▼ 【4-3-5】オティア寝込む
昼休み。仕事の合間を縫ってレオンが家に戻ってきた。
傷だらけになった双子の寝室の壁を見て、彼は事も無げに言った。
「落ち着いたら壁紙を張り直そうか。子供部屋なんだから多少傷がついたり汚れるのは想定内だよ」
「……そうか」
神妙な面持ちで見守るディフと双子を振り返り、レオンは穏やかな笑みを浮かべた。
「オティア。疲れてるようだね……今日はもう横になった方がいい。ああ、薬を飲むことも忘れずに」
薬、と言う言葉にほんの少しだけ力が込められている。
のろのろとオティアはうなずいた。
「水、取ってくる」
「その前に、何か腹に入れた方がいい。胃がやられる」
「ん」
シエンの持ってきた栄養補給用のゼリー飲料をほんの少し口にすると、オティアは大人しく薬を飲み、ベッドに横たわった。
枕に頭をつけたと思ったらもう、眠っていた。
それまで続けていた『無理』を完全に放棄してしまったようだ。意識の統制から解放された少年の顔は、起きて動いていた時と比べて急に一回り小さくなってしまったように見えた。
(あんなもの、いつ買ったんだろう?)
ぽつんとトレイの上に残されたゼリー飲料の銀色のパッケージを見ながらディフは首をかしげた。
(嘔吐の続く間、ずっと、これでしのいでたのか……)
「こうしてみると……やつれてるな」
「点滴した方がよさそうだね。アレックスに手配させよう」
「頼む」
枕元で交わされる『ぱぱ』と『まま』のやりとりを聞きながら、とろとろとオティアは浅い眠りの中を漂った。
結婚式で招待客に無遠慮に向けられたカメラのレンズ。シャッターの音が引き金となって呼び起こされた「撮影所」に囚われていた時の記憶。
うなされていた本当の理由はシエンには聞かれたくなかった。なまじ似た様な経験をしてしまった今となってはディフにも話したくなかった。
ヒウェルは論外。
レオンも適任ではない。
誰にも打ち明けることができないまま、全てを無表情の仮面の下に押し隠して何事もない振りをする。自分は平気なのだと自分自身をも欺いて……。
その間も身体は確実に衰弱していた。
壁の傷がディフにばれたと知った瞬間、張りつめていた精神の糸が音をたててぷっつりと切れ、彼はやっと休むことができたのだった。
付きそうシエンはしょんぼりとうなだれている。
「お前が悪いんじゃない」
ディフに言われても、首を横に振るばかり。
誰が悪いのだろう?
強いて言うなら、全員悪い。慎重になりすぎて歯車が噛み合わず、言いたいことも言えぬまま、手探りで見当違いの方向に迷い歩いてすれ違う。
(おいで)
(助けて)
ただ一言、まっすぐ伝えることさえできたなら、こんな結果にはならなかったのだろうか……。
それぞれが舌の奥に苦い後悔を噛みしめている間も時間は流れてゆく。
やがて、夏の終わりの陽射しが西に傾き、東の空をラベンダー色の霞みが染める頃。ディフは立ち上がり、シエンに告げた。
「飯の仕度の手伝いはいいから、オティアに付き添ってろ」
「うん……」
本宅に戻ると珍しくヒウェルが来ていた。
リビングを、と言うよりドアの前をうろうろとしていたらしい。入ってきたディフを見て露骨にがっかりした顔をした。
「何だ、お前か」
「ああ、俺だ。珍しいな、まだ飯できてないぞ?」
「へっ、おあいにくさま。俺はそこまで食い意地張ってませんよーっと」
口をぐんにゃり曲げてそっぽを向いて、吐き出すように言い捨てる。その割には妙にそわそわしている。
「……オティアか」
「まあ、な」
(やっぱりな。こいつが悪ぶった口を聞くときは、大抵、何か気に病んでる時なんだ)
後ろでレオンが苦笑してる。どうやら部屋に入ろうとしたのを止められて自粛していたらしい。
「今は眠ってるよ。シエンが付き添ってる」
「そっか……」
「丁度いい。お前、手伝え」
「俺が?」
「ああ。ぼーっと待ってるより気が紛れるだろ」
「へいへい……それじゃ僭越ながら双子の代理に」
※ ※ ※ ※
その夜のローゼンベルク家の台所はいつになく賑やかだった。
「あーっ、こらピーマン使うな!」
「うるさい、つべこべ抜かすな、黙ってイモの皮を剥け」
「信じらんねえ、こいつ、ポトフにセロリ入れてやがる!」
「いつも黙って食ってるじゃないか。肉の臭みをとるのにいいんだよ。ほんのひとかけらだ、大した量じゃないだろ?」
「いいや、見てしまった以上は断固として抗議する」
「…………………ヒウェル?」
ディフの顔に浮かぶ満面の笑みを見て、ヒウェルはあっさりと平伏した。
「ごめんなさい、俺が悪うございました」
「わかればよろしい」
※ ※ ※ ※
「よし、飯、できたからシエン呼んできてくれるか?」
ままに言われて二つ返事で引き受けた。リビングを通り抜ける時、ちらりとレオンがこっちに視線を向けてきた。
「………ディフに頼まれたんですよ」
言い訳めいた台詞を口にして、ドアを開ける。
ディフが住んでいた頃は何度も足を踏み入れた部屋だが、双子が住むようになってからは入るのは初めてだ。書庫の前を抜けて寝室へと向かう。
何だか妙な気分だ。逆走しているみたいで。
(ああ、いつもは逆の入り口から出入りしていたからだ)
遠慮がちに寝室のドアをノックする。
「どうぞ」
細く開けて、中をのぞきこんだ。
「シエン。飯、できたぞ」
「ん」
シエンは立ち上がるとすたすたと歩いてきた。どことなくがらんとした印象の部屋は窓のカーテンが開けられ、外の光がぼんやりと差し込んでいる。灯りはついていなかった。
シエンはオティアの方を振り返り、それからこっちに視線を向けてきた。
「ちょっと見てて」
「任せろ」
シエンと入れ違いに寝室に足を踏み入れると、オティアの枕元に置かれた椅子に腰を降ろした。
ばくばく躍り上がる心臓を気取られまいと精一杯さりげなく、平常心を装って。
変わった電気スタンドだな、と思ったら反対側のベッドサイドに置かれていたのは点滴台だった。吊るされたパックから伸びた細い管が右腕の血管に刺さっている。
ああ、そうか。オティアは左利きだから右腕なんだな……。
ぼんやりそんなことを考えていると、オティアが顔をしかめてか細い声でうめいた。
「う……んぅ……」
「オティア?」
眉間に皺が寄り、わずかに身をよじっている。うなされているのか。
ぴくぴくと、左手の指先が震えている……何かにすがるように。思わず握っていた。初めて出会ったあの日のように。
ゆるく握り返してきた。
きゅうっとえも言われぬ切なさに胸をしめつけられ、息をするのも忘れた。
何故だろう。
二月に熱を出した時、寝間着を脱がせて身体まで拭いたってのに。初めて会った時なんざ服を脱がせて身体を調べたのに。
今、こうして手を触れあわせているだけで、どうしようもなく胸が高鳴る。重ねた手のひらと、絡みあわせた指の間にこもる熱で蕩けそうになる。
力を入れた。
もっと、深くオティアに触れたくて……ほんの少しだけ。
ぴくっとまぶたが震えた。堅くとざされていた目がうっすらと開き、とろりとした紫の瞳が見上げてくる。
参ったな。なんて……返事すりゃいいんだ。
「……よぉ」
どうにか笑顔に近い表情を浮かべ、ありきたりな挨拶の言葉を口にする。ほんの少しの間、オティアは俺の顔を見ていた。
(何でこいつがここにいるんだろう?)
さて、次に何て話しかければいいのやら。
元気か? いや、それは寝込んでる相手に言うにはあんまりに間抜けだ。
大丈夫か? …………今イチ。
迷っている間にオティアはまた目を閉じてしまった。
(多分夢だ。薬のせいで頭が回らない……もう、考えるのもめんどうくさい)
握った手は離さず、そのままに。
(ああ……でも……知られてしまったけれど、この家を出なくて済んだ。こいつからも離れずに済んだ)
この一瞬が、永遠に続けばいい。
本気で願っていた。
(……よかった。シエンのためにも)
※ ※ ※ ※
手早く食事を終えると、シエンは自分たちの部屋に戻った。
寝室のドアは開いたままだった。
中をのぞきこんで、はっと息を飲む。呼びかけようとした声は喉の半ばで滞り、全身の動きが止まった。
ヒウェルがオティアの手を握っていた。
信じられなかった。
オティアが、自分以外の人間にあんな風に手を握らせるなんて!
それに、ヒウェルのあの表情(かお)……。
うっすらと頬を染めて、目を細めて……ほほ笑んでいる。いつもの皮肉めいた薄笑いとはまるで違ってる。何て幸せそうな笑顔。
それが、自分には決して向けられないことは分っていた。分っているつもりだった。
オティアとヒウェルが仲直りできるようにこの数ヶ月の間、ずっと心を砕いてきた。
喜ぶべきなんだろう。
そのはずなのだけれど………。
何だろう。胸の奥が、ずきりと痛い。
声をかけることができなくて、シエンは黙って手を握り合う二人を見つめていた。自らの胸を蝕む鈍い痛みの意味も知らぬまま。
(ヒウェル………………………)
細い管の中、透明な液がひと雫、ぽとりと落ちた。
(hardluck-drinker/了)
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