ローゼンベルク家の食卓

さんふらん通信3「エドワーズの試練」

2013/10/15 2:48 短編十海
 
 それは、エドワード・エヴェン・エドワーズにとって一つの試練だった。

 最初の結婚は寂しい結末を迎え、独り身に戻ってから十余年。警察官として真面目に職務を全うし、退職してからは父親から引き継いだ古書店を切り盛りしてきた。若い頃のヤンチャはともかく、結婚に破れひたすらコツコツと真面目に生きてきた男が……
 もう一度恋をした。
 相手は飼い猫リズの主治医、サリー先生。日本からやって来た、黒髪にぱっちりした瞳の、子鹿のように可憐な獣医さんだ。出会った当初こそ女性と誤解していたが、男性だとわかった時には既に彼への恋心は確たる物になっていた。
 そっくりな従姉がいたからって乗り換えられるような問題ではないのである。

 その後、自分より若く、お金持ちでハンサムな男性とデートをしているのを見かけ、さらにその席上でサリー先生と同じ年ごろの青年が「俺たちつきあってます!」と宣言するのを聞いてしまった。
 あの時は衝撃のあまり酔いつぶれ、元上司に介抱される失態を演じた。その後も度々あの人を思い、同じ名前の薔薇を買い、物思いにふけって居間で酔いつぶれた。
 セクシーな夢を見て、年甲斐も無く朝っぱらからパンツを洗う羽目に陥った事もある。
 サリー先生の事となると、いともたやすく冷静な判断力を失ってしまう。かつての暴走少年が、重ねた歳月と社会的良識の殻をぶち破って出現するのだ。
 そんな三十六歳バツイチ男の目の前でよりによってサリー先生が倒れた。

 場所はエドワーズ古書店、時間は朝。
 店に入って来た時はいつものように笑顔で挨拶を交わしたのだが、思えばその時から少し、様子がおかしかった。ほんのりと頬を桜色に染め、濃い茶色の瞳は潤んでいるように見えた。風邪気味……だったのだろうか。
「いらっしゃい、サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」
「みゃ」
「こんにちは、リズ」
 いつものように和やかに言葉を交わしていると、急にサリー先生が体を硬直させ、びくんっと震えた。リズが鋭く鳴くのを聞いた瞬間、確信した。これは非常事態だ、と。
「サリー先生!」
 とっさに駆け寄り、伸ばした腕の中にくたんっと小柄な体が倒れ込んできた。
「サリー先生、サリー先生!」
 呼んでも反応が無い。抱き留めた体は、衣服を通してさえわかるほどはっきりと熱い。
(熱?)
 確かに肌の赤みも強くなっているし、ほんのり汗ばんでいる。息づかいも荒い。
「……失礼」
 とっさに背中と膝に腕を回して抱き上げた。意識がないとは言え、華奢なサリー先生の体は苦も無く腕の中に収まった。
(休ませないと!)

 奥の住居に通じる扉を開け、階段を上る。一歩一歩慎重に……。三階の寝室か二階の居間か、一瞬迷った。
「はぁあ……んんっ!」
 胸元に響く悩ましげな喘ぎを聞いた瞬間、腹を決めた。
 二階だ。今、この人を寝室になんか連れていったら、正直、理性を保つ自信がない。
 それほどにサリー先生の声は艶めいていて、男としての本能を強く強く揺さぶらずにはいられない物だったのだ。
 しきりと身じろぎする手や足、肩が押し付けられる。弾けるような若い体の存在に鼓動が跳ね上がる。
 自制心を総動員して居間に通じるドアを肩で押し明け、ソファの上に彼の体を横たえた。

(楽にしてあげた方がいいのだろうか?)
 迷いながら、シャツの一番上のボタンを外し襟元を緩める。この程度なら、応急処置の範疇を越えないだろうと判断した上での決断だった。ゆるめられた衣服と肌の間から、ほんのりと暖まった空気が立ち昇る。ねっとりと甘い、それでいてぴりっとした刺激が鼻腔の奥まで突き抜ける。
「っくぅうんっ!」
 眉根を寄せて、ぴくぴくっと手足を震わせる。その仕草は経験に基づいて判断する限り苦痛よりはむしろ、快楽よりのものだったが。
 すがりつくように伸ばされた華奢な手をとっさに握りしめていた。
「あ……も、もっと」
「え?」
 予想以上に強い力で引き寄せられ、あっと思った時には床に膝をついたまま、上半身のみサリー先生に覆いかぶさるような姿勢になっていた。
(こ、これは……っ!)
 今にも心臓が爆発しそうだ。両腕でしがみついたまま、サリー先生は切なげな吐息を漏らしている。囁かれる言葉は日本語なのだろう、意味はわからない。だが……『こう言う時』の求め方は、言語に関わらず体で理解できる。
「っはぁ、うぅん……っ……もっと……強く、抱いてぇ……っ」
「サリー先生……サクヤっ」
 求められるままエドワーズは彼を抱きしめた。しがみつく手がシャツを掴み、指の間に皴が寄る。ぴったり密着した体と体は、既に間に布を挟んでいる事を忘れそうになるくらいに熱くて、生々しい質感を感じる。
(ああ、だめだ、このままではっ!)

 相手に意識がないか、もしくは正常な状態で無いことはわかりきってる。この状態で求められるまま本能に身をまかせたら。手を出したら、自分は最低の男になってしまう。
(しっかりしろエドワーズ)
 滾る血潮を無理矢理ねじ伏せる。
 サリー先生との絆は、自分にとっては至上の宝だ。
 一時の肉体的な欲望なんかとは、到底引き換えにできるものではない。
 警察官時代に培った鋼のごとき強靭な精神力を振り絞り、エドワーズは熱い抱擁をやんわりとほどき、サリー先生の体をソファに横たえた。
 頭の下に枕代わりにクッションを置く。眼鏡を外して畳み、テーブルの上に乗せた。
「少しだけ待っていてください。サリー先生」

 三階の寝室から毛布をとってきて、ついでに一度店に戻って『休憩中』の札を出し、改めて二階の居間に入る頃には、エドワーズはいつものイギリス人らしい良識と確固たる自制心を取り戻していた。
「みゃ」
 サリー先生の傍らで白い猫が首をもたげる。ずっと付き添っていてくれたのだろう。
「ありがとう、リズ」
 顎の下を撫でてて労ってから、毛布をかける。うっすらと汗ばんだ額に乱れた髪が貼り付いていた。
 ごく自然に手を伸ばし、髪を整える。その何気ない動作の直後に訪れたわずかな隙に、鉄壁の理性がほころぶ。
 気付いた時はもう行動は終わっていた。
 火照り、色づき、しっとり湿り気を帯びた肌が唇に当たっている。きめの細かさ、なめらかさを直に感じた。
(あ)
 エドワド・エヴェン・エドワーズは、秘かに恋する相手の。サリー先生の額に、唇で触れていたのだった。
(しまった!)

 しかし己の迂闊さを悔いるよりもその瞬間、エドワーズの全身は甘美な喜びに満たされていた。
(ああ、私は、サリー先生に……キスしてしまった!)
 たかだか額へのキスである。祝福とか挨拶と称しても許されるレベルのキスだ。しかし、そんな礼儀正しい定義では済まないことはエドワーズ自身がよくわかっていた。
「うーん………」
 間近で響く声にはっと理性を取り戻す。エドワーズは再び強固な自制心を総動員し、体を起こした。
 体内でくすぶる炎はまだ冷めない。だが、とにもかくにも最大の試練は乗り越えた。
 そう、信じて。

     ※

 小さくうめくと、サリーはうっすらと目を開けた。
「大丈夫ですか、サリー先生」
 明るいライムグリーンの瞳が見下ろしてくる。夢の続きを見ているような、ほんわりした心地で差し伸べた手が、ほんの少し乾いた器用そうな手のひらに包まれる。骨組みのしっかりした、見かけよりずっと力強い手。その熱さと確かさが心地よくて、また意識がほわほわと漂いそうになる。
「サリー先生?」
 問いかけるようにまた、名前を呼ばれた。この声、知ってる。低く滑らかな響き、耳に心地よいイギリス式のアクセント……そう、イギリスだ。知ってる中でこんな喋り方をする人は一人しかいない。
「っ、エドワーズさん」
(どうして? いや、何でっ?)

 衝撃と驚きに吹き出したアドレナリンの恩恵で意識がはっきりする。
「急に倒れたから、心配しました」
「え、う、あ、はい、あ、ありがとうございます」
 今朝は朝早くから体調が変だった。頭がぽやーっとして、妙に脈も速かった。風邪でも引いたかなとも思ったけど、クシャミも咳もない。体温が少し高めだけれど、これぐらいなら許容範囲だ。
 今日は病院の勤務は午後からで午前中はフリー。せっかくエドワーズ古書店に行ける貴重な機会を、諦めたく無かったのだ。
 ケーブルカーに揺られる途中、何度か意識がふうっと漂いそうになったけれど、幸い通い慣れた道筋だ。どうにかこうにか砂岩作りの細長い建物にたどり着き、和やかなドアベルの響きに迎えられた時はほっとした。
「いらっしゃい、サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」
「みゃ」
「こんにちは、リズ」
(ああ、やっぱり来て良かった)
 エドワーズさんと言葉を交わしながら、紙と糊と革、そして木とインクの香る静かな空気の中をゆっくりとたゆたう。
 そんな掛け替えのないひとときの中、不意に衝撃が訪れた。
「あ……れ?」

 体の奥底で何かが弾けるような感触があった。と思ったら次の瞬間、ありとあらゆる感覚が真っ白に焼き付いた。
 リズが警戒の声を上げ、駆け寄ってくるエドワーズさんが伸ばした腕の中に倒れ込んで………後は覚えていない。
「……俺、失神しちゃってたんですね」
「はい。不躾ながらこちらにお運びしました」
 カボチャ色の明るい壁に囲まれた部屋で、ソファに寝かされていた。以前、ここで一緒に昼食を食べた事がある。
 ここは、エドワーズさんの居間だ。頭の下には枕がわりのクッションが置かれ、体には毛布がかけられている。
「すいません、ご迷惑かけて」
「とんでもない。お身体の調子はもう、よろしいのですか?」
「はい……」
 胸に手を当てる。さっきのは、あくまで余波だ。原因は自分ではない。海を越えた向こうにある。
(よーこちゃん……)

 どう言う状況なのかまではわからない。けれど、とても満ち足りて幸せなのだと感じた。
(だから、これでいいんだ)
 ぽろっと涙がこぼれる。
「サリー先生っ?」
「あれ? あれれっ?」
 止まらない。後から後からぽろぽろとこぼれる。エドワーズさんがポケットからハンカチを取り出し(さすがイギリス紳士、いつも持ち歩いているのだ。)拭ってくれたけどそれでも追いつかない。
「ごめんなさい……な、なんだか、止まらなくってっ……っ!」
 エドワーズさんは何も聞かなかった。ただ両腕を広げて、抱きしめてくれた。がっしりした手が。本を直す『魔法の手』が、ゆっくりと背中を撫でてくれる。
 余計な事なんか考える余裕がなかった。内側からあふれ出す感情が静まるまでずっと、優しい腕に身を委ねた。

「も……大丈夫です……ありがとう……ございます」
 腕が解かれる。離れて行く温もりに思わず手を伸ばして追いすがりそうになった。
「お茶をいれて来ます。こう言う時は、あたたかいものを飲むのが一番だ」
「……はい、お願いします」

 エドワーズさんが台所で立ち働く間、リズはずっと付き添っていてくれた。白い柔らかな毛並に顔を埋める。
「リズ」
「にゃ」
「よーこちゃんがね、ランドールさんのお嫁さんになるんだよ」
「にゃうう!」
「うん……そうだね」
 ごそごそとポケットから携帯を取り出し、メールを打とうとして初めて気付く。
「眼鏡………」
 きょろきょろと見回すと、すぐ近くのローテーブルにきちんと畳まれた眼鏡が乗っていた。
(外してくれたんだ。)
 かけ直すと、ぼやけていた世界がはっきりと輪郭を取り戻す。深呼吸してから指を走らせ、短いメッセージを送った。
『おめでとう』
 ただ、それだけ。
(これで、いい)
(だけど、よーこちゃんがお嫁に行くのなら、神社の跡を継ぐのは……)
 つくん、と胸の奥が疼いた。
 それは、まだ先の事。だけど確実に待ち受けている事実。
 このまま、サンフランシスコ(ここ)でずっと続いて行くんじゃないかって思っていた日々の暮らしに、初めて突きつけられた変化の兆し。

「お待たせしました、どうぞ」
 エドワーズが盆に乗せたカップを運んできた。きっと紅茶だ。だって、この人はイギリス生まれだもの。
「……ありがとうございます」
 カップからたちのぼる湯気には、はちみつの香りが混じっていた。
「あ。甘い」
「はちみつとレモンを入れました。体調が良くない時は、これが一番です」
 穏やかに見守ってくれるライムグリーンの瞳。見上げながらふと思った。
(日本に帰ったら……エドワーズさんとも会えなくなっちゃうなあ)
 親しい友人の誰よりもまず、彼の事を思い浮かべたのは何故なのか。サリー自身もまだ、気付いていなかった。

(さんふらん通信3「エドワーズの試練」/了)

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