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ローゼンベルク家の食卓

【ex14-11】ずるいや

2013/10/15 2:37 番外十海
 
 少しばかり時間を遡って日曜日の朝。
 いつになく落ち着かない気分で朝のお務めを終えた結城羊子が、巫女装束を着替えるべく部屋に戻って来ると……。机の上で携帯が、ちかちかと着信ランプを点灯させていた。
「あー」
 すっかり触る事すら忘れていた。手を伸ばして開くとメールが二通。まず先に届いていた方から開封して目を通す。
「サクヤちゃん」
 文面はただひと言『おめでとう』、それだけ。携帯を胸に抱きしめ、羊子は深く息を吐いた。
(やっぱり伝わっちゃったのね……)
 だったら余計な言い訳も説明も必要ない。かちかちとボタンを押して短い返事を送った。
『ありがとう』
 これで充分。

 続いて二通めを開けた瞬間、ヨーコの目が点になった。
『おはようさん、心の鍵は開いたかい?』
 差出人は兄弟子の神楽裕二。無味乾燥な電子の文字の向こう空、歯を剥いて笑ってる顔が見えたような気がした。
「め……」
 道理で、懐かしい香りがするはずだ。あのハーブティ、時差ボケ対策なんかじゃない。藤野先生直伝のハーブティ『オープンハート』。その名の通り閉ざされた心を開く魔法のお茶だ。
 確かにリラックスはするし、疲れもとれる。神楽裕二は嘘は言っていない。言っていないけれど。
「めーっっ!」
(騙されたーっっ!)
 いたたまれずうつ伏せにつっぷし、手足をばたつかせる。悔しさと恥ずかしさがないまぜになって、素直に返事を出せない。とにもかくにも着替えをすませ、台所に向かう。
「今日は何だか量が多いね」
「ええ、せっかくお客さんがいるんですもの! ね?」
「ね?」
 この後、羊子は思い知らされる事になる、浮き浮きとした母と伯母の様子を不思議に思わなかった己の迂闊さを……。

      ※

 疾風怒涛、波乱万丈の朝食の後、予定通りランドールとヨーコは織物工房へと見学に出かけた。何しろ有能秘書シンディが訪問予定時間まできっちりと段取りをつけてくれたのだ。すっぽかしては失礼に当たる。
『外国の社長さんが見学に来る!』
 出迎えた先方はがちがちに緊張していたが、同行したヨーコと挨拶を交わし、彼女が通訳を務めると聞くと一気に壁が崩れた。
 繭からの糸取りから染色、機織りまであらゆる工程を体験し、サンプルとなるコースターや端切れを入手して、さあお仕事はこれで終わりですとなった時点で工房の主が何気なく尋ねた。
「それで、結城神社のお嬢さんとはどう言ったお知り合いなのですか?」
 条件反射でさくっとヨーコが英語に翻訳したこの問いかけを聞くと、ランドールはきっぱりはっきり正々堂々と答えたのだった。ご丁寧にヨーコの手をとって。
「彼女は私のフィアンセなのです」
 ……もはや翻訳するまでもなかった。言葉以上に見つめる視線の熱さと、指までからめてしかと握り合う手と手が語っていた。

「おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
 祝福を受け、熟したトマトのように真っ赤になったヨーコと腕を組み、ランドールは意気揚々と工房を後にしたのだった。
「実に実りの多い訪問だったよ。ありがとう、ヨーコ」
「どういたしまして……」
 車を出しながらランドールは不思議そうにヨーコの顔を見つめた。
「暑いのなら、エアコンを強くしようか?」
 びっくんっとヨーコは助手席で飛び上がり、首を左右に振った。
「ち、ちがうの、そう言うんじゃないの。ただその……」
「うん?」
 首を傾げて次の言葉を待つ。
「おめでとうって言われれば言われるほど、ああ、ほんとにあなたと結婚できるんだって、実感が強くなってきて……」
 耳まで赤く染めながらヨーコはランドールの瞳を見つめ返し、ほほ笑んだ。桜桃のような唇をほころばせて。
「うれしいの」
 ランドールは思った。
 もしも今ハンドルを握ってさえいなければ、この場で抱きしめてキスするものを! そう、婚約者なのだからもはや誰に遠慮する必要があるだろう。
 ……と、ここまで来て思い出す。
(いや、待て、ここは日本だ)
 深呼吸一つ。
 さすがに、サンフランシスコの開放的な感覚で行動しては、いろいろと問題があるだろう。ならば、日本においても許容されているであろう大切な事を済ませておこうではないか。

「ヨーコ」
「なぁに?」
「この近くに、ジュエリーを扱ってる店はないだろうか」
「……ふぇ?」
 ぱちくりとまばたきしている。ああ、普段の君ならここまで言えばすぐに答えを返しているだろうに。
 どれだけ舞い上がっているのかと思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「指輪を探したいんだ」
「それって……まさか」
 うなずくと、彼女は真ん丸に目を見開いた。
「帰国の前に、エンゲージリングを贈りたい……君に」

 運命と言うのはどこでどう、巡り合うかわからない。サンフランシスコの目抜き通りの宝石店だろうが、地方都市の駅前の、商店街の片隅にある個人経営の小さなアクセサリー工房だろうが、見つかる時は見つかるものなのだ。
「これ……素敵」
 ヨーコが選んだのは、プラチナの地金にハートシェイプのサファイアをあしらった指輪だった。流れるような白銀の流線が、優しく濃紺のハートを包み込む。一粒添えられたダイヤモンドは小さいけれど、その輝きの強さでサファイアの青をよりいっそう、際立たせる。
「サファイアだよ?」
 メインはダイヤモンドでもないし、ヨーコの誕生石でもない。なぜこの石を選んだのか。イギリス王家の妃殿下たちにならったのかと思ったが答えは意外な方向から飛んできた。
「そうよ。あなたの瞳の色と同じ」
 完全に不意を打たれた。ランドールは目を丸くして、それから照れ臭そうに笑ってひと言
「Thank you」と答えた。

      ※

 その夜。
 ヨーコは自室で一人携帯を開いた。左手の薬指にきらめくサファイアを見つめ、きっと口を引き結ぶと震える指先で電話をかけた。宛先は三上蓮。昨日、メールで宣言した『答え』を、声に出して伝えなければと決心したのだ。
 震える心臓の発する衝撃はあまりに大きく、座ってるだけでも体がぐらぐら左右に揺さぶられる。耳に伝わる呼び出し音が、雷のように轟く。一回のサイクルがとてつもなく長く感じられた。
 どうしうよう。
 今、切ればまだ間に合う?
 いえ、だめ。履歴が残ってしまう。
 もう、戻れない。
(ああああ、早く出てぇっ!)
 硬直したまま、だらだらと脂汗をにじませていると……。
『はい、三上です』
(出たーっっっ!)
 誰からかかってきた電話か、既にわかっているはずだ。さあ、答えを伝えよう。息を深く吸い込んだ瞬間、落ち着き払った三上の声が火照った耳に飛び込んできた。
『ああ、そういえばMr.ランドールと婚約されたそうですね。おめでとうございます』
「めーーーーーーーーーーーっ!」
 ほとばしる悲鳴をもはや隠す事もできない。突っ伏すだけでは留まらず、文字通り畳の上を転げ回った。

 その気配を聞き取りながら、三上蓮は糸のような目をさらに細めてほほ笑みグラスを掲げた。カウンターの向こうで裕二が肩をすくめる。
「おやおや、お人が悪い」
「ご謙遜を。あなたほどでは」
 しれっと答えながら三上は携帯をスピーカーフォンに切り替えた。
『ななななな、何で知ってるのーっっ』
「神楽さんから聞きました」
 答えるのは沈黙。いや、正確には言葉が出ないのだろう。口をぱくぱく開け閉めしているのか、それともぽかーんと開けっぱなしにしたまま硬直しているのやら。想像しながら、三上は不自然なほど爽やかに、決定的なひと言を口にした。
「いやぁ、さんざん背中を押した甲斐があったと言うものです」
『そ、それって、まさかっ』

 さすがに気付いただろう。だがあえて種を明かす。懺悔と言うよりはむしろとどめを刺す意味で。
「だって、こうでもしなければあなた、いつまでたっても踏み出せなかったでしょう?」
『せ、せ、聖職者のくせにーっっ! 神父のくせにーっ』
「似非ですから」
『めぇえええっっ!』
 ああ、何だかちっちゃな拳でぽかぽか叩かれてる気がする。実際、顔を合わせてたらそうしているだろう。
「いずれ改めてお祝いを申し上げにうかがいますが、今宵は電話にて。改めてご婚約おめでとうございます」
『…………………………………………』

 長い長い沈黙の間に、三上は二杯目をオーダーした。
「いやいや本当、良い性格してるねぇ……」
 裕二はともすれば爆笑したいのをこらえながら、咽奥でくつくつと笑うに留め、グラスに琥珀色の液体を注ぎ、氷を浮かべる。店名のロゴの刻印されたコースターを敷いてカウンターに置いたその拍子、震動で氷が揺れて澄んだ音を奏でる。
「んじゃあ、妹分の婚約破棄の違約金がわりだ。今日は俺の奢りさね」
「ありがたくいただきましょう」
 グラスの中味が半分ほど減った所で、ようやっと消え入るような声が答える。
『ありがとうございます』
「どういたしまして」

     ※

 その後の出来事をかいつまんで説明すると……。
 カルヴィン・ランドール・Jrと結城羊子は宮司立ち会いのもと、互いに記念品を交換して滞りなく婚約の儀を済ませた。忙しい合間を縫って短いながらもしっかりと互いの愛情を確認し、今後の計画を話し合った。
 火曜日の朝に至るまでの貴重な二人きりの時間の短さは、別れ際のキスの長さに比例した。
 そして空港に向うべく、乗り込んだレンタカーの助手席に何食わぬ顔で乗っている和服姿の男性を発見しても、ランドールはさして驚かなかった。いるんじゃないかと思ったらやっぱりいた、それだけの事だったのだ。
 車が走り出す。結城神社の鎮守の森が背後に消えてから、ランドールは問いかけた。
「あなたはこうなる事を知っていたのではありませんか?」
「何故そう思うのかね?」
「………………ニンジャマスターだから」
 ウィルは眉尻を下げ目元に細かく皴を寄せ、口角を上げた。スクリーン上で何度も見たチャーミングなほほ笑みが今、すぐ隣にいる。数日前までは夢にも思っていなかった。だが今となってはごく自然にその状況を受け入れている。
「仕事場まで乗せていってもらえるかな、カル? 人を待たせているんだ」
「Yes,sir」
 ニンジャマスターはサングラスをかけ、うなずいた。
「では、行こうか」

「おーい、カル! カルヴィーン!」
 ウィル・アーバンシュタインを送り届けて後、空港のロビーでチャーリーと再会した。こちらから探すまでもなく、向こうから手を振って駆け寄って来てくれたのだ。
「やあ、チャーリー。ご機嫌だね」
「ああ、聞いてくれ、黒髪美女とメアドを交換したよ! 五人も!」
 はじけるような笑顔を見た瞬間から何となく予想はしていた。日本は彼にとってはまさしく黒髪天国、理想の土地だったのだろう。
「……仕事は?」
「それはもう、ばっちりさ」
 良かった、社会人としての務めは忘れてはいなかったようだ。いや、ひょっとしたら先方の社員が好みの美女だったのかも知れない。
「お土産で持っていったピーナッツバターとチョコチップのクッキーが好評でね! あとアレルギー対策のお菓子も」
 懐かしい。チャーリーがレシピを考案したアレルゲンフリーのクッキーを、ハロウィンの街角で配ったのはもう10年も前だ。
「グルテンフリーの材料として、米粉は正に救世主だよ。これでまた、アレルギーを気にせずに食べられる子が増えると思うと嬉しくて嬉しくて!」
 ……そして悩めるお母さん方も救われる、と。動機がはっきりしてるからこそ、チャールズ・デントンの行動にはブレが無い。
「じつに実りの多い旅だったよ。君はどうだった?」
「ああ、うん。昔ながらの手作業で絹織物を作っている工房を見学した。この手で伝統的な工法を体験したし、サンプルも沢山もらえた」
「うんうん、実に有意義だね! ……しかしせっかくの訪日に仕事一筋だったのかい。相変わらず真面目だなあ、カルは」
 
 そっと胸を押さえる。
 シャツの下には、銀のロケットペンダントが下がっている。つるりとした銀色の楕円形で、表面に一粒だけ、小さなサファイアが埋め込まれている。指輪を見つけたのと同じ店で買い求めたものだった。中には癖のない真っ直ぐな黒髪が収められている。指輪の代わりに、婚約の証として選んだのがこのロケットだったのだ。

 彼には報告したい。
 後日改めて、なんてまどろっこしい手順など踏まずに今、この場で。
 もし仮にチャールズが同じ立場だったら、やはり真っ先に自分に報告するだろう。堅苦しい礼儀や作法なんか抜きにして。だからこそ、ランドールは深く呼吸してから力まず、焦らず、精一杯さりげなく、大事なことを口にした。
 
「実は、婚約した」
「え」
 一瞬、チャーリーは目を見開いたまま動きを止めた。
「式の時は是非、君に花婿付添人(ベストマン)を頼みたい」
「そりゃもちろん喜んで!」

 そのまま二人は滞りなく搭乗手続きを終えると、紙コップのコーヒーを手にロビーに並んで座り、大人しくコーヒーをすすった。
 しばしの沈黙を経て、ぽつりとチャーリーが言った。

「……ずるいや、カル」
「………ごめん」
「おめでとう」
「ありがとう」

      ※

 風見光一はむっつりと押し黙って窓枠に寄り掛かり、空を見上げていた。
 そろそろ、ランドールさんを乗せた飛行機が飛び立つ頃だろうか。見える訳なんかないけれどつい、見てしまう。
 正直、あの人が日本にいる間は落ち着かなかった。日曜の朝のあの一件の後は特に。

「光一!」
 呼ばれて振り向くと、ほっそりした人さし指にぷにっと頬を突かれた。
「千秋……」
 クラスメイトで幼なじみの藤島千秋だった。
「何ぼーっとしてるの?」
 頬を突かれたまま、返答に詰まる。
「何か悩みがあるなら言ってご覧よ。昨日っから光一、どこか変だよ? 心こにあらずって感じ」
 いいや、別に秘密って訳じゃない。遅かれ早かれ明らかになる事だし、千秋は知ったからって考えも無しにいいふらすような子じゃない。
 意を決して、口を開く。
「よーこ先生が、結婚する」
「まぁっ」
 千秋は両手を頬に当てた。みるみる頬に、目のまわりに桜色が広がる。
「素敵……!」
 ああ、やっぱり女の子だ、リアクションが全然違う。
「式は、俺たちが卒業してからだけど……」
「ふうん。それじゃ、あたしたちが居る間は、きっちり最後まで先生やってくれるってことだよね?」
「……うん。でも」
「でも?」
「相手はアメリカの人なんだ。海を越えて外国に嫁に行っちゃうってことなんだ」
 目をそらせていた現実が、口にすると胸に迫る。将来、必ず訪れる事なのだと。
「だから拗ねてるんだ?」
「っ、拗ねてなんかっ」
 思わず声が跳ね上がる。けれど千秋はまったく動じない。小さく首をかしげたまま、人さし指を唇に当てている。
「だぁって今の光一ってば、何って言うか……お姉さんとられちゃう、どうしようって顔してるんだもん」
「うぐっ」
「あはっ、図星? って言うか、自覚なかったんだ」
「う………うん」
 うなだれていると、ぽんっと手のひらが頭に乗せられた。いつもなら、ここで乗せられるのはよーこ先生の手だった。
 だけど、今は……。
「えらいぞ、光一」
「え?」
「おめでとうって、言えたんでしょ?」
「何で、それを?」
 千秋は白い歯を見せて、にっかーっとばかりに豪快に笑ったのだった。
「見ればわかるよー。よーこ先生、すっごく幸せそうだもん。それって光一がちゃんとおめでとうって言ったからだよね?」
(ああ)
(女の子の成長って、早いんだな)
 ちょっぴり悔しくもあり、うらやましくもある。とにもかくにも、風見光一は元気を取り戻し、一緒になってほほ笑んだ。
「よし、決めた。俺は全力でよーこ先生を祝福するぞ!」
 そんな風見光一を密かに見守りながら、ロイは胸を熱くしていた。
(コウイチ! 何て立派なんだろう。僕はそんな君を、全力でお守りするよ!)

 なお、付け加えておくとニンジャマスター、ウィル・アーバンシュタインの来日インタビューは無事に行われた。
 ただし有能マネージャー氏の胃薬の服用量はちょっぴり増え、髪の毛は逆にちょっぴり減ったらしい。

(メリィちゃんと狼さん/了)

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