいなものよ」

 よく分からないけど、宗教的なものだってことは分かった。

「あれか。牧師さんの娘が聖書持ち歩くみたいなもんか?」
「だいたい合ってる」
「そうか!」

 うん、何となく納得した。

     ※

「ただ今ー」

 夕方、寮に戻ってから早速、ディフは部屋の壁にナマズの護符を貼った。
 自分用のベッドの傍らに張り付け、うん、と頷く赤毛頭を、レオンはぽかーんとして見守った。

 彼が戻って来たら、どうやって接すればいいのか。重苦しい胸を抱えて悶々と思い悩んでいたら、これだ。
 部屋に入ってくるなり、鞄から謎の紙を取り出して壁に貼り付けてる。
 しかも、ものすごく真剣な表情で……。何かと思えばこれがまた、珍妙な黒いぬるっとした魚の上に大きな石を抱えたサムライ(多分)が乗っかって、足を踏ん張る図なのだった。

 真剣に悩んでいたところに予想外の行動。呆気にとられて気が抜けて、思わず疑問が素直に口から零れ出る。

「なんだいそれは」
「ナマズ」
「……うん、それはわかるよ」

 さらに先を促す。表面上はあくまでやわらかな笑顔で。

「何でナマズの絵をそんな所に貼ってるんだい?」

 ディフの頬にじわああっと赤みが広がる。透き通る肌の下に血が巡り、ソバカスをくっきりと浮かび上がらせる。

「それは……」

 口ごもりながら、視線を左右に泳がせている。
 恥じらいながら、とまどいながらも、打ち明けようとしているのだ。レオンは辛抱強く待った。待てば彼は必ず話すとわかっているからだ。

「クラスメートにもらった。地震のお守りなんだ、これ」
「なるほどね」

 とうとう目を伏せてしまった。くっきりと濃いピンクに染まった首筋をさらして、うつむいている。

「……ごめん、俺、嘘ついてた。地面がゆれると、やっぱ怖い」

 そんな事、隠すまでもない。あの反応を見た瞬間からわかっていた。自分のしたことはただ、彼の強がりを見逃しただけだ。

「恐怖心があるのは、いいことだと思うけどね。慣れすぎてると、頭を保護するなんて基本的なことも忘れるよ」
「そ、そうなのか?」

 ディフはぱちくりとまばたきして、見つめて来る。ヘーゼルブラウンの瞳が揺らぎ、夢のようにうっすらと緑を帯びている。
 本来の優しげな薄い茶色に、緑色のきらめきが混ざる。いつまでも見ていたくなる。
 
(ああ、吸い込まれそうだ)

「怖がるのは、男らしくないって。ずっとそんな風に考えてた」

 戸惑いながらも、しっかりと与えられる言葉に我に返る。

「お前、すげえな、レオン。初めてだ、そんな風に言う奴」
「恐怖を感じられることは、重要だと俺は思う。もちろん、恐怖にとらわれて何もできなくなるようでは困るけれど」

 ディフはじーっと自分の手を見下ろし、それからくっとにぎった。

「忘れないよ。ありがとな、レオン」
「……ああ」

 もわっと熱気が漂ってくる。いつの間にか、彼はすぐ近くまで身を寄せていた。感情が高ぶったせいか体温が上昇し、温められた肌の香りが立ち上る。
 それを何と表現すれば良いのだろう? ミルクのような。チーズのような。動物としての性質を感じさせながらも、どこか甘く、ふっくらしている。嗅いでいるだけで、その滑らかな体に触れているような錯覚を覚える。

 頬を紅潮させながら見つめてくる、彼の真剣な表情が、凄まじく……色っぽい。

(何を考えてるんだ、俺はっ!)

 もう隠しようがない。ごまかせない。はっきりとそう感じる自分に戸惑った。
 ほんの一歩、後ろに下がればいいのに動けなかい。彼から離れるなんて、考えただけでぎりぎりと腑が締め上げられる。
 ざわりっと背筋を甘美な刺激がはい登る。だが今ならまだ理性で押さえ込める。そう、自覚してしまった今だからこそ。

「お茶を入れよう」
「さんきゅ、レオン! お湯、わかしてくる!」

 地震への恐怖を打ち明けたら、吹っ切れたようだ。
 上機嫌でキッチンに向うディフを見守りながら、自分に言い聞かせる。

 飢えは一度自覚してしまったら最後だ。忘れる事はできない。

 だから隠そう。彼にだけは知られないようにしよう。
 この気持ちを。じりじりと体の内側から焼き尽くす狂おしいばかりの劣情を……

 そのいじらしくも悲愴な決意がよもやその後、十年の長きにわたって続こうとは、この時のレオンはまだ知る由も無かった。

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【5-5-7】Wデート

2012/07/17 1:56 五話十海
 
 新学期が始まってはや三ヶ月。互いに顔と名前も知り、ある程度趣味やら嗜好なんかもわかって来ると、お次に来るのは異性への興味だった。
 来るべきクリスマスを意識して、ここぞとばかりにちらほらと、意中の女子、男子に声をかける者も増えてくる。
 何もいきなり、「愛の告白」なんて重たい深刻なものに挑む必要はない。もっと気軽に、さりげなく。

「デートしない?」

 それで十分。一緒に出かけて、コーヒーでも飲んで、ドーナッツかじって、喋って、遊んで、気が合えばまた次の約束をする。そうやって軽口(light)なデートを重ねて行くうちに、恋人になれたらいいな、なんて……。
 ごくごく一部の例外を除き、多くの生徒がそう考えていた。そしてディフォレスト・マクラウドもまた、ご多分に漏れずその一人なのだった。

     ※

 気になる女の子がいる。ショートカットの黒髪にあおい瞳。活発で、朗らかな声で笑う彼女の名はモニーク。
 デートに誘いたい、だけど一人で申し込むのは気が引ける。言われた方だって、身構えてしまうんじゃないか? こんな時はまず、友達を誘ってWデートに持ち込んだ方がいい。
 その方が、気軽にOKしてくれるだろう。そう考えて、親しい友人に声をかけてみる。

「なーヒウェル」
「何?」
「デートしないか?」
「……誰と?」
「モニーク。誘いたいんだけど、いきなり二人っきりってのは照れくさくってさ。2対2でWデートなら、行けるかなって」
「……なるほど、そう言う事か」
「うん、そう言う事」

 ヒウェルは眼鏡を外して、息を吹きかけ、きゅっきゅっとハンカチで拭いた。それからまたかけ直して、おもむろに口を開く。

「せっかくだけど俺、今つきあってる人いるから」
「そうか。だったら彼女連れてこいよ!」
「いや、彼女じゃなくって……彼なんだよね」
「彼?」

 彼? 確かにそう言った。彼女(she)じゃなくて、彼(he)って。

「うん。三年の男子」
「つまり、あれか、お前がつきあってる相手ってのは……男?」
「そ。俺、ゲイなんだ」

 あっさり言ったよ! 目をぱちくりして、目の前のヒウェルを見つめる。
 今、耳にしたことが信じられなかった。
 俺の育った町じゃ、誰も自分のことゲイだなんて公言しない。言えば酷い目に遭わされるってわかってるからだ。それこそ命に関わるレベルで。

 よってたかってゲイを殴り殺すのは正しい事だって、信じられてた時代もある。目鼻立ちのわからなくなるくらい顔の膨れ上った死体を『教育のため』と称して子供に見せる父親も多かった。
 こんな物騒な話を聞くのに、祖父や曽祖父の時代まで遡る必要はなかった。
 他ならぬ伯父や父が、誰かからの伝聞ではなく、現場で見聞きしていたのだから。

 ひょっとしたらまだ続いてるかも知れない。昔に比べれば件数は減ったものの、潜在化しただけなんだって、兄貴から聞いた事がある。
 嘆かわしい事だと前置きして……多分、自分は少数派なんだろうとも。

「お前、勇気あるな」
「別に? それほどでもないさ」

 ヒウェルは肩をすくめた。

「だってここは、サンフランシスコだぜ?」
「……そっか」
「うん、そう言うこと」

 ぽんぽんっと肩を叩かれた。何だか急に恥ずかしくなった。
 地震に怯えた時と、ゲイって告白に過剰反応した時と。感じた羞恥と居心地の悪さ、いたたまれなさは、同じだった。
 どっちもまだ、俺がこの町に馴染んでいない。異質だって事実を知らしめる……クラスの連中にも、俺自身にも。

「ごめん」
「おいおい、どーしてそこで謝るよ!」
「とにかく、ごめん。他の奴を誘ってみる」
「待て待てディフ、ちょっと待て」

 くいっとシャツを引っ張られる。

「中学生じゃあるまいし、そーゆー時は、まどろっこしい手順なんざ踏むな。1on1でデートしたいって言え! その方が、女の子はグっと来る」
「……でも俺、女の子連れてけるようなとこ知らないし」
「そらしょうがないわな、テキサスから出てきたばっかなんだし? 素直に言っちゃえ。『俺、どこいったらいいかわかんないから教えて』って」
「む……」

 拳を握り、口元に当てる。
 確かにヒウェルの言ってることは正しい。でも女の子に頼るってどうなんだ? 納得が行かない。
 初めてのデートなんだぞ。男がリードして、エスコートするのが当たり前だろう!

「なあ、ディフ。相手が男でも女でも、王女様みたいに扱ってみろ」
「王女様?」
「そう。敬って、大切にして、しんどい時は遠慮なく寄りかかって、わからない時は素直に教えを乞うんだ。でもいざとなったら守る。全力でな」

 いざとなったら全力で守る。うん、それなら、わかる。抵抗なく受け入れられる。

「……わかった、やってみる」

     ※

 そうと決まれば話は早い。善は急げだ。ランチタイムにカフェテリアでモニークを見つけた。
 まっすぐ歩いていって、声をかける。

「Hi、モニーク」
「あら、マックス。どうしたの?」
「土曜日、暇か?」
「うん、暇」
「そっか、だったら……」

 こくっと咽を鳴らしてツバを飲み込む。ええい、ここで戸惑ったらかえってみっともない。一気に行け!

「俺とデートしないか?」

 モニークの頬にぱあっと赤みが広がった。後ろの女の子たちが息を飲む気配が伝わってくる。
 そう、カフェテリアの女の子ってのは群れるものなんだ。モニークと一緒のテーブルには、クラスの女の子たちが座っていた。見覚えのない顔も混じってるから多分、他のクラスの子も居る。
 今さら気付いた所で、もう引き返せない。言ってしまった言葉の尻尾は掴めない、引き戻せない。

 イエスか、ノーか、どっちだ? 頭のてっぺんからつま先まで、がっちがちに固まって答えを待つ。
 はーす、はーす。はーす……。鼻から出入りする息の音が耳の奥で轟く。心臓はばっくんばっくん跳ね回り、今にもどんっと口から飛び出しそうだ。

 モニークの頬がゆるみ、白い歯が現われた。

「イエスよ!」

 ぱーんっと頭の中でクラッカーが鳴った。
 OK、やったぜ、ブラボー! チューインガムとクッキーとキャンディケーンとキャラメルポップコーンを一度に吸い込んだみたいな甘い空気にむせ返る。

「そ、それでさ、あの、その」
「……ん?」

 首をちょこんと傾げてこっちを見てる。ああ、可愛いなあ。

「サンフランシスコのことはよくわかんないから、案内してくれると嬉しい」

 どぎまぎしながら、ヒウェルから教わった台詞を付け加える。ちょっと不本意だったけど。
 モニークは目をぱちくりさせて、にっぱーっと白い歯を見せて、景気良く笑った。

「OK、キュートボーイ! 思いっきりベタなサンフランシスコ観光に連れてったげる!」

 ころころと、鈴を転がすような声で笑いながら。あんまり楽しそうだったから、俺は素直にうなずくしかなかったんだ。

    ※

 夜、風呂上がりにレオンに報告した。

「良かったじゃないか」
「…………キュートボーイって言われたのが、ちょっとなあ」

 んぐっと、牛乳を咽に流し込む。もちろん紙パックから直飲みで。行儀が悪いってわかっちゃいるんだけど、コップを洗うより早いし。一応、料理に使う分とは分けてある。
 レオンはノートから目を放さず、さらりと言った。

「女の子のほうが精神的な成長は早いからね」
「……そっか。じゃ、しょうがねーな、張り合っても」

 パジャマを羽織ってベッドの上に座る。
 あの時、モニークは友達と一緒だった。不覚にもその事に気付いたのはデートに誘った後だった。
 もしも同じ状況で、俺が同じ事を言われてたら、果たしてあんな風に答える事ができただろうか?

(無理だ。絶対慌てる! パニック起こして変なこと口走る!)

 やっぱり女の子の方が、成長してるんだ。そりゃ可愛い、とも言いたくなるよな。
 膝を抱えて、顎を膝頭に乗せる。

 (俺、全然余裕なかった……。デートに誘うだけで一杯一杯で)

 ため息を漏らしたその時、レオンと目が合った。いつの間にこっちこっち見てたんだろう。
 ちょっと。いや、かなり気まずい。わしゃわしゃと髪の毛をかき回す。でもその程度じゃ紛れる訳がない。
 やっぱりはっきり言おう。こいつに隠し事はしたくないから。

「ごめんな、お前のこと誘おうかとも思ったんだけど、ヒウェルが『そーゆー時は1on1でデートしたいって言え、チャンスだから!』って言うから、つい勢いで」
「俺は誘ってもらっても、行けないだろうから」
「……そっか……」

 ほっとしたような。がっかりしたような。複雑な気分になる。
 レオンと一緒に出かけるのはどんなに楽しいだろうって、ちょっぴりわくわくしてたから。

「せっかくデートなんだから、花でも持って行っておいで」
「そうだな。花……何がいいかな……」

 安心したせいだろうか。あくびが出てきた。湯上がりの気だるさに身をまかせて、ごろん、とひっくり返る。足を投げ出し、指をもにもにと握って、開いて、思案を巡らせる。

「俺、マーガレットが好きなんだ。家の庭にいっぱい咲いてた」
「花屋の店員に相談すればいい。向こうはプロだから、だいたいの予算とイメージを伝えればつくってくれるよ」

 幸い、農場のバイトのお陰で懐には余裕があった。花束を持って、デートに行けるくらいの予算はある。

「うん……そうする…………さんきゅ、レオン……………………」

 ああ、何だろう。すごーく気持ちいいぞ……うん、すごーく……。

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【5-5-8】姫>彼女

2012/07/17 1:57 五話十海
 
 すやすやと規則正しい寝息が聞こえ始める。その時になってレオンはようやく、ノートから顔をあげた。
 下着の上にパジャマの上着だけを羽織ったまま、下半身はパンツ一丁。とんでもなくラフな恰好で眠っていた。

「やれやれ」

 大の字ならほほ笑ましいで済んだだろう。よりによって横向きに寝て、くるっと体を丸めている。
 パジャマの裾からのぞく足が、ひどくなまめかしい。想像せずにはいられない。手のひらを当てたらどうなるんだろう、って。

(危険だ。早く隠してしまおう)

 毛布をかけようと思ったけれど、生憎と上に寝ている。思案した揚げ句、ディフを真ん中にして毛布の端と端を持ち上げて、くるっと包んだ……クレープみたいに。

「ん……ありがとな、レオン」

 どきっとしたが、毛布に顔をつっこんで眠っている。おそらく寝言だろう。ほっと息をついて、小さな声で答える。

「どういたしまして」

 さて、危険物は毛布にきっちり包まれた。今度こそ、集中することができる。さっきまでは何を見て何を読み、何を書いたのか……まるで頭に入っていなかったのだから。

     ※

 さて問題の土曜日の放課後。学校は午前中で終わり、ディフは喜々として出かけて行った。
 そして日もとっぷり暮れる頃、うきうきしながら戻ってきた。よほど楽しかったのだろう。ほとんど足が地面に着いてないんじゃないかと思うほどの浮かれっぷりだ。

「ただ今、レオン!」
「お帰り」

 笑顔で出迎えたのは、ディフが帰ってきて嬉しかったからだ。
 どうだった、と儀礼上の質問を投げ掛けることもできず、静かに佇むレオンに、ディフは満面の笑みを浮かべて報告した。

「すっげえ楽しかった! も、サンフランシスコに来てから、最高に楽しい土曜日だった!」
「……良かったね」

 胸の奥にもやっとした重苦しさを抱えながら、レオンは務めて冷静に振る舞った。鋼の自制心を振り絞り、ディフの報告に耳を傾けた。

「ツインピークスって、ドラマの中だけじゃなくて実際にあったんだな! サンフランシスコ全体が見えたよ。それだけでもすげーなーって思ってたら、まだ上があるって言うじゃないか」
「ああ」
「コイトタワーっての? あれのてっぺんまで上ったよ。フェリービルディングとか、ベイブリッジとか、フィッシャーマンズワーフまでくっきり見えたんだ! 360度、絶景だよ!」

 体からもわもわと熱気が漂ってくる。そばかすがくっきり浮かんでる。肌はうっとりするほどきれいなピンク色だ。
 きっと、服の内側も同じくらいきれいだろう。
 ほんのり浮かんだ甘い想像は、続くディフの言葉でざっくりかき消された。

「彼女、兄さんからカメラ借りて来たって言うから、塔のてっぺんで記念写真とったんだ。現像ができたら、見せてやるよ」
「そうか」

(見たくない。考えたくもない)

「で、その後、バスに乗って、上から見た所をがーっと通ってってさ。フィッシャーマンズワーフでお茶飲んで来た!」

 ごそごそと、腕にぶら下げてきたビニール袋から平べったいものを取り出した。金色の包み紙につつまれた、四角い板チョコだ……どうやらギラデリ・スクウェアのチョコレート工場にも行ったらしい。

「これ土産。食うか?」
「いや。甘いものは苦手なんだ」

 氷柱を飲んだような声が出ていた。

「……そっか」

 途端にすーっとディフの顔から笑顔が消え、途方に暮れる犬みたいな表情にとって変わる。
 ちょっとは熱が冷めたらしい。口をつぐみ、静かになった。

 それからは、舞い上がった状態から地上に着地していつもの彼に戻ったものの……。
 何かにつけて思い出したようににへっと笑う。
 また、その笑い方がでれんでれんにゆるみ切った上に、いかにも楽しそうで。見ていて、どうしても苛立ちを抑えることができなかった。

     ※

 月曜日、教室で。

「よっ、ヒウェル!」

 ヒウェルの姿を見るなり、ディフは駆け寄った。尻尾を全開でぶん回した大型犬が突進するような勢いで。
 むわっと押し寄せる熱風に、若干、後ろにのけ反りつつ笑顔で出迎える。

「おはよう、ディフ。で、どーだったよデートは?」
「サイコーに楽しかった!」

(おーおー、舞い上がってらっしゃる!)

「コイト・タワーに上って、展望台見て、ギラデリのチョコレート工場見学して、フィッシャーマンズワーフに行った!」
「そーかそーか、サンフランシスコの観光名所、満喫したな」
「うん! どこもかしこも初めて行った」
 
 幸せ一杯、満面の笑顔で報告する友人を、ヒウェルはほほ笑ましい気分で見守った。

「な? 彼女にまかせて正解だったろ?
「うん! お前の言う通りだった! それでこれ……」

 ごそごそっと鞄から取り出したのは、ビニール袋に入った何やら四角い物体。包み紙の金色が透けて見える。

「土産だ!」
「お、ギラデリのチョコバーじゃん!」

 大好物を目の前に、にへーっとヒウェルの顔面がゆるんだ。

「さんきゅ! でもいいのか? こんなに沢山」
「うん。ほんとはレオンの分も一緒なんだけど……」

 ディフはうつむいて、くしゃっと赤毛をかき回した。

「あいつ、チョコは苦手だって」
「………そーか」

 寮の部屋を訪れた時の記憶がありありと蘇る。ディフが居るかと聞いた瞬間、姫の美貌は分厚い氷に覆われた。

(こいつがいないってだけで、あんなに不機嫌になるんだものなあ)
(自分ほっぽって出かけた揚げ句、舞い上がって帰ってきたら……そりゃあヘソ曲げもするよな)

     ※

 放課後。モニークが声をかけてきた。

「マックス、今日は暇? アイス一緒に食べに行かない?」
「アイス?」

 ぱあっと顔を輝かせ、頷きかけてはたと動きが止まる。

「いいなあ。でも残念、今日は駄目なんだ、ごめん」
「そっか……クラブの練習?」
「いや。食料の買い出しに行くから」
「え?」

 きょとん、として目をぱちくりするモニーク。ディフはかけらほどの疑問も抱かず、説明する。さも当然の事だよと言わんばかりの口調でさらさらと。

「今日はルーセントベーカリーの特売日なんだ! レオン、あそこの店のがお気に入りだからさ!」
「あ……そう言うこと」
「うん、だからごめんな!」

 爽やかすぎる笑顔で『姫』のご飯を買いに行く。彼女を置いて、いそいそと。そんなわんこを見送りながら、居合わせたクラスメートたちは一斉にため息をついた。

『だめだ、こりゃ』と。

 一方でディフは、ルーセント・ベーカリーで目的のパンを無事に買い入れ、うきうきしながら寮の部屋に戻ってきた。そしてルームメイトの顔を見るなり、切り出したのだ。

「なあ、レオン。今度の日曜日、暇か?」

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【5-5-9】ライドオン

2012/07/17 1:58 五話十海
  
 その週の日曜日。マッキロイ農場前の停留所で、市バスから降りる二人の人影があった。
 一人は癖のある赤毛にヘーゼルアイ、鼻回りにそばかすの散ったがっしりした体格の少年。着古したジーンズにフリースのシャツ、上からざっくりと羽織ったコートは軍用のフィールドジャケットのレプリカだ。
 上から下まで安くて丈夫な衣類で揃えている。

 片やもう一人は、臈長けた美貌の持ち主。涼しげな瞳も、絹のようなさらさらした髪も明るい褐色。さほど華奢、と言う訳ではないはずだが、赤毛の少年と並ぶとどうしても、ほっそりした印象が際立つ。

 ベージュのスラックスにカシミヤの白いセーター、羽織っているのは藍色のPコート。持っている服の中から精一杯、動きやすい服を選んできたようだが、それでも隣の赤毛と比べると……。
 こんな郊外にいるよりは、ユニオン・スクエアあたりを歩いている方がしっくり来る。本人も薄々それを察しているのか、微妙に落ち着かないようだ。

「こっちだ、レオン!」

 ディフは慣れた調子で一声かけて、歩き出す。少し進んでから振り返り、そこからはレオンと歩調を合わせて歩き始めた。

「いきなり押しかけて、邪魔にならないかな」
「大丈夫、マッキロイさんには話、通してあるから」
「……そうか」

 その言葉通り、マッキロイ氏はあたかも当然と言った風情でレオンを出迎えた。

「こんちわ、マッキロイさん!」
「よう、マックス。来たか」
「こいつ、レオンっての、俺のルームメイト!」
「そうか」
「こんにちは」

 大人しく、礼儀正しい子だ。
 育ちの良い人間にありがちな、牧場のにおいに顔をしかめる素振りもない。
 不用意に音を立て、馬を怯えさせることもない。ただ目を細めてしげしげと、馬房の馬たちを眺めている。
 明らかに、慣れているようだった。おそらく、乗馬の心得があるのだろう。それも付け焼き刃ではなく、かなりみっちり習って作法を身に着けている。

「うむ、良く来たな、レオン!」

 マッキロイ氏は大様にうなずいた。

「手が空いたら馬に乗っていいぞ。ズボンとブーツは貸してやる。あと帽子もな!」
「ありがとうございます」

 ディフが仕事をこなす間、レオンは柵に寄りかかってじっと彼の働く姿を見守った。不思議なことに退屈はしなかった。いつもと同じように、彼がそばにいる。作業の合間合間に話しかけ、時々、他愛も無いことで笑い合う。
 それだけの事なのに、とても心が安らぐ。
 この数日間、ずっと溜め込んでいた苛立ちが、ロウソクみたいに溶けて行く。

(ああ、そうか)

 ディフが他の誰とでもない。
 自分と一緒に居るからだ。
 レオンは自分でも気付かぬうちにほほ笑んでいた。この上もなく満ち足りた、穏やかなほほ笑みだった。それを見て、ディフは秘かに胸を時めかせていた。

(良かった。やっとレオン、機嫌直してくれた!)

「っし、作業、終わりましたっ!」
「ご苦労さん」

 マッキロイ氏が馬屋の右側の列を指さした。

「こっちの列から好きな馬選んでいいぞ! あっちは人様からの預かり物だからな」

 借り物の乗馬ズボンとブーツは使い込まれてはいるものの、丈夫で質が良い。しかもこの種の貸し装備にしては、きちんと手入れが行き届き、コンディション良く保たれている。
 不思議なもので、レオンが身に着ける事で内側から溢れる気品が道具にまで移ったのか……何とも上品で洗練された出で立ちに見えた。
 ディフはと言えば、作業用の長靴を乗馬用に履き替えただけ。

「どれに乗る?」
「そうだな……」

 二人ともそれぞれ、自分の流儀に基づいて馬を選び、馬具をつける。
 手伝いなんか頼む必要は無かった。ただ、時折手を止めて、ディフに何がどこにあるのか、尋ねさえすれば良かったのだ。

「お、こいつ新入りだな。よし、お前に決めた」

 レオンは大人しそうな葦毛の馬を。ディフはちょっとばかり向こう気の強そうな、栗毛の馬を選んだ。

「大丈夫かい?」
「うん。慣らしの終わった奴しか、こっちの馬房には入れないから」

(そう言う問題じゃないだろう)

 栗毛の馬は実際、相当に利かん気が強く、馬場に引き出す間も時折、鼻息荒く体を揺すってレオンを冷や冷やさせた。
 だが当のディフは一向に慌てず、立ち止まって穏やかな声で話しかけ、馬が静かになるのを待つのだった。

「そうか、そこが気になるのか。いいぞ、好きなだけ調べろ……ん、満足したか? じゃ、行こうか。お前だって走るの好きだろ? 俺もだよ……さあ、おいで」

 優しく、親しげに語りかける様子に、ちくりと胸が疼く。馬鹿な。相手は馬じゃないか! そう、たかが馬だ。わかっていてもつい、馬に向ける眼差しが鋭くなってしまう。

「よーしよし、いい子だ」

 馬場に出るなり、レオンはあぶみに足をかけてひらりと跨がった。
 
「すげえ。王子さまみたいだな、レオン!」
 
 続いてテンガロンハット(いつも寮の部屋の壁にかかっていたやつだ)を被ったディフが栗毛に飛び乗った。
 軽く鞍に手を添えただけで、ほとんど自分の足の力だけで飛び乗っていた。

「……君はカウボーイみたいだね」
「おうよ!」

 顔全体を笑み崩し、白い歯を見せて、ディフはくいっと拳を握り、親指を立てた。

「テキサス流だからな!」

 干し草の匂い、生きた馬の濃い匂い。進む蹄が乾いた地面を叩き、その度にぽこん、ぽこんと土の匂いが濃く立ち上る。時折、北からどっと吹きつける冷たい風をものともせず、カウボーイと王子、二人の少年は並んで馬を走らせる。

 個性も体力も違う馬を、同じペースで走らせるのにはかなりの技術と、慎重さが要求される。だがレオンもディフもごく自然にそれをこなしていた。
 ただ、相手のことを見ればいい。思えばいい。習い覚えた技と手が答えてくれる。
 
 馬場を囲む柵の近くまで来た時。ディフがいきなり、呟いた。

「こいつ飛べるかな……」
「え?」

 怪訝に思ったレオンが問い返す間に、うなずいて馬の首を軽く叩く。

「飛べるよな! うん、飛びたがってる!」

 言うや否や、駆け出した。

「……ディフ!」

 呼びとめようとした声は、走り去る背中を虚しく滑る。
 あっと言う間の出来事だった。迷い無く馬を走らせ、ディフは手綱を引き絞り、上体を低く屈め……
 軽々と柵を飛び越えた!
 それは馬術の美しさとは無縁の、馬の気分と性質と能力に乗り手が合わせた、何とも無骨で乱暴な飛び方だった。
 着地の衝撃でテンガロンハットが脱げ、かろうじてあごひもで引っかかる。

「っしゃあ!」

 ガッツポーズを取ると、ディフはもう一度引き返すべく馬首を巡らせ……

「ディフっ!」

 レオンと目が合った。
 真っ青になって眉間に皴を寄せ、途方に暮れた表情でこっちを見つめている。まるですがりつくみたいに。
 きゅうんっと胸の奥が疼いた。柵の直前まで追いかけて来たのはいいものの、自分まで飛び越えることはできなかったのだろう。
 無理も無い、あの葦毛にそんな度胸は無い。
 鞍の上でぼう然としている。

(やばい。心配かけちまった!)

「ごめん、レオン、すぐ戻る!」

 帽子を被り直すのもそこそこに、慌てて柵に沿って馬を走らせる。レオンもはっと我に返って後を追う。
 しばらくの間、二人は柵を挟んで並走した。馬場の出入り口にたどり着くまでの数分が、とてつもなく長く感じられた。

 ディフが戻ってくると、レオンはほーっとため息をついた。
 柵のこちら側に一人置いて行かれたのが、寂しかった。自分を置いて急に駆けて行ったのが面白くなかった。

 しかもあの栗毛は、障害を飛ぶように訓練を受けた馬ではない。勢い任せのあんな乱暴な飛び方で、ちょっとでも引っかかったら大惨事だ。無鉄砲にも程がある!
 言いたい事が頭の中でぐるぐる回る。
 
「……ごめん」

 かぽかぽと歩み寄る赤毛のルームメイトをにらみ付け、一言告げる。

「次は飛ぶ前に言ってくれ」
「………ごめん」
「わかればいい」

 毅然として馬を走らせるレオンの後を、ディフは大人しくついて行く。眉根を寄せ、ちょっぴり困った犬みたいな顔をして。レオンが右に曲がれば自分も右へ。左に迎えば自分も左へ。
 もう、彼を置いていきなり駆け出すような真似は、しなかった。

    ※

「おー、やっとるな」

 マッキロイ氏はそんな少年たちを、ほほ笑ましい気持ちで見守っていた。
 先週の日曜日、マックスに聞かれた。『来週、友達を連れてきていいか』と。
 ほほうこいつはてっきり、デートかな? と思っていたら連れてきたのは男。しかもルームメイトだと言うじゃないか。

 やれやれ、まだ女の子のご機嫌を取るより、男の友情が優先って訳か。
 くすっと小さく笑う。
 マクラウドの甥っ子に浮いた話ができるのは、もうしばらく先のことになりそうだ。

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【5-5-10】だから姫にはかなわない

2012/07/17 1:58 五話十海
 
 月曜日の放課後。聖アーシェラ高校の近くのソーダ・ファウンテンにて。
 モニーク・シャーウッドは友人たちとテーブルを囲んでいた。
 つついているのは、アイスクリームを3種類ほど盛りつけて、チョコチップとマシュマロをたっぷり散らして仕上げにチェリーソースとチョコレートシロップとホイップクリームをどっさりかけた特製サンデー。
 友人たちからのおごりである。

「最初っから勝ち目なんて、無かったのよ」

 スプーンでごそっとホイップクリームをすくいとり、いちごアイスとともにあぐっとほお張って飲み込む。

「マックスにとっての最優先事項はレオンなのよね。私じゃなくて」

 ため息を着きながら、モニークはふわっとなびかせた黒髪の毛先に手を触れる。
 ヘアーワックスとドライヤーと格闘しながら、天使の羽のように『自然な』ウェーブを整えたのだが……
 当のマックスときたら一向に気付かず、機嫌良さげに話すのは日曜日の出来事。
 バイト先の農場で、馬に乗った事なのだった。
 レオンと。
 他ならぬレオンハルト・ローゼンベルクと。

『すげえかっこよかったよ。気品があって、びしっと背筋伸ばしてさ。何って言うか、王子さまみたいだった!』

 クラスの友人たちは、その一部始終を見聞きしながら、サイレントにため息を着いたのだった。
 そして放課後、誰とも無しに連れ立ってソーダ・ファウンテンに繰り出したのである。

「私はマックスの気を引くのに、メイクにも気を使って、朝30分かけて髪の毛をセットして、石けんの香りのコロンをちょこっとつけて、服も靴も合わせた。でもレオンは……ちょっと不機嫌な顔するだけでいいんだもの。勝負になんないわ!」

 少女たちは顔を見合わせる。
 眼鏡をかけた黒髪の少女が、どんっとコカコーラの特大サイズをモニークの目の前に置いた。

「まあ、飲め」
「さんきゅ、ヨーコ」

 続いてブルネットの少女が、薄紙に包んだドーナッツを差し出す。

「食べなさい」
「うん、もらう」
 
 上半分にピンクのイチゴクリームをかけ、色とりどりのカラースプレーをまぶしたドーナッツにあぐっとかぶりつく。もぐもぐ噛んで、ごきゅごきゅとコーラで流し込む
 一通り飲み食いしてから、モニークは深い深いため息をついた。

「何って言うか、レオンには……勝てる気が、しない」
「うん」
「うん」
「大丈夫、それうちの学校の大半の女子が思ってることだから」

     ※

 モニークは次のデートを断った。

「そっか」
「友達と約束があるの。だから、ごめんね」

 にっこり笑って、最後に一言付け加えたのはちょっとした乙女の意地。

「レオンと一緒に行けば?」

 ディフはしおしおとうな垂れて寮の部屋に戻り、レオンにことの次第を報告した。

「……って言われちゃったんだ。やっぱ、これって俺、振られたってことなのかな」

 レオンはぽんっとディフの肩を叩いた。

「お茶を入れよう」
「うん」

 ちょこんとテーブルに座って待つディフに背を向けて、レオンはお湯を沸かし始める。
 安堵で頬がゆるんでしまうのを、どうしても押さえる事ができなかった。

「ミルクは入れるかい?」
「うん」
「砂糖は?」
「……3つ」
「そうだね。こう言う時は、甘い物が一番いい」

    ※

 この後、ディフォレスト・マクラウドの男女交際については、何度となく同じパターンが繰り返される事になるのだが……これはその、最初の一度。

(俺のクマどこ?/了)

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【5-5-0】登場人物

2012/07/17 2:45 五話十海
 
 def_s.jpg
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
 聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
 父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 週末、農場でアルバイトを始める事にした。
 テキサスではほとんど地震が起きないので地面が揺れると大パニック。
 
 
 leon_s.jpg
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
 ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
 人との接触を好まず滅多に笑わない。
 その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
 突如自分の生活に割り込んできたガサツなルームメイトに苛々していたが、最近は一緒にご飯を食べている。
 週末、ディフが留守にしてしまうのが微妙にお気に召さないらしく今回、全体的に不機嫌。
  
 
 hywel_s.jpg
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
 さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
 五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
 その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
 人物観察に優れ気配りもできるはずだが割とさくさく地雷を踏むのはこの頃から。
  

 yoko_s.jpg
【結城羊子/ゆうき ようこ】
 日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
 通称ヨーコ。
 小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
 強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
 それでも最近ちょっぴりホームシック。

【マッキロイ】
 サンフランシスコ郊外の農場の主。
 ディフの伯父さんの友人。

【モニーク・シャーウッド】
 聖アーシェラ高校一年。
 笑い声の可愛い活発な女の子。
 同じクラスのある男子生徒にデートに誘われOKする。
 
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【5-6】ハロウィンGO!GO!

2012/10/30 23:10 五話十海
 
  • 少し遡って1995年10月末のお話。
  • 聖アーシェラ高校では、学校行事の一環としてハロウィンの日は仮装して登校する事が認められている。
  • ハロウィンに仮装は当たり前、とばかりにこぞって衣装を準備する生徒たち。その中で日本からやってきたヨーコはぽつんと取り残されていた。
「日本ではまだ馴染みのない行事だし、家、神社だから……」
  • ハロウィン当日の朝、レオンは首をかしげた。ガサツで大ざっぱなルームメイトのマクラウドが、熱心に鏡をのぞき込んでいる。
「何してるんだ」「何に見える?」
  • 一方、ハロウィンセールたけなわのスーパーでは、仮装してデントン・ナッツの販促にあたる若者が2人。
「なあ、チャーリー。立場が逆なんじゃないか? お菓子を配る方が仮装してるなんて」
「いいんだよ! お祭りなんだし」
  • ヒウェルとディフとレオンにヨーコ、そして若き日のランドール社長のハロウィン。

【5-6-0】登場人物

2012/10/30 23:11 五話十海
 
 def_s.jpg
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称マックス、家族からはディーと呼ばれていた。
 聖アーシェラ高校一年、テキサス出身。
 父親の七光りから自立すべく、サンフランシスコの高校を選んだ。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、鼻と頬の周辺にそばかす。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 ひいおじいさんはテキサス・レンジャーの隊員だったらしい。
 
 
 leon_s.jpg
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 聖アーシェラ高校二年。ロスの実家を離れて学生寮で暮らしている。
 ライトブラウンの髪と瞳、ほっそりと華奢な体格、整った顔立ち。
 人との接触を好まず滅多に笑わない。
 その冴えた美貌と遺伝子レベルで組み込まれた高貴さ故に秘かに「姫」と呼ばれている。
 突如自分の生活に割り込んできたガサツなルームメイトに苛々していたが、最近は一緒にご飯を食べている。
 ハロウィンの仮装には無関心。  
 
 
 hywel_s.jpg
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 サンフランシスコ出身、聖アーシェラ高校一年。
 さらさらの黒髪にくりっとしたアンバーアイ、細身で愛らしい子リスのような美少年。
 五才の歳に両親と死に別れ、里親の元で育てられている。
 その愛くるしい外見と人当たりの良さ故に上級生に人気がある。
 その愛くるしい外見にも関わらず未だに小学生男子のノリが抜けない。
 
 
 yoko_s.jpg
【結城羊子/ゆうき ようこ】
 日本出身の留学生、聖アーシェラ高校一年。
 通称ヨーコ。
 小柄でほっそりぺったん、ほとんど小学生と言っても通りそうな外見だが、れっきとした高校生。
 強気で勝ち気で歯に衣着せぬ男前女子。
 神社の子なので洋風のイベントにはあまり馴染みがないが、スヌーピーのアニメで秘かに憧れていた。
 
 
【マイケル・フレイザー/Michael-Frazer】
 聖アーシェラ高校三年、ガブリエル寮の寮長。
 穏やかで公平、人望もある信頼できる先輩。
 ちょっぴり天然。
 面倒見は良いが、必要以上に他人には干渉しない主義。
 さり気なくスプラッターホラーの愛好家だったらしい。

【カルヴィン・ランドールJr】
 通称カル、ランドール紡績の若き後継者。とは言え身分はあくまでヒラ社員。
 親友で大学時代のルームメイトのチャーリーと共にスーパーで販促活動にいそしむ日々。
 仮装衣装は赤頭巾ちゃんとの二択の結果こうなった。

【チャールズ・デントン】
 通称チャーリー、老舗の食品会社デントン・ナッツの若き後継者。
 人呼んで「ピーナッツ・バターの王子様」。カルの大学時代からの親友。
 底抜けに明るいお人よし、だが女性に関してはひたすらマメで知略が回る。
 年齢を問わず黒髪の女性が大好き。
 
次へ→【5-6-1】何の仮装する?

【5-6-1】何の仮装する?

2012/10/30 23:15 五話十海
 
 10月に入ると、町のそこかしこにオレンジのカボチャが湧く。三角の目とギザギザの口を刻んだジャックどもが、どこからともなくにゅうっと現われる。

 家々の軒先や店を飾るディスプレイは日ごとに増えて行き、第四週ともなれば町はハロウィン一色に染まる。
 店先に山と積まれたランタン用のカボチャ。紙やフェルトを切り抜いたコウモリ、ガイコツ、魔女、そしてゴーストのシルエット。夜になればイルミネーションのスイッチが入り、ちかちかとオレンジ色の明かりが灯る。ガイコツの目が光り、ゴーストが回り、カボチャが笑う。
 不気味なはずなのに、どこかユーモラスな空気が漂うのは、基本的に「楽しむ」ためのお祭りだからだろう。

 ハロウィンと言う行事そのものが。

 無論、聖アーシェラ高校もその例外ではなかった。さすがに教室の飾り付けは控えめだがその分、学生寮やカフェテリアは賑やかさ倍増。また、知らない間に何故か増えるのだ。頼まれてもいないのに、誰かしらが付け加えて行くから。

「あ、また増えてる、幽霊さん」
「まだまだ増えるよ。ハロウィン本番まであと一週間あるものね!」

 ヨーコこと結城羊子は、同じクラスのジャニスとカレン、そしてルームメイトのカリーンと彼女の友人モニーク、あわせて五人でテーブルに着いた。
 手にしたトレイにはハロウィンシーズン限定セットメニュー……カボチャのグラタン、パンプキンスープ、カボチャのサラダにパンプキンパイが載っている。

「すごいね、カボチャづくし」
「ランタン用に大量に中味をくりぬくからね」
「あー、再利用なんだ」
「そゆこと。無駄がないっしょ?」
「うん、合理的だね」

 すました顔でフォークを動かすヨーコの皿の上から、みるみるLLサイズのパンプキンパイが消えて行く。

「……それデザートじゃなかったの?」
「ん、こっちはご飯。で、デザートはこっち」

 よく見るとパイは二切れあった。難なく一切れ平らげて、さらにもっしゃもっしゃとグラタンを口に運ぶヨーコを見守りつつ四人の少女は顔を見合わせた。
(どこに入ってるんだろう?)

 食事が終わり、今度は全員でデザートのパンプキンパイをつつく中、カレンが口を開く。

「ねー、確かうちの学校って仮装OKだったよね?」
「あー、うん、ハロウィン当日限定でね」
「朝から着ていいの?」
「うん」

 モニークがうなずく。彼女の兄はアーシェラ高校の卒業生なのだ。

「ほんとは放課後まで仮装禁止だったんだけどね。皆聞かないからもういっそ自由にしちゃえって事になったんだって」
「わお。さすが、アメリカ」
「で。衣装は皆、どうする?」
「私もう準備した」
「私も」
「もうちょっとでできあがるかな?」

 そう答えたのはカリーン。寮ではヨーコと同じ部屋で暮らすアフリカ系の少女だ。

「カリーン、衣装自分で作ってるの?」
「そんなに凝ったことしてる訳じゃないけどね。古着を切ったりデコったりして、作るって言うよりはアレンジ?」
「すごーい」
「まさかハロウィンの衣装まで実家から持って来る訳にも行かなかったし」
「そりゃそーだ、けっこうな荷物になるしねー」

 ひとしきり盛り上がってから、ジャニスがん、と首をかしげる。インド生まれの母親から受け継いだ、くっきりしたラインに縁取られたアーモンド型の目を細めてヨーコを見つめる。

「ヨーコはどうするの、ハロウィン?」

 4人兄弟の長女でもある彼女は何かと面倒見が良い。カリーンと同様、家を離れているヨーコを気遣ったのだ。

「んー、また浴衣でも着ようかな」
「えー、何それ九月にも着てたじゃない」
「って言うか仮装じゃないでしょそれ」

 こくっとパンプキンパイの最後の一かけらを飲み込み、カレンが拳を握って力説する。

「民族衣装じゃん!」
「いや、浴衣はリラックスするためのものだから」
「考えてごらんなさいよ、ヨーコ。あなたがキモノ着るなんて……」

 カレンはぽんっと隣に座るジャニスの肩をたたいた。

「ジャニスがサリー着て、マックスがキルト履くようなものよ!」
「あー……それは確かに、仮装じゃないよね」
「むしろ盛装?」
「そうだね。私も、サリー着るとちょっと堅苦しい気分になっちゃうかも」
「そうなの?」
「うん。母方の親戚の集まりとか、従弟の結婚式とかで着てるからつい、ね。条件反射?」
「そっか……」

 何となくヨーコが納得しかけた所に、さらにカレンは一気呵成にたたみかける。

「ハロウィンの仮装は学校行事なんだよ? 学校公認で仮装できるんだよ? もっとはっちゃけようよ!」

 気迫に圧されて、ヨーコは小さい声でぽそりと答えた。

「な……慣れてないから」
「何、日本ではやらないの?」
「うん。まだ、あまり定着してないし。それにうち、神社だから西洋のイベントはあまりね?」
「信じらんない! それじゃ感謝祭まで何を楽しみに生きてきゃいいの!」
「それも、無いです」
「うっそーっ!」

 さすがに四人とも目を丸くして口々に叫んだ。

「ハロウィンも無し、感謝祭も無しなのっ?」
「それじゃ、クリスマスまで何を楽しみに生きてけばいいのよーっ!」
「……家の手伝いかな」

 四人のアメリカンガールはいきなり黙ってしまった。
 どうしよう。
 ヨーコはほんのり頬を染めながら必死で言葉をつないだ。どうにかして気まずい空気を払拭しようと、必死になった。

「アメリカに来て、町中の家にハロウィンのイルミネーション出てたり、お店でハロウィンセールやったりディスプレイしてたりするの、見てるだけでもけっこう楽しいよ? この間はスーパーで、試供品のチョコバーもらったし!」
「試供品って……ピーナッツバターの?」
「そそ、ドラキュラと狼男が配ってた」

 その瞬間、カレンとジャニスとモニークそしてカリーンの中にぶわっと熱いものが込み上げる。

(こっ、この子はスーパーの試供品なんかで、あんなに嬉しそうに!)
(ハロウィンも感謝祭もやったことないとか信じらんない!)
(やっぱりお家の都合なのかな。こう、宗教的な理由で!)
(こうなったら私たちが、ヨーコに最高のハロウィンを体験させたげるしか!)

「え、えと、あの、あれ?」

 ヨーコはとまどっていた。
 自分は、何かおかしな事を言ってしまったんだろうか。
 実際、十月の後半は毎年、神社は七五三の準備で大忙しなのだ。暇さえあれば家族みんなでせっせと千歳あめを袋に詰めて、ご祈祷しなきゃいけない。
 同様に十一月から十二月にかけても忙しい。年末年始の準備があるから。
 けれどクリスマスのケーキとチキンはしっかり食べる。ゆっくり楽しんでる暇がないだけで。

「ヨーコ!」
「は、はい?」
「せっかくアメリカに来てるんだもん。今年のハロウィン、絶対成功させようね!」
「う、うん」

 がしっと四人の少女はヨーコの手を握った。

「仮装衣装は」
「私たちにまかせて!」
「い、いいの?」

 おずおずと問い返す。そう、本当はヨーコも仮装してみたかった。スヌーピーのアニメでハロウィンと言う行事を知って、ずっと憧れていたのだ。

「もちろんよ!」
「明日、家から昔着てた衣装持って来るね!」
「私も!」
「私も!」
「あ……ありがとう」

 善は急げ。翌日、さっそくカレンとジャニスとモニークは家から衣装を持ち寄った。
 しかし何分、昔の物だ。しかもそれを着て近所を歩き回ったりパーティーで飛んだり跳ねたりしたのである。所々染みになったり、かぎ裂きや穴ができている。

「んー、そのままって訳には行かないね、これ」
「そうね、サイズも直さないとだし」
「うちはこれ、妹も使ったからなー」

 その間、カリーンは持ち寄られた衣装を一枚ずつ、じっくりと観察していた。チェックが終わってからおもむろに顔をあげる。

「大丈夫。使える所だけ切り取って、縫い合わせればいいのよ」
「その手が!」
「さすが被服室の魔術師!」
「任せて!」
「い、いいの?」

 さすがにヨーコが遠慮がちに問いかける。お古の衣装をそのまま借りればいいと思ってたのに、まさか、新しいのを作るなんて!

「気にしない、気にしない。だって昔着てた服の再利用だもの!」
「カボチャと同じ!」
「そう、カボチャと同じよ!」
「では……」

 カリーンはすちゃっとエンピツとノートを取り出した。授業のノートを取るのとはまた別のものだ。リング綴じで正方形、縦横どちらからも描ける方眼紙。

「さっそくデザインさせていただきます!」

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