▼ 【4-21-1】三月のバイキング
「ああ……いい天気だな」
見上げた青空を背景に、羽音を響かせ、ぷーんと虫が横切ってゆく。あれがミツバチなら良かったのに……せめてアブ。だけどあいにくそうじゃない。あれはハエ。まちがいなくハエ。どこから見てもハエ。
枝の先でレモンがそのままシャーベットになりそうな寒気もようやくやわらぎ、久しぶりにコートも手袋も無しで出かけたくなるような土曜日の午後。ぽかぽかとあたたかい陽射しを浴びて、エリックはたたずんでいた……
ごみ捨て場のまっただ中に。
逃げ場に詰まった犯人が、殺人の凶器をとんでもない場所に放り込んでくれたのだ。食べ残しのピザとかポテト、カニの殻、コーヒーの紙コップ、その他ありとあらゆる週末のお楽しみの残骸をぶち込んだゴミ用コンテナの中に。
小型のナイフやアイスピックの類いでないのは幸いだった。ショットガンなら探すのは(比較的)楽なはずだ。何てったってサイズが21インチ(約53センチメートル)もあるんだから……銃身がカットオフされてないと想定しての話。
この見渡す限りの悪臭を放つ汚物の山も、元は万全の衛生管理の下に作られて、歓声と笑顔と共に迎え入れられた物なんだな、と思うと空しいような、寂しいような、何ともやるせない気持ちになってくる。
今、足下のブーツの下でねちょっとつぶれたのは何だろう。ガムかな。溶けたキャンディ、それともキャラメル入りのカップケーキかな?
マスクを通して流れ込んでくる悪臭は、幸い最初ほどは強烈には感じなくなってきた。それでも上には上があるもので、たまに掘り返した所からぶわっと押し寄せる腐臭に何度か咽の奥に酸っぱい物が込み上げた。
気温と生ものの発酵する熱で、ゴミ用コンテナの中にはサウナ並の熱気が充満している。機密性抜群の汚染防護服の中は、レンジで加熱中の冷凍食品といい勝負。密封されたパッケージの中で蒸し煮にされて、汗がどぼどぼ湧いて出る。首筋、手首、足首を伝い落ち、乾いて白い粒になる。
汚れ防止用のゴーグルはもちろん、その下につけた眼鏡もさっきから曇っているが、ここで外して拭いたらどんなに悲惨な結果が待っているか……。うつむいて、足下のゴミに手をつっこむ。曇ったレンズに汗の玉がこぼれ落ちる。
曇りが洗い落とされ、歪んではいるがとりあえず見えるようになった。よし、問題無し。
ぐしゃ、ぐしゃりとピザの空き箱や、テイクアウトの中華のパッケージをかき分けていると、ころりと白い紙コップが転がり出してきた。表面に印刷された緑色の丸の中に、黒地に白抜きで人魚がプリントされている。
「あ……」
とくん、と心臓が揺れた。スターバックスの紙コップだ。
ちょっぴりくすんだサンドブロンドの髪に紫の瞳。ほほ笑んでいても、いつも困ったような表情が抜けなかった。眉の辺りに、口元に辺りに、ほのかにまとわりついて消えなくて……。何を聞いても、話しても、どこか薄い殻が挟まっているようで。それがもどかしくもあり、くすぐったくもあった。皮肉なことに、彼の『ほんとうの顔』に触れたのは二月のあの時が初めてだった。
雨の中、飛び出す直前のやりとりが脳裏に蘇る。
『………これ、返す』
『もう、会わない』
『ごめんなさい……』
『本当に………ただ偶然ここで会って………友達になれたらよかったね』
また会いたいと伝えた。返事はもらえなかったけど、名前を呼んでくれた。会えずに居る間にただでさえ長くはない二月は駆け足で過ぎ去り、とうとう月が変わってしまった。
「はぁ……」
深いため息がこぼれる。
すぐそばで作業をしていたキャンベルは、バイキングの末裔が世にも不景気な顔でどんよりとうなだれるのを目撃した。
気持ちはわかる。誰だってこんなよく晴れた週末に、ゴミ箱漁りなんかしたくはない。だが、それが仕事なのだ。
「ほぉら、しっかりしろ、エリック!」
とん、と軽く背中をどやしつける。そう、あくまで軽く。だが、物思いにふけっていたエリックは完全に不意をつかれた。
ひょろ長い背中が、ぐらぁりと傾く。バランスを崩してそのまま、べしゃあっとうつぶせにゴミの山に突っ伏した。
「……あ」
「……………ごめん」
ようやく正気に戻って焦点を結んだ視線の先に、にょっきりとハンドルのような物が突きだしていた。
「……あった」
「何」
ゴミ山から突きだしたハンドルに手をかけ、ずぼっと引っこ抜く。さながら王の剣のように。
「あったぁ!」
「でかした、エリック!」
二時間に及ぶ苦難と悪臭に満ちた捜索は実を結び、ゴミまみれのエリックは同僚達からとても感謝された。
しかし、それと染みついた臭気とは当然のことながらまた別の問題だったりする訳で。帰りの道中はまだ良かった。同じ車内に乗ってる人間は、全員、コンテナの中をはいずり回ったゴミ仲間だから。いい加減、鼻がマヒしていたし自分も相手も同じくらい臭うと分かっているから文句も言わない。
だが署に戻ればすれ違う人は皆露骨に顔をしかめて逃げ出し、至るところで消臭スプレーをまき散らされた。
廊下を歩けば行き交う人々が左右にさーっと分かれて道を開ける。モーセに導かれる気分を味わいつつ、無言のうちに捜査班一同はシャワー室に直行し、速やかに強力な殺菌石けんと熱いお湯の洗礼を受けた。
「ふぅ……」
歯を磨き、顔も手足もまんべんなく洗い、服も着替えて、ようやく清々しい気分を取り戻す。乾いた衣服と清浄な空気のありがたみをかみしめつつ、エリックは休憩室に向かった。
何度もうがいをしたはずなんだけど、まだ咽や鼻の奥にゴミの臭いが居座ってる気がする。
タバコをたしなむ署員は猛烈な勢いでタバコを吹かしていたけれど、あいにくと自分にはその手は使えない。
早いとこコーヒーを流し込んで、洗い流そう。
途中、ふさふさの黒い生き物が廊下に座っていた。ロングコートのシェパード、警察犬のヒューイだ。よくしたものでハンドラーが自動販売機で買い物をしている間、きちんと座って待っている。
「やあ、ヒューイ」
長い顔を上げて、ぱたぱたとしっぽを振った。撫でようと手を伸ばすと、湿った鼻を近づけてくん、くん、とにおいをかがれる。
「あ……ごめん、まだにおう?」
くんくん、くんくんくん、くんくんくん。
手の甲に鼻がぺたぺた当たるほど、ものすごく真剣に嗅がれている。
「えっと……ヒューイ?」
「…………」
耳を伏せ、じと目でにらまれた。と思ったら、ぷいっと後ろを向いてしまった。生ゴミと殺菌石けんのコラボがお気に召さなかったらしい。
「振られちゃった……か」
ため息をついて休憩室に入る。コーヒーを入れて湯を沸かし、備蓄していたスープヌードル(カップラーメン)を一個取り出した。封を切ると、乾燥した麺の上に小指の爪先よりまだ小さな、くるっと丸まったシーフードが入っている。
ちっぽけだけど、エビが入ってるからちょっと嬉しい。
お湯を注いで待つこと三分。その間に携帯を確認してみた。
メールも無し。着信も無し。いつもと同じだ。ため息一つついてフォークを取り、できあがったヌードルをすすった。
(勤務明けたら、センパイの事務所にいってみよーかな。でも、誰も居なかったら……気まずいなー……ってゆーか今日は土曜日じゃないか)
事務所は休みだ。
あの人が一人で切り盛りしていた頃は、日曜だろうと土曜日だろうと、仕事のある時は深夜まで開いていたのだけれど。
今はもう、違う。
ずぞ、と最後の一口をすする。勢いの割に麺が短かかった。びしっと端っこが口に当たり、汁が眼鏡に跳ねる。
「あー……あ」
背中を丸めてもそもそとペーパーナプキンでレンズを拭う。
だめだ。油をたっぷり含んだスープの染みは、拭いてもかえって広がるばかり。仕方なく外してシンクで洗剤をつけて洗っていると、キャンベルが顔を出した。
「エリック」
「やあキャンベル」
「主任が回収してきた銃の分析はまだか、ってさ」
「……そう」
せっかく洗ったばかりなんだけど、もう一度アレに触らなきゃいけないのか……気が重い。
眼鏡の水気をふき取り、顔に乗せる。
OK、視界はクリアだ。問題無し。だけど気持ちは、クリアとはほど遠い。
「わかった、すぐ行くよ」
携帯をポケットに押し込み、部屋を出た。
次へ→【4-21-2】レモンで洗え
