▼ 【4-3-3】ぱぱの説得
その日、マクラウド探偵事務所は5時かっきりに営業を終了した。
「よし、今日はこれで上がりだ」
所長自らがそう言って帰り支度を始める。降りてきたシエンと連れ立って三人でディフの運転する車に乗り込み、スーパーでいつものように食料品を買い込み、途中でクリーニング屋に立ち寄って洗濯物を引き取ってマンションに戻る。
いつもと同じ水曜日の日課だった。
ただ、一つだけいつもと違っていたのは、帰宅した3人をドアを開けてレオンが出迎えたことだった。
「やあ、お帰り。待っていたよ」
※月梨さん画「ぱぱのお出迎え」
満面に穏やかな笑みを浮かべて。今まで数多の陪審員を魅了し、何度も勝訴を勝ち取ってきた笑顔をひと目みた瞬間、双子は内心すくみ上がった。
「オティア、話があるんだ。ちょっと書斎まで来てくれないか?」
オティアは観念した。彼には逆らえない。逆らってはいけない。勝ち目のない相手だ。
うなずき、先導されるまま書斎に向かうしかなかった。
シエンはとまどい、おろおろしながら二人を見送り、ディフを見上げた。
「……大丈夫だから」
「うん………」
噛みしめていないと、歯がかちかちと鳴りそうだ。あんな恐いレオンを見たのは初めてだった。
「買ってきたもの、冷蔵庫に入れてくるよ」
「あ、俺も手伝う」
「ありがとう」
ディフはいつも通りだ。ちょっと元気がないけど、いつもと同じ、優しい笑顔、あたたかな声だ。
…………良かった。
(オティア、大丈夫かな……)
※ ※ ※ ※
書斎に入るとレオンは窓を背にしたデスクに座り、にっこりとまたほほ笑んだ。ふさふさと豊かなまつ毛に縁取られた明るいかっ色の瞳の奥に、断固たる意志をにじませて。
「最初に言っておくけれど、俺は君とシエンをここ以外で育てさせるつもりはない。この先何があっても十八歳までは面倒を見る。州検事との取り決めもあるし……」
レオンは一旦言葉を区切り、表情を改めた。相変わらず声音は穏やかだが、絹のスカーフで包んだ刃物のような鋭さを含んでいる。
「彼を悲しませたくはないんだ。わかるね?」
この場合の『彼』が誰のことか、なんていちいち確認するまでもない。
オティアはうなずいた。
うなずくしかなかった。
そう、確かにレオンハルト・ローゼンベルクにとって自分たちは保護するべき対象だ。ディフの好意が自分とシエンに向けられている限りは。
「今の状況を説明するか、カウンセラーと一週間ばかり合宿するか選びなさい」
「わかった。でもディフには言うな」
「約束はできるけどすぐにディフにもわかることだよ」
「それはそれで構わない。でも俺からは言わない」
※ ※ ※ ※
レオンとオティアが書斎にこもってからそろそろ1時間が経過しようとしていた。
その間、ディフとシエンはリビングのソファに座ったきり。距離を置いて座り、書斎に通じるドアを見たまま、喋らずにじっと待つ。
視線さえ合わせないまま。
不意にぱっとシエンが立ち上がる。やや遅れてディフは微かな足音を聞いた。
ガチャリ。
ドアが開いて、レオンと、非常に不本意そうな顔のオティアが戻ってきた。どうやら終わったらしい。
シエンがオティアに駆け寄り、そっと手を握った。
ディフは真っすぐにレオンに歩み寄り、物問いたげな視線を向けた。やわらかなほほ笑みが返され、ほっと息をつく。
「医者に行くことには同意してくれたから、ちょっと行ってくるよ」
「これから?」
「知り合いに夜遅くまでやってるクリニックがあるからね。予約を入れておいた」
「……そうか」
拳を握って口元に当て、ほんの少しの間考える。
「……聞けたのか。理由」
「聞いてはいないね」
「でも、医者には行くんだな?」
「ああ。主に俺の推測を語ってみた。というところかな」
「……………当たってたのか?」
「多分ね」
「…………そうか……………………だったら………いい」
双子は手を握り合ってじっとこっちを見ている。
「やっぱり俺も一緒に……いや…………お前がついてった方が……いいんだろうな」
「途中で逃げられても困るからね。それに今は……俺ぐらい突き放してるほうがいいんだろう」
ディフは唇を噛んでうつむいた。
「そうだな………待ってる」
悔しいが、レオンの言う通りだ。自分は感情移入しすぎて相手の心までかき回してしまう。警官時代もたびたびそれが原因でトラブルに巻き込まれた。
「お前に任せるよ、レオン。それが一番いいんだ、きっと」
※ ※ ※ ※
オティアが連れて行かれたのは、いかにも病院と言った場所ではなく。薬のにおいも白いリノリュームの廊下とも無縁の、ゆったりした建物だった。
インテリア雑誌さながらに低いソファと観葉植物の配置された待合室を素通りして診察室に案内される。
どうやら、あらかじめ訪れる旨伝えてあったらしい。
「お待ちしていましたよ、ローゼンベルクさん」
「やあ、先生。彼が電話でお話した子です」
出迎えた初老の医師ににこやかに挨拶すると、レオンはさっと脇にどいて道を開けた。
必然的にオティアは医師と正面から対面する形になる。ノーネクタイ、ノージャケット、青いシャツ。ドクターと言う割にはラフな服装だ。
「では、よろしくお願いします」
部屋を出る間際、レオンはこっちを見てうなずいた。後は彼に話すように…………………無言のうちに告げていた。
二人きりになると、医師はまず身振りでオティアに座るように勧めた。
ソファは待合室にあったものと同じ様に丈が低く、さらさらした布張りで、大きめのクッションが二つ置かれている。そのどちらにも頼らず浅く腰かけると、医師は斜め向かいのソファに深々と腰を降ろし、ほんの少し、前屈みの姿勢をとった。
オティアの座っている椅子と対になっているらしく、やはり丈の低い布張り。寝椅子に患者、肘掛け椅子に医師、と言うお決まりのスタイルは踏襲していないようだ。
「さて。それでは……最近の状況を話してもらえるかな?」
オティアは内心、舌打ちした。
やられた。
どうやら、予約どころか既にレオンから何もかも説明され、準備万端整えて待ち構えていたらしい。
どこまでも用意周到で抜け目のない奴だ……。
こうなったら観念して話すしかない。医師には守秘義務がある。少なくともここで自分の話したことはレオンにも、ディフにも漏れる気づかいはない。
………シエンにも。
※ ※ ※ ※
その頃。
ディフは上の空で夕食の仕度をしていた。
ありがたいもので、こんな時でも体が動きを覚えていてくれる。慣れた手つきでかしゃんと片手で卵を割り、殻を捨てた。
「あ」
シエンが声をあげる。
「ん? どうした」
「逆だよ……」
「逆って……」
殻をボウルに入れて、中味をゴミ入れに捨てていた。
「あ……あ……………あーあ、もったいない。せっかくのグレードA(生食可)の卵が……」
ちょうどその時、洗濯機のアラームが終了を告げた。台所をシエンに任せて見に行く。
きっちり乾燥まで終わってることは終わっていたのだが……どうも、洗剤のにおいが濃すぎる。手触りもなんとなくぬるりとしている。
まさか、と思って洗剤投入口を開けてみた。
かすかに残る残留物を指ですくいとり、においをかいでみる。
……やっちまった。
柔軟剤と洗剤を逆にセットしていた。
やり直し決定。
今度こそ正しくセットしてスタートボタンを押す。
しっかりしろ。家事のミスなんてのは可愛い新婚の奥さんがやってるから許されるんだ。俺がやらかしたら、シャレにならんぞ。
額に手を当て、うつむいていると玄関の扉の開く気配がした。
帰ってきた!
ダッシュで洗濯室を飛び出し、玄関に向かった。
「………お帰り」
「ただ今」
次へ→【4-3-4】壁の傷、沈黙の理由
「よし、今日はこれで上がりだ」
所長自らがそう言って帰り支度を始める。降りてきたシエンと連れ立って三人でディフの運転する車に乗り込み、スーパーでいつものように食料品を買い込み、途中でクリーニング屋に立ち寄って洗濯物を引き取ってマンションに戻る。
いつもと同じ水曜日の日課だった。
ただ、一つだけいつもと違っていたのは、帰宅した3人をドアを開けてレオンが出迎えたことだった。
「やあ、お帰り。待っていたよ」
※月梨さん画「ぱぱのお出迎え」
満面に穏やかな笑みを浮かべて。今まで数多の陪審員を魅了し、何度も勝訴を勝ち取ってきた笑顔をひと目みた瞬間、双子は内心すくみ上がった。
「オティア、話があるんだ。ちょっと書斎まで来てくれないか?」
オティアは観念した。彼には逆らえない。逆らってはいけない。勝ち目のない相手だ。
うなずき、先導されるまま書斎に向かうしかなかった。
シエンはとまどい、おろおろしながら二人を見送り、ディフを見上げた。
「……大丈夫だから」
「うん………」
噛みしめていないと、歯がかちかちと鳴りそうだ。あんな恐いレオンを見たのは初めてだった。
「買ってきたもの、冷蔵庫に入れてくるよ」
「あ、俺も手伝う」
「ありがとう」
ディフはいつも通りだ。ちょっと元気がないけど、いつもと同じ、優しい笑顔、あたたかな声だ。
…………良かった。
(オティア、大丈夫かな……)
※ ※ ※ ※
書斎に入るとレオンは窓を背にしたデスクに座り、にっこりとまたほほ笑んだ。ふさふさと豊かなまつ毛に縁取られた明るいかっ色の瞳の奥に、断固たる意志をにじませて。
「最初に言っておくけれど、俺は君とシエンをここ以外で育てさせるつもりはない。この先何があっても十八歳までは面倒を見る。州検事との取り決めもあるし……」
レオンは一旦言葉を区切り、表情を改めた。相変わらず声音は穏やかだが、絹のスカーフで包んだ刃物のような鋭さを含んでいる。
「彼を悲しませたくはないんだ。わかるね?」
この場合の『彼』が誰のことか、なんていちいち確認するまでもない。
オティアはうなずいた。
うなずくしかなかった。
そう、確かにレオンハルト・ローゼンベルクにとって自分たちは保護するべき対象だ。ディフの好意が自分とシエンに向けられている限りは。
「今の状況を説明するか、カウンセラーと一週間ばかり合宿するか選びなさい」
「わかった。でもディフには言うな」
「約束はできるけどすぐにディフにもわかることだよ」
「それはそれで構わない。でも俺からは言わない」
※ ※ ※ ※
レオンとオティアが書斎にこもってからそろそろ1時間が経過しようとしていた。
その間、ディフとシエンはリビングのソファに座ったきり。距離を置いて座り、書斎に通じるドアを見たまま、喋らずにじっと待つ。
視線さえ合わせないまま。
不意にぱっとシエンが立ち上がる。やや遅れてディフは微かな足音を聞いた。
ガチャリ。
ドアが開いて、レオンと、非常に不本意そうな顔のオティアが戻ってきた。どうやら終わったらしい。
シエンがオティアに駆け寄り、そっと手を握った。
ディフは真っすぐにレオンに歩み寄り、物問いたげな視線を向けた。やわらかなほほ笑みが返され、ほっと息をつく。
「医者に行くことには同意してくれたから、ちょっと行ってくるよ」
「これから?」
「知り合いに夜遅くまでやってるクリニックがあるからね。予約を入れておいた」
「……そうか」
拳を握って口元に当て、ほんの少しの間考える。
「……聞けたのか。理由」
「聞いてはいないね」
「でも、医者には行くんだな?」
「ああ。主に俺の推測を語ってみた。というところかな」
「……………当たってたのか?」
「多分ね」
「…………そうか……………………だったら………いい」
双子は手を握り合ってじっとこっちを見ている。
「やっぱり俺も一緒に……いや…………お前がついてった方が……いいんだろうな」
「途中で逃げられても困るからね。それに今は……俺ぐらい突き放してるほうがいいんだろう」
ディフは唇を噛んでうつむいた。
「そうだな………待ってる」
悔しいが、レオンの言う通りだ。自分は感情移入しすぎて相手の心までかき回してしまう。警官時代もたびたびそれが原因でトラブルに巻き込まれた。
「お前に任せるよ、レオン。それが一番いいんだ、きっと」
※ ※ ※ ※
オティアが連れて行かれたのは、いかにも病院と言った場所ではなく。薬のにおいも白いリノリュームの廊下とも無縁の、ゆったりした建物だった。
インテリア雑誌さながらに低いソファと観葉植物の配置された待合室を素通りして診察室に案内される。
どうやら、あらかじめ訪れる旨伝えてあったらしい。
「お待ちしていましたよ、ローゼンベルクさん」
「やあ、先生。彼が電話でお話した子です」
出迎えた初老の医師ににこやかに挨拶すると、レオンはさっと脇にどいて道を開けた。
必然的にオティアは医師と正面から対面する形になる。ノーネクタイ、ノージャケット、青いシャツ。ドクターと言う割にはラフな服装だ。
「では、よろしくお願いします」
部屋を出る間際、レオンはこっちを見てうなずいた。後は彼に話すように…………………無言のうちに告げていた。
二人きりになると、医師はまず身振りでオティアに座るように勧めた。
ソファは待合室にあったものと同じ様に丈が低く、さらさらした布張りで、大きめのクッションが二つ置かれている。そのどちらにも頼らず浅く腰かけると、医師は斜め向かいのソファに深々と腰を降ろし、ほんの少し、前屈みの姿勢をとった。
オティアの座っている椅子と対になっているらしく、やはり丈の低い布張り。寝椅子に患者、肘掛け椅子に医師、と言うお決まりのスタイルは踏襲していないようだ。
「さて。それでは……最近の状況を話してもらえるかな?」
オティアは内心、舌打ちした。
やられた。
どうやら、予約どころか既にレオンから何もかも説明され、準備万端整えて待ち構えていたらしい。
どこまでも用意周到で抜け目のない奴だ……。
こうなったら観念して話すしかない。医師には守秘義務がある。少なくともここで自分の話したことはレオンにも、ディフにも漏れる気づかいはない。
………シエンにも。
※ ※ ※ ※
その頃。
ディフは上の空で夕食の仕度をしていた。
ありがたいもので、こんな時でも体が動きを覚えていてくれる。慣れた手つきでかしゃんと片手で卵を割り、殻を捨てた。
「あ」
シエンが声をあげる。
「ん? どうした」
「逆だよ……」
「逆って……」
殻をボウルに入れて、中味をゴミ入れに捨てていた。
「あ……あ……………あーあ、もったいない。せっかくのグレードA(生食可)の卵が……」
ちょうどその時、洗濯機のアラームが終了を告げた。台所をシエンに任せて見に行く。
きっちり乾燥まで終わってることは終わっていたのだが……どうも、洗剤のにおいが濃すぎる。手触りもなんとなくぬるりとしている。
まさか、と思って洗剤投入口を開けてみた。
かすかに残る残留物を指ですくいとり、においをかいでみる。
……やっちまった。
柔軟剤と洗剤を逆にセットしていた。
やり直し決定。
今度こそ正しくセットしてスタートボタンを押す。
しっかりしろ。家事のミスなんてのは可愛い新婚の奥さんがやってるから許されるんだ。俺がやらかしたら、シャレにならんぞ。
額に手を当て、うつむいていると玄関の扉の開く気配がした。
帰ってきた!
ダッシュで洗濯室を飛び出し、玄関に向かった。
「………お帰り」
「ただ今」
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