▼ 【ex4-3】猫のお医者さん
リズは美猫だ。
飼い猫を見るたびにエドワーズは思う。
飼い主のひいき目を差し引いても十分に美しい。
ほっそりした愛らしい手足と長い尻尾はカフェオレのように優しく霞む薄いかっ色。しなやかな体はミルクの白。
小さな顔にすっきりと収まる透き通ったブルーの瞳。ピンク色の口元。
しかしその美しい姿形は全て、狩りのために必要不可欠な得物でもある。
古書店の業務はネズミとの戦いだ。彼の店のように本の装丁や修復を請け負っている昔ながらの店は尚更に。装丁に使われる糊も、布も、革も、あのどん欲なげっ歯類どもの大好物なのだから。
リズは単にその美しい容姿と愛らしい仕草でお客を和ませるだけの猫ではない。先祖代々、店の本をネズミから守ってきた優秀なハンターであり、由緒正しい『書店猫』なのだ。
そして、父親亡き今となっては唯一の家族でもある。
だから彼女の健康には細心の注意を払う。掛かり付けの動物病院も大学付属の病院を選んだ。施設も整っているし、何より主治医のマリー先生をはじめとしてスタッフのほとんどが女性なのが助かる。
猫は総じて男性より女性の方を好む傾向がある。ただでさえ緊張する病院で、できる限りリズにストレスをかけたくはない。
しかし大学病院と言うところは実習の学生をも受け入れる場所なのだった。
「来週から新しいインターンが入るんですよ」
マリー先生から初めて聞かされた時、正直言って不安だった。がさつな男子学生だったらどうしよう? と。
若干の不安を抱えつつリズのワクチン接種に行くと……マリー先生の隣にもう一人、眼鏡をかけた東洋系の先生が待っていた。
水色の白衣がよく似合っている。ネームプレートの表記は『サリー』。さらりとした黒髪を短めにカットして、瞳の色は濃いかっ色。
ほっそりと華奢な骨格で、卵形のつやつやした顔には何とも優しげな表情が浮かんでいる。
「サリー、お願いできる?」
「はい、マリー先生」
声のトーンは女性にしてはいささか低めだったが声質はなめらかで耳に心地よい。これならリズも安心してくれるだろう、とほっとする。
「エドワーズさん、どうぞこちらへ」
「はい……じゃあ、リズ、行こうか………………………………お願いします」
バスケットから抜け出すと、リズは優雅な仕草で診察台の上にうずくまった。
「今日はどうされましたか?」
「……三種混合ワクチンを」
「はい、じゃあ少し待ってくださいね」
カルテを見ながらマリー先生に確認をとり、注射の準備をしている。よかった、優しそうな女医さんで本当に良かった。
「はい、お待たせしました……」
華奢な指先が白い毛皮をかきわけ、さっと消毒する。
そろそろ補定をしないと……。
手を伸ばそうとするより早く、さっと注射器がリズの首筋に触れ、そして離れていた。
「ん?」
リズがちょこんと首をかしげる。
「え? もう……終わったんですか?」
「ええ。おとなしい子ですねー」
「確かに……そうですが……初めての方にここまで穏やかに接するなんて……。ありがとうございます、先生」
「はい。お大事に」
水色白衣の眼鏡の実習生は手をのばして白いふかふかの毛皮を撫でた。
「さよならリズ」
リズは彼女の手のひらにくいくいと顔をすりつけ、のどを鳴らしている。
良かった。
気に入ったようだ。少し若いけれど、この先生になら安心してリズを任せることができる。自然と顔がほころんでいた。
「おいで、リズ」
ひゅん、と尻尾を振ると、リズは自主的にバスケットの中に入った。
帰ってからも上機嫌でキッチンを歩き回り、冷たい水を飲んで毛繕いをしている。病院行きによるストレスはほとんど感じなかったらしい。
「不思議な人だったね……リズ」
「みゃ」
※ ※ ※ ※
この界隈には猫を飼っている店が多い。
ネズミ穫りの業者を呼ぶより、父親やそのまた父親たちから受け継いだ代々の優秀なハンターたちに店の安全を任せる方がよほど気が利いてると考える店主が多いのだ。
何より、つややかな毛皮に覆われたこの小生意気な家族どもは時に慰めとなり、時に喜びを与えてくれる。バネ仕掛けのネズミ捕り器には到底この温かさはマネできまい。
黒い虎縞の堂々たる雄猫、バーナードも代々、花屋のネズミ捕獲主任をつとめてきた猫だった。しかしこのバーナードは並外れた旺盛な冒険心をも持ち合わせていて、しょっちゅう花屋を抜け出してはエドワーズ古書店の裏庭に潜り込んで来る。
リズもまんざらではないらしく、二匹で薔薇の葉陰で鼻をつきあわせている姿はなかなか愛らしく、絵になる光景だった。
いつまでも見ていたかったが花屋の店主が青ざめてさがし回っていると思うと放っておく訳には行かず。バスケットにお入りいただき、店に送り届けた。
そんな出来事が度重なるうち、二人の店主はある結論に達した。
バーナードの脱走は旺盛な冒険心だけによるものではなく……恋心に裏打ちされたものではないか、と。
かくして両者協議の上カップリングが成立し、リズは初めて母猫となったのである。
ふにゃふにゃと足元にまとわりつく6本の短い尻尾を見下ろしつつ、エドワーズはちらりと壁のカレンダーを確認した。
近いうちにこの子たちを最初のワクチン接種に連れて行こう。ぼちぼち里親も決まりつつあるし……。
「お前たちのこともサリー先生に紹介しなければね。きっと、気に入るよ。優しい人だ」
早いもので、最初に会ったあの日からすでに一年が過ぎた。当時はインターンだったサリー先生も今はレジデントに進み、信頼できる主治医としてリズの健康を守ってくれている。
子猫の引き取り先は順調に決まりつつある。相手は近所の店や古書店仲間だ。この一ヶ月近い日々と言うもの、ふにゃふにゃしたちっぽけな生き物に生活が振り回されっぱなしだった。
しかし幸い、リズは母親としても極めて優秀で、飼い主の負担を最小限に抑えてくれた。
子猫のいる生活は騒がしいが、楽しい。一匹残らずもらわれて行くのかと思うと、少し寂しいような気がした。
一匹ぐらい、手元に残しておいても……いい、かな。
いや、別にそこまでしなくても。
バーナードJr.は花屋に、アンジェラはパン屋に行けば毎日のように会えるのだし、ウィリアムの養子先も市内だ。いつもよりちょっと遠出をすればいい。
いつもより、ちょっと、か……。
それが一番の課題だな。
古書店の主になって3年。
エドワード・エヴェン・エドワーズが猫の通院以外に車で出歩くことは滅多になかった。
要するに、彼の行動範囲はほとんど自らの足で歩ける範囲に限られているのである。
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